自他の人権を尊重し、明るく働きやすい職場づくりのために
平成22年7月31日
合志市“ヴィーブル”


 みなさん、こんにちは。中川でございます。よろしくお願いします。
 ただいま、「中川ありとし」さんと紹介していただきました。
 私の名前を「ありとし」と読む方はほとんどいません。そこでプロフィールには「ありとし」と読み仮名をつけています。
 私がある学校に赴任したとき、「中川です。よろしくお願いします」と校長室にあいさつに行きました。校長先生は私の顔を見ながら「あたはほんなこて中川先生な?うわぁー私ぁ女の先生とばかり思って『今度、女の先生が来る』って紹介しとったつに。男の先生な」とおっしゃいました。校長先生は「ゆうき」または「ゆき」と読まれて女性と思われたのだと思います。
 今年、67歳ですが、今でも幼なじみや同級生からは「ありちゃん」とよばれています。
 「有」という文字は、上に「保」という文字を付け加えると「保有する」と言う熟語ができるでしょう。「有は保つ」という意味があります。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味がありますね。そこで、「紀(年)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて名付けたと父の思いを聴きました。父の思いに応えようと努力していますが、なかなか年相応の人間になることはできません。私の生涯の課題です。私はこんなすばらしい名前を付けてくれた父に感謝しています。父を尊敬し、敬愛しています。
 みなさんもお子さんやお孫さん誕生のとき、家族それぞれの思いを込めて名前をつけられたと思います。その思いをお子さんやお孫さんに語って下さい。2年生くらいまでの小さいお子さんは膝に抱っこして、目を見つめ、お子さん誕生の時の感動を思い出しながら、名前に込めた親の思いを語って下さい。高学年のお子さんは手を取って、目を見つめて節目節目に語って下さい。
 お子さんやお孫さんは自分の名前に誇りを持つと思います。名前に誇りを持つことで自分自身に誇りを持つようになります。これが自尊感情の醸成につながります。自尊感情とは一口で言えば「自分が好き」という感情です。自分が好きと言うことは他人も好きにつながります。
 人権教育に限らずこの自尊感情は社会で生きていくうえでとても大切なものです。
 本日は、みなさんと人権問題について考えるわけですが、この部会は企業部会ですのでテーマを「自他の人権を尊重し、明るく働きやすい職場づくりのために」としました。 
 本日の人権教育研究大会が第5回目ということですので、みなさんの中にはもう何度も人権問題研修会に参加された方もおいでと思います。また、本日が初めてという方もおいでかもしれません。数回参加していらっしゃる方は自分の人権意識を温め直す気持ちで、初めての方は自分の人権意識を見つめ直す気持ちでお聞き願えればと思います。
 早速、みなさんにお聞きします。これから私が聞きますことに思い当たることがあると言う方は心の中で挙手してください。
 本日は女性はお一人ですが、「女のくせになんだ」といわれませんでしたか?
 「女は入れてあげない」と遊びにかててもらえなかったことはありませんでしたか?
 また、こんなことを言ったことはありませんでしたか?
 「チビ」「ノッポ」「デブ」「ヤセッポチ」「ブス」などと言われたことはありませんか?
 あなたがこうしたことを言ったことはありませんか?
 「どこの学校へ行っているの?」と聞かれて、「○○学校」とこたえたら、「なんだ、○○学校か」と言われたことはありませんか?
 「子どものくせにだまっていなさい」と言われたことはありませんか?
 あなたがおじいさんやおばあさんに「としよりのくせに」と言ったことはありませんか?
 体の不自由な人をからかったり、笑ったりしたことはありませんか?
 同和地区に生まれた人たちの悪口を言ったり差別の目を向けている人はいませんか?
 職場の中で、男性と女性分け隔てはありませんか?
 いかがでしたか? あてはまることがいくつかあったでしょう?私はいくつもあります。
 差別することはよくないことです。これは、誰もが知っていることです。
 では、差別とはどのようなことでしょうか。
 差別についてきちんとした知識をもっていないと、あなたが誰かを差別しても差別していることに気づくことができません。
 また、誰かにあなたが差別されても差別されていることに気づくことができなくなるのです。
 差別とは、命と人権が傷付けられることです。差別とは、自分の力ではどうすることもできないことで不利益を被ることです。差別とは、みんなが同じではなくなることです。
 人をばかにしたり、仲間はずしをしたり、いじめることは差別です。
 今お聞きしたことはすべて人権問題です。
 人権とは、人が尊厳を持って生きるために、社会から保障されるべき権利です。
 人権問題は、差別される側の問題ではなく差別する側の問題です。
 私たちの権利が守られるためにも、互いの人権を尊重するためにも、様々な人権課題に関心を持ち、学び、理解を深め、相手の立場に立って判断し、差別をなくすために行動することが大事です。
 そこに示していますように様々な人権課題があります。
 「女性の人権」「子どもの人権」「高齢者の人権」「障がい者の人権」「同和問題」「外国人の人権」「水俣病をめぐる人権」「ハンセン病回復者等の人権」「感染症 難病等をめぐる人権」「犯罪被害者等の人権」「インターネットによる人権侵害」などです。
 この中でも、熊本県では3つの人権課題として、「同和問題」「水俣病をめぐる人権」「ハンセン病回復者等の人権」があります。
 同和問題とは、部落差別に関わる問題です。同和問題については、さきほど西光寺副住職清原髏驍ウんが「人の世に熱と光を」と題して「間違ったものさしが差別を生んでいる。人間解放とは、間違ったものさしに縛られている自分自身を解放すること。水平社とは、人間を人間と思わない人間を救う運動。」などの話がありましたので、同和問題については割愛します。
 ハンセン病問題について考えてみます。皆さんの中には、菊池恵楓園でハンセン病問題を学ばれた方もおいででしょう?
 ハンセン病は、かって「らい病」とよばれていました。今から130年ほど前にこの病気の原因である「らい菌」を発見したノルウェーの医師ハンセンの名前を付けてハンセン病とよばれるようになりました。
 ハンセン病は、この「らい菌」が皮膚と神経を侵すので、痛みなどが感じられない感覚麻痺などがおこり、怪我しても気づかなかったり、化膿したりして、手足や顔などに変形が生じてそれが偏見や差別につながってきました。
 「らい菌」は感染力が弱く、今の日本の衛生状態や栄養状態を考えると感染しないということです。しかし、人々はうつる病気と思い込み、感染への恐怖が偏見となり、差別をうんできたのです。
 龍田寮事件というのがありました。親がハンセン病にかかっている子どもたちが龍田寮で生活していました。その子ども達が黒髪小学校に入学するとき、PTAが龍田寮に住む子ども達の入学を拒否した事件です。ハンセン病が我が子にうつることは阻止しなければならないという親の思いからの入学拒否事件です。
 このころは既にプロミンという薬が開発され、ハンセン病は治る病気だったのです。しかし、このことが啓発されていなく、当時の人々がハンセン病は怖い病気、うつる病気と思っていたから起きた事件です。
 このことからも物事は正しく学び、正しく理解することの大切さを私たちに教えています。
 水俣病問題について考えてみます。
 7月15日の熊日新聞を見てみなさんも驚かれたことでしょう。サッカーの試合中に中学生が「水俣病、触るな」と差別発言をしたとありました。みなさんもこの記事を目にして心を痛めていらっしゃることと思います。
 読んでみます。
 水俣市の中学生が6月上旬、県内の他市の中学校とのサッカーの練習試合中、相手側の生徒から「水俣病、触るな」と差別的発言を受けていたことが、14日分かった。
 両市の教育委員会などによると、試合の接触プレー中に、一人の生徒が発言したという。試合直後、水俣市側の監督からの指摘を受けて、チームの関係者全員がその場で謝罪。その後、校長や教育長らが水俣市を訪れ謝罪したほか、中学校の保護者集会で水俣病に関する講話を聞いたり、教職員らを集めた市教委主催の研修会などを開いた。
 同校の校長は「今回の出来事は、生徒に対し水俣病の表面的な知識しか伝えきれていなかった我々教師の責任」と話し、8月には同校の教諭らが水俣市を訪れ、水俣病の現地学習に取り組む予定。
 一方、水俣市の葦浦博行教育長は「差別発言は残念、今後、小中学生が水俣病を正しく理解できるよう県全体で取り組んで欲しい」と話した。
 また、県教委人権同和教育課の永田哲郎教育審議員は「県教育事務所の担当者を集め、水俣病教育に関する再点検を要請した。これまでの取組で不十分だった点を改善したい」と話している。
 水俣病に関する学習は各学校で取り組まれています。校長先生は「生徒に対し水俣病の表面的な知識しか伝えきれていなかった」と話しておられます。生徒は知識としては学んでも、それが意識となり、行動に結びついていないのです。だから、このような差別発言が出てきたと思います。
 このことをお配りしています「人権の畑を耕す」に記しています。
 読みます。一緒に読んでください。
 人権の畑を耕す
 人権問題講演会、研修会は数多く行われ、熱心な活動がみられます。ところが、一歩、研修会、勉強会の外に出ると、これらの知識がすべて「頭の中」にしまい込まれがちです。意識ではなく知識になってしまうのです。つまり、人から指摘されるか、何かのきっかけがあって、初めて「頭の中の教科書」が開かれるという状態になってしまうのです。人権意識が感覚の一部になっていないから、目の前で人権侵害が行われても、気付かずに通り過ぎてしまいかねないということです。
 そのようなことでは、いくら熱心に学んでも、人権感覚が普遍化しません。人々の中に人権に関する知識がどんどん広がっても、それが意識として芽を出さなければ、社会に人権尊重意識は広がりません。必要なのは、一般社会の隅々に、人権問題を同じ人間のこととして受け入れられる「下地」が形成されるということです。
 「下地」、つまり「人権の畑」を耕すことです。すばらしい知識の蓄積がありながら、社会の人権意識が貧弱なのは、人権に関する知識が人権意識となって芽を出す畑がないからです。「他人にぶつかっても知らん顔」のような、「われ関せず」がまかり通っている状態は、とても「人権の畑」が耕されているとはいえません。自分は差別していないと思っても、この世の中には差別されている事象があり、差別する行為があり、被差別者がいるということを、何かにつけて意識できることが、差別を自分の問題、人権を同じ人間の問題として考える基礎になるのです。「人権の畑」を耕すことにより、人の心に「差別をしない」という本物の意識を育むのです。「差別をしない」ということが、知識ではなく意識として身に付くことが重要なのです。
 「人権の畑」は、誰かの号令で一斉に耕すものではありません。一人ひとりの人間が泣いたり笑ったり、滑ったり転んだりする、日常的な生活の中で形成されるものです。人権問題に関して「おかしい?」と感ずるきっかけは、人間が人間らしく生きたいという当たり前の状態が損なわれていないかどうかです。目の前の他人を、自分のことと同じこととして考えられることが大切です。習うより慣れ、それが人権の畑を耕す基になります。繰り返し、何かにつけて「あれっ?」と思う発想を試みなくては、慣れになりません。そのことにより、人権の畑が耕され、人権意識の芽が育まれるのです。(人権に関する学習のすすめ方(国立教育会館 社会教育研究所)より)
 中学生が水俣病について学んだ知識を「頭の中」にしまい込まずに、人権の畑を耕し、知識を畑にまいていたら人権意識の芽が出て、人権感覚となり、差別発言はなかったと思います。 
 差別しないということが、知識ではなく意識として身に付くようにしたいと思います。そのために、「おかしぅはなかな?」立ち止まって考えるくせを身につけたいと思います。これが人権の畑を耕すことであり、豊かな人権感覚を育むことになると思います。
 皆さんの中には、水俣病の語り部、杉本栄子さんの話を聞かれた方もおいでと思います。杉本さんは平成20年に亡くなられました。杉本さんは水俣の網元の家に生まれた方です。お母さんが、突然、けいれんを起こし病院に運ばれ、ラジオで「マンガン病」と放送されたそうです。当時は原因が分からず「その病気はうつる。」と誤解されたため、村の人は誰も家に寄りつかなくなり、雨戸に石を投げられることもあったそうです。あいさつしても無視され、「道を歩くな」とも言われ、親戚の人たちにさえ「この恥さらしが」となじられたそうです。
 「水俣病は伝染する」という誤解から、水俣病患者さんばかりでなく水俣出身の人々も様々ないやがらせを受けたり結婚や就職が断られるなど厳しい差別がありました。
 水俣病は、みなさんご存じのようにチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀化合物による中毒性の神経疾患です。
現在は、住民や行政、関係機関の努力によりその発生原因が明らかにされ、同じ過ちを繰り返さないために、広く啓発が行われ、水俣病に対する理解が深まってきました。そう思っていたのですが、中学生が水俣市の中学生に対して差別発言をしているのです。
 再度申します。学んだことを知識として頭の中にしまい込んでいては差別はなくなりません。人権に関する知識を人権意識とし、人権感覚を豊かにし、差別のない社会づくりのために行動に移すことが大切です。
 21世紀は人権の世紀といわれています。平成8年、地域改善対策協議会意見具申の中で「21世紀は人権の世紀とよぶことができる」と記述されて、21世紀は人権の世紀とよばれるようになりました。
 今年は2010年です。21世紀になって10年が過ぎましたが、21世紀は人権の世紀となっているでしょうか。いじめや児童虐待、結婚や就職差別事件など後を絶ちません。
 21世紀が人権の世紀と言えるように、そして働きやすい企業、住みよい地域づくり・心豊かな生活ができますように、私たちにできることを考えてみましょう。
 私たちにできることは、「差別しないということが、知識ではなく意識として身に付くようにすること」、そして「おかしぅはなかな?と立ち止まって考えるようにすること」だと思います。
 私は、6月末ウズベキスタンへ旅行しました。そのとき、現地案内人マリカさんと言う人が私たちにこう尋ねました。
 「みなさんの中で、『ウズベキスタンに行く』と言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうですか?危険な国と思いますか?」
 実は、私は知人から「危ない国には行かない方がよかバイ」と言われたのです。知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という連れ合いに「危険地域だからウズベキスタン旅行は止めよう」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、連れ合いはどうしても行きたいと言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。問題ありませんという返事です。外務省にも問い合わせました。外務省からは、個人旅行する人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょうとのことでした。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで、人々はとても明るく治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報をそのまま信じて「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。
 これからはお配りしていますワークシートを使って人権感覚について考えてみましょう。

 女性の絵を見て下さい。二人の女性の顔が見えますか?
 一人は高齢の女性、もう一人は若い女性です。
 お年寄りの女性に見える方?(挙手あり)
 若い女性に見える方?(挙手あり)
 なに、二人に見える? 私には一人しか見えないという方?(挙手少数)
 一人しか見えない方は、二人見えるという方に教えてもらってください。
 この絵を見てみなさんに考えて欲しいことが、二つあります。

 一つは、出会いの大切さです。見てすぐに若い女性と見えた方はお年寄りの女性に見えるようになるにはにかなり労力がいるでしょう。その反対もそうです。人との出会いでよい出会いをすると、よい関係ができます。あまりよくない出会いであればその人の良さを見つけるのにかなり時間を要すると思います。会社に新入社員が入ってきたとき、その人とよい出会いができるよう会社ではいろいろ苦心されるでしょう?転勤で職場が変わると、新しい職場の人との出会いを大切にされるでしょう?私たちは出会いを大切にしたいと思います。
 二つは事柄には表裏の2面があることです。片方に注目すればもう一方が見えにくくなることがあるということです。物事には、見える領域があれば見えない領域もあります。
 人権問題も同じで、「差別は社会問題だ!」と強調しすぎると「差別は人間個人の課題でもある」ということを忘れがちになりますし、反対のことも生じます。人権問題の解決は社会問題であると同時に個人の問題でもあるのです。だからこそ、合志市では人権教育研究大会が開催されています。それも、就学前部会、学校教育部会、社会教育部会、企業内教育部会、進路保障部会の5分科会に分かれての研修会です。本日みなさんは、こうして企業内教育部会に参加していらっしゃるのです。所属企業などから要請されて参加された方、自ら進んで参加された方がいらっしゃることと思います。
 次は、魚の絵を描いてみましょう。(各自、自由に描く)
 どなたかここ(ホワイトボード)に描いて欲しいのですがどうですか?(挙手なし)
 私が指名した方に描いてもらいます。(左向きの魚を描く)
 とてもすばらしい魚の絵を描いていただきました。ありがとうございました。
 私が大急ぎでみなさんの画を見て回りましたところ全員が○○さんと同じように左向きの魚を描いていました。
 右向きの魚を描かれた方はいませんでした。いらっしゃいませんね?
 私はみなさんに「魚の絵を描きましょう」と言いました。「左向きの魚を描きましょう」とは言いませんでした。でも、全員が左向きの魚を描かれました。
 私はいろんな研修会場で魚の絵を描いてもらいますが、どの会場も、左向きの魚を描く人が圧倒的に多いです。どうしてでしょうか?(「料理では魚は左向きにして出す」「左向きが描きやすい」という声が聞こえる)
 そうですよね。尾頭付きの魚は左向きですよね。魚の図鑑などで私たちが目にする魚の写真や絵はほとんどが左向きです。
 5月のこどもの日の鯉のぼりの絵はどうでしょうか? やはり、左を向いていますね。つまり、私たちは毎日の生活の中で空気を吸うがごとくに無意識のうちに「左向きの魚」を学習しているのです。
 宮崎県は口蹄疫問題で揺れ動きました。牛を飼っている畜産農家の方々へ思いをはせると心が痛みますが、牛の姿を思い浮かべてください。
 お尋ねします。
 あか牛を思い浮かべた人?(3割程度)
 黒牛?(2割程度)
 白黒のホルスタイ?(半数程度)
 阿蘇で聞いたときは、全員があか牛でした。天草では、くろ牛が多く、熊本市周辺ではほぼ3分の1ずつでした。私は、白黒のホルスタインをイメージします。
 どうしてこんなに違った牛の色をイメージするのでしょうか?
 私たちは小さい頃から見ていた牛の姿がすぐに思い浮かびます。魚の絵といい牛の色といい、私たちは子どものころから、空気を吸うように「○○は○○」と無意識のうちに身につけています。これを刷り込みといいます。
 「息子よ、息子!」という文を読んでください。
路上で、交通事故がありました。大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。
父親は即死しました。息子は、病院に運ばれました。
彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。
 どうですか。話がすとんと胸に落ちましたか?
 この話はどうもおかしかと思う方いらっしゃいませんか?
 外科医は、この息子の何にあたるでしょうか?(「父親と思うが父親は即死。何にあたるかな?」「母親」などの声が聞こえる)
 父親は即死とあるので、父親ではありませんね。母親としたらどうでしょうか?
 母親だったらすとんと胸に落ちますね。そうすると外科医は女性ということです。外科医は男性と思い込んでいるとこの話は胸に落ちません。
 職業などにも「○○は○○」という思い込みがありますね。
 魚の絵や牛の色に関することで、「○○だ」との刷り込みがあったとしても社会問題とはならないでしょう。しかし、この刷り込みが、思い込みとなり、時として社会的偏見となり、差別につながることがあるのです。
 「同和地区の人は怖い」などの声を聴くことがあります。「怖いめにあったのですか?」と聞くと、「怖い目にあったことはなかバッテン誰でん言いよる」と言います。これが、社会が作り出した偏見であり、それにもとづく差別です
 それによって、苦しみ、悲しみ、憤るなど心を痛めている人がいることを忘れてはなりません。後でも触れますがみんなが言うからとそのまま受け入れることではなく、「そうかな?」と立ち止まって考えてみることがとても大切す。
 六曜については、清原さんが詳しくお話しされましたので割愛しますが、清原さんが訴えておられたように世間体にとらわれない生き方をしようではありませんか。
 次に、相手の立場や気持ちを考えたコミュニケーションを大切にすることについて考えてみましょう。
 お手元にお配りしています言葉や表現方法について、どの程度差別的表現が含まれているか考えてみて下さい。(各自5分程度考える)
 言葉には、もともとの意味に加えて、誰が、誰に対して使うのか、歴史の中ではどのように使われてきたのかによって、イメージが変わることがあります。また、差別的かどうか、その程度の受け止め方には、人によって違いがあります。このことを理解して、相手の気持ちを考え、自分の真意を正しく伝える努力が大切です。
 逆に、相手の言葉に対しては、その真意を正しく理解する気持ちも必要でしょう。
 そのことを踏まえて上で言葉と表現を見てみましょう。
 「父兄」という言葉はどうでしょうか?
 ほとんどの方が、「含んでいる」と思っていますね。これは、戦前の家父長制の名残や男性社会を示す言葉ですね。学校では保護者と言っていますね。今、父兄という人はほとんどいないと思いますが、時々、テレビや新聞、雑誌などでこの言葉を聞いたり目にしたりすることがあります。まだまだ、啓発が必要です。
 「良妻賢母」はどうでしょう?
 「分からない」に○を付けた方も多いようです。皆さんは「3従の教え」という言葉を聞いたことはありますか?「家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫死しては子に従う」というものです。これは男性の側から女性を見て、「女性ははこうあって欲しい」「こうあらねばならない」という願いで、男性を立てて、子育てをし、自分を犠牲にする生き方を言っています。女性蔑視と感じる人が多いですね。
 「片手落ち」はどうですか?
 身体の一部を使った言い表し方がたくさんあります。「手短に」もそうですね。身体の一部を使った言葉の中には「不快」や「差別的響き」を感じる場合があります。「舌足らずな説明」など説明不足をこのような表現をすることはおかしいことですね。
 「らい病」はどうでしょうか?
 先ほど説明したように、かって「らい病」は公的な使われ方をしていましたが、現在では差別語です。「ハンセン病」と言っていますね。
 「知的障がい」はどうでしょうか?
 「精神薄弱」という言葉が不快感を与えるなどの議論があり、それに代わる言葉として「知的障がい」が使われています。
 「同和」はどうでしょうか?
 「同和」の人といったように差別的に使われてきた経緯があります。「同和」という言葉を単独で使用することは差別生を含む表現として不適切です。「同和問題」「同和教育」などのように複合語として使います。
 同和ということばは、昭和天皇即位の際の詔勅の中に出てくる「人心惟同しく民風惟和し」から生まれたと言われています。「家柄や血筋、社会的身分の別なく、国民は等しく、慈しみあわねばならないという発想に基づくもの」と言われています。
 「文盲率」はどうでしょうか?
 字が読めない、書けないことを目が見えないことに例えています。目が見えなくとも様々な手段で読み書きが出来る人は多いですね。「非識字率」という言葉を使います。
 「痴呆症」の「痴呆」の意味や感じ方が不快であることから「認知症」という言葉を使っていますね。
 「と殺場」の「と殺」は差別語です。「殺す」という言葉から職業差別につながる響きがあります。「と場」とか「食肉処理場」という言葉が使われています。
 「バカチョンカメラ」はどうでしょうか?
 「バカチョンカメラ」の言葉で次のような話を聞いたことがあります。韓国旅行をした人が、使い捨てカメラを取りだして、近くにいた韓国の人に「これで写真を撮ってください」と頼んだとき、韓国の人が「どうすればよいですか」と聞きました。「このカメラはバカチョンカメラですからこのシャッターを押すだけです」と言ってにこにこしながら写真を撮ってもらったそうです。ところが写真を撮った韓国の人は目にいっぱい涙をため、体が震えていたそうです。観光旅行に韓国に行った人はこの「バカチョンカメラ」が差別語、韓国や朝鮮の人を差別する言葉とは知らなかったのです。
 皆さんはご存じでしょう。「バカ」は「馬鹿」、「チョン」は「朝鮮半島の人々」を指し、それらの人々に対する蔑視的表現で差別語という意見があります。「使い捨てカメラ」また、「インスタントカメラ」と言った方がよいでしょう。
 「外人」は「害人」を思い起こさせると言うことから蔑視的響きを感じる外国人が多いそうです。ただ、「外人墓地」となると響きが違います。
 「表日本」「裏日本」、私は小学校の頃社会科でこのように習いました。しかし、「裏口」「裏金」「裏街道」など「裏」に対するマイナスイメージを持つ人が多いのも事実です。今は、「太平洋側」「日本海側」と言う表現をしていますね。
 「歩くから人間」という広告には、多くの人から抗議があったそうです。特に障がいがある人や関係者に対して極めて不快感を与えます。
 これまで見てきましたように、発言する方は差別しようと思わなくとも、その言葉を聞いた人が極めて不快を感じたり、差別感を持ったりすることがあることが分かったと思います。
 身の回りのことをもう一度見つめ直すことが大切です。
 日常の生活の中で人権感覚を育てることはとても大事なことと思います。
 みなさん方の職場をはじめいろんな所で、男女が気持ちよく働きやすい職場づくりが進められています。その一つに「セクハラ問題」があります。次の言葉や行為はセクシャル・ハラスメントに当たるでしょうか?考えてみて下さい。(3分程度各自で考える)
 「女性が商談の際に性的関係を条件にされた」
 「女性社員のからだをじろじろ眺めた」
 「会社の行事で女性社員に水着を着せた」
 「女性社員を“女の子”“おばさん”などと呼んだ」
 「“女性には仕事を任せられない”という発言をした」
 「女性社員に“いつ結婚するのか?”“子どもは?”と尋ねた」
 「“女性は女性らしく”という趣旨の発言をした」
 「面接時に女性に“結婚しても働くのか”と尋ねた」
 「女性社員に交際を迫った」
 「男性社員が宴会で女性社員に触るのを、見て見ぬふりをした」
 セクハラ問題は、働く女性の職業能力の発揮を妨げ、職場環境を著しく悪化させるなど企業の生産性や社会的評価にも影響する重要な問題です。
 大事なことは、「何がセクハラか」「どこからがセクハラか」ということではなく、ある言葉や行為が相手の女性の意に反するかどうかということです。また、男性と女性ではセクハラと感じる度合いに差があります。軽い気持ちであっても、女性がセクハラと感じればセクハラになりえます。
これを機会に普段の自分や周りの人の言動を振りかえってみてください。
 ここでは女性の人権を考えるということで女性に対するセクハラを取り上げました。セクハラには女性から男性に対して、あるいは同性間でも起こりえます。
 大切なことは性別に関係なく一人の人間として認め、尊重する気持ちです。
 先ほど、清原さんは結婚差別についての中で、「啓発映画や講演を聞いて、涙を流して差別に対して心を痛めていた人が講演会が終わると“そやけどなぁー”と言っていた。講演会で感じた心の痛みを行動に移ることが大事だ」と話されました。頭で理解したことは意識化し、行動に移すことです。これが人権の畑を耕すことです。
 このことは、あらゆる差別問題に共通することではないでしょうか。そして、明るく、働きやすい職場づくりに直結するものだと思います。
 職場では、日々学習しながら生産性を高めておられることと思います。人権問題もこれまで見てきましたように、学ぶことによって正しく理解し、相手の立場に立って考え、行動に移すことです。このことが、喜びも責任も分かち合い、個性と能力が発揮できる職場づくりにつながります。このことが生産性を高め、社会や他企業からの信頼を高めることにつながるものと思います。
 本日、私がお話したことの一つでも二つでもよいですから、職場に帰られて同僚のみなさんにお話しいただき、人権を大切にした職場づくりをされますことを念じまして話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。