笑いのある生活~十を聞いて一を知る~
平成24年6月19日
合志市ことぶき大学6月学習会


 みなさん おはようございます。
 ただいまご紹介頂きました中川です。よろしくお願いします。
 今月25日で69歳になります。中学校の同窓生と会うと今でも「ありちゃん」です。
 その中学校の修学旅行では、関西まで行きました。熊本駅を昼頃出発して大阪駅には朝着いたと記憶しています。初めての汽車の長旅で初めは皆ウキウキでした。次から次へと流れる外の景色が珍しく見入っていました。しかし、次第に疲れてきます。
 そんなとき、私が「おい、今渡った川は何川か知っとるや?」と聞きました。みんな知る訳ありません。「知らん」と言います。「中川た」と言いました。みんな大笑いです。
 続いて「この川の名前は?」と言うと、やはり「知らん」です。それで、「この川は沼川た」と言います。もう大体分かります。その後はみんなで川を渡るたびに、これは「前川」、これは「堀川」などと言い合いました。
 そのうち一人が山を指して「あの山は何山?」これに森山君がすかさず「森山た」と応えました。大笑いです。
 小学6年生の国語の時間に、「厂」は「がんだれ」、「广」は「まだれ」、「?」は「やまいだれ」、今音がしているのは「あまだれ」、そしておまえ達は「はなたれ」などと先生から漢字の部首を教えて頂きました。みんな大笑いしたこと覚えています。
 小さい頃、よくなぞなぞ遊びをしていました。皆さんも遊ばれたでしょう?
 その一つです。なぞなぞを出します。考えてみて下さい。
 「ドスンと音がしました。音がしたのはどこでしょう?」(お「寺」という声が聞こえる)
 そうです。「寺」です。
 「私は朝生まれました。誕生日はいつでしょう?」(「10月10日」という返事が返ってくる)
 そうです。「十月十日」ですね。
 私が小さい頃、冬の夜、近所の大人がよく遊びに来ていました。そのときのことです。みんなで火鉢に手をかざしながら話に花を咲かせている時、このなぞなぞを私が出しました。みんな分かりませんでした。
 伯父が「有紀、紙と鉛筆ば持って来てみ」と言います。紙に「上が出ていない七」を書いて「何と読むでしょう?」と言うのです。誰も読めません。「降参か!」と言って、「上野伝七(うえのでんしち)と読む」と言いました。これにはみんな大笑いでした。
 「上野伝七」と読むわけは分かりますか?
 「七」の上の部分が出ていないから、「うえのでんしち」なんです。
 皆さんの中には映画「男はつらいよ」を見た方もおられると思います。
 第一作で、寅さんが漢字の講釈をする場面がありました。寅さんの妹「さくら」が見合いをしたときのことです。
 見合い相手の父親が「さくらさんとは珍しいお名前ですね」と聞くんです。するとさくらが「さくらは戸籍では漢字なんです」と答えます。そこで寅さんが「車櫻なんて書きますとね、誰も名前なんて思わないんですよ。『ほう、くるま桜なんてのがあるのかい?』なんてね」と言って、漢字の講釈を始めるのです。
 「この「櫻」って字がね、面白うございましてね。木へんに貝2つでしょ、それに女ですから、2階の女が気(木)にかかる」と読めるんですよ」
 この講釈にみんなが感心したものですから、次から次へと講釈して「尸に水と書いて尿!つまりしょんべんだ。尸に米と書いて屎、尸にヒを2つ書いて屁」などと言って見合いの席をぶちこわすんです。
 実は「2階の女が気(木)にかかる」は大正時代に流行ったらしいですね。
 もう一つが「戀」と言う字です。「戀という字を分析すれば、いとしいとしと言う心」と言っていたそうです。
 ことばにはおもしろいものがたくさんあります。これからの1時間、ことばを通しての笑い、社会風刺、高齢者の会話、生涯学習などについて一緒に考えていきたいと思います。
 先ほどの寅さんの漢字講釈にあった「屁」を題材にした中学生の詩があります。
 昭和30年代、山形県の中学校教師、無着成恭さんが綴り方学習を実践していました。その中の一つです。

 
     「屁」         横戸 栄子 

  葉煙草の収納がちかづき
  家中きちがいのように葉煙草をのしているときだった。  
  あねさが、
  私の家に嫁に来てから七年もたち、
  二人も、子供を持っているあねさが、
  前にからだをまげたひょうしに、
  プッと 屁をむぐしてしまった・・・・・

  私の家に嫁に来てから
  はじめてたれた屁であった。
  あねさは顔を真っ赤にし、
  「仕事の方さばっかり気とらっで
  むぐしてしまってはあ。
  おら、ぶちょうほうしたっす。」

  「みんなあることだ
  仕事しているときなのなおさらっだべづ。
  ほだな、きにすんな。」
  と慰めながら「おっかあ」を見ると、
  おっかあも
  「ンだ、ンだ。だれでも、あるごんだ。」
  といって笑った。

 どうですか?
 「屁」は口にするのもはばかられることばですが、この「屁」を題材にした詩です。葉たばこ収穫の忙しさ、おならを漏らしてしまい顔を真っ赤にした嫁の恥じらい、「だれにもあることだ」気にするなと言う家族の温かい人間関係が伝わってきますね。
 私の知り合いに学生時代、落研つまり落語研究会で落語の勉強をしたのがいます。彼はよく小咄をして私たちを笑わせていました。
 彼が教えてくれた最も短い小咄
 「おい、向こうから坊さんが来るぞ。」「そうかい。(僧)」
 どうですか? 短い中にもちゃんと落ちがあるでしょう。
 次は、小学校の図書室にあった小咄です。
 「空き地に囲いができたねぇ。」「へぇー。(塀)」
 「鳥が何か落としていったよ。」「ふーん。(糞)」
 「このカニ、縦に歩いているよ。カニは横に歩くもんだろう。」「ちょっと酔ってるもんで。」
 どどいつには、お色気のあるもの、粋なものがありますよね。
 「信州信濃の 新蕎麦よりも、わたしゃあなたの そばがいい」
 「嫌なお方の 優しさよりも 好いた貴男の 無理がいい」
 こんな言葉を掛けてもらいたいものですね。
 次は、お色気のあるものです。
 「梅もきらいよ 桜もいやよ ももとももとの間(あい)が良い」
 「もも」とは、「桃」ではなく「腿」のことですね。
 「枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 知りながら」
 「旦那まいにち 天文館で わたしゃ帳簿が ちんぷんかん」
 鹿児島市内一番の繁華街が天文館ですね。数年前、九州公民館大会に参加した時、私も行ってみました。とても賑わっていました。この歌は、音の響きを組み合わせた歌ですね。
 「けんかしたとき この子をごらん 仲のよいとき 出来た子だ」
 子どもさん達が夫婦げんかをしている時、これを言うと、夫婦げんかも収まることでしょう。
 少し下ネタになりますが、数年前、阿蘇郡内のある公民館の掲示板に
 「スケベ男と カボチャのツルは 隣の庭を 這い回る」
というのがありました。
 天草の公民館のトイレには、
 「短小も 見栄を張らずに 一歩前」
とありました。思わず私も一歩前に出ました。
 5月、岐阜県の白川郷に行きました。そこの駐車場のトイレに
 「急ぐとも 外に散らすな 玉の露 吉野の桜も 散れば 悲しき」
とありました。
 どれもユーモアがあって思わず吹き出しました。
 どうですか。皆さんの毎日の生活の中の出来事を題材にしてこのような都々逸や川柳を作ってみませんか?頭の体操にはもってこいのようですよ。
 川柳には、いろんな川柳がありますよね。サラリーマン川柳、シルバー川柳、土曜の午後のNHKではぼやき川柳なども放送しています。今から紹介するのはシルバー川柳の一つです。
 「あちこちの 骨が鳴るなり 古希古希と」
 「ときめきが 動悸にかわる 古稀の恋」
 冒頭紹介しましたように、私はこの25日で69歳になります。中学校の同窓生で、古稀の祝いをします。「ありちゃん、古稀のいわれを調べておいてくれ」とたのまれています。 
 古稀とは、数えの70歳のことですね。唐の詩人杜甫の詩 曲江に「酒債尋常 行く処に有り 人生七十 古来稀なり」に由来すると言われています。
 お手元に、杜甫の「曲江」という七言律詩の漢詩をお配りしています。
 読んでみます。


      曲 江    杜 甫

    朝より回って 日日 春衣を典す     
    毎日江頭 醉を盡して歸る
    酒債尋常 行く處に有り
    人生七十 古來稀なり
    花を穿つ蛺蝶 深深として見え
    水に點ずる蜻蜒 款款として飛ぶ
    傳語す風光 共に流轉し
    暫時相賞して 相違うこと莫れと

 意味は、
 朝廷を退出すると、毎日春着を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで酒を飲んで帰ってくる。
 酒代の借金はあたりまえのことで行く先々にあり、どうせ人生七十まで生きられるのはめったにない。(だから今のうちに飲んで楽しんでおきたいものだ)
 あたりを見ると蝶は花のしげみに見えかくれして飛び、とんぼは水面に尾をつけてゆるやかに飛んでゆくのどかな風景である。
 私はこの春景色にことづてしたい。我が身も春光もともに流れに身をまかせ、春のしばらくの間でも、その美しさを賞で楽しみ、そむくことのないようにしようではないかと。
 一緒に読んでみましょうか。声に出して読むことの効用は後で述べます。

   曲 江    杜 甫
 朝より回って 日日 春衣を典す
 毎日江頭 醉を盡して歸る
 酒債尋常 行く處に有り
 人生七十 古來稀なり
 花を穿つ蛺蝶 深深として見え
 水に點ずる蜻蜒 款款として飛ぶ
 傳語す風光 共に流轉し
 暫時相賞して 相違うこと莫れと 

 ありがとうございました。
 川柳を続けます。
 「年金は 増えねど増える しわの数」
 年金は増えるどころか減りますね。今月の年金は、減額されました。皆さんはどうでしたか?
 (私も減りましたという声が聞こえる)
 「脳みそに 移しかえたい 顔のしわ」
 「初恋の ときめきに似た 心電図」
 人間ドックで心電図をとってもらう時は、どきどきしますものね。
 「この動悸 昔は恋で 今病」
 「胸よりも 前に出るなと 腹にいい」
 「八十路祖母 食べて笑って 老い知らず」
 いつまでもこのように元気でいたいものです。
 「もの忘れ 増えて夫婦の 会話増え」
皆さんはどうですか? 私は物忘れが多くなって妻に、「おい、あらどけやったや?」とよく聞きます。調子がよい時は、「あー、あんな。あらここにあったい」と返ってきます。しかし、ほとんど、「あっじゃ分からんたい。ちゃんとものの名前ば言わにゃん分からん。何な?」です。そして、妻も「私のあれはどこになおしたな?」と聞きます。
 私たち夫婦は、「あれ」「それ」は遣わない。必ずものの名前を言うと約束しています。でも、つい、「あらどけやったや?」が出ます。脳が老化している証拠です。脳の老化については、後で触れます。
 「『愛してる』 じじの返事は 『馬鹿言うな』」
 「来てやった 貰ってやったで 五十年」
 金婚式を迎えてのことでしょうね。共に白髪の生えるまでとは昔から言われていることですが、次の川柳は
 「共白髪 まっぴらごめんと 妻茶髪」
 「旅行好き 行ってないのは 冥土だけ」
 「八十路越え 大器晩成 まだ成らず」
 これは、まさに生涯学習の真髄ですね。
 資料に付けています拓本を見て下さい。

 江戸時代の儒学者、佐藤一斎の言志四録の中の言葉です。読んでみます。
 小にして学べば 即ち壮にして為す有り
 壮にして学べば 即ち老いて衰えず
 老いて学べば  即ち死して朽ちず
 この言葉も生涯学習の真髄を表していますね。死ぬまで学ぶというのですから。
 佐藤一斎の言葉で、「春風を持って人に接し、秋霜をもって自らを慎む」というのがあります。
私の座右の銘にしています。
 国会はすったもんだしています。社会保障と税の一体改革が3党合意とやらでまとまったようですが、民主党内ではいろいろもめ事が続いています。総選挙がいつ行われてもおかしくない状況のようです。
 これも阿蘇郡内で見つけた笑い話です。
 お菓子屋さんから出てきた人に、選挙運動に走り回っている人が聞きました。
  「あたは何党な?」
  「わしな、わしぁ昔は辛党だったバッテン、今は甘党タイ。」
 今度は歯医者さんから歯の治療が終わって出てきた人に、
  「あたは何派な?」
  「わしな、わしぁ前歯と奥歯タイ。」
 皆さん、小さい頃、上から読んでも下から読んでも同じことばと言ってことば遊びしませんでしたか?
 「新聞紙」「竹藪焼けた」「私負けましたわ」「ダンスがすんだ」など。これを回文と言います。
 この回文を少し調べてみました。びっくりしました。室町時代に回文和歌が一種の文化として流行ったそうです。
 「長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな」
 (ながきよの とをのねむ(ぶ)りの みなめざめ なみのりぶ(む)ねの おとのよきかな)
 読み仮名を付ける時、濁らない清音にして下さい。読む時は濁音として読んでみてください。
 どうですか? 上から読んでも下から読んでも同じでしょう?
 「進みゆく船は心地良く波音を立てるので、過ぎ去る刻の数えを忘れてしまい、ふっと朝はいつ訪れるのだろうと想うほど夜の長さを感じた」という意味でしょうか。
 「桜木の 訪ひし香りは 花の園 縄張り侵し 人の気楽さ」
 (さくらきのとひしかおりははなのその なははりおかしひとのきらくさ)
 この和歌も読み仮名を付けて、上から下から読んでみてください。やはり回文和歌です。
 私はおやじギャグ和歌と言っていますが、次の和歌を読んでください。      
 「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」(文屋康秀)
 この和歌は、小倉百人一首の一首ですから皆さんも知っていらっしゃるでしょう。
 「山から吹きおろす風はすぐに草木をしおれさせる。だから、山から吹き降ろす風を嵐というのだろう」という意味ですね。
 「山」と「風」と書いて「嵐」と読む、こんなことば遊びが平安時代に流行っていたのですね。
 次は直ぐ分かるでしょう。
 「雪降れば 木ごとに花ぞ咲きにける いづれを梅と 分きて折らまし」(紀友則)
 「木」と「毎」で「梅」になるでしょう。
 かけことばで有名なのが小野小町の
 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
 「花」は、桜のことです。
 「色」は、見える感覚のことで、自分自身の容色とかかります。
 「うつりにけりな」は、以前とは変ってしまったなあという意味ですが自分の容色が時が経つと共に失われてしまったの意がかかります。
 「世にふる」は、恋に人生を費やすという意味で、「ふる」はは雨が降るとのかけことばです。
 「ながめ」は、じっと物思いに耽ると長雨とのかけことばです。
 こう見てみると、平安時代の歌人はすごいですね。
 京都の竜安寺に行った方がいらっしゃるでしょう。

 竜安寺は石庭で有名ですね。そこに示しています写真は、その竜安寺の茶室の前に置いてあるつくばいに書かれた文字です。
 「吾唯足を知る」と読むそうです。
 石庭に配列されている15個の石は、庭をどこから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているそうです。そこで、石庭の石が「一度に14個しか見ることができないことを不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めだといわれています。
 このつくばいは、「吾唯知足」の4つの漢字の「へん」や「つくり」を「口」として共有されているのがすごいですね。

 ことば遊びで有名なのは長寿を表す名称ですね。
 喜寿をお迎えの方もいらっしゃるでしょう。喜寿は77歳を迎えた祝いの言葉ですが、「喜」を崩して書くと「七」「十」「七」に見えることから「喜寿」といっていますね。
 「傘寿」は「傘」の略字は「?」と書きますね。これは「八」と「十」に見えることから80歳の祝いを「傘寿」と言いますね。
 「米寿」は、「八十八」を一字に書くと「米」と書くことからですね。
 「卒寿」は、「卒」の略字が「卆」ですね。これは「九」と「十」に見えることから90歳の祝いですね。
 99歳の「白寿」は、「百」の「一」をとると「白」となることからですね。
 このようなことば遊びは、日本人の知恵です。
 話ばかりで退屈でしょうからここで熊本県の最も有名な民謡、「おてもやん」を聴きましょう。民謡の先生から借りたものですから、節回しが少し違います。よかったら曲に合わせて歌ってください。


              ♪♪おてもやん
 
  おてもやん あんたこの頃  嫁入りしたでは ないかいな       
  嫁入りしたこた したばってん
  ご亭殿が  ぐじゃっぺだるけん 
  まーだ盃ゃせんじゃった
  村役 鳶役 肝いり殿
  あん人たちの 居らすけんで
  後はどうなっと きゃーなろたい
  川端町さん きゃー巡ろい 
  春日 ぼうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花盛り 花盛り
  ピーチクパーチク ひばりの子
  玄白なすびの いがいがどん

  ひとつ山越え もひとつ山越え
  あの山越えて
  私ゃあんたに 惚れとるばい
  惚れとるばってん 言われんたい
  追い追い 彼岸も近まれば 
  若者衆も 寄らんすけん
  熊本の  夜聴聞 参りに 
  ゆるゆる話も きゃーしゅうたい
  男振りには 惚れんばな 
  煙草入れの 銀金具が
  それがそもそも 因縁たい
 アカチャカベッチャカ チャカチャカチャ

 一緒に歌っていただきありがとうございました。
 私はこの民謡には、熊本県人の気質が歌われていると思っています。私はここで歌われている気質を「おてもやンスピリッツ」とよんでいます。
 どんなことかといいますと、第1は、「おおらかさ」です。
 「あん人達のおらすけんで あとはどうなと キャアなろたい」
 つまり、小さいことにくよくよせんで生きていこうという太っ腹な生き方です。
 2番目は、「慎ましさ」です。
「私ァあんたに ほれとるバイ ほれとるバッテン 言われんたい」
 「好きだ」という気持ちは、そう簡単に口に出して言うもんじゃなか。内に秘めといた方がよかという慎ましさです。
 3番目は、「目の付け所 経済感覚」を持っていることです。
 「男ぶりには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それが そもそも 因縁たい」
 「男ぶり」のことを今の人たちはなんて言っていますかね?(「イケメン」と言う言葉が返ってくる)
 そうですね。相手を選ぶ時は、顔かたち、つまりイケメンを選ぶもんではなか。顔よりある程度金を持っていることが大事バイということですね。「たばこ入れの銀金具」に目を付けたところはさすがです。
 今の若者はこの熊本県人の気質をもって、もっともっと世に出て欲しいですね。
 以前、益城町で社会教育指導員をしています時、公民館講座である病院の先生の話を聞きました。その先生がおっしゃったことは「人は、40歳代から老化が始まり、老いの特徴は5つある。「もの忘れが多くなる」「物覚えが悪くなる」「動作が遅くなる」「がんこになる」「新しい友だちなどがつくりにくくなる」でした。
 皆さん、今の5つの特徴にいくつか当てはまるものがありますか?3つ以上当てはまるとすると、かなり老化が進んでいると思ったほうがいいですよ。私は、時速60kmでこの老化街道を走っています。このスピードにアクセルを踏まないで、ブレーキをかけるよう努めています。
 そのブレーキについて、東北大学川島隆太先生は、「簡単な計算をする」「文を声に出して読む」「多くの人と会話をする」を提唱していらっしゃいます。
 簡単な計算とは、簡単な足し算・引き算・かけ算・割り算をすることですよ。昔習った微分とか積分とかの難しい計算ではないのです。毎日の生活の中でできるものです。今私は、益城町公民館講座でそろばんを教えています。そろばんはこの簡単な計算にぴったりです。1~10までの足し算・引き算と、かけ算九九の組み合わせですから。
 そして、講座生の方にはこんな事を勧めています。買い物に行きますね。買い物かごに品物を入れて、レジに持っていきます。レジで計算して「いくらです」と言われて財布からお金を出すより、買い物かごに入れる毎に385円だったら400円、124円だから100円という具合におおよその値段にして、それを暗算で足し合わせて3500円くらいとお金を用意しておいたら頭の体操にもなる、レジでも早く済ませることができると言っています。皆さんもやってみませんか。
 私の母は、92歳です。かなり老化が進んでいます。母に「文章ば声に出して読みなっせ」と勧めます。母は、「私ぁ、毎日声に出して読みよるモン」と言います。夕方毎日おつとめをしています。仏壇でお経を読んでいます。その中に蓮如上人の白骨の章があります。時々一緒におまいりしますので私も少し覚えました。
 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。」「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫末の露よりも繁しといえり。」「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。」
 母は、白骨の章を読んでいるのではないのですね。暗記しているのです。「暗記じゃなかたい。読むとたい」と言いますが、笑っています。
 私は新聞の宣伝をするのではないのですが、熊日新聞だったら1面の下に「新生面」、朝日新聞だったら「天声人語」があるでしょう。あそこを声に出して読むといいと思います。大体3~5分くらいで読めると思います。毎日内容が変わりますから、暗記はできません。一度試してみてください。黙読と声に出して読むのでは違いがあります。
 黙読では、スーと読んでいたところが声に出して読むと、読めない漢字があったり、意味が分からなかったりする言葉があります。そんなとき、直ぐに辞書を引いて調べるのです。これは生涯学習です。
 もう一つは、新しい友だちを作ることです。私は、新しい友だち・知りあいを作るには、本市におけます「ことぶき」大学とか公民館講座などはうってつけと思います。
 皆さん、この「ことぶき大学」で新しい友だちができた方たくさんいらっしゃるでしょう。新しい友だちと講座の事やら世間話などをして、脳の活性化に努めましょう。
 これまで「ことばと笑い」を見てきましたが、笑いにはいろんな効果があると言われていることは皆さんご存じでしょう。医学の場でも笑いの効果を利用した療育が行われているそうです。 
 笑いは、腹筋の運動量を増やし、内臓マッサージ効果が生れ、血行が良くなり消化が良くなると言われています。
 笑いは、脳の血液循環を良くし、老化にブレーキをかけるともいわれています。
 笑いは、情緒が安定し、感情が豊かになるそうです。
 笑いは、ストレスを発散し、こころの病にも効果があります。
 笑いは、人の心をなごませ、人を引き付ける不思議な力があります。
 もう随分前のことですが、浪越徳治郎という人が「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」と大笑いしながら、笑いの効用を説いていましたね。
 本日は、腹の底から笑うという場面はあまりありませんでしたが、笑い声はあちこちから聞こえてきました。
 毎日、笑いのある生活を送りましょう。
 そろそろ時間となりました。論語の一節を読んで終わりにしたいと思います。


    子、子貢に謂て曰わく、
    女と回と孰れか愈れる。
    対えて曰く、
    賜や、何ぞ敢えて回を望まん。
    回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。    
    子曰わく、如かざるなり。吾と女と如かざるなり。

 そこに示しています、論語 巻第三「公治長第五」を黙読してみてください。あとで一緒に読みたいと思います。(黙読)
 それでは、一緒に読みましょう。
 子、子貢に謂いて曰わく、女と回と孰れか愈れる。
 対えて曰く、賜や、何ぞ敢えて回を望まん。
 回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。
 子曰わく、如かざるなり。吾と女と如かざるなり。
 意味は、
 先生が子貢に向かっていわれた、
 「お前と顔回とは、どちらが優れているか。」
 お答えして「賜(この私)などは、どうして回を望めましょう。
 回は一を聞いてそれで十を覚りますが、賜などは一を聞いて二がわかるだけです。」
 先生は言われた、
 「及ばないね、私もおまえといっしょで及ばないよ。」
 「一を聞いて十を知る」は頭の切れる人のたとえですが、私にはそんなことはできません。「十を聞いて一を知る」がやっとです。
 みなさんはどうですか?
 ぼちぼち生きましょう。生涯、学び続けましょう。
 毎日の生活の中に、笑いを取り入れ、喜寿までと言わず、米寿、卒寿、白寿を目指し、元気で長生きされることを祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。