共に生きる 〜広げよう 地域に根ざした 思いやり〜 |
平成22年12月21日 |
合志市ヴィーヴル |
ご紹介いただきました中川でございます。よろしくお願いいたします。
今年の夏は連日35度を超える猛暑でした。あの暑さを忘れさせるようなこの冬の寒さです。民生児童委員の皆さん方は暑さ寒さを乗り越えて地域にやさしさを届けていらっしゃいます。敬意を表します。
夏には、高齢者の方の孤独死や所在不明問題などが明らかになり、民生児童委員の皆さんの仕事がクローズアップされました。みなさん方の仕事に多くの人が目を向けるようになりました。
私は現職の頃、児童の家庭の生活保護や準要保護の申請、家庭状況の情報収集等民生児童委員の皆さんには大変お世話になりました。学校と地域と連携した学習発表会などでも大変お世話になりました。ある学校に勤務していますとき、「子どもたちが川で船遊びをしていました。とても危険ですので厳しく注意しておきました。学校でも指導して下さい」と学校までおいでておっしゃったこともありました。隣の中学校長の話では、「橋の下で中学生がたばこを吸っていたので厳しく注意しておきました。学校ではたばこの害を教えて下さい」と学校に来ておっしゃったと聞きました。まだこの頃は、「どこどこで中学生がたばこば吸いよる。学校はなんば指導しよっとか」とのお叱りの電話があっていた頃です。大変嬉しく思っていました。
現在は、児童生徒の不登校あるいは虐待などの情報提供、そして支援等で大変お世話になっています。
皆さんの活動は福祉から教育、さらには環境問題等まで多岐にわたり住みよいまちづくりには欠かせないものです。そのような皆様方と人権について考える機会を与えていただきましたことを大変うれしく思っております。
早速ですが、魚の絵をイメージしてください。レジュメの空いているところにイメージした魚を描いてみてください。(ほとんどの人が左向きの魚を描いている。一人に左向きの魚の絵を描いてもらう。)
○○さんと同じように左向きの魚の絵を描きましたか?(違うという声が聞こえる)
違う魚の絵を私が描いてみます。(右向きの魚の絵を描く)
皆さんにお聞きします。手を挙げてみてください。
○○さんと同じように左向きの魚の絵を描いた方?(200人以上のほとんどが挙手)
私と同じように右向きの魚を描いた方?(6人ほど挙手)
ほとんどの方が左向きの魚を描いていらっしゃいます。
私は「魚の画を描いてみましょう。」と言いましたね。「左向きの魚の絵を描きましょう。」とは言いませんでした。にもかかわらずほとんどの方が左向きの魚の絵を描きました。
こんな事が起きるのは一体、どういう事なのでしょうか?
私たちの周りにある魚の絵、写真、そして料理に出る魚はそのほとんどが左向きです。図書館等で魚の図鑑を見てください。9割近くは左向きの魚です。5月の鯉幟の絵もほとんど頭は左を向いています。私たちは小さい頃からこれら目にして、空気を吸うが如くいつの間にか知らず知らずのうちに「魚の絵は左向き」を学習しているのです。これを刷り込みといいます。この刷り込みが時として思い込み、偏見となるのです。偏見はそのほとんどがマイナスイメージとして作られます。そしてその偏見が差別につながることがあるのです。
この意味から、右向きの魚を描かれた方は魚の絵を刷り込まないでご自分の考えをお持ちだと言うことですからすごいことだと思います。
牛の色をイメージして下さい。お尋ねします。
あか牛がすぐに思い浮かぶ方?(半分程度)
くろ牛は?(6分の1程度)
白黒 ホルスタインを思い浮かべる人?(3分の1程度)
あか牛を思い浮かべる人が多いですね。阿蘇の産山村でお尋ねしたときは、全員の方があか牛でした。天草ではほとんどの方がくろ牛でした。熊本市周辺では3分の1程度ずつです。牛の色も小さい頃身近に見た牛の色がすぐに思い浮かびます。これも「牛の色=○○」という刷り込みですね。
別のことをお尋ねします。カラスについてプラスイメージを持っていらっしゃる方、挙手してみて下さい。(挙手無し)
マイナスイメージを持っている方は?(ほとんどが挙手)
私も皆さんと同じでカラスに対してマイナスイメージを持っていました。
小さい頃、田んぼ一面にカラスが舞い降りて落ち穂などを突いているのを見たりカラスの鳴き声を聞くと、「今日は良かこつは無かバイ」など言っていました。
本当にカラスって縁起が悪い鳥でしょうか。
皆さんは野口雨情が作詞した「七つの子」という童謡を歌った記憶があるでしょう。
七つの子 野口雨情 烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ 可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ 山の古巣に 行つて見て御覧 丸い眼をした いい子だよ |
野口雨情はなぜ詩の題材として、カラスという鳥を選んだのでしょうか。
黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは「不吉な鳥」として嫌われてきました。そのカラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現しています。「黒い色=不吉」と決めつけていることのおかしさを私たちに訴えているように思います。
雨情の思い、子煩悩な親鳥に思いをはせて一緒に唄ってみましょう。
(「七つの子」をみんなで唄う)
ありがとうございました。とても美しい歌声でした。いかがですか?雨情の思いに共感できたことでしょう。
「あの人は、自分とは合わない、ちがう」と決めつけることなく、自分の大切さとともに、他の人を大切にできるようになれば、世の中の差別はなくなっていくことでしょう。
「息子よ、息子!」という文を読んでみます。これまでの研修で読んだことのある方は温め直してください。初めての方、目を閉じてお聞き下さい。
息子よ、息子! 路上で、交通事故がありました。大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。 父親は即死しました。息子は、病院に運ばれました。 彼の身元を、病院の外科医が確認しました。 外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。 |
どうですか。話がすとんと胸に落ちましたか?
この話はどうもおかしかと思う方いらっしゃいますか?(3分の1程度挙手)
なぜ胸に落ちないか少し考えてみて下さい。(首をかしげる人が大勢)
外科医は、この息子の何にあたるでしょうか?
(「父親と思うが父親は即死。何にあたるかな?」、「母親だ」などの声が聞こえる)
外科医が父親だと思うとこの話は胸にすとんと落ちません。母親としたらどうでしょうか?
母親だったらすとんと胸に落ちますね。つまり外科医は女性、母親ということです。外科医は男性と思い込んでいるとこの話は胸に落ちません。私もこの話を始めて聞いたとき、なかなか胸に落ちませんでした。外科医は男生とばかり思い込んでいましたから。
魚の絵やカラス、牛の色に対するイメージで、「○○は○○だ」との刷り込みがあったとしても社会問題とはならないでしょう。しかし、この刷り込みが、思い込みとなり、時として社会的偏見となり、差別につながることがあるのです。
「同和地区の人は怖い」と聞くことがあります。「怖い目にあったのですか?」と聞くと「自分は怖い目にあったことはないが、だれでも言っている」と言います。自分で真実を確かめもせずに周りが言うからそうだと思い込んでしまう。これは社会が作り出した偏見であり、それにもとづく差別です。
それによって、苦しみ、悲しみ、憤り、心を痛めている人がいることを忘れてはなりません。後でも触れますがみんなが言うからとそのまま受け入れることではなく、「そうかな?」と立ち止まって考えてみることが大切す。
先入観は、人を見る目を曇らせます。
平成20年8月、義母が亡くなりました。
葬儀社の方に葬儀一切を頼みました。そのとき、葬儀社の方がノートをひろげて、「一般的には、今晩が仮通夜、明日の晩が本通夜、そして明後日が葬儀です。明後日は友引です。お寺さんからは、六曜の考えは寺の教えと関係はないと言われています。どうされますか?」と聞かれました。
私たちは六曜の考えは信じていませんので、「今話があったように、今夜仮通夜、明日の晩に本通夜をして、葬儀は明後日にお願いします」と友引の日に葬儀の日取りを決めました。葬儀の日、火葬場には数組みの家族が火葬の順を待っていました。科学的根拠のない六曜の考えにとらわれることなく生活している方が多くなっています。これまでの人権教育・同和教育の成果です。
友引の日に葬儀を済ませましたがどうってことありませんでした。
この六曜とは、どんなものでしょうか。どうやって今日は何の日と決めるのでしょうか。
私たちはいま、7日間という週を単位として生活しています。しかし、昔の日本には週はありませんでした。そこで、上旬中旬というふうに10日単位を用いていましたが、これでは細かい1日単位の表現が不自由ですね。そこで、6日を1周とした周期を作りました。それが先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口で、六曜とか六輝と呼ばれるものです。
これは、足利時代の末期に中国から伝わった時刻の名前を日に転用したものです。
その時、旧暦の1月と7月の1日を先勝、2月と8月の1日を友引、3月と9月の1日を先負、4月と10月の1日が仏滅、5月と11月の1日が大安、6月と12月の1日が赤口と決めたのです。ですから、月によっては六曜が途中で終わったり、ときには友引が2日続くという場合も出てくるわけです。
このようにして定められた、「ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことだ」と熊本市の仏願寺住職であった故高千穂正史さんは、その著書「愛語問答」で述べています。
「自分は差別していないが、世間が・・・」という言い方は、部落差別を始めさまざまな差別の際に、口にされてきました。「六曜は迷信であり、偏見にしばられることのない生き方をしていこう」と、カレンダーに六曜を入れない運動を進めている自治体もあります。一人ひとりの意識が変わることによって、「世間の常識」は変わっていくものです。迷信に頼る生き方ではなく、事実を知る生き方をしていくことが大切です。そのとき、偏見にしばられて生きるおかしさに気づくことができます。「そんなことにいつまでこだわっているの」と言えるよう、私たちの意識を高めていこうではありませんか。
思い込みや偏見をなくし、世間体にとらわれない生き方をするために、ものごとを、正しく学び、正しく理解し、判断し、相手の立場に立って行動できる力を身につけたいものです。
6月、私はウズベキスタンを旅するツアーに参加しました。中央アジアの国、ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。
マリカさんという日本語ガイドさんが案内してくれました。彼女はウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだということでした。留学期間中、日本の旅行も楽しんだそうです。京都が印象に残っていると話しました。そして、金閣寺や銀閣寺はとてもきれいだったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だったと言いました。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたとも言いました。
この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。また、江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。被差別部落の人々が日本文化に果たした功績は大きいのです。
被差別部落に対するマイナスイメージではなく、日本文化にかかわる仕事をした人がいたということにも目を向け、同和問題について正しく学び、正しく理解して、心の奥底に潜む差別心を払拭することが求められているのです。
また、マリカさんは私たちにこう尋ねました。
「みなさんの中で、『ウズベキスタンに行く』と言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうですか?危険な国と思いますか?」
実は、私は知人から「危ない国には行かない方がよかバイ」と言われたのです。知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という連れ合いに「危険地域だからウズベキスタン旅行は止めよう」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、連れ合いはどうしても行きたいと言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。ツアーですから危険な地域には生きません。心配いりませんという返事です。外務省にも問い合わせました。外務省からは、個人旅行する人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょうとのことでした。
行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで、人々はとても明るく治安の心配などみじんも感じないところでした。ある一つの情報を鵜呑みにして「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。
誤解や無知は、偏見を生み、差別を助長します。それを乗り越える力が、私たち一人ひとりにあります。
21世紀は人権の世紀とも生涯学習の世紀とも言われます。生涯学び続けようではありませんか。
8年程前にスマップが歌う「世界に一つだけの花」という歌が流行りました。今もカラオケでは人気の歌だそうです。では、どうして人気があるのでしょうか。
歌詞を読んでみます。
世界に一つだけの花 花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて争うこともしないで バケツの中誇らしげ しゃんと胸を張っている それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で一番になりたがる? そうさ 僕ら世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい 困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる 頑張って咲いた花はどれもきれいだから仕方ないね やっと店から出てきたその人が抱えていた色とりどりの花束とうれしそうな横顔 名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた 誰も気づかないような場所で咲いてた花のように 小さい花や大きな花 一つとして同じものはないからNO1にならなくてもいい もともと特別なオンリーワン |
花屋の店先に並んだ花にはいろんな花があります。花はそれぞれ違う色で、違う形で咲いています。それぞれが美しく、オンリーワンであることを誇らしげにしているようです。私たちも自分自身がオンリーワンをもっと大切に考えませんかというメッセージが込められた歌だと感じた多くの人が、この「世界に一つだけの花」という歌に魅力を感じるのではないでしょうか。
ただ、「NO1にならなくてもいい」の歌詞を「努力はしなくてもいい」と誤解している人もいるようですが、この歌は、「一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌っているように、一生懸命努力して自分なりの花を咲かせましょうというメッセージも発しているものと私は思います。
今学校では、いじめ問題が大きな課題になっています。このいじめ問題は、少子化等による対人関係の未熟さ、欲求不満の増大、ストレスを発散する手段の乏しさなどから、学級や部活動などの集団の中で「ちがい」「異質性」を排除することでストレスを発散させようとすることがいじめ問題の原因の一つとされています。いじめの理由は何でもいいのです。言葉づかい、服装、体型など違いを見つけ出して排除、のけ者の対象として差別しています。
互いが違いを認め、互いの良いところを認めあえるような仲間づくりが求められています。この観点から「オンリーワン」であることを大切にする考え方が、人権のとらえ方と非常に重なり合っているのではないかと思います。
住みよい社会づくりに献身的にボランティア活動をしていらっしゃる民生児童委員の皆さんには大変失礼なことですが、お尋ねします。
「あなたは、ありのままの自分のことが好きですか」
「今さらそんなことを聞かれても、もうこれだけ長い人生を生きてきたのに」、と感じる方もいらっしゃるかもしれません。「ありのまま」というところに注目していただきたいのですが、「できる自分」、「人からいい人だと思われている自分」、そんな自分はOKだけれども、「できない自分」、「駄目な自分」、「弱い自分」はちょっと隠しておこうとか、見ないでおこうとかは「ありのままの自分が好き」とは言えません。できるところもあればできないところもあり、よいところもあれば悪いところもある、長所があれば短所がある、人間誰もが、その両面を持っていると思います。
良いところも悪いところも含めて、そのありのままの自分にOKを出せる人が、自分を大切にできる人であって、そうやって本当に自分を大切にできる人が他者の人権も心から大切にできるのではないでしょうか。
このことは「自尊感情」ということばで呼ばれています。私が私としてかけがえのない値打ちを持っている、この私を愛おしく思う、この私を私らしく生かしたい、と思う気持ちが自尊感情です。人権の原点はここにあると思います。
ところが、自分の責任ではないことで人から冷たい目で見られたり、排除されたりすることがあります。例えば被差別部落に生まれた人々はそういうことを経験してきました。障がいを持つ人も同じです。自ら選んで、自らの責任でそうなったわけでもないことがらを理由にして、社会が自分という存在を否定的に見てくるなどの扱いを受けると、ありのままの自分を「これでOK」と思いにくくなります。
すべての人が「自分はかけがえのない価値を持っていると思う社会」、これが人権尊重社会だと思います。
私は、「自分自身を価値ある存在と思う感覚を子どもたちに育んでいきましょう」とPTAの人権教育講演会や家庭教育講演会で訴えています。
世の中には、自分とは異質な文化や境遇や価値観を持った人々がたくさんいます。年齢が違ったり、出身地が違ったり、健常者、障がい者、男性、女性、子ども、高齢者など、自分とは異質な人がいます。そんな異質性を持った人たちと、いい形で出会えたり、いい関係を育むことができる社会ほど、人権文化は豊かだと思います。
金子みすゞさんの「わたしと小鳥と鈴と」を一緒に読みたいと思います。しばらく黙読してみて下さい。
では一緒に読みましょう。
わたしと小鳥と鈴と 金子みすず わたしが両手を広げても お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥はわたしのように 地べたを早くは走れない わたしが体をゆすっても きれいな音は出ないけれど あの鳴る鈴はわたしのように たくさんな歌は知らないよ 鈴と小鳥とそれからわたし みんな違って みんないい |
ありがとうございました。
小鳥は自由に空を飛ぶことができるけれども、わたしは空を飛べない。でも、わたしは地面を走ることができる。歌を歌うことができる。鈴は、きれいな音を響かせることができる。わたしと小鳥と鈴、それぞれ違っているけれども、それぞれにできることがあり、できないことがある。このことを金子みすゞは「みんなちがってみんないい」ということばで表現しています。
小さい頃ほとんどの方が唄ったことのある童謡「チューリップ」があります。資料につけています。
この歌は、東京都世田谷区にすむ近藤宮子さんが、昭和5年に作詞したものです。
「どの花みても きれいだな」という歌詞について近藤さんは、「なにごとにも良いところがあるものです。とくに、弱いものには目をくばりたい、という自分の思いをこめました」と語っています。
近藤さんの思いに心を寄せて一緒に唄ってみましょう。(一緒に唄う)
チューリップ 近藤宮子 さいた さいた チューリップの 花が ならんだ ならんだ 赤白黄色 どの花みても きれいだな |
きれいな歌声ありがとうございました。
自分とは異質な文化や境遇、価値観を持った人といい関係を育みましょう。
自分の存在を誰かがきちんと認めてくれている、自分なりに努力したことが世の中の役に立っている、誰かに感謝されていると思えれば思えるほど、人は自分の力をよりよい形で発揮します。逆に、自分という存在を周りが認めることなく、ただ否定したり無視したり、いくら努力して何かをやっても、誰も顧みてくれない。そんな否定的な扱いを受け続けると、人は自分の持っている力すらも発揮できなくなります。下手をすると、それでもなお自分がこの世の中に存在しているということを知ってほしい、認めてほしいという欲求から社会にとって悪いことをすることで、自分の存在を知らしめようとする不幸な事件が起きることがあります。
「自分の人生を終わりにしたかった」。これは、17日朝、出勤や登校のためにバスに乗っていた人に刃物で斬りつけた容疑者の言葉です。この容疑者の努力や存在を周りが認めておれば「自分の人生を終わりにしたかった」などと自暴自棄になっての犯行には及ばなかったと思います。
人権が尊重されることが大事なのは、人権が尊重されることによって、誰もが、「自分はこの世に存在していていい」、「この世に生きる値打ちを持っているんだ」と思える社会づくりが大事だからです。
誰もが仕事を通じて、地域活動を通じて、ボランティア活動を通じて、自分は社会とつながっている、私がやっている取り組みが社会にプラスになっているなどと社会とかかわって生きていることの意味を実感しながら生きているのではないかと思います。
社会と関わって生きている意味を実感できる社会づくりに努めましょう。
12月10日は、世界人権デーでした。これは、1948年12月10日、国連で世界人権宣言が採択された事を記念して決議されたものです。その世界人権宣言第1条に、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」と謳ってあります。
人権教育とは、差別を受けている人のためにやってあげようという教育ではありません。自分自身が、少しでも安心して、ありのままで生きていける人間関係を作り、自分自身が元気になる学習です。
自分自身の人権を守る、同じように他の人の人権も守る、このために、「おかしいな」と思ったことについて自ら学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し行動でいる力を身につける教育、これが人権教育だと思います。
人権に関する学習を通して、地域に根ざした思いやりを拡げ、「共に生きる」社会づくりを一歩でも二歩でも進めていこうではありませんか。
ご静聴ありがとうございました。