学びから始まる人権〜様々な人権課題〜
平成25年11月20日
熊本県葦北地方振興局


 つい1週間ばかり前までは、夏日であったのがいきなり冬日になるような最近の天気です。このように気温の変化が激しいと体調管理に気を遣います。特に、私のような高齢になればなおさらです。異常気象という言葉が最近はあまり使われなくなりましたが、異常という現象が続けばそれが常態となり当たり前になってしまいます。晩秋とか初冬という言葉がなくなりはしないかと心配です。
 何かしら地球が病んでいるように思えて仕方ありません。病んでいるのは地球ばかりではありません。人の心も病んでいる人がいるようです。東京三鷹市では女子高校生が自宅前で殺害されました。犯人は元交際相手といいます。あまりにも簡単に人の命を奪う行為が急増しているようです。人権の中でももっとも大事なものが命です。人権について立ち止まって考えることが今求められていると思います。そういう意味から本日、人権について皆さんと共に考える機会を与えていただきましたこと、うれしく思います。
 ただいま私をご紹介いただきましたが、少し自己紹介をします。
 名前はそこに記していますように「中川有紀」と言います。「有紀」と書いて「ありとし」と読むのですが、どなたからも「ありとし」と読んでいただけません。ほとんどの方が「ゆき」さんと読まれます。そして、「男性ですか?名前を見て女性と思っていました。」とおっしゃる方もいます。現に、「○○有紀」という名前の女性と出会うことがあります。ある銀行で窓口業務をしておられた女性が「有紀 ゆき」さんでした。先日人間ドックに行きましたら診察いただいた先生が「○○有紀」と名札をつけた女医さんでした。このように女性と間違われる名前ですが私はこの名前が大好きです。父がつけてくれた名前です。父は「有紀、おまえには歳を重ねるにつれて歳相応の人間になれよと言う思いを込めて有紀と名付けた。歳相応の人間にならにゃんぞ!」と言っていました。「有」という字の上に「保」という字をつければ「保有する」という熟語ができますね。「有」には「保つ」という意味があります。「紀」は「21世紀」などというように「年」の意味があります。それで歳相応の人間になれと名付けたのです。川柳に「あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と」というのがあります。現在、70歳ですが、歳相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。
 私は幼少の頃、「ありちゃん」と呼ばれていました。今でも小学校・中学校時代の友からは「ありちゃん」と呼ばれています。大好きな愛称ですが、時々年上の中学生などから、「おっ、向こうからアリの来よる。アリは踏みつぶそう。」と言って足で踏みつける仕草をしてからかわれたり、いじめられたりしたことがありました。私はそのたびに「俺はアリじゃなか。ありとし。」と言って体当たりして抗議していました。親がいろんな思いを込めて付けてくれた名前をからかいやいじめの対象にすることはその人の人格を冒涜することと同じことだと思います。このような意味から自分や他の人の名前を大切にすることから人権学習は始まると思っています。
 皆さんも、お子さんやお孫さんに、名前に込めた親や家族の思いを語ってやって下さい。小さいお子さんやお孫さんだったら膝の上に抱っこして背に手を回して目を見つめて、大きなお子さんだったら手を取り目を見つめて、赤ちゃん誕生の時の感動を思い起こしながら名前に込めた思いを語って下さい。お子さんやお孫さんはきっと私のように自分の名前が大好きになると思います。名前を好きになることは自分を好きになることです。自分を好きになると自分を大事にする心が生まれます。この心を自尊感情と言います。人権尊重社会ではこの自尊感情こそが最も大事なものと思っています。
 では、人権問題について一緒に考えていきましょう。皆さん、ワークシート1を見てください。

そこに女性の絵があります。女性はいくつくらいでしょうか。
 お尋ねします。
 若い女性に見える方?(半数くらい挙手。「えっ。若い女性に見える?」の声が聞こえる)
 お年寄りに見える方?(半数くらい挙手。「えっ。お年寄りに見えるって」の声が聞こえる)
 両方に見える方?(半数くらい挙手)
 どうしても両方には見えない方?(数名挙手)
 「こう見れば両方に見えるよ」とどなたか説明していただけませんか。
 「顎と見るか、鼻と見るかで見え方が違います。ネックレスと見るか、唇と見るかでも違います。」

 そうですね。顎とネックレスと見ると若い女性に見えます。鼻、唇と見るとお年寄りに見えますね。この絵は、だまし絵といって見方によって見え方が違うことを表しています。人権問題も見方によってこれまで見えなかったものが見えて来るものがあります。毎日の生活の中で、「これはちょっとおかしい」と思うようなことがある時は、「そうかな?」と立ち止まって考えましょう。     
 ところで、「区別」と「差別」はどう違うでしょうか。
 国語辞典によりますと、「区別」とは、「違いによって分ける」「区分け」「けじめ」とあります。
 「差別」とは、「差をつけて取り扱うこと」「わけへだて」とあります。
 人権の視点から考えてみますと、「区別」とは、「男と女」「黒人と白人」「日本人とアメリカ人」というように違いを表しただけのことで、そこには、不当性、不利益性を被る関係はありません。
 「差別」とは、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」です。「出身地」「職業」「学歴」「性別」「家柄」「民族」などによって、上下の値打ちをつけ、自由や権利を侵害するなどの不当性、不利益性を被る関係が生じることです。
 人が「等しく、幸せに」という願いや生き方を奪い、傷つけ、人間を卑しめ辱めることが差別です。
 法務省のホームページにはさまざまな人権課題が示してあります。「女性問題、子どもの問題、高齢者問題、障害者問題、同和問題、アイヌの人々、外国人、HV感染者・ハンセン病患者等、刑を終えて出所した人、犯罪被害者等、インターネットによる人権侵害、ホームレス、性的指向、性同一性障害者、北朝鮮当局によって拉致された被害者等、人身取引」などです。
 この中で、熊本県では、同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題を主要な人権課題としてその早急な課題解決のために教育・啓発に力を注いでいます。 
 資料に附けていますのは、今年3月熊日新聞の「電話で話そう」欄に記されたものです。読んでみ
ます。


               差別根強い熊本 今も変わらず残念


 私は四国の出身で、熊本に来て40年以上になりますが、同和問題やハンセン病問題など根強い差別体質が気になります。
 実は小学4年生の孫娘が先日、同級生から「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」と言われたというんです。熊本に来たころも差別が多いのに驚かされましたが、あまり変わっていないようです。いまだにハンセン病のことを何かと言う人もいますしね。私が育った県にもハンセン病療養所がありましたが、中学生のころにはもうそんな差別の話は聞きませんでした。私は菊池恵楓園に出入りして菊の育て方を習ったりもしました。
 少しずつでもいい方向にいってほしいと思います。

 「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」は、
「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」であり、人が「等しく、幸せに」という願いや生き方を奪い、傷つけ、人間を卑しめ辱めることであり、差別です。このようなことは決してあってはならないことです。
 差別をなくし、みんなが幸せを実感できる社会づくりは全ての人の悲願です。
 学校教育の場で、社会教育の場で、行政職員研修などの場で教育・啓発が進められているにもかかわらず「あそこから先は同和地区だから行かない方がいい。付き合わない方がいい」と子どもの会話に出てきたのです。子どもがこのようなことを口にすることは、周りでこのようなことが言われているのででゃないかと思います。このこ言葉がいかに人権侵害であるかについて皆さんと一緒に考えていこうと思います。
 熊本県の主要な人権課題について考えてみましょう。まず同和問題です。
 同和問題とは、部落差別に関わる人権問題です。出身地などを理由とした差別であり、日本国憲法で保障されている基本的人権に関わる重大な人権問題です。
 部落差別については、封建社会が確立されていく過程で、当時社会の中にあった偏見を利用して、政治的・意図的に創られた身分差別に由来しているといわれています。鎌倉・室町時代には、人の死や血などは「穢れ」であるとする考えが広まりました。科学的に判断すれば、全く根拠のない誤った考え方ですが、この考えが、死や血に触れた人もけがれるというように考えられ、人や動物の死や血に触れる仕事をしている人は、そのけがれが感染し、けがれた存在であるという誤った考えが社会全体に広まっていきました。これが特定の仕事や役割を持った人に対する偏見を作り上げ、社会的に差別される身分を生み出すことにつながりました。そして、秀吉による刀狩りや検地などにより身分制度の基礎が創られていったのです。
 江戸時代になり固定された身分制度が確立・強化されていきました。そして、穢れ意識等の当時の誤った意識を利用して被差別身分とされた人もいました。厳しく差別されながらも、農業を営んで年貢を納めたり、優れた技術を使って人々の生活に必要な道具を作ったり、治安を担ったりして社会を支えました。また、古くら伝わる芸能を盛んにしたり、建築や庭造りなどに大きな影響を与えました。京都銀閣寺や竜安寺の庭を手がけた善阿弥、能を集大成した観阿弥・世阿弥は被差別部落の人と言われています。江戸時代、前野良沢や杉田玄白らと人体を解剖し、近代医学の基礎をつくった人も被差別部落の人と言われています。しかし、差別政策によって厳しく差別され明治以後、諸々の解放施策が実施されましたが、今でも差別が厳存しています。
 現在の同和問題の現状は、大きなくくりで言いますと、結婚差別、就職差別、土地差別、インターネット上での差別があります。結婚差別は、将来を誓い合った者同士の仲を生まれた場所で引き裂くものです。本人には何の責任もないところで結婚を断念しなければならないという最も深刻な人権問題です。就職差別も本人の能力外の生まれ育った場所で不採用になるというあってはならない差別です。最近は、「○○地域に同和地区があるか?」などの問い合わせが役所にあるそうです。このような問い合わせをする人は心の奥底に差別心があるからです。インターネット上の差別落書きは誰が書き込んだか分からないからでしょうか、読むに耐えない差別語がまかり通っていると言います。
 差別心がある人は心が貧しい人です。また、間違って理解しているがために差別心がある人もいます。そこで、同和問題について正しく学び、正しく理解し、正しく判断し、相手の立場に立って行動することが、今求められています。
 未だに、「同和問題は教えるからかえって差別が広がるのではないでしょうか?」と言う人もいます。本当にそっとしておけば同和問題は自然に解決していくでしょうか。
 内閣府が平成19年に行った「人権教育に関する世論調査」では、人権教育について初めて知ったきっかけは、家族や近所、職場の人や学校の友達から聞いたと答えた人は31.8%、テレビ・ラジオや新聞、本などから知った人が13.3%でした。学校で教わったと答えた人は19.7%、研修会などで知ったと答えた人は2.6%、自治体の広報や冊子からと答えた人が1.8%でした。人は、教育や啓発を通して同和問題を教えられるよりも同和問題について様々な機会に周りから教えられているのです。この結果からも「教えるから差別が広まる」という考えは間違いです。正しく理解するために正しく教えること、正しく学ぶことが重要なのです。
 また、「同和問題は、私には関係ないのですが?」と言う人がいます。私たちは、自分の心の中にある差別意識を一つ一つ取り除いていくこと、差別は絶対に許さないという価値観を持つことが大切です。 
 次にハンセン病問題をみてみます。皆さんご存じの通りハンセン病は、「らい菌」による感染症で皮膚や末梢神経が侵される病気です。このらい菌はきわめて感染力が弱く、濃密な接触がなければうつることはまず無いと言われています。ところが、患者の隔離を定めた「らい予防法」、この法律は平成8年に廃止されましたが、この法律による90年にも及ぶ誤った施策で社会の中に強められた偏見や差別が今なお残っています。平成15年11月阿蘇黒川温泉で起きたハンセン病元患者の宿泊を拒否するという事件が起きました。潮谷知事の頃です。県はハンセン病についての啓発に力を入れていた時のことです。また、昭和28年黒髪小学校事件というのが起きました。これは、菊池恵楓園に入所していた患者の子が黒髪小学校に入学することをPTAが拒否するという事件でした。PTAは、ハンセン病患者を親に持つ子どもと我が子が同じ教室で勉強して我が子がハンセン病に罹ることはなんとしても避けねばならないという親心から起きた事件です。この2つの事件に共通することがハンセン病に対する間違った理解です。ハンセン病はうつる病気、怖い病気という間違った理解です。このことからも正しく理解することの大切さが分かると思います。
 水俣病問題も、水俣病に対する誤解から地域内外で厳しい差別が起きました。このことは皆さんよくご存じの通りです。水俣病は、工場排水中のメチル水銀に汚染された魚介類を、そうとは知らずに、たくさん食べたことが原因となって発生した中毒症で、伝染病でも遺伝病でも風土病でもありませんね。しかし、まだ原因が分からない頃、この病気により集落内での差別や地域外からの差別、結婚差別や就職差別などがありました。3年ほど前、水俣市内の中学生とのサッカーの試合中にベンチから「水俣病 触るな!」という中学生による発言がありました。水俣病に関する教育・啓発が行われている時のことです。発言した生徒の学校の校長先生は、「生徒に対して水俣病の表面的な知識しか伝えきれていなかった。」と話しておられました。生徒は知識として学んでもそれが意識となり行動に結びついていなかったのです。このことからも正しく理解し、判断行動することの大切さがおわかりと思います。
 水俣病問題解決に向けての取り組みは、皆さんご存じのことですので割愛しますが、10月27日(平成25年)、「第33回豊かな海づくり熊本大会」で両陛下は水俣市をご訪問され、水俣病語り部の話に耳を傾けられましたね。
 これまでは私の話を聞いていただきました。これからは資料やワークシートを使ってあらゆる差別をなくしていくために自分にできることを一緒に考えていきたいと思います。
 資料に「黒いランドセル」という記事を付けています。読んでみます。一緒に読んでてください。


                           黒いランドセル

 ある学校に、一人の女子児童が入学してきました。入学後、この児童は教室の中でいじめを受けるようになりました。理由は、黒いランドセルを背負って通学していたからでした。もちろん担任の先生は教室で対応をしましたが、いじめはおさまりません。とうとうその児童は転校することになったのでした。
 この女子児童が黒いランドセルで通学していたことには理由がありました。女子児童には3歳年上のお兄さんがいました。しかし、小学校入学時にはすでに小児がんに冒されていたのです。このお兄さんは、1回しか自分の黒いランドセルを背負って登校することができませんでした。
 女子児童の入学に際し、家族は新しいランドセルを買うことをすすめましたが、女子児童は「大好きだったお兄ちゃんと毎日一緒に学校に行きたいから」と、言うことを聞きませんでした。その強い希望に周囲も折れ見守ることにしたのですが、この女子児童の願いは無残にもつぶされたのでした。
(毎日新聞夕刊平成 14年6月28日 要約)
 わたしたちの思い込みは、時として子どもにすりこまれ、このような悲しいできごを引き起こすことがあります。なお、その後、女子児童は、転校先の学校で黒いランドセルを背負って通学することができたということです。     
                              (大分市教育委員会保護者用資料 学習資料35じんけん)

 小学1年生の心の中に「黒いランドセル=男の子のランドセル」という固定観念があったために、黒いランドセルを背負って投稿した女の子はいじめられました。
 私たちの心の中にこのような「○○=○○」などと思い込んでいることはないでしょうか。
 次の文を読んでみてください。


        息子よ 息子
 路上で交通事故がおきました。
 大型トラックが、ある男性と彼の息子をひきました。
 父親は即死しました。
 息子は病院に運ばれました。
 彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
 外科医は「息子、これは私の息子!」と大声で悲鳴をあげました。

 どうですか?読んでこの話がストンと胸に落ちましたか?
 胸に落ちない人いらっしゃいますか?(数名が挙手)
 どうして胸に落ちませんか?
 「父親は交通事故で即死したのに外科医が、息子!これは私の息子と悲鳴を上げている。おかしい。」
 「外科医を男性と思うと胸に落ちないけど、外科医が女性、つまり母親であるならこれは私の息子と悲鳴を上げるのは当然のこと。」
 そうですよね。私たちの心の中に「外科医=男性」という固定観念があればこの話は胸に落ちません。女性の外科医もいらっしゃるですよね。
 このような固定観念は、どののようにして私たちの心の中にできあがるのでしょうか?

 図の中心にある円と周りにある太い線の円の大きさを比べてみましょう。どちらが大きいでしょう?
 「周りの円が大きい」の声あり
 「周りの方が大きいと思ったけど、図ってみると同じ」の声あり
では、直線ABと直線CDはどちらが長いでしょう。
折り曲げて重ね合わせたり、計ったりして比べている人がいら っしゃいますね。
そのようにして比べるのが科学的ものの見方ですよね。
実際は直線ABが2.8cm、直線CDが2.7cmで、直線 ABがほんの少し長いです。しかし、かなり長く見えるでしょう?

 円を書いた図にも直線の図にも私たちの判断を惑わせる余計な情報があります。いろいろな情報から必要な情報を選び取ることが大事です。
予断と偏見といいますが、「予断」とは、前もって判断することですね。あることに対して、事実を確かめないで自分のもつ過去の経験、知識、記憶などの範囲で判断することです。今考えました図で言いますと、大きさや長さを確かめないで、どちらが大きいとか長いとか判断することです。日常生活の中でこのようなことがないでしょうか。
 また、世間体意識や旧来からの因習や迷信によって判断することもあります。みんなが言うからが固定観念となってしまうことがあります。黒いランドセルはまさにこの昔からそうなっているの考えですよね。
 別の角度から私たちの思い込みをみてみたいと思います。
 皆さん、魚の絵を描いてみてください。
 ここにお二人の方に描いていただきました。
 ○○さんのように魚の頭が左を向いている魚を描かれた方?(大多数が挙手)
 △△さんのように真上からみた魚を描かれた方?(1人)
 私が描いたように右向きの魚を描かれた方?(挙手なし)
 私は人権問題講演会では、よく魚の絵を描いてもらいますが△△さんのように真上から見た魚を描かれた方はこれまでお二人です。水槽の魚を上から見る機会が多いのですか?(いつもは左向きの魚を描くが、今日は真上からの絵を描いてみた。)
 どこの会場でも、だいたい皆さんの絵と同じです。ほとんどの方が左向きの魚を描かれます。振り返ってみてください。私は「左向きの魚を描いてください。右向きはだめですよ」とは言っていません。ですが、結果的にほとんどの方が左向きの魚を描かれました。このようなことがどうして起きるのでしょうか。(「料理では魚は左向きに出す」の声あり)
 そうですよね。料理での魚は左向きです。図書館にある魚の図鑑を見てください。図鑑に載っている魚の絵や写真の8から9割は左向きです。私たちは子どもの頃から「魚は左向き」を空気を吸うがごとく無意識のうちにとらえているのです。これを刷り込みと言います。この刷り込みが思い込みとなり、思い込みにマイナスイメージが加わって偏見となります。時としてこの偏見が差別心を生むことがあります。別の言い方をすると、何の合理的な根拠もなくして、人々が示すステレオタイプ化した非友好的な態度や考え方です。ある集団に属している人を一人ひとりの個性や特性で見るのではなく、集団をまるごと否定的に見てしまうことです。例えば 「ユダヤ人はお金にきたない」「黒人は怠け者」「同和地区出身者はこわい」など根拠に基づかない考え方などがあげられます。誤った予断や偏見の度合いが強くなると、差別意識となり、これが行為として現れた場合が差別となります。
 それで私たちは、正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、人権を守る行動へつなげることが大切なのです。
 このことを平成24年度中学生人権作文コンテストで文部科学大臣奨励賞を受賞した新潟県柏崎市立松浜中学校3年蓬田怜奈さんは、「聞いてください、私の思い」で次のように述べています。


 平成24年度中学生人権作文コンテスト文部科学大臣奨励賞
                          「聞いてください、私の思い」
                                               新潟県柏崎市立松浜中学校3年 蓬田怜奈

 大熊町。緑の木々と青い海に囲まれた自然豊かな私のふる里です。そして、あの原発事故が起きた町。私のふる里は一瞬にして「死の町」とまで言われる誰もが嫌い、イヤがる町になりました。それまで私にとっての「人権」とは人間が生まれながらもっている権利と学校の授業で習った程度で、特に気にもせず考えもしないただ聞いたことのある言葉でしかありませんでした。
 しかし、避難してからは、同じ福島県内でありながら、耳に入ってくる話は「福島ナンバーの車がいたずらされた」「転校していった子が放射能のことでいじめられた」などの悲しい話ばかり。私はこの話を聞くたびに、「またかぁ…」と自分のふる里がだんだんと嫌がられている事がとても悲しく思っていました。
 そんな中、私も一つの体験をしました。部活の大会の日のことです。
 「うわ、なんでいるの。放射能がうつる。帰れよ。」
 すれ違いざまに他校の生徒に言われた言葉です。私は、この言葉を言われたとき泣きたくなり、大会すらやる気がなくなりました。新聞やニュースなどで得た少しの知識だけでこういう風に思っている人がいると、聞いてはいたものの、残念で仕方ありませんでした。何気なく言った言葉だったのかもしれませんがその言葉は、大熊町に住んでいた私にとって非常に悔しく悲しいものでした。家に帰り、その出来事を母に話すと、母は別の話もしてくれました。ある小児科では、受診してくる地域の子供を守るため大熊の人は診察しない。ある保育所では、やはり預かっている子供を守るため近くに大熊の人の車を駐車させないという内容でした。自分の「人権」を守るためなら相手の「人権」は傷つけてもかまわないのでしょうか。私はまちがった情報が、そういうまちがった守りを生む、原発事故について、しっかり学び正しい知識を得ることが差別をなくすのだと気付きました。
 差別というのは、私たちのまわりでは身体の障害や病気を理由にした差別、性別・年齢国籍の違いによる差別など小さなことから大きなことまで本当によく耳にします。差別をしている側からすれば、それを冗談だという人も多いのです。たとえ冗談だとしても心ない言葉の一つ一つが相手をどれだけ傷つけるのか気づいてほしいものです。小学校の時から私たちは道徳などでいじめや人権などについて学んでいてもなかなかそれがなくならないのは、そういうせいなのかもしれません。私に言ってきたあの子達もそうだったのかもしれませんが、実際に差別されている側はみんなの想像よりはるかに傷ついているということ、つらいということ、そして悲しいということを私は、この人権作文を通して、たくさんの人に知ってほしいのです。
 最近は過剰なマスコミやメディアにでてくるコメンテーターの個人的感情が、ストレートに入ってきて私達の意識に大きな影響をあたえているような気がします。しかし、自分の体験を通して感じたことは、一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながるのだと思います。私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習することではないかと思います。我も人も自分らしく生きる。これが「人権」を尊重することだと思います。「人権」について考えること。それはとても難しいことのように思えますが、意外と簡単なことではないでしょうか。
 今、私が住んでいる柏崎は実際、放射能の心配がないせいなのか、それとも大熊町と同じように発電所が隣設されているせいなのかまったくそういったいやがらせはありません。私は改めて、そんな今があたりまえではないという現実を忘れてはいけないと思いました。同じ人間同士が平等に並んで歩くための権利。だれもが生まれながらにもっている大切なもの。自分も相手も同じひとりの人間として心に寄り添い、真実を見極め、理解し合う努力こそ、差別をなくし人権を守る大きな力になると思います。そして、私自身も差別や偏見、いじめがなくなるように強い心をもって、まずは自分から立ち向かっていきたいです。

 蓬田怜奈さんは、「一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながる」、「私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習すること」と訴えています。
 正しく学ぶことと同時に、毎日の生活の中で、迷信や世間体にとらわれることなく自分自身で考え、判断し、自分にできることを行動に移していきましょう。
 次のような場面であなたはどのような行動をとりますか。考えてみましょう。
 公民館講座の休憩時間に、5人の仲間が一つのテーブルの周りでお茶を飲んでいます。
 しばらくして、Cさんが誰にともなく、こんなことを話し始めました。


ああ、悩んじゃうわ。30歳になる私の息子にやっと結婚したい人ができたらしいのよ。「どんな人かな」と思って、息子に「その女性のこと調べた?」と話したら、「今時そんなことをするなんておかしいよ」と言われてしまったの。
 そんなこと、私もわかっているのよ。でも、調べてみないとどんな人か分からないでしょ。もし、同和地区の人だったら、私はよくても・・・・・親戚が何て言うか分からないし・・・・。息子は分かってもきっと「結婚する」って言い切ると思うの。息子の話を聞いていると、相手はとっても素直ないい人みたいで・・・・でも、やっぱり、相手の女性のことを調べてみた方がいいかなあ。

Aさん 無関心な人
Bさん 迷っている人(傍観)
Cさん 人権侵害をしようと    している人
Dさん 関わりたくないと思って   いる人(傍観)
Eさん 注意しようとしている人

 Aさんは、「私には関係ないこと」というように会話に参加しないで本を読んでいます。こんな無関心でよいでしょうか。数年前、熊本県人権子ども集会で、高校生が部落差別と闘っていることを発表しました。「あそこって部落よね。」という友達の発言を両親や担任の先生と話し合い、当人だけでなく他の親しい友達にも自分が差別と闘う生き方をしていることを話しました。すると、友達は、「あなたがどうだと言うことは関係なか。私たちは友達よ。」と言ったそうです。高校生は、「関係なかではない。部落差別をする側に立つのではなく差別をなくす側に立って欲しい。共に差別をなくす仲間になって欲しい。」と差別をなくす仲間を一人でも多く増やしていきたいと熱い思いを訴えました。
 「部落差別は関係なか」ではないのです。私たち一人ひとりに関係があります。皆さんの家族のどなたかの結婚話がでたとき、事例のようなことが起きないとも限りません。事例のような人権侵害を起こさせないためにも部落差別を始めあらゆる差別を他人事として受け止めるのではなく自分のこととして受け止め、みんなが幸せに暮らせる世の中になる努力を続けましょう。
 Bさんは、「そんなことおかしいわよ。人権侵害よ」とCさんに伝えようかどうしようかと迷っています。傍観者の一人です。人権侵害を傍観していては差別はなくなりません。してはいけないことはしてはいけないとはっきり言うことが大切だと思います。
 Cさんは、いわゆる身元調査をすることが人権侵害だと言うことを自覚していないようです。なぜ、結婚相手が同和地区の人だったらいけないのでしょうか。人は誰でも差別を受けたくありません。それで、自分は差別を受ける側になりたくない、自分の子どもには、差別を受けさせたくない。自分の子が部落出身者と結婚したら子も部落出身者と見なされ、差別を受ける不幸に見舞われる。そんなことは何としても避けなければという我が子への親の愛情が結婚差別となって表現されているのです。同和地区の人と親戚になれば、自分たちまでもが部落出身者であると見なされかねないという「みなされる」ことへの恐れがあるのです。自分自身が同和地区の人々に対する差別意識があることです。「みなされること」への恐れそのものが差別であることを説いていくことです。
 Dさんも、できるならこんなことには関わりたくないと思っているようです。Dさんも傍観者です。傍観していることはCさんの差別心をそのままにしておくことで人権問題の解決にはならないことを説いていきたいと思います。
 Eさんは、そんな考えはおかしい、人権侵害だと注意しようとしています。人権侵害だとCさんを諭すことはとても大事なことです。諭してCさんに正しく理解してもらわねばなりません。ですから、身元調査をすることは人権侵害であることを丁寧に話して欲しいと思います。
 約束の時間になってしまいました。「一度きりのお子様ランチ」そして桑原律さんの「人権感覚って何ですか」は後でぜひ読んで欲しいと思います。
 「一度きりのお子様ランチ」では、レストランの店員さんが心温まる接客をしています。まさに自分にできることを行動に表すことのすばらしさを私たちに示してくれています。
 「人権感覚って何ですか」は、私たちに人権感覚とは何かを分かりやすく具体的に示してくれています。
 終わりに論語の言葉を引用して話を終わります。
 皆さんご存じのように論語は、孔子の言葉を門弟たちがまとめたものですね。その門弟の一人、子貢と孔子の問答があります。衛霊公第十五412
   子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
   子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
があります。
 口語訳は

 子貢が、「私が、先生から教えられた、たった一文字、その文字を大切に生きれば、人間として誤らずに生を全うできる、こういう字があったらお教えください。」
 そこで、孔子は、「子貢よ、それは恕という字だよ。常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさと思いやりのことを言うんだ」と。
 しかし、子貢がよく分からないようすだったので、「そうだな。自分がいやなことは人にしてはならない!」とおっしゃったと解説にはあります。
 「恕」とは、相手の身になって、思い・語り・行動することだそうです。
皆さん、声に出して一緒に読んでみましょうか。
   子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
   子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 ありがとうございました。
 恕の精神、つまり優しさを常に持ち続けたいものです。
 長時間のご静聴ありがとうございました。


                                感想

・個々の家庭で食事中等でも人権等について話題を持ち出したり、常日頃より興味を持つ事が大切と思う。小さい時からの学校はもとより家庭でも話しをして育てる、子に教えられ子に教えの繰り返しです。

・ありがとうございました。正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って物事を考えられる一人の人間になるよう努力します。

・とても勉強なりました。偏見や差別意識はないと自分では思っていたが、やはり少し偏った考え方があることが分かった…。しっかり極めていきたいです。

・会場が寒かったが、正しい知識を勉強することができよかったです。

・とても考えさせられる研修会でした。ありがとうございました。

・固定観念、偏見、すり込み、差別、人権感覚を持って、日頃生活すべきこと大切を改めて感じることができました。

・多くの人に参加してほしい。


・様々なタイプの人権問題を例に挙げてもらい、わかりやすい研修だったと思います。