思い合う心
〜愛は、家庭で教わらなかったらよそで学ぶのはむずかしい〜
平成20年12月11日
八代市立二見小学校


 皆さん、今日は。ご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 「中川さん、あなたの話はとても良いと聞いています。本校でも話をしてもらえませんか?」と校長先生から依頼されました。とても褒められました。褒められるとうれしいものですから「はい、分かりました」と引き受けました。
 しかし、今、引き受けない方が良かったと後悔しています。
 一つは、私が社会教育主事の仕事を初めてするようになったとき、大変お世話になった、というよりいろんなことをご指導いただいた先生がこの会場にいらっしゃることです。指導を受けた先生の前では話がしにくうございます。
 二つは、ここで家庭教育のことについて話をしますので、「さぞすばらしい子そだてをしてきた者だろう」と皆さんが思われてはいないかと思うからです。
 私には2人の息子がいますが、いろんなことがありました。
 長男が高校生のときです。2階の自分の部屋に行ってなかなか下りてこないときがありました。私は気になって長男の部屋に行きますと、真っ暗な部屋にぼーっと赤いものが見えます。息子がたばこを吸っていたのです。それに気づいた私は夢中で息子を殴りました。ほっぺたがはれるほど殴りました。2階での騒動を何事かと思って妻が上がってきました。簡単にわけを話すと、妻は自分より大きな息子に向かって「私はあんたをそぎゃん人間に育てた覚えはなか」と体当たりしました。鬼のような形相です。息子は私と妻の期待に応えようと努力はしていたるものの、いろんな事が思うようにならず、気分を紛らすために、つい、たばこを吸い始めたと自分の心の弱さを反省したようでした。
 次男は高校生のとき、部活動の試合後の打ち上げを食堂でしました。いつも試合に出ると負けの部活動の試合で勝った祝いに、部員でアルコールも飲んだようです。解散するとき、校歌を歌い、高校名を大声で名乗り万歳三唱をしたらしいのです。それを聞いていたお客さんが学校に通報し、翌日から自宅謹慎です。
 親子で学校に喚ばれました。そのとき、校長先生は「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉で子どもたちを諭されました。老子の言葉で、天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるという意味です。
まさにこの言葉通りでした。ふり返ると、夕ご飯を食べるとき、ビールを飲みながら「おまえも1杯どぎゃんや」と言っておりました。これがいけなかったのです。本当に反省しました。
 しかし、講演を引き受けました以上は、私が子どもたちにしてきたこと、またできなかったこと、そしてこんな子育てでありたいなと思うことなどを交えて家庭教育についてお話しをし、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 今日は、「愛は、家庭で教わらなかったらよそで学ぶのはむずかしい」と大きなテーマを演題としました。
 マザーテレサの言葉に「愛の反対は・・・・」というのがあります。愛の反対は何でしょうか?「憎しみ」ではないのです。憎しみは愛に変わることがあります。テレサは「愛の反対は、無関心」と言っています。無関心から愛は生まれません。子ども達の行動を、いつも関心を持って見守ってください。私は保護者に「手を離して、目は離さずに」といつも言っていました。私が目を離していたから冒頭話しました息子の喫煙に気付かなかったのです。子どもがいくつになっても目は離さないでください。
 今、校長先生から「なかがわありとし」さんと紹介いただきました。「有紀」と書いて「ありとし」と読みます。
 牛深小学校に赴任したときのことです。校長先生は私の顔をジーっと見つめながら、「うわぁー、あたは、ほんなこつ中川先生な。私は名前を見て『今度来る先生は美人の先生ばい。』と職員には紹介しとった。あたが男の先生とは思わんだった。ほんなこてあたは中川先生な」と本当に困ったという顔でおっしゃいました。このときの校長先生は私の名前を「ゆうき」または「ゆき」と読まれたのだろうと思います。このように、よく女性の名前と間違われるのですが、私は父がつけてくれたこの名前に誇りを持っています。父を尊敬しています。
 皆さん方も、子どもさんやお孫さんが生まれたとき、家族全員で喜び合って、いろんな思いをこめて名前を付けられたことと思います。その名前に託した親や家族の思いを子どもさんの誕生日ごとに語ってください。
 そのときは、手を取り目を見つめ、お子さん誕生の時の感動を思い起こしながら語ってください。きっと、子どもさんは自分に対する家族の思いを知って更に自分の名前を誇らしく思うと思いますよ。
 私は先ほど言いましたように、「ありとし」と言います。小さい頃は「ありちゃん」と呼ばれていました。65歳の今でも小中学校時代の同級生からは「ありちゃん」と呼ばれています。
 私が小学生の頃、高学年や中学生の悪頃達から「あっ、ありの来た。ありば踏みつぶそう」と足でありを踏みつぶすまねをしてからかわれました。そのたびに、私は体当たりして「おれはありじゃなか。ありとし」と言っていました。それだけ小さい頃からこの名前に誇りを持っていました。
 子どもが小学生の頃はそうではありませんが、中学生の後半から高校生位の歳になりますと、道を外れそうになることがあります。誰もが一度は、違う道へ行こうとすることがあります。私もそうでした。息子達もそうでした。
 そのとき、「ほら、あなたが小さいときあなたの手を取って、あなたにはこんな人になって欲しいとの願いから名前をつけたと話をしたでしょう」と言ってください。きっと、本来の道に帰ると思います。だって、あなたの赤い血を受け継いだあなたの子ですから。
 私は、親でしか教えられないものがあると思っています。私が小さい頃、秋祭りで近隣の親戚に呼ばれて母とよく行っていました。ごちそうが出ると、私は「いただきます」と食べていましたが、母はあまり食べません。初めはなぜ母があまり食べないのか分かりませんでしたが、後で分かりました。私が食べ残したもの、その辺りにこぼしたものをきれいに食べてしまうのです。子どもが食べ残したものを食べるために、母は食べなかったのです。私が食べ残したものを母が食べてしまうのを見て、私は出されたものを残すのはもったいないということを学びました。母は、食事の礼儀やもったいないの心を教えていたのだろうと思います。
 最近はあまりレストランで食事することはありませんが、たまにレストランに行くと、家族連れで楽しく夕食を食べている光景を見ます。しかし、食事が終わって席を立つとき、テーブルには食べ残しがいっぱいです。小さい子が食べた後は、テーブルの上やいすの下は、こぼしたものでいっぱいです。それでも平気な顔で席を立つ人が多いように思います。せめて、テーブルの上や周りはきれいに片づけて帰りたいものです。そうすれば子どもは何かを学ぶはずです。
 先ほどの紹介で、益城町で社会教育指導員をしているとありました。公民館講座の世話もしています。
 2年ばかり前の公民館講座受講生受付時のできごとです。講座申し込みに若いお母さんが2歳くらいの幼児を連れておいでました。帰りに、「はい、○○ちゃん、あんよ出して」と言って靴を履かせて帰りました。しばらくして、同じ年格好の幼児を連れたおじいさんが来られました。帰りに「○○、靴は自分で履ききるど。じいちゃんが見とるけん、自分で履け」と言って幼児が靴を履くのをじっと見ておられました。「右左反対に履いてしまったね。よかたい。歩かるるけん」と言って帰って行かれました。靴は左右反対に履くと歩きにくいでしょう。反対に履いて歩きにくい体験をすることで、靴の右左を意識して履くようになるのです。
 どちらの子どもも靴を履く体験をしました。後で生きて働く体験はどちらでしょうか。言わずもがなですね。ある学校での家庭教育講演会では、「手を離して 目は離さずに」としました。実は、この逆が多いのです。目を離して、手を離さないことが多いのです。
 私は、今、公民館講座では大人の人に、放課後子ども教室では子ども達に、そろばんを教えています。大人の人は40代から74歳まで16人です。皆さん熱心に学習します。11月にあった全国珠算検定試験に70歳の方が4回目の受験で3級に合格されました。講座生みんなでお祝いしました。この方は、3年前に8級程度から始められた方です。4級まではすいすいと行きましたが、3級でかなり苦労されました。毎日、時間を見つけて練習していらっしゃるのです。「先生、毎日、かけ算、割り算、見取り算を一通り練習して間違ったところはやり直すという練習をしていますが、私の練習ではいけないのでしょうか?どんな練習をすれば良いでしょうか?」とよく質問されました。とても自尊感情が高い人です。失敗を能力のせいにはされません。練習不足、練習の仕方の見直しをして自分が決めた目標到達に一生懸命です。
 人は、失敗を他人のせい、能力不足のせいにしがちです。子どもさん達が失敗したときは絶対能力不足のせいにさせないでください。他人のせいにさせないでください。
 今朝のことです。我が家では、妻が朝食の準備をします。私が洗濯をします。風呂の残り湯をポンプで洗濯機に汲んで洗濯します。たまたま、妻が手がすいてポンプで水を汲もうとしたとき、水の勢いでホースが洗濯機から飛び出て床に水がふき出ました。モーターのスイッチを入れるときは、こうならないようにホースはきちんと洗濯機に入っているかを確かめるのですが、今朝はそれをしなかったのです。それはそっちのけで私に「あなたがきちんとホースを洗濯機に入れておかんだったけんおおごつした」と、怒りできんきんしています。こんな時に何を言っても聞きませんので、ご飯を食べるとき、「失敗を人のせいにすると気が楽になるもんね」と言うと、苦笑いしています。人のせいにすると、気が楽になるから失敗の原因を深く反省しないのです。そこには前進はありません。
 しかし、失敗したことを反省しているときに責めるのはどうかと思います。
 数日前のことです。朝食の後片付けをしたとき、私が少し急いだものですから食器からおかずを床にこぼしてしまいました。おもわず「しまった」と声が出ました。それを聞いた妻が「どうしたつね?」と聞きます。「おかずをこぼしてしまった」と言いますと、妻は虫の居所が良かったのでしょう。「よかよか、片付ければ済むことたい」と言います。私は救われた思いがしました。今度からは、こぼさないように一度に無理しないで運ぼうと思いました。虫の居所が良かったのだろうと言いました。救われた思いと言いました。いつもなら「あたが無理して一度に持ってくるけんたい。この急がしか朝に要らん仕事ば作って」と鬼の形相です。そういわれると自分では反省していても反発したくなるものですね。「しまった」と言って大いに反省しているときは、「けがはなかった?」とか「今度から気をつけようね」などと言葉を掛けて欲しいと思います。これには、「虫の居所」ではなく心をおおらかに持つことです。そのためには、先ずは自分自身毎日の生活を楽しみましょう。一家団欒の場を数多く持ちましょう。
 生きる力は、「こうしなさい」「こんな事はしてはいけません」などと言って聞かせればできるものではありません。毎日の生活の中で身につくものです。また、毎日の親の生活態度で自然と身につくものです。
 このことをアメリカ人 ドロシー・ロー・ノルトは、子は親の鏡として次のようなことを言っています。


        子は親の鏡

  けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる。
  とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる。
  不安げな気持ちで育てると、子どもも不安になる。
  「かわいそうな子だ」といって育てると、子どもは、みじめな気持ちになる。
  子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる。
  親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる。
  叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。
  励ましてやれば、子どもは、自信を持つようになる。
  広い心で接すれば、キレる子にはならない。
  ほめてあげれば、子どもは明るい子に育つ。
  愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ。
  認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる。
  見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる。
  分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ。
  親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを学ぶ。
  子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ。
  やさしく思いやり持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ。
  守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ。
  和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる。


 読んでいかがですか。家庭教育とは愛そのものですね。
 皆さんは、ピグマリオン効果という言葉を聞かれたことはありますか?心理学の用語で、「人はできるようになってほしいと期待するとその期待に応えるようになる」というようなときにこの言葉を使います。
 「ピグマリオン効果」の名前の由来となったギリシャ神話を少し話します。
 キプロス島の「ピグマリオン」という若い王は、大理石に全身全霊を込めて「理想の女性像」を彫りました。ピグマリオンは、生きているように美しく彫り上げた女性像に恋をして、花を摘んで与えたり、美しいネックレスをかけてやるなど、生命の通う人間であることを願い、信じ続けたのです。
 ピグマリオンの願いが愛と美の女神の耳に届き、女神は大理石の女性像に命を吹き込みました。
 ピグマリオンは命が宿った像と結婚して、いつまでも幸福に暮らしたという話です。
 「いつも自分がついていないと何もできない」と思っている母親の子どもは、いつまでも自立心が芽生えないそうです。また、「この子は自分でできる」と思っている母親の子どもは、早くできるようになるそうです。
 それはそのはずですね。初めに話しましたように、「まだ履けない」からと母親から靴を履かせてもらった子と、「自分で履けるね」と自分で靴を履くようにおじいさんから言われた子では、経験に大きな違いがありますものね。子どもは体験から何かを学び、成長するのです。
 また、このピグマリオン効果は、先生と子どもの信頼関係、先生と保護者の信頼関係にもいえることです。最近は、あまり耳にしませんが一頃、モンスターペアレンツという言葉が新聞テレビをにぎわわせました。先生に対して理不尽なことを注文する、先生を信頼しない、このことで一番迷惑するのは子どもです。親が先生を信頼しなければそれが必ず子どもにも影響します。いくら先生がすばらしい話をされても、いくら熱心に指導されても信頼していない子は先生の話が耳に入りません。先生の指導で疑問に思うことがあったら直接先生と冷静に話し合うことです。これが先生を信頼するもとになります。
 今学校では、「認め」「褒め」「励まし」「伸ばす」教育が展開されています。しかし、この「認め」「褒め」「励まし」「伸ばす」は学校の専売特許ではありません。家庭でも地域でもこの4つの視点をもって子育てに当たりたいものです。
 皆さん、子どもさんの良いところを5つ挙げてください。(40秒程度)
 今度はそうでないところを5つ挙げてください。(40秒程度)
 おたずねします。お子さんの良いところとそうでないところのどちらがすいすいと頭に浮かびましたか?
 良いところがすぐに浮かんだ人?(30人程度)
 そうでないところがすぐに浮かんだ人(こちらがやや多い)
 二見小学校の保護者の皆さんはすごいですね。子どもの良いところがすぐに、いくつも思い浮かぶ方がこんなに多い。子どもさんから目を離していない方が多いですね。
 私たちは、案外子どもの悪いところはすぐに挙げることができるが、良いところはなかなか見つからないものです。
 今、書いたお子さんの良いところとそうでないところについては、帰ったら家族みんなで話し合ってみてください。
 認める、褒めるといっても、これはなかなか難しいものです。子どもをよく見ていてその成長や変化をとらえて認め、褒めないと子どもは喜びません。
 先日、私の話を聞いた人が「中川さん、今日の話は良かった」と言いました。私は「どこが良かったですか?」と聞きました。すると「何さま良かった。とっても良かった」と言われるばかりです。これでは、褒められてもあまりうれしくありません。褒めるときは具体的なことを例示して褒めることです。
 あるところで、「子どもを認め、褒め、励まし、伸ばしましょう」と話をした後で、一人のおばあさんが話されました。
 私が娘のうちに用事があって行った日のことです。孫がこんなに大きな魚を釣ってきました。孫の表情からは、みんなに見せようと思っているようでした。私が「うわー、大きな魚ば釣ってきたねー」と褒めようとするより早く娘が「何ね、そぎゃんふとか魚ば持ってきて。内にはそぎゃんふとか魚ば養うところはなか。早う、川に逃がして来なっせ」と言うではありませんか。孫はみんなに見せたかったのです。褒めて欲しかったのです。それを、叱られて、しょぼんとしていました。私は、後で孫に「ふとか魚ば釣ったね。釣れたときはうれしかったろう。こがんふとか魚は誰でもは釣りきらんもん。ばってんがね、お母さんが言うたごつ、家には魚ば養うところはなかけん川に逃がしておいで」と言うと、にこっとして「うん」と言って川に逃がしに行きました。子どもがしたことは認めて褒めてやらにゃんですねと。     
 もうすぐ子どもは通知票をもらいます。通知票の評価は、「たいへんよい」「よい」「もう少し」ですかね。3段階の評価もですが、それより先生が書いてくださる通信欄を見てください。先生方は子ども一人ひとりをよく観察して、すばらしいところ、改善して欲しいところを丁寧に書いてあります。それをもとに子どもを認め、褒めて欲しいと思います。
 通知票についての小話です。
 終業式の日、お父さんが6年生のありちゃんに聞きました。
 「おーい、ありとし、今日は終業式だったけん通知票ばもろうちきたろう。どう、見せんか」
 ありちゃんはあまり見せたくありませんが、お父さんが何度も見せなさいと言うので渋々見せました。
 「なんや、この通知票はえらい冷たかね。どぎゃんしたつか」
 「おるが通知票ばもろうち来るたんびに父ちゃんが『おまえの通知票は悪なるばかるね』て言うけんこれ以上悪うならんごつ冷蔵庫に入れといた」。
 こんなユーモアのある子だったら素晴らしいですね。
 先ほど、公民館講座で学ぶ大人は自尊感情が高い人と話しました。自尊感情は生涯学習時代といわれるこれからの子ども達にとって一番大切なものだと私は思っています。向上心、チャレンジ精神、目標に向かって努力する強い意志のもとになるのがこの自尊感情です。これは、自分が好きという感情があるから湧く意欲です。自分が好きと言うことは、自分以外の人も好きになります。これは、人権尊重のもとになるものです。
 この自尊感情は、毎日の生活の積み重ねで育まれていきます。先ほどから、認め、褒めましょうと言い続けてきましたが、認められることによって、子どもは自己有用感とか自己存在感を実感します。これを自己実現といいます。この自己実現する機会をたくさん作って欲しいと思います。
 それと、様々な体験、特に、心を揺り動かす体験をたくさんさせましょう。心を揺り動かす体験を私は情動体験と言っています。
 私の父は、15年ほど前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や弟たちと相談して、自宅で死を迎えさせようと入院は断りました。父は家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の弟妹は名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみをこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 ペットショップで買ってやったカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」と言ったわが子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行きました。苦労して採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したという話を聞いたことがあります。
 子どもたちが命を現実のものと受け止める機会を数多く作ってやりたいと思います。人やペットの死や誕生を通して、「生きる」とはを考えたいと思うのです。子ども達が命の尊厳を受け止め、命を大事にして欲しいのです。
 このような体験、自己実現の機会をたくさんもたせて、自尊感情を育んで欲しいと思います。
 私たち人間の子は、周りの大人が保護してやらねば自力で成長することができません。しかし、その保護に課題があるのです。保護しすぎるのが過保護でしょう。保護しないのが放任でしょう。
 そこで、「保護」するとは、どんなことをするのかを見てみます。
 「世話」があります。「指示」があります。「授与」があります。「受容」があります。先ほど言いましたようにどれもこれをしないと人は育ちません。しかし、それが過ぎるとどうなるでしょう。
 「世話」のし過ぎにより、子どもは自分のことが自分でできなくなってしまっています。子どもはいつも「世話」をされているので自分でする必要がないからです。先ほどの後片づけもそうです。自分でさせることが大切です。
 「指示」のし過ぎにより、子どもは自己判断ができなくなっています。いつも「こうしなさい」「ああしなさい」と「指示」されるので、自分で判断して行動する必要がありません。そしていつのまにか、誰かの指示無くしては動けなくなります。これを指示待ち症候群と言うでしょう。
 大学の先生に聞いた話です。今の学生は、「先生、宿題を出してください。何をどう勉強して良いかわかりません」と言うそうです。先生の講義を聴き、それに関することを自分で調べたり、自分が興味のあるものを進んで研究したりするのが大学生です。それが、大学生にもなって「宿題を出してください」はあまりにも主体性がありません。
 「授与」、ものの与えすぎにより、子どもの心から「感謝の心」、「物を大切にする心」がなくなってしまっています。次から次にものを与えられるから、ものをもらうのがあたりまえとなります。なくしても直ぐに新しいものを買ってもらえます。ここには「感謝の心」も「ものを大切にする心」も育ちません。
 先生方、本校ではどうですか?教室には鉛筆の落とし物がいっぱいありませんか?(落とし物があるとの返事有り)
 自分の持ち物は大切に使わせたいですよね。それには、何をどのくらい与えるかその加減を考えなければなりません。それは、一人一人の子どもさんで違うはずです。子どもさんと話し合ってください。
 私が小さい頃、家は「貧乏」でした。いつも買ってもらえないから物を大切にしました。我慢しました。一つのものを工夫して使いました。無くしたときは必死で探しました。たまに買ってもらえるから感謝したのです。
 「受容」、子どもの言い分を何でも聞き入れていては、「耐性」「自己規制」「節度」は生まれません。自分の考え、行いを受け容れてもらえるので我慢する必要がないからです。
 昭和50年代頃、私が学級担任をしている頃の話です。学級の子どもと保護者で校内キャンプをしていました。子どもが寝てしまった頃、保護者とキャンプファイアーの残り火で鮎を焼いて食べながらいろいろ話し合いました。
 そこでよく話題なっていたのが、父親は辛抱して1足1000円の靴を履いているのに、子どもには1足1万円の靴を買い与えているということでした。子どもが「○○君は1万円もするいい靴を履いている。僕も欲しか」と言うのを聞き入れて自分は辛抱して1000円靴、子どもには1万円の靴です。これはおかしな事です。子どもが欲しいというのを何でもかんでも聞き入れてしまわないようにしたいと思います。
 皆さん方の家には、子どものお手伝いさんはいないでしょうね。ここでいう子どものお手伝いさんとは、子どもがすべきことを母親が替わってしていることです。
 布団の上げ下ろし、ベッドメイキングは子どもさんがしていますか?(1人挙手)
 お母さん方がしていますか?
 うわー、良いですね。お子さんは何年生ですか? 5年生ですか。
 小さい頃から子どもさんが布団の上げ下ろしはしているのですね。
 お母さんがしていらっしゃる家庭が多いようですね。小学3年生ごろから、子どもができるでしょう。子どもにさせて下さい。子どものお手伝いさんにならないでください。
 家庭とは、「家の庭」と書きます。庭には木や草花が植えてあります。庭に降り立つと、何となく心がほっとします。家庭とは、心がほっとする処、温かい心の通い合う処です。
 「家に帰るとほっとする」そんな家庭は、強い絆で結ばれている家庭です。愛で結ばれている家庭です。互いに他を思い合うに家庭です。
 その基礎は、夫婦が仲良いことです。夫婦げんかが絶えない家庭では心は落ち着きません。夫婦は仲良く、そして、嫁しゅうとの関係が良いことです。そして、みんなが健康であることです。
 家族みんなが健康で、仲むつまじく、そして、二見小学校の子どもが益々こころ豊かな子どもに成長しますことを祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。