つないでいこう こころとこころ
平成22年5月26日
人吉市役所別館


 みなさん、こんにちは。中川でございます。ただいま私のことを「中川ありとし」さんと紹介していたきました。私は「有紀」と書いて「ありとし」と読みます。
 私が新任で、牛深小学校に赴任したときのことです。校長室にあいさつに行くと、校長先生は私の顔をじっと見つめながら、「あたはほんなこて中川先生な。私ぁ職員に女性の先生が赴任してくると紹介していたのに。男の先生な。あたはほんなこて中川先生な」と私に念を押されました。
 時の校長先生は、私の名前を「ゆき」または「ゆうき」と読まれたのでしょう。だから私を女の先生と思い込まれたのだと思います。
 先ほど言いましたように「有紀」と書いて「ありとし」とよみます。66歳になりますが、今でも小学校や中学校の同級生、幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。
 私の父は「有」一字で「たもつ」でした。「有」という文字は、上に「保」という文字を付け加えると「保有」と言う熟語ができるでしょう。それで、「有」は「保つ」という意味がありますね。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味がありますね。そこで、「紀(年)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。私はこのようなすばらしい名前を付けてくれた父に感謝しています。私が中学生の頃、当時は農家の長男は跡取りをするのがあたりまえという時代でした。祖父はいつも「お前は長男だけん跡取りばせにゃんぞ」と言っていました。しかし、父は、「先生になろごたる」と言う私を「お前の好きな道を歩め」と応援してくれました。そんな父を尊敬し、敬愛しています。
 その父に1度だけ強く抗議したことがありました。
 もう40年以上も前のことですが、私が結婚を意識し始めた頃のことです。私が結婚しようと思っていた女性、今の連れ合いですが、どこでどのように育ったかなどを聞いていたことを知ったからです。
 当時は、「相手はどこん女性か、どぎゃん女性か調べたな?」いわゆる身元調査は結婚話の時によくありました。しかし、私は連れ合いと私の人権を侵された思いで、「おるがこの女性と結婚したいと決めたのに、おるば信用できんとな」と強く抗議しました。父は何も言いませんでしたが、下を向いたままのその姿から父の思いが伝わってきました。結婚に際しては心から祝福してくれました。当時、私は同和教育という言葉は知りませんでしたが、これが私と同和問題との出会いでした。
 私は社会教育主事の頃、当時は社会同和教育研究集会と言っていました。今は、社会人権教育研究集会と言っています。こちら球磨・人吉地域でも開催されているでしょう?その研究集会で基調提案をするとき、「同和教育」とか「同和地区」などの言葉を使っていました。基調提案を終えるとある方が、「中川さん、あたが行政職員として「同和教育」とか「同和地区」とか言うのは当然のことだろう。ばってん、あたが「同和地区」「同和教育」と言うたびに私ぁ大きな鉄槌で頭を殴られたような思いがしました。こんな思いばせんでよかごつ、1日も早う部落差別がなくなるごつしてはいよ」と言われました。
 自分の責任以外のこと、生まれた所によって差別を受ける部落差別はあってはならないことです。
 部落差別をはじめあらゆる差別をなくす取り組みは、すべての人の願いです。すべての人は「幸せに暮らしたい」という願いを持っています。
 今、隣県宮崎県では家畜の口蹄疫問題で揺れ動いています。今朝テレビのニュースを見ていると、「子牛を殺すなら俺を殺してくれ」と悲痛な思いで友が言うのを聞いて涙が出てしようがなかったと言う話が放映されていました。昼食時、インターネットを見たら、「殺処分される前に最高の資料を食べさせてやりたい」との畜産農家の方の思いが掲載されていました。
 我が子のようにかわいがって育てている牛や豚を殺処分しなければならない畜産農家の方々の心情をもっと受け止めるべきです。これから先数年、収入がなくなるわけですから補償はとても重要な問題です。が、それと同等に畜産農家の方々の心のケアーが今最も必要だと私は思います。このことは、後でも触れます。
 本日は、差別をなくす取り組みに対する私の思いを「つないでいこう こころとこころ」と題してお話しします。
 私の家の近くにスーパーがあります。小さな子ども連れのお母さんとよく遭います。
 先日、「こんにちは。お母さんと一緒でいいね。」と小さな子どもに声をかけました。子どもは目を輝かせて「うん」と応えました。母親はその子の手を引っ張る様に連れて行き、「知らない人から声かけられても応えちゃだめっていつも言っているでしょう」と子どもを諭しました。
 次の日、同じようにお母さんと買い物に行っている子どもに声をかけました。「うん、お菓子を買ってもらうよ」と言いました。若いお母さんは、「○○ちゃん、うんではないでしょう。こんにちはってあいさつしなさい」と子どもに言い聞かせていました。
 どちらの子どもがこころ豊かに育つでしょうか。
 大人に対しても「こんにちは」とあいさつしても、あいさつが返ってこないときがありますよね。 こんなとき、みなさんはどう思いますか?
 「あいさつも返さないで嫌なやつだ」と思われますか?
 「どうかしたのかな?」と相手を気遣われますか?
 あいさつから返ってくる言葉や態度や、そしてその受け止め方によって心と心のつながりは大きく違いますね。
 心と心がつながる生活を心掛けたいと思います。
 熊本県人権教育・啓発基本計画のはじめにをご覧下さい。
 少し長い文ですが、読んでみます。一緒に読んで下さい。


 「日本国憲法」第11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」として、日本国憲法を貫く最も基礎的な原理として人権尊重主義を掲げています。
 また第13条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」として、一人ひとりの人間がかけがえのない存在であることを確認するとともに、人が人として生きていくうえで必要不可欠な権利として、幸福を追求する権利を保障しています。
 しかしながら人権問題の現状に目を向けると同和問題をはじめ女性差別、子どもに対するいじめや虐待、高齢者や障害者、外国人などに対する偏見や差別など、人権に関する様々な問題が存在しています。
 中でも、同和問題は「同和対策審議会答申」で述べているように「日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的、社会的、文化的に低位の状態におかれ現代社会においてもなお著しく基本的人権を侵害され特に近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題」です。この問題の解決を図るため、これまで「同和対策事業特別措置法」の制定以来、総合的な同和対策事業が進められてきました。
 県としても、この同和問題を、基本的人権の侵害に関わる重大な人権問題として受けとめ、生活環境の改善をはじめとする物的な基盤整備のほか、同和問題を基本とした教育・啓発活動や「熊本県部落差別事象の発生の防止及び調査の規制に関する条例(平成7年3月制定) の周知などに努めるとともに、就職等についての差別をなくすため、企業等に対し、差別のない適正な採用選考を促進してきました。
 同和問題の解決に向けての様々な取組みの結果、物的な基盤整備については着実に成果をあげましたが、その一方で、今なお部落差別事象が発生するなど、県民の差別意識の解消は十分に進んでいない状況にあります。同和問題の解決に向けて、県民の積極的な理解と参加を得られるような啓発活動への取組みが求められています。
 また本県では、日本における公害の原点といわれる水俣病を通して、その発生地域の内外で偏見や差別の問題が生じました。その解消に向けて、地域住民間のきずなを取り戻すことを目的とした「もやい直しセンター」が建設されるなど、地域が一体となった取組みが進められています。偏見や差別が様々なきっかけで起こる可能性があること、また、その解消のためには正しい知識や情報の提供が必要であるということを十分念頭に置き、今後の取組みに生かしていく必要があります。
 さらに本県には「国立療養所菊池恵楓園」という全国最大規模のハンセン病療養所があります。また、平成13年(2001年)5月に出された熊本地方裁判所の判決はハンセン病の歴史を大きく変える契機となるなど、本県とハンセン病との関わりは非常に深いものがあります。現在、ハンセン病に対する県民の偏見や差別の解消に向け、啓発活動を進めているところです。


 今読みましたように憲法では、「人権尊重」の理念のもと、「人が人として生きていくうえで必要不可欠な権利、幸福を追求していく権利」を保障しています。 
 しかし、現在の日本では、同和問題をはじめ、女性差別、子どもに対するいじめや虐待、高齢者や障がい者、外国人などに対する偏見や差別など、人権に関する様々問題が存在しています。
 それで、各自治体では「人権教育推進協議会」を母体として様々な人権問題を解消する取り組みがなされています。
 偏見・差別という言葉が出ていますが、偏見とは「合理的な根拠なしに特定の個人や集団、その他の事柄に対して抱く非好意的な態度や考え方」ととらえます。差別とは、「自分の力ではどうすることもできないことで社会的不利益を被ること」「命と人権が傷付けられること」「不当な分け隔てをすること」ととらえます。

 女性の顔が見えます。年齢はいくつくらいだと思いますか?
 おばあさんに見えた人?(半分くらい挙手)
 少女に見えた人?(半分くらい挙手)
 どちらにも見えた人?(半数以上が挙手)
 大勢いらっしゃいますね。
 どうしても両方は見えないと言う人はいらっしゃいますか?(挙手0)
 違う見え方に気づくのは難しいことですが、みなさんすごいですね。
 最初におばあさんに見えた人にとっては、少女にはなかなか見えにくいものです。
 その逆もあります。出会いが大切ですね。人との出会いにしても人権問題との出会いにしても出会いが大切です。
 コップを描いてみてください。
 どなたかここに描いてもらえませんか?
 (4人に描いてもらう。水を飲むコップ、コーヒーカップ、ビール用グラス、ビールジョッキ)
 すばらしいコップを描いて頂きありがとうございます。いろんなコップがあります。みなさんにお尋ねします。
 水を飲むコップを描かれた方、手を挙げてみてください。(30人程度)
コーヒーカップの方?(20人程度)
 ビール用グラスの方?(1人)
 ビールを飲むジョッキの方?(15人程度)
 私は「コップを描いてください」と言ったのですよ。この私の言葉を聞いてみなさんはこのようにいろんなコップを描きました。
 人それぞれ受け止め方やものの考え方がは違うということがお分かりでしょう。他人が自分と同じように考えているとは限りません。自分の意志を伝えるとき、相手はどう思うかを考えましょう。
 ここに描いてもらったコップは形は違いますが共通していることがあります。
 共通しているのはどんなところでしょうか?(「丸い面がある」「深さがある」などの声が出る)
 そうですね。今おっしゃったことはすべてに共通しています。まだ共通していることがあります。
全て上向きということです。すべての方の絵を見たわけではありませんが、私が見た限りでは下向きのコップを描かれた方はいません。コップが下向いていると、ものを注いでもたまりません。今私の話を聞いているみなさんの心のコップは上を向いています。コップの絵のように「心のコップ」はいつも「上向き」にしておきたいですね。
 魚の絵を描いてみましょうか。
 ここに描いてもらえませんか?
 (2人に描いてもらう。右向きの魚、左向きの魚が描かれる)
 丁寧に鱗まで描いてもらいました。すばらしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。
 お尋ねします。
 ○○さんのように右向きの魚を描かれた方、手を挙げてください。(3人)
 □□さんのように左向きの魚を描かれた方?(大多数)
 私は皆さんに、「魚の絵を描いてください」と言いました。「頭が左を向いている魚の絵を描いてください」とは言いませんでした。それなのに、左を向いている魚を描いた方が圧倒的に多いです。 どこの研修会でも、本日のようにほとんどが左向きの魚を描かれます。どうしてそうなると思いますか?
 私たちが目にする魚の写真や絵はほとんど左向きです。料理に出る魚も左向きです。先日、中国の青島、曲阜、泰安の3市を旅しました。中華料理で出される魚もみんな左向きでした。つまり、私たちは毎日の生活の中で空気を吸うごとくに無意識のうちに「左向きの魚」を学習しているのです。
 牛の絵を描いて欲しいと思いますが、冒頭、宮崎県での口蹄疫問題に触れました。宮崎県では感染拡大を防ぐために発生源10km内の牛や豚を殺処分するということです。家族同然に育ててきた牛や豚を殺処分しなければならない畜産農家の方の悲痛な思いはよく分かります。
 私の家は農家で、乳牛を飼っていました。私が小学5年生の頃、家で飼っていたホルスタイン種の子牛が結核にかかりました。その子牛は足下に少し黒い毛があるほか真っ白でした。私たちは「しろ」と名付けてかわいがりました。私は学校から帰ると草切りに行き、草を食べさせたり、川に水浴びに連れて行ったり、運動に連れ出したりしていました。結核は他の牛にも移るというのでその子牛を育てることができなくなりました。殺さねばならないのです。しかも、肉も骨も皮も利用することができないのです。口蹄疫に感染した牛と同じ殺処分です。父がお願いした業者がトラックで子牛を引き取りに来ました。トラックに牛を乗せようとしますが、前足を突っ張って動こうとしません。牛にも分かるのでしょう。トラックの荷台に父が乗り引っ張ります。私たちが尻を押します。子牛は「メー、メー」と鳴き、涙を流しながら必死で前足を突っ張り動きません。牛が涙を流すのです。父も母も私も兄弟もみんなが泣きながらやっとの思いで子牛をトラックに乗せました。あの時の牛の悲しそうな顔、そしてトラックが動き出したときの「めー」と鳴いた悲しそうな顔は今でも忘れることは出来ません。
 畜産農家の心痛を思うと、心のケアーに力を注いで欲しいと思います。1日も早く終息宣言が出ることを願っています。
 そこで、牛を思い浮かべてください。お尋ねします。
 あか牛を思い浮かべた人?(3割程度)
 黒牛?(2割程度)
 白黒のホルスタイ?(4割程度)
 阿蘇郡産山村で聞いたときは、全員があか牛でした。
 天草で聞いたときは、くろ牛が多かったのです。
 私は、白黒のホルスタインをイメージします。
 どうしてこんなに違った牛の色をイメージするのでしょうか?
 私たちは「牛」と聴けば、小さい頃からよく見ていた牛の姿が思い浮かびますね。魚の絵といい牛の姿といい、私たちは子どものころから、空気を吸うように「○○は○○」と無意識のうちに身につけていきます。これを刷り込みといいます。
 人はだれひとりとして「偏見」を持って生まれてくるわけではありませんが、この刷り込みが時として、思い込みとなり、そして社会的偏見となり社会意識となることがあるのです。
 魚や牛の絵の刷り込みは社会問題となることはありませんが、同和問題やハンセン病問題、水俣病問題はどうでしょう?
 「同和地区の人は怖い」という言葉を聞くことがあります。「あなたは怖いめにあったのですか?」と聞くと、「自分はそんなめにあったことはないが、誰でもそぎゃん言う」と言います。「誰でもとはどなたのことですか?」と聞いても「誰でも」を繰り返します。
 「ハンセン病はうつる」と思い込み、恵楓園のそばを通るとき、鼻をつまんで息をこらえて走っていたということを聴いたこともあります。ハンセン病は感染力が弱くうつることはほとんどなかったのです。しかし、このことの啓発がなされなく、ハンセン病は怖い病気ということが言い伝えられ、人々の心に刷り込まれていたのです。
 これらは、刷り込みや偏見が社会意識となって差別意識を作り出していることです。後でも触れますがみんなが言うからとそのまま受け入れることではなく、「そうかな」と立ち止まって考えてみることがとても大切なことと思います。
 次の話を考えてみましょう。
 「あの人は女性だから」を読みます。一緒に読んでください。
 「課長、先日の書類が仕上がりました。」と吉田係長が私に数枚の書類を差し出した。先週頼んでいた書類がきちんと整理されていた。「よくできているね。」と声をかけると、「ありがとうございました。」と明るい返事が返ってきて、良い職場だなといつも思う。
 5時30分、帰り支度を始めたとき、緊急放送が入った。「重要な会議を行いますので、各課
係長以上は会議室にお集まりください。」
 吉田係長が会議用の書類を揃え始めたので、「吉田係長、君はいいよ。帰っても。家が困るだろう。会議内容は明日話すから。」と私が言うと、彼女は少し迷って、「ありがとうございます。それでは失礼します。」と言って帰っていった。
 田中課長補佐が近づいてきて「吉田係長はいなくていいのですか?」と言ったので、「あの人は女性だから。」と言うと、「さすが課長、これが配慮なのですね。」と答えた。
部下に配慮できる課だと評判はいいし、私自身もそう自負している。
(自分のこととして考えよう 人権研修テキストV 熊本県)

 「少し迷って帰っていった」吉田係長は、どんな気持ちだったでしょうか?課長の行為は適切な配慮だった思いますか?
 考えてみてください。
 どなたか発表してもらえませんか?
 (「本人の意思を確認しないで、女性だからと特別扱いするのは適切な配慮だとは思わない」の発表がある。)
 そうですよね。職場の中で責任ある態度をとろうとする女性に対して、本人の意思も確認せずに、「あなたは女性だから」と特別扱いすることで、仕事上、男性と同等の機会を与えなかったら、親切心からであったとしても、それは性別役割分担意識に基づいた間違った配慮ですね。
 性別によって役割を決めているケースは社会でもよく見られます。それが本当に適切なものかどうかをいつも意識して、おかしいと思うことは見直していくことが大切だと思います。

 「六曜」って何?・・・自分自身と向き合うことからを読んでみます。
 若いカップルがいよいよゴールイン。二人で式場さがしを始めました。相談に行った式場で「仏滅割引」を知った二人は、迷わずこの日を予約しました。浮いたお金を新婚旅行にあてようと思ったからです。
ところが、二人とも親から
「仏滅に結婚式なんてとんでもない」
「世間の常識を知らない」
「恥ずかしくて親戚に顔向けできない」
と猛反対を受けました。いつ結婚式を挙げようと関係ないと思っていた二人には、なぜ親がそこまで反対するのか納得いきませんでした。

 「今日は人権教育推進連絡協議会の研修会だ。何の日か確かめておこう」とカレンダーを見てきた方いらっしゃいますか?私は調べてきました。今日は、仏滅です。
 日頃は何にも意識しないのに、結婚式だ、葬式だと言うときに「今日は何の日?」が意識されるのが六曜です。
 六曜とは、いったいどのようなものでしょうか?また、六曜の風習と人権問題はどんな関係があるのでしょうか?
 この文は益城町の広報の人権啓発に掲載したものです。
 カレンダーや手帳に、いまだに「六曜」が記載されているものがあります。結婚式やおめでたい日は「大安」に、お葬式は「友引」はよくない、事故を起こすと「仏滅」だったなどと、日取りを決める基準にされることがあります。この六曜とは、いったいどのようなものでしょうか?
 私たちはいま、7日間という週を単位として生活しています。しかし、昔の日本には週はありませんでした。そこで、上旬中旬というふうに10日単位を用いていましたが、これでは細かい1日単位の表現が不自由ですね。そこで、6日を1周とした周期を作りました。それが先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口で、六曜とか六輝と呼ばれるものなのです。
 これは、足利時代の末期に中国から伝わった時刻の名前を日に転用したものです。その時、毎月の1日(旧暦)を次のようにすると勝手に定めました。すなわち、1月と7月の1日は先勝、2月と8月の1日は友引という具合です。ですから、月によっては六曜が途中で終わったり、ときには大安が2日続くという場合も出てくるわけです。
 「このようにして定められ、ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことだと私は思っています」ともうお亡くなりになりましたが、仏願寺住職であった高千穂正史さんは、著「愛語問答」で述べておられます。
 「自分は差別していないが、世間が・・・」という言い方は、部落差別を始めさまざまな差別の際に、口にされてきました。「六曜は迷信であり、偏見にしばられることのない生き方をしていこう」と、カレンダーに六曜を入れない運動を進めている自治体もあります。一人ひとりの意識が変わることによって、「世間の常識」は変わっていくものです。迷信に頼る生き方ではなく、事実を知る生き方をしていくことが大切です。そのとき、偏見にしばられて生きるおかしさに気づくことができます。「そんなことにいつまでこだわっているの」と言えるよう、私たちの意識を高めていこうではありませんか。
 おかしな出来事に出会ったとき、「ちょっと待ちなっせ。おかしぅはなかな」と立ち止まって考えてみることが大切です。
 様々な人権問題解決のために、毎日の生活の中で人権感覚を育て、こころとこころをつないでいきましょう。
 「21世紀は生涯学習の時代」だと言われています。その1として「学ぶことによって物事を正しく理解する」ことを提案します。
 無知、知らないことは偏見を生みます。偏見は差別につながります。物事は、自分の目や耳、心でとらえ、正しく知り、正しく理解することが大切です。物事を見るとき、話を聞くとき、決めつけや固定観念で見たり聞いたりすると、正しく判断できなくなることがあります。私たちはこれまでの生活の中で自分でも気づかないうちに心の中に刷り込まれたものがあります。それが予断や偏見になることがあります。それが差別を助長したり温存したりします。「そうかな」と立ち止まって見つめ直す、考え直すことにより、予断と偏見を取り除いていくことです。
 偏見とは、合理的な根拠なしに特定の個人や集団、その他の事柄に対して感情的で固定的な態度のことです。偏見には、好意的なものと非好意的なものも含められますが、一般的には相手に対して非好意的なことが多いですよね。
 みなさんに分かったようなもの言いをしていますが、息子から私の思い込みを厳しく指摘されたことがありました。
 もう10年以上も前のことですが、長男が結婚式の日取りを決めてきたときのことです。日曜日の午後、式を挙げ披露宴をすると式場の予約をしてきたのです。
 思わず「昼から式を挙げるて?めでたいことは午前中にすることだ。今すぐ予約し直してけ」と言いました。すると、「お父さんは何ば言いよっと。人様には迷信や思い込みをなくしましょうなどと言いながらお父さんの心の中にこそ思い込みや偏見があるじゃなかね。俺は、友だちが県外から祝いに来るて言うけん来やすかごつ昼から式を挙げるように予約してきた。みんなが来やすい時間が良かでしょうが」と。
 私は小さい頃から祖父や父に「祝い事は昼前にすること」と言われていました。そう思い込んでいたのです。「祝い事は午前中」ということに何の合理的根拠もありません。このように私の心の中には、思い込みや偏見があります。その一つ一つをみなさんと学習しながら取り除いています。
 2年ほど前、上球磨地区の人権教育研究会で話をしたとき、カラスに対して持っているイメージを尋ねてみました。ほとんどマイナスイメージを持っておられました。私もマイナスイメージを持っていました。カラスの鳴き声を聴くと、「今日は何か悪いことが起きるバイ」カラスが群れていると「誰かが死んだのではなかろうか」などと。カラスが黒いと言うだけで縁起が悪いや不吉と結びつけてしまっているのです。このおかしさは偏見がもたらしたものです。偏見は社会によって植え付けられる事が多いのです。程度の差こそあれ、私たちに共通してみられます。社会的偏見として、人種的・民族的偏見、地域社会的偏見、職業的偏見、女性・障がい者に対する偏見などがあります。
 また、「世間体にとらわれない」ようにしましょう。
 次は、学校教育・家庭教育・社会教育で心がけたいことです。
 「自己存在感や自己有用感などを実感する機会を数多くつくり、自尊感情を育む」ことを提案します。
 自尊感情は、人権意識の根幹をなすものと思っています。自分を大切にする人は、他人をも大切にできます。これが、自分の人権を守り、他者の人権を守るための実践力・行動力を身につけることにつながります。
 私は心が強く動かされる体験を情動体験と読んでいます。先ほど宮崎県での口蹄疫問題に触れました。畜産農家の人々の悲痛な思いに心を寄せたり、植物や動物の栽培や飼育、人の誕生や死に接する機会を通して共感的に理解する心を育てたいと思います。
 そして、人権尊重の精神がみなぎっている環境をつくっていくこちです。このことについては、後で新聞投稿「人権感覚持つ子ら育てたい」をお読み下さい。
 これまでみてきましたように、人権教育で育むべきことは、「人権に関する知識、人権を尊重しようとする態度、そしてそれを実践しようとするための技能」です。
 今学校では、人権教育の指導方法等に関する調査研究会議がとりまとめた「人権教育の指導方法等の在り方について」によって人権教育が進められています。その座長でありました福田弘先生の話によると、「人権とは」との質問に対して、人権教育研究指定校の高校生の中に次のように応えた生徒がいたそうです。
 学校に行きたくないなぁーと思ったとき、行かなくてもよい権利
 嫌いな科目はサボってもよい権利
 好きな者となら自由にセックスできる権利
 酒を飲んでもたばこを吸っても怒られない権利
 まだ寝ていたいと思うとき、寝ていることができる権利
 このようなわがまま放題が権利と見なされたりするのは権利についての知的理解が足りない証拠です。これらのことは、大人がしっかり理解しなければ子どもたちにきちんと説明ができません。
 また、人権と人権がぶつかり合うことも時にはあります。ブィクトル・ユーゴーの「ああ無情」で、ジャンバルジャンが生きるためにパンを盗みますます。これは生存権と財産権のぶつかりです。このような権利と権利のぶつかりについてはそのときの事情によって判断されます。
 再度言います。正しく学んで正しく理解することが大切だと言うことを。
 本日は私が一方的に話しました。終わりはみんなで桑原律さんの「共に生きる道」を声に出して読みましょう。少し黙読してください。
 では、一緒に読みましょう。


      共に生きる道
                      桑原 律 

   わたしたちが
   この世に生をうけたとき
   だれにも選ぶことのできないこと

   世界の どこの国で
   どのような人種・民族の一人として生まれるか
   どの地方の どの地域で生まれるか
   どの家で
   だれを親として生まれるか
   どんなからだで生まれるのか
   これらは
   だれも選ぶことのできない条件

   人種や民族が違うからといって
   なぜ 偏見を持つのでしょうか
   ある地域の出身だということだけで
   なぜ
   特別な目で見て
   さげすむのでしょうか

   女性か男性かという
   性の違いによって
   なぜ
   人間としてのねうちに
   差をつけようとするのでしょうか

   からだに障害があるからといって
   なぜ
   「やっかい者」扱いし否定的に見るのでしょうか

   一人ひとりは
   それぞれが 命ある存在です
   一人ひとりは
   それぞれが 心ある存在です
   一人ひとりは
   それぞれ 個性的な違いがあって同じ人間なのです
 
   人と人とを分け隔て
   心の中にある壁を設けるのは
   やめましょう

   違いがあることを
   その人を否定する理由とせず
   違いがあることを
   おたがいに認めあうこと
   そうして おたがいを信じあい
   共に生きる道を踏み出しましょう

        (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)

  
 時間の都合で添付しています資料にはほとんど触れませんでした。しかし、世界人権宣言や人権啓発推進法は、人権学習・人権啓発を推進する上で基本となるものです。お帰りになりましたら是非目を通してください。また、新聞社への私の投稿文は時間がおありのとき目を通していただければ幸いです。
 そして、本日私がお話ししました中で心にとまったことを一つでも二つでも結構です。家族や職場など身の回りにおいでの方に話をしていただき、人吉市人権教育推進連絡協議会が中核となり人権啓発に取り組まれ、人権尊重の精神がみなぎる人吉市となりますことを祈念申し上げ話を終わります。
 長時間のご静聴、ありがとうございました。


                  感   想

○ 日頃のちょっとした考え方からも差別につながりかねないことを感じました。

○ ものの見方、考え方の個人差を具体的に実証する手段として参考になりました。
  (ワークシートの作業を通して)

○ 具体的な事象を取り上げ、また自身の経験を十分に取り込み、分かりやすい内容だった。

○ 大変人情味のある温かいご講演で感謝申し上げます。もう少し時間があれば、専門的なお話をお聞きできたのではないかと、やや残念に思ったところです。 

○ 思いこみ、刷り込み、偏見があることに気づかない。自分に根拠のない思いこみがないか、確認すべきことを気づかせていただきました。ありがとうございました。

○ 時間が短くて残念でした。もう一度ゆっくりお話をうかがうことができればと思います。

○ 人権について、再度自分自身を見直していきたいと思いました。ありがとうございました。

○ 中川氏の人柄、習慣や先入観の形成されやすさ、生き物の命の大切さ偏見を一つ一つ学びによって思惟することによって取り除くこと等を研修することができた。

○ 自分の心の中にもいろいろな思いこみがあることに気づかせていただきありがとうございました。子どもたちと共に生きていく上で、自己存在感や自己有用感などをたくさん 実感できるように、経営ができたらと思いました。これから、もっと学んでいかなければならないと反省しました。

○ 無意識のうちに思いこんでいるものがあることに気づき、はっとしました。「事実を知る生き方をしていくことが大切」という言葉が胸に響きました。
  私自身の意識を変え、正しい知識を知り、伝えていきたいと思います。

○ 「学ぶことによって正しく理解する」「常識の中に潜むおかしさに気づく」ということを分かりやすく話していただきました。まずは自分自身、価値観を固定化させないよう多様な 視点を持ちたいと思います。様々な人権課題について、我々教師が正しく理解し、しっかりと子どもたちに伝えたいと思います。 

○ 先生の経験された内容に感心しました。ありがとうございました。

○ 講師の話したいと思う内容が多すぎたようだ。話そのものは大変良かった。

○ 難しく考えず、日常生活の中で意識の持ち方をみんなが少しずつ考え、実践していくことが大事なことだとあらためて考える機会となりました。
  ありがとうございました。

○ お忙しい中、貴重な講演をいただき、大変ありがとうございました。

○ 「常識だと思っていることがそうでないことがある」などを、PTA活動の中で話していきたい。

○ 老人会での話のの中に、思いこみでの話の多さにびっくりしている。思いこみを解決するのは容易ではないが、早速取り組むべき課題である。

○ 学ぶことによって人権感覚を育て、差別や偏見をなくす社会を作る努力をしたい。

○ 職場の研修で今日お聞きした内容を伝えていきたい思います。また、クラスの子どもたちにも話をしたいと思います。

○ 心を揺り動かすような体験を大切に進めたいと思います。

○ 自分自身人権問題に取り組む上で必要な人権感覚を整理することができた話の内容でした。

○ 日常生活において、思いこみや偏見をなくすこと、子どもたちと接する機会の中で、自尊感情を育てること等を活かしていきたい。
 「自尊感情」を育てることが人権教育の原点である。