子どもは社会の宝 「家庭で育ち 学校で学び 地域で伸びる」
上益城教育フォーラム
平成20年10月3日


 ただいまご紹介いただきました中川でございます。よろしくお願いします。
 益城町公民館では、主催講座が17あります。どの講座も受講生が多うございます。たまたま、「男の料理」教室に空きが出ましたので私は料理を学びました。ものにはなりませんでしたが、考えさせられることをたくさん聞きました。そのいくつかを紹介します。
 夕ご飯の支度をしていたお母さんが小学生のありちゃんに「大根、おろしてちょうだい」と頼んだところ、大根を調理台からおろしたというのです。可愛いと言えば可愛い話です。
 幼稚園に教育実習に来ている学生に園長先生が、「中川さん、お茶をいれてください」と頼まれたそうです。5分経っても10分経ってもお茶がはいった様子がないので園長先生は再度、「お茶をいれてください」と言ったそうです。中川さんは得意げな顔して、「ちゃんと入れておきました」と言うのです。おかしいなと思って湯飲みを見てみると、なるほど茶の葉が湯飲みに入れてあったと言うことです。
 女子学生対象の料理教室で先生が「今日の料理は『落し蓋』にします」とおっしゃったら本当に蓋を床に落としたということも聞きました。「落とし蓋」とは、煮物を作る時、鍋よりひとまわり小さい蓋を材料に直接のせることですよね。
 病院に若い女性が左手をタオルでぐるぐる巻いて駆け込んできたそうです。医者は傷を見てどうしたのかすぐに分かったそうですが、女性にどうして手のひらを切ったのか聞いてみたそうです。
女性が言うには、みそ汁に豆腐を入れようと豆腐をまな板の上に置いたら、母が手のひらの上で豆腐を切っていることを思い出して、自分も豆腐を手のひらにおいて切りましたと言ったそうです。この女性は、母親が豆腐を切るところは見ていたが、どうやって切っていたかまでは見ていなかったのですね。手のひらの上で包丁を引いてしまったのです。
 県北の校長から聞いた話です。菊池少年自然の家での活動で、竹細工をするとき、保護者が子どものそばについていてなかなか離れなかったそうです。そこで、子どもから10mほど離れたところに線を引き、「ここから中に入ってはいけません」としたそうです。子どもたちは初めての小刀使用で危なっかしい手つきであったそうですが、食器と箸を作り上げたそうです。その過程で一人の子が足を切ってしまったそうです。その母親が校長に「弁償してください」とものすごい剣幕で言うのに校長は、「弁償することはできませんが、子どもさんはケガをして何かを学んだはずです」と言ったそうです。ケガの手当をして帰ってきた子がニコニコしながら「ケガはとても痛かったが、ぼくは初めて自分だけの力で箸と食器を作ることができた。うれしい」と言ったそうです。
 これらは笑い話ではないのですよ。すべて実話です。今の子どもがすべてこうだとは言いませんがこのように実体験が不足していることは確かです。
 人は人間の子として生まれてきただけで、人間になるのではありません。人間となる道を家庭で学校で社会で教えられ、身につけてはじめて一人前の人間となるのです。
 「為すことによって学ぶ」と言うでしょう。中国には「聞いたことは忘れ、見たことは覚え、体験したことは理解できる」という諺があります。
 体験によって、独り立ちできる力が育ちます。知的好奇心が育ちます。心が育ちます。情緒が育ちます。感性が育ちます。創造力、ものを大切にする心が育ちます。新たな自己を発見します。コミュニケーション力が育ちます。体験は、生きる力を育む上でかくことのできない栄養素です。
 本日は、「体験」と「心」をキーワードに話を進めていきます。
 皆さん、一口で「体験」と言いますが、どんな体験があるでしょう。付箋紙に具体的な体験名を書いてみてください。
 例えば、調理体験とか、キャンプ体験など具体的に書いてみてください。(30秒間程度)
 いろいろあるでしょう。
 せっかく付箋に体験を書いてもらいましたので、その活用の仕方について少し言っておきます。具体的な体験名を書いた付箋紙を1枚の用紙に一つ一つ貼っていくのです。そうすると、似通ったもの、そうでないものがでてきます。似たものを集めてみると、これは自然体験、これは勤労体験、これはキャンプ体験と分けることができます。そして、それはどんな体験をさせるとできるかが分かってきます。それらを子供会や学級PTAなどで行うのです。その際、決して子どもをお客さんにしないことです。計画準備がすべて整った段階で、「サーいらっしゃい」ではなく、子どもの発達段階に応じて、企画段階から子どもを参加させたらいいと思います。是非、やってみてください。
 時間があれば、皆さんが書いた体験を発表していただきながら話を進めたいのですが、本日は時間がありませんので私が見聞きした体験のいくつかを話します。
 文部省の事業でフロンティアドベンチャー事業というのがありました。無人島や山の中で長期間生活するのです。ある年の夏、久木野村での10泊11日のアドベンチャーキャンプをしました。山の中の空き地で11日間生活するのです。テントを張り、トイレを作り、竈を作り、集会所を作りました。ある朝、前日の大雨で殆どの班の竈が水浸しになり、ご飯が炊けません。一つの班だけが竈が炊けました。ご飯が炊けたグループは朝ご飯を食べます。それをみんなひもじい思いで見ているのです。よだれを流さんばかりにして。私はつい、「にぎり飯の一つでもあげようか」と言いました。キャンプ協会の人が「先生達はそっだけんいかんもん。朝飯一食食べんでも人間死にはしません」と言います。子ども達はみんな朝食抜きです。子ども達はひもじい思いをして、自分たちの竈ではご飯が炊けないのにどうしてあの班だけ炊けたのだろうかと疑問に思って、そのグループの竈を観察しました。そして発見したのです。竈の周りには排水溝が掘ってあること、雨が降るときはビニルシートで竈を覆うことを。その日以来、どの班もご飯を炊くことができました。あそこで、握り飯をみんなにやっていたら竈を守る工夫に気付かなかったでしょう。子ども達はまさに、生きる力を身につけたのです。
 J・Jルソーは著書「エミール」の中で、「世の中には自分の子どもを保護することばかり考えている者があるが、それでは十分とはいえない。だんだん成長していけば、自分で自分を保護するように育てなければならない。どんな運命に痛めつけられようともどんな貧乏にも耐えてゆける、必要とあればアイスランドの氷の中でも、あるいはまたマルタ島の焼け付くような岩の上でも、それに耐えてゆけるような人間に育てなければならない。」と述べています。生きる力そのものをさしています。
 昭和38年坂本九が歌う「見上げてごらん 夜の星を」が大流行しました。昭和52年「星降る街角」という歌が流行しました。阿蘇での野外宿泊で夜空の星が降ってくるような感動を子どもたちと共有しました。ビニルシートを二つ折りにしてそこに寝るのです。寝ると同時に満天の星です。きらきらと星が輝いています。流れ星が尾を引きます。もう、そこには言葉はいりません。子どもたちの感動は言葉では言い表すことができないほどでした。
 夏、花火大会があります。江津湖での花火大会での一こまです。親子で「うわー、うつくしかー。「うわー、音の太か」と花火を堪能しています。少し、場所を移すと、やはり親子連れがいます。子どもが「うわー、音の太かー」と言っています。傍らのお母さんは「せからしか、黙って見ておりきらんとね」とたしなめています。どちらが心豊かになるでしょうか。
 今の子どもたちには自己決定体験があまりないようです。自己決定体験が少ないと「主体」が育ちません。主体が育たないと、自分自身の人生を決定できません。親や周りの大人に言われるがままに動くでは、「自己肯定」感など育ちません。自己肯定感が無い子どもは自尊感情が低いようです。自尊感情については、後ほどもう少し詳しく触れます。そこで、自己決定体験をいっぱいさせて欲しいのです。
 先ほどすばらしい童話発表をしました草野円花さんに控え室で尋ねてみました。「あなたは読書の時間に図書室へ行くとすぐに読みたい本が決まりますか」と。「ぱっと目についた本をこの時間は読もうと決めて、1時間ずっと読み続けます」と言いました。私が教諭の頃、図書室へ子ども達を連れて行くと、本棚から本を手にしては返し、返しては新たな本を手にして少し読んでまた返すの繰り返しで1時間が終わってしまう子が幾人もいました。日頃から読書に親しんでいるかどうかの違いはありますが、これも自己決定力の差ではないでしょうか。
 学校では、生活科で「野菜づくり」があるでしょう。生活科が始まった頃は、どこの学校でも「ミニトマト」栽培でした。トマトが好きな子は喜んで世話するでしょう。嫌いな子どもは世話の度合いが違います。最近ではこれを「野菜パーティーをしよう」として、ミニトマト、キューリ、ピーマン、ナスなど数種類の野菜から自分が好きなものを選んで栽培する学習方法をとるところが多くなりました。これも一つの自己決定体験です。
 失敗体験・挫折体験が少ないことが今社会問題となっています。秋葉原での事件など挫折体験から立ち直る体験が少なくして起きた事件と識者は言っていました。
 今、私は大人と子どもにそろばんの指導をしています。全国商工会主催の検定試験があります。先月21日にも検定試験がありました。結果が分かりました。3級になかなか合格できない70代の人が「先生、私はどうして合格できないのでしょうか。どんな練習をすればよいでしょうか」と聞きに来られるのです。決して能力不足の性にはされません。努力不足だとして、新たな練習方法でさらに努力しようと思われるのです。子ども達の中には、失敗や挫折を能力不足の性にする子がいます。そこからは努力、挑戦、成長は生まれません。絶対能力不足の性にさせないでください。
 心を揺り動かす体験を私は情動体験と言っています。私の父は、15年ほど前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や弟たちと相談して、自宅で死を迎えさせようと入院は断りました。父は家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の弟妹は名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 私は家で死を迎えるのが善いというのではありません。人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思うのです。
 「死ぬと、人は冷たくなり、硬くなる。それが命を失うこと。若い世代の多くの人たちは、この命の尊厳が分かっていない。人の命は世界に一つしかない。代替えがきくものではない。生のいとおしさは死を考えることによって生まれる。だとすれば、遠ざかってしまった死を、看取りを介して生活の場に取り戻すことは、必要なことではなかろうか」と北里大学教授の新村拓さんは言っています。
 学校・家庭・地域が連携して子どもの成長を支援しましょう。支援する視点や方法を次のことから学びたいと思います。
 最初は「孟母三遷の教え」から学ぶことです。戦国時代の儒家、孟子の母に関する話です。
 孟子の母は、孟子を生んだ後、まず墓地の近くに住みましたが、孟子が墓堀人夫の真似ばかりしているので、これはいけないと思い、市場の近くに引っ越しました。すると今度は商人のまねばかりするようになったので、これもいけないと思い、三度目、塾のそばに引っ越しました。すると孟子は 祭祀の道具を並べ、礼のまねごとをするようになったので、「こういうところこそ、我が子を育てるのにふさわしい。」と言って喜んだという話です。
 これは、教育には環境が大切であるということを主張するときに使われる話です。教育に環境が大切であることは皆さん異論はないと思います。しかし、私はこの話にはどうも同調できません。教育に大切な環境は、移転によって整えるものではないと思います。自分であるいは地域ぐるみで環境を整える努力をすべきだと思っています。
 次は、「夏目金之助第五高等学校創立記念式典祝辞から学ぶ」です。
 第5高等学校の教授であった夏目金之助は、第5高等学校の創立記念日で祝辞を述べています。その中に、「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」則ち、教育は国を建てる上での基礎であり、先生と生徒が心を通い合わせるのは教育の根本であると述べています。また、「夫レ天人一體自他無別ト云ヘリ。斯クナラデハ学校ノ隆盛ハ期シガタキゾカシ」則ち、天と人間とは一体であり、自分と他人に分け隔てはない。そうでなくては本校の発展は期待できないと述べています。さらに、「佐久間象山我四十ニシテ斯身ノ天下ニ関スルコトヲ知ルトイヘリ。象山ノ人傑ニシテ始テ然ルニアラズ、中等ノ人士モ然リ、下等ノ匹夫匹婦モ亦然リ、即チ学校一致ノ観念ナキハ其校全體ノ破綻ニシテ亦国家教育ノ陵夷ナリ」則ち、佐久間象山は、私は40歳になって自分の言動が天下の形勢に関わっていることを知ったと言っているが、これは、象山が優れた人であったから国家に影響を与えているのではなく、この世の誰であってもその言動は国家のあるゆる局面に関わってくるということだ。学校全体が一致して精励する考えがないとしたらその学校は破綻し、国家の教育は次第に衰えていくと述べています。
 漱石が祝辞を述べたのは明治30年、1897のことですから、今から111年前の話です。しかし、今の時代にこそ、この漱石の考えを心して行動しなければならないと私は思います。
 皆さん、「ピグマリオン効果」という言葉を聞いいたことがおありでしょう。心理学用語で、信じていることが現実になること、あるいは互いに相手を信じ合うことで効果が上がることを言います。
 「ピグマリオン効果」の名前の由来は、キプロス島にいた「ピグマリオン」という若い王が、大理石に「理想の女性像」を彫りました。ピグマリオンはその像のあまりの美しさに恋をしてしまい、この像が生命の通う人間であることを願い、信じ続けます このピグマリオンの願いが、愛と美の女神であるアフロディテの耳に届き、大理石の女性像に命を吹き込みます。ピグマリオンは命の宿った女性像をガラテアと名づけ、二人は結婚し、幸福に暮らしたというギリシャ神話です。 
 あることを一般的に早くできると思っている母親の子どもは、やはりそのことを成長過程の早い時期にできている、という傾向があるそうです。つまり、子どもがあることができるようになる時期を決定する大きな要因として、母親の考え方があるということです。このことは幼児だけの問題ではなく、小学生でも中学生でも同じことがいえると思います。いつも自分がついていないと何もできないと思っている母親の子どもは、いつまでも自立心が芽生えません。また、失敗や悩みが成長には大切だと思っている母親の子どもは、そういう経験から何かを学び、成長します。
 多良木町での講演会でこのことを話したとき、参加者の一人の方が「担任の先生が替わり、担任の先生の考えが分からず悩んでいたとき、子どもはとても心が不安定でした。担任の先生と話し合い先生のお考えが分かったとき子どもも学校が楽しいと元気で登校できるようになりました。ピグマリオン効果を実感しています」と感想を寄せられました。
 このピグマリオン効果は教育の世界ばかりでなく、世間一般にもいえるでしょう。自分があの人は好かんと思っていれば相手の人も自分を好きではありませんよね。
 「親の恩、先生の恩、地域の恩」から学ぶとは、かって県子ども会連合会副会長をしていた方が、次のように話されました。
 「最近の子どもは、親の恩、先生の恩、地域の恩を忘れている。この3つの恩を心に刻み込んで欲しい」と。そして、子ども会の世話をしているときのことを話されました。学校で勉強はしない、悪さはする、ずる休みはするという一人の中学生が、地域でもあの子は「よくない子」とレッテルを貼られていた。「家庭でも学校でも地域でもレッテルを貼られている子だからこそ、子供会で一緒に活動をさせ、地域の子の一人として中学校を卒業させたい」との会長の思いから、子供会に誘っては一緒に活動させていた。その子が中学校を卒業して仕事に就いた6月頃、「悪ごろといわれていた私が中学校を卒業し、就職できたのもおじさんが子供会に誘ってくれたから。もうすぐ夏休み。自分が子供会で一番思い出に残っているのは海水浴でのスイカ割り。海水浴の費用の一部に使って欲しい」との手紙を添えて初めてもらった給料を中から数千円を同封して送ってくれた。この手紙を海水浴に行くバスの中で読み上げたら、みんなが自分の行為を恥じましたと。
 中学生は子供会活動を通して人の道としての「生きる力」を身に付けたのです。このように地域の恩を感じる体験を子どもたちにさせたいと思います。
 そこで、私は次のことを提案します。この提案を実行するのに、生涯学習の視点、認め、褒め、励まし、伸ばすという視点をもってほしいと思います。
 まず、生涯学習の視点について少し話をします。生涯学習について、もう20年近く前の生涯学習3つの理解違いを紹介します。
 一つは、「今更生涯学習なんて、今から勉強なんてしたくはなか」という理解違いです。これは、教科書ノート片手に机に向かってする学習、勉強イクオール苦しいのイメージがあったからです。今こんな事を考えている人はいません。ただ、学習イクオール苦ととらえている子どもは多いようです。
二つは、「生涯学習なんて社会教育を言い換えたことでしょう。学校教育には関係なか」という理解違いです。本日は先生方も多数おいでですが、現在の指導要領の元になっている教育課程審議会答申は生涯学習の視点から述べられていることはご案内の通りです。
 三つは、「生涯学習なんて暇人がするこつ。私は忙しうて生涯学習どころではなか」という理解違いです。職業能力を高めたり心豊かに生きるために学習することが生涯学習の一つであることはいうまでもありません。
 そこで、子どもたちを育てる視点、自分自身が生きがいを持って子どもに関わる視点に是非とも生涯学習を据えて欲しいのです。
 お手元に配布していますものは、江戸時代の儒学者、佐藤一斎の「言志晩録」第60条に記されている言葉です。
 一斎は、田沼意次が家老となった年に生まれています。70歳で幕府の学問所昌平黌の儒官を命じられています。門下生には、先ほど紹介しました夏目金之助の祝辞に出てきました佐久間象山などがいます。
 読んでみます。
 少にして学べば即ち壮にして為すあり
 壮にして学べば即ち老いて衰えず
 老いて学べば即ち死して朽ちず
 西郷隆盛の座右の銘とも言われています。
 小泉元総理大臣は平成13年5月の衆議院本会議で、「まさに学びの重要性を指摘しており、私の好きな言葉だ」と語りました。
 次は、「認め、褒め、励まし、伸ばす」視点、つまり子どもの自尊感情を醸成する視点です。
 今学校では、この視点から学習指導が展開されています。学校ばかりでなく、家庭でも地域でもこの視点を持って子どもの指導に当たりたいものです。子どものありのままを受け入れ、そこから伸ばしてほしいと思います。
(1)家庭へ
 子どものありのままの価値を認めるというと、子どもの言うことを「うんうん」と聞くだけが良い親、良い大人ではないと思います。してはならないことはしてはならないのです。してはならないことをしたときは厳しく叱り指導すべきです。と同時にしてはならないことを自分の失敗体験から掴ませていくことが大切です。小さな失敗を乗り越えて大きな失敗をしないようにする力を養うのです。大相撲で、露鵬と白露山がド−ピング検査で大麻吸引の陽性反応が出たことで解雇になりましたね。たった一度の検査で陽性反応が出たというだけで解雇とはと言っていますが、これについて前文科相が「恥を知れ」と叱責しました。私は拍手を送りました。
 先ほども言いましたように、認め、褒め、励まし、伸ばす視点を家庭教育でも持ちたいものです。これについては残念ですが、具体的な事例は時間の都合でお話しできません。
 「手を放して目は離さない」これはとても大事なことだと私は思っていますが、ときとしてこれが「目を放して手は放さない」となっている光景を見ることがあります。
 冒頭益城町の公民館講座のことを話しました。数年前、講座申し込みに若いお母さんが2歳くらいの幼児を連れておいでました。帰りに、「はい、○○ちゃん、あんよ出して」と言って靴を履かせて帰りました。しばらくして、同じ年格好の幼児を連れたおじいさんが来られました。帰りに「○○、靴は自分で履ききるど。じいちゃんが見とるけん、自分で履け」と言って幼児が靴を履くのをじっと見ておられました。「右左反対に履いてしまったね。よかたい。歩かるるけん」と言って帰って行かれました。
 どちらの子どもも靴を履く体験をしました。後で生きて働く体験はどちらでしょう。
(2)学校へ
 学んで得た知識を生きる知恵に変える。
 新しい指導要領では、総合的な学習の時間が1時間程度減になるそうですね。私はとても残念に思います。総合的な学習の充実を図っていただきたい。
 総合学習は、教科横断的学習とか知の総合化とか言われています。学習で学んだ知識や知恵、技術を総動員して課題を解決していくのが総合的な学習だと思っています。課題解決の過程で子どもには疑問や新たな課題が生まれます。その疑問や課題を解決するためにさらに学習するこれが知識を生きる知恵に替えていくと思います。
 論語に「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という言葉があります。「いくら勉強して知識が増えてもそれについて深く考えなければ物事の本当に意味を知ったとは言えない。いくら考えても書物や人から学ばなければ考え方が偏って危険である」と言う意味です。総合的な学習の時間の充実を望みます。 
 「地域には先生がいっぱい」です。
 七滝小学校でのことです。2年生で校区探検をしました。せっかく校区内を回るなら地域の人にそれを知らせると良いと言いました。ある地域でのことです。一人のおじいさんが「子どもたちがうちの地域にくるなら何をさせようか」といろいろ考え、タケノコ掘りをさせようと考えられたのです。2月の末だったと思います。竹山にはってもタケノコはどこにも見あたりません。おじいさんが竹山を歩きながら、子どもたちに「ここを掘ってみようか」と言います。子どもたちは半信半疑でそこを掘るとタケノコがあるのです。子どもたちはびっくり。おじいさんは透視能力を持っていると皆驚きました。タケノコについて話をするおじいさんを尊敬の眼差しで見ていました。担任の話によると、それ以後、何か地域のことについて疑問が生まれると、「○○ちゃんのおじいさんに聞いてみよう」「○○ちゃんのおばあさんは知っているかも知れない」などと声が挙がっていたそうです。
(3)地域へ
 「学んで得た知識・技能や生活体験を学校支援に生かしましょう」
 3年前、益城町公民館講座にそろばん教室を開設しました。5年から6年そろばんを学んでいただき、その技能を生かして地域の子どもたちにそろばんを指導して欲しいと願ってのことです。その一つに2年前から小学3年生算数のそろばん学習のお手伝いを始めました。ところが、益城町では今年から放課後子ども教室が始まりました。それで、講座生12人が学習アドバイザーとして子どもにそろばんを指導しています。さらに、今年から、文科省の「学校支援地域本部事業」が始まりました。これは、地域住民の皆様の学習成果を学校支援で活用していただくとともに地域の教育力の活性化を図ろうというものです。図らずも、私が考えていたことが文科省の事業となりました。
 皆さんの生活の知恵、学習成果を学校支援に生かして欲しいと思います。
 私は小さい頃、「あんたは有っちゃんの子だろう。父ちゃんはそぎゃんこつはさっさんぞ」「幸平さんの孫だろ。じいさんの喜ばすぞ」と地域の方からよく声をかけてもらっていました。
 老子の言葉に「天網恢々疎にして漏らさず」というのがあります。「天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむる」という意味だそうですが、悪い行いも善い行いも地域みんなが見て子どもを育てる風潮をつくりあげたいと思います。
(4)行政へ
 学習成果を生かした学校支援体制を整備してください。指導者養成講座を開設してください。

 時間の都合で最後は駆け足になりました。
 終わりに小話を一つ。
 犬を飼おうと思っている人、犬の名前を「ころ」と名付けて下さい。ころが「こころ」を生みます。こころが「まごころ」を生みます。
 ご静聴ありがとうございました。


                                       感想

○ 地域、学校、家庭の連携が大切であり、また、体験することで豊かな心を育むということを改めて感じました。
  自分にできることから地域に関わり子どもたちを育てていきたいと思います。ありがとうございました。

○ 地域の子どもは地域で育てるということが言われて久しいが、学校支援が具体化され、よい方向性が出来たと思う。
  本日のようなフォーラムが地域に根付くと子どもたちによいと思う。

○ 中川先生の話はとてもよかった。改めて子どもは地域で育ち、成長することが確認できました。

○ 地域との交流や子どもたちの日頃の体験学習がいかに大切であり、子どもが成長していく上でとても重要であることが分かった気がする。これからの生活の上でよいきっかけになった。

○ 中川先生の講演でなぜ自然体験なのか、考えを深めることができました。

○ 体験が子どもも大人も大切。ナメクジが大きくなったらカタツムリになると思っていた先生、大豆がきな粉になることを初めて知った50代の先生、もっともっと自然体験の機会を持たせたい。

○ 大変役にたつ時を持つことができました。

○ 中川先生の講話はとても参考になりました。資料共々活用させていただきます。

○ これからも学校、家庭、地域が一体となってやっていきたいと思います。色々な体験もやってみたいですね。

○ 中川先生ご自身のお父様との別れの話がとてもよかった。
  自分の大切な人との別れの場面が大きな心の成長(「命を大切にする心」 や「感謝の心」など)多くのことを学ぶ貴重な体験の場になることを痛感した。体験にはいろんな体験があることを学んだ。

○ 中川先生のお話を聞いて、なるほどと思うことがたくさんありました。何とか教育現場に生かしていきたいと思います。

○ 親としてっも今日のような体験をして学ぶ必要性を感じました。子どもと一緒に学ぶ機会を持ちたいと思います。