優しさ 共生 おもいやり
宇城市立不知火小学校職員人権問題研修会
不知火小学校


 おはようございます。
 私の母の実家は、不知火町長崎です。祖父という言葉では当時のことが思い浮かびませんので、「じいさん」と言います。じいさんに手を引かれ、松橋駅からここ不知火小学校の前を通って母の実家に行っていました。子どもの足で1時間から1時間半ほどかかっていたと思います。「きつかー、まだな」と泣き言を言いながら歩きました。当時、母の実家の近くの谷川は、清流が流れていました。朝は、その谷川で顔を洗い歯を磨いていました。昼は水遊びやカニを追いかけて遊んだことを覚えています。不知火は私にとってとても懐かしいところです。
 ところで、今年の夏は、集中豪雨が日本各地に大きな被害をもたらしました。特に広島市では土砂災害で50名以上の方が尊い命をなくされました。しかもまだ行方不明の方が数十人いらっしゃいます。日本ばかりでなく、世界のあちこちで大雨、干ばつがあっています。地球が病んでいるようです。病んでいるのは地球ばかりでなく、人の心も病んでいるようです。この夏、殺人事件の報道が連日のようにありました。中でも、佐世保市では、高校生が友人を殺害するという事件がありました。しかも報道に寄りますと、「人を殺してみたかった」と言っているそうです。この事件を遠い世界のこととしてとらえるか、自分の周りでは絶対このような事件を起こさせないととらえるかで、目の前にいる子どもたちとの接し方、指導の仕方が変わってくると思います。私は、遠い世界のことではなく、身近な事件ととらえたいと思います。「人の命を奪う」、これは最たる人権侵害です。これから先生方と一緒に人権について考えていきたいと思います。
 その前に、少し自己紹介をします。私の名前は、「有紀」と書いて「ありとし」と読むのですが、「ありとし」と読む方はほとんどいません。ほとんど「ゆき」または「ゆうき」と読まれ、女性とよく間違われます。「有」という文字は、「保有する」と言う意味があります。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味があります。そこで、「紀(年)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。父の願いに沿うようにと努力はしていますが、「あちこちの骨がなるなり古稀古稀と」の川柳に言う70歳を超えた今も、なかなか年相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。私は自分の名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父に感謝しています。父を敬愛しています。今でも、幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。大好きな名前ですが、私は小さい頃、上級生などから、「おっ、アリの来よる。アリば踏みつぶそう!」と足で踏みつぶす仕草をしてからかわれたりいじめられることがありました。そんなとき、「俺はアリじゃなか。ありとし!」と言って体当たりで抗議していました。
 先生方の学級の中で、名前のことでからかわれたり、意地悪されたりして悔しい思い、悲しい思いをしている子がいるかもしれません。そんなとき、みんなの前でその子の名前に込めた親御さんの思いを語って下さい。名前に込められた親御さんの願いや思いを知ったら、からかったり意地悪したりすることの愚かさに気づくと思います。また、先生方ご自分のお子さんにも、名前に込めた思いを語ってください。小さなお子さんだったら膝の上に抱っこして目を見つめ、大きなお子さんだったら手を取り目を見つめ、お子さん誕生の時の感動を思い起こして名前に込めた思いを、話してやって下さい。きっと、お子さんは自分の名前をこれまで以上に好きになり、誇りを持つと思います。自分の名前を好きになり誇りに思うことは、自分自身を好きになり誇りを持つことにつながります。これが自尊感情を育み、自分も周りの人も好きになることができる人に育つと思います。私はこのことが人権教育の礎であり、スタートだと思っています。
 先日、姪が2人の子を連れて遊びに来ました。義弟が下の男の子にセミを捕ってやりました。セミかごに入れてとても喜んでいました。それを見ていた姉が「そのセミ 逃がしてやりい。」と言ったのです。弟は、セミを捕ってもらって嬉しがっているところに「逃がしてやれ」と言われて、どうしようか迷っていました。しばらくして、「うん。」と言ってセミを逃がしました。この何でもない光景の中に2人の姉弟の優しさを見ました。姪夫婦が家庭でどんな子育てをしているか私には分かりませんが、心優しい子どもたちだと感じました。
 私には3人の孫がいます。1番下の孫は、2歳4ヶ月です。少し言葉が出るようになりました。その孫が、お盆に嫁の実家に帰りました。祖母から作ってもらった料理を食べながら、「バーバ りょうり じょうず おいしい」と言ったそうです。この言葉からも周りの優しさが見えてきます。祖父の私が言うのもおかしな話ですが、孫は周りの優しさに包み込まれながら育っています。人はこの「愛」と「優しさ」に包み込まれて自尊感情を育んでいきます。
 ある講演会で優しさについて次のように聞いたことがあります。
 「優」という文字は、にんべんに憂いと書くが、憂いのある人に人が寄り添うという意味だ。
 「優」と言う文字は、旁は「百」と「愛」に見える。人には百、愛があることを示している。
 この話は胸にストンと落ちました。私たちは、「愛」を周りの人との交わりを通して五感で受け止めて身につけています。このことを中学生が人権作文「人の優しさ」で述べています。


平成20年度中学生人権作文コンテスト
  横浜市大会最優秀賞横浜市人権擁護委員会長賞
            『人のやさしさ』 
                           横浜市立森中学校 三年 鳥山 夢月
 みなさんは、「人のやさしさ」というのを考えた事がありますか?
 私は、今まで生きてきた中で、人のやさしさに何度も助けられた事が沢山あります。
 人のやさしさは、自分を救ってくれます。自分の周りの人を救う事が出来ます。私は、「人のやさしさ」というのはとても偉大な事だと思います。私が人のやさしさを偉大だと思うようになったのは、小学生の頃です。
 当時私は、人にやさしくする立場ではなく、人を傷付ける立場の人間でした。人を貶めて遊んだり、意地悪をしたりなど、最低な事ばかりをやっていました。そんな私に「人を傷付けるような事はしちゃいけない。人にはやさしくするものだよ。」といつも私に言ってくる先生がいました。私のクラスの担任をしていて、みんなにとても好かれる明るい先生でした。それに比べて私はそんな先生が大嫌いでした。自分のクラスで問題が起きると困るから、私に言いにきてるのだと思っていました。しかし、それは違いました。先生は私と一対一で話をしているのだと知りました。それは、私が友達の喧嘩にまきこまれた時の事です。私は喧嘩を止めていたのに、一緒にやっていたのだと勘違いされ、怒られてしまいました。でも、私はやっていないので、もちろん、否定をしましたが、残念ながら私の思いは伝わりませんでした。
 しかし、担任の先生だけは違いました。私を信じてくれ、「鳥山さんは嘘を言うような子ではありません。」と言ってくれました。結果、私は罰を受ける事になってしまいましたが、私の心は悔しい気持ちではなく、嬉しい気持ちでした。先生はこう私に言いました。
 「今日の事は鳥山さんは悪くないって思ってる。でもね、どうしてほかの先生に伝わらなかったか分かる?」と言いました。私は「わかりません。」と答えました。先生は微笑み、「それはね、鳥山さんが今まで人にやさしくしてこなかったからだよ。」と言いました。
 「人にやさしくすればする程、信じてくれる、やさしくしてくれる。でも、人に冷たくする程、人は信じない、やさしくしないってなるの。私が言ってる事分かる? 人にやさしくされたいなら、信じてもらいたいなら、自分からやさしくしなさい。信じなさい。」と言われました。私は「やさしさ」というのを深く考えました。それから私は人にやさしくする事を心がけるようになりました。
 そして、私自身がやさしさを心から偉大だと感じたのは、私がいじめを受けた時のことです。誰も私と口をきいてくれない。悪口を言われる。残酷な程、苦しく辛い思いをした時、そんな私に気付いた友達が私に声をかけてくれました。「私達といなよ、辛かったね。」と言ってくれました。私は心の底から「ありがとう。」と言い、本当のやさしさに出会いました。その友達のやさしさは、私を救ってくれました。
 その時、あの先生の言葉が私の心にふと、蘇ってきました。先生の言葉は本当だったと心に深く染みました。それからも私は、沢山のやさしさに助けられました。今まで私にやさしくしてくれた全ての人に、「ありがとう。」と伝えたいです。そして私も精一杯、感謝の気持ちを込めて人にやさしくしたいと思います。みなさんも、心から「ありがとう」と思った事がありませんか? その「ありがとう。」と言う言葉が出るのは、その人が自分にやさしくしてくれるからではないでしょうか。
 やさしさに、助けられているからではないでしょうか。そう思いませんか? 人のやさしさは身近にあるものです。今、目の前にいる人、身近にいる人全員があなたに「やさしさ」をくれるでしょう。
 一つだけ、思う事があります。人は一人では生きていけないということです。人との関わりで生きています。人からやさしさをもらい、人のやさしさがなければ生きていけないという事なのではないでしょうか。
 私はこれからも、「人のやさしさ」に感謝し生きていこう、と思いました。

 人権課題解決のために、自分が持っている優しさと思いやりを行動で表したいと私は思います。
 次の「一度きりのお子様ランチ」を読んでみてください。


                        一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが・・・」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は・・・」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから・・・」
 店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
 店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。

 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがでしょうか。目頭が熱くなられた先生もいらっしゃるようですが、私もこの文を読む度にこみ上げるものがあります。これは東京ディズニーランドの中にあるレストランでの出来事です。店員は、客の話を聞き、とっさに判断し、規則ではできないことを受け入れ、2人席から4人席へ案内し直し、その上、夫婦の間に子ども用のイスまで準備したのです。この店員の優しさによりが若い夫婦は前を向いて生きる力を得ることができました。しかも弟か妹を連れてと。
 このようにとっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性を持ちたいと思います。
 次は朝日新聞への投稿文です。


                         教室に不登校の子 涙した先生

 小学4年生の時、クラスに不登校の子どもがいた。彼はみんなから「バイ菌」扱いされていて孤独だった。私も彼を哀れに思いながらも、かばいもせずに笑っていた一人だった。担任だった先生は、たびたび彼の自宅に行ってきたことを私たちに話した。報告を聞くたびに、私たちは心のどこかで反省していた。
 不登校になって半年が過ぎた頃、彼が先生の働きかけもあってか、ひょっこり登校してきた。私たちは彼を久しぶりに見て驚いたが、バツが悪くて何となく放っておいた。先生は出席を取りながら、彼の名前を呼んだ後、しばらく黙ってしまった。
 何事だろうと先生の顔を見ると、ボロボロ涙をこぼしているではないか。大人の男性が泣く姿など初めて見た私たちは度肝を抜かれた。
 「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」
 先生は泣きながらやっとこの言葉を言って、また出席を取り始めた。みんな黙っていた。それ以来彼がいじめられることはなかった。私たちはいじめがいかにくだらない悲しいことであるのか、先生の涙を見て学んだと思う。
                                                     (朝日新聞「声」平成22年11月18日)

 人は誰もがこのような優しさを持っています。しかし、時としてこの優しさを忘れてしまうことがあります。
 先生方ご存じの芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の?陀多がそうだと思います。大罪人の?陀多はたった一度、蜘蛛を助けた事がありました。このことを御釈迦様が覚えていらっしゃって、地獄にいる?陀多を助けようとして蜘蛛の糸を垂らすと、?陀多はその蜘蛛の糸をのぼると地獄から抜け出すことができるかも知れないと必死にのぼります。ふと下を見ると、数限りもない罪人たちがのぼってきています。自分1人の重さでも切れるかも知れない糸にこんなにのぼるとすぐにでも切れると思い、罪人たちに「下りろ。下りろ。」とわめいた瞬間、?陀多のすぐ上から糸が切れて地獄へ真っ逆さまという物語です。?陀多は肝心なところで優しさを忘れてしまいました。
 優しさを忘れて共生できないことが人権課題であると思います。「共生」を私は「ともにいきる」と読みます。次の新聞記事を読んでください。


        差別根強い熊本 今も変わらず残念(熊日夕刊 平成25年3月29日 電話で話そう)

 私は四国の出身で、熊本に来て40年以上になりますが、同和問題やハンセン病問題など根強い差別体質が気になります。
 実は小学4年生の孫娘が先日、同級生から「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」と言われたというんです。熊本に来たころも差別が多いのに驚かされましたが、あまり変わっていないようです。いまだにハンセン病のことを何かと言う人もいますしね。
 私が育った県にもハンセン病療養所がありましたが、中学生のころにはもうそんな差別の話は聞きませんでした。私は菊池恵楓園に出入りして菊の育て方を習ったりもしました。
 少しずつでもいい方向にいってほしいと思います。

 熊本県では、「同和問題」、「ハンセン病問題」、「水俣病問題」を喫緊の人権課題として教育、啓発を続けていることは先生方ご存じの通りです。
 人権課題解決のためには、その課題について正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、課題解決に向けて実践行動することだと思っています。
 まず、同和問題を考えてみます。
 「あの人は同和地区出身だから…。」などと言われて結婚を妨げられたり、差別発言、差別落書きがされるなどの事案が依然として存在しています。
 ここでは、同和問題の起源について、熊本県人権同和政策課編「人権研修テキスト同和問題編(24年発行)」を参考にして考えてみたいと思います。
 部落差別の起源については、封建社会が確立されていく過程の中で、幕藩体制の強化・維持を目的として、当時の社会の中にあった偏見を利用して、政治的・人為的につくられた身分制度に由来しているといわれていることは先生方ご存じの通りです。
 部落差別がいかなる背景と経緯のなかで形成されたものであるとしても、人種や民族、宗教や職業などによって差別するのは誤った考え方です。現在の差別を合理化したり、容認したりする根拠にはなりません。
 部落差別の歴史的な背景やその経緯を正しく学び、正しく理解することで差別の誤りに気づき、解決につなげていくことが大切だと思います。
 古代以降、社会的に差別された人々はいましたが、平安時代にはなくなりました。
 中世においては、法律や制度として公的に固定されたものではありませんでした。しかし、この時代には、人の死や血などは「穢」であるという考え方が広まっていました。これは科学的・合理的に判断すると、全く根拠のない誤った考え方ですが、この考え方から死や血などに触れると、触れた人も穢れるという考え方が形づくられました。それが、やがて人や動物の死や血に触れる仕事をする人々は、その穢が感染して穢れた存在であるという誤った考え方が社会の中に広まっていきました。この考え方が、特定の仕事や役割を担った人々に対する偏見を形づくり、社会的に差別された身分を生み出すことにもつながりました。ただ、この時代における人々の身分は、世襲的ではなく流動的で、移動の自由や職業の自由が奪われていたものでもありませんでした。
 戦国時代になると、室町幕府の支配力は失われ、各地で戦乱や一揆が相次ぎ、それまでの支配構造が大きく揺らぐようになりました。
 豊臣政権は、より強固な支配体制を築くために検地や刀狩りを全国にわたって行い、武士と農民の違いをはっきりさせ、さらに1591年に身分統制令を出して公的に固定された身分制度の基礎を固めました。
 江戸時代になり、徳川幕府によって、固定された身分制度が確立・強化されていきました。全人口の7%程度にすぎない武士階級による幕藩体制を確かなものとするためには、身分制度の強化によって、多くの民衆を分裂させ支配する必要があったのです。当時の社会は、様々な身分の人々によって構成されていました。その身分は自由に変えることはできず、それぞれの身分の中でも、上下の関係がさらに細かく分けられていました。その中には、当時の社会にあった偏見や、穢れ意識などの誤った意識を利用して、武士や百姓、町人とは区別され、被差別身分とされた人々もいました。この身分の人々には、雑役的労働者、雑芸能者、戦国期に敗北して社会的脱落者となった浪人、あるいは土地を失った農民、没落した町人など、様々な階層の一部の人々が強制的に組み入れられたと考えられています。これらの人々は、幕府によって、住む場所を生活環境条件の悪い場所に限定されたり、服装やほかの身分の人々との交際を制限されたりするなど差別的な扱いをされました。しかし、厳しく差別されながらも、農業を営んで年貢を納めたり、すぐれた技術を使って人々の生活に必要な用具をつくったり、治安を担ったりして、社会を支えました。また、古くから伝わる芸能をさかんにし、後の文化にも大きな影響をあたえました。このことはあとでも少し触れます。
 民衆の生活が苦しくなり、幕藩体制に対する不満や不安が大きくなればなるほど、これらの人々に対する差別が強められていったという経緯もあります。被差別身分とされた人々が、警備や刑の執行にかかわる役割や、一揆の探索や鎮圧に利用され、民衆の反感の対象となるように仕組まれました。
 このように、現在同和地区と呼ばれる地域の多くは、近世初期の封建社会が確立されていく過程で成立したといわれており、そこで生活する人々は約300年という長い間、差別されながら生活することを強いられてきたのです。
被差別身分とされた人々の中には、能を集大成した観阿弥・世阿弥親子や庭師として銀閣寺や相国寺、興福寺などの庭を造った善阿弥親子など現在まで残る文化を形成した人たちが数多くいました。また、前野良沢や杉田玄白が西洋医学書を手本に人体解剖するのを手伝ったのも被差別身分とされた人々でした。このように、当時差別された人たちが、今日の伝統芸能や文化に果たした功績は大きいものがあるのです。
 次にハンセン病問題について、熊本県人権同和政策課が平成23年に発行しました「人権研修テキストX」で考えてみます。
 ハンセン病は、感染力の極めて弱い細菌による感染症であることはご存じの通りです。現在、日本での感染・発症は実質的にゼロといえるそうです。プロミンというすぐれた治療薬によって、障がいを残すことなく外来治療で完治するそうです。治った後でも外見上の変形が後遺症として残ることもあるために、いつまでも病気のままだと思われがちですが、完治後に感染することはないということです。
 明治40(1907)年、諸外国から文明国として患者を放置していると非難をあびた政府は、「らい予防に関する件」を制定し、昭和6(1931)年に「らい予防法」を制定して、ハンセン病患者を一般社会から隔離する政策をとりました。患者を療養所に強制隔離したり、患者の家を消毒したりすることで、「国が法律までつくって隔離するのだから、ハンセン病は感染しやすい怖い病気」という誤った考えが広まったのです。また、効果的な治療薬が使用されるようになるまでは、発病すると病気が進行することが多く、不治の病と考えられていたことや、発病が一定の家族内に多く現れることから遺伝する病気と考えられていたことなども差別されてきた理由にあげられます。
 ハンセン病について誤った施策を行い、ハンセン病について正しく啓発してこなかったため、熊本県では2つの大きな差別事件が起きました。
 一つは、昭和29(1954)年、熊本市の黒髪小学校で起きた、ハンセン病患者を親に持つ子どもの入学を拒否する事件です。ハンセン病患者を親に持つ子と我が子が一緒に机を並べて勉強するなら我が子がハンセン病に感染する、このようなことは決してさせてはならないという親の間違った理解から起きた事件です。プロミンという治療薬があること、きわめて感染力は弱いこと、当時の栄養状態では感染することはないこと、濃密な触れあいがなければ感染しないことなどを正しく啓発しておれば起きなかった事件です。
 もう一つは、平成15(2003)年、黒川温泉郷のあるホテルがハンセン病元患者の宿泊を拒否するという事件です。熊本県では、ハンセン病についての教育・啓発を行っている時に起きた事件です。これからも分かりますように、90年にも及ぶ誤った施策によって人々の心に植え付けられた偏見や差別はまだまだ根強く残っています。さらなる教育・啓発が必要です。
 次は、水俣病をめぐる人権についてです。これも熊本県人権同和政策課編「人権研修テキストX」をもとに考えてみます。
 水俣病は、チッソ水俣工場の排水液に含まれたメチル水銀に汚染された魚介類を、たくさん食べたことが原因となって発生した中毒症であることは先生方ご存じの通りです。伝染病や遺伝病、風土病等ではありません。しかし、水俣病の原因がまだはっきりしなかった頃、病気が伝染すると誤解されて、患者が出た家庭には人が寄りつかなかったり、就職や結婚が断られるなどの差別が起きました。お亡くなりになりましたが、水俣病語り部の杉本栄子さんの話によりますと、ひどい差別があっていたそうです。また、水俣地域は原因企業に大きく依存していたため、患者やその家族がチッソと対立するものとして差別や抑圧・忌避を受けたり、患者が受ける補償金が、中傷やねたみをまねくこともあるなど、地域住民のきずなが損なわれました。地域外では、水俣出身であるというだけで結婚や就職を断られる、水俣の産品が売れないといった差別が起き、地域全体を苦しめました。様々な教育・啓発の取組みが進められた現在でも、「水俣」というだけで特別視されたり、病名を水俣出身者に対する誹謗中傷の材料に使われたりするなど、被害者や地域に対する偏見や差別が残されています。
 6年前、中学生のサッカーの練習試合中、「水俣病 触るな」の差別発言がありました。当時、校長先生は「生徒に対して、水俣病についての表面的な知識しか伝えていなかった。我々教師の責任」とおっしゃっていました。学校でも地域でも心に届くさらなる教育・啓発が必要です。
 同和問題、ハンセン病問題、水俣病問題について考えてきましたが、どれも正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、行動すれば起きない差別事象ばかりです。
 私たちの心の中には、正しく学ぶことができなかったがために、自分のこれまでの経験や社会の慣習・風潮などから思い込んでいるものがあります。「○○=○○」という固定観念です。この固定観念できつい思いをした1年生の女の子の話をします。
 ある小学校でのことです。一人の女の子が入学しました。毎日、黒いランドセルを背負って通学していたそうです。教室へ行くと、「男みたい」と冷やかされました。学校の行き帰りも他の学年の子から冷やかされました。「女の子は赤のランドセルだろう。黒のランドセルは男の子だろう」と。そういうことが続きます。女の子の名前を仮にA子ちゃんとします。A子ちゃんは、家に帰ってこのことを家族に話しました。家の人が学校に相談に行きました。担任の先生は、一年生の教室で子どもたちに精いっぱい説明をしますが、子どもたちになかなかうまく届きません。他の先生からのアドバイスをもとに一年生に話をしますが、いっこうに問題は解決しません。A子ちゃんはとうとう学校へ行けなくなりました。保護者は悩んだ末、学校を変わりました。
 転校先の学校でも、最初は、子どもたちから「おかしい」の声が上がりました。担任の先生が保護者に、「A子ちゃんが黒のランドセルを背負って登校するのは、きっとわけがあると思います。よかったら黒いランドセルのわけを教えて下さい。」と尋ねました。家の人は先生にアルバムを見せながらそのわけを話しました。
 「A子には3歳上の兄がいました。黒いランドセルを背負って小学校に入学しましたが、ランドセルを背負って学校へ行ったのは1日だけでした。その時兄は、小児ガンにおかされていました。2回目のランドセルを背負うことなく、この世を去ってしまいました。A子が入学するとき、『新しいランドセルを買おうよ』と家族はすすめましたが、『私は、お兄ちゃんの黒いランドセル背負って学校へ行く。大好きなお兄ちゃんと一緒に学校へ行く』と強く望みました。それで、私たちもA子の言うことを見守っていたのです。」と。
 担任の先生は、この話を学校の先生方に話をしたそうです。学校をあげて、この問題に取り組み、A子ちゃんは、胸をはってお兄ちゃんと一緒に学校へ行けるようになったということです。
 黒いランドセルは男の子のランドセル、男の子が背負う黒いランドセルを女の子が背負うなんておかしいという考えの間違いに子どもたちが気付いたのです。そして、優しさを取り戻したのですね。
 この話の前半部分を資料に載せています。後で読んでください。
 終わりに、「思いやり」について考えてみたいと思います。
 桑原律さんの「思いやりって何ですか」を一緒に読んでみたいと思います。しばらく黙読してみてください。
 では、一緒に声に出して読みましょう。


       「思いやり」って何ですか
                             桑原 律

  「思いやり」ってなんですか
  それは
  自分のことばかりを思わず 他者の心を思うこと 
  エゴイズムを超えて 他者の幸せを願うこと

  「思いやり」ってなんですか
  それは
  自分を大切に思う心を 他者の心まではこぶこと
  その人の心まで自分の心を届けてこそ ほんとうの思いやり

  「思いやり」ってなんですか
  それは
  自分が被害を受けないことでも わが事のように感じること 
  他者の身になって 共に考え 共に悩むこと
 
  「思いやり」ってなんですか
  それは 
  傷ついた心を気づかい 共に心を痛めること
  人間の尊厳を守るために 共に行動すること

            ヒューマンシンフォニー詩集 光は風のなかに

 論語に、次のような文があります。
  子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
  子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 私は論語を深く読んでいるわけではないのですが、衛霊公第十五412の文です。
 子貢とは、孔子の門弟の一人です。その子貢が孔子に尋ねました。
「先生からお教えいただく一語を心にとめて生きていけば、生涯、人としての道を過たずに生きていけるという言葉がありましょうか。」
 孔子が答えました。
「その言葉は恕だ。そして自分の望まないことは人にしないことだ。」と。
 予断ですが、過日、宇城市役所の人権問題研修会でのお礼の言葉で、教育長が「宇城市でも論語の素読を始めました。」とおっしゃいました。公民館講座で行われるのでしょうか。すばらしいことだと思います。
 ある幼稚園での話です。けんかをしている男の中にわってはいった女の子が、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」と言ったそうです。
 「恕」とは、やさしさ、おもいやりのことです。私たちは恕の心を持って生きていきたいものです。
 夏休みも残り少なくなってきました。先生方は、2学期の準備でお忙しくなさっておられることと思います。先生方の優しさ、思いやりが、人権感覚豊かな不知火小学校の子どもたちを育てていると思います。
 先生方をはじめ不知火小学校の子どもたちが共に生きる社会の先頭に立ちますことを祈念して話を終わります。ご静聴ありがとうございました。