命を大切にする心を育む家庭教育
平成25年9月19日
御船町立小坂小学校


 皆さん今日は。ご紹介いただきました中川でございます。
 前の席が空いていますが、私が皆様の近くに寄って話をすることを知っておられて、前の席にいたら唾が飛んでくるかも知れないというわけで前の席は敬遠していらっしゃるのでしょうね。(笑い)
 5時間目の授業参観いかがでしたか。お子さんたち輝いていましたか?
 おそらく元気いっぱい、命を輝かせながら授業に望んでいたことだろうと思います。
 本日の講演テーマ「命を大切にする心を育む家庭教育」は、教頭先生から付けていただきました。
この「いのちを大切にする心を育む家庭教育」の「いのち」には、「かけがえのない生命」と「人間としての生き方」という意味があります。
 「いのちを輝かせ、生まれてきて良かったという喜びを感じながら精一杯努力する子どもを育てましょう。それは、人との関わり、自然や社会との関わりの中で育まれます。」という視点からこれから約1時間、話をしたいと思います。
 先ず自己紹介と自己宣伝をします。私は、先ほどご紹介いただきましたように「有紀」と書いて「ありとし」と読みます。どなたも「ありとし」と呼んでくださる方はいません。ほとんど「ゆきさん」か「ゆうきさん」と読まれます。当て字ですから当然です。しかし、私は父が付けてくれたこの名前が大好きです。父はよく私に言っていました。「有紀、お前には年を重ねるにつれて年相応の人間になれという思いで有紀とつけたつぞ。」と。川柳に「あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と」というのがありますが、今年古稀を迎えました。70歳です。この年になっても父が言っていた年相応の人間にはなかなかなれません。生涯、学び続けねばならないと思っています。また、小さい頃から「ありちゃん」の愛称で呼ばれていました。今でも昔なじみからは「ありちゃん」と呼ばれています。私はこの愛称も大好きです。
 私は定年退職した年に、公民館講座でホームページ作成方法を学びました。まさに60の手習いです。学んで作ったら人様に見て欲しいものです。そこで、「ありちゃんのホームページ」というタイトルでインターネット上にアップロードしました。「ありちゃんのホームページ」で検索してみてください。本校に出かける前に見てきましたがヤフーでもグーグルでもトップに出ています。インターネットを活用していらっしゃる方は一度覗いてみて下さい。私は旅行が好きで、あちこちに行っています。特に中国には妻と二人で何度か旅しました。そのときの珍道中ぶりを写真をいっぱい載せながら紹介しています。中国でも西の奥地、新疆ウイグル自治区です。玄奘三蔵が仏典を求めてインドへ行きましたね。その通り道のシルクロードのオアシス都市のいくつかを訪ね歩きました。光景が日本のそれとは違います。疲れた時などの気分転換に覗いてみて下さい。宣伝はこれくらいにして話を元に戻します。
 私の父が名前に込めた思いを語ってくれていたように、皆さん方もお子さんに語っていらっしゃることと思います。一度と言わず、人生の節目節目、例えば誕生日でありますとか学年の始めや終わり、入学や卒業の時などに語って下さい。3年生くらいまでのお子さんだったら、膝の上に抱っこして、背に手を回して、目を見て、お子さん誕生の時の感動を思い起こしながら名前に込めた親の思いを語って下さい。4年生以上の子お子さんは手を握り目を見つめて語って下さい。お子さんはきっと、私と同じように自分の名前をもっともっと好きになると思いますよ。自分の名前を好きになったこと、生んでくれたことに感謝する内容を1年生が熊日に投書しています。それを読んでみますね。


             うんでくれて「ありがとう」                                  田上虹希

 お母さんからの手紙を読みました。なぜぼくが「虹希(こうき)」という名前なのか、ゆらいが書いてありました。「七色の虹みたいに、いろいろな希ぼうをもって生きてほしい」というねがいがこもっていました。ぼくは、とてもうれしくてたまりませんでした。虹希という名前がもっともっとすきになりました。
 ぼくは、お母さんとけんかをしたり、へんなことを言ってきずつけたりしたけど、お母さんは、いつもやさしいです。お母さんはぼくがこまっているところを教えてくれたり、アドバイスしてくれたりします。
 お母さんの手紙の中に「しあわせです」「うまれてきてくれてありがとう」と書いてありました。ぼくもとてもしあわせな気もちになりました。
 お母さんがぼくをうんでくれて、とてもうれしいです。うんでくれてありがとうございます。これからはかんしゃしながら生きようと思います。
                                   (熊日読者の広場若者コーナー 25年4月1日掲載)

 (話し声が聞こえる)何かおかしな事がありますか?(「小学1年生の投書ですか?」の質問あり)
 そうです。小学校1年生のお子さんです。ですからほとんどひらがなでしょう。
 私はこのように自分の名前を好きになることが自分を好きになることにつながり、それが自分を価値ある人間と思うことになるとおもいます。これが自尊感情です。私は21世紀に生きる人にとってこの自尊感情が最も大事な感情だと思っています。
 本題の「命を大切にする心」について考えてみようと思います。
 「命を大切にする心」を支える柱が3本あると言われています。
 1本目の柱が自尊感情です。先ほど少し話しましたので先ず小学1年生の作文「うそ」を読みます。


    うそ   ごうだ なおと

   ぼくは学校をやすみました
   おかあさんにうそをついたからです
   なんのうそかというといえません
   おかあさんをなかしてしまいました
   ぼくもなきました
   おかあさんは
   こんなおもいやりのない子とはおもわんかった       
   こんなくやしいおもいをしたのは 
   はじめてやといいました
   ぼくはあほでまぬけで
   ばかなことをしたとおもった
   ぼくもかなしくてこころがいたい
   それでもおかあさんは
   なおちゃんのことがだれよりもすきやでと
   だきしめてくれました
   もうにどとしません
           (「先生あのね 鹿島教室 五十嵐の落とし文」から)

 なおと君がうそをついて、お母さんを泣かせました。それでも「なおちゃんのことが誰よりも好きやでと」と抱きしめました。なおと君は、お母さんから抱きしめられ、「もう2度としません」と思いました。このなおと君が抱いた感情が「包み込まれ感覚」です。包み込まれ感覚とは、周りの人から包み込まれている、愛されているということを実感する気持ちのことです。冒頭、名前に込めた親の気持ちを話す時、背中に手を回してと言いましたのは、この感情を子どもに実感させたいからです。この包み込まれ感覚は自尊感情の大部分を占めています。お子さん達を愛情いっぱいに育てて下さい。私には1歳4ヶ月になる孫がいます。それは可愛いです。この孫が6ヶ月くらいの頃、私が「おいで」と抱きかかえると、顔を真っ赤にして泣いていました。父親や母親が抱くと、それまでの泣き声はうそのようににこにこしながら私を見ていました。今では、「おいで」と手を差し伸べると抱かれに来ます。先日、私が孫を抱っこして散歩していると、私の弟とばったり出会いました。弟が孫に話しかけました。孫は目にいっぱい涙をためべそをかきながらしゃくり上げました。これが人見知りですね。人見知りとは、いつも愛情いっぱいに自分を世話してくれる人は自分の命を安心して託すことができる人です。あまり見かけない人は安心して命を託すことはできません。怖いのですね。だから拒否反応として泣くのです。ですから乳幼児が人見知りするのは愛情いっぱいに育てられ、包み込まれ感覚をいつも実感している証拠です。いろんな事情で乳幼児の頃、包み込まれ感覚を実感させることができなかったところは、今、心から抱きしめて包み込まれ感覚を実感させて下さい。 
 「社交性感覚」は、友だちとの心の通じ合いができているという気持ちのことです。小学校期から思春期にかけてこの気持ちはどんどん育っていきます。  
 「自己効力感」とは、何かをやりはじめたら最後までやり通すのだという気持ちのことです。やればできるという「自信」にも?がります。
 「自己受容感覚」とは、自分が好きだとか、自分の性格が好きという気持ちですね。
 先ほど、この自尊感情は21世紀に生きる人にとって最も大事なものと言いました。21世紀は変化の激しい社会、モデルとなるものがない時代です。このような時代には、自ら学ぶものを見つけ、自ら学ぶことが求められます。いわゆる積極性です。これは自尊感情が高くなければできません。失敗しても再度挑戦するという気持ちは自尊感情がなければ出てきません。親からもらったこの命大事にしようという気持ちは自己受容感覚がなければ生まれません。
 2本目の柱は、いのちのつながりと多様性に気づかせることです。
 本校の校門横に、二宮金次郎の銅像が建っています。金次郎は通称だそうです。二宮尊徳の道歌に
  ?父母も その父母も わが身なり われを愛せよ われを敬せよ?
があります。
 この道歌は、「あなたの命はあなた一人のものではない。父母、その父母と幾世代にもわたり、連綿と続いてきた命の炎が一度も途切れることなく続いてきたからこそ、あなたの命がある。あなたの身体の中には幾百万、幾千万という先祖の連綿たる命の炎が燃えている。尊い命の結晶が自分であることに思いをはせ、自分を愛し、自分を敬うような生き方をしなければならない。」という意味です。
 生命誕生は、約5億の精子が1個の卵子に巡り会ってのことでしょう。このようなことを考えると、今私たちがここに居ること自体、奇跡としか言いようがありません。「奇跡である私の存在、この私を支えている命は私だけのものではない」ということを子どもたちに伝えたいと思います。
 3本目の柱は、命の尊さと人間としての生き方を教えることです。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだ時、「お父さんカブトムシが動かなくなった。電池を替えて」という我が子の言葉に愕然として、親子で山にカブトムシを捕りに行き、そのカブトムシが死んだ時、「お父さんカブトムシが死んだ。お墓を作ってあげよう。」と言う息子に安堵したという話を聞いたことがあります。ペットショップで買ったカブトムシを生き物と思っていなったのです。だから「電池を替えて」の言葉が出たのですね。
 今の子どもたちはゲームというバーチャルな世界で、あまりにも安直な「死」を体験することが多くなってしまっています。闘って死んでも、ゲームだからリセットすればふたたび生き返ります。ボタン一つの操作で死んだ人が生き返る世界は、「死」というものの観念を大幅に変えてしまいました。生き返るのが簡単ならば、「死」というものもそれほど大したことではない、人を傷つけることも大したことではなくなってしまった傾向があるようです。ある調査によると、低学年の子どもの中に2割程度が人は死んでも生き返ると信じている子がいるというデータがありました。以前は、3世代同居が多く、そして自宅で死を迎えるのが普通でしたので、祖父母など家族の死を身近で見ていました。今では、ほとんどが病院で死を迎えます。死を間近にした人へ最後の語りかけをするべき時にも、病室にある脳波や心臓の動きが映し出されるモニターに目を取られ、医者から「ご臨終です」と声をかけられ、ハッとして死者に目をやることが多くなっていると聞きました。看取りが看取りでなくなってしまったようです。
 今、「死を教える教育」や「死を通して生を考える教育」など「デス・エデュケーション」」と呼ばれる取り組みが拡がり始めました。家族の死を悼む気持ち、死者を敬う厳粛な気持ちを通して生きることの尊さを伝えていくことが大切だと思います。
 ここに「葉っぱのフレディ」という絵本を益城町図書館から借りて来ました。皆さんはお子さんが小さい時、読み聞かせられたことがおありでしょう。本校の図書室にもあるかもしれません。その一説を読んでみます。


              「葉っぱのフェレディ」〜いのちの旅〜(一場面から)

 変化するって自然なことだと聞いて、フレディは少し安心しました。枝にはもう ダニエルしか残っていません。
 「この木も死ぬの?」
 「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ。」と答えました。

 葉っぱも死ぬ 木も死ぬ。そうなると 春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生には どういう意味があるというのでしょう。
 「ねぇ ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」とフレディはたずねました。
 ダニエルは深くうなずきました。
 「ぼくらは 春から冬までの間 ほんとうによく働いたし よく遊んだね。 まわりには月や太陽や星がいた。 雨や風もいた。 人間には木かげを作ったり 秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。 それはどんなに 楽しかったことことだろう。 それはどんなに 幸せだったことだろう。」
 その日の夕暮れ 金色の光の中を ダニエルは枝をはなれていきました。
 「さようなら フレディ。」
 ダニエルは満足そうなほほえみを浮かべ ゆっくり 静かに いなくなりました。
 フレディは ひとりになりました。
                                 (レオ・バスカーリア作 みらい なな訳 童話屋発行)

 葉っぱのフレディの文中には、
 「フレディは葉っぱに生まれてよかったなと思うようになりました。友達はたくさんいるし、見晴らしはよいし、枝はしなやかだし、その上風通しも日当たりも申し分なく、お月様は銀色に照らしてくれるからです。」
 「暑さから逃げ出してきた人間に涼しい木陰を作ってあげるとみんな喜ぶんだよ。」
 「僕死ぬのが怖いよ。」
 「まだ経験したことのないことは、怖いと思うものだ。でも世界は変化し続けている。変化しなものはない。死ぬというのも変わることの一つなのだよ。」
 などがあります。
 死を通して、生きることの尊さを伝えていきたいと思います。また、他者への尊敬の念や感謝の気持ちを育てていきたいものです。
 このような子どもの心を育てる家庭の役割を大きくくくると
 ◎家庭は、子どもにとって安らぎの場であり、人格形成を行う上でも重要な場である。
 ◎しつけや人を思いやる心、自立心を育むことは家庭の最も重要な役割を持っている。
の2つだと思います。
 アメリカの心理学者マズローという人は、人には欲求の5階層があると説きました。それは、第1の欲求が「生理的欲求」です。これは、生命維持のための食事や睡眠、排泄等の本能的な欲求のことです。この欲求が満たされると第2の欲求として「安全の欲求」が生じると言っています。これは、「安全性や経済的安定性・良い健康状態の維持などを得ようとする欲求」のことです。それが満たされると第3の欲求として「所属と愛の欲求」が生まれ、「愛されたい、他者に受け入れられたい、どこかに所属していたい欲求」が生じると言うのです。第4の欲求は、「承認の欲求」です。「自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求」のことです。第5が「自己実現の欲求」です。「自分の持つ能力や可能性を発揮し、自分がなりえるものになりたい欲求」と言っています。先ほど見ました自尊感情が育まれる過程とよく似ていますね。
 家庭でこれらの欲求を満たしていく中で人は成長していきます。家庭とは、人が成長していく最も大事な場所ですね。項目として列挙しますと、「衣食住の基本的な欲求を満たす場」があります。「安心安全が確保される場」があります。「愛情や所属を満たす場」があります。こう見てきますと、マズローの欲求のほとんどは家庭で満たされていますね。これが先ほどから言っています自尊感情を作っている「包み込まれ感覚」となる源です。
 (後ろの方で乳児にミルクを飲ませている母親に)お母さんからミルクを飲ませてもらって幸せそうにしていますね。愛情いっぱいに育てて下さい。今は私の話を聞いていらっしゃいますのでお子さんに語りかけることはできませんが、おっぱいやミルクを飲ませる時、必ずお子さんの顔を見て語りかけてください。
 元の話にかえります。そのほか「自立独立することを体験する場」「楽しむこと、遊ぶことを知る場」「ゆっくりと休むことができる場」があります。皆さんは、小さい頃夕方になると「カラスが鳴くからかーえろ」と言って家に帰ってはいませんでしたか?家はやすらぎの場です。くつろぎの場です。これは子どもも大人も変わりありません。お茶の水女子大学の教授でした森隆夫先生は、「家庭は心の渇きを癒すオアシスだ。家の一角にオアシスと名付けた部屋を作ったらどうか。」と言っておられました。
 このほか「人との関わりや距離感を学ぶ場」「失敗が許される場」「家庭や家族のモデルを学ぶ場」などがあります。
 どれも子どもの成長にとって欠くべからざるものばかりですね。
 冒頭述べましたように、人の心は人との関わりの中で育っていきます。あかちゃんが最初に出会う人は母親です。そして父親です。兄弟姉妹、祖父母などの家族です。家族がどのように関わるかによって子どもがどう育つかをアメリカの教育学者、ドロシー・ロー・ノルトさんが書いた「子は親の鏡」を見て下さい。本日は時間の都合で詳しく見ることはできません。お帰りになってから家族で読み合って下さい。ここでは、認める・褒める・叱ることについて考えてみたいと思います。
 子どもの心が育つのは人との関わりであるなら、私たちは子どもに対して、心を込めて丁寧に関わることが大切です。
 先ず、褒めることです。熊本県の小学校、中学校、高等学校では、「認め 褒め 励まし 伸ばす」を合い言葉に教育活動が展開されています。これを「熊本県教育行動指標」というそうです。皆さんもこの言葉は校長先生や教頭先生、そして担任の先生からよく聞いていらっしゃるでしょう。
この言葉は学校だけの専売特許ではありません。家庭でも地域でもこの「認め 褒め 励まし 伸ばす」を心がけて子育てにあたって欲しいのです。それは次のような効果が期待されるからです。
○褒められた子どもは自信をつけます。
○褒められた子どもは人を褒めるのが上手になります。
○褒められた子どもは人に優しくなります。
○褒められた子は明るくなります。
○褒められた子どもは自分が価値ある存在であることに気づき、やる気が出てきます。
まだ、そのほかにも効果はあると思います。ですから褒めることが大事なのです。しかし、褒めることはそんなに簡単ではありません。私の2番目の孫が小学2年生の頃のことです。孫は縄跳びが得意でいろんな跳び方ができていました。ある日、「2段跳びが30回跳べるよ。見に来て!」と言います。私と妻は、見に行きました。それこそジジバカです。ところが、その日は孫の調子が悪いようで、何度跳んでも4〜5回で縄が足に引っかかります。私は「こうすれば跳べるぞ。あーすれば跳べるぞ。」とアドバイスしながら見ていました。妻は、他の方を見ていました。何度目かの挑戦で、35回跳んだのです。私は「うぁーすごい!」と褒めました。妻も私と孫が喜んでいるのを見て、少し離れたところから「すごいね。」と言ったのです。それに対して孫娘は、「見てもいないで褒めないで。」と言ったのです。見てもいない愛想褒めは子どもの心に届かないどころかかえって怒りさえ感じさせるのです。子どもは自分ができたことや努力を認めた上で褒めて欲しいのです。そのためには子どもの行動から目を話さないことが大事なのです。私はこのことを「手は離して目は話さないで!」と家庭教育講演会では訴えています。ところが案外この逆が多いのです。「手は離さないで目を離す」が。
 そこで、皆さんにお尋ねします。本日は、木曜日、明日はお子さん達は上履きを持って帰るでしょう?上履きを洗うために。
 その上履き、お子さんが洗っているところ、手を挙げてもらえますか?(数人挙手)
 うわぁーすごい。いいですね。ぜひ続けさせて下さい。
 お母さんが洗っていらっしゃるところ?(たくさんの挙手あり)
 どこの学校でも聞いていますが、大体本日と同じような割合です。1・2年生の低学年は、無理かも知れませんが、できるだけお子さんに洗わせて下さい。「自分のことは自分でする」つまり生きる力の基本ですから。汚れが落ちていなくても靴の先の方のにおいが取れていなくてもいいではありませんか。それによって次から汚れがおちる洗い方はどうすればできるか、においが取れるかを工夫しますから。それが「手を離して」ということです。「目は離さない」は、お子さんの言動にいつも注意していることです。孫が言ったように、見てもいないことを褒めたり、自分では成長した、うまくなったと思っていないことを褒められても子どもはうれしさを感じません。子どもは、自分の成長や伸びを的確に認め褒められることを求めているのです。ですから、「手は離して目は話さない」が大事なことなのです。
 怒ると叱るは違うとよく言われます。怒るは良くないが叱るはとても大事とも言われます。それは、怒ると、自分は必要とされていないと思うようになったり、いつも心に不満を持つようになったり、居場所を見つけにくくなったり、人を褒めることより、怒る、叱ることが多くなると考えられているからです。つまり、人としてマイナス面が増えてくるのです。
 これに対して叱るは、とても重要です。人が人として社会で生きていく上でしてはならないことしなければならないことなどはこの叱ることで身につけることが多いからです。昔から子育ての3原則として、「無益な殺生はしない、うそをつかない、ものを盗まない」がありました。これは社会人として許されないからです。皆さんは、日曜夜8時からのNHK大河ドラマ「八重の桜」を視ていらっしゃいますか?今は、京都同志社大学の話が中心ですが、前半は会津藩の暮らしが中心でした。第1回の放映で「ならぬものはならぬものです」が放映されました。どんなことかと言いますと、


     會津藩 什の掟

 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
 三、虚言を言ふ事はなりませぬ
 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 六、戸外で物を食べてはなりませぬ
 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
       ならぬことはならぬものです
                         (會津藩校 日新館から)

 どうですか?
会津では子どもの頃からこれが教え込まれているのです。今でもこの精神は息づいているということです。7番目の「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」は、現在の社会ではあてはまらないことですが、そのほかのことは全て大事なことばかりでしょう。
 ですから、叱ることはお子さんが、「命に関わる言動を発するとき」、「社会の秩序を乱す言動を発するとき」、「決まり・約束事を守らないとき」です。叱る時は、本気で、腹を据えて、目を見て、真剣に叱って下さい。そして叱る時は簡潔に叱ることです。1週間分をまとめて叱るなどは良い例ではありません。さらに大切なことは、行為を叱るのであって人格を叱るのではないということです。いわゆるお説教では、子どもの心には落ちません。今の言葉で言えば子どもは叱られながら「うざいなー。早く終わってくれよ」と思うかも知れません。
 小学生が書いた作文を詠んでみます。


        「もうわるいことせえへん」

  おじさんにおかねちょうだいいうたのにくれへんかった。
  ほしかったからじどうはんばいきのかぎをあけて100えんとった。
  みつかっておかあさんにおこられた。
  はなれのへやにつれていかれてけいさつにいこかいうた。
  おかあさんめえようみてみい、いうた。
  ぼくおかあさんのめをようみんかった。
  わるいことしたからみられへん。
  けいさつへいくかわりにおしり100かいたたくというたけど
  10かいでかんにんしてもろた。
  おかあさんのめじっとみられないようなわるいことせえへん。
  おかあさんのめになみだがでていたから。
              (「先生あのね 鹿島教室 五十嵐の落とし文」から)


 いかがですか。「お母さんの目じっと見られないような悪いことせえへん。お母さんの目に涙がでていたから。」と子どもの心に届く叱り方を心がけたいですね。
 時間が迫ってきました。「命を大切にする心を育む家庭教」について話をまとめます。
 ○命を大切にする感性は生まれながらに身についているものではありません。
 ○五感を通して自然や社会における様々な体験を通して身につき、一人一人の感性として形成されていきます。
 ○子どもはたくさんの成功体験や失敗体験の中で一つ一つ学んでいきます。
 ○五感で感じる情動体験を数多く経験させましょう。
 このような人とのふれあい、自然や社会とのふれあいを通して心を揺り動かす体験の中でいのちを大切にする心をはぐくんでいきましょう。
 私たちの心は、人とのふれあいで育まれていくものです。家庭での子育ては勿論ですが、地域全体で子育てに取り組まれますことを念じます。その最たるものがこのPTAという組織です。子ども達のがんばりをみんなで応援していきましょう。この夏、小坂小学校ソフトボールチームが全国大会で大活躍したことが新聞テレビで報道されました。ピッチャーはウインドミル投法で全国ナンバー1の速球を投げることができるということでしたね。報道によりますと、悪天候と体調を崩したことが重なり優勝はできなかったそうですが、大活躍だったということです。このようながんばりを他人事とせず、自分事とすることによってより身近に感じます。それが「よし自分も!」の思いにつながります。これが地域全体の活力となります。
 小坂小学校の子ども達一人一人に命を大切にする心がはぐくまれ、子どもたちが輝きのある生活を送ることを祈念して話を終わります。ご静聴ありがとうございました。