心豊かに生きる 楽問のススメ |
平成19年6月 |
山鹿市鹿央町多目的研修センター |
皆さんこんにちは。ただいまご紹介いただきました中川です。どうぞよろしくお願いします。
私は、司会をしていらっしゃいます山部先生とは大学時代の同級生です。一緒に勉強した仲です。そして私が牛深小学校に赴任したときは同じ牛深市内の山の浦小学校にお勤めでした。互いに若かったものですからソフトボールの試合などを楽しみました。本日はその縁で、鹿央町生涯大学にお招きいただきました。
私が牛深小学校に赴任したときのことです。校長先生が私の顔を見て「あたは、ほんなこて中川先生な。うわぁー、男ん先生な。わしぁ先生達に「今度来る先生はよかおなごの先生バイ」て言うとったのに。あたはほんなこて中川先生な」と私の顔を一生懸命見ながらおっしゃるのです。校長先生は私の名前を「ゆうき」または「ゆき」と読まれたのでしょうね。
先ほど紹介していただきましたように、「ありとし」と言います。よかおなごではありませんが、「よかおとこ」です。誰も言ってくれませんので自分でそう思っています。これから私が日頃思っていることを精いっぱいお話ししようと思います。よろしくお願いします。
先週、テレビの歌番組「BS日本の歌」を見ていましたら涙が出ました。妻が驚いて「どぎゃんかしたつな?」と言います。「どぎゃんもせん。昔ば思い出して涙が出た」と言いますと「歌番組ば見て涙流すなんておかしな人」と言います。私はおかしな者ではありません。私が小さい頃のことが蘇って涙が出たのです。
その歌は、昭和35年に三橋三智也さんが唄った「達者でな」です。皆さんもご存じでしょう。歌詞を読んでみます。一緒に読んでみてください。
(1) 藁にまみれてヨー 育てた栗毛 今日は買われてヨー 町へゆく
あゝオーラ オーラ 達者でナ あゝ オーラ オーラ 風邪引くな
あゝ風邪引くな 離す手綱が ふるえ ふるえてる
(2) おーれが泣くときゃヨー お前も泣いて ともに走ったよ 丘の道
あゝオーラ オーラ 達者でナ あゝ オーラ オーラ 忘れるな
あゝ忘れるな 月に河原を おもい 思い出を
(3) 町のお人はヨー よい人だろか 変わる暮らしがヨー 気にかかる
あゝオーラ オーラ 達者でナ あゝ オーラ オーラ また逢おな
あゝまた逢おな 可愛いたてがみ なでて なでてやろ
「藁にまみれて育てた栗毛」「今日は買われて町へゆく」「達者でナ、風邪引くな」「離す手綱がふるえ、ふるえてる」「町のお人はよい人だろか 変わる暮らしが気にかかる」。
この歌から、家族同様にして育てた馬が売られていく時の悲しさ、切なさ、馬を思いやる心の優しさがあふれているでしょう。私は農家の長男です。この光景が脳裏によみがえります。皆さんもそうでしょう。
「おれが泣くときゃお前も泣いて ともに走った丘の道」「町のお人はよい人だろか 変わる暮らしが気にかかる」馬との別れを切々と唄っています。この情景が想像できるでしょう。
先ほど、「小さい頃の体験がよみがえって涙がでた」と言いました。それは、私が小さい頃、家に乳牛を飼っていました。眉間にわずかに黒い部分があるだけで全身がほとんど白色の牛が生まれました。私は「しろ」と名付けて可愛がりました。学校から帰ると草切りに行きました。肩に食い込むほどカマゲいっぱい草を切って帰って「しろ」に食べさせていました。その子牛が結核にかかりました。育てることは出来ません。殺さねばならないのです。業者がトラックで子牛を引き取りに来ました。トラックに牛を乗せようとしますが、前足を突っ張って乗ろうとしません。牛にも分かるのでしょう。牛を父が引っ張り私が尻を押します。子牛は涙をながしながら必死で前足を突っ張り動きません。父も母も私も弟達もみんなが泣きながらやっとの思いで牛をトラックに乗せました。あの時の牛の悲しそうな顔、そしてトラックが動き出したときの「めー」という鳴き声は今でも忘れることは出来ません。
おそらくここにおいでの皆さん方もこのような体験をお持ちと思います。そして牛や馬を思いやるやさしい心を皆さんはお持ちです。私は、皆さんがお持ちの豊かな心を次世代の子どもに是非とも引き継いで欲しいと思います。
いじめ問題など社会問題となる事件が相次ぎ、次世代の子どもたちの心には命に対する感性が不足していると思っていました。ところがそうではありません。先日、週刊朝日を読んでいてとてもうれしいことがありました。感性鋭い子どもの詩を目にしたのです。これもレジュメに付けてあります。読んでみます。
岩手県奥州市木細工小学校5年生 矢野建治君の詩です。
「クマが来た」
牛のえさをねらってクマが来た えさのタンクを手で器用に開けて 牛のえさを食べている
両手を使って上手に口に運んでいる パクパク食べている 僕がいるのに知らん顔
食べた後は、ゴロンと昼寝 子グマが二頭、近くで遊んでいる 散らばったえさの上で
ゴロゴロ転がって遊んでる かわいいけれど 牛のえさがやられてしまった
父が草刈りをしていても 堂々とクマは、やって来る 「こら、あっち行げ」 のそのそ
再び座り込んで、父を見ている 「もっともっとあっち行げ」
軽トラックで追いかけると やっと山へ帰って行った 誰もいなくなるとまたやって来て
えさを食べて遊んでる 毎日毎日やって来る
牛や人間がおそわれたらどうしよう 「かわいいけれどしかたがない」
父の提案でワナをしかけることになった とうとう親子の三頭がつかまった
親グマの胃は空っぽだった 以前つかまえたクマは肉に脂がのり 胃も栗やキノコで大きくふくらんでいた
母グマは自分の身をけずり 命がけで山を下りて来たんだ 二頭の子グマを守るために
子グマは山へ帰された あの二頭は今頃どうしているだろう
どうですか?
牛のえさを食べる悪いクマだけれど、作者は可愛いと思っています。「両手を使って上手に口に運んでいる パクパク食べている 僕がいるのに知らん顔 食べた後は、ゴロンと昼寝 子グマが二頭、近くで遊んでいる 散らばったえさの上で ゴロゴロ転がって遊んでる」。そして空っぽの親グマの胃を見て「母グマは自分の身をけずり 命がけで山を下りて来たんだ 二頭の子グマを守るために」とクマの命がけの行動に感動しています。さらに「子グマは山へ帰された あの二頭は今頃どうしているだろう」と子グマを思いやっています。この感性が生きる力です。このような感性をたくさんの子どもたちに持って欲しいものです。
夏休みが始まりました。ここ、鹿央町の子どもたちのことは知りませんが、私が住んでいる熊本市内の子どもたちは「お父さん、クワガタ買いに行こう」と言っています。ちょっと変だとは思いませんか。「お父さん、クワガタ取りに行こう」が当たり前ですよね。ところが「買いに行こう」と言っているのです。デパートやペットショップにクワガタやカブトムシが売ってありますから。
ある大学の先生の話です。「子どもにデパートでクワガタを買ってあげました。そのクワガタが死んでしまいました。そのとき、子どもが『お父さん、クワガタの電池を替えて』と言ったのです。びっくりして、休みの日に子どもと一緒に山にクワガタ取りに行きました。やがてそのクワガタも死にました。そのとき息子は『お父さん、クワガタが死んだのでお墓をつくってあげよう』と言ったのです」
私が熊本空港の近くでクワガタを捕っていると、3年生くらいの男を連れた父子がクワガタを捕りに来ました。その親子は1時間ばかりクワガタを探しましたがとうとう捕まりません。その人が私に「おじさん、クワガタを売ってください」と言うのですよ。私は「売らない」と言いました。
「クワガタの見つけ方を教えてください」ではないのですよ。「クワガタの見つけ方を教えてください」だったら見つけ方を教えるつもりでした。こんな父親は子どもに本当の生きる力は教えることはできないと思います。
案外、このような考えを持った人が多いような気がします。それで、皆さん方の生きる知恵や知識を皆さんの周りの子どもたちに伝えて欲しいのです。
公民館講座で学んだことを自分一人のものにしておくのはもったいないです。あとで詳しくお話しします。
生き物は人に限らずすべてのものが老いていきます。私たちの脳も老いていきます。
益城町の公民館講座である病院の先生が話されたことです。脳の老化の始まりは40歳代からだそうです。私は今64歳です。 時速60kmで老いの道を突き進んでいます。その老いの特徴として次の5つが挙げられるそうです。「もの忘れが多くなる」「物覚えが悪くなる」「動作が遅くなる」「がんこになる」「新しい友だちなどがつくりにくくなる」。
私はこの5つがすべて当てはまります。
今朝のことです。妻に「おい、あすこに行くにはどこば通ればよかったかいね?」自分では分かっているのですが、「鹿央町」という言葉がすっと出てこないのです。妻は「あすこじゃ、どこか分からん。はっきり言わなん」と。この会話が終わるか終わらないうちに妻は「昨日買ってきたあれはどこに置いたね?」と言います。最近の私と妻との会話はこのような具合です。今笑っていらっしゃる方もこのような経験がおありのようですね。
私は人の名前がなかなか覚えきれません。あるいは思い出すことができません。顔は知っているのですよ。ひょっこり会った人といろいろ話をしているのになかなか名前が思い出せない。話をしながらイライラします。皆さんはこのような経験ありませんか?
最近は、人の名前をよく忘れます。ど忘れですね。話題にしている人の名前をなかなか思い出すことができないことがあります。そんなときは、「彼は」とか「彼女は」などでごまかしますが、困るのは道でばったり会った人の名前を思い出さないときです。そんなときはいろいろ話しをした後で、
「とこっで、あたの名前は何だったかな?」
「なんてな、おるが名前ば忘れたつな。熊川タイ。」
「忘るるもんな。熊川さんてな知っとるタイ。わしが聞いたつは下ん名前タイ」
こんな風に言うと、相手から名前を聞き出すことができます。これも一つの生活の知恵でしょうかね。
動作も鈍くなりますよね。椅子から立つとき、「よいしょ」とか「どっこらしょ」などのかけ声が知らし知らずでませんか?
新しい友だちも作りにくくなります。
じっとしておけば、確実に脳は老いていくのですから老いにブレーキをかけることが大切です。そのブレーキの役目を果たすのがこの生涯大学だと思っています。
生涯大学で学ぶようになって、頭をだいぶ使うでしょう?新しい友だちもできたでしょう?
とは言っても、老化は気になるものです。この老化が気になるのは今に始まったことではありません。人々はずっと昔から気にしていたのです。
9月9日は重陽の節句ですよね。この日に酒に菊の花を浮かべて飲むと長寿、無病息災が得られると平安の昔から信じられていたそうです。また、9月8日の夜、菊の花に錦をかぶせて夜露を含ませ、9日の朝、その錦で肌をぬぐうと老いが除かれると信じられ、宮廷の女房たちは実行していたと言われています。
今年の9月9日の重陽の節句の朝、菊の花にうった夜露で肌をぬぐってみませんか?10歳くらい若返るかも知れませんよ。
不老不死にまつわる話はこのほかにもたくさんあります。
竹取物語のかぐや姫と御門の話は有名ですね。旧暦の8月、姫は夜に泣くようになります。はじめは話さなかったのですが、15日が近づくにつれ、泣き方が激しくなります。翁が問うと、「自分は別世界の者であり、15日に帰らねばなりません」と言うのです。それを御門が知り、勇ましい軍勢を送ります。姫を月に帰さないためにです。そして当日、子の刻(2時)頃、空から人が降りてきて、軍勢も翁も嫗も何の抵抗もできないまま彼女を連れ去っていったのです。かぐや姫は罪を償うために地上に下った月の都の住人だったのです。別れの時、姫は御門に不死の薬を送りました。しかし御門はそれを駿河の日本で一番高い山で焼くように命じました。それからあの山は「不死の山」(後の富士山)と言いようになったという話がありますね。
不老不死と言えば、秦の始皇帝の話を思い出します。わたしは、平成16年6月、妻と二人で西安の始皇帝陵と兵馬俑を訪ねました。始皇帝陵は、まだ発掘されていないそうです。聞くところによると地下宮殿には水銀の川が流れているらしいといいます。兵馬俑博物館は、兵馬俑がまさに軍隊のように並んでいます。これをつくらせた始皇帝は、生まれつき体があんまり丈夫ではなく、中国を統一した頃から不老不死を求めて、方士を傍に近づけるようになりました。方士が飲ませた薬、(水銀という説もあるそうです)でさらに体を悪くしたとおもわれ、紀元前210年に5度目の巡遊の途中で死んでいます。方士の中で特に有名なのは徐福です。2度目の巡遊の途中、斉に立ち寄り、徐福に東にあるという蓬莱の国へ行き、仙人を連れてくるようにと命じました。蓬莱とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた五神山のうちの一つで、日本を指すとも言われています。日本各地に徐福の最期の地といわれる場所がいくつもあります。佐賀県では数カ所伝説があり、徐福の像まで建ててあるところがあります。和歌山県では徐福公園まであります。
この徐福伝説と関係があるかどうかは分かりませんが小国町には、蓬莱小学校という校名の学校があります。
除福は、仙人を始皇帝のもとに連れてくるどころか始皇帝のところに戻らなかったのです。始皇帝は遠征の途中で亡くなります。 どんなに不老不死の薬を求めても人は老いていくのです。
脳の老化にブレーキをかけるのは、前頭前野を鍛えることだそうです。このことについては、東北大学教授の川嶋隆太先生は次の3つを提唱しておられます。
それは、
・簡単な計算を早くする
・読書をする それも声に出して読むとなお効果があるそうです
・他人とのコミュニケーションをとる
この3つを心がけ実践することで、脳の老化にブレーキをかけることができるそうです。
簡単な計算をするは、そのものずばりです。方程式とか難しいものではありません。
声に出して文章を読むのは、新聞が一番良いそうです。私は毎朝、熊日新聞の「新生面」と朝日新聞の「天声人語」を声に出して読んでいます。このことを母親に話しますと、母は、「私は毎日、声を出しておつとめをしているのでそれでよかろう?」と言います。仏壇に向かって習わぬ経を読んでいます。中でも蓮如上人の白骨の章を、毎夕、声を出して読んでいるのです。「あたは、毎日のこつだけんお経の本は見らんでも声に出るとだろう?」と聞くと、「ほとんど覚えとるけん見らんでん読める」と言います。これも良いでしょうが、新聞が良いのは、毎日文章が変わることです。これはしんから読まないと読めません。早速実践してみてはいかがですか?
「声に出して読む」は、あとで実際にやってみたいと思います。ただ、「声に出して読むよ」と宣言してからの方が良いようです。急に声に出して読むと、周りの人から「どぎゃんかしたつな?」とびっくりされるかも知れませんから。
益城町公民館講座ではそろばん教室を開いています。50代、60代、70代の方が20名そろばんの練習に熱心に取り組んでいます。読み上げ算、かけ算、わり算を30分ぶっ続けですると身体が熱くなります。のどが渇きます。頭がぼーっとなります。かなり脳をつかいます。これにそろばん式暗算をすると、さらに右脳を鍛えると言われています。それは、そろばんの珠を頭にイメージして、それを動かして計算するからです。
教室で学習している人の言葉です。
寝る前に、見取り算の練習をすると頭が適当に疲れてよく眠れます。しかし、わり算の練習をすると、頭がさえてなかなか眠れません。
私は、体が熱くなります。冬など洋服1枚脱ぎます。それだけ、脳を使うので脳に血が流れるのですね。これが脳を活性化させるのです。
そろばん式暗算は、1珠と5珠を頭に思い浮かべて、その珠を動かして計算するのです。少しやってみましょうか。左手をお腹の前に手のひらを上にして置いてください。右手の親指と人差し指で手のひらの上で珠をはじきますよ。珠は頭にイメージしてください。5円也、6円也、7円では?18円になりましたか?この足し算を5に6を足して11、11に7を足して18とするのではなく、頭にイメージした珠を手のひらの上に入れていくのです。これをしていくと、毎日の買い物でもおよそいくらかをレジに並ぶ前に計算できますよ。レジで計算して「はい○○円です」と言われてお金を出すのではなく、「およそこれくらい」と計算してあらかじめ用意しておくと、買い物でも頭を使うことができます。
また、和歌山県立医科大学院長の板倉徹博士は、「ラジオのススメ」と言って、ラジオを聞きながら何かをするのが脳を活性化させると説いておられます。それも、ニュースを聞きながらこれまでの自分の生活経験を総動員してあれこれと想像するのが良いそうです。
7月の初めは、熊本では大雨が降りました。美里町では避難勧告が出て避難した人がたくさんいましたね。大雨で土砂災害の様子をテレビで放映していました。テレビを見ていると、「あんなに降ったか」など何の想像もしないで「なるほどなるほど」で終わります。あの土砂崩れの様子を自分で想像してみてください。そして、そんなときどうすればよいのかを考え行動することです。
皆さんは、ラジオを聞きながら料理をつくったり、農作業をしたりしているでしょう。ラジオを聞きながらというのは、1度に2つ以上のことをすることです。場面を想像しながら夕ご飯の準備をしています。野菜を洗うにも、何を先に洗うかを瞬時に決めて洗っていらっしゃるのですよ。私は公民館講座「男の料理教室」で1年間料理の学習をしました。ものにはなりませんでしたが、大根、キュウリ、ニンジン、レタスなどがあると何から先に洗ったが良いかが最近やっと分かってきました。水きれの悪いものから先に洗うことに気づきました。
女性の平均寿命は84〜85歳でしょう。男性は79歳ですよね。女性が4歳も長生きするのは、このように常に一度に3つも4つもして、その段取りを上手に決め実行する、つまり常に脳を使って脳に血流を送り込んでいらっしゃるからだと思います。
お手元に、論語と漢詩を印刷したものをお配りしていす。論語を読んでみましょうか。声に出して読む前に、黙読してみてください。
では、皆さん一緒に声に出して読みますよ。
「論語」 孔子
子曰わく、
学びて時に之れを習う、亦た説ばしからず乎。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎。
人知らずして慍らず、亦た君子ならず乎。
吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
義を見て為さざるは、勇無き也。
之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。
老者は之れに安んじ、朋友は之れを信じ、少者は之れを懐く。
これは、斉藤孝さんの「声に出して読みたい本」からとったものです。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」とか、「友有り遠方より来たる、また楽しからずや」などはこれまで何度も耳にされたことでしょう。実際に読んでみるといかがですか?何となく高尚になったような気がするでしょう。
「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」は、まさに生涯学習を言い表した言葉ですね。そして、40歳を「不惑の年」とか、60歳を「耳順」などと言うことがありますね。
このように、毎日、声に出して読んでみましょう。
次は、私が小学6年生の時、学芸会で郷土の偉人「横井小楠」先生を演じたとき、先生が教えてくれた漢詩です。
「偶成」 朱 熹
少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢 階前の梧葉已に秋声
私はこの漢詩はそらんじています。それは、先生が詩吟として教えてくれたからです。学芸会でみんなの前で大声で吟じました。そのとき、とても大きな拍手をもらったことを覚えています。
恥ずかしいですが、吟じてみます。詩吟を習っていらっしゃる方がおられたら間違いには目をつむってくださいね。また、間違いは私が間違っているのではなく、当時私に教えていただいた先生が間違っておられたのです。
「偶成」 朱熹 作
少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢 階前の梧葉已に秋声
拍手ありがとうございます。一緒に吟じている人も数人いらっしゃっいました。ご存じなのですね。
「いくつになってもそらんじる文章を持っている」これはとても大事なことだと思います。それは、楽しみながら学習を続けることです。本日のテーマを「豊かに生きる 楽問のススメ」としたのはこのことです。
私は、話をする前に必ずトイレに行きます。さっきも行ってきました。トイレには「用がすんだら水を流しましょう」と書いてありました。天草のある町のトイレには「短小も見栄を張らずに一歩前」とありました。私は見栄を張っていたわけではなかったのですが、思わず一歩前に出ました。人に行動を促すおもしろい標語ですね。
少し下ネタですが、「スケベ男とカボチャのつるは となりの庭を はいまわる」こんなうたを展示してある公民館もありました。思わず吹き出しますね。
阿蘇郡内のある学校へ講演に行ったとき、食事した近くのレストランに創作「笑い話」という本がありました。
今度の日曜日が参議員の選挙ですが、選挙を風刺した笑い話です。
お菓子屋さんから出てきた人に向かって、選挙運動に走り回っている人が聞きました。
「あたは何党な?」
「わしな、わしぁ昔は辛党だったバッテン、今は甘党タイ。」
今度は歯医者さんから歯の治療が終わって出てきた所で、
「あたは何派な?」
「わしな、わしぁ前歯と奥歯タイ。」
こんなユーモアのあるものを作って互いに交換しあうのもおもしろいですね。
生涯学習をうたったこんな川柳もありますよ。「八十路超え 大器晩成 まだ成らず」
今、生涯学習という言葉をよく聴きますが、言葉は昭和60年代の臨時教育審議会からですが、考え方はずっと以前からあったのです。先ほどの論語もそうですね。
江戸時代の終わり、儒学者、佐藤一斎は「言志四録」に
若くして(少にして)学べば 則ち 壮にして為すあり
壮にして学べば 則ち 老いて衰えず
老いて学べば 則ち 死して朽ちず
という言葉を残しています。これは、まさに読んで字の如しで、生涯学習の神髄を表しています。
鹿央生涯大学で生涯学習を続け、脳を若返らせて欲しいものです。本日は60人近くの人がここにおいでですが、皆さんの周りにはたくさんの方がいらっしゃるでしょう。来年はもっとたくさんの人がこの生涯大学を受講するよう呼びかけてください。
話しばかりでは退屈です。ちょっとゲームをしてみましょうか。
両手をパンとたたいて、右手をパーにして胸を押さえてください。左手はグーにして斜め上に挙げましょう。もう一度両手をたたいて、今度は左手をパーにして胸を押さえ、右手をグーにして斜め上に挙げてください。少し、練習しましょうか。
(号令に合わせて練習)
ただ号令でするのはおもしろくありませんから歌にあわせてやってみましょうか。
私が上益城の緑川小学校という学校にいたときの校長先生が宴会の終わりに必ず歌われる歌がありました。皆さんもご存じと思います。「誰か故郷を思わざる」です。一度、歌だけ唄ってみましょう。
花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら
歌を歌った帰り道 幼馴染のあの友この友 ああ誰か故郷を思わざる
では、歌いながら先ほどの動きをしますよ。良いですね。
(歌を唄いながら、歌にあわせて動作を繰り返す)
むずかしいですね。先ほど、動作だけの時はスムーズに出来ました。歌だけの時は大きな声が出ていました。両方一度にすると、動きもスムーズにいきません。歌声も小さくなりました。これは、手の動きを命令する脳と歌を歌う脳とは使う場所が違うからです。このように2つや3つのことを一度にするのも脳を活性化させるのに良いそうです。
では、もう一度動作はなるべく正確に、歌は大声でやってみましょう。
花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら
歌を歌った帰り道 幼馴染のあの友この友 ああ誰か故郷を思わざる
鹿児島の島津藩の殿様、島津日新斎は「いろは歌四十七首」の「い」に
いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひにせずば かひなし
と唄っています。
これも読んで字の通りです。市の税金で学んだ成果を自分だけのものにしておくのはもったいないことです。皆さんが持っていらっしゃる知恵や技能を社会に還元しましょうよ。
私はこれまでいろんなところでこのことを訴え続けてきました。そして、先ほど話しました益城町公民館講座そろばん教室の人たちと益城町の小学校3年生のそろばん学習のお手伝いに行きました。このことを資料に付けています。少し長くなりますが読んでみます。
平成19年4月10日 熊日「読者の広場」掲載 学社連携したそろばん学習
先日、公民館講座「そろばん教室」の講座生が小学3年生のそろばんの授業を手伝った。
「そろばんはどんなときに使うでしょうか?」の先生の問に、「そろばんは昔の電卓」とか「お金を計る(計算の意味)とき使う」などと発表し、子どもたちはそろばん学習に興味を示していた。
そろばんの名称や5珠、1珠の意味、数の表し方と読み方、簡単な足し算、引き算を先生が全体指導された後で、私たちはグループごとに指導助手を務めた。珠を人差し指だけで入れる子、親指だけで入れる子、先に暗算で答を出してから入れる子、5珠を使った足し算が理解できない子など、子どもたちはさまざま。一人ひとりに計算の仕方と指使いを手を取り教えた。計算が出来ると「ヤッター!」と喜びを表していた。
授業終了後、講座生が掛け算、割り算、読み上げ算、読み上げ暗算の模範を示した。珠を素早く動かし計算する姿を見て、子どもたちは「うわー、すごい」の言葉を発し、そろばんで正確に、素早く計算できることに驚いていた。そして「ぼくもそろばんを勉強しよう」「おばあちゃんのそろばんを借りて練習しよう」と口々に言っていた。
社会教育の場で学んだ成果を生かして学校教育を支援する「少子・高齢化時代の学社連携」を求めた試みは大成功だった。
私は厚かましくも校長先生に「よかったら給食を子どもたちと一緒に食べさせてもらえませんか?」と前もってお願いしておきました。校長先生は快くお引き受けいただき、おじゃました6人がそれぞれ各班に1人ずつ入って給食をおいしくいただきました。子どもたちとも交流が出来ました。わずか40分くらいの給食の時間でしたが、「子どもたちの箸の握り方がおかしい」と皆が気づきました。中には箸の持ち方を教えている人もいました。そろばん指導の手伝いに行って、子どもと交流が出来る、子どもに箸の持ち方まで指導する、私はこれが皆さんが持っていらっしゃる生きる知恵や知識を次世代の子どもたちに伝えることだと思います。
私の弟は小学校で剣道を教えています。初めて竹刀を持つ子供に「以前は、ぞうきんを絞るような気持ちで持ちなさいと言えば子どもたちは分かってくれたが、今の子どもたちにこう言ってもよく理解してくれない」と嘆いています。
皆さんもご存じでしょう。今の子どもたちのぞうきんの絞り方は、絞るのではなく両手で押さえ込むやり方ですよ。ぞうきんは家庭ではほとんど使いません。風呂上がりでもタオルを絞って体を拭くのではありません。大きなバスタオルで拭きます。修学旅行や宿泊教室などでの子どもたちの荷物といったらバッグに入りきれないほどあります。その中に必ずバスタオルが入っています。
こんな子どもたちに生活の知恵を教えてあげましょう。
23日の熊日新聞に「山鹿市の教育基本計画ができた」との報道がありました。市独自の基本計画が策定されたのは県内で初めてだそうですね。「市民総がかりの教育」を合い言葉に、学校、家庭、地域、行政がそれぞれに役割を果たすような計画ということです。社会教育の分野では、生涯学習を充実させて、成果発表の機会を増やし、子どもたちへの還元を図る「山鹿人生大学構想」などが盛り込まれているそうです。先ほど益城町のそろばん教室の学級生と学校訪問をしたことをお話ししましたが、私は常日頃から学校教育や社会教育関係者の方に社会教育の成果を生かして学校教育を支援するよう訴えています。山鹿市ではすばらしい構想ができています。
生涯大学や公民館講座で学んだことを「学校教育の支援」、「地域づくり」、「子育て」、あるいは「文化の伝承」などに生かそうではありませんか。皆さんの力を借りて学校や地域は大助かりです。皆さんには、「今日はこんなことをしよう」とか「この前の質問に答えるために調べておこう」などの新たな生きがいが生まれます。そして、益々学習意欲が旺盛になります。これが生涯学習です。
ここから皆さんを拝見していますと、ご無礼なことを言いますが、頭には白髪があります。顔にはしわも見えます。でも、皆さんの心と脳には1本の白髪もしわもありません。これからも心と脳には白髪としわを増やさない、そのために楽問のススメを話しました。
皆様方がますます若さと健康を保たれ、生涯大学を通して心豊かに生きられますことを祈念しまして話を終わります。ご静聴ありがとうございました。