皆さん、こんにちは。
午前中は、新合小フェスティバルで学習発表会があったということですね。ただいま、校長先生が「学習発表会はいかがだったでしょうか」とおたずねになったら、皆さんは「とても素晴らしかった」というように頷いていらっしゃいました。
私は、さきほど校長室でバザーの豚汁をごちそうになりました。具がとても多く、おいしくいただきました。学校を支援する皆さん方のお気持ちが豚汁の中にいっぱい詰まっているようでした。
また、校長室には熊本の心「助けあい、励ましあい、志し高く」と新合子育て指針「子どもは家庭で育ち、学校で学び、地域で伸びる」が額に入れて掲げてありました。子ども達を、学校、家庭、地域社会がスクラム組んで育てていこうという気風の学校でお話しできることを光栄に思います。
遅れましたが 私は、ただいまご紹介いただきました中川です。これまで私の名前を「ありとし」と読んでいただいた方はいません。
牛深小学校に赴任したときのことです。時の校長先生は私の顔をジーと見つめながら、「うわぁー、あたは、本当に中川先生な。私は名前を見て『今度来る二人の先生はとっても美人の先生ばい。』と職員には紹介しとった。もう一人の先生は、名前の通り美人の先生ばってん、あたが男の先生とは思わんだった」と本当に困ったという顔でおっしゃいました。もう一人の先生はとても美人でした。私は美人ではありませんが、「よか男」と思っています。自分でそう思わなきゃだれも思ってくれませんから。
このときの校長先生は私の名前を「ゆうき」または「ゆき」と読まれたのだろうと思います。もしかしたら、子どもさんやお孫さん、知り合いの子どもさんの中に「ゆき」さんがいるかも知れませんね。
このように、よく女性の名前と間違われるのですが、私は父がつけてくれたこの名前に誇りを持っています。父を尊敬しています。「紀」は「年」を意味します。「有」は「保有する」の意味です。父は「有」と書いて「たもつ」という名前でした。「年を重ねて、年相応の成長を」という願いを込めて名前を付けたと父から聞きました。
皆さん方も、子どもさんやお孫さんが生まれたとき、家族全員で喜び合って、いろんな思いをこめて名前を付けられたことと思います。その名前に託した親や家族の思いを是非子どもさんに語ってやってください。きっと、子どもさんは自分に対する家族の思いを知って更に自分の名前を誇らしく思うと思いますよ。
今、私は63歳です。自分なりに年相応の人になるよういろいろと努力はしているつもりですが今は亡き父の願になかなか届きません。
私は、本日のように学校や公民館などから「話しをしてくれないか」と声をかけてもらうことがあります。その度に、物の本を読んだり、これまでの私の考えを整理するなどして学習を続けています。私はこれを生涯学習だと考えています。
人は生まれて死ぬまで、生涯学習をし続けます。学習というと、教室で教科書を手に先生の話を聞いてというイメージが湧きますが、これも学習。しかし、本日のように話を聞いて、「そうだったのか、初めて知った」とか「私もそう思う」など感じることも生涯学習です。子育ては生涯学習の視点が必要だと私はいつも訴えています。
また、全国でいじめによる自殺が相次いでいます。この世に生を受けてわずか13、14歳の若くして自らの命を絶った子どもは、さぞ、きつかったことでしょう。苦しかったことでしょう。悔しかったことでしょう。悲しかったことでしょう。
いじめに立ち向かって平静な自分を取り戻すことよりも、今ここで命を絶った方が自分は平静になる思って命を絶ったのではないかと思うと、ここまで苦しい状況に追い込んだことへの怒りがこみ上げてきます。そして、子どもが発するSOSをキャッチできなかったことが悔やまれてなりません。
今学校では、いじめ問題が最大の人権問題です。後ほど詳しくふれますが、いじめや差別は絶対許さないという強い意志、相手の立場や考え方を認める、人権問題を人ごとではなく自分のこととして受け止める、心のつながりがある明るい社会をつくりあげる、このような力を育てていく視点が大事だと日頃から思っています。
本日はこのような視点から、学校、家庭、地域が一緒になっての子育てについて皆さんといっしょに考えていこうと思います。
私は本日の話しの順番と内容をレジュメとして配付しています。資料もプリントしていただきました。なるべくレジュメに沿って話を進めたいと思いますが、話が脱線したり、最後まで行かないことがあると思います。どうぞ、お帰りになりましてから、レジュメと資料に目を通してください。よろしくお願いします。
これからえらそうに家庭教育について話をしますが、決して私は子育てのエキスパートではありません。いつも悩みながら2人の男の子を育ててきました。
2人の子はいろいろ間違いや悪さをしでかしました。その度ごとに妻と悩み、試行錯誤しながら躾けてきました。私は、親が子を躾けるとき、子が反社会的行為をしたり、ルールを破ったり、弱い者をいじめるなどをしたとき、殴ってもわからせる場合があると思っています。
また、子を思いっきり抱きしめたり、褒めたりしながら他を思いやる優しさなどを育てることが大切だと思います。
子育てには、「楽しむ」、「手間暇かける」、「親は子より先に死ぬ」の視点を持ちたいですね。
今、日本は人口減少期に入りました。15歳〜49歳までの1人の女性が一生のうちに平均何人の子どもを産むかを示す数値で、1947年は4、32だったのです。それが昨年(05年)は、1、25となりました。このように子どもの数が減少しているのにはいろんな原因があると思います。その中の一つに、子育ては大変だというのがあると聞きます。きついときもいっぱいあるでしょう、子どもの成長を目の当たりにするときの喜び、楽しみは何物にも代え難いものです。と同時に、子育てを通して自分自身が成長します。子育ては生涯学習そのものです。この視点を持ちたいものです。
今は、ボタン一つで、スイッチ一つで何でもできます。ご飯も炊飯器のスイッチを入れるだけでできあがります。私は農家の長男でした。男ばかりの4人兄弟です。大人は朝早くから夕方遅くまで農作業です。少しでも母の夕飯の支度が楽になるようにと竈でご飯をよく炊きました。親からは「できあがるまでははがまの蓋は取るな」といわれていたのですが、今どのくらい水があるのか、焼き付きはしないかが心配で、ついつい、蓋を取って炊きあがり具合を見ていました。麦わらや稲わらで炊いていましたので、灰が舞い上がります。その灰がご飯の中に入るのです。煙のにおいまで入ります。ご飯時にいつも「蓋は取るなというだろうが」と注意されていました。そんなことを重ねるごとに、いつのまにかご飯炊きのコツを覚えました。このコツを表した言葉が「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ。赤子泣いても蓋とるな。じわじわどきに火をひいて、10分たったらできあがり」ですね。
「はじめちょろちょろ」「中ぱっぱ」「蓋とるな」「火を引く」「待つ」、このご飯が炊きあがる過程を大切にすることが美味しいご飯を炊くこつなのです。これは子育ても同じだと思います。結果だけに目がいくのではなく、過程を大切にしたいものです。
先ほどもふれましたが子育てには父性と母性が必要です。
私は、正義感や卑怯を憎む心、ルールを守る心、恥ずべきことはしないという強い意志など精神的強さは父親が理屈抜きで教えることだと思います。他を思いやるなどの優しさは母親が教えることだと考えています。私はこのことを父性と母性といっています。
いろんな家庭の事情により、お父さんだけで子育てをしていらっしゃる家庭もおありでしょう。お母さんだけの家庭もおありでしょう。ときには、父親のような立場で、母親の立場で子どもに接して欲しいのです。
子どもの一番の願いは何だと思われますか?
子どもたちの1番の願いは「家族みんなが楽しく過ごす」ことです。
そのためにはまず、親が幸せになることです。親がイライラしていては「家族みんなが楽しく過ごす」家庭をつくりあげることはできません。親のイライラが子どもに伝わります。親は夫婦仲良く、健康であることです。心の健康を保つことが大切です。親自身が自分を大切にできないなら、子どもを大切にすることができるはずがないと私は思います。親が幸せで笑顔でいる家庭でこそ、子どもも幸せを感じます。笑い声、歌声、親子での話し声にあふれた家庭をつくっていきましょう。
今、文部科学省では「早寝早起き朝ご飯」を提唱しています。これは子どもたちに生活リズムを付けさせることと、子どもの健やかな成長のエネルギー源である朝ご飯をきちんと食べさせようとの思いからです。昔から「早起きは3文の得」と言うでしょう。子どもたちの中に夜更かしをする子が増えいます。睡眠時間が少なくなっています。子どもには9時間から8時間は必要です。
朝目覚めてから脳が活発に動き出すまでには1時間30分から2時間は必要です。本校では1時間目の授業は8時40分くらいからですか?だったら、子どもたちは6時30分頃には起きることです。ということは、9時30分から10時には寝ることです。これだけ睡眠を取ると必ず子どもは脳が活性化します。学習効果が現れます。頭が良くなります。私が言うことが本当かどうか、今日から1年間、実験してみませんか?こんな実験だったら子どもと一緒にできますから。
また、私がクラス担任をしている頃、運動会の練習が始まると、子どもたちがばたばた倒れて保健室で休んでいました。そのほとんどが朝ご飯を食べていない子でした。朝ご飯を食べたという子も、パンとコーヒーという子でした。朝ご飯は1日のエネルギー源です。ご飯と味噌汁を家族そろって食べましょう。
この秋、シルクロード観光の拠点でありますウルムチというところを旅しました。靴磨きの露店を出している父親のそばで、道ばたでですよ。リンゴ箱のような箱を机代わりにして、一生懸命ウイグル文字の練習している女の子がいました。練習している様子を見ていますと、父親が「娘は6歳だが、学校に行っていない。自分が勉強を教えている。しっかり勉強して立派な人になって欲しいと願っている」と言いました。
道路横断の地下道の斜面で、滑り台遊びをしている男の子がいました。若いお母さんが注意していましたが男の子は遊びを止めません。その母親は男のほっぺたをバチッとたたいたのです。男の子は滑り台遊びをぴたっと止めました。「してはいけないことはしてはいけない」と厳しく躾けていたのです。あたりまえのことですが、近頃日本ではあまり見かけない光景でしたので感動を覚えました。このことは、新聞切り抜きで資料として付けていますので、後でお読みください。正しいしつけは子どもへの大切な贈りものだと私は考えます。
私の友人の話です。農家の長男であった彼は農業の跡継ぎをしなければならなかったのですが、お父さんが「おまえが好きな道を歩め」と勧めていただいたことから大学に進学しました。その彼がある日の夕方、縁側でくつろいでいるとき、お父さんが農作業を終えて帰ってきたのです。「父ちゃん、疲れたろう。足ば洗ってやるけん出しなっせ。」と洗面器にお湯をくんで父の足を洗ってやったとき、その足を見て、「自分が子どもの頃の親父の足はもっと美しかったのに、ひびがはいってしまっている。こんなにまで苦労して俺を大学にやっているのか。父ちゃん、ありがとう、ありがとう、ありがとう。」と目から出る涙を拭き拭き父の足を洗っていると、彼の首筋に暖かいものが一粒二粒落ちてきたというのです。この親子にはこれ以上の言葉はいらないでしょう。このような親子でありたいと思います。
これは、「涙は心のために」であり、これこそ「親子の愛」そのものです。このように、愛は家庭で教わらなかったらよそで学ぶのはむずかしいと思います。
そして、このようなことが子どもの自尊感情をはぐくみます。
私には2人の孫がいます。上の孫がちょうど1歳の頃のことです。つかまり立ちをしてテーブルの周りを歩いているときのことです。私が息子に、「もっとたくさん食べてもっと大きくなればよいがね」と言っていると、孫の顔が次第に下向きになってしまったのです。これはいかんと思って、「あんなに小さい体で生まれたのに丈夫に育ったね。成長が楽しみだ」と話を変えると顔が上を向き、笑顔が出るのです。孫に言ったのではないのですよ。大人の会話が理解できるはずがない1歳の子がこんな反応をするのです。その場の雰囲気で自分が認められている、ほめられていることが分かるのですね。
今学校では、「認め、褒め、励まし、伸ばす」を合い言葉に指導がなされています。家庭でも、子どもを認め、褒めてください。
先日あるところで聞いた話です。
用事があって娘の家に行って、娘と話しをしているところに孫が帰ってきました。そして、フナのような大きな魚を得意げに見せました。私が「うわー、大きな魚を釣ったね」と褒めようとするより早く娘が「そぎゃん大きな魚ば持ってきてどうするね。うちにはそんな魚ばかうところはなか。はよー、川ににがしてきなっせ」と言うのですよ。孫は褒められると思ったのでしょう。それを叱られるなんて。しゅんとしていました。私は後で、「大きな魚ば釣ったね。うれしかったろう」と孫を褒めました。孫はうれしそうに「うん」と言いました。今の若い親は子どもをあんまり褒めないですね。と。
笑い話のようですが、本当の話です。ありちゃんは、小学1年生。初めてのテストで○を3つもらって喜んで帰りました。すぐに「お母さん、ほら、○を3つもらったよ」すると、母親は「何ね、たったの3つではなかね。もっと勉強せんね」と。ありちゃんは「よーし、今度こそ」と勉強をがんばり、70点もらいました。今日はお母さんも喜んでくれると思うと、「70点じゃなかね。100点とりきらんとね」と。それでまた、がんばってとうとう100点とったのです。うれしくて、スキップで帰り、大声で、「お母さん、お母さん、ほら、100点よ」これを聞いてお母さんもとても喜びました。「うわー、良かったね。よく頑張ったね」と。これでお終いなら子どもはとてもうれしくなり、自分に自信がつき、自尊感情も高まったことでしょう。ところがその後があるのです。「だれちゃんは何点だった?」、「100点だったよ」。「だれちゃんは?」「だれちゃんも100点だったよ。みんな100点だった。先生もとても喜んでいたよ」。「なんて、みんなが100点ならいばられんたい。」
こんな親の元で育つ子どもに自尊感情は育つでしょうか。詳しくは新聞切り抜きの「子どもを褒めて自己実現増幅」、「子どもを褒め、自尊感情を育てましょう」を読んでください。
下の孫は、今4歳です。先日、近くの公園で遊びました。姉もその友達も雲底にぶら下がって楽しそうに遊んでいます。それを見た孫が雲底に挑戦します。姉たちのように腕力もない、握力もないので無理と思い、体を持とうとすると「自分でする。持たないで」というのです。危ないとは思いましたが手を放して見ていますと、自力で6段か7段はわたることができました。でも、今にも落ちそうです。「落ちる、落ちる。おじいちゃん、助けて!」と言います。抱えおろすと、また、挑戦です。
このように幼児は「自分でする」とよく言うでしょう。また、「これなーに?」とよく聞いてくるでしょう。また、自分で見たり聞いたり、経験したことを話したがります。「お母さん、あのね・・・・」と話しかけてくるでしょう。この知的好奇心を大切にしたいものです。年齢が上がるにつれてこれがなくなるのです。
冒頭でも述べましたように、今いじめによる若者の自殺が社会問題となっています。いじめは人権侵害です。人として恥ずかしい行為であるいじめは絶対しない、人をいじめる卑怯な行為は絶対許さない、いじめには絶対負けないという力を子どもたちにはぐくみたいと思います。
私がある小学校に勤務しているときのことです。片道4キロもあるところから来る子どもたちがいました。1年生から6年生までが集団登校してきます。その中でいじめ問題が起きたのです。1年生と5・6年生では、体力が違います。歩く速さが違います。さらに、1年生は1週間前までは玄関から園までバス通園していました。しかも山道です。1年生と高学年とでは歩くスピードが違います。その子どもたちが一緒に登校するのです。1年生は「きつかー」「急いで行かんでー」など言ったでしょう。高学年の子は「もう少し急げー」など言ったでしょう。ランドセルを引っ張られたり、後ろから押されたりする内にいじめに変わりました。おじいさんは孫がいじめられていることに心を痛められました。地区内で話し合いがもたれました。そのときのおじいさんの言葉です。
今度のいじめは誰が悪かつでもなか。わしの孫に「いじめないで」といじめをはね返す力が無かったこと。いじめた子に弱い者をいじめることは愚かなことだと気づく力がなかったこと。周りの子にみんなで仲良くしようといじめをやめさせる力がなかったこと。これからこの地区でわしや孫のように苦しい思いをする人が出ないようにみんなで子育てにあたろうではないか。
このことと同じようなことが、文部科学大臣からも「未来のある君たちへ」と題して全国の子どもたちへメッセージが送られましたね。
いじめのない明るい学校を作り上げる力を家庭で育ててください。
資料として綴じ込んであります拓本は、佐藤一斎の「言志四録」です。
一緒に声に出して読んでみましょうか。
小にして学べば 則ち壮にして為すあり 壮にして学べば 則ち老いて衰えず 老いて学べば 則ち死して朽ちず
これは、生涯学習の神髄を言い表した言葉です。西南戦争、薩摩軍の総大将 西郷隆盛の座右の銘だったそうです。私もこれをいつも唱えてこうありたいと努めています。茶の間のどこかに貼っておかれませんか。
学校では、この生涯学習の基礎づくりが為されています。
また、第五高等学校の英語教師であった夏目金之助、小説を書いたペンネームは漱石と言います。金之助は、明治30年の開校記念式で教員代表として祝辞を述べています。その中の1節に「教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」と言うのがあります。「師弟ノ和熟育英ノ大本タリ」つまり、先生と弟子、生徒が心を通い合わせることは教育の根本であると言っています。
教育は、教える者と教わる者との信頼関係の上に成り立ちます。先生と子ども、先生と保護者、学校と地域が信頼しあわずして、どうして教育が展開されましょうか。ここ、新合の地では、この3者が互いに信頼しあって教育活動が展開されていると、先ほど校長先生からお聞きしたところです。
教育心理学の用語に「ピグマリオン効果」というのがあります。簡単に言いますと、「あの人好きと思っていると、その人も好きだと思うようになる」、「あの人は嫌いだと思っていると、その人も嫌っている」ということです。
ピグマリオン効果という言葉はギリシャ神話からとったものです。昔、キプロス島の「ピグマリオン」という若い王が、大理石を手に入れ、全身全霊を込めて「理想の女性像」を彫ったのです。その像のあまりの美しさに恋をしてしまい、この像が生命の通う人間であることを願い、信じ続けたのです。愛と美の女神であるアフロディテが女性像に命を吹き込むと像に命が宿り、ガラテアと名づけ、二人は結婚。幸福に暮らしたという、信じていることが現実になることをいっています。
アメリカの心理学者が学校で実験したそうです。子どもたちを2つのグループに分けて、1つのグループの子どもは「あなた達は何でもできてすごい」といつも褒めて授業を続けたそうです。他のグループの子どもには「あなた達は何もできないのだから」といつもけなして授業を続けたそうです。これを1年間続けたら同じようなレベルの子どもたちにかなりの学力差が生じたというのです。
これは、毎日の生活でも言えることです。「うちの子は何でもできる」と思っている母親の子どもは、成長過程の早い時期にできている、という傾向があるそうです。逆に、いつも自分がついていないと何もできないと思っている母親の子どもは、いつまでも自立心が芽生えないそうです。そのはずです。「うちの子は自分で何でもできる」と思っている人は子どもにどんどんさせますもの。自分がいないとできないと思っている人は、子どもにはさせないでついつい、自分でしてしまいますから。つまり、それだけ生活経験に差が出るのです。
益城町公民館講座の受け付けをしているとき、若い母親が2歳くらいの子どもを連れてお出でました。帰りに体育館玄関で幼児に「○○ちゃん、お座りして。あんよを出して」と言って靴を履かせています。そのすぐ後で、おじいさんがやはり2歳くらいの男の子を連れて見えました。帰りは「○○、靴は自分で履ききるど」と言ってただ見ているだけです。幼児は一生懸命履いています。なかなか履けません。どうにかして履けましたが、右左反対です。それでもそのままおじいさんと帰りました。この2人の幼児にはかなり経験の差ができました。このことを新聞切り抜き「体で覚えさす母親のしつけ」に書いてあります。後でご覧ください。
「体で覚えたものは、体から離れない」は、サトウハチロウの詩に出てきます。そこで、本日の演題も「体で覚えたものは体から離れない」としました。
今、学校では新しい学力を身につけることに主眼を置いています。新しい学力というのは、簡単に言いますと、知識の量より自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、判断し、課題を解決する力のことです。昔、私たちが若かった頃、中学校や高校の歴史学習で、「泣くよウグイス平安京」と覚えて、平安京に都が遷都されたのは西暦794年と覚えました。「いいくにつくる源頼朝」として、鎌倉幕府成立が1192年と覚えました。このように年号をただ暗記するよりも、「なぜ、奈良から京都に都が移されたのか」、「貴族の時代から、武士の時代へとなったのはなぜだろう」と考えて、その時代のいろんなことを自分なりに疑問を持ち、それを解決することが生きて働く力となるからです。
皆さんは、小学校の頃、台形の面積の公式を覚えられたでしょう。台形の面積は、(上底+下底)×高さ÷2と。今はこの面積の公式を覚える勉強はしないのですよ。でも、台形の面積を求める問題はあります。「公式を知らないでどうして面積を求めることができるの?」と疑問に思われるかも知れません。これができるのです。お気づきのように、台形に対角線を1本引けば、三角形が2つできます。できた三角形の面積を求めて、それをたし合わせれば良いのです。三角形の面積の公式は知っていますから。あるいは、上底から下底に線を2本おろします。すると、真ん中に四角形、両端に三角形が2つできます。この面積を求めて、たし合わせせれば良いのです。つまり、「どこに補助線を引くか」を考え出すことができること、これが新しい学力です。
この考え、つくりあげる力を引き出すには、基礎・基本が身に付いていなければならないと、学校では徹底して教え込んでいます。ところが、その学年では覚えていても、使わないと忘れてしまいます。
今、子どもたちとそろばんの勉強をしています。例えば、「567÷9」の計算をします。「56」の中に「9」はいくつ入っているかがすぐには出てきません。九一が9から九九81まで九の段の九九を唱えます。でも、いくつ入っているか気付かない子もいます。もう一度唱え直して「6」と答えます。覚えたなら、活用できるようにするのが学力の定着だと私は思います。
その他、自ら学ぶ意欲・態度・方法の定着、豊かな心と生きる力の育成、国際理解と我が国文化と伝統の尊重、社会の変化への対応などを学習しています。学校教育のことは私より、校長先生、教頭先生がうんとお詳しいですので、後日ゆっくりとお聞きください。
自尊感情をはぐくむことは、先ほど家庭教育のところでお話ししたとおりです。
学校で行われている、「認め、褒め、励まし、伸ばす」を更に進めて欲しいと思います。
上越教育大学の新井郁夫教授は、公民館講座等で学ぶ人に対してアンケートをとられました。その結果、公民館で学ぶ人の大部分が小学校4年生頃から中学校2年生頃にかけて、先生や友達、家族から褒められた経験を数多く持っていたということがわかりました。つまり、小学校高学年から中学校にかけて褒められた経験が多い人は学習意欲が旺盛であるということが分かったのです。この学習意欲は、高齢になってからだけでなく、現在の学習意欲につながります。先生方、どうか、このことを頭にとめ、子どもの指導に当たってください。
これが、子どもたちに、自己有用感、自己存在感、自己肯定感などをはぐくみ、自尊感情が高まると思います。
また、学校では、集団生活でのルールや他への思いやり、相手を傷つけない自己主張などの学習をしています。
学校は集団で生活するところです。集団で生活すればそこには意見の衝突があります。けんかがあります。私はけんかは大いにすべきだと思います。すぐに止めに入りますが、危険を伴わないように見守り、けんかをさせればよい。自己主張ですから。自己主張を通して、いろんな考えがあることを学びます。仲直りの仕方も学びます。
ですから、私は兄弟におやつをやるときは、わざと分けることができない数を与えて欲しいと思うのです。例えば、2人兄弟のとき、あめ玉を3個与えて「2人で仲よく食べなさい」と言ってみてください。子どもはどうするでしょうか?上の子が「自分は大きいから」と言って2個とるかも知れません。あるいは「おまえが2個とれ」といって下の子に2個やるかも知れません。半分に分けることができるものなら、半分に分けるかも知れません。そこに、数の大小概念が生まれます。1個と2個とでどちらが多いか分からないならけんかもしません。さらには、兄弟姉妹の間で、思いやりの心、助け合う心、協力し合う心などがうまれます。
子どもはこれで良いのですが、大人はこうはいきません。1昨年、シルクロードのまちカシュガルへ行ったとき、バスターミナルで大人が取っ組み合いのけんかをしているところを見ました。周りの人が止めたので大事にはなりませんでした。大人のけんかはよくありません。
だったら、言いたいことも我慢するのかと言うことになります。そうだったら、ストレスがたまってしまいます。そこで、「相手を傷つけない自己主張」があるのです。
あなたが買い物でレジに並んでいたとします。そこに一人が横は入りして来たときにあなたはどんな対応をしますか。「横は入りするな!」と大声で怒鳴りますか。「私はちゃんと並んで順番を守っているのに、本当に腹の立つ」とぶつぶつ言うだけですか。「私も時間がないけど並んで順番を待っています。あなたも並んでもらえませんか」と言いますか。
3番目のような言い方を「相手を傷つけない自己主張」と言います。詳しくは、これも資料に載せています。
皆さん「白鳥芦花に入る」という言葉をご存知でしょうか。
これは、皆さんご存じの下村湖人が「次郎物語」で、朝倉先生の口を通して次郎達に話した言葉です。
「白鳥芦花に入る」は、真っ白な鳥が真っ白な芦原の中に舞い込むと、その姿は見えなくなります。しかし、その羽風のために、今まで眠っていた芦原が一面にそよぎ出すと言う意味だそうです。村おこし活動の在り方で次のように説明しています。若い人たちが20数名集まって会を作り、熱心に村のことを研究し、生活の調和と革新を図るために、意見を出し合い、計画を定め、その実現を誓い合いますが、それをみんなに発表するようなことはしないで、率先躬行したり、村の人の中で身近な人を説き伏せていき、いつのまにやら村の気風を改めていったというのです。私は地域での子育てにはこの視点が必要だと思っています。
また、中国のことわざに「聞いたことは忘れ、見たことは覚え、体験したことは理解できる」があります。これは、体験活動の大切さを表した言葉です。このことは本校の校長先生が「自然体験を通し心の成長を願う」と題して投書に書いておられます。その中で、自然体験が豊富な子どもほど道徳観や正義感が身に付いていると言っておられます。詳しくは資料をご覧ください。
熊本県子ども会副会長をしておられた方から話を聞いたことがあります。その方は「近頃の子どもは3つの恩を忘れてしまっている。3つの恩とは、親の恩、先生の恩、地域の恩」と。
さらに、子ども会のことを話されました。「自分の地区に、学校にも行かず、遊んだり、小学生などに良くないことを教えたりするので、学校からも地域からもよく思われていない中学生がいた。みんなはこの子を地区の子ども会に参加させるのを嫌ったが、私はこんな子だからこそ地区で守ってやらねばならないと、子ども会のたびごとにこの子を子ども会に連れて来ていた。この子が中学校を卒業して働くようになって、私に手紙をくれた。その手紙には、自分がどうにか中学校を卒業できたのも、こうして仕事ができるようになったのもおじちゃんがいつも子ども会に連れて行ってくれたから。子ども会で一番心に残っているのは、夏のスイカ割り。今年もスイカ割りがあるだろう。その行事に使ってくださいと初めてもらった給料から千円札を数枚入れて送ってきた」と。
「地域で子どもを育てる」そのものです。「子どもは地域で伸びる」そのものです。
社会の宝である子ども 21世紀の担い手である子どを地域全体で育ててください。都市部では、隣の子どもがどこの子か分かりません。地域の教育力が低下しています。皆さんは、この学校の子どもたちがだれさんの子か、だれさんの孫かおわかりでしょう。それが子どもの行動の抑止力になっているのです。
私も小さい頃、「あんたは有(たもつ)ちゃんの子だろう」「幸平しゃんの孫だろう」とよく言われました。ただそれだけで悪さはできませんでした。
お手元に「熊本の地域教育力 3つの提言」をお配りしています。
地域でこのような心と力を育てましょうとして、命を大切にする心、感動する心、郷土を愛する心、人と関わる力、自分の未来を切り拓く力が例示してあります。
地域で実践したい活動には、人の役に立っていることが実感できる活動、人・もの・自然とふれ合う活動、主体的に取り組むことができる活動、郷土を知り、そのよさを伝えることができる活動、働く・生産する活動が示してあります。
体験活動の意義は、他人に共感する、自分が大切な存在であることを実感する、社会の一員であることを自覚する、思いやりの心や規範意識をはぐくむ、物事への関心を高める、問題を発見する、困難に挑戦し解決する心を養う、人との信頼関係を築く、共にものごとを進めていく喜びや充実感を味わう、社会性を身につけるなどたくさんあります。
子どもたちに生きる力を教えてください。子どもたちの心に栄養を与えてください。
その際、指導者として持ちたい姿勢は、ルールを守ることの大切さを教える(してはならないことを厳しく教える)姿勢、教えねばならないことは厳しく教え、任せてよいところは任せる姿勢、認め、ほめ、励ます姿勢です。
子どもは、したことがないものはできません。教わったことがないことは分かりません。いろんな体験をさせてください。それも心が揺り動かされるような体験、情動体験を数多くさせてください。そして、活力に満ちたこころ豊かな新合の子どもを学校、家庭、地域がスクラム組んで育てていかれることを祈念して話を終わります。
長時間のご静聴ありがとうございました。