命のぬくもりを伝えましょう 〜キーワード「情動体験」「自尊感情」〜 |
平成25年6月21日 |
御船町カルチャーセンター |
皆さん、こんにちは。ただいまご紹介いただきました中川でございます。
熊本直撃かと心配されました台風4号も温帯性低気圧となり安堵しています。先ほど教育長からお聞きしますと、本日の会合を開催するか延期するかかなり議論されたようです。心配された雨・風もそう強くなく、ちょうど田植えの時期ですので恵みの雨となりますよう願っているところです。
顔見知りの方がたくさんいらっしゃいます。私は、旧七滝小学校でお世話になりました。平成9年、七滝小学校で御船町青少年健全育成町民会議七滝支部の会合を持ちました。区長さん、公民館長さん、民生児童委員さん、議員さんなど地域の方々と会合を持った時のことです。
ある区長さんが、「近頃、子どもたちがあまり挨拶しよらんごたる。学校で指導はしておられると思うが・・・。」との提起がありました。すかさず、別の区長さんが、「地域でそぎゃんこつのあるかも知れんけん、今晩はそぎゃんこつば出し合ってみんなで地域の子ば見守り育てていこうという会でしょうが。どぎゃんすっと子どもたちが挨拶するようになるか考えようじゃなかな。」とおっしゃいました。また、ここにおいでの○○議員さんは、当時七滝校区の公民館長をしていらっしゃいました。七滝校区公民館祭りを主催していただいたり、「校区の独り暮らしの高齢者と子どもたちの交流会をもちましょう」など提案していただきました。高齢者の送迎は民生委員で考えます。校長先生は学校のことを考えてくださいと。そして祖父母学級を開きました。竹トンボを飛ばすグループで、一人の子が竹トンボを飛ばそうと懸命に挑戦しますが飛びません。そのたびにおじいさんは、竹トンボを飛ばして見せておられます。その子は、おじいさんの飛ばし方を見てもう一度挑戦します。何度挑戦しても飛びません。そのたびにおじいさんは「わしが飛ばすのを見とけよ。」だけ言ってとばして見せられます。でもなかなか飛びません。どのくらい時間が経ったでしょうか。「わしの手を見とけよ。」と言って飛ばされました。その言葉で子どもはおじいさんの手の動きを見てやっと気づきました。右手を手前ではなく、前にすりやることを。飛びました。子どもの喜びようは言葉では言い表せないほどでした。御船町は、このように学校と地域が連携して子どもの生きる力を育む活動を町全体で行っていらっしゃいます。その母体が青少年育成町民会議ですよね。 御船町の青少年育成町民会議は伝統のある会議です。このようなすばらしい会で皆様と一緒に「命」について考えることができますことを光栄に存じております。
私には2人の息子と3人の孫がいます。長男が生まれる時のことです。妻は分娩室に入りました。子どもの誕生を今か今かと待ちましたが、私はどうすることもできなく、例えは悪うございますが、動物園の熊のように分娩室の前を行ったり来たりするばかりでした。どれくらい経ったでしょうか。分娩室から「おぎゃー」という声が聞こえてきました。もう、41年前のことですが、このときの感動は今も忘れません。
人の中には、赤ちゃんが誕生する時のこの産声を「不快の声」という人がいます。十月十日お母さんのおなかの中で快適に過ごしてきたのに、人間社会に出され不快に感じるというのです。私はそうは思いません。赤ちゃんは、「命を与えてくれてありがとう」の歓喜の声を上げて生まれくると思っています。
私たちは全て2人の両親から生まれてきます。両親にもそれぞれ2人の両親がいます。つまり祖父母が4人います。両親から2代遡ると8人、3代で16人、4代で32人、10代で2048人の先祖がいます。15代遡ると65536人となります。20代では200万人以上になります。この限りない命の連鎖が今の私たちの命を育んでいるのです。このことを二宮尊徳は、道歌で次のように読んでいます。
父母も その父母も わが身なり われを愛せよ われを敬せよ
「あなたの命はあなた一人のものではない。父母、その父母と幾世代にもわたり、連綿と続いてきた命。その命の炎が一度も途切れることなく続いてきたからこそ、あなたの命がある。あなたの身体の中には幾百万、幾千万という先祖の連綿たる命の炎が燃えている。そういう尊い命の結晶が自分であることに深い思いをはせ、自分を愛し、自分を敬うような生き方をしなければならない。」という意味です。
私たちが決して忘れてはならない命の尊厳を言い表していると思います。
何百年と何千年と続いている命の連鎖、この命を限りなく尊いものと思い、大切にする教育がなされている中で、いじめなどを苦にした若者の自殺が大きな社会問題となっています。誠に残念なことですが、熊本県でも起きました。将来大きく花開くであろう可能性を持った子どもが、我が命を我が手で殺めなければならなかった心情を推しはかると痛ましく、思いとどまるすべはなかったのかとやるせない気持ちになります。命のぬくもりを伝える教育は喫緊の課題であると思います。だからこそ、本日の青少年育成町民会議総会後に命を考える研修会がもたれたものと思います。子ども達に命のぬくもりをしっかりと根付かせる教育を、家庭で学校で、そして地域で進めなければならないと思います。
今の子どもたちについて、体験活動が不足していると指摘されて久しうございます。中でも人の生や死に接する体験が減少しています。以前は、3世代同居が多かったものです。家族の死や弟妹の誕生によく遭遇していました。
私、本日の演題のキーワードに「情動体験」と「自尊感情」を挙げました。心を揺り動かす体験を情動体験と言っています。子どもたちにもっともっと、心を揺り動かす体験をさせたいと思っています。
人が命のぬくもりを実感するのは家族や家畜、ペットの生死と向き合い、心を激しく揺り動かす体験からと思います。
私は農家の長男です。家に乳牛を4・5頭飼っていました。子牛が生まれました。右足首にほんの少し黒い毛があるだけで全身白色でした。家族は「しろ」と名付けてそれは可愛がりました。私は学校から帰ると、すぐに田んぼに草切りに行き、切ってきた草を食べさせていました。その子牛が結核にかかりました。育てることは出来ません。殺処分しなければならないのです。業者がトラックで子牛を引き取りに来ました。トラックに牛を乗せようとしますが、前足を突っ張って動こうとしません。牛にも分かるのでしょう。父がトラックの荷台に乗って引っ張り、私たちが尻を押します。子牛は涙を流しながら必死で前足を突っ張り動きません。父も母も私たち兄弟もみんなが泣きながら牛をトラックに乗せました。あの時の牛の悲しそうな顔、そしてトラックが動き出したときの「めー」という悲しそうな声は今でも忘れることは出来ません。
私がある小学校で担任している子が社会体育で柔道の稽古中に事故死しました。もしかしたら記憶にある方がいらっしゃるかも知れません。指導をしていた方は刀剣収集家です。休憩時間、訪ねてきた指導者の知人が、「最近刀を手に入れたそうですね。」と聞いたそうです。指導者は、手に入れた刀を見せ、目釘を抜き、刀の柄から刀剣を取り出し、銘まで見せたそうです。そして、刀をさやに収め、その刀で居合抜きを披露したのです。その時、刀身がピューと飛び、正面に座っていた子の体に突き刺さりました。心臓直撃だったそうです。その子の家は柔道練習場の近くでしたので、すぐに母親に抱かれ、日赤まで救急車で運ばれました。母親は自分の手の中で次第に冷たくなる我が子の名前を呼び続け必死に抱きしめていたそうです。病院で死が確認されました。このことを知った私や地域の人、クラスの子どもたちの衝撃は言葉で言い表すことはできません。通夜にクラスの子どもを連れて参列しました。お母さんは、実名で言いますが「タカオ」「タカオ」と仏壇の前で子どもの名前を口にしておられました。そして、子どもたちの手を一人一人握りしめ、「○○ちゃんの手は温っかねぇー。」と言っておられました。お母さんの手には冷たくなったタカオ君の手の感触しか残っていなかったのです。葬儀の日の午前中、勉強していると一人の子が、「先生、タカオ君が燃えよる。」と大声で言いました。火葬場は教室から見えていました。子どもたちは勉強どころではありません。みんな火葬場の方を向いて泣きながら手を合わせました。そして、タカオ君の分まで命を大切にしていくと誓い合いました。
私の父は、平成4年になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や弟たちと相談して、自宅で死を迎えさせようと入院は断りました。父は家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、父の顔を見つめ何かを語りかけていました。父の弟妹は父の名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
私は家で死を迎えるのがよいというのではありません。人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思うのです。
「死ぬと、人は冷たくなり、硬くなる。それが命を失うこと。若い世代の多くの人たちは、この命の尊厳が分かっていない。人の命は世界に一つしかない。代替えがきくものではない。生のいとおしさは死を考えることによって生まれる。だとすれば、遠ざかってしまった死を、看取りを介して生活の場に取り戻すことは、必要なことではなかろうか」と北里大学教授の新村拓さんは言っています。
ノンフィクション作家、柳田邦夫さんは「今、病室には心拍数や脳波を表すモニターが置いてある。今にも息を引き取ろうかとする人に対して最後のお別れの言葉をかけるのではなくモニターをじっと見ている。医者からご臨終ですと告げられてハッと病人の方を向く。看取ることがなくなっている。」と言っています。
死と向き合って自分の命を考える、現実の命から学ぶ機会を数多く作りたいものです。これは人の死ばかりではありません。ペットの死などもそうです。
鹿児島の大学の先生から聞いた話です。
ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」と子どもに言われて愕然としたそうです。数日後の早朝、子どもを連れてクヌギ林へカブトムシを採りに行ったそうです。あちこち探し回って採集したカブトムシが夏休みの終わり頃死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と子どもが言ったというのです。カブトムシの死に対する子どもの態度がこうも違うのです。体験の大切さを如実に物語っていると思います。また、私たちは、人が生きるためには牛や馬、野菜など動植物の命をもらわねばなりません。命の持つ矛盾に気づかせ葛藤させるとともに命への感謝の心を育てたいものです。
子どもたちが心を揺り動かされる体験を通して現実の命について学ぶなかで、命の尊厳、命への畏敬の念をはぐくみ自他の命、人権を大切にする心豊かな人に育って欲しいと思います。
問題や、悩みを抱えた時、もうどうにでもなれというような、投げやりな気持ちになったことはありませんか?この世に生を受け、健康に暮らしてゆけることを、当たり前のことと思い、日々を無駄に過ごしていることはないでしょうか。
あるお坊さんの手記を読んでみます。聞いてください。
ある日、祖母の部屋にゆきますと、祖母は手帳に細い字で何かを書き込んでいます。「おばあちゃん、何書いてるの」と尋ねますと、祖母はにっこり笑いながら、「もう年をとって、せっかくよい物を読んでも忘れてしまうから、感動したことや心に残った文章や、そうそう、もちろんあなたに聞かせたいことなどこうして書いているのよ」と見せてくれました。そこには、ほんのちょっとしたことが、美しい旋律のように綴られているのです。 祖母は今年、86歳になります。それでも、これからが勉強だと言うのです。私は祖母の言葉に脱帽してしまいました。 「本を読むことはおばあちゃんの夢だったの。それはね、私は不器用な人間で、何をするにも“ぐず”で遅いし、気がきかなくてね。小さい頃から本が好きで、お裁縫も家事も怠けてちゃんとしなかったから、お嫁にいってからとても苦労したの。だから結婚して4人の子どもが一人前になるまでは、一切本を読まないで主婦としてがんばろうと心に決めたの。もっと賢く生きれば、本を読みながら家庭の切り盛りも上手くできたかもしれない。でも私には、それが精一杯だったの。」と遠い日を思い出していました。 私はそれを聞いたとき「この恵まれた環境をありがたく思い、その時々を精一杯大切に生きよう。」と心から思いました。 |
お坊さんが言う「その時々を精一杯大切に生きよう」は自分が持っている命を輝かせようとの思いです。これまで連綿と続いてきた命を大切にするばかりでなく、いただいた命を輝かせることこそ大切だと思います。命を輝かせるとは前向きに生きることです。
これが2番目のキーワード「自尊感情」です。この自尊感情は今日を生きる元気と明日への希望を生み出す源だと思っています。
自尊感情とは、自分自身を価値あるものと思う感情で、人が健やかに心の成長を遂げるために必要な感情のことです。見えない学力とも言われています。
わかりやすく表現しますと、「家族は俺を愛し信頼している。先生は俺を応援している。友達は俺を分かってくれている。俺ってたいしたもんだ。俺はこの俺を大事にするぞ!」という気持ちのことです。家族は自分を愛し、先生は応援してくれている、信頼していると思う感情です。友達との絆を実感している感情です。自分を価値ある人間と思う感情です。そして、この自分を大切にしていこうという感情です。これらの感情を総称して自尊感情といいます。
この自尊感情は私たちの誰にもあるのですが、この感情が高い人、低い人がいます。また、高い状態の時、低い状態の時があります。
私は、大相撲界を引退した元幕内力士高見盛がとても好きでした。人気者でしたね。高見盛が相撲に勝って花道を下がる時の姿、皆さんもご存じでしょう。胸を張って顔を上げて意気揚々と下がっていました。逆に負けた時は、下を向いてしゅんとなったような状態で下がっていました。胸を張って上を向いているときは、自尊感情が高い時です。下を向いている時は低い時です。この低い状態が長く続くと要注意です。子どもや若者だったら不登校や引きこもりにならないとも限りません。高齢者だったら高齢者鬱病にならないとも限りません。身近にこのような人がいたら声をかけてください。
「近頃、元気のなかごたるばってんどぎゃんかしたつな?」「俺に加勢できるこつはなかな?」などを。
先ほど自尊感情について子どもの言葉で説明しました。家族は自分を愛し包み込んでくれている。先生は応援してくれている、信頼している。友達も自分を信頼し、互いに絆を実感している。そして自分を価値ある人間と思っている感情のことと言いました。
少し具体例を挙げて話をします。
次男夫婦に赤ちゃんが生まれました。今、1歳2ヶ月です。じじバカですがそれは可愛いです。お孫さんがいらっしゃる方はどなたも「孫はかわいい」とおっしゃいます。孫の成長が楽しみですよね。孫が6ヶ月くらいの時、私が抱こうとすると私の顔をじっと見つめて、大声で泣きだしていました。母親が抱きかかえると、今まで泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止み、私を微笑みながら見つめていました。いわゆる人見知りです。人見知りとは、この人は自分を包み込んでくれ人だろうか、自分の安心・安全を託すことができる人だろうかと乳児なりに考え、この人には自分の身を安全に託すことができないと判断した者に対して拒絶反応を起こすことですよね。いつもそばにいて、愛情いっぱいに世話をしてくれる人が自分の安心・安全を託すことができる人です。ですから、乳幼児期には愛情いっぱいで子育てすることが重要です。愛情いっぱいに育てられることで包み込まれ感覚を実感します。この包み込まれ感覚によって自尊感情が育まれます。この包み込まれ感覚が自尊感情の大部分を占めています。しかし、乳幼児期に、いろんな都合で包み込まれ感覚を十分に実感できなかった子もいます。学校で社会でこのような子に寄り添い、温かいまなざしで見つめ、包み込まれ感覚を体感させて欲しいのです。
まだ、町村合併前のことです。当時の豊野町子供会育成会長さんから聞いた話です。
学校で勉強はしない、悪さはする、ずる休みはするという一人の中学生は、地域でもあの子は「よくない子」とレッテルを貼られていたそうです。「家庭でも学校でも地域でもよくない子というレッテルを貼られている子だからこそ、子供会で一緒に活動をさせ、地域の子の一人として中学校を卒業させたい。」との会長さんの強い思いから、子供会がある度に誘って一緒に活動させていたそうです。その彼が中学校を卒業して仕事に就いた6月頃、「悪ごろといわれていた私が中学校を卒業し、就職できたのもおじさんが子供会に誘ってくれたから。もうすぐ夏休み。自分が子供会で一番思い出に残っているのは海水浴でのスイカ割り。今年も海水浴でスイカ割りがあるだろう。その費用の一部に使って欲しい」との手紙を添えて初めてもらった給料の中から数千円を同封して送ってきたそうです。この手紙を海水浴に行くバスの中で読み上げたら、みんなが自分の行為を恥じたと話してくださいました。
この中学生は、子供会育成会長さんの誘いを通して地域からの包み込まれ感覚を実感したのですね。そして、人の道としての「生きる力」を身に付けたのです。
学校でも先生方は、温かく肯定的な眼差しで子どもたちを見つめ、「自分は先生たちから温かく包み込まれている。応援してもらっている。」という感覚を実感できる学校づくり、学級づくりをしていらっしゃいます。
ここに○○先生がいらっしゃいます。先生は私の中学時代の恩師です。中学1年生の時の担任の先生です。中学生時代、先生からとてもおごられました。褒められもしました。やればできるぞと激励もしていただきました。元教育長の◇◇先生も恩師でした。先生にも厳しく指導していただきました。熱血指導でした。益城中学校の同級生で5年に1度同級会をします。300人ばかりの卒業生のうち100から130人ほど集まります。いつもお二人にはご出席いただだいています。宴が盛り上がり、座が砕けるとお二人の先生の周りにはいっぱいの人だかりです。そして、中学当時、おごられたこと、打たれたこと、褒められたことを中心に話が盛り上がります。それは、みんなが「先生は厳しかったばってん俺のことを応援してくれていた。」と思っているからです。
以前は、学校ばかりでなく地域でもこのような思いをしていました。私は秋津町沼山津で生まれ育ちました。善いことをしていると、「おっ、善いことをしているな。さすが幸平しゃん(私の祖父の名前です)の孫ばいな。」などと褒められました。逆に悪いことをしていると、「そぎゃんこつすると有ちゃん(父の名前です)の泣かすぞ!」と言って注意されました。
子供は地域の宝です。地域ぐるみで、善い行いは大いに褒め育てていきましょう。悪い行いは厳しく諫めましょう。これが青少年健全育成協議会の主たる目的だと思います。
これまで見てきました自尊感情は、自分だけの独りよがりでははぐくまれません。周りの人の肯定的な眼差しや周りの人との関わりの中ではぐくまれます。学校・家庭・地域社会で自尊感情を育む環境を作って欲しいと思います。
この自尊感情には基本的自尊感情と社会的自尊感情があるといわれます。
基本的自尊感情とは、「生まれてきてよかった」「このままでいい。自分が好きだ」と思える感情のことです。この基本的自尊感情が弱いと自分の命の大切さに確信が持てないといわれています。この感情が育まれる場は主として家庭です。
社会的自尊感情とは、「自分にはできることがある」「自分は役に立っている」「自分には価値がある」と思える感情のことです。他と比較して得られる感情です。この感情は、学校や地域社会で人との交流によって育まれていきます。
家庭・学校・地域社会で、包み込まれ感、社交感、自己効力感、自己受容感を数多く体験させ、自尊感情を育みましょう。
そして、子どもはもとより地域の人々が生き生きと輝きのある生活ができるよう応援していこうではありませんか。
先ほど豊野町子供会育成会長さんの話をしましたが、その会長さんが、「今の子どもは3つの恩を忘れている。それは、親の恩、先生の恩、地域の恩だ」と言っておられました。命を大切にすることの1番は、親を大切にすることです。親を大切にするとは親孝行することです。このことについて論語を紹介して終わりにしたいと思います。
私は論語を詳しく読んでいるわけではありませんが、石塾 塾長 岩越豊雄さんは
論語 学而6
「子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、 行いて余力有らば、則ち以て文を学ばん」
これを次のように現代語に訳していらっしゃいます。
「先生がおっしゃった。若者よ、家では親孝行をしなさい、学校や社会など外に出たら目上の人に素直に従いなさい。何事も度を越さないように控え目にし、約束を守りなさい。多くの人を好きになり、人徳のある人、立派な人について学びなさい。そういうことができて、まだゆとりがあるなら、本を読んで学んでいけばいい。」と。
さらに、「孔子の教えに基き、まとめた『孝経』には、「孝」とは、自分を生んでくれた両親をまず敬愛し、祖先に感謝し、心をこめて祭ることだ。」と言っておられます。
これは、冒頭述べました二宮尊徳の道歌「父母も その父母も 我が身なり 我を愛せよ 我を敬せよ」に通じると思います。
御船町の青少年一人一人が今の私の命は、これまで連綿と続いきた祖先の命のつながりにあるとの思いを強く持ち、今を生きる命を大切にするのと同時に命を輝かせる生き方をすることを祈念します。そして皆様のますますのご活躍をお祈りしまして話を終わります。
ご静聴ありがとうございました。