中国見て歩き
平成20年11月20日
熊本県上益城郡益城町公民館


 おはようございます。本日は、私が魅せられて中国旅行をするようになったことと私が妻と二人で中国を旅して感じたことをお話しします。私が話をしますことで、中国とはそんな国かとは思わないでください。私個人の思いや感想ですから。
 私が小学生時代、昭和20年代のことです。当時は学芸会があっていました。皆さんも学芸会の思い出をたくさんお持ちでしょう。6年生の時でした。肥後藩が生んだ幕末の思想家「横井小楠」、と言ってもあまり知られていないのですが、この小楠の劇を先生が教えてくださいました。横井小楠は、沼山津の四時軒に住んでいました。秋津小学校の私たちは、「小楠さんは、わしらの偉人。しばらくお休み 四時軒に・・・・」と歌も唄っていました。
 この劇の中で、詩吟を吟じる場面がありました。どんな場面だったかは覚えていません。ちょうど、春日八郎さんの「別れの一本杉」が流行っていた頃です。老いも若きも歌っていました。私もよく歌っていました。そのとき、私が初めて聞く詩吟を先生が教えてくれたのです。初めて聞く節回しにとても驚きました。
 その詩吟とは、京都の月性というお坊さんが作った漢詩「将東遊題壁(まさにとうゆうせんとしてへきにだいす)」というものでした。

  将東遊題壁  月性 
   男児立志出郷関   男児志を立てて郷関を出づ
   学若無成不復還   学、もし成るなくんば、また還らず
   埋骨何期墳墓地   骨を埋む、何ぞ期せん墳墓の地
   人間到処有青山   人間到る処青山あり

 唱歌や流行歌を歌っていた私には詩吟がとても新鮮でした。一生懸命練習しました。今でも吟じることができます。そのとき、もう一つの漢詩も教えてもらいました。それがそこに示しています朱熹が作った「偶成」です。
 何度も言いますが、私はどこかで詩吟を習ったわけではありません。小学生の時、先生から習ったものです。詩吟を学習している方が聞かれれば「何だ、あれは詩吟ではない」と思われるかも知れませんが、吟じてみます。聴いてください。  

  偶成 朱熹
    少年易老学難成  少年老い易く学成難し
   一寸光陰不可軽   一寸の光陰軽ずべからず
   未覚池塘春草夢   未だ覚めず池塘春草の夢
   階前梧葉已秋声   階前の梧葉已に秋声

 この時は、この漢詩の意味は分かりませんでしたが、こんな漢詩を作る中国に大きくなったら行ってみたいと思っていました。
 このように中国は、小学生の頃からのあこがれでした。
 中学時代は、国語の学習で熟語を習いました。「蛇足」「矛盾」「塞翁が馬」など。当時の先生から面白おかしく分かりやすく熟語のいわれと意味を教えていただきました。こんな言葉を創り出す中国に興味が湧いたことを今でも思い出します。
 高校時代は、皆さんも習われたでしょう。「漢文」という科目がありました。その漢文の教科書に杜甫作「春望」がありました。

  春望  杜甫
    国破山河在   国破れて山河在り
   城春草木深   城春にして草木深し
   感時花濺涙   時に感じては花にも涙をそそぎ
   恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
   烽火連三月   烽火三月に連なり
   家書抵万金   家書万金に抵(あた)る
   白頭掻更短   白頭掻けば更に短かく
   欲渾不勝簪   すべてしんにたえざらんとほっす

 大学時代は、中国に関する読み物をよく読みました。覚えていますのに、パールバックの「大地」があります。
 貧しい農夫であった王龍は、地主である黄家の奴隷、阿藍を妻にめとります。阿藍はほとんど話をしない人でしたが、よく働きました。王龍の家は阿藍が来てから経済的に恵まれるようになり、土地を買い、子供にも恵まれます。詳しくは紹介できませんが、金持ちになれば周りが金の無心に来たり、自分も贅沢な暮らしをします。最後には長男と次男が老いた父親の見えないところで、父親が血のにじむ思いをして購入した土地を売ろうとします。
 中国の農村の生活の厳しさを書いた本で何度か読み直しました。
 仕事をするようになってからも、いろんな本を読みました。皆さんご存じの井上靖さんの「敦煌」、これはすばらしい物語です。井上さんはこの敦煌という作品を、中国には一度も行かずに中国の文献を読んで書いたそうです。しかし、見たこともない中国の情景が見事に書き表されています。映画にもなりました。西田敏行さんや佐藤浩市さんが出演した映画です。妻が初めて中国に行ったのは、昭和62年のことです。私は仕事の関係で行けませんでしたので妻は次男を連れて行きました。丁度そのとき、敦煌で映画のロケがあっていました。西田さん達と撮った写真があります。
 小説「敦煌」の主人公は、趙行徳です。行徳は、日本でいう国家公務員の試験のようなものを受験中に居眠りをしてしまい、合格できませんでした。行徳が街を歩いているとき、裸で売られている西夏の女に会います。金を払い、女を自由にしてやると、女はその礼に一枚の小さい布片をくれます。その布片に行徳が知らない文字が書かれていたのです。それが西夏文字です。行徳は何とかしてこの文字を読みたいと思います。その後、西夏の部隊に捕われ、そのまま漢人部隊に編入させられてしまいます。その部隊長が朱王礼です。この朱王礼の役を西田敏行さんが演じました。それから物語はとても面白く展開します。
 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」は今読んでいます。
 吉川英治の「三国志」は読まれた方が多いでしょう。  
 黄河流域の魏、揚子江流域の呉、四川の蜀の三国の将、曹操、孫権、劉備の生涯と国づくりやその周囲の群雄の物語です。
 劉備が関羽、張飛と義兄弟の契りを結ぶ「桃園のちぎり」とか、劉備が軍師として諸葛孔明を迎える「三顧の礼」、孫権と同盟して曹操を破る「赤壁の戦い」、「出師(すいし)の表」、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」などの言葉は聞いたことがおありと思います。
 山崎豊子の「大地の子」は読まれた方も多いと思います。仲代達也さんと上川隆也さんが出演した映画にもなりました。
 信州満州開拓団の子、松本勝男は、日本の敗戦後、ソ連軍の攻撃などにより祖父と母を失い、妹とも生き別れになってしまいます。放浪中に人買いに捕まり、中国人農家に売られ、厳しい生活を送ります。虐待に耐えかねて逃げ出したものの、再び人買いの手にかかり売られそうになった勝男は、小学校教師の陸徳志に助けられます。子どもがいない陸徳志夫婦は勝男に一心という名をつけて、貧しいながらも実の子のように愛情をこめて育てます。
 優秀な青年に育った一心は、日本人であるということで差別を受けますが、中国の発展のため尽くそうと決心します。日中共同の一大プロジェクトである製鉄所建設チームの一員として働きます。そこで、実の父、松本耕次を知ります。製鉄所建設に向け、一生懸命働きながら、日本と中国の狭間で揺れ動く和夫の心、父、松本耕次との心の交流などが描かれています。心を揺さぶる物語です。
 こんな読み物などを通して、いつかは中国に行ってみたいと強く思っていました。
 妻は、数十年前から公民館講座で「中国語会話」を勉強していました。今でもラジオの中国語講座を聴いて勉強しています。
 外国語会話を勉強した人は、自分の会話力が現地の人にどれくらい通じるかを試してみたいそうですね。英語やフランス語、韓国語、いろんな会話がありますがこのことはよく聞きます。宮崎県の南郷町、現在は美郷町南郷区ですが、ここには百済王伝説があります。そこで、公民館講座に韓国語講座があるそうです。町の公民館講座で韓国語会話を学んだ人たちが、「学んで身につけた韓国語がどれくらい韓国の人に通じるか、韓国に行って韓国の人と話してみたい」との思いから韓国へ行き、会話はもとよりキムチづくりまで学んで帰ってきたという話を聞いたことがあります。
 妻も、中国人と話してみたいといつも言っていました。水前寺体育館がある頃、5月の連休あたりで毎年、中国展があっていましたね。そこに必ず出かけ、中国人と話していました。
 「少し通じた」「中国人は早口でよく分からない」など言っては勉強を繰り返していました。日本での会話学習はゆっくりした言葉でしょう。英語にしろ中国語にしろ。だから、妻が言うことは相手に通じるらしいのです。しかし、中国人は早口、中国人にとっては普通の早さでしょうが、日本人にとってはとても早く感じるらしいです。ですから聞き取れないのですね。しかし、メモ帳を片手に分からないときは筆談で会話をしていました。
 そして、妻は昭和62年の夏、私は仕事の関係で行くことはできませんでしたので、次男と一緒に初めて中国旅行をしました。もちろんツアーです。敦煌、ウルムチなどシルクロードの旅でした。この刺繍がそのとき買ってきたものです。
 敦煌は莫高窟が有名ですが、まだまだそんなに手が入っていなくてとても良かったと言っていました。それを聞き、私も「いつかは中国旅行を」という思いが強くなりました。
 私が初めて中国旅行をしたのは、平成3年でした。もちろんツアーです。それから数回、中国へ行きました。北京・西安・上海・蘇州・無錫・南京・敦煌・ウルムチ・トルファンなどです。
 ツアーで行くと、添乗員さんが連れて行ってくれますので、道中のことはあまり記憶に残りません。ちょうど、車のナビゲーションと一緒です。ナビに頼って行きますので、道はあまり覚えません。自分で探しながら行くときは、道路標識を見たり、目印を探したり、時には、車から降りて道行く人に尋ねたりしながら、苦労して目的地まで行きます。だから記憶に残ります。ツアー旅行は、ナビ運転のようなものと私は思います。
 また、ツアーは時間に拘束されます。「うわー、ここは良かところ。もう少しいたい」と思ってもスケジュールが組まれていますのでそれはできません。
 これから話します中国旅行は妻と二人で行った中国珍道中の一こまです。
 私が退職した平成16年、妻が「二人で中国旅行しようか」と言います。はじめは、「二人だけでは・・・」と躊躇しましたが、思い切って西安に行きました。
 西安は、秦の始皇帝が都とした咸陽の近くです。そして、唐の時代は、長安といったところです。遣唐使として中国へ行き、とうとう日本に帰ってくることができなかった阿倍仲麻呂の話はご存じでしょう。

西安 阿倍仲麻呂記念碑

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 この和歌は、小倉百人一首でもおなじみですね。
 このような事が思い出される西安に行ってみたいと思っていたからです。私の中では、西安は日本では京都に当たるような気がしています。
 お手元にあるのは、そのときの旅行記です。「西安探訪リャンガレン」としましたが、「リャンガレン」とは二人という意味だそうです。
 西安と言えば、「兵馬俑博物館」と「華清池」が私は一番に浮かびます。
 兵馬俑は、始皇帝が自分の墓を守るために作らせた俑軍隊が埋められていたところです。
 始皇帝に関する本を読むと、始皇帝は名を政といって、紀元前221年初めて中国を統一した人です。政の容貌や性格について、中国の歴史書、史記には「鼻が高く、目は切れ長で、声はヤマイヌの如く、恩愛の情に欠け、ヤマイヌのように残忍な心の持ち主」と記載されているそうです。こんなふうに言われたのは、「焚書坑儒」といって始皇帝に刃向かう人を生き埋めにするなどしたからでしょうか。
 焚書坑儒とは、秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせたのが焚書です。政から不老不死の薬作りを命じられていた侯生と盧生が薬ができないことで殺されるのではないかと恐れて逃亡したのを怒って、咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにしたというのが坑儒です。
 しかし、始皇帝は法治国家としたり、時を統一したり、度量衡を統一したり、馬車の車輪の幅を統一したり、世界一大きな建造物である万里の長城を築いたりした人です。
 始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、統一したころから不老不死を求めていたそうです。この不老不死を求めた話で有名なのが、徐福伝説です。
 始皇帝は、徐福に蓬莱の国へ行き、仙人を連れてくるようにと命じたのです。蓬莱の国とは、日本のことを指しているそうです。それで、日本のあちこちに徐福伝説が残っています。徐福は不老不死などできるはずはないと思っていたそうですが、始皇帝があまりに厳しく言うものですから、水銀を丸薬にして飲ませていたという話もあるそうです。それで、体が弱い上に益々弱まって巡行の途中で亡くなり、咸陽には帰れませんでした。
 始皇帝は中国初の皇帝です。その大きな力を利用し大きな陵墓を作りました。史記には、始皇帝の遺体安置所近くに「水銀の川や海が作られた」との記述があるそうです。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたのですが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなったそうです。

兵馬俑博物館 1号館

 1974年、地元の農民が畑の井戸掘りをしていたとき偶然に発見されたのが兵馬俑坑です。これは、この陵を取り巻くように配置されており、とても大きなものです。3つの俑坑には戦車が100台ほど、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いています。
 この兵馬俑博物館に1日いました。予定では、他も回るようにしていたのですが、あまりにも迫力があり、兵馬俑を見ているとつい吸い込まれるような思いがして1日いました。
 ここに持っていますのが、このとき買った小さな傭のレプリカです。店員が「今は、夏ではなく観光客も少ないので売れないのでまける」といきなり言います。はじめ2傭で2200元。それを約半値の1200元に。日本円なら16800円と言います。さらに16000円。子ども達への土産として15000円で購入しました。
 中国での買い物は、値引き交渉が面白いです。カシュガルでは真っ黒い布地にきれいな刺繍がしてある壁掛けがありました。私は言葉が分かりませんので、計算機を持ってくるように頼みます。すると、店主が計算機に数字を打ち込んで「これでどうか」と言います。私はいつもその半値くらいを示します。はじめは、店主は「そんなにまけることはできない」とでも言うようなそぶりを見せます。私も「だったら買うのはやめる」というそぶりで店を出ます。すると、追っかけてきます。そのときはしめたもの。半値くらいで買えます。中国では価格はあってなきがごとしです。
 先日テレビで中国の3女性が放映されました。楊貴妃、西太后、江青の3人です。テレビを見た人もいらっしゃるでしょう。
 楊貴妃は、クレオパトラ、小野小町とともに世界の3美女とも言われています。その楊貴妃と玄宗皇帝が秋から冬にかけて過ごしたところが、華清池です。
 楊貴妃は、玄宗皇帝の子、寿王瑁の妃であったのですが、皇帝に見染められ、皇帝の寵愛を独り占めにして日がな一日を歌と舞、音曲でこの華清池で過ごしたといわれていわれています。また近代では西安事件の起こった場所です。西安事件とは、西安で蒋介石が張学良らによって監禁された事件です。

華清池 楊貴妃像

 池には大理石で作った楊貴妃像があり、五間庁の壁には西安事件当時の弾痕が残っていました。
 園内はきれいに整備され、風呂跡は、大きな建物で覆われています。楊貴妃が湯浴みした風呂、お付きの女官が入浴する風呂などがあります。
 楊貴妃に関する逸話は多いのですが、先日のテレビでは、「玄宗が碁をして、負けそうになると、子犬を放し、碁盤を崩して、玄宗に喜ばれた」という逸話が紹介されましたね。
 平成4年に訪れたとき設置中だった楊貴妃の大理石像が、観光客に人気があるようでした。この大理石像を背景に盛んにシャッターを切っていました。
 紀行文の最後に、白居易によって作られた長編の漢詩「長恨歌」を添付しています。時間があるとき、目を通してください。
 西安は、そのほか大雁塔や小雁塔、鼓楼や鐘楼、西安郊外には乾陵や茂陵など歴史遺産が数多くあります。
 大雁塔は四角7層の幾何学模様の高さが64mの塔で、慈恩寺境内にあります。大雁塔は、僧玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、652年に建立されたそうです。大雁塔の名は、玄奘がインドで修行中に雁の一群が飛ぶのを見て、ふとそれを食べたいと思った瞬間1羽の雁が目の前に落ちてきて大いに恥じた、という逸話に由来していると聞きました。 

西安  小雁塔 

小雁塔は最上部が壊れていますが、優美な塔です。境内には歴史文物が無造作に転がっていました。
 中国人向けの1日観光ツアーで、乾陵・茂陵方面へ行きました。小型バスで20人ほど参加者がいましたが、私たち2人を除けばすべて中国人です。ガイドが中国語で案内します。私には何のことか全く分かりません。妻が中国の歴史を話しているようだと言います。
 茂陵は、漢の武帝の陵墓です。乾陵は唐の高宗と則天武后の陵墓です。高校時代、中国の歴史で学んだのですが、ほとんど忘れていました。武帝が西域平定に送り込んだ霍去病の墓、乾陵参道の石像などを見て、高校時代必死で覚えたことを思い出しました。
 初めて二人で中国を旅した西安の印象は強烈に残っています。その様子お配りしています紀行記に記していますので、お帰りになってから読んでください。
 これからは、私が見聞きした中国事情をお話しします。
 まず、食事です。今年は、食の安全を脅かすような報道がかなりありましたが、私が食べての感想です。日本には中華料理がありますが、日本で食べる中華料理とは少し違うようです。かなり違うのかな。油を使った料理が多いようです。私は胃腸が弱いせいか、中国旅行では必ずと言っていいほどお腹をこわしました。ですから、数年前からは胃腸薬を用意しました。これで中国料理を安心して、おいしくいただくことができました。一番頭を悩ましたのが、昼食です。レストランに行って、メニューを見せてもらいます。でもメニューを見てもどんな料理か全く分かりません。何を注文したらよいかが分かりません。「窮すれば通ず」ですね。周りで食べている人の料理を見て、指さしながら「あれと同じもの」と注文しました。ですから、食してとてもおいしかったものや逆に食べられたものではないと思うこともありました。西域では、羊の肉を焼き鳥のように串に刺して、こしょうをいっぱいかけて焼いて食べるのがあります。シシカバブーというのですがこれがとてもおいしいです。ホテルのレストランはほとんどがバイキング方式ですので安心して食べることができます。
 交通機関について話します。
 飛行機利用についてです。ツアーで旅行をしていた頃の飛行機の便は、離発着の時刻はあって無しが如しでした。時刻表通りに離発着したことはほとんどありませんでした。夕方着く予定が真夜中になったり、夕食がとれないので弁当を配られたりしました。平成16年、シルクロードを旅したときは、福岡発15時40分の便が21時になったことがありました。それもほとんど理由は知らされませんでした。最近はこんな遅れはあまりないようです。
 列車の旅はとても楽しいものです。「関口知宏の中国鉄道大紀行」がNHKで放映されましたので見られた方も多いでしょう。快適です。私が初めて中国の列車に乗ったのは平成3年シルクロードの旅でした。柳園からトルファンまでの夜行列車でした。当時は、コンパートメントの寝台、硬臥寝台、軟坐、硬座、食堂などの車両がありました。硬座の車両は木の椅子です。そして、車内には乗客が足首を結んだ鶏なども持ち込んでいました。

南彊鉄道 車内 中国人幼児と

 平成16年、南彊鉄道を利用してカシュガルからウルムチまで約23時間の旅を楽しみました。天山山脈を越える鉄道です。私たちは、コンパートメントの2段ベッドを利用しました。日本では以前A寝台といっていた車両と大体同じです。1室に4人が乗車します。そして部屋には鍵がかかります。利用者がいない部屋は鍵がかかっていました。各車両には給湯設備があり、中国人は、即席麺に湯を入れて食べていました。給水施設もあります。乗客の中には持参した野菜や果物を洗って食べている人もいました。私たちもブドウを洗って食べました。洗面所もあります。トイレは洋式です。車窓の景色が見事でした。草原あり、岩山あり、沙漠あり、放牧の羊が見えたり、雪を頂いた天山の峰々を見て、心をときめかせました。
 長距離バスにも乗りました。ホータンからカシュガルまで8時間です。沙漠の中を猛スピードで走ります。運転は3人で交替していました。「心安らぐオアシス」と言いますが本当にそう感じました。1時間から2時間、沙漠を走ると集落が見えてきます。荒涼たる沙漠を走り続けた後で、緑を見るとホッとします。このときの用便が面白かったです。男の乗客が用便のため停車を頼むと、どこででもすぐに止まります。女性が停車を言うと、草むらがあるところまで止まりません。つまり、男性はそこらでそのまま用を足します。女性は、草むらの陰に隠れて用を足すのです。トイレはありません。
 トイレについて話しましょうか。国民性の違いというか、中国人は自分の体からだす大小便を日本人のように汚いものと感じていないようです。そして、大便をするのも当然のことと思っているようです。平成3年当時、北京市街地の公衆トイレにはドアーはありませんでした。町から少し離れたところでは、板を2枚並べただけのトイレもありました。水で流すという習慣もなかったようです。日本でもそうですよね。水洗トイレが普及したのは20年ほど前からでしょう。ですから、トイレではかなり苦労しました。特に妻は苦労しました。
 路線バスについて話します。北京でも、西安でも、カシュガルでも、ウルムチでも、コルラでも、利用したところはどこも、市内の運賃はどこまで行っても1元です。日本円で14円くらいです。
 平成17年10月15日、熊日新聞「読者の広場」に投稿した文です。 
          「利用しやすい公共交通機関」
 9月下旬、中国の新疆(きょう)ウイグル自治区の首府ウルムチへ行き、1週間滞在した。毎日、路線バスを使って市内を探訪した。
 バス停には、路線名を表した番号と停留所が地図に記してある。自分が行きたい場所は何番のバスに乗れば良いか一目瞭然(りょうぜん)。バスは本数が多く、数分待てば来る。乗車賃は一律1元(日本円13円)。前の乗車口の運賃箱に1元投入する。
 定期券は磁気カードらしい。乗車口にあるセンサーにカードを入れたバッグごと当てれば感知して「ブー」と鳴る。運転手はその音で確認している。高齢者は高齢者用をセンサーに当てる。「老人牌(ラオレン パイ)」という声が聞こえる。降車は後のドアーから。実に簡単な仕組みだ。
 乗車すると、必ず誰かが席を譲ってくれる。初めは「おれはそんなに老けて見えるのかな」と思った。よくよく観察していると、乗車してきた人や立っている人が自分より年上と思うと「どうぞ」と笑顔で席を譲ってくれる。若者はほとんど席を譲る。特にウイグル系の人は席を譲っていた。日本では、お年寄りなどに席を譲る人が少ないのでわざわざ「善意の席」を設けている。大きな違いだ。
 熊本の公共機関は、運行経路や乗車賃の仕組みが複雑だ。ついついマイカー利用になってしまう。これから高齢社会となる。利用者の立場に立った利用しやすい公共交通機関の在り方を是非検討して欲しい。
 このように、バスの中では日本では見ることができなくなったほほえましい光景を随所に見ることができました。
 面白かったのは、北京の路線バスです。小型のバスでは、車掌が停留所ごとに大声で行き先を言い、乗車するように誘います。車内では座る席がないと車掌が小さな木の丸椅子を差し出して「これに座りなさい」と言うのです。通路に丸椅子を置いてそれに座ります。日本では考えられないことです。
 また、運賃が安いことには驚きます。西安駅から兵馬俑博物館まで高速を使って約1時間の道のりの運賃が5元です。日本円に直すと90円くらいです。本当に安いと思いました。兵馬俑博物館の入園料は90元、1260円くらいです。「庶民が使うバス運賃は安く、少しゆとりのある者が利用する博物館などは料金を高くする」とても合理的に思いました。
 タクシーにも何度か乗りました。このタクシーでも面白いことが何度もありました。
 平成17年、ウルムチ空港からホテルまでタクシーを利用したときのことです。妻が運転手に「新疆大酒店」と書いたメモを示すと「予約しているか」と聞くので「予約している」と答えると、車はスピードを上げて走り始めました。メーターを倒さないで走るのでおかしいと思って妻が「ホテルまでいくらですか?」と聞くと、何やら中国語で言っているが妻は聞き取ることができません。「英語が話せるか」と聞いてきたので「アイ キャンツ スピークイング リッシュ」と答えると、「どうしようもないな」とでもいうような仕草をしながら車を走らせます。高速道路を走り、一般道路に出て、ホテルに着きました。ホテル玄関で、妻が「領収書をください」と言うと、1枚10元の領収書を領収書綴りからびりびりと10枚破り取り、「タクシー代100元」と言います。私も妻もびっくり。昨年は50元程度だったからです。妻は「それは高い。去年9月は50元だった」と強く言いますが、運転手は身振り手振りで大声で何やらまくし立てながら「100元」の一点張りです。私は日本語で、「そんなに法外な料金を請求するのは中国の恥ですよ」と強く抗議しましたが、運転手に分かるはずはありません。見かねたホテルボーイさんが「60元でどうか」とタクシーの運転手に言うと、運転手は「仕方ないや」とでもいうような顔でOKしました。私たちも仕方なく60元払いました。
 金額はわずか60元、日本円にして800円程度です。金をけちけちして抗議したのではありません。交通事情を知らない外国人旅行者から少しでもふんだくろうとする心が許せなかったのです。
 くつろいだ後で、私が日本語で「中国の恥」と言ったことを妻は大笑いです。
 正直者の運転手の態度に感動したこともありました。
 シルクロードを旅した帰り、西安市内のホテルから西安空港までタクシーを利用したときです。空港に着き、搭乗手続きを済ませ、待合室へ入ろうとすると、空港の係官が何やら言います。後ろを振り向くと、タクシー運転手の鉄さんが大声で何かわめきながら手を振っています。何事かと妻が鉄さんの所へ行くと「座席に財布が落ちていました。これはあなたのものでしょう?途中で気がついたので急いで引き返して来ました」と言って、財布を渡しました。財布には中国元ばかり200元ほどはいっていました。タクシー代金を払うとき、財布をリュックにしまい損ねたのです。
 妻が「ずいぶん遠くまで帰っていたでしょう。どこで気づきましたか?」というと、「很遠(ヘン ユアン)(遠くまで行ったの意味)」とにこにこしながら言います。2度と逢うこともない乗客の忘れ物を届けに、わざわざ引き返して届けてくれた優しさにとてもうれしい思いをしました。
 中国人の心優しさに触れたのはまだあります。中国では飛行機を利用するとき、航空券を購入しただけでは飛行機に乗れません。3日ばかり前までに航空会社で「リコンファーム」という手続きをしなければなりません。これは、「何日の何時の便に搭乗します」ということを改めて申告するものです。ウルムチのホテルで、このリコンファームをしたいと言ってもなかなか通じません。そこへ、日本語が話せるホテル売店の店員、曽紅蓮さんが来て、「私が南方航空の店まで案内しましょう」と、歩いて10分くらいの店まで案内してくれました。この人は桂林からウルムチまで来て働いているということでした。翌年、熊本名菓陣太鼓を土産に持ってウルムチに行ったときは、既に桂林に帰っていて、売店にはいませんでした。土産は同じ売店で働く人にあげました。この人も桂林出身ということでした。
 北京では、中国雑伎団ショーを見るために、その劇場近くまで行くバス停を探しましたがなかなか見つかりません。夕方でした。帰りを急ぐサラリーマン風の若い男性に「団結胡公園行きのバス停はどこですか?」と聞くと、早口で妻に説明していましたが妻は聞き取れません。すると、若い男性は「自分がそこまで連れて行きましょう。」と言い、地下道を渡って道案内をしてくれました。途中で、「実は雑伎団のショーを見に朝陽劇場まで行くのです」と言うと、「それならこちらが良いです」と引き返し、バス停を親切に教えてくれました。日本ではこんなに優しく道案内してくれる人がいるだろうかと妻と話したものでした。
 文化の違いというか、風習の違いというかそれを知らないで大げんかしたこともありました。子ども達も一緒に西安、北京、上海を旅したときです。西安で、空気でっぽうでものを打ち落とす出店がありました。息子が「してみたい」と言いますので、させました。たしか1回撃つと1角くらいの料金だったと思います。10回撃つ約束で撃ってみることにしました。すると、息子が撃つたびに、「さあ、どうぞ」というような仕草で鉄砲を撃つように勧めます。私たちは、「鉄砲が的に当たっておまけで撃っていいのだな」と思っていました。10分くらい経っても「どうぞ」の仕草をします。息子が「もうやめる」と言うので、妻が1元払おうとすると、法外な額を請求されました。それで、妻は「あなたがどうぞと言うでしょう。だから何度も撃ったのです」と。相手は「何度も撃ったではないか。1回1角だから50元」と言って引きません。もう互いにけんか腰です。添乗員さんが何事かと駆け寄ってきたので、わけを話すと、交渉してくれました。確か10元くらい払ったと思います。
 中国には、的に当たったおまけなんていうことはないそうです。自分の思いこみで、日本の習慣がそのまま外国でも通用すると決め込むととんだことになることを学びました。
 まだまだ、面白い話がありますが、時間がきました。このあたりで終わります。
 これまで話しましたのは、あくまでも私が見たり聞いたりした中国の一端です。これが中国のすべてではありません。そこはご理解の上、皆さんも是非中国を旅してみてください。
 わくわくどきどきすることがたくさんあることと思います。
 本日お配りしました紀行記の写真は白黒ですが、インターネットで中国旅行記を公開していますのはカラー写真満載です。「ありちゃんのホームページ」で検索すると見ることができます。時間があったら覗いてみてください。
 ご静聴ありがとうございました。