美しく生きる 学びのススメ
平成12年度 御船町カルチャーセンター講座開講式
平成12年6月


1 はじめに
 甲佐小学校の中川です。「ありとし」と言います。「紀」は1世紀、2世紀の「紀」です。「年」という意味があります。親父が「年を重ねて、年相応の人間になれ」という願いから名付けたと聞いていました。自分では努力しているつもりですが、なかなか年相応の人間にはなれません。
 今朝は小坂の農免道を来ました。田植え真っ盛りです。甲佐小学校でも、先週の土曜日に田植えをしました。水着で田植えを考えていたようですが、作業服を着て田植えをさせました。
 私は昭和18年生まれです。農家の長男として生まれました。昭和20年代、30年代のことです。このころの農家は忙しくて休みなどほとんどありませんでした。
 久しぶりに雨が降ると、「今日は昼からうりよけ」と区長さんがふれ回っていました。その「うりよけ」が唯一の休みです。そんな休み時、親父たち男は世間話、作柄の出来具合の話に興じていました。私はそんな世間話を聞くのが好きだったものですから、よく話の輪の中に入っていました。たいていは自慢話が多かったように思います。お金をもうけた話、けんかの話、どこかの女性にもてた話などなど。中には作付けや肥料のやり方、牛の肥育の仕方などもありました。これなどは、今で言う職業能力の向上につながる生涯学習の一つでしょう。
 お袋たち女性は、衣服の繕い物をしたり、洗濯をしたりで休みといってもそんなに休養をとることはできなかったようです。たまには「今日はごちそうばつくろうか」と、からいもで「いきなりだご」をつくって食べることがありました。私はからいもを包み込むのが上手でよく誉められたものでした。
 できたいきなりだごは、お裾分けで隣近所にも少し持っていってあげました。そこに連帯感がありました。
 当時はこのようなことをして、忙しい中にも心豊かなひとときを過ごしていました。当時の生活の知恵でしょうか。
 職業能力の開発・向上、そして心豊かに生きるということは、当時はもちろん生涯学習なんぞの考えもなかったのですが、生き方の学習はしていたのですね。

2 生涯学習の時代
 現在は、生涯学習の時代といわれています。本日の開講式にたくさんの方がおいでになっているように、どこの町でも公民館講座やカルチャースクールでの講座で学んでいる方は大勢です。
 この生涯学習という考えも10年ほど前は、いろんな理解ちがいがあったのです。その一部を紹介します。私は生涯学習3つの理解ちがいと言っていました。
 一つは、「今さら学習なんて」という理解違いです。二つは、「忙しゅうして学習どこっじゃなか」という理解違いです。そして三つは、「生涯学習って社会教育のこつでしょうが。学校教育には関係なか」という理解違いです。
 「今さら学習なんて」という理解ちがいを紹介します。
 「やっと、子どもを育てあげた。さぁー、これから自分が好きなこつばするばい。と思っていたら公民館から「勉強するぞ」、「学習するぞ」と言いなはる。もう、のさん」
 この方は学習とは、本とノートと鉛筆で机に向かってするものと思いこんでおられます。そして、強制的にさせられるもの、おもしろくないものと思いこんでおられます。もちろん、本とノートと鉛筆で机に向かってする学習も生涯学習の一つです。ですが、生涯学習とはそればかりではありませんね。本日のように誰かの講演を聴いて、知識を広めるのも生涯学習です。ゲートボールやグランドゴルフに興じ、心豊かに生きるのも生涯学習の一つです。
 次は「忙しうして学習どこっじゃなか。生涯学習なんて暇人のするこつたい」の理解ちがいです。
この方は生涯学習を公民館などで絵を描いたり、俳句を詠んだりして学ぶことを生涯学習と思いこんでおられます。もちろんそんなことも生涯学習の一つです。しかし、生涯学習の中には、「職業能力を高める」ことも大きな生涯学習の一つです。極端な人は「スリがいかにして相手にわからないように財布を盗むかの盗み術を学ぶことも生涯学習の一つだ。しかし、これは反社会的な行為であるから公民館講座には開講されていないのだ」と言っています。
 最近では、忙しい人ほど、インターネットで世界の情勢を入手して経済の状況を分析したり、通信教育でコンピュータの使い方を学んだり、同僚に仕事の方法を聞いたりしています。これも生涯学習です。忙しい人ほど生涯学習に取り組んでいるのです。
 3番目は「生涯学習なんて、学校には関係なか。生涯学習は社会教育を言い換えただけんこつ」という先生も多かったのです。
 いま、こんなことを言う先生はいません。今の学校教育は、学校完結型の教育から生涯にわたって学ぶ教育への転換を図っています。小・中学校の教育を生涯にわたって学ぶ基礎作りの場としています。私は先生方に、「生涯学習の視点から教科書を見て、子どもに指導してください」と強く求めています。
 小・中学校時代に自己実現と言って、「自己存在感」、「自己有用感」を強く味わったことのある人ほど、第2の人生で学習意欲旺盛で心豊かに過ごしているという調査結果があります。本日の開講式に出席の皆様はきっとそうだったことと思います。子ども達にこのような自己実現の場を数多く持たせることを先生や保護者に言っています。
 生涯学習の定義は、人それぞれです。ここでは、次のようにしておきたいと思います。
 生涯学習は一人ひとりが生涯にわたって、個性、能力を伸ばして自己実現を図り、豊かで、美しく、生きがいのある、充実した生活を送れるよう、学習を進めていくこと。

3 豊かに生きる
 「人間はよく生きようとする存在である」これは、アメリカの心理学者マズローの言葉です。
 マズローは人の欲求を、5段階欲求階層で表しています。
 第1段階が「生理的欲求」です。
 これは、おなかが空いたので食事をしたいとか、ねむたいので眠りたいなどの人間が生きていくうえで、必要不可欠の欲求のことで、本能的な欲求のことです。
 第2段階が「安全欲求」です。
 生理的欲求が満たされたら、次に人間は自分の身を守ろうとします。これが安全欲求です。
 第3段階が「愛情の欲求」です。
 生理的欲求、安全欲求が満たされると、家族など自分を暖かく迎えてくれる集団を求めるようになります。これを親和の欲求と言います。愛情の欲求とも言います。
 第4段階が「自我の欲求」
 愛情の欲求を叶えると、社会の中で仲間として認められたいという欲求が出てきます。これを自我の欲求といいます。名声とか地位とか、良い車に乗ってブランド品を身につけたいなどの欲求がここに当てはまります。
 第5段階が「自己実現の欲求」です。
 自分自身の理想を追求したいと思う欲求です。より自分自身を向上させ、自分自身を最大化させようと思う欲求です。
 人間はただ生きるだけでなく、よりよく生きることを求めています。ただ単に、食べて、着て、寝るというだけならば、動物と何ら異なるところはありません。人間の心は常に何かを欲し、何かを求め、志向しているのであって、何かを欲し、求め、期待し、あこがれを持つということは、人間がよりよく生きようとしているあらわれです。よりよく生きるとは、生き生きとその人らしく生きることです。自分が納得のいく生きがいのある人生を送ることです。自己実現を図ることです。
 マズローは、自己実現欲求を人間の最高の欲求としています。そのために、人は自分で学び、自分で考え、自分で計画し、自分で工夫し、自分で実践し、活動し、自分で創造し、働くのです。

4 美しく生きる
 人間がこの地上に生存するようになってから今日まで、その悲願として「不老長寿」への努力を積み重ねてきました。不老長寿は遠い昔から人々の夢でした。秦の始皇帝は秦皇島(チンホワンタオ)で海に向かって神に不老長寿を祈ったとあります。また、徐福に命じて世界に不老長寿の薬を求めさせたとあります。日本にも徐福にまつわる話があちこちにあるようです。
 日本はこの始皇帝の夢を現実のものとしました。
 平成9年10月1日現在の推計平均寿命によると、男が77、19才、女が83、82才です。
インターネットで調べた平均寿命の国際比較によりますと、男の平均寿命が75才を越えている国は、香港、アイスランド、スイス、スウェーデン、オーストラリアです。女子の平均寿命が81才を越えている国は、香港、スイス、スウェーデン、フランス、カナダです。
 さらに「人生100年時代」をめざして、100歳以上の高齢者が年々増加しています。
 18世紀のフランスの哲学者J・Jルソーは著書「エミール」のなかで、「生きるということは、ただ息をすることではなくて活動することである。最も長生きしたというのは、最も長い年月を生き延びた人というのではなくて、最も強く生命を感じ取った人のことである。世の中には100年も長生きをして葬られた人もいるが、それだけでは生まれてすぐ死んだ人と同じではないか」と述べています。
 人間にとって1番大切なことは、たとえ寿命は短くても、あの人は立派に、充実感や生きがいを持って生きた人だと言われるような人生を送ることにあったと思われます。
 人生は長さだけではなく、幅や深さ、そして質もあるのです。そこで重要なことは「生涯青春」という気力を持って生き生きと生き、美しく生きるために、何か情熱を燃やし続けること、心を燃やし生きることです。心が燃えると言うことは何歳になってもすばらしいことです。
 生活の中に緊張と燃えるものを持っている人は、常に生き生きとしていて美しいものです。若さの秘訣は自分に適当な負荷をかけ、精神的な張りを持つことと思います。
 サムエル・ウルマンという人は、「青春」を次のように言っています。資料を見てください。
青春とは、人生の或る期間をいうのではなく、心の様相をいうのである。
すぐれた想像力、逞しく燃ゆる情熱、怯懦(臆病で意志の弱い様子の意味)を退ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心。
こういう様相を青春というのである。
年を重ねただけで、人は老いない。理想を失うときに、初めて老いが来る。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに、精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑(あれこれ疑問が多くて決心がなかなか付かない意味)や、不安、恐怖、そして失望。こういうものこそ人を老いさせ、精気ある魂をも腐らせてしまう。年は七十歳であろうと、十八歳であろうと、その胸中に抱き得るものは何なのか。
いわく「驚異への愛慕心」。
空にひらめく星晨(星の意味)。その輝きにも似たる事物や思想への欽仰(尊び敬う意味)。あらゆる事に処するに剛毅な闘志。小児の如く求めてやまぬ探求心。人生への歓喜と興味。
人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。
人とは自信とともに若く、恐怖とともに老いる。
人は希望ある限り若く、失望とともに老い朽ち去る。
以上を反芻し、それを日常の心構えとして、精神の若さを保ち、必ず長命し、そして社会に貢献するのが、この世に生を受けた人間の努めである。
 熊本には「助け合い、励まし合い、志高く」という熊本の心があります。
 この言葉は老いも若きも、男も女も、家庭でも、学校でも、地域でも、持って欲しい言葉です。
とかく、地域の連帯感が薄れているといわれます。公民館講座で学ぶ人たちが、同じ地域に住む人たちが、「助け合い、励まし合う」生き方をすれば、地域の連帯感も生まれます。このような学習で学んだことをもとに、地域で助け合うことが共に生き、共に学び、共に育つことだと思います。
そこから生きがいが生まれます。「生きがいは、自分という存在がだれかのためになり、だれかの役に立ち、だれかに必要とされ、だれかから尊敬され、だれかから愛され、だれかを愛するという出会いや人間関係の中に見いだすことができる」、まさに自己実現です。

5 生涯学習のすすめ
 最後に資料として付けている拓本を見てください。江戸末期の儒学者、佐藤一斎の「言志四録」の一説にある、いわゆる三学の教えです。
少にして学べば 即ち壮にして為す有り
壮にして学べば 即ち老いて衰えず
老にして学べば 即ち死して朽ちず
 高齢になっても学ぶことを進めています。まさに生涯学習のすすめです。このような生涯学習のすすめはたくさんあるのですよ。生涯学習と言っても個人的な生涯学習のことです。
 例えば、孔子は論語の中で「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲するところに従いて規を踰えず」があります。これは、15才で学問に志し、30才で1本立ちし、40才で迷いがなくなり、50才で使命を悟り、60才で人の言葉がすなおに聞けるようになり、70才で自分の思うままに行っても行き過ぎがなくなったということで、人間修行は70才にならなければ完成しないとしています。つまり生涯学習です。
 福沢諭吉の「学問のススメ」は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を思い出します。次に続く言葉があるのです。「いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いのし方、そろばんの稽古、天秤の取り扱い等を心得、なおまた進んで学ぶ箇条は甚だ多し」とあります。諭吉は読み、書き、そろばんという実学を進めたのです。
 武者小路実篤は「桃栗三年、柿八年、達磨は九年、俺は一生」と言う言葉を残しています。
 学習することによって、老年に降伏せず、「心にシワなし」の人生を生きたいものです。

6 家庭教育への支援
 最近の青少年の驚くような犯罪にはどなたも心を痛めておられることと思います。
 ゴールデンウィーク、日本中が楽しい期間を過ごそうと思っていた5月3日、佐賀県の少年が日本中を震え上がらせたバスジャックという大事件を起こしました。
 愛知県では、誰でもいいから人を殺してみたかったと見ず知らずの女性を刺し殺しました。そのほか、青少年の問題行動が新聞で報道されない日はないようです。
 今ほど家庭教育の重要性が叫ばれているときはないでしょう。家庭教育の重要性は、子ども達が心豊かで健やかに育つ基礎づくりばかりではありません。三つ子の魂百までと言われることは、生涯学習にも当てはまります。生涯学習の基礎は「三つ子の魂百まで」です。
 脳の重さの変化を調べてみました。あくまでも平均的なものですが、新生児の脳は約400グラムだそうです。これは体重の約10%にあたるそうです。それが、生後6ヶ月では 約2倍になり、
4歳程度では、1100〜1300グラムになるそうです。つまり、人間の脳はこの時期までに8割から9割が完成するのだそうです。
 驚くべきことですね。人間の脳は4才程度までに、8割から9割が完成するとは。
 皆さんはオオカミに育てられたカマラという少女のことを知っていることと思います。この少女は生まれて間もなくオオカミにさらわれて、8歳までオオカミに育てられました。その後、人間の村に連れ戻された少女は、牧師夫妻によって人間らしさを取り戻し、17歳で短い生涯を終えたのです。村に連れ戻されたときのカマラは、裸で4つんばいで歩き、昼は眠り、夜になるとはい回るなどしていたのです。
 この少女は間違いなく人間であったわけですが、育った過程が人間の生活の中ではなかったことから、人間としての文化的経験、つまり学習が身に付いていなかったのです。素質や生物学的な条件はすべて人間であっても、その後の経験、学習が人間のものでなければ脳の発達も、体の運動能力もみな人間的にはならなかったという証明です。
 そこで、脳の成長の最も急速な3才から4才までの子どもにどのような刺激が与えられたかが、その後の子どもの成長、発達に重要な影響を持ってくるのです。
 この乳幼児期に母親のお乳をすい、温かい肌のぬくもりを感じ、優しい人柄にじっくりふれることが子どものその後の成長、発達に決定的とも思える影響を与えるのです。特に、この時期には、心の安定が何よりも大切と言われています。意地悪や暴力を振るう子どもは、この時期の育ち方に問題があったと聞きます。
 赤ちゃんに働きかける周りの者たちが、赤ちゃんに適度な刺激を与えるなら赤ちゃんの脳は順調に発達します。
 「母なる大地」という言葉があるように、すべてのものを受け入れ、優しく包み込みながらも、ある時は突き放し、励まし、自分がその底に持っている養分を子どもに吸い取らせて、立派に独り立ちできるように育て上げ、大地のような優しさと強さを持つのが母親です。滋味豊かな大地には草木や作物が豊かに育ちます。
 また、「父なる河」という言葉があります。人間社会の文明は、ティグリス・ユーフラテス河やナイル河、黄河などの大河の流域から発生していることでもわかるように、人は河から様々な恩恵を受けて、豊かな人間社会を創り上げてきました。河は大地のように草木や作物を育てはしませんが、大地を潤し、養分を与えて大地を肥沃にします。それによって草木や作物は大きく豊かに育ちます。だからこそ、河は父と呼ばれているのでしょう。
 滋味豊かな大地には草木や作物が豊かに育つ。河はその大地を潤し、養分を与えて大地を肥沃にする。「母なる大地」「父なる河」は、母親、父親のあり方を問い直す家庭教育の視点を見つめ直す視点の一つであろうと思います。
 小学1年生が書いた詩を読みます。聞いてください。
  ゆうがた 
  おかあさんといちばへいった
  かげがふたつできた
  ぼくは 
  おかあさんのかげだけ
  ふまないであるいた
  だって 
  おかあさんがだいじだから
  かげまでふまないんだ 
 作者のお母さんへの思いに心が打たれます。 愛情深く子どもに接しているお母さん。それをしっかりと受け止めている子ども。 親子のつながりの深さを伺い知ることができます。まさに、滋味豊かな大地にすくすくと育っている子どもの姿を見る思いです

7 学校教育への支援
 「生きる力」が学校教育のキーワードです。
 元総理大臣であった橋本さんは6大改革を提唱し、その中の一つに教育改革を掲げました。今はその教育改革の実施の年です。
 4年前、文部大臣の諮問機関である中央教育審議会は、「教育は子どもたちの自分探しの旅を扶ける営みである。」として、「ゆとりの中で生きる力を育てる。」を提言しました。
 「学校・家庭・地域での子どもたちの生活には、時間的にも精神的にもゆとりがない、自分の興味のあるものにじっくり取り組んだり、分かるまで学んだりするゆとりを学校に取り戻そう」、「学習も知識の量より学び方や学ぶ意欲を育て、学ぶ喜びを味わわせ、その後の学習に生きてはたらく基礎的・基本的なことを教えよう」、「学習の中で疑問が生じたらそれを解決するために自ら学習する意欲や態度を育てる教育、つまり、知識を伝える学校から知恵を育てる学校へ転換しよう」と提言しました。これが生きる力につながるというのです。
 「生きる力」を育てる核となる時間として「総合的な学習の時間」が登場しました。どのようなことを学習するのかについては、学校に行かれて校長・教頭先生に尋ねてみてください。子ども達の学習の場が学校から地域へと拡がります。学校で学んで得た知識や技術が毎日の生活に生きて働く知恵に変わることを目指します。
 また、平成14年度から学校は週5日制となります。これを土曜・日曜が休みととらえるのではなく、家庭・地域社会2日制ととらえて欲しいのです。つまり、学校・家庭・地域が連携することによって学校で学んだことを家庭・地域での生活に生かして、土曜・日曜日を生活の知恵を養う機会とするのです。学校では学ぶことができないものを地域で学び、自分の生き方を探していくのが学校週5日制の真の目的です。
 皆さん方の中には、和歌や生け花、舞踊などをされている方も多かろうと思います。その方々が地域の子どもたちにそれらを教えていただきたい。学ぶ楽しさを伝えていただきたいのです。
 となりのおじさん、おばさんから、あるいはおじいさん、おばあさんから生け花を教えてもらうことが子どもに感動を呼び起こします。子どもは日頃見かける部分とちがうものを発見します。
 こういう意味から、皆さん方に期待しています。学校教育への支援をお願いします。

8 おわりに
 熊本の心「助け合い、励まし合い、志高く」の話をしましたが、熊本にはもう一つの熊本の心というか精神があります。
 それは「おてもやんスピリッツ」です。この精神を持って人生を豊かに生きたいものです。
 熊本が誇る民謡といえば「おてもやん」です。江戸末期、永田いねという人の作詞作曲といわれています。この民謡は、独特の熊本弁で、陽気で熊本人特有のユーモアと風刺に支えられています。
 ところどころ歌詞を拾ってみると、
 「あん人達のおらすけんで あとはどうなァと キャアなろたい」
 なんとおおらかなことでしょう。小さいことにくよくよしない熊本人の性質を言い表しているようです。
 「私アあんたに ほれとるバイ ほれとるバッテン 言われんたい」
 最近では、好きだ嫌いだとストレートに言う若者が増えていますが、なんと慎ましいことでしょう。このような慎ましい心を持ちたいものです。
 「男ぶりにはほれんばな 煙草入れの銀金具が それが そもそも 因縁たい」
 これには熊本人の目の付け所がわかります。「男前、見てくれ」の外見だけでは惚れません。持ち物にも目を付けなけりゃと言っています。
 今年1年、御船町で生涯学習講座を受講される皆さん、「おてもやん」つまり熊本人の持っている県民性、つまり「おてもやん スピリッツ」にもさらに磨きをかけ、豊かで張りのある人生を送りましょう。
 長時間のご静聴ありがとうございました。

 


                              おてもやん

                     おてもやん
                     あんたこの頃 嫁入りしたではないかいな
                     嫁入りしたこた したバッテン
                     ご亭どんが 菊石面 だるけん
                     まァだ盃ァ せんだった
                     村役鳶役肝いりどん
                     あん人達のおらすけんで
                     あとはどうなァと キャアなろたい
                     川端町ツアン キャア めぐらい
                     春日南瓜どん達ア 尻ひっ張って
                     花盛り 花盛り
                     ピーチク パーチク 雲雀の子
                     玄白なすびの イガイガどん

                     一つ山越えも一つ山越え あの山越えて
                     私アあんたに ほれとるバイ
                     ほれとるバッテン 言われんたい
                     追い追い彼岸も 近まれば
                     若もん衆も 寄らんすけん
                     熊本の夜聴聞詣りに ゆるゆる話も
                     キャアしゅうたい
                     男ぶりにはほれんばな
                     煙草入れの銀金具が それが
                     そもそも 因縁たい
                     (アカチャカ ベッチャカ チャカチャカチャ
)