豊かな感性を育てましょう
平成23年7月20日
熊本市城南町火の君文化センター

 やりましたね。なでしこジャパン。
 サッカーの第6回女子ワールドカップ(ドイツ大会)で見事優勝しましたね。
 みなさんの中にも、夜中に起きて眠いのを我慢して応援した方も多かったことでしょう。私も応援しました。前半は、押され気味でした。ついに後半先制されましたが、追いつきました。1-1で延長戦に入り、延長前半で再びリードされ、これで終わりかと思いました。しかし、粘りを見せ、後半残り時間わずかの時、コーナーキックのボールを沢選手がボレーシュートで同点に追いつきました。アメリカの選手より一瞬早く走り込んでのシュート。あれで、なでしこジャパンは息を吹き返したのではないでしょうか。
 PK戦前のリラックスした様子。監督や選手に笑顔が見られました。アメリカの選手のフリーキックを体を張って止めた海堀選手でしたか。ゴールキーパーは。びっくりしました。普通、横っ飛びでボールを止めに行くのは手で止めるのでしょう。それを右足で止めましたね。本当にビックリしました。NHKをはじめ、各局のニュース番組で何度も見ましたが、何度見ても目頭が熱くなりました。日本中が歓喜で湧きかえりました。
 なでしこジャパンの主将、沢選手について、朝日新聞7月12日付、天声人語に「その名は、豊作を念じて父親が考えたという。沢穂希さん。」とあります。豊作は豊作でも女子サッカーワールドカップ優勝という大豊作を日本にもたらしました。なでしこジャパンは、「最後まであきらめない」がチームのモットーだそうです。「あきらめない」は自尊感情がなければできるものではありません。
 そして、沢さんは、「夢は見るものではなく、叶えるもの」と言っていました。頂点を極めた人の言葉には重みがありますね。
 これから皆さんと家庭教育について考えようと思っています。始めに自己紹介を致します。
 「なかがわありとし」さんとご紹介いただきました。
 私は、これまで「ありとし」と読まれたことはありません。ほとんど「ゆき」または「ゆうき」と読まれ、女性とよく間違われますがます。が、見ての通りのよか男です。よか男とは誰も言ってくれませんので、自分で言っています。
 私が新任教員として牛深小学校に赴任したときのことです。校長室にあいさつに行くと、校長先生は私の顔を見つめながら、「あたはほんなこて中川先生な。わしぁ名前ば見て、『今度来る先生はとても美人の先生バイ』って職員に紹介しておったのに。ほんなこてあたは中川先生な。男の先生てな。ほんなこて中川先生な」と念を押されました。校長先生も、私の名前を「ゆき」または「ゆうき」と読まれたのでしょう。だから私を女性の先生と思い込まれたのだと思います。
 「有」という文字は、上に「保」という文字を付けると「保有する」と言う熟語ができるでしょう。「有」は「保つ」という意味があり、「たもつ」とも読みます。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味があります。そこで、「紀(年)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。父の願いに沿うようにと努力はしていますが、なかなか年相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。今はこの世にいませんが、こんなすばらしい名前を付けてくれた父に感謝しています。父を敬愛しています。
 6月25日に68歳になりましたが、今でも小学校や中学校時代の幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。私は「ありちゃん」と呼ばれることを嬉しく思っています。
 皆さんもお子さん誕生の時の感動、子への思いや期待を込めて名前をつけられたことと思います。お子さん誕生の時の感動、名前に込めた親の思い、家族の思いを低学年のお子さんだったら膝の上に抱っこして、高学年のお子さんだったら手を取り、目を見つめて、話してやって下さい。きっと、お子さんは自分の名前をこれまで以上に好きになり、誇りを持つと思います。自分の名前を好きになり誇りに思うことは、自分自身を好きになり誇りを持つことにつながります。これが自尊感情を育み、自分も周りの人も好きになることができる人に育つ力になると思います。私はこのことが人権教育の礎であり、スタートだと思っています。
 人は誰もが、道をはずれそうになることがあります。私もありました。私の二人の息子も脇道へ行こうとしたことがありました。道をはずれそうになりました。。そんなとき、目を見て名前につけた思いを語ってやって下さい。きっと、もとの道に帰ってきます。
 沢選手の場合も、「穂希」とはお父さんが豊作を念じてつけられた名前ということでしたね。
 「有紀」は大好きな名前ですが、小さい頃、上級生などから「おっ、アリの来よる。アリば踏みつぶそう」と足で踏みつぶす仕草をしてからかわれたりいじめられることがありました。そんなとき、「俺はアリじゃなか。有紀」と体当たりでぶつかっていっていました。
 本日は先生方もいらっしゃると聞いています。先生方にお願いです。
 先生方の学級の中で、名前のことでからかわれたり、意地悪されたりして悔しい思い、悲しい思いをしている子がいるかもしれません。そんなとき、みんなの前でその子の名前に込めた親御さんの思いを語って下さい。名前に込められた親御さんの願い、思いを知ったら、からかったり意地悪したりすることの愚かさにきっと気づくと思います。
 本日の演題を「豊かな感性を育てましょう」としました。
 お手元に配付しています資料、「一度きりのお子様ランチ」を見て下さい。一緒に読んでみましょう。


                   一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は…」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから…」
店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。
 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがでしたか?
 この話は、東京ディズニーランド内にあるレストランで実際にあった話です。レストランの規則を破った店員は、上司に叱られたでしょうか。いいえ。お客さんに喜んでもらい、感動を与えたと賞賛されたそうです。
  ディズニーランドは、ミッキーマウスの産みの親ウオルト・ディズニーが人々の感動を創りあげようとアメリカで造ったものですよね。日本では千葉県浦安に、東京ディズニーランドとしてオープンしました。
 「誰かに親切にする」と「ありがとう」の言葉や笑顔が返ってきます。このことが「生きている」の実感につながります。感動が生まれます。
 感謝の手紙にあるように、「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。」これこそ感動です。このような感動の積み重ねによって感性がさらに豊かになります。
 さて、今日は1学期の終業式でしたね。通知表をもらってきたでしょう。もうご覧になりましたか?
 通知表に関する小咄を一つ。
 「おい、今日は終業式だけん、通知表ばもろおてきたろ? 早よ、通知表ば父ちゃんに見せんか。」
 「もろうちゃ来たばってん、しゃるもじ、見せにゃんな?」
 「当たりまえた。早よー見せんか。」
 「そぎゃーん見せて父ちゃんが言うなら、見せにゃんたい。ちょっと待って。持ってくるけん。」
 「はい、通知表」
 「あら、どぎゃんしたつか? この通知表はえらーい冷たかね。」
 「うん、俺が通知表ばもろうち来るたんびに父ちゃんが『お前の通知表は悪なるばかるね。』て言うけん、これ以上悪ならんごつ、冷蔵庫に入れといた。」
 こんな、しゃれがでる親子はいいですね。
 お手元にあるのは、私の孫娘が小学1年生の2学期の終業式の日、孫の通知表を見たときのことを熊日新聞に投稿した文です。 
 読んでみます。 


                       子供をほめて自己実現増幅

 小学校1年生の孫が通知票を持って来た。通知票には、学習の様子、係の役割、出席状況、身体の様子、そして子どもの学校での暮らしぶりが所見として担任の先生の心温まる言葉で、実に丁寧に書き記してある。
 所見を声に出して読み、「うわー、2学期は1日も休まなかったんだね。体が丈夫になったね。『計算ができる』や『本読みができる』は、三重まるになっている。勉強もがんばっているね。係の仕事も一生懸命している。お友達とも仲良く遊んでいる。すごいぞ!」とほめると孫は、はにかみながらもうれしそうに「学校は楽しいよ。」と声を弾ませて応える。家族一人ひとりに通知票を見せながら、学校での様子を話している。その得意げな顔。瞳が輝いている。
 自分がしたことを人から認められたり、ほめられたりすることで存在感や有用感を実感する、いわゆる「自己実現」を味わっているのであろう。この自己実現が、現在はもとより生涯にわたっての学習意欲をかきたてる源であるという。公民館講座やカルチャーセンターなどで学んでいる意欲旺盛な人のほとんどは、小中学生時代に「自己実現」を実感する機会が多かったようだ。
 子どもたち一人ひとりの学習や生活の様子などつぶさに観察し、通知票にまとめて保護者に伝えることは大変な労力であろう。先生方のご苦労に頭が下がる。心を込めて作られた通知票をもとに家庭でも子どもたちを認め、ほめ、励まし、伸ばしたい。このことが子どもたちの「自己実現」を増幅させ、学習意欲旺盛で主体的に生きる人づくりにつながるはずだ。

 孫娘は未熟児で生まれました。本人の強い生命力、親の深い愛情、病院の先生方の心温まる看護により、元気に成長しました。しかし、体は同学年の子よりかなり小さく、学校に毎日通えるだろうかと心配していました。ですから、「うわー、2学期は1日も休まなかったんだね。体が丈夫になったね。」の言葉が出たのです。
 また、1年生の保護者の方はおわかりと思います。各教科に○や二重○、三重○で評価してある項目はみんなで20個以上あると思います。それを「なんか三重まるはたった二つか」ではなく、「『計算ができる』や『本読みができる』は、三重まるになっている。勉強もがんばっているね。」と褒めたのです。それで、それまであまり見せたくない素振りをしていた孫娘がるんるん気分で家族に見せて回りました。このときほど、褒めることの大切さを実感したことはありません。
 みなさん、お子さんがテストで60点を取ったとします。「うわぁー60点も取れたね」と褒めますか?「何ね、たった60点ね。こぎゃん点数でどぎゃんすんね」と叱りますか?60点のテストのときの子どものがんばりにもよりますが、「否定」より「賞賛」の方が子どものやる気は出てきます。
 子どもたちを認め、褒めましょう。学校では、「認め 褒め 励まし 伸ばす」教育がなされています。この「認め 褒め 励まし 伸ばす」は学校だけのものではありません。家庭でも地域でも子どもたちを認め、褒め、励まし、伸ばしましょう。
 ところが認め、褒めることは案外難しいのです。
 2番目の孫娘は3年生です。これが縄跳びが好きでいつも縄跳びをしています。隈庄小学校にもあるでしょう? 縄跳びの時、跳躍しやすいような跳躍板が。それを使って、2段跳びが30回位できると言っていたのです。私たちに「見て」と言いますので見ていると、その日は調子が悪いらしく何回跳んでも10回前後でひっかかってしまいます。後では、妻はあまり見てはいませんでしたが、20回くらい跳んたときに、「うわぁー、すごい」と妻が言いますと、孫娘は、「あまり見てもいないでそんなこと言わないで」と言うのです。自分では、よく頑張ったと思っていないものを褒められても嬉しくないのです。
 私の2段跳びの記録は、71回です。それで、孫に「おじいちゃんは71回跳べたぞ。おじいちゃんの記録ば破ってみ」と言うと、「うん」と言って何度も挑戦します。できたのです。100回跳べました。疲れでへたり込んでいます。「うわぁー、すごいぞ!」と抱き上げ、褒めました。そのときのうれしそうな表情。
 「啐啄同時」という言葉があります。鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで、殻が破れて雛が産まれるのです。このことを「啐啄同時」といいます。人は自分が一生懸命がんばったことを認めて欲しいと思っている時、それを逃さずに周りから認められ、褒められた時はとてもれしく思います。
 だから、目を離してはいけないのです。子どもの成長や変化を見逃さないために。
 ところが、私たちは早く離さねばならない手をいつまでも離さないで、離してはいけない目は離してしまっていることが多いようです。
 私が、益城町で社会教育指導員をしている時のことです。公民館講座の受け付けに、2~3歳くらいの幼児を連れて若いお母さんが来ました。受付が終わってその親子が帰る時、お母さんは娘さんに「はい、あんよを出して」と言って、靴を履かせて帰りました。それからしばらくして、おじいさんが同じくらいの年格好をした孫を連れて来ました。帰る時、「○○、靴は自分で履ききっど。自分で履け」と孫に言ってじっと見ています。少し時間はかかりましたが、自分で履いて立ち上がりました。「あらあら、右と左を反対に履いたね。よかたい。歩かるるけん」と帰って行きました。
この小さな子ども二人、どちらが生きて働く力がつくでしょうか?
 私の孫は、二人とも小さい頃、何でも「自分でする」と言ってなんでも自分でしようとしていました。皆さんのお子さんたちもそうだったでしょう。ところが、いつの間にか自分ではしなくなってしまいました。
 今日は終業式です。おそらく上履きなど持って帰ったことでしょう。上履きはお母さんが洗いますか?お子さんに洗わせますか?
 1・2年生のお子さんに自分で洗わせていらっしゃる方?(数名挙手) すごいですね。
 きれいに洗えますか? きれいには洗えませんよね。でも、いいんです。きれいに洗えなくとも。靴の底に土などがついていなければ。靴で一番洗いにくいところは、つま先の所ですね。自分で洗っているうちに洗い方も覚えますよ。
 「目を離す」これが多いんですよ。先ほど紹介いただきました社会教育課で仕事をしている頃、警察関係の方と青少年問題について話をしていました。その中にこんなことがありました。
 深夜徘徊で、補導した少年の家に引き取りに来るよう電話すると、「うちの子は今2階の自分の部屋で勉強している。よその家の子だろう」と、警察の言うことを信じない保護者がいる。「だったら、2階の勉強部屋をのぞいて確かめて下さい。」と確かめてもらって初めて子どもがいないことに気づく親がいると。この話に出てきた少年は、2階の窓から、木を伝って下りて熊本市内に遊びに行っていたのです。これなど目を離している典型的な例です。
 お子さんから「手を離して、目は離さない」ことをいつも意識して欲しいと思います。
 新潟県に上越教育大学があります。そこの名誉教授である新井郁夫先生は、北陸地方の公民館やカルチャーセンターで学んでいる人たちに聞き取り調査をしました。その結果、「小学4年生から中学2年生にかけて認められ、褒められた経験が多い人ほど自己実現を実感し、自己肯定感が高い人に育っている」ことが分かりました。
 小学校高学年から中学生という時期は思春期ですね。心が揺り動く時代です。指示待ちから自分で考え行動する自立型になっていく時代です。この時期は、暗中模索の中での行動ですからいつも正しい考え方や行動をとるわけではありません。そのような中で自分の行動が大人から褒められ、認められることは、自分の存在や行動を肯定されたことです。これが自己評価が高まることへ繋がり、自己肯定感が強化されます。そして、自尊感情がはぐくまれるのです。
 子ども達を認め、褒め励まし、伸ばしましょう。と同事に、間違った言動は、厳しく叱りましょう。そして、子ども達の自尊感情をはぐくんでいきましょう。
 今朝、仕事に行く途中、カーラジオを聞いていると、「今日から夏休み子ども科学電話相談が始まります」と言っていました。回答者の一人の方が「この夏、不思議にいっぱい触れて下さい。不思議に思ったことを自分で調べたり、周りの人に聞いたり、電話相談で相談したりして下さい。一つの不思議が解決すると、それから又新たな不思議が生まれてきます。それが学習です」と言っていました。
 資料に付けています「駅から徒歩3分」を読みます。


                   駅から徒歩3分

 家族で旅行に出かけたときのことです。
 高速道路を走る車の中で、小学校6年生の子どもが、「お姉ちゃん、『速さと時間と道のりの関係』って知ってる?」と聞きました。
 高校1年生の子どもが、「あったりまえやん、知ってるに決まってるわ。」と答えると、妹は、「私、この前、算数で習ったんや。」と、自慢げに話を続けました。
 「○○まで行くのでしょ?さっき『○○まで250km』って表示が出ていたけど、いったい何時頃着くのかな?ちょっと計算してみようっと!今、時速80kmで走っているので…。ちょっと、紙とペンない?貸して。」と言い、妹が計算を始めました。
 「250÷80で3.125か…、わ~あ、あと3時間以上もかかるんだ。お姉ちゃん合ってる?」
 姉が、「へ~え、ちゃんとわかってるやん。」と言うと、妹はとてもうれしそうでした。
 高速道路を降りてからも、妹は勉強してわかったことのうれしさから、案内看板や道路標識にある数字をすべて『速さと時間と道のりの関係』に当てはめるのです。
 「ほら、あそこに『コンビニまで車で6分』って書いてるよ。どれくらい先にあるのかな。今、時速40kmくらいで走っているので…。40×6で240kmか、あれっ、240mか…お姉ちゃん、どっち?」
 「違うってば、40は時速で、6は分だから、6分を60で割って、単位を時間にそろえてから掛けるの。だから、4km先ってことよ。まあ、時速40kmは、60分に40km進むということだから、6分だったら4kmって、すぐにわかるけどね。」
 「あっ、そうか…、えへへっ、ちょっと間違っただけや。」と、こんな調子で二人は、『速さと時間と道のりの関係』の計算に夢中になりました。
 そのうちに妹がこんなことを言い出しました。
 「あそこに『駅から徒歩3分、近い!』って、書いてあるよ。でもあれは誰が歩いて3分なのかな。お姉ちゃんと私の歩く速さは同じじゃないし。それに、おばあちゃんだったら杖をついていて速さはゆっくりだから、3分では無理じゃないかな。だって、この前、おばあちゃんと本屋さんまで歩いて行ったとき、結構時間かかったよ。私ひとりなら5分もかからないけれど、おばあちゃん、ふーふー言って歩いていたもの。」
 「車椅子で移動する人なら、『徒歩5分』と書かれていても、わからないのとちがうかな。お姉ちゃん、そう思わない?」
 「う~ん、確かにそうだねえ。」と、うなずく姉でした。
 目的地までの案内にもいろいろな表記があることに気づき、見たこと感じたことを次から次へと話し、会話が途絶えません。
 私は、子どもたちの様子を見ながら、案内表示からいろいろな人の状況を想像し、想いを巡らせていることをうれしく思いました。そして、誰にとってもわかりやすく、正しく伝えることができるように案内することは難しいけれど、とても大切な視点であると改めて感じました。

 どうですか?
 この文からも分かるように、不思議は私たちの周りにはいくつもありますね。この夏、お子さんたちにたくさんの不思議に触れさせて欲しいと思います。
 と同事に、この文は、「案内表示からいろいろな人の状況を想像し、想いを巡らせていることをうれしく思う」「誰にとってもわかりやすく、正しく伝えることができるように案内することは難しいけれど、とても大切な視点」と人権尊重の視点も示しています。
 人権感覚について考えてみましょう。
 いきなりですが、レジュメの空いているところに「コップ」の絵を描いてみましょう。
 (二人に描いてもらう)

すばらしいコップの絵を描いていただきました。ありがとうございました。
お尋ねします。
Aさんと同じようなコップの絵を描いた方手を挙げてみて下さい。(大多数挙手)
 Bさんにちかい絵を描いた方、手を挙げてみて下さい。(20~30名挙手)
 ビールのジョッキのようなコップを描いた方もいらっしゃるようでした。

Aさんのコップ Bさんのコップ

 私は「コップの絵を描いてみましょう」と言いました。しかし、受け止め方にこんなに違いが出ています。同じことを聞いてもみんなが同じ受け止めをするとは限りません。
 日常会話の中で、話がかみ合わないことがありませんか?
 自分は水飲み用コップの話をしているのに、相手はコーヒーカップの事を考えて聞いているなら話がかみ合わないはずです。受け止め方に違いがあることを前提に丁寧に話し合わねばなりません。
 人権啓発も同じです。ですから啓発は「これだけやったからもうよい」と言うことはないのです。
 しかし、皆さんが描いたコップに共通するものがあります。
 何でしょうか?
 そうです。ほとんどの方が上向きのコップを描いています。心のコップもいつも上向きにしておきたいものです。
 次に魚の絵を描いてみましょう。
 (左を向いている魚を描いた人に描いてもらう)

すばらしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。
Cさんと同じように左向きの魚の絵を描いた方、手を挙げてみてください。(ほとんどが挙手)
右向きの魚を描いた方、手を挙げてみて下さい。(2名挙手)
すばらしいですね。訳は後で話します。
Cさんの魚

 この魚の絵も、私は「魚の絵を描いてみましょう。」としか言いませんでした。「左向きの魚の絵を描きましょう。」とは言っていません。にもかかわらずほとんどの方が左向きの魚の絵を描きました。
 こんな事が起きるのは一体、どういうことなのでしょうか?
(会場から、「料理の時の魚は左向きにします」という声が聞こえる)
 そうですね。料理では魚は左向きにだしますね。ある研修会では、板前さんから、「魚は左向きと昔から決まっている」と言われたことがありました。料理に出る魚や図鑑で目にする魚の絵や写真のほとんどが左向きです。図書館等で魚の図鑑を見てください。9割近くは左向きの魚です。それらを見て、私たちは空気を吸うが如くいつの間にか知らず知らずのうちに「魚の絵は左向き」を学習しているのです。
 これを刷り込みと言います。
 5月の鯉幟の絵もほとんど頭は左を向いています。そんななかで、右向きの魚を描いた方は、自分の見方を持っていらっしゃるのですばらしいと思うのです。
 皆さん、カラスについてプラスイメージを持っていらっしゃる方、挙手してみて下さい。(挙手無し)
 マイナスイメージを持っている方は?(大勢が挙手)
 私も皆さんと同じようにカラスに対してマイナスイメージを持っていました。小さい頃、田んぼ一面にカラスが舞い降りて落ち穂などを突いているのを見たりカラスの鳴き声を聞くと、「今日は良かこつは無かバイ」などと言っていました。
 私たちはカラスの羽の色が黒いということでカラスは縁起が悪い鳥と決めつけているのではないでしょうか。本当にカラスって縁起が悪い鳥でしょうか。
 皆さんは野口雨情が作詞した「七つの子」という童謡を歌った記憶があるでしょう。
 帰ってから、「七つの子」の歌詞を思い出してみて下さい。
 黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは「不吉な鳥」として嫌われてきました。そのカラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現したです。「黒い色=不吉」と決めつけていることのおかしさを、野口雨情は私たちに訴えているように思います。
 この刷り込みが思い込みとなり、それにマイナスイメージが重なると偏見となることがあります。
 魚の絵を左向きに描こうが右向きに描こうが、カラスに対するイメージがマイナスであろうが、これは直接差別にはつながりません。しかし、この刷り込みが時として偏見となり、差別につながることがあります。
 「同和地区の人は怖い」と聞くことがあります。「怖い目にあったのですか?」と聞くと「自分は怖い目にあったことはないが、誰でん言いよる」と返ってきます。「私が知っている地区の人たちは優しい人ばかりですよ」と返しますが、自分で真実を確かめもせずに周りが言うからそうだと思い込んでしまう。これが偏見です。差別をしていることです。
 「部落は怖い」とか「自分たちとは違う」など、根拠のない偏見からつくりだされた間違った社会意識が刷り込まれ、同和地区に対する偏見やマイナスイメージが心の奥底に潜んでいることが多いのです。そしてそれがなかなか払拭されていないのです。
 ですから、同和問題について正しく学び、正しく理解して、心の奥底に潜むマイナスイメージを払拭することが求められているのです。
 「理性や判断力はゆっくりと歩いて来るが、偏見は群れをなして走って来る」という言葉があります。正しく学び、正しく理解し、心の中にある偏見を少しでも取り除いていきましょう。
 子どもたちに情動体験の機会を数多く持たせ、自尊感情を醸成しましょう。
 ここ火の君文化センターに来る時、「城南町花火大会 7月23日」という看板を見かけました。23日に花火大会があるのですね。
 花火大会という言葉を目にしたり耳にしたりする度に思い出す光景があります。画図湖であっていた花火大会でのことです。2・3年生の子がお母さんと一緒に花火を見ていました。「うわぁー、きれいか!」「うわぁー、音のふとか!」と親子で感動を体いっぱい表しています。尺玉という花火は音も大きいですが、大空に大輪の花を咲かせとてもきれいですね。少し、移動すると、同じような親子連れがいました。子どもは先ほどの子と同じように「うわぁー、きれい!」と跳び上がらんばかりに感動を表現しています。お母さんは、「せからしか!黙って見きらんとね!」と叱っています。子どもはしゅんとなりました。
 どちらの子どもが花火を見た感動は大きいでしょうか?感動は、一人より二人、二人より三人で共有すると増幅されます。素直に感動を表現したいものです。
 この感動する感性、共感する力が人権感覚を育みます。
 時間が来ましたが、終わりにもう一つ。
 皆さん、お子さんに声をかけている時、「○○してはいけません」「○○しなさい」「○○はダメ」など、「禁止」「命令」「否定」の言葉をかけてはいませんか?この「禁止」「命令」「否定」の言葉かけでは、自尊感情は育ちません。「禁止」ではなく行動の「ヒント」、「命令」ではなく「促す」、「否定」ではなく「肯定」の言葉かけをしましょう。
 終わりに桑原律さんの「だめっこはいない」を一緒に読みましょう。桑原さんは、岐阜県で人権啓発をしていらっしゃる方です。しばらく黙読して下さい。
 では、一緒に読みましょう。


    だめっこはいない
                      桑原 律

  この子はだめな子ね
  そう言われて
  未来への夢を失いました
  あの子はだめな子ね
  そう言われて
  希望を失いました

  「学力が低いから」
  「動作がのろいから」
  「黙っている子だから」
  「からだに障害がある子だから」
  「母子家庭の子だから」
  「生まれがちがうから」

  さまざまな理由をならべ
  「だめっ子」扱いをすることは
  人間としての存在を否定すること
  だれにも無限の可能性があり
  だれにも未来への夢があり
  自らの人生への希望がある

  それぞれの良さを見つけ
  おたがいに励ましあってこそ人間
  それぞれの個性を認め
  おたがいに支えあってこそ人間
  「だめっ子」は一人もいない
  「だめっ子」はどこにもいない

   ヒューマンシンフォンニー「光は風の中に」より

 ありがとうございました。
 時間の都合で触れなかったことがいくつかありました。「人権教育を通じて育てたい資質・能力」「自尊感情について」は後ほど目を通してください。
 隈庄小学校PTAが、そして子ども達がさらなる「豊かな人権感覚」をはぐくむことを祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。