一人ひとりが大切にされ、いきいきと生活(仕事)できる社会(職場環境)実現のために
〜人権とハラスメントを考える〜

平成25年12月18日
熊本県立ひのくに高等支援学校職員研修


 皆さん こんにちは。ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 教頭先生から「セクシャルハラスメントやパワーハラスメントについて人権尊重の視点から講話していただけませんか」とのご依頼がありました。12月は、後でも触れますが12月10日を最終日とした人権週間が設定され、学校や公民館、団体等では人権に関するシンポジウムや諸々の学習会が催される月です。この時期に先生方と一緒に人権について考える機会を与えていただきましたことに感謝しています。
 本題に入ります前に少し自己紹介をいたします。ただいまご紹介いただきましたように私は「有紀」と書いて「ありとし」と言いますが、「ありとし」とは読んでいただけません。ほとんどの方が「ゆき」さんと読まれます。「名前を見て女性と思っていました。」とおっしゃる方もいます。女性と間違われる名前ですが私はこの名前が大好きです。父がつけてくれました。父は「有紀。有紀とはな、“歳を重ねるにつれて歳相応の人間になれ”との思いを込めて名付けた名前ぞ。歳相応の人間にならにゃんぞ!」とよく言っていました。「有」という字の上に「保」という字をつければ「保有する」という熟語ができますね。「有」には「保つ」という意味があります。「紀」は「21世紀」などというように「年」の意味があります。このように漢字の持つ意味から付けてくれた名前です。父の思いに少しでも応えようと努力はしています。しかし、「あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と」という川柳にある70歳の今でも歳相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。
 私は幼少の頃、「ありちゃん」と愛称で呼ばれていました。今でも小学校・中学校時代の友からは「ありちゃん」と呼ばれています。「ありちゃん」は大好きな愛称です。
 少し自己宣伝をします。私は退職しまして益城町教育委員会で社会教育指導員という仕事を6年間しました。この間、公民館講座でホームページの作り方を学びました。まさに60の手習いです。講師の方から懇切丁寧に指導を受けながら四苦八苦してホームページを作りあげました。できあがったら誰かに見てもらいたいと思います。そこで、“ありちゃんのホームページ”と名付けてインターネット上に公開しました。しかし、あまり見てもらえませんので自分で見ています。今朝見てきましたことろ、ヤフーでもグーグルでもトップに出ています。私は旅行が好きなものですから、外国、特に中国新疆ウイグル自治区のシルクロードを旅した時の写真を中心とした旅行記や本日のような講演会の記録を公開しています。時間にゆとりがおありの時覗いてみてください。
 本題にかえります。先ほどお話ししましたように「ありちゃん」は大好きな愛称ですが、時々年上の中学生などから、「おっ、向こうからアリの来よる。アリは踏みつぶそう。」と言って足で踏みつける仕草をしてからかわれたり、いじめられたりしたことがありました。私はそのたびに「俺はアリじゃなか。ありとし。」と言って体当たりして抗議していました。親がいろんな思いを込めて名付けてくれた名前をからかいやいじめの対象にすることはその人の人格を冒涜することと同じことだと思います。こういうことから自分の名前や他の人の名前を大切にすることは人権学習の始まりだと私は思っています。
 先生方は私の父のようにお子さんの名前に込めた思いを、お子さんに語っていらっしゃることと思います。この語りを人生の節目節目、例えば誕生日だったり入学や卒業の時に語ってください。小さいお子さんやお孫さんだったら膝の上に抱っこして背に手を回して目を見つめて、大きなお子さんだったら手を取り目を見つめて、お子さん誕生の時の感動を思い起こしながら名前に込めた思いを語って下さい。お子さんやお孫さんはきっと私のように自分の名前が大好きになると思います。名前を好きになることは自分を好きになることです。自分を好きになると自分を大事にする心が生まれます。この心を自尊感情と言いますね。人権尊重社会ではこの自尊感情こそが最も大事なものと思っています。
 本日は、ハラスメントについて考えるわけですが、共生の視点、安心・安全といのちの大切さの視点、人権尊重の視点から人権問題として考えたいと思います。熊本県職員行動規範の「ハラスメントの禁止」の欄に、「職員一人一人の能力を最大限に発揮するため、ともに働く仲間を尊重し、働きやすい環境をつくります。」とあります。まさに人権尊重の視点からハラスメントの防止を呼びかけいます。
 ハラスメントという言葉を辞書で調べてみますと、「嫌がらせ、いじめ、苦しめること、悩ませること」などとあります。
 ハラスメントの中でも、セクシャル・ハラスメントとは「相手の意に反したり、相手がいやだと思っている性的言動を相手に行い、その結果その人に被害を与えること」です。相手がいやだと思うことがいけないのであれば、褒めることはよかろうとの考えがありますが褒めることならどんなことでもよいのでしょうか。過日、ある研修会でコメンテーター的役割の方が女子学生さんの発表の後で、「若々しくて堂々とした発表に感動すら憶えました。」という意味のコメントを付け加えました。このとき会場から笑い声が聞こえました。女子学生の発表内容を褒めるのではなく、発表態度を褒めるのはいかがなものでしょうか。コメントすべきは発表態度ではなく発表内容であるべきだと思います。ある講演記録では、論文の指導を求めている学生に対して教授からあなたは美人ですねと論文とは全く関係ないことを言われ、教授は褒めたつもりでも学生は不愉快に感じたという話を読んだことがあります。このようなことは、セクシャルハラスメントと受け止められるかも知れません。
 パワー・ハラスメントとは「職場での上下関係や慣習などを利用し、業務や指導など適正なレベルを超えて継続的に行われる強制や嫌がらせ、その結果その人に被害を与えること」です。
 「セクシャル・ハラスメント」という言葉はいつごろ生まれたのでしょうか。
 アメリカでは、1960〜70年代に公民権運動の中でフェミニズム運動として女性の抑圧からの解放を目指して出てきた言葉だといわれています。日本では、平成元年(1989)、福岡県の会社員が上司を相手取りセクシャル・ハラスメントを理由とした民事裁判を起こしたことからこの言葉が使われ始めたそうです。この裁判で、言葉による性的なおとしめが、言った人は言われた人に慰謝料を支払わなければならないということ、会社も責任があることを認めたのです。つまり、会社でセクシャルハラスメントが起きないように「会社は、社員が生命及び健康を害しないような職場環境に配慮する義務を負う」こと、「会社は、社員が働きやすい環境を保つよう配慮する義務を負う」ことが社会的に認められたことです。セクシャル・ハラスメントが法的問題となったことで起きた変化は、「セクシャル・ハラスメントが人権を侵害する行為だと認識された」こと、「安心して働く環境・安心して学習する環境を作り上げることが求められるようになった」ことです。使用者に対して2つの義務「セクシャル・ハラスメント防止義務」と「行為が起きたとき、適切に対応する義務」が示され、このことが男女雇用機会均等法等に法的に整備されました。
 職場でのセクシュアルハラスメントとはどのようなものでしょうか。
 資料として添付しています「男女雇用機会均等法のあらまし」をご覧ください。
 性的な言動により労働者が労働条件について不利益を受ける「対価型」と、就業環境が害される「環境型」があると記されています。そして、「対価型セクシュアルハラスメント」とは、職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ、それに対して拒否・抵抗などをしたとで、労働者が解雇、降格、減給などの不利益を受けること」と述べています。「環境型セクシュアルハラスメント」とは、「職場において行われる労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど労働者が就業する上で見過ごすことができない程度の支障が生じること」と述べています。具体的な言動については、これまでの研修会等で学んでおられることと思いますので割愛しますが、このことは職場ばかりでなく学校での教師と生徒の関係においても考えねばならないことと思います。
 人のいやがることをすることは人権侵害の可能性があります。人間の尊厳に直結している部分を攻撃するセクシャル・ハラスメントは、まさに人権侵害そのものだからです。だからこそ熊本県職員行動規範に「ともに働く仲間を尊重する」という文言が記されているのだと思います。
 私がある小学校の校長をしているとき、朝の登校班でいじめ問題が起きました。今頃の季節、冬場は明けの明星が東の空に輝いている頃、つまり朝の6時40分頃、家を出なければ学校の始業時刻に間に合わない地区でいじめが起きたのです。学校まで5kmほどあります。しかも坂道です。そこを1年生から6年生までが一緒に歩いて登校するのです。身長差がありますので歩幅も違います。高学年から見ると、1年生はのろのろ歩いているように見えることもあったのでしょう。つい、「急げ!」と言いながらランドセルを押したり、ランドセルの肩紐を引っ張ったりしているうちに、それがだんだんエスカレートして、いじめへと発展していったのです。おじいさんは大変心を痛められ、何度も学校にお出でました。そのたびに学校で指導していることを丁寧に話しました。しかし、解決を見ないうちにいじめられている1年生の子は、お母さんと校区内の他の地域へ転居しました。おじいさんの落胆はとても大きいものでした。2学期になり、おじいさんは月に2〜3回校長室に来て、「校長、わしぁ畑仕事で疲れて帰っても孫の顔を見ると疲れがいっぺんに吹っ飛びよった。たまには相撲も取りよった。孫がおらんようになってほんなこてさびしか。わしの気持ちが分かるな?」と話されます。私はそのたびに話を聞いた後で、1年生が勉強している教室に案内しました。おじいさんは孫がみんなと一緒に楽しそうに勉強している姿や掲示板に貼ってある孫の作品を見て、安心して帰っておられました。地区でもこのいじめが問題となっていました。区長さんとも解決方法を相談しました。そして、2学期の終業式の夜、地区公民館で、区長、公民館関係者、民生児童委員、保護者、教職員で話し合いを持ちました。話し合いの終わりに、高学年の保護者がおじいさんに謝ろうとしました。そのときです。おじいさんは、「なんばしよっと!謝らんちゃよか!こんいじめ問題は誰が悪かつでもなか。わしの孫に『いじめないで』といじめをはね返す力がなかったこと。高学年の子に『弱い者をいじめることは愚かなことだ』ということに気づく力がなかったこと。周りの子に『いじめは止めようよ』といじめを止めさせる力がなかったこと。この3つの力がなかったけん、いじめが起きた。こるから先、わしやわしの孫のように辛くてきつい、哀しい思いをする者がこの地区から出らんごつ皆で子どもたちを見守り、育てていこうじゃなかな。」とおっしゃいました。
 私は、このことを全職員に話し、この3つの力は人権教育を通して子どもたちに付けさせる力だと説きました。この3つの力はいじめ問題ばかりでなく、人権問題解決の本質だと思っています。
 セクシャルハラスメントもパワーハラスメントも、当事者同士ばかりではなくみんなでそのようなことが起きないようにすることです。そのためには、おじいさんがおっしゃった3つの力、「止めてと言う力」「相手を性的におとしめるのは愚かなことだと気づく力」、「そんな恥ずかしいことは止めようじゃなかやと止めさせる力」を身につけたいものです。
 それより以前に、職場でセクシャルハラスメントを引き起こさないために、セクシャルハラスメントを引き起こす要因にはどんなものがあるかを考えてみたいと思います。
 資料に附けています「黒いランドセル」を読んでください。


                       黒いランドセル

 ある学校に、一人の女子児童が入学してきました。入学後、この児童は教室の中でいじめを受けるようになりました。理由は、黒いランドセルを背負って通学していたからでした。もちろん担任の先生は教室で対応をしましたが、いじめはおさまりません。とうとうその児童は転校することになったのでした。
 この女子児童が黒いランドセルで通学していたことには理由がありました。女子児童には3歳年上のお兄さんがいました。しかし、小学校入学時にはすでに小児がんに冒されていたのです。このお兄さんは、1回しか自分の黒いランドセルを背負って登校することができませんでした。
 女子児童の入学に際し、家族は新しいランドセルを買うことをすすめましたが、女子児童は「大好きだったお兄ちゃんと毎日一緒に学校に行きたいから」と、言うことを聞きませんでした。その強い希望に周囲も折れ見守ることにしたのですが、この女子児童の願いは無残にもつぶされたのでした。                (毎日新聞夕刊平成 14年6月28日 要約)
 わたしたちの思い込みは、時として子どもにすりこまれ、このような悲しいできごを引き起こすことがあります。なお、その後、女子児童は、転校先の学校で黒いランドセルを背負って通学することができたということです。     
                         (大分市教育委員会保護者用資料 学習資料35じんけん)

 私たちの思考の中に、小学校の子どもたちのように表に現れている現象面だけから「○○=○○」
と考えることはないでしょうか。黒いランドセルを背負って登校する女の子に、黒いランドセルを背負って登校するわけを尋ねることなく、「黒いランドセルは男の子のランドセル。女の子のランドセルは赤いランドセル。女の子が黒いランドセルを背負っているのはおかしい」の考えで周りの子が女の子をいじめます。よく聞いて見ると、女の子が黒いランドセルを背負って登校することには「大好きだったお兄ちゃんと一緒に勉強したい」という大きな意味があったのですよね。「なぜ?」と問いかけることなく世間が言うからとか昔から言われているからと「○○=○○」と決めつけてしまうことのおかしさを私たちに訴えています。
 次の「息子よ 息子」を読んでみましょう。


         息子よ 息子

 路上で交通事故がおきました
 大型トラックが、ある男性と彼の息子をひきました
 父は即死しました
 息子は病院に運ばれました
 彼の身元を、病院の外科医が確認しました
 外科医は「息子!これは私の息子だ!」と悲鳴をあげました
(大阪府教育センター OSAKA人権教育 ABC 人権学習プログラム)

 この話がストンと胸に落ちた方挙手いただけますか?(大部分が挙手)
 どうも胸に落ちないという方?(数名挙手)
 どうして胸に落ちないのですか? (「交通事故で死んだはずの父親が病院でこれは私の息子と叫んでいる。おかしい。」の声有り。)
 他の先生方もだいたい同じようなことからですか?(頷きがある。)
 隣同士で話し合ってみてください。(話し合いの中で「あぁ、そうか。」の声が聞こえる。)
 どなたか話をしていただけませんか?
 (「先ほどからの話にあるように、「外科医=男性」と思い込んでしまうとこの話は胸に落ちない。外科医が女性であるなら母親が『これは私の息子』と驚き叫ぶのは当たり前のこと。」との説明あり。) そうですよね。外科医はこの子のお母さんだったのです。外科医は男性ばかりではなく女性もいらっしゃいますよね。しかし、このような「外科医は男性」と決めつけるステレオタイプの考えや、食事の準備は女性がするものなどの性的役割分担論がまだまだ私たちの頭の中にありはしないでしょうか。これらがセクシャルハラスメントを引き起こす要因の一つであるような気がします。
 私は皆さんの前で、したり顔にセクシャルハラスメントやパワーハラスメント防止について話をしていますが、私の心の中にも性的役割分担論的考えがまだまだたくさんあります。私はこのような機会を通して自分自身のそのような考えを一つ一つ取り除く努力をしています。先生方の中にも、もしこのような考えがありましたらそれらを一つ一つ取り除いていって欲しいと思います。
 皆さんは聞かれたことはほとんどないかも知れませんが、以前日本には「三従の教え」という言葉がありました。それは、「生家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」というものです。この言葉は今では死語になっていますが、これは男性中心の社会の考えですね。このような考えセクシャルハラスメントの要因の一つでしょう。
 このような決めつけや固定観念がどのようにして私たちの心の中にできるのかをみてみたいと思います。
 先生方、レジュメのあいているところに魚の絵を描いてみてください。
 どなたか描いてもらえませんか?
 ○○先生に描いてもらいました。ここに描かれたように頭が左を向いている魚を描かれた方?(大多数が挙手)
 私の絵のように右向きの魚を描かれた方?(挙手なし)
 私は人権問題講演会では、よく魚の絵を描いてもらいます。どこの会場でも、だいたい同じ傾向です。それはほとんどの方が左向きの魚を描かれるということです。振り返ってみてください。私は「左向きの魚を描いてください。右向きはだめですよ。」とは言っていません。ですが、結果的にほとんどの方が左向きの魚を描かれました。このようなことがどうして起きるのでしょうか。(「料理では魚は左向きに出す」の声あり)
 そうですよね。食事の時に出される魚は左向きです。図書館にある魚の図鑑を見てください。図鑑に載っている魚の絵や写真の8〜9割は左向きです。このようにして私たちは子どもの頃から「魚は左向き」を空気を吸うがごとく無意識のうちに学習しているのです。これを刷り込みと言います。この刷り込みが思い込みとなり、思い込みにマイナスイメージが加わって偏見となります。時としてこの偏見が差別心を生むことがあります。
 これまで考えてきましたように、セクシャルハラスメントを考える上で、「それってまずいんじゃない。セクハラかもよ」ではなく自分の人権も相手の人権も大事にする、この基本的な考えをはっきりと持つことこそがハラスメント防止の最も大切なことではないかと思います。
 それで私たちは、正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、人権を守る行動へつなげることが大切だと思うのです。
 12月は、あらゆる職場、学校、公民館、団体などで人権を考える研修会等が催されます。本校でも人権週間などを設けて人権について学習されたことと思います。
 資料に「第65回人権週間テーマ」を記しています。「みんなで築こう 人権の世紀  〜考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心〜」です。
 読んでみます。


               第65回人権週間  12月4日(水)〜10日(火)

 人権週間 国際連合は、1948年(昭和23年)12月10日の第3回総会において、世界における自由、正義及び平和の基礎である基本的人権を確保するため、全ての人民と全ての国とが達成すべき共通の基準として、世界人権宣言を採択したのに続き、1950年(昭和25年)12月4日の第5回総会においては、世界人権宣言が採択された日である12月10日を「人権デー」と定め、全ての加盟国及び関係機関が、この日を祝賀する日として、人権活動を推進するための諸行事を行うよう、要請する決議を採択しました。
 我が国においては、法務省と全国人権擁護委員連合会が、同宣言が採択されたことを記念して、1949年(昭和24年)から毎年12月10日を最終日とする1週間(12月4日から10日まで)を、「人権週間」と定めており、その期間中、各関係機関及び団体の協力の下、世界人権宣言の趣旨及びその重要性を広く国民に訴えかけるとともに、人権尊重思想の普及高揚を図るため、全国各地においてシンポジウム、講演会、座談会、映画会等を開催するほか、テレビ・ラジオなど各種のマスメディアを利用した集中的な啓発活動を行っています。
 皆さんもお近くの催しに参加して、「思いやりの心」や「かけがえのない命」について、もう1度考えてみませんか?
 本年度の「第65回人権週間」では、啓発活動重点目標「みんなで築こう 人権の世紀 〜考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心〜」を始め、17の強調事項を掲げ、啓発活動を展開することとしています。

みんなで築こう 人権の世紀
〜考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心〜
【 趣 旨 】
 「人権の世紀」といわれる21世紀に入って既に10年以上が経過しました。
 この間、法務省の人権擁護機関は、人権尊重思想の普及高揚のため人権擁護活動に積極的に取り組んできたところです。しかし、いまだに、物質的な豊かさの追求に重きを置き、心の豊かさが大切にされない風潮、あるいは、他人への思いやりの心が希薄で、自己の権利のみを主張する傾向が見受けられ、このような状況が様々な人権侵害を発生させる大きな要因の一つとなっています。 特に、甚大な被害をもたらした東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故に関しては、放射能の影響を心配するあまりか、根拠のない風評に基づく偏見や差別など、被災者への思いやりを欠くと思われる事案がいまだに発生しています。
 そこで、本年度の啓発活動重点目標を標記のとおり定め、21世紀が「人権の世紀」であることを改めて思い起こし、一人一人が人権を尊重することの重要性を正しく認識し、これを前提として他人の人権にも十分配慮した行動をとることができるよう、相手の気持ちを考えることや思いやることの大切さを一人一人の心に訴えることにより、全ての人々が個人として尊重され、相互に共存し得る平和で豊かな社会の実現に向けた啓発活動を展開します。

 「考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心」と同じようなことを孔子が述べています。それを紹介して話を終わります。


 衛霊公第十五412
   子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
   子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

 口語訳は、
 子貢が、「たった一文字、その文字を大切に生きれば、人間として誤らずに生を全うできる、こういう字があったらお教えください。」
 そこで、孔子は、「それは恕という字だよ。常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさと思いやりのことを言うんだ」と。
 「恕」とは、相手の身になって、思い・語り・行動することだそうです。
 恕の精神、つまり優しさを常に持ち続けたいものです。そして、先生方が共に働く仲間を尊重し、働きやすい環境を作られると同時にここひのくに高等支援学校に通う生徒一人一人の人権を尊重した学校教育活動が展開されますことを祈念しまして話を終わります。
 長時間のご静聴ありがとうございました。