自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができる人に
平成25年7月30日
甲佐町立甲佐小学校


 みなさん おはようございます。
 ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 教育長のご挨拶にもありましたように、集中豪雨により日本各地で被害が続発しています。昨日は、山口県萩市、島根県津和野町で、これまで経験したことのないような豪雨が大きな被害をもたらしています。これまで経験したことのない豪雨とは、昨年阿蘇地方に甚大な被害をもたらした豪雨の時に初めてつかわれました。やはり7月のことでした。先週は山形県で大雨が降りました。時間雨量100ミリを超す大雨は、地球温暖化による偏西風が蛇行していること、太平洋高気圧の勢力が弱いことなどによるそうですが、なんだか地球が病んでいるように思えて仕方ありません。
 病んでいるのは、地球ばかりではありませんね。人の心も病んでいるように思えて仕方ありません。広島県呉市では、16歳の少女たちが友だちを集団で殺し、山の中に遺棄しました。山口県周南市では、わずか十数軒の山間の集落内で5人も撲殺される事件が起きています。人権の最たるものは人の命です。このようにいとも簡単に人の命を殺めてしまう、いじめにより自殺へと追い込んでしまうこのようなことが起きている今、もう一度人権教育・啓発について真剣に考えていかなければならないと思います。このような時に、甲佐町の先生方と人権問題について考えることができますこと、大変光栄に思います。
 ただいま会長からご紹介いただきましたが、少し自己紹介させていただきます。
 会長から「なかがわありとし」さんとご紹介いただきました。大変うれしく思います。「有紀」と書いて「ありとし」と読むのですが、「ありとし」と読んでいただく方はいません。「ゆき」または「ゆうき」と読まれます。
 私が七滝小学校に校長として赴任した時です。女性の教頭先生も転勤してこられました。このことを新聞の異動記事でごらんになった地域の方の中で「今年は、校長も教頭も女性バイ」という噂が広まっていたそうです。おそらく地域の方たちも私の名前を「ゆうき」か「ゆき」と読まれたのだろうと思います。入学式前日、校門から玄関に通じる通路側の植木を剪定している時、地域の方がおいでました。私に「校長先生はいらっしゃいますか。」と尋ねられました。私は「私がこのたびの異動でお世話に案ルことになりまりました校長の中川です。よろしくお願いします。」と言いました。その方は「男の校長先生ですか。女性の校長先生と聞いていましたので失礼しました。」とおっしゃいました。このように女性と間違われる名前ですが、私はこの名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。「有」という文字は、上に「保」という文字を付けると「保有する」と言う熟語ができます。このことから「有」には「保つ」という意味があります。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味があります。そこで、「紀(年)を重ねるごとに年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。父の願いに沿うようにと努力はしていますが、なかなか年相応の人間にはなれません。シルバー川柳に「あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と」というのがあります。もう70歳ですが年相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。
 また、小学校や中学校時代の幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。私は「ありちゃん」と呼ばれることを嬉しく思っています。大好きな愛称ですが、私は小さい頃、上級生などから、「おっ、アリの来よる。アリば踏みつぶそう」と足で踏みつぶす仕草をしてからかわれたりいじめられることがありました。そんなとき、「俺はアリじゃなか。ありとし」と言って体当たりでぶつかって抗議していました。親が子の将来への思いを込めて名付けた名前を、からかいやいじめに使うことは人権を冒涜することと思います。私が小さかった頃のように、名前でからかわれたり、意地悪されたりして悔しい思い、悲しい思いをしている子がいるかもしれません。
 先生方、そんなとき、みんなの前でその子の名前に込めた親御さんの思いをお子さんに語って下さい。名前に込められた親御さんの願いや思いを知ったら、からかったり意地悪したりすることの愚かさにきっと気づくと思います。
 先生方は、私の父のようにお子さんの名前に込めた思いを話しておられることと思います。いろんな機会に話をしてやってください。お子さんが低学年であれば、背中に手を回して、膝の上に抱っこして、目を見つめ、赤ちゃん誕生時の感動を思い起こしながら、名前に込めた親の思いを語ってやってください。誕生日や進級・進学の時など人生の節目節目に。背中に手を回してということには意味があります。背中に手を回して抱っこすると、子どもは包み込まれ感を実感します。親の愛情を実感します。後でも触れますが、これが自尊感情を育みます。
 高学年や中学生のお子さんは、手を取り目を見つめ語ってください。お子さんはきっと親の愛情を実感し、自分の名前を好きになり、誇りに思うことでしょう。このことを是非、保護者の皆さんにも伝えてください。
 また、学級開きの時、事前に子どもの名前に込めた親の思いを聞いておいて、子どもが自己紹介をした後で「有紀とは、大きくなって年相応の人間になるようにとの親さんの思いから名付けられたそうだね。」などと紹介してください。子どもはそのことで「先生は俺を大切に思ってくれている」と実感するはずです。このことを通して、自分たちの先生は一人一人を大切にしてくれる先生だと思うはずです。「人を大切にすること」を学級開きの時から感化し続けてください。感化とは、背中の教育とも言います。日頃の先生の言動で人を大切にすることを感化し続けてください。命の尊さや人のすばらしさなどに感動したとき、感化と感動が相まって子どもたちの感性をさらに豊かになると思います。これが人権感覚を育みます。
 親の語り、先生の感化によって、きっと、子ども達は自分の名前をこれまで以上に好きになり、誇りに思うでしょう。自分の名前を好きになり誇りに思うことは、自分自身を好きになり誇りを持つことにつながります。これが自尊感情を育み、自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができる人に育つと思います。私はこのことが人権教育の礎であり、スタートだと思っています
 私たちの周りにはさまざまな人権課題があります。レジュメに示していますのは法務省ホームぺ
ージに掲載されている主な人権課題です。


 女性 子ども 高齢者 障害者 同和問題 アイヌの人々 外国人 HV感染者・ハンセン病患者等 刑を終えて出所した人 犯罪被害者等 インターネットによる人権侵害 ホームレス 性的指向 性同一性障害者 北朝鮮当局によって拉致された被害者等 人身取引


 中でも熊本県では、同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題を主要な人権課題として教育・啓発に努めています。学校教育や社会教育の場で人権教育・啓発に力を入れているにもかかわらず、先ほど来賓のご挨拶にもありましたように、今なお差別意識が根深く残っています。
 資料2の「差別根強い熊本 今も変わらず残念」をご覧ください。平成25年3月29日付け、熊日夕刊の「電話で話そう」の欄に掲載された文です。読んでみます。


                   差別根強い熊本 今も変わらず残念

 私は四国の出身で、熊本に来て40年以上になりますが、同和問題やハンセン病問題など根強い差別体質が気になります。
 実は小学4年生の孫娘が先日、同級生から「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」と言われたというんです。熊本に来たころも差別が多いのに驚かされましたが、あまり変わっていないようです。いまだにハンセン病のことを何かと言う人もいますしね。
 私が育った県にもハンセン病療養所がありましたが、中学生のころにはもうそんな差別の話は聞きませんでした。私は菊池恵楓園に出入りして菊の育て方を習ったりもしました。
 少しずつでもいい方向にいってほしいと思います。
                                  (平成25年3月29日熊日夕刊の「電話で話そう」


 先ほども触れましたように、熊本県では同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題を主要な課題として人権教育・啓発しているにもかかわらず、このような発言があっているのです。私たちはこのことを真摯に受け止め、さらなる人権教育・啓発に取り組まねばならないと思います。そして、人々の心に落ちる教育・啓発を工夫していかねばならないと思います。
 いま、各学校では、人権教育の指導法の在り方第三次答申をもとに人権教育が推し進められています。答申の主な内容は、表にまとめていますのであとでご覧ください。この答申が私たちに求めているのは、大まかなくくりで表しますと、「人権に関する知的理解を深めること」、「人権感覚を豊かにすること」、そして「人権課題解決のために実践・行動する力を身につけさせること」の3つです。
 本日の講演題「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができる人」はこの提言に示されている言葉です。
 人権教育の目標として、「一人一人の児童生徒がその発達段階に応じ、人権の意義・内容や重要性について理解し、[自分の大切さとともに他の人の大切さを認めること]ができるようになり、それが様々な場面や状況下での具体的な態度や行動に現れるとともに、人権が尊重される社会づくりに向けた行動につながるようにすることが、人権教育の目標である。」と述べています。
 そして、人権教育の視点として「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができる力を培う」ことが掲げられ、それは、「他の人の考えや気持ちなどがわかるような想像力、共感的に受け止め理解する力」を身につけさせることだと述べています。
 このことは、「傷つけられた人」や「きつい思いをしている人」の心の痛みを想像する力だと私は思います。痛みを想像する力がなければ、きつい思いをしている人、悲しい思いをしている人に寄り添うことはできません。
 先生方は、灰谷健次郎の「太陽の子」を読まれたことと思います。これを読んだ中学生の感想文を見てみましょう。資料3をご覧ください。


                 「太陽の子」を読んで
                                                     中学2年 Y・E

 青く澄んだ海、一風変わった伝統、温かい島の人達。これが私の沖縄に対するイメージだった。でも、悲惨な過去があってこそ今の美しさがあるということを、私はこの本に教えてもらった。
 ふうちゃんの両親が営む、「てだのふあ・おきなわ亭」。そこは沖縄を愛する沖縄人のたまり場のような存在だ。おきなわ亭に訪れる人達は皆温かい。はじめは気の荒かったキヨシ少年もこの人達の優しさに触れて本当の優しさを表に出すようになった。なぜおきなわ亭の人達はここまで優しく、温かいのだろうか。
 沖縄では、「かわいそう」とは言わず、「肝苦りさ(胸が痛む)」、と言うそうだ。その人がどのような状況に置かれているのか、どのような感情なのか……。背景を知らなくても、「かわいそうね。」と人は言う。何故言うのだろうか。おそらく情け深い人の「ふり」をしているのだろう。相手の表面しか知らないのに、言っている本人は、相手を理解して同情したつもりなのかもしれない。しかしそれは本当の「情け」なのだろうか?言うだけなら、誰にでも言えるのではないだろうか。
 沖縄の人達は、あのむごい第二次世界大戦を目の前で、嫌というほど見てきている。殺すということ。殺されるということ。敵に対する恐怖。家族を失う悲しみ。一人で生きていかなければいけないという将来への不安。孤独との戦い。これらは経験したことのない者にとっては憶測でしか考えられない。
 「おそらく沖縄の人々は本当に痛い、ということがどれだけ痛いか、苦しい、ということがどれほど苦しくなることなのか、辛い、ということがどれほど耐え難い辛さなのかを知っている。そして残酷さも知っているのだろう。」
 知っているからこそ、その人を深く知らずに「かわいそう」などと軽々と口には出せないのだと思う。相手を知り尽くした上で今、置かれている境遇を理解し苦しみを推し測る。そこで初めて出てくる言葉が「肝苦りさ」なのだろう。私が沖縄に感じる奥深さの一つに、このことが関係しているのではないかと思う。
 ふうちゃんのお父さんの病気も戦争の傷跡によるものだ。お父さんがパニックになった時、おきなわ亭のみんなでお父さんをフォローする。オジやんは、「沖縄の島々では、心の病人はみんなで大事にした。心の病んでる者ほど、人の心が必要なんじゃ。」と言う。これはふうちゃんのお父さんに限らず、現代の世の中にも言えるのではないかと思う。親から愛情を受けられずに育ってしまった子供。薬に溺れる若者。足りないのは心ではないかと思う。薬に依存するのは心が満たされないからではないか?薬に依存する人が多いのは、心が満たされていない人が多いからではないかと思う。
 誰かが、「自分を愛せない人は他人も愛せない。自分を大事にしない人は他人も大事に出来ない。」と言っていた。自分を愛する、というのは難しい。しかし自分を好きになることで初めて心が満たされるのではないかと思う。そして自分を好きになるためには周りから、「自分が愛されている。」と実感することが大事だ。ふうちゃんは、おきなわ亭の人達みんなに愛されている。だからふうちゃんはお父さんをはじめ皆に愛を配ることが出来るのだと思う。
 私もよく、「フラフラして死にそう。」とか言っている。けれど「死ぬ」という言葉を軽々しく使ってはいけない、とギッチョンチョンに教えてもらった。「死」という言葉が持つ意味を、真剣にとらえて初めて使うべきだし、真剣に考えれば軽々しくは使えない。
 私をはじめ、このように戦争を知らない者が増えている今、世の中は平和なように感じる。しかし一方、ふうちゃんのお父さんのように、戦争が終わっている今もなお傷跡に苦しんだ末、間接的に戦争に殺された。すなわち二極化しているのである。これを解決するにはどうすれば良いのか。戦争を知らない私達は、忌まわしい出来事の真実を知る努力をし、少しでも苦しみを共有してみてはどうだろうか。そして、今尚苦しんでいる人の傷をいやすことのできるような社会を作り上げることが、戦後生まれてきた私達の義務だと思う。
 生活の中の一つ一つをもっと重くとらえ、自分を変えていければ、と思った。

 Y・Eさんは、「人がどのような状況に置かれているのか、どのような感情なのかなどの背景を知らなくても、かわいそうねと言う。何故言うのだろうか。おそらく情け深い人のふりをしているのだろう。相手の表面しか知らないのに、相手を理解して同情したつもりなのかもしれない。それは本当の情けだろうか?」と訴えています。さらに「沖縄の人達は、あのむごい第二次世界大戦を目の前で、嫌というほど見てきている。殺すということ。殺されるということ。敵に対する恐怖。家族を失う悲しみ。一人で生きていかなければいけないという将来への不安。孤独との戦い。これらは経験したことのない者にとっては憶測でしか考えられない。おそらく沖縄の人々は本当に痛い、ということがどれだけ痛いか、苦しい、ということがどれほど苦しくなることなのか、辛い、ということがどれほど耐え難い辛さなのかを知っている。そして残酷さも知っているのだろう。知っているからこそ、その人を深く知らずに「かわいそう」などと軽々と口には出せないのだと思う。相手を知り尽くした上で今、置かれている境遇を理解し苦しみを推し測る。そこで初めて出てくる言葉が肝苦りさなのだろう。」と述べています。「肝苦りさ」は「ちむぐりさ」と読みます。このY・Eさんの思いこそ、人の痛みを想像することではないでしょうか。私たちはこのように人の痛みを想像することができる人になりたいと思います。人の痛みが想像できるなら、いじめや差別は起きないはずです。
 また、自分の考えや気持ちを適切に表現し、伝え合い、わかり合うためのコミュニケーション力が重要だと言っています。
 そして、人を大切にしようとする意欲や態度を実際の行為に結びつける実践力です。
 表現には不適切な点もありますが資料4の「一度きりのお子様ランチ」を読んでみます。


                             一度きりのお子様ランチ

 東京ディズニーランド・ワールドバザールにあるレストランで実際にあった話です。
 2人連れの若い夫婦がレストラン「イーストサイド・カフェ」に食事に行きました。キャスト(ウェイトレス)が2人を二人がけのテーブルに案内してメニューを渡しました。2人はAセット一つとBセット一つ注文しました。オーダーし終わったとき、奥様が追加注文しました。「お子様ランチをひとつ下さい」と・・・
 キャストは「お客様、誠に申し訳ございませんがお子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文は頂けないのですが・・・」と丁寧に断りました。
 すると2人は顔を見合わせて複雑な残念そうな表情を浮かべました。その表情を見てとったキャストは「何か他のものではいかがでしょうか?」と聞きました。すると、2人はしばらく顔を見合わせ沈黙した後、奥様が話出しました。
 「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日だったのです。私の身体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。子どもがおなかの中にいる時に主人と3人でこのレストランでお子様ランチを食べようねって言っていたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっとおちついて、亡き娘にディズニィーランドを見せて3人で食事をしようと思ったものですから・・・」
 その言葉を聞いたキャストは2人を四人がけのテーブルに案内しました。仲間に相談して全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。そして小さな子ども用の椅子を持ってきて「お子様の椅子はお父様とお母様の間でよろしいでしょうか?」と椅子をセットしました。
 その数分後、「お客様、大変お待たせしました。ご注文のお子様ランチをお持ちしました。」とテーブルにお子様ランチを置いて笑顔で言いました。「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください。」
 数日後、お客様から会社に感謝の手紙が届きました。
 「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて・・・」
                                 (「しあわせを感じる喜び」林 覚乗著 文芸社)

 いかがですか。
 お子様ランチの注文を店の決まりであることからいったんは断ったものの、何か訳がありそうだと思ったキャストは若夫婦に「何か他のものではいかがでしょうか?」と聞き返します。そして、若夫婦から思いもかけないことを聴きます。「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日。亡き娘にディズニィーランドを見せて3人で食事をしようと思ったものですから」と。これを聴いたキャストは、若夫婦を二人掛けのテーブルから四人掛けのテーブルに案内し、2人の間に子ども用の椅子まで準備しました。そして、お子様ランチをテーブルの上に置き、「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください。」と言ったのです。
 キャストは、自分にできることを即座に実行に移しました。私はこれが人権感覚だと思います。
岐阜県で人権啓発活動を続けておられる桑原律さんは、人権感覚について次のように言っています。


 人権感覚とは、具体的な場面に遭遇したとき、とっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性を指しています。それは、そうせずにはいられない直感的情動に基づく行動であり、正義感と言っても理屈の上ではなく、ごく自然に湧き上がってくる感性の行動化にほかなりません。 
                                    (桑原 律「心しなかやか『人権感覚』」より)

 キャストが取った行動は、とっさに迷うことなく人間として当然あるべき在り方を行動として示すことのできる感性そのものでしょう。このことは、後日、若夫婦から届いた御礼の手紙でもよく分かります。
 「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて」。キャストは、若夫婦に生きる希望と力を与えました。このような人権感覚を私たちは持ちたいものです。
 資料に、桑原律さんの「人権感覚って何ですか」という詩を付けています。後で是非読んでください。
 私は先生方がすばらしい人権教材を、一生懸命教材研究をして、最高の指導力で人権教育をされても教室の子ども達に人権感覚が育っていなければその授業は上滑りして、子どもたちの胸に落ちないと思います。人権教育の成立基盤となるのは学級・学校づくりだと思います。
 私が書いた投稿文で申し訳ないですが、「人権感覚持つ子ら育てたい」を読みます。この投稿文は、孫娘が小学4年生の時のことを文にしたものです。孫娘は、未熟児で生まれました。私は育つだろうかととても心配しましたが、本人の強い生命力、両親の深い愛情、そして病院の先生方の心温まる看護のおかげで元気に育ちました。今、中学3年生で高校受験を目指してがんばっています。しかし、体が小さくて運動能力は同級生と比べてかなり落ちます。この孫が4年生の時のことです。


                       人権感覚持つ子ら育てたい

 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。
 妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。
 周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。
                                      (朝日新聞「声」 平成20年5月17日 掲載)

 先生方、子どもたちの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、互いの違いを認め、共に生きる感性や豊かな人権感覚を持った子ども達を育くんでください。
 灰谷健次郎の「太陽の子」を読んだ中学生は、「他者の痛みや感情を共感的に受容できるための想像力や感性の育成」の大切さを訴えました。このためには、いろんな方法があると思います。その中の幾つかを考えてみたいと思います。
 差別事象が起きるのは、私たちの心の中にある予断と偏見です。予断とは、これまでの体験や知識から自分勝手に判断することです。偏見とは、これにマイナスイメージが加わって負の考えを持つことです。こうならないために物事を正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、実行に移すことが大切だと思います。
 ある小学校でのことです。一人の女の子が入学しました。背中に黒いランドセルを背負って、毎日、通学を始めたそうです。教室へ行くと、「男みたい」と冷やかされました。学校の行き帰りも他の学年の子からも冷やかされました。「女の子は赤のランドセルだろう。黒のランドセルは男の子だろう」と。そういうことが続きます。女の子の名前を仮にA子ちゃんとよびます。A子ちゃんは、家に帰ってこのことを家族に話しました。家の人が学校に相談に行きました。担任の先生は、一年生の教室で子どもたちに精いっぱい説明をしますが、子どもたちになかなかうまく届きません。いっこうに問題は解決しません。A子ちゃんはとうとう学校へ行けなくなりました。保護者は悩んだ末、学校を変わりました。
 転校先の学校でも、最初は、子どもたちから「おかしい」の声が上がりました。担任の先生が保護者に、「A子ちゃんが黒のランドセルを背負って登校するのは、きっとわけがあると思います。よかったら黒いランドセルのわけを教えて下さい。」と訊きました。家の人は先生にアルバムを見せながらそのわけを話しました。
 「A子には3歳上の兄がいました。黒いランドセルを背負って小学校に入学しましたが、ランドセルを背負って学校へ行ったのは1日だけでした。その時兄は、小児ガンにおかされていました。2回目のランドセルを背負うことなく、この世を去ってしまいました。A子が入学するとき、『新しいランドセルを買おうよ』と家族はすすめましたが、『私は、お兄ちゃんの黒いランドセル背負って学校へ行く。大好きなお兄ちゃんと一緒に学校へ行く』と強く望みました。それで、私たちもA子の言うことを見守っていたのです。」と。
 担任の先生は、この話を学校の先生方に話をしたそうです。その学校は人権感覚豊かな先生方がいらっしゃる学校でした。学校をあげて、この問題に取り組み、A子ちゃんは、胸をはってお兄ちゃんと一緒に学校へ行けるようになったということです。
 この話の前半部分を資料に載せています。後で読んでください。
 私はこの話から2つのことを学びました。一つは、「一人一人を大切にする教育を推し進めることの大切さ」です。もう一つは、「○○=○○との固定観念のおかしさ」です。
 A子ちゃんは、大好きだったお兄ちゃんがたった1回しかランドセルを背負うことができなかった悔しさ、無念さを共有し、自分がお兄ちゃんの分までこのお兄ちゃんのランドセルを背負って学校に行く、そしてお兄ちゃんと一緒に学校生活をするのだとの思いからお兄ちゃんの黒いランドセルで登校したのです。ここに、一人一人の思いを大切にする教育の大切さがあると思います。一人一人の思いに寄り添った教育を推し進めることの大切さを痛感しました。
 固定観念のおかしさは、いろんな場で叫ばれています。黒いランドセルは男の子のランドセル、女の子のランドセルは赤いランドセル、何の科学的根拠のないものがやがて社会通念としてできあがることはおかしなことです。私たちは、ややもすると固定観念でものを見てしまいがちです。固定観念でものを見ることのおかしさを訴えていきたいものです。
 平成22年6月、ウズベキスタンを旅しました。中央アジアの国、ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。ところがこの旅行に参加する前にいろいろありました。
 連れ合いが「青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう。」と言います。私は即座に「あんな危ない国には行くまい。」と言いました。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。アフガニスタンはイスラム原理主義者が多い国です。タリバンの勢力が強い国です。わずか100Kmしか離れていません。ですから、私の思考は「ウズベキスタンは危険な国」でした。でも、連れ合いはどうしても行きたいと言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。問題ありませんという返事です。外務省にも問い合わせました。外務省からは、「ツアーですか。個人旅行ですか。」と訊かれました。「ツアーです。」と応えると、「ツアーだったら心配ないでしょう。個人旅行する人も含めて治安情報を出しています。個人旅行はひかえた方がよいでしょう。」とのことでした。
 ウズベキスタン旅行最終日、日本語ガイドのマリカさんが私たちにこう尋ねました。
 「みなさんの中で、ウズベキスタンに行くと言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と知り合いなどから言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうですか?危険な国と思いますか?」と。私は赤面しました。知人どころか私自身が「危ない国には行かない方がよかバイ」と言っていたのですから。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで人々はとても明るく治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報を鵜呑みにして「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを痛感しました。
 また、マリカさんはウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだと言いました。日本の旅行も楽しんだということでした。京都が印象に残っていると話しました。そして、金閣寺や銀閣寺はとてもきれいだったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だったと言いました。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたと言いました。この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。また、江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。被差別部落の人々が日本文化に果たした功績は大きいのです。
 今、中学校の社会科の歴史学習では、このようなことを勉強しているでしょう。被差別部落の人々が日本の文化や産業に貢献してきたことをもっと教えるべきだと思います。
 私たちは、「○○=○○」と思い込んでいることが案外多いんです。自分では気づかないで。
 先生方、レジュメの空いているところに魚の絵を描いてみて下さい。
 ここに描いてもらいましょう。(2人の先生に描いてもらう)
 とてもすばらしい魚を描いていただきありがとうございました。
 先生方にお尋ねします。
 ○○先生のように左向きの魚を描いた方、挙手して下さい。(大勢)
 ▽▽先生のように右向きの魚を描かれた方?(8人ほど挙手)
 私は、「魚の絵を描いて下さい」と言いました。結果は、左向きの魚を描いた先生方が圧倒的に多いですね。どこの研修会でも魚の絵を描いてもらいますが、9割から9割5分位の方が左向きの魚を描かれます。どうしてこんな事が起こるのでしょうか。(「料理では魚は左向きに出す」の声あり)
 そうですよね。料理の魚は左向きです。魚の図鑑に掲載してある魚の絵や写真の7から8割は左向きです。その絵や写真、そして料理に出る魚などを小さい頃から見て、魚の絵は左向きを学習しているのです。
 牛の色を思い浮かべて下さい。
 お尋ねします。
 あか牛を思い浮かべる方?(20名近く)
 くろ牛の方?(7名程度)
 白黒のホルスタインの方?(5から6割程度)
 ホルスタインが多いですね。
 阿蘇で尋ねた時は、100%あか牛でした。天草では、ほとんどがくろ牛でした。熊本市内近郊では、大体3分の1ずつです。
 先日、九州農政局職員人権問題研修会でお尋ねしたところ、「小さい頃からあか牛を見続けていますので、牛の色はと訊かれればあか牛と応えます。」の声がありました。
 私たちは、空気を吸うがごとくごく自然に自分の周りにあるものを見て「○○=○○」と思い込んでいるのですね。これを刷り込みと言うでしょう。この刷り込みが思い込みとなり、これにマイナスイメージが加わると偏見となります。
 先生方、カラスをプラスイメージで見ている方いらっしゃいますか?(挙手なし)
 マイナスイメージで見ている方?(ほとんど挙手)
 カラスについてはいろいろの思いがあるでしょう。それがマイナスイメージとなっていると思いますが、「黒=不吉」としてカラスが嫌われているのも事実です。このおかしさを野口雨情は、人々に訴えるために、「七つの子」を作詞したと言われています。あとで、「七つの子」の歌詞を思い浮かべて下さい。
 魚の絵や牛の色が、「○○だ」との刷り込みがあったとしても社会問題とはなりません。しかし、水俣病やハンセン病は、うつる病気、怖い病気との偏見から差別事件が起きたのでしょう。部落問題も全く同じです。この刷り込みが、思い込みとなり、マイナスイメージが加わって社会的偏見となり社会意識となり、差別につながることがあるのです。それによって、苦しみ、悲しみ、怒り、憤り、心を痛めている人がいることを私たちは忘れてはならないと思います。
 私は心が揺り動かされる体験を「情動体験」と言っています。
 中学校道徳の教材に「一冊のノート」があります。じっくり読んでいただこうと思っていましたが、時間がありません。あらすじをお話しして後半を読んでみたいと思います。
 おばあさんに育てられた中学生と小学生の孫が、物忘れが多くなったおばあさんをなじったり責めたりします。中学生の孫が友だちと学校帰りの途中、買い物から帰っているおばあさんを見ます。季節外れの着物を着て、みすぼらしい格好をしているおばあさんを見た友だちは「あのおばあさんはおかしい」と言います。孫は知らん振りをして帰ります。そして、家に帰ってからおばあさんを責めます。おばあさんが友からの電話の伝言を孫に伝えることを忘れてしまったために中学生は友と会うことができずおばあさんに「しっかりしてよ」となじります。おばあさんは悲しそうにします。
 その後のことを読みます。


(前略)

 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。
                                 (文部省道徳教育推進指導資料集第4集 平成6年3月)

 私はこの文を読むたびにこみあげてくるものがあります。
 この資料を使った道徳の授業を参観した人の話です。
 一人の男子生徒が、読み終わると泣いていました。ワークシートの半紙の上に涙がぼろぼろ落ちました。それを必死で制服の袖でぬぐっている様子を見た私も涙が止まらなくなりました。隣の女子生徒の目にも涙がいっぱい浮かんでいました。結局この子は、ワークシートには何も書くことはできませんでした。先生はこの子をどう評価するのだろうと、担任の先生に尋ねると、先生は「ここに涙のあとがあります。何かを書いたのより彼の気持ちが分かります」とおっしゃいましたと。
 私はこれが人権感覚だと思います。
 子どもたちが人権感覚を育んだ例を紹介します。
 大学生が小学生の時のことを書いた投稿文を読みます。


                       教室に不登校の子 涙した先生

 小学4年生の時、クラスに不登校の子どもがいた。彼はみんなから「バイ菌」扱いされていて孤独だった。私も彼を哀れに思いながらも、かばいもせずに笑っていた一人だった。担任だった先生は、たびたび彼の自宅に行ってきたことを私たちに話した。報告を聞くたびに、私たちは心のどこかで反省していた。
 不登校になって半年が過ぎた頃、彼が先生の働きかけもあってか、ひょっこり登校してきた。私たちは彼を久しぶりに見て驚いたが、バツが悪くて何となく放っておいた。先生は出席を取りながら、彼の名前を呼んだ後、しばらく黙ってしまった。
 何事だろうと先生の顔を見ると、ボロボロ涙をこぼしているではないか。大人の男性が泣く姿など初めて見た私たちは度肝を抜かれた。
 「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」
 先生は泣きながらやっとこの言葉を言って、また出席を取り始めた。みんな黙っていた。それ以来彼がいじめられることはなかった。私たちはいじめがいかにくだらない悲しいことであるのか、先生の涙を見て学んだと思う。         
                                     (朝日新聞「声」 平成22年11月18日 大学生)

 学級担任の先生は、「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」泣きながらやっとこの言葉を言いました。「君がいて、この人数で、クラスなんだ」この先生の言葉を聞いたクラスの子ども達はどう思ったでしょうか。冒頭、背中の教育、感化という言葉を言いました。クラスの子ども達は「自分たちの先生は、一人一人を大事にする先生だ」と強く思ったと思います。だからこそ、それ以後いじめはなくなったと言っています。「自分たちの先生は、一人一人を大事にする先生だ」と思ったことが子どもたちの人権感覚を育てているのです。 
 夏休みが始まって10日、子ども達はいろんな体験を重ねていることでしょう。私も小さい頃、蝉やトンボを追いかけていました。カブトムシやクワガタを採っていました。
鹿児島大学の先生から聞いた話です。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「カブトムシの電池が切れた。お父さん電池を替えて」のわが子の言葉にがくぜんとした。その子を連れて山へカブトムシの採集に行った。そこで採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したと。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだ時は電池を替えてと言った子が、父親と一緒に山で採ったカブトムシが死んだ時は「お墓を作ろう」と言ったのですよ。体を通しての生き物との出会いでこんなに違うのです。子ども達に自然体験を味わわせて下さい。
 ちょうど夏休みです。PTA行事は既に決まっていることでしょう。この夏、家族旅行でお子さん達に感動のある自然体験を味わわせて下さい。ビニルシート1枚で清和の山の中で一晩過ごして下さい。ビニルシートを敷いてその上に寝て、シートを折り返すと体を夜露から護ることができます。夜空にはきらきらと輝く満天の星です。流れ星をいくつも見ることができます。何の会話も要りません。その美しさに感動します。ただ、虫除けの殺虫剤か蚊取り線香は持って行って下さい。でないと、あくる朝は蚊に刺されて顔が腫れ上がります。それでもお子さんはきらめく星空を見ての感動に心が躍ると思いますよ。
 私は人権を尊重し、それを護る根底には自尊感情が横たわっていなければならないと思っています。自尊感情についてはあちこちで話を聞かれたことと思います。
 私は自尊感情とは、「俺の家族は俺を愛し、信頼している。先生は俺を応援している。友達は俺のことを分かってくれ、俺を大事にしてくれている。俺ってたいしたもんだ。捨てたもんじゃなか。この俺を大事にするぞ!」という気持ちだと思っています。子ども達一人一人の心にこのような思いを育んでいきましょう。
 自尊感情を支える4つの感覚があると言われています。一つは「包み込まれ感覚」です。自分の身近にいる人が自分を温かく包み込んでくれているとか、自分を愛してくれているなど、だれかから包み込まれているという気持ちのことです。冒頭、名前に込めた親の思いを語る時、「背中に手を回して」と言いました。背中を抱きしめられると、人は包み込まれていること、愛を実感します。
乳幼児が人見知りしますね。大体6から7ヶ月頃から人見知りが始まります。私の3番目の孫はその頃人見知りが激しくて、私が「おいで」と抱っこすると顔を真っ赤にして泣いていました。母親が抱きかかえるとそれまでの泣きが嘘のようにけろっとしています。いつも愛情いっぱいに自分を包み込んでくれる人は自分の体を安心して任せられる人です。あまり接触のない人は自分の安心を託せるか不安で仕方ないですよね。それで抱っこされるのを拒否する、これが人見知りでしょう。あのように私を拒否していた孫娘が、今では私に抱きついてきます。それは可愛いです。これをジジバカというのでしょうが。
 乳幼児期に愛情いっぱいに育てられた子は包み込まれ感覚がいっぱいで自尊感情が育まれています。自尊感情の大半がこの包み込まれ感覚だとも言われています。このように大切な包み込まれ感覚をいろんな事情により、幼少の頃実感したことが少ない子が学級にいるかも知れません。先生方、どうぞ、そのような子達に寄り添い、温かい眼差しで支援して包み込まれ感覚を数多く実感させてください。
 社交性感覚とは、友だちが言ったことは自分はよくわかる、自分の言ったことは友だちがよくわかってくれる、という友だちとの心の通じ合いができているという気持ちのことです。
 勤勉性感覚、自己効力感ともいいます。これは、何かをやりはじめたら最後までやり通すことができるという気持ち。自信です。
 自己受容感覚は、自分が好きだとか、自分の性格が好きという気持ちのことです。
 この4つの感覚を学校生活の中で子ども達に育んで下さい。
 一人一人に自尊感情があるのと同じように集団にも自尊感情があると思います。「俺のことを認めてくれる友だちがいる。」「俺の話に耳を傾けてくれる友だちがいる。」「俺がこのクラスからいなくなったらクラスではなくなる。」「このクラスには俺の居場所がある。」「俺を支えてくれる人がいる。」、このような思いを所属員一人一人が実感できる学級を作り上げてほしいのです。一人一人がそう思うことが集団的自尊感情です。
 また、先生方、特に小学校の先生方は「よいとこさがし」で子ども達にプラスメッセージを送っていらっしゃるでしょう。プラスメッセージで育む感情を状況的自尊感情というそうです。
 と同時に、子どもがマイナスととらえていることへプラスメッセージを送ってほしいのです。
 ある学校の人権集会でのことです。6年生のA子が、「私の肌の色が黒い、顔の色が黒いことで、『色が黒いくせに。』『なんで、そんな黒いの?』と言われます。自分がとても気にしていることを言われて家に帰って泣いてしまいます。学校に行くことができなくなるくらいつらいです。」と訴えました。それを聴いていた子どもたちからは「これから絶対、言いません。ごめんなさい。」「冗談のつもりでした。許して下さい。」「軽いつもりでいてたけどれも、こんなに深く悲しんでいるということを、きょう初めて知りました。これから言わないから、許して下さい。」などの意見が、子どもの言葉で語られました。意見発表は終わったかなと思ったら、一番前に座っていた1年生の女の子が、すっと立ち上がって一言、言ったそうです。「Aねえちゃんは、色が黒いのがよう似合う。」と。
 この1年生の発言は他の子どもたちとは違っています。他の子どもたちは、色が黒いことを欠点だと思っています。本人もそう思い、気にしていました。しかし、1年生の子は、「Aねえちゃんは、色が黒いのがよう似合う。私にとっては、今ある、Aねえちゃんが、なくてはならない人」だと言っています。これをA子が、「自分のことを丸ごと大事にしてくれている。」と抱く感情を核心的自尊感情というそうです。
 「マイナスと思っている事へプラスメッセージを送る」このことは、リフレーミングとも言うでしょう。子ども達が今の自分が丸ごと好きという気持ちを育んで欲しいと思います。
 孔子の言葉を紹介して終わりにします。
 孔子の教えは論語に記されています。その論語の「衞靈公第十五の二十四」に


 子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

と言うのがあります。
 これは、孔子の門弟の一人 子貢が孔子に人生の生き方を問うているものです。
 「先生、私が先生から教えられたたった一文字を心に刻み生きていけば、人としての道を誤らずに生を全うできるという文字があったらお教えください」と問うたのです。
 「その文字は恕だ。そして、自分がして欲しくないことは他人にもしないことだ。」と教え諭したのです。
 「恕」の意味は、常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさ、思いやりです。
 常に相手の立場に立ってものを考えようとする優しさ、そして自分がして欲しくないことは人にはしない、自分がして欲しいことを人にする、これが人権教育の基本だと思います。
 ある幼稚園でけんかをしている男の子2人に、一人の女子が「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」と言ったそうです。男の子たちは何のことかわからなかったそうですが、先生が尋ねられたところ、家でお父さんと論語の素読をしている子だったと言うことです。
 先生方は、この後、一人一人の子ども達に関わってこられたことをもとに課題ごとに事例研究会があります。甲佐町の子ども達が豊かな人権感覚を育み、甲佐町に生まれ育って良かったと思う教育を展開されますことを祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。




資料1「人権教育を通じて育てたい資質・能力」
     人権教育指導法の在り方第3次答申から(略)


資料2
              差別根強い熊本 今も変わらず残念

 私は四国の出身で、熊本に来て40年以上になりますが、同和問題やハンセン病問題など根強い差別体質が気になります。
 実は小学4年生の孫娘が先日、同級生から「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」と言われたというんです。熊本に来たころも差別が多いのに驚かされましたが、あまり変わっていないようです。いまだにハンセン病のことを何かと言う人もいますしね。
 私が育った県にもハンセン病療養所がありましたが、中学生のころにはもうそんな差別の話は聞きませんでした。私は菊池恵楓園に出入りして菊の育て方を習ったりもしました。
 少しずつでもいい方向にいってほしいと思います。
                           (熊日夕刊 平成25年3月29日 電話で話そう)


資料3

      「太陽の子」を読んで              中学2年 Y・E
 青く澄んだ海、一風変わった伝統、温かい島の人達。これが私の沖縄に対するイメージだった。でも、悲惨な過去があってこそ今の美しさがあるということを、私はこの本に教えてもらった。
 ふうちゃんの両親が営む、「てだのふあ・おきなわ亭」。そこは沖縄を愛する沖縄人のたまり場のような存在だ。おきなわ亭に訪れる人達は皆温かい。はじめは気の荒かったキヨシ少年もこの人達の優しさに触れて本当の優しさを表に出すようになった。なぜおきなわ亭の人達はここまで優しく、温かいのだろうか。
 沖縄では、「かわいそう」とは言わず、「肝苦りさ(胸が痛む)」、と言うそうだ。その人がどのような状況に置かれているのか、どのような感情なのか……。背景を知らなくても、「かわいそうね。」と人は言う。何故言うのだろうか。おそらく情け深い人の「ふり」をしているのだろう。相手の表面しか知らないのに、言っている本人は、相手を理解して同情したつもりなのかもしれない。しかしそれは本当の「情け」なのだろうか?言うだけなら、誰にでも言えるのではないだろうか。
 沖縄の人達は、あのむごい第二次世界大戦を目の前で、嫌というほど見てきている。殺すということ。殺されるということ。敵に対する恐怖。家族を失う悲しみ。一人で生きていかなければいけないという将来への不安。孤独との戦い。これらは経験したことのない者にとっては憶測でしか考えられない。
 「おそらく沖縄の人々は本当に痛い、ということがどれだけ痛いか、苦しい、ということがどれほど苦しくなることなのか、辛い、ということがどれほど耐え難い辛さなのかを知っている。そして残酷さも知っているのだろう。」
 知っているからこそ、その人を深く知らずに「かわいそう」などと軽々と口には出せないのだと思う。相手を知り尽くした上で今、置かれている境遇を理解し苦しみを推し測る。そこで初めて出てくる言葉が「肝苦りさ」なのだろう。私が沖縄に感じる奥深さの一つに、このことが関係しているのではないかと思う。
 ふうちゃんのお父さんの病気も戦争の傷跡によるものだ。お父さんがパニックになった時、おきなわ亭のみんなでお父さんをフォローする。オジやんは、「沖縄の島々では、心の病人はみんなで大事にした。心の病んでる者ほど、人の心が必要なんじゃ。」と言う。これはふうちゃんのお父さんに限らず、現代の世の中にも言えるのではないかと思う。親から愛情を受けられずに育ってしまった子供。薬に溺れる若者。足りないのは心ではないかと思う。薬に依存するのは心が満たされないからではないか?薬に依存する人が多いのは、心が満たされていない人が多いからではないかと思う。
 誰かが、「自分を愛せない人は他人も愛せない。自分を大事にしない人は他人も大事に出来ない。」と言っていた。自分を愛する、というのは難しい。しかし自分を好きになることで初めて心が満たされるのではないかと思う。そして自分を好きになるためには周りから、「自分が愛されている。」と実感することが大事だ。ふうちゃんは、おきなわ亭の人達みんなに愛されている。だからふうちゃんはお父さんをはじめ皆に愛を配ることが出来るのだと思う。
 私もよく、「フラフラして死にそう。」とか言っている。けれど「死ぬ」という言葉を軽々しく使ってはいけない、とギッチョンチョンに教えてもらった。「死」という言葉が持つ意味を、真剣にとらえて初めて使うべきだし、真剣に考えれば軽々しくは使えない。
 私をはじめ、このように戦争を知らない者が増えている今、世の中は平和なように感じる。しかし一方、ふうちゃんのお父さんのように、戦争が終わっている今もなお傷跡に苦しんだ末、間接的に戦争に殺された。すなわち二極化しているのである。これを解決するにはどうすれば良いのか。戦争を知らない私達は、忌まわしい出来事の真実を知る努力をし、少しでも苦しみを共有してみてはどうだろうか。そして、今尚苦しんでいる人の傷をいやすことのできるような社会を作り上げることが、戦後生まれてきた私達の義務だと思う。
 生活の中の一つ一つをもっと重くとらえ、自分を変えていければ、と思った。


資料4

                   一度きりのお子様ランチ
 東京ディズニーランド・ワールドバザールにあるレストランで実際にあった話です。
 2人連れの若い夫婦がレストラン「イーストサイド・カフェ」に食事に行きました。キャスト(ウェイトレス)が2人を二人がけのテーブルに案内してメニューを渡しました。2人はAセット一つとBセット一つ注文しました。オーダーし終わったとき、奥様が追加注文しました。「お子様ランチをひとつ下さい」と・・・
 キャストは「お客様、誠に申し訳ございませんがお子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文は頂けないのですが・・・」と丁寧に断りました。
 すると2人は顔を見合わせて複雑な残念そうな表情を浮かべました。その表情を見てとったキャストは「何か他のものではいかがでしょうか?」と聞きました。すると、2人はしばらく顔を見合わせ沈黙した後、奥様が話出しました。
 「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日だったのです。私の身体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。子どもがおなかの中にいる時に主人と3人でこのレストランでお子様ランチを食べようねって言っていたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっとおちついて、亡き娘にディズニィーランドを見せて3人で食事をしようと思ったものですから・・・」
 その言葉を聞いたキャストは2人を四人がけのテーブルに案内しました。仲間に相談して全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。そして小さな子ども用の椅子を持ってきて「お子様の椅子はお父様とお母様の間でよろしいでしょうか?」と椅子をセットしました。
 その数分後、「お客様、大変お待たせしました。ご注文のお子様ランチをお持ちしました。」とテーブルにお子様ランチを置いて笑顔で言いました。「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください。」
 数日後、お客様から会社に感謝の手紙が届きました。
 「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて・・・」
                                (「しあわせを感じる喜び」林 覚乗著 文芸社)


資料5
       「人権感覚」って何ですか   桑原 律

   「人権感覚」って何ですか 
   それは ケガをして
   苦しんでいる人があれば
   そのまますどおりしないで
   「だいじょうぶですか」と
   助け励ます心のこと

   「人権感覚」って何ですか
   それは 悲しみに
   うち沈んでいる人があれば
   見て見ぬふりをしないで
   「いっしょに考えましょう」と
   共に語らう心のこと

   「人権感覚」って何ですか
   それは 偏見と差別に
   思い悩んでいる人があれば
   わが事のように感じて
   「そんなことは許せない」と
   自ら進んで行動すること

   「人権感覚」って何ですか
   それは
   すどおりしない心
   見て見ぬふりをしない心
   他者の苦悩をわが苦悩として
   人権尊重のために行動する心のこと

                      (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)


資料6
                人権感覚持つ子ら育てたい
 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。
 妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。
 周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。
                            (朝日新聞「声」 平成20年5月17日 掲載)


資料7
              教室に不登校の子 涙した先生 
 小学4年生の時、クラスに不登校の子どもがいた。彼はみんなから「バイ菌」扱いされていて孤独だった。私も彼を哀れに思いながらも、かばいもせずに笑っていた一人だった。担任だった先生は、たびたび彼の自宅に行ってきたことを私たちに話した。報告を聞くたびに、私たちは心のどこかで反省していた。
 不登校になって半年が過ぎた頃、彼が先生の働きかけもあってか、ひょっこり登校してきた。私たちは彼を久しぶりに見て驚いたが、バツが悪くて何となく放っておいた。先生は出席を取りながら、彼の名前を呼んだ後、しばらく黙ってしまった。
 何事だろうと先生の顔を見ると、ボロボロ涙をこぼしているではないか。大人の男性が泣く姿など初めて見た私たちは度肝を抜かれた。
 「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」
 先生は泣きながらやっとこの言葉を言って、また出席を取り始めた。みんな黙っていた。それ以来彼がいじめられることはなかった。私たちはいじめがいかにくだらない悲しいことであるのか、先生の涙を見て学んだと思う。      
                                   (朝日新聞「声」 平成22年11月18日 大学生)


資料8
                     黒いランドセル
 ある学校に、一人の女子児童が入学してきました。入学後、この児童は教室の中でいじめを受けるようになりました。理由は、黒いランドセルを背負って通学していたからでした。もちろん担任の先生は教室で対応をしましたが、いじめはおさまりません。とうとうその児童は転校することになったのでした。
 この女子児童が黒いランドセルで通学していたことには理由がありました。女子児童には3歳年上のお兄さんがいました。しかし、小学校入学時にはすでに小児がんに冒されていたのです。このお兄さんは、1回しか自分の黒いランドセルを背負って登校することができませんでした。
 女子児童の入学に際し、家族は新しいランドセルを買うことをすすめましたが、女子児童は「大好きだったお兄ちゃんと毎日一緒に学校に行きたいから」と、言うことを聞きませんでした。その強い希望に周囲も折れ見守ることにしたのですが、この女子児童の願いは無残にもつぶされたのでした。
(毎日新聞夕刊平成 14年6月28日 要約)
 わたしたちの思い込みは、時として子どもにすりこまれ、このような悲しいできごを引き起こすことがあります。なお、その後、女子児童は、転校先の学校で黒いランドセルを背負って通学することができたということです。 
                      (大分市教育委員会保護者用資料 学習資料35じんけん)


資料9
                 自分関係ない 差別や偏見に
 あしきた青少年の家(芦北町)で集団宿泊教室がありました。水俣病資料館(水俣市)での学習や語り部さんからのお話がありました。
 語り部さんのお話を聞きながら、これまでは正直、水俣病なんてどうでもいい、自分には関係ないじゃないかと思っていたのではないかと感じました。自分は関係ない、そういう考えが差別や偏見を生んでいるのだと思います。
 以前は僕も、人を差別していました。自分と気が合う人と合わない人、人それぞれにいると思います。だからといって、仲間はずれにしたり、傷つけたりする理由にはならないと思います。人のことを理解し、個性を大事にすることはとても必要なことだと思います。
 この集団宿泊教室で人権についての考えが深まりました。次は、いじめる側ではなく、いじめがあっていたら、それをしっかりと止められる人になりたいと思いました。
 語り部さん、本当にありがとうございました。
                                      (熊日「読者の広場」 平成25年7月6日)


資料10
               「一冊のノート」               北鹿渡 文照
 「おにいちゃん、おばあちゃんのことだけど、このごろかなり物忘れが激しくなったとおもわない。ぼくに、何度も同じことを聞くんだよ。」
 「うん、今までのおばあちゃんとは別人のように見えるよ。いつも自分の眼鏡や財布を探しているし、自分が思い違いをしているのに、自分のせいではないと我を張るようになった。おばあちゃんのことでは、おかあさん、かなりまいっているみたいだよ。」
 弟の隆とそんな会話を交わした翌朝の出来事であった。
 「お母さん、ぼくの数学の問題集、どこかで見なかった。」
 「おかしいな、一昨日この部屋で勉強したあと、確かにテレビの上に置いといたのになあ。」
 学校へ出かける時間が迫っていたので、ぼくはだんだんいらいらして、祖母に言った。
 「おばあちゃん、また、どこかへ片づけてしまったんじゃないの。」
 「私は何もしていませんよ。」
 そう答えながらも、祖母は部屋のあちこちを探していた。母も隆も問題集を探し始めた。
 しばらくして、隆は隣の部屋から誇らしげに問題集をもってきた。
 「あったよ、あったよ、押し入れの中の新聞入れに昨日の新聞と、一緒に入っていたよ。」
 「やっぱり、おばあちゃんのせいじゃないか。」
 「どうして、いつもわたしのせいにするの。」
 祖母は、責任が自分に押しつけられたので、さも、不安そうに答えた。
 「そうよ、なんでもおばあちゃんのせいにするのはよくないわ。」
 母が、ぼくをたしなめるように言った。ぼくは、むっとして声を荒げて言い返した。
 「何言っているんだよ。昨日、この部屋を掃除してたのはおばあちゃんじゃないか。新聞と一緒に問題集も押し入れに片づけたんだろう。もっと考えてくれよな。」
 「そうだよ。おにいちゃんの言うとおりだよ。この前、ぼくの帽子がなくなったのも、おばあちゃんのせいだったじゃないか。」
 「しっかりしてよ、おばあちゃん。近ごろ、だいぶぼけてるよ。ぼくら迷惑してるんだ。今も隆が問題集を見つけなかったら、遅刻してしまうところじゃないか。」
 いつも被害にあっているぼくと隆は、いっせいに祖母を非難した。祖母は悲しそうな顔をして、ぼくと隆を玄関まで見送った。
 学校から帰ると、祖母は小さな机に向かって何かを書き込んでいた。ぼくには、そのときの祖母のさびしそうな姿が、なぜかいつまでも目に焼き付いて離れなかった。
 祖母は、若いころ夫を病気で亡くした。その後、女手一つで4人の息子を育て上げるかたわら、児童民生委員や婦人会の係を引き受けるなど地域の活動にも積極的に携わってきた。そんなしっかりものの祖母の物忘れが目立つようになったのは、65歳を過ぎたここ1・2年のことである。祖母は、自分は決して物忘れなどしていないと言い張り、家族との間で衝突が絶えなくなった。それでも若い頃の記憶だけはしっかりしており、思い出話を何度もぼくたちに聞かせてくれた。このときばかりは、自分が子どもに返ったように目を輝かせて話をした。両親が共稼ぎであったことから、ぼくたち兄弟は幼いころから祖母に身の回りの世話をしてもらっており、今でも何かと祖母に頼ることが多かった。
 ある日、部活動が終わって、ぼくは友だちと話しながら学校を出た。途中の薬局の前で、友だちの一人が突然指さした。
 「おい、みろよ。あのおばあさん、ちょっとおかしいんじゃないか。」
 「ほんとうだ。なんだよ。あの変てこりんな格好は。」
 指さす方を見ると、それは季節はずれの服装にエプロンをかけ、古くて大きな買い物かごを持った祖母の姿であった。確かに友だちが言うとおり、その姿は何となくみすぼらしく異様であった。ぼくは、あわてて祖母から目を離すとあたりを見回した。道路の向かい側で、二人の主婦が笑いながら立ち話をしていた。ぼくには、二人が祖母のうわさ話をしているように見えた。
 祖母は、すれちがうとき、ほほえみながら何か話しかけた。しかし、ぼくは友だちに気づかれないように知らん顔をして通り過ぎた。友だちと別れた後、ぼくは急いで家に帰り、祖母の帰りを待った。
 「ただいま。」
 祖母の声を聞くと同時に、ぼくは玄関へ飛び出した。祖母は、大きな買い物かごを腕にぶら下げて、汗を拭きながら入ってきた。
 「ああ、暑かった。さっき途中であった二人は・・・・。」
 「おばあちゃん。なんだよ、その変な格好は。何のためにふらふら外を出歩いているんだよ。」
 ぼくは、問い詰めるような厳しい口調で祖母の話をさえぎった。
 「何をそんなに怒っているの。買い物に行ってきたことぐらい見れば分かるでしょ。私が行かなかったらだれがするの。」
 「そんなこと言っているんじゃない。みんながおばあさんのことを笑っているよ。かっこ悪いじゃないか。」
 「そうして、みんなで私をバカにしなさい。いったいどこがおかしいって言うの。だれだって年をとればしわもできれば白髪頭になってしまうものよ。」
 祖母のことばは、怒りと悲しみでふるえていた。
 「そうじゃないんだ。だいたいこんな古ぼけた買い物かごを持って歩かないでくれよ。」
 ぼくは腹立ちまぎれに祖母の手から買い物かごをひったくった。
 「どうしたの。大きな声を出して。おばあちゃん、ぼくが頼んだものちゃんと買ってきてくれた。」
 「はい、はい。買ってきましたよ。」
 隆は、買い物かごをぼくから受け取ると、さっそく中身を点検し始めた。
 「おばあちゃん、きずばんと軍手が入っていないよ。」
 「そんなの書いてあったかなあ。えーと、ちょっと待ってね。」
 祖母は、あちこちのポケットに手を突っ込みながら1枚の紙切れを探し出した。見ると、それは隆が明日からの宿泊合宿のために祖母に頼んだ買い物リストであった。買い忘れがないように、祖母の手で何度も鉛筆でチェックされていた。
 「やっぱり、きずばんも軍手も、書いてありませんよ。」
 「それとは別に、今朝、買っておいてくれるように頼んだだろう。」
 「そんなこと、私は聞いていませんよ。絶対聞いていません。」
 「あのね、おばあちゃん・・・・。」
 隆は、今にもかみつくような顔で祖母をにらんだ。
 「もうやめろよ。おばあちゃんは忘れてしまったんだから。」
 「なんだよ、おにいちゃんだって、さっきまで、おばあちゃんに大きな声を出していたくせに。」
 ぼくは不服そうな隆を誘って買い物に出かけた。道すがら、隆は何度も祖母の文句を言った。
 その晩、祖母が休んでから、ぼくは今日のできごとを父に話し、なんとかならないかと訴えた。父は、ぼくと隆に、先日、祖母を病院に連れて行ったときのことを話し出した。
 「お前たちが言うように、おばあちゃんの記憶は相当弱くなっている。しかし、お医者さんの話では、残念ながら現在の医学では治すことはできないんだそうだ。これからもっとひどくなっていくことも考えておかなければならないよ。おばあちゃんは、おばあちゃんなりに一生懸命やってくれているんだからみんなで温かく見守ってあげることが大切だと思うよ。今までのように、何でもおばあちゃんに任せっきりにしないで、自分でできることぐらいは自分でするようにしないといけないね。」
 「それはぼくたちもよく分かっているよ。だけど・・・。」
 これまでの祖母のことを考えると、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 その後も、祖母はじっとしていることなく家の内外の掃除や片づけに動き回った。そして、ものがなくなる回数はますます頻繁になった。
 ある日、友だちからの電話を受けた祖母が、伝言を忘れたため、ぼくは友だちとの約束を破ってしまった。父に話したあと怒らないようにしていたぼくも、このときばかりは激しく祖母をののしった。
 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。  
                    (文部省道徳教育推進指導資料集第4集 平成6年3月)


資料11
                子どもたちに生命の尊厳を
 水戸市内湖畔のコクチョウやハクチョウの無惨な死は、中学生が面白半分に棒で殴ったものだった。
 以前の日本では、毎日の生活の中で命に直面していた。弟妹誕生の産声を聞く。家族の死をみとる。牛馬の出産を介助し飼育する。巣から落ちたひな鳥に給餌するなどなど。人は、このような現実の命にふれるたびに、自らが生かされていることの価値を自覚し、無意識に命の尊厳を学びとってきた。しかし、いつの間にか、私たちの身の回りからそれらがなくなってしまったようだ。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」のわが子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行った。そこで採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したという話を聞いたことがある。
 子どもたちが命を現実のものと受け止める機会を数多く作りたい。人が生きるためには牛馬や野菜など動植物の命をもらわねばならないという矛盾に悩むことなどを通して、命の尊厳を受け止める子どもを育てることは喫緊の課題である。
                               (熊日新聞「読者の広場」 平成20年5月18日 掲載)


資料12
                    周囲気付けばいじめは減る
 「いじめ」の問題が後を絶たない。その多くの人が誰にも相談できず、中には自ら命を絶っていく人もいる。「この世で一番つらいのは、相手から無視されること」と、先生が話された。本当にその通りだ。
 私は小学6年生の時、いじめに遭った経験がある。学校へ行くのが苦痛で、毎日がつらかった。自殺を考えることもあった。とにかく苦しい毎日だった。しかし、そんな時、陰で支えていただいたのが若い女の先生だった。私の行動の異変に気付き、話を聞いてくださった。そのおかげで、つらい学校生活も頑張ることができた。
 相手に無視されることは、本当につらい。それがどれだけつらいことか分かっているから、いじめをしている人たちが許せない。
 私が立ち直れたのは、陰で支えてくれた人がいたからだ。学校や家族はもっと児童や生徒に目を向けてほしい。ささいなことも見逃さないでほしい。見て見ぬふりだけはやめてほしい。陰で支えてくれる人がもっと増えれば、いじめは減ると思う。  
                              (熊日 平成25年7月6日 若者コーナー)


資料13
                      子供をほめて自己実現増幅
 小学校1年生の孫が通知票を持って来た。通知票には、学習の様子、係の役割、出席状況、身体の様子、そして子どもの学校での暮らしぶりが所見として担任の先生の心温まる言葉で、実に丁寧に書き記してある。
 所見を声に出して読み、「うわー、2学期は1日も休まなかったんだね。体が丈夫になったね。『計算ができる』や『本読みができる』は、三重まるになっている。勉強もがんばっているね。係の仕事も一生懸命している。お友達とも仲良く遊んでいる。すごいぞ!」とほめると孫は、はにかみながらもうれしそうに「学校は楽しいよ。」と声を弾ませて応える。家族一人ひとりに通知票を見せながら、学校での様子を話している。その得意げな顔。瞳が輝いている。
 自分がしたことを人から認められたり、ほめられたりすることで存在感や有用感を実感する、いわゆる「自己実現」を味わっているのであろう。この自己実現が、現在はもとより生涯にわたっての学習意欲をかきたてる源であるという。公民館講座やカルチャーセンターなどで学んでいる意欲旺盛な人のほとんどは、小中学生時代に「自己実現」を実感する機会が多かったようだ。
 子どもたち一人ひとりの学習や生活の様子などつぶさに観察し、通知票にまとめて保護者に伝えることは大変な労力であろう。先生方のご苦労に頭が下がる。心を込めて作られた通知票をもとに家庭でも子どもたちを認め、ほめ、励まし、伸ばしたい。このことが子どもたちの「自己実現」を増幅させ、学習意欲旺盛で主体的に生きる人づくりにつながるはずだ。
                                      (熊日新聞「読者の広場」 平成18年1月13日 掲載)


資料14
           「第63回人権週間」のテーマ
 国際連合は、昭和23年(1948)12月10日の第3回総会で、自由、正義、平和の基礎である基本的人権を確保するために、世界人権宣言を採択しました。
 昭和25年第5回総会で、世界人権宣言が採択された12月10日を「人権デー」と定めました。
  ※世界人権宣言第一条
    すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
日本では、法務省と全国人権擁護委員連合会が、昭和24年から毎年12月10日を最終日とする1週間を、「人権週間」と定めました。
 この期間中、人権尊重に関する啓発活動を集中的に行っています。
 「第63回人権週間」のテーマ
 「みんなで築こう 人権の世紀 
     〜考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心〜」

                論語

 子貢問うて日く、一言にして以て身)を終)うるまで之)を行うべき者有りや。
 子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

 「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えて下さい。」
 「その字は恕です。常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさと思いやりのことです。自分がして欲しくないことは人にしてはなりません。」



                     感想

分かりやすくとても良かった。人権感覚を育てていく私たちの人権感覚を磨いていく必要があると改めて思った。

人権についていろいろな面から考えることができ、心を揺さぶられる話が多かった。

たくさんの資料があり、大変分かりやすい講演であった。特に「すりこみ」の話は、自分自身も考えさせられた。

 中川先生の優しい語りかけがとても印象的で、担任をしている身として、とても考えさせられる講演内容だった。資料は、道徳をはじめとして様々な教育活動で使うことができるものばかりで、ぜひ活用したいと思った。

 実際に資料を見ることができたので、心で感じることができた。

 中川先生の話は、具体的な事例(資料)にもとづいたものだったので、分かりやすかった。人権感覚はいつも磨かなければとっさの行動として表れない、自分も常に磨かなければと思った。

 熱のこもった話しぶりで、内容も示唆に富むものでよかった。

 自尊感情を育てることは人生をこれから長い間歩いていく子どもたちにとって、とても大切で不可欠なことだと思った。そういう感覚と人権感覚は切り離せないことを実感した。

 集団的自尊感情という言葉が心に残った。そのような子どもたちやクラスを作っていきたいと思った。

 資料の話はそれぞれ考えさせられるよい話だった。しかし、私たちは「部落差別をなくす教育内容の創造」のために、学んでいかなければならない。まだまだ、差別が根強く残っているし、子どもの中にも差別発言がある厳しい現実に向き合い、自分の実践を一歩でも前進させられるような内容の話も伺ってみたい。

 固定観念にマイナスイメージがつくと偏見や差別が生まれるという話は自戒を込めて胸に刻みたいと思う。想像力と実践力をまずは自分で身につけていきたいと思う。