こころ豊かに生きる〜身近なことから考えてみませんか〜
平成20年9月9日
木倉公民館


 ただ今ご紹介いただきました中川です。
 公民館長とは益城中学校の同級です。それで、今夜おじゃましています。
 びっくりしていますのは、中学校時代の恩師がおいでていることです。恩師を目の前に話をするとは思ってもいなかったものですから、今ドキドキしています。先ほどお聞きしましたところ、今年76歳という事です。ますますお元気でうれしく思います。
 私が中学生の頃は、25歳の元気のよい頃だったと言われました。教育熱心で、御船中学校には負けるなととても錬われました。時にはびんたもありました。褒めてもいただきました。私たちは、5年に一度同窓会を開きます。そのとき、一番においでるのは先生です。先生は同窓会では、いつも生徒の輪の中にいらっしゃいます。当時も今も生徒に人気のある先生です。
 木倉公民館活動がとてもさかんであることは、以前から知っていましたが、8月、上益城郡公民館研修会で、「地域の環境美化、学習活動、公民館祭りなどを通して、自分たちが住む地域は自分たちで作り上げていくという心意気」を地区の方がお持ちであることを公民館長から聞きました。スライドでは道ばたの花壇、国道沿いの彼岸花植栽など皆さんの活動を見ました。感心したところです。
 私は、時々、熊日新聞に投稿します。先日、「地域とは生きる場であり、自分たちが創っている作品であるという思いをみんなで持ち、地域づくりにあたりましょう」という内容を投稿し、新聞に掲載してもらいました。まさに、その気持ちを校区民の方がもって地域づくりに励んでおられます。
 先日、御船町営プールに行く途中、国道の交差点で、一人の方が空き缶を拾っていらっしゃいました。さらに、煙草の吸い殻やゴミを拾っている方もおいででした。
 このように心豊かな人がたくさんいらっしゃる地域で人権について話ができること、たいへんうれしく思います。日頃思っていますことをお話しし、皆さんと人権について考えたいと思います。
 妻の母が8月29日、脳内出血で急死しました。葬儀社の方に来てもらって、葬儀の日取りなどを打ち合わせました。
 葬儀社の方が、「今夜は仮通夜、明日の晩が本通夜、31日葬儀が一般的と思いますが、31日は「友引」です。友引という考えは、浄土真宗とは全く関係のないことだとお寺さんから言われています。どうされますか」と話がありました。私も遺族もこの六曜の考えを気にしていませんので、31日に葬儀を済ませました。
 葬儀社の方が丁寧に説明してくださったのは、これまでの同和教育、人権教育の成果だと思います。
 しかし、よく考えてみると、私たちは日頃は「今日は何の日」かを意識して生活していないのに、結婚式だ、葬儀だ、棟上げだというときに「今日は何の日だろうか」となるのはおかしなことです。
 「今日は人権教育の研修会だ。何の日だろうか」と暦で調べてこられた方はいらっしゃいますか?
いらっしゃらないでしょう。六曜の考えにとらわれない生活をする人が増えています。しかし、結婚式場あたりでは、まだまだ、六曜の考えがあるようです。大安の日は大盛況でしょう。仏滅の日は安くしているところもあるように聞きます。大安の日に結婚式を挙げれば離婚しない、仏滅の日に結婚すれば離婚するのであれば、また違ってくるでしょうが、大安の日に結婚した人でも離婚する人はいると聞きます。
 このように科学が進んでいる現在も、科学的に根拠のない考えに惑わされるのはおかしな話です。このことを、もうお亡くなりになられましたが、高千穂正史さんは「愛語問答」で次のように述べています。
 私たちはいま、7日間という週を単位として生活しています。しかし、昔の日本には週はありませんでした。そこで、上旬中旬というふうに10日単位を用いていましたが、これでは細かい1日単位の表現が不自由ですね。そこで、6日を1周とした周期を作りました。それが先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口で、六曜とか六輝と呼ばれるものなのです。
 これは、足利時代の末期に中国から伝わった時刻の名前を日に転用したものです。当時ですから旧暦です。毎月の1日を次のようにすると勝手に定めました。すなわち、正月と7月の1日は先勝、2月と8月の1日は友引、3月と9月1日が先負、4月と10月1日が仏滅、5月と11月1日は大安、6月と12月1日は赤口という具合です。ですから、月によっては六曜が途中で終わったり、ときには友引が2日続くという場合も出てくるわけです。
 このようにして定められ、ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことです。
 この六曜の考えは、個人レベルですので社会全体に何かを及ぼすと言うことはありませんが、迷信の一つに「三隣亡」があります。関東地方のある県で、「三隣亡の日に隣で棟上げがあった。自分の家まで災いがあってはたまったものではない」と棟上げしたばかりの家に放火するという事件があったと聞いたことがあります。こうなると、大きな社会問題ですね。
 三隣亡について調べてみました。三隣亡とは、この日に建築すると、後日火災に見舞われ、近隣3軒まで滅ぼすといって忌む日のことです。
 調べたことによりますと、三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかもはっきりしてはいないそうです。しかし、江戸時代に入ってから確立されたとされています。
 江戸時代の本には「三輪宝」と書かれて、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていたそうです。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになるのです。これがある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかとされているそうです。ただ、真偽のほどは分からないそうです。後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで同音の「三隣亡」に書き改められたとありました。こんなことを信じて、放火事件が起きるというのはおそろしいことです。
 徒然草を書いた吉田兼好は、徒然草九十一段で「陰陽道で万事に凶であるとする赤舌日(しゃくぜちにち)を迷信であるとして、「これにとらわれる必要はない。吉凶は人によるものであって、日によるものではない」と言っています。
 私は、迷信を信じるなと言うのではありません。みんなが言うからそぎゃんだろうとそのまま信じることの怖さを知っていただきたいのです。生涯学習の時代といわれています。「そうかな?」と思ったら自分で調べ、学び、ものごとを正しく知り、正しく判断する態度を持ちたいものです。私たちは、空気を吸うがごとく知らず知らずのうちに思い込んでしまっていることが意外と多いのです。
 この思いこみには、作られたものもあります。私は学生の頃、高倉健さんの「網走番外地」という映画をよく見ました。皆さんもご存じでしょう。網走番外地というのは網走刑務所のことで、刑の重い人が服役している所だということでした。この網走刑務所に服役している人は、どんな人が多いかを調べたところ、長男が一番多かったそうです。そこで、「長男には悪かこつする者が多か」と言った人がいます。私は長男です。この話を聞いてとても驚き、反論しました。長男ばかりが悪かこつするのではありません。次男でも三男でも悪い人はいます。
 服役している人の中には、長男が一番多いから長男は悪者の考えの間違いは、皆さんお分かりでしょう。世の中には長男が一番多いのです。子どもが一人でも長男です。子どもが4人いても男の子は一人なら長男です。世の中には、長男が一番多くて、次男、三男となるにつれて数が少なくなるのです。長男が一番多いわけですから、悪いことをする人もいれば善いことをする人も一番多いのです。
 「ちょっとおかしかばい」と思ったら自分で調べるようにしたいものです。

写真の女性はいくつくらいに見えるでしょう?
 おばあさんに見える人?(15人程度挙手)
 少女に見える人?    (10人程度挙手)
 どちらにも見える人? (10人程度挙手)
 (「顎が突き出て、鼻が大きいなおばあさんだと思ってみていたら、鼻は顎にも見えるよ」など隣同士で話し合う声が聞こえる。)
 どうしても両方に見えない方はいらっしゃいますか?(0)

 皆さん両方に見えますか。すごいですね。
 この絵を見て次の3つのことを皆さんに気づいて欲しいのです。
 一つは、見方を変えることの難しさです。最初に知ったこと、感じたことを変えるのはかなりの労力が要ります。そして、それが難しいです。だから私たちは出会いが大切なのです。
 二つは、見つめ直しの大切さです。違う角度から見つめ直してみると、これまでと違ったものが見えてくることがあります。「こうだ」と決めつけないで見つめ直すことを日頃の生活の中で取り入れて欲しいと思います。
 三つは、一つの見方に注目すると、他が見えにくくなることです。人権問題も同じで、「差別は社会問題だ」と強調しすぎると「差別は人間個人の課題でもある」ということを忘れがちになります。逆のこともあります。
 人権問題は社会問題であると同時に人間個人の課題であることをきちんととらえておくことが大切です。
 その人権を守ることについて日常生活の中のたくさんの素材の中から考えてみましょう。資料に載せています「二人の裁判官」は、オーストラリアの人権教育で使われる教材です。裁判官と被告との関係は、どんな関係かを考えながらよく聴いてください。


                          二人の裁判官

 二人の裁判官が夕食の後、仕事のことについて話し合っています。
 一方の裁判官が、「今日の昼間の裁判の男どうしましょうか?もしあなたが私だったら、どのように裁きますか?」と質問しました。
 それに対して、もう一方の裁判官は、「あなたは私が答えられないと言うことを知っているはずです。彼の父親は5年前に死んだと言うだけでなく、彼は私の息子でもあるのです」と答えました。

 どうでしょうか? (裁判官は母親というつぶやきが聞こえる)
 そうですね。母親ですね。あるところでは、養子縁組をした子という回答がありました。それも間違いありませんね。でも、母親と考えるとすっと胸に落ちますね。
 同じようなものに、「息子よ 息子」があります。既に聴かれた方はもう一度温め直してください。初めての方は目を閉じて一生懸命聴いてください。 


          息子よ、息子!

 路上で、交通事故がありました。
 大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。
 父親は即死しました。
 息子は、病院に運ばれました。
 彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
 外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。

 外科医は、この息子の何にあたるでしょうか? (外科医は母親とのつぶやきが聞こえる)
 皆さんは、すごいですね。外科医は母親とおっしゃる。
 外科医は男性とばかり思い込んでいると、この話はすとんと胸に落ちないのです。外科医が女性であると分かればすっと胸に落ちるでしょう。
 知らず知らずのうちに、私たちの意識の中に、男性や女性の職業に対する固定観念や思いこみが自分にもあると気づかれた方もおいででしょう。自分では全く気づかずに、誤った思いこみや偏見を心に植え付けてしまうことがあるのです。
 次3つのは、どれが「固定観念」、「偏見」、「客観的な意見」だと考えますか?

    @先生はみんな親切だから好きだ。
    A私には親切な先生がいてうれしい。
    B先生というのは親切なものだ。

 「先生というのは親切なものだ」は、固定観念ですね。残念ですが、親切でない先生もいます。
 「私には親切な先生がいてうれしい」は、客観的な意見ですね。「親切な先生がいてうれしい」は、そうでない先生もいることを前提にして話しています。
 「先生はみんな親切だから好きだ」が偏見となります。「みんな親切だ」は固定観念です。しかし、それに「好きだ」という感情が付いています。これが、ある特定の集団に属しているというだけで、「好きだ」「嫌いだ」「敬う」「見下す」という態度をとることになります。これが偏見です。この偏見は、マイナスイメージを持っているときに生まれやすいのです。偏見が時として、差別につながることがあります。固定観念で人を見ないようにすることが大切だと思います。 
 では、どうしてそう思い込むのでしょうか?
 皆さん、魚の絵を描いてみましょう。(3分程度自由に描く) (ほとんどが頭が左向きの魚を描いている。)
 どなたか、ここに描いてくださる方はいらっしゃいませんか? (左向きの魚を描いた人に描いてもらう) 
 すばらしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。皆さん拍手で褒めてください。
 ここでは、「絵が上手」かどうかを問題とするのではありません。描いた魚の頭はどちらを向いているかを問題としたいのです。
 ここに描いていただいた○○さんと同じ左向きを描かれた方?(30人程度挙手)
 右向きの方いらっしゃいますか?(2人挙手)
 ほとんどの方が左向きです。
 どこの研修会でも、本日のようにほとんどが左向きの魚を描かれます。どうしてそうなると思われますか? (料理では魚は左向きに置く、写真や図鑑で見る魚はほとんど左向きなどのつぶやきが聞こえる)
 そうですよね。魚の写真や絵はほとんど左向きです。あるところでは料理に出す魚は左向きと決まっているという話を聞いたこともあります。私たちの毎日の生活の中にある絵や写真、料理で見る魚の頭はほとんどが左を向いていますね。私たちは空気を吸うごとくに無意識のうちに「左向きの魚」を学習しているのです。右向きの魚の絵を描かれた2人の方は自分の考えをもっておられてすごいと思います。(右向きの絵を描いた人は左利きの人かも知れないというつぶやきが聞こえる)
 右向きの絵を描いたお二人は左利きですか?(右利きですの答が返ってくる)
 利き手の違いではないようですね。
 では、次に牛の絵を描いてみましょうか。
 牛の姿をイメージしてください。色を付けてください。
 お尋ねします。
 あか牛をイメージした方?(20人程度)
 くろ牛の方?(0人程度) 
 白黒のホルスタインの方?(15人程度)
 阿蘇郡産山村で聞いたときは、全員があか牛でした。
 天草で聞いたときは、くろ牛の方が多かったのです。
 私は、白黒のホルスタインをイメージします。私は農家の長男で、小さい頃乳牛を飼っていました。牛を運動に連れて行ったり、乳搾りをしました。
 どうしてこんなに違った牛の色をイメージするのでしょうか?
 それは、自分の身近にいる牛が直ぐに浮かぶからです。これを刷り込みといいます。この刷り込みが時として、思い込みとなり、そして偏見になることがあるのです。
 人はだれひとりとして「偏見」を持って生まれてくるわけではありません。私たちは、子どものころから、空気を吸うように「紋切り型の考え」を無意識のうちに身につけていきます。
 次に、ある町内会での話し合いの場面を書いた文章を読んでみます。不快に感じる言葉があったらメモしてください。


(司会)「本日は、お足元の悪い中、ご出席いただきありがとうございます。それでは、早速説明させていただきます。私、若輩者ですので、十分な説明にならないかも知れませんのでよろしくお願いします。・・・・・(中略)
 以上です。舌足らずな説明になりましたが、若造ゆえお許しいただきまして、ご意見をよろしくお願いします。時間の関係もありますので、手短にお願いします。」
(参加者)「年寄りが口出すものではないかも知れませんが、一つだけ言わせてもらいます。・・・」
(参加者)「女、子どもの意見にろくなものはないと思わずに、私たちの願いに耳を傾けてください。・・・」
(司会)「以上で終了します。先ほどの件につきましては、会議の方は奥さん方に出席していただいて、役割の方にはご主人を載せるということでよろしいでしょうか。」

 今読みました文章の中の言葉には、相手に不快な感じを与えるものがあります。不快に感じられた言葉がいくつかあったでしょう?
 (「年寄りが口出すものではない」「女子どもの意見にろくなものはない」「若輩者」「舌足らず」「手短に」などの声が出る。)
 「舌足らずな説明」「女子どもの意見にろくなものはない」など、不快に感じられた方が多いですね。
 説明不足をこのような表現をすることはおかしいことですね。身体の一部を使った言い表し方がたくさんあります。「手短に」もそうですね。身体の一部を使った言葉の中には「不快」いや「差別的響き」を感じる場合があります。
 6年生は長崎へ修学旅行へ行きます。長崎では原子爆弾の投下でたくさんの犠牲が出ました。その中に爆風で、鳥居の片方が吹っ飛んで足が1本で立っている鳥居があります。これを以前は片足鳥居と表現してありましたが、今は「1本足鳥居」と呼び方が代わっています。「片足鳥居という言葉を聞いて、不快に思う人がいるのなら使わないようにしよう」。これは、これまでの同和教育、人権教育の成果だと思います。
 「年寄りが口を出すものではない」の言葉も高齢者差別につながりますね。
 次のそれぞれの言葉や表現について、どの程度差別的表現が含まれていると思いますか。
 「差別的表現は含まれていない」「少し含んでいる」「かなり含んでいる」「非常に含んでいる」「わからない」の該当するところに印を付けてみてください。
 「父兄」という言葉はどうでしょうか?
 この言葉は、戦前の家父長制の名残や男性社会を示す言葉ですね。学校では保護者と言っています。今、父兄という人はほとんどいませんが、時々、テレビや新聞、雑誌などでこの言葉を聞いたり目にしたりすることがあります。まだまだ、啓発が必要です。
 「良妻賢母」はどうでしょう?
 皆さんは「3従の教え」という言葉を聞いたことはありますか?「家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫死しては子に従う」というものです。あくまで男性を立てて、子育てをし、自分を犠牲にする生き方を言っています。女性蔑視と感じる人が多いですね。
 「片手落ち」は先ほど言いました。
 「らい病」はどうでしょうか?
 かって「らい病」は公的な使われ方をしていましたが、現在では差別語です。「ハンセン病」といっていますね。
 「知的障がい」はどうでしょうか?
 「精神薄弱」という言葉が不快感を与えるなどの議論があり、それに代わる言葉として「知的障がい」が使われています。
 今、北京ではパラリンピックが開かれています。日本人選手が大活躍しています。資料には「障がい」と書いています。以前は「障害」と漢字で書いていましたが、障がい者の障がいは「さしつかえる」の意とはちがいます。ですから、障がいと使われているようです。
 「同和」はどうでしょうか?
 「同和」の語源は、「同胞一和」とか「同胞融和」の略と言われています。「同和地区」、「同和行政」などと使われてきました。私が社会教育主事の頃、研究集会で「あなたが同和地区の人々と言う度に、私は鉄槌で頭を殴られるような思いをします。同和教育とか同和地区などと使われていますが、「同和」という言葉を聞く度にこのような思いをする人がいることを知っておいてください」と地区の人から言われたことがあります。それは、「同和の人」などと差別的に使われてきた経緯があるからです。「同和」という言葉だけを使うことは差別性を含む表現として不適切です。「同和行政」とか「同和教育」などのように複合語で使います。
 「文盲率」はどうでしょうか?
 字が読めない、書けないことを目が見えないことに例えています。目が見えなくとも様々な手段で読み書きが出来る人は多いですね。「非識字率」という言葉を使います。
 「痴呆症」の「痴呆」の意味や感じ方が不快であることから「認知症」という言葉を使っています。
 「と殺場」の「と殺」は差別語です。「殺す」という言葉から職業差別につながる響きがあります。「と場」とか「食肉処理場」という言葉が使われています。
 「バカチョンカメラ」はどうでしょうか?
 この「バカチョンカメラ」の言葉で次のような話を聞いたことがあります。韓国旅行をした人が、使い捨てカメラを取りだして、近くにいた韓国の人に「これで写真を撮ってください」と頼んだとき、韓国の人が「どうすればよいですか」と聞きました。「このカメラはバカチョンカメラですからこのシャッターを押すだけです」と言ってにこにこしながら写真を撮ってもらったそうです。ところが写真を撮った韓国の人は目にいっぱい涙をため、体が震えていたそうです。旅行者は「バカチョンカメラ」が差別語、韓国や朝鮮の人を差別する言葉とは知らなかったのです。
 皆さんはご存じでしょう。「バカ」は「馬鹿」、「チョン」は「朝鮮半島の人々」を指し、それらの人々に対する蔑視的表現で差別語という意見があります。「使い捨てカメラ」また、「インスタントカメラ」と言います。
 「外人」は「害人」を思い起こさせると言うことから蔑視的響きを感じる外国人が多いそうです。
 「表日本」「裏日本」、私は小学校の頃社会科でこのように習いました。しかし、「裏」という言葉にマイナスイメージを持つ人が多いのも事実です。今は、「太平洋側」「日本海側」と言う表現をしています。
 「歩くから人間」という広告には、多くの人から抗議があったそうです。特に障がいがある人や関係者に対して極めて不快感を与えます。
 これまで見てきましたように、発言する方は差別しようと思わなくとも、その言葉を聞いた人が極めて不快を感じたり、差別感を持ったりすることがあることが分かったと思います。
 「この言葉を使うと何か言われるけん使わんでおこう」ではなく、「この言葉で心を痛める人がいる。私には言葉は使えない」となりたいと思います。
 身の回りのことをもう一度見つめ直すことが大切です。
 日常の生活の中で人権感覚を育てることはとても大事なことと思います。
 皆さん、小さい頃よく歌われた童謡「七つの子」を一緒に歌ってみましょうか。


        七つの子

    烏 なぜ啼くの 
    烏は山に 
    可愛い七つの 
    子があるからよ
    可愛い 可愛いと 
    烏は啼くの 
    可愛い 可愛いと 啼くんだよ    
    山の古巣に 
    いって見て御覧 
    丸い眼をした いい子だよ

 ありがとうございました。日本の童謡の中でも、最も広く知られた名曲のひとつですね。
 野口雨情がなぜ詩の題材として、カラスという鳥を選んだのでしょうか。
 黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは“不吉な鳥”として嫌われてきました。
 カラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現したもので、雨情らしい暖かな視線を注いだ詩ですね。黒いから不吉な鳥と決めつけることのおかしさを私たちに説いているようです。
 資料に付けています新聞のコピーは、平成18年度熊本県中学生人権作文コンクールで、最優秀賞 熊本地方法務局長賞 御船中 藤木あみさんの「言葉一つで」という人権作文です。現在、中学3年生ですね。皆さんの中には読まれた方もおいでと思います。私が読みますので一緒に読んでください。


                         言葉一つで

 「かんおけ!かんおけ!」私は、一瞬自分の耳を疑った。私の後ろの方から、何度も何度もそう言ってくる男の子の声が聞こえてきたのだ。
 あれは、私が小学4年生の体育の授業が始まる前だった。私が振り返るとその男の子は、ニタッと笑い、走ってどこかへ行った。どうしてその男の子は、そういう事を何度も繰り返し言うのか意味が分からず私は、ただそこに立ちすくんでいたのを今でもはっきり覚えている。あれから3年たった今でもたまに、「かんおけ!かんおけ!」「なんまいだあ!チーン」等とふざけて言ってくる人がいる。それは、多分私の父の職業が冠婚葬祭業で、結婚式や様々な宴会のお手伝いをする他に、人生の最後を迎えられた方々のお世話をする葬儀の仕事をしているからだと思う。父の仕事を立派な仕事だと思い、父を尊敬している私にとっては、父の全部を否定されている様で、とても悲しい気持ちになる。ただちょっとした冗談半分で言っている言葉が人をどれだけ傷つけるか、言っている本人には、その心の痛みが分からないのだろう。
 私は、先日母と弟と車に乗っていてとても衝撃的な場面を目にした。丁度信号待ちをしていた時で、自転車にたくさんの空き缶を乗せて少しよろよろと運転しているおじさんがいた。一瞬ふらついたおじさんを見て、
「おじさん、だいじょうぶかなー」
とみんなでおじさんを見ていた。そのとき信号が青に変わり、動き出そうとした前の車の助手席側の人が急に窓を開け、
「おじさーん、邪魔!邪魔!」
「そんな空き缶抱えて迷惑なんだよ!」
とそのおじさんに向けて大声で怒鳴る姿があった。おじさんは、乗っていた自転車からぱっと降りて、車の人に右手を上げ、軽くお辞儀をした。ほんの一瞬のできごとだったが私は、目が点になり、体が震えた。確かに自転車に乗っていたおじさんは、たくさんの空き缶を積み、今にも倒れそうな感じではあった。その人は、おじさんの身の安全を心配するどころか、逆に犬でも追いはらうかの様な言い方で
「邪魔!邪魔!」「迷惑なんだよ」
とは、一体どういうことだろう。自分をどれだけえらい人間だと思っているのか!人を見下した様な言い方をする人に私は、強い怒りを覚えた。それと同時に「かんおけ!かんおけ!」と言われる自分の姿とそのおじさんの姿が重なり、なんだか悔しくて、涙が出そうになった。
 今の世の中の流れが人間を地位や名誉、財産等物質的な判断でしか見られなくなった、その典型的な表れが、こういった言葉でつい口から出てしまうのではないのかと思う。同じ人間でありながら、その人の職業、財産等で区別したり、接し方をかえたりしていく事は、絶対にいいことだとは思わない。
「何に対しても、いつも感謝の気持ちだけは忘れない様に」
とは、父や母が日頃私や妹、弟たちに言っている言葉である。そんな父達は、高速道路の料金所、食事をしに行ったレストラン、スーパーのレジ、または、道路工事をされている方々にも、いつも
「ご苦労様です」
「ありがとうございます」
という声をかけている。小さい頃からその光景を見たり、聞いたりしている私だが、その言葉の数々がなんと重みのあるすばらしい言葉なのだろうと最近になり、ようやく分かる様になってきた。何げない言葉一つで、いやな気持ちになったり幸せな気持ちになれたりと言葉とは不思議な魔力をもっているものだ。私自身も、父と母の姿を手本に「ありがとう」と、素直に、誰にでも言える人間になりたい。
 人は、決して一人で生きている訳ではない。みんなで協力し合い、助け合いながら日々生活を送っている。まわりの事を考えず自分勝手な考え、言動、行動がどれだけ多くの人たちの迷惑となり、または、人の心まで傷つける事となるのか、今私たちが一番に考えていかなければならない大きな課題だと思う。
「どんまい!どんまい!」
私は、友達から投げかけられるその言葉に今まで何度勇気づけられ、励まされてきた事だろう。言葉一つで、私が幸せになれた様に、今度は、私が、友達や家族また世界の人々に幸せになる言葉を投げかけていきたい。
 この世に存在する全てのものに、いつも思いやりと、やさしさと感謝の心を持ち続ける事、それこそがいうならば戦争のない世界平和へもつながるのではないかと思う。人と人が憎しみ合ったり、争ったりする事のない平和な世界が、一日も早く訪れる事を私は心より願う。

 いかがですか?
 藤木さんは言葉の持つすばらしさ、そして怖さを訴えています。言葉一つでみんなが心豊かに過ごす事ができる世の中にしたいものです。
 予定の時間よりオーバーしました。しかも私の思いを一方的に話した様に思いますが、皆さん、頷きながら、相づちを打ちながら聞いていただきました。木倉校区の皆さんが互いの人権を尊重し、心豊かに過ごされます事を祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。



お礼の手紙

 先だってはご多忙のところ、私どものためにご来場頂きまして、人権講話をお話になりまして、心よりお礼を申し上げます。
 お話も、とてもわかり易く最後まで時を忘れて聴き入りました。
 人権学習は、とても難しく日頃からどういうところから入って議論していくのか迷ったりしておりますが、古い習慣や意識の中に気付かないうちに偏見が生きづいているという話はわかり易く、うなずける事ばかりでした。
 「幸せはみんなの願い」の通りみんなが幸せに生活していけるそんな社会づくりに勤められている事に期待しております。
 また機会がございましたらご講話を聴きたいと願っております。
 今後のますますのご活躍をお祈り申し上げます。
 先ずはお礼旁々認めました。
               早々


木倉公民館だよりから

人権講話開催される  こころ豊かに生きる

 去る9月9日(火)木倉公民館主催の人権講話が木倉公民館で開かれました。
 講師は、益城町教育委員会指導員の中川有紀先生。
 お話の題は「身近なことから考えてみませんか〜こころ豊かに生きる〜」でした。
 お話はいきなり魚と牛の絵を描くことから始まりました。
 日本人は、お皿の上の魚の姿から頭が左向きの魚の絵を描くこと、牛の絵はあか牛、黒牛、白黒の牛のうち、周りでよく見かける牛を描きがちだという例をあげ、人は知らず知らずのうちに固定観念や偏見を身につけてしまっていると指摘されました。
 ことばについても、大安や仏滅、三隣亡などを空気を吸うように信じ込んでいる。身体の障害を表す言葉や女性を軽視する「父兄」という言葉も平気で使ってきた。
 そんな誤解や無感覚が偏見を生み差別につながっていく。
 私たちはそのことに目覚め、日常生活の身近なところで間違った固定観念や偏見を改め、人権感覚を身につけていきましょうと訴えられました。
 巧みな話術に笑ったり胸がきゅんとなったりして、時間を忘れてお話に聴き入りました。