いじめ・不登校問題を考える
        平成25年9月4日
熊本全日空ホテルニュースカイ

 皆さんこんにちは。
 ただいま紹介いただきました中川でございます。よろしくお願いします。
 私は、演台の前で話をするのは苦手でございます。長年、教員として教室で子どもたちに教えていたからでしょうか、できるだけ聞く人のそばで話をする方が気合いが入ります。ちょうど前の机が一つ空いていますのでここで話をさせて下さい。時々皆さんの方に歩み寄って話をします。前にいらっしゃる方は唾が飛んでくるかも知れません。できるだけ飛ばないように気をつけますが、飛んできたときはご容赦ください。
 はじめに自己紹介なりお詫びなり申し上げます。私は、レジュメに書いてありますように「有紀」と書いて「ありとし」と読みます。「ありとし」と読んでくださる方はほとんどいらっしゃいません。「ゆき」または「ゆうき」と読まれ、よく女性と間違われます。先日、△△銀行◇◇支店へお金をおろしに行きました。所定の用紙に金額、住所・氏名を書き、氏名には読み仮名をふり、身分を証明する運転免許証を見せました。窓口のきれいな女性の方が、「『ありとし』さんとお読みするのですね。私は同じ字を書いて『ゆき』と言います。」と名札を見せながらおっしゃいました。名札には、「□□有紀」と書いてありました。初めて同じ名前の女性に会い、とてもうれしうございました。住所録などでは何度か「○○有紀」を目にしますが、お会いしたことは一度もありません。もしかしたらこの会場にも同じ字の方がいらっしゃるかも知れません。いらっしゃいますか?(反応なし)いらっしゃらないようですね。
 「有紀」の名は父がつけてくれた名前です。「有」には「たもつ」という意味があります。「紀」は「21世紀」というように「年」の意味があります。父は、「年を重ねるごとに年相応の人間になるようにという願いを込めてつけた」とよく言っていました。なかなか父の思いに近づくことはできません。生涯、学習することだと思っています。私はこの名前が大好きです。
 私は小さい頃、「ありちゃん」の愛称で呼ばれていました。私はこの愛称も好きでした。しかし、「あり」を「アリ」と読み、「おっ、向こうからアリの来よる。アリば踏みつぶそう。」と言ってアリを踏みつぶす仕草をしていじめられたことがありました。私はそのたびに、「俺はアリじゃなか。ありとし」と言って上級生に体当たりしていました。親が付けてくれた名前をからかいやいじめの道具に使うことは、その人を冒涜するものと思います。
 ところでシルバー川柳に“あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と” というのがあります。今年、その古稀を迎えました。川柳ではなく、現に老人性膝関節症で膝がこきこきいっています。70歳の今でも幼なじみからは「ありちゃん」と呼ばれています。
 今から10年前、公民館講座でホームページ作成方法を学びました。まさに60の手習いでした。学んだら人に見てもらいたいのです。そこで「ありちゃんのホームページ」をインターネット上にアップロードしました。「ありちゃんのホームページ」で検索するとヤフーでもグーグルでも、トップに出ています。今朝、開いてみましたらトップに出ていました。人様にあまり見てもらえないものですから自分で見ています。私は旅行が好きで、よく中国に行きました。現在は、尖閣問題で日中関係がぎくしゃくしていますからここ数年行っていません。早く正常化することを願っています。中国でも玄奘三蔵が仏典を求めてインドへ行ったシルクロードを歩くのが好きで、妻と二人で新疆ウイグル自治区のウルムチを拠点に、トルファンやカシュガル、クチャなどへ行っていました。新疆の光景は日本のそれとは違います。珍しい写真をいっぱい載せていますので仕事で頭が疲れたときなど、気分転換に覗いてみてください。ホームページ作成はできましたが、パワーポイントを使うことまでは学習ができていません。それで、○○先生のように視覚と聴覚にうったえてわかりやすく説明することはできません。申し訳ございませんが、レジュメを準備していますので、レジュメを見ながら話を聞いてください。それから資料をいくつかつけていますが、資料に触れる時間はありません。お帰りになってから目を通していただければ幸いです。
 先ほど、お話がありましたように若者が自ら命を絶つという痛ましい事件が起きています。熊本県でも3件ありました。いじめが原因ではなかろうかと保護者の方は真相究明を求めています。
 いじめが原因で、「将来大きな花を咲かせるであろう可能性をもった若者が自ら自分の命を絶つ」、こんなことは絶対あってはなりません。死に追い込むこともあるいじめは、人権問題の一つです。
 皆さんの中には、NHKの大河ドラマ「八重の桜」を視ていらっしゃる方もおいでと思います。ドラマの中で、会津藩の「ならぬものはならぬもの」が放映されました。これは会津藩の什の掟の最後に書かれている一文です。この掟の中には、「年長者の言うことに背いてはなりません」「年長者にはお辞儀をしなければなりません」「嘘言を言うことはなりません」「卑怯な振舞をしてはなりません」「弱い者をいじめてはなりません」などがあります。福島県で江戸時代から教え伝えられたものです。この頃から「弱い者をいじめてはなりません」と教えられていたのです。このほか、「戸外で物を食べてはなりません」「戸外で婦人と言葉を交へてはなりません」が教えられ、「ならぬものはならぬものです」と締めくくってあります。現在でも「戸外で婦人と言葉を交へてはなりません」以外は全てか守らねばならない教えですよね。
 弱い者をいじめることは人間として絶対に許されないことです。いじめは人権課題の一つです。このいじめが原因で学校に行けなくなった子もいます。あとで詳しく話しますが、不登校の子どもが学校に行けなくなったきっかけはいろいろですが、これからの日本を背負ってたつために必要な教育を受けることができないことは、ゆゆしきことです。このことは教育基本法にも明記されています。いじめ・不登校は人権問題であり教育権侵害の問題です。6月、「いじめ防止対策推進法」が成立しました。この通知文に「この法律は、いじめが、いじめを受けた児童等の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせるおそれがある」と明記されています。
 私がいじめ不登校アドバイザーとして関わってきましたこと、日頃思っていますことをもとに話をいたします。
 皆さん方が学校に通っていた頃のことを思い出してみてください。皆さんが学校に通ってていた頃と今の子どもたちの状況と共通点が大いにありますので、自分と今の子どもたちと重ね合わせながら考えてください。
 私は、「なぜ学校に行くのか」など考えもしませんでした。皆さん方も同じであったと思います。学校に行くのは当たり前でした。しかし、近頃は当たり前が当たり前ではなくなりつつあります。そこで、私たちが学校に通った理由を考えてみたいと思います。それは、学校に行くのが楽しかったからです。そして自分に何か目的があったからです。楽しいとは、友達と遊ぶのが楽しい、先生と話をするのが楽しい、わからないことがわかるようになることが楽しいなどいろいろあったと思います。目的とは、できるようになりたいとか、知識を広めたいとか、上級学校に行くための力をつけたいとかこれまたいろいろあったと思います。このような理由から学校に通っていたと思います。今の子も同じ考えで学校に行っていると思います。ところが、学校に行きたいとは思っていても、病気になったり、災害がおきたりしたときは登校できません。現在はこの登校できない要因の一つに、いじめがあります。また、学校は楽しくない、学校に行く目的も見いだせない人は、親が「学校に行け」というので義務感からあるいは我慢して登校するということもあったと思います。また、学校に行くのと家に居るのと自分にとってはどちらがよいかを天秤にかけて家に居てもおもしろくないから仕方なく学校に行くという場合もあったでしょう。価値判断の結果、学校より家に居ることや友達と遊んでいることが価値が高い場合は、学校に行きません。現在、生徒指導上の課題から不登校になっている子はここに当てはまると思います。
 それで、学校では、楽しい学校づくりに努め、友達や先生とのコミュニケーション力を身につける生徒指導やわかる授業を心がけておられます。また、学校に行く目的を見いだせない子は、自尊感情が低い子が多いように思えることから、「認め、褒め、励まし、伸ばす」教育を展開しながら自尊感情を育むことに力を入れておられます。
 自尊感情という言葉はこれまでの研修会等で何度かお聞きのことと思います。自己肯定感とも言います。別の言葉で表しますと、「俺の家族は俺を愛し、俺を信頼している。先生は俺を応援している。友達は俺のことを分かってくれ、俺を大事にしてくれている。やろうと思えばだいたいできる。俺ってたいしたもんだ。捨てたもんじゃなか。この俺を大事にするぞ!」という感覚のことです。
 午前の研修でマズローの欲求の5階層について、話があったと思います。この欲求の5階層でもわかりますように、人は誰もが承認されたい、自己実現を図りたいという欲求を持っています。その承認の欲求や自己実現の欲求が満たされることにより自尊感情が育っていきます。以前は、毎日の生活の中で、これらの欲求が満たされていました。皆さんは小さい頃、手伝いではなく家族の一員として自分の仕事を持っておられたでしょう。私は農家の長男です。もうすぐ実りの秋になります。稲刈り、脱穀、籾乾し、籾摺りと続きます。脱穀した籾をねこぼくに広げて乾していました。ねこぼくのことを私の家ではねこくと言っていました。ねこくを小屋に入れるのは私たち子どもの仕事です。夕立が来そうなときは、大変でした。親が畑から帰ってくるのでは間に合いません。私は祖父から「もちっともだんえんか!」と叱られながら祖父と一緒に小屋に取り入れていました。夕方、畑から帰ってきた父は、「籾は濡れんだったか?」と聞くだけでしたが、私は家族から頼りにされていることを実感し、自己有用感や自己存在感を味わっていました。このようなことは皆さん、どなたも小さいころ実感されたでしょう? その実感が自尊感情を育んできたのです。ところが今の子どもたちは家庭での仕事がほとんどありません。生活が便利になって家族が力を合わせて何かを仕上げるという機会が少なくなりました。家庭で子どもたちの役割を決めて仕事をさせて欲しいと家庭教育講演会では訴えています。
 いじめについて、具体的な例を挙げて説明したいと思います。資料に付けています「黒いランドセル」という記事が、今から10年ほど前の毎日新聞大阪地方版に載っていました。記事の全文は、帰ってからお読みください。
 1年生の女の子が黒いランドセルを背負って入学してきたのです。周りの子から「黒いランドセルは男の子のものだろう?おまえは女だから赤いランドセルだろう。」とせめられます。それでもはじめは我慢して黒いランドセルを背負って登校していましたが、「女の子が何で黒いランドセルなんだよ。」との声が次第にエスカレートしていじめとなり、女の子はとうとう登校できなくなりました。仕方なく別の学校へ転校しました。転校した学校でも、「女の子のランドセルは赤色。黒いランドセルを背おってくるのはおかしい」といじめが続きましたが、担任の先生はこの子が黒いランドセルを背負って登校してくるのには何かわけがあるのだろうと、家族に聞きました。女の子のお母さんは、1冊のアルバムをひもときながら先生に話をしたのです。この子には3歳年上の兄がいました。兄は小学校に入学するときは既に小児癌におかされていました。黒いランドセルを背負って登校したのは1日だけでした。この子の入学に当たって、ランドセルを買ってあげようかと言いましたが、この子は「私はお兄ちゃんが背負っていたランドセルを背負って学校に行く。お兄ちゃんと一緒に学校で勉強する。新しいランドセルは要らない。」と言ってお兄ちゃんの黒いランドセルを背負って登校しているのです。とお母さんが話をしました。先生は、この話を先生方に話し、学校を挙げて女の子が黒いランドセルを背負って登校するわけを子どもたちに話しました。それで、周りの子たちも理由がわかり、それ以後、いじめはなくなったそうです。
 この話でおわかりのように、いじめは自分たちとの違いで起きる場合が多くあります。この違いは何でもいいのです。背が高い、背が低い、太っている、やせているなどなど。違いを受け入れるのではなく違いを排除しようとする人の心の中にいじめを生む要因があるのです。また、自分自身の欲求不満、フラストレーションを発散するために人をいじめる場合もあります。先ほどのマズローの欲求の5階層にもありますように人は生きる上では必ず欲求が生じます。しかし、その欲求全てが満たされるとは限りません。満たされない時、不満がたまります。私が高校生の頃、古文で兼好法師が綴った徒然草を勉強しました。皆さんも勉強されたと思います。難しくて何が書いてあるのかよく分からなかったのですが、その中の一説に「もの言はぬは腹ふくるるわざなり」というのがありました。「思ったことを言えないときは、穴を掘ってその穴に向かって大声で喚きなさい」という意味だったと思います。人はそうして欲求不満を解消していたものです。一杯飲んで愚痴を言い合って憂さ晴らしをすることもあります。子どもたちは部活動で不満を解消したりしています。それができない子は、鬱憤晴らしに友をいじめるということがあります。また、いじめは一定の人間関係のある中で起きます。同じクラスとか、同じ部活とか。ある学校のミニバスケット部でいじめが起きました。副キャプテンがキャプテンを除く全部員に「明日の試合では頭に赤いリボンをつけて出よう。」と言っていたのです。試合当日、キャプテンを除く全部員がリボンをつけていました。それを見たキャプテンは、自分だけ仲間外しにあったショックで試合には出ることができませんでした。いつも一緒にいる人から仲間外しになることはとてもショックです。このような仲間外し、無視、陰口、悪口は、誰にでも簡単に実行できるものです。一つ一つの行為は「ささいなこと」で、「問題性は低い」かもしれません。「暴力」や「脅し」、「恐喝」は、問題性が高いので、それを行う子も問題性の高い子に限られます。この行為はいじめではなく犯罪です。ところが、ささいなことは問題性が低いために、誰もが被害者になり、加害者として加わることも容易です。このような一見ささいな行為でも繰り返えされたり、集団で集中的に行われたりした場合、被害者に大きな精神的苦痛、不安感や屈辱感、孤立感、恐怖感がもたらされることがあります。この精神的苦痛がいじめられている子を追い込み、死んだ方が楽と死を選ぶということがあるのです。ミニバスケット部のいじめについては、顧問の先生、学級担任の先生のご指導でその後は部位全員が一致結束して部活動に励んだと聞いています。
 孫がいじめに遭い、きつい思いをされたおじいさんの話をします。
 私が勤めていた小学校の登校班の中でいじめが起きました。1年生から6年生までの登校班で登校していました。その地区は、学校まで5kmくらいの山間地です。朝の6時40分頃家を出ていました。冬場はまだ暗く、空に明けの明星が光り輝いています。子どもの足で1時間以上要する道を1年から6年生までが一緒に歩いて登校するのです。体の大きさが違います。歩幅も違います。歩くスピードも違います。1年生のスピードに合わせると遅刻します。それで、初めは高学年の子が1年生に対して「急げ!」などの声かけだったようですが、背中を押したり、ランドセルのひもをつかんで引っ張ったりしている内に、段々エスカレートして足を蹴ったりしたようです。1年生の子はとても苦に思っていました。このことをおじいさんから学校に訴えがあり、担任はじめ地区担当が事実を聞き取り指導していたのですが、解決には少し時間がかかりました。おじいさんは週に1度くらい学校に来ては、私にいろいろ話をされました。私は話を聞いたあと、「お孫さんは、学校では元気に過ごしていますよ。」と言い、教室へ案内し、勉強ぶりや掲示してある作品を見てもらっていました。孫の元気な姿や掲示物を見て安心して帰っておられました。
 2学期の終業式の夜、地区の公民館で、いじめられた子の祖父母、保護者、地区の保護者、区長、公民館の役員の方々が集まり、このいじめ問題について話し合いの場をもちました。2時間ばかり過ぎたとき、高学年の子の父親がおじいさんの前に出て、手をついて謝ろうとしました。そのときです。おじいさんは「あんたは何ばしよっと!謝らんちゃよか!こんいじめは誰が悪かつでんなか。わしの孫に『いじめんで』といじめを跳ね返す力が身についていなかったこと。いじめた子に『弱い者をいじめるのは愚かなことだ』ということに気づく力が身についていなかったこと。周りの子に『弱い者をいじめることは恥ずかしいことだ』といじめをやめさせる力が身についていなかったこと。この3つの力がなかったけんいじめが起きた。わしや孫のようにきつか思いをする者がこの地区から出らんごつ、皆で子ども達に3つの力をつけさせようじゃなかな。」と言われました。この3つの力は、いじめ根絶の力でもあり、差別解消の力でもあります。
 次に、不登校について考えてみたいと思います。
 先ほど、「黒いランドセル」の話をしましたように、いじめにより学校に行けなくなった子がいます。
 不登校とは、先ほども○○先生から話がありましたが、年間30日以上欠席した児童生徒のうち、病気や経済的な理由を除き、「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者」と文科省では規定しています。不登校の子どもに見られる特徴は、「学校生活上の影響」の型、「あそび・非行」型、「無気力」型、「不安など情緒的混乱」の型、「意図的な拒否」の型、そしてこれらが混じり合った「複合」型があります。
 不登校の要因の中で最も多いのが、学校生活上の影響です。先ほども話しましたいじめ、友達のとトラブル、先生とのトラブル、部活動でのトラブル、学習上の課題、小学校と中学校の生活環境の違いへの不適応などです。学校では、対人関係のトラブルではコミュニケーション力を身につけさせることが重要との認識で指導に力点を置いておられます。また、わかる授業、子どもに魅力ある授業の展開に努めておられます。
 「あそび・非行型」では、最近はスマートフォンの「ライン」とかいう媒体で、これまで全く知らなかった者同士が簡単につながってしまいます。非行は広域化しています。この子たちを何とかして学校に目を向けさせることが課題です。学校で生活している時間帯に校外で遊んでいる子がいたら声をかけてください。
 「無気力型」は、自尊感情が低い子がやる気を失って無気力状態になっている場合が多く見られます。
 「不安などの情緒混乱型」の子の中には、前の晩は「明日は学校に行く」と言って鞄に明日の学習の準備をして、朝起きて玄関までは出てもそこで足がすくんで動けないという子、朝、腹痛や頭痛を感じ起きることができない子などがいます。
 「意図的な拒否型」は、保護者の思いで子を登校させないことがあるようです。家庭で、最高の教材を使い、最高の指導力で指導しても学校で集団で学習する方が子どもにとってはより学習効果は上がると思います。学校での学習は知識習得だけではありません。友と衝突したとき、それを収める能力を身につけたり、切磋琢磨して成長したり、協力し合ったり、我慢したりなど社会人としての生き方を身につけます。
 このほかに、学校には行っているのですが、保健室や別室で過ごしている子もいます。また、学校には行けないけど、地域の公民館や図書館などで学習している子もいます。保健室登校の子にとっては養護教諭の先生は良き理解者でありよき支援者です。それで保健室がその子の居場所となっているのです。公民館や図書館などで学習する子は、校長先生が認められれば登校していると見なされています。
 主任児童委員の皆様、地域での適応教室として公民館や図書館で学習している子の支援者になっていただければと思います。子どもの指導ではなく、話し相手となって理解者・支援者になっていただきたいのです。
 不登校は、多くの場合何らかの前兆があります。発見が遅れれば遅れるほど指導の効果を挙げるのに労力を要します。小さなサインを見逃さず早期の発見・早期支援が大切です。私が小さい頃は遅刻しそうになったら必死で走って学校に行っていました。皆さんもそうでしょう。しかし、今は走って行く子はあまり見かけません。朝、皆さんが散歩しているときなど、子どもが一人遅れて下を向いて登校している姿を見かけたことはありませんか。声をかけてください。「具合が悪いの?」「どぎゃんしたつかい?」「きつかごたるね。かせすることはなかかい?」などどんな声かけでもいいです。
皆さんは大相撲をごらんになりますか?もう現役を引退しましたが高見盛というお相撲さんをご存じでしょう。勝って花道を下がる姿、上を向いて手を振って意気揚々と下がっていたでしょう。ところが負けた時は、下を向いて肩を落として下がっていました。意気揚々としている時は自尊感情が高い時です。下を向いて元気がないような時は自尊感情が低い時です。このときに声をかけて欲しいのです。
 終わりに主任児童委員の皆様にお願いしたいことをお話しします。先ほど指導主事の○○先生から「情報の連携から行動の連携」へという言葉がありました。この観点からのお願いです。
 先ほどから自尊感情といじめ・不登校は関係が深いことを申してきました。自尊感情を育む第1の場は家庭です。幼少の頃、家庭で愛情いっぱいに育てられた子は、包み込まれ感覚をいつも実感し自尊感情が育まれています。ところが、いろんな事情で家庭で愛情いっぱいに育てられなかった子がいます。そんな子を学校で、地域で愛情いっぱいに育てて欲しいのです。
 今から20年ほど前、旧豊野町の子ども会育成会長さんから聞いた話を紹介します。
 学校で勉強はしない、悪さはする、ずる休みはするという一人の中学生、仮にA君とします。A君は、地域でもあの子は「よくない子」とレッテルを貼られていたそうです。そのA君を会長さんはいつも子ども会に連れて来ていたそうです。それを育成会員は「会長、あの子はみんなから悪ごろと言われています。子ども会には誘わない方がよくはないですか。」と言ったそうです。「家庭でも学校でも地域でもよくない子というレッテルを貼られている子だからこそ、子ども会で一緒に活動をさせ、地域の子の一人として中学校を卒業させたい。」と会長さんは育成会員に話をし、子ども会がある度に誘って一緒に活動させていたそうです。そのA君が中学校を卒業して仕事に就いた6月頃、「悪ごろといわれていた私が中学校を卒業し、就職できたのもおじさんが子ども会に誘ってくれたから。もうすぐ夏休み。自分が子ども会で一番思い出に残っているのは海水浴でのスイカ割り。今年も海水浴でスイカ割りがあるだろう。その費用の一部に使って欲しい」との手紙を添えて初めてもらった給料の中から数千円を同封して送ってきたそうです。この手紙を海水浴に行くバスの中で読み上げたら、育成会員みんなが自分の行為を恥じましたと話してくださいました。
 A君は子ども会育成会長さんの誘いを通して地域からの包み込まれ感覚を実感したのですね。そして、人としての「生きる力」を身に付けたのです。子ども会育成会長さんは、地域の宝である子どもたちは地域で育てると言うことを実践されました。
 主任児童委員の皆様、地域の子を地域で支える機運を醸成してください。私は小さい頃、地域のおっちゃん、おばちゃんからおごられました。褒められもしました。何か悪いことをしていると、「そぎゃんこつするとじいさんの泣かすぞ!」、「ぬしぁ、有(父の名前)ちゃんの子だろう。父ちゃんも喜ばすバイ。」などと言って。皆さんもこのような経験をお持ちのことと思います。私はこれが地域の教育力の一つだと思います。
 20年くらい前までは、子どもたちが校外で悪さ、例えばたばこなどを吸ってたむろしていると、「あすこの墓ぶらで中学生がたばこば吸いよる。学校は何ば指導しよるか!」の電話がかかっていました。それが次第に「緑川で子どもだけで船遊びをしよったけん注意しときました。学校でも指導してください。」という声に変わってきました。これは、地域の子は地域で育てるという機運が出てきたからだと思います。注意ばかりではありません。私がある小学校の校長の時、1年生の子が石蹴りをして遊んでいて蹴った石が店のドアーのガラスを割ってしまい、走って逃げたそうです。それを6年生の子が追っかけて、「俺も一緒に謝るけん謝りに行こう。」と連れ帰って、店の人に「一緒に石蹴りして遊んでガラスを割ってしまいました。ごめんなさい。」と謝ったことがあったそうです。店の方が学校に来てこの話をしてくださいました。これらが学校と地域の行動の連携だと思います。皆さん方にこのような取り組みの先頭に立っていただきたいと思います。
 主任児童委員の皆さんの質問事項の一つに「学校は敷居が高い」というのがありました。学校は敷居が高いですよね。かって学校に勤めていた私も敷居が高いと感じます。高いと言うより高いと感じるのですよね。学校では、地域の皆様がそう感じれられないように敷居を下げる努力をされていますが高いと感じます。しかし、一度学校に行ってみるとそうではないでしょう? いかがですか?
 そこで皆様にお願いです。上益城郡の中学校では、毎月15日を「学校に行こうデー」と定めて地域の人に学校を開放しています。朝から、どなたでも自由に学校に行って子どもたちの学習の様子を見ることができます。授業参観の後で、校長先生方との懇談会、情報交換会があります。そういう時に皆さんが地域の人を一人でも二人でも、「学校に行ってみようよ」と誘っていただきたいのです。そして、地域の宝を地域で育てる機運をもっともっと盛り上げて欲しいと思います。
 一方的に私の思いをお話ししました。主任児童委員の皆様は、毎日がとてもお忙しいこととは存じますが、新たないじめ不登校が生じないよう側面から子どもたちを支援していただきたいと思います。また現在不登校状態になっています子どもたちを側面から支援していただきますようお願いしまして話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。

 



 感   想

 中川先生の体験にもとづいたお話が勉強になり印象深く感じた。実践、体験談を多くして頂き、分かりやすくとても参考になりました。素晴らしい研修会をありがとうございました。

 分科会の中川先生の話は身近な生きた事例を通して私達の日頃の活動に言及され、今までで一番役立ち、感銘しました。お疲れ様でした。

 中川先生のお話が良く理解出来ました。ありがとうございます。

 第一分科会の中川(ありちゃん)先生の講義はとても良かったです。

 講演は一つ一つ丁寧に実践に基づいた話で分かり易かった。学校で取り組まれている事が分かって良かった。親の教育能力も低くなっており、学校も大変だと思いました。

 内容がわかりやすく為になりました。

 中川氏の話は何回聞いても心にしみます。本当にありがとうございます。

 中川先生のお話は大変為になりました。やはり、実際の話(体験談)が面白いです。次は教頭時代の苦労話もして下さい。

 分科会がとても良かったです。勉強になりました。他の分科会の話も聞きたかったのですが...。

 涙が出る程、素晴らしい話をありがとうございました。深い感銘を受けました。

 不登校問題は、ない学校の方が少ないという事、その背景にある問題を解決しなければ今後も増え続ける事を思うと、子ども達を取り巻く環境をいかに整えて、個人はもとより色んな立場から支えてやる事、また、支援する人を支援するという事を聞き、普段の私達の活動において1人で抱え込まないという言葉が思い浮かびました。子どものパワーレスを取り戻せる様な支援と、且つ、それがうまく行きます様祈るばかりです。

 いつもお世話ありがとうございます。午後の分科会は良かったです。具体的にお話下さり、気持ち良く研修が出来たと思います。主任児童委員としての役割も分かった気がしました。

 今迄と違った講演ばかりの1日研修でしたが、とても勉強になる事が多く、委員としてやらねばならない事を学びました。こんな研修はとても役立ちます。お疲れ様でした。感謝。

 主任児童委員が学校と連携して地域の子どもを育てる事、見守る事を日々の活動としているつもりですが、学校が私達を必要としているのでしょうか?何か必要とされていればいつもお役に立ちたいという思いはあります。こちらからは何かありませんか?と申し上げるべきでしょうね。