文化・自然

途別温泉は歌人「牧水」ゆかりの地

「温泉施設」                                   町内には、現在三カ所の温泉施設があります。その起源は、加藤温泉(明治39年)、黒田温泉(大正元年)による開業であったとされています。                                  場所はJR札内駅から、南方向2kmの位置にあり、途別川に架かる吐月橋を渡った日新坂の登り口に、隣りあわせで営業していました。                                        その後、新たな温泉を作ろうとした跡が、今も途別川堤防下で勢いよく吹き出ています。黒田温泉は20〜21℃の冷泉のため、周辺の恵まれた森の資源の薪を使って、沸かしていたそうです。      最盛期にはここ札内市街周辺に、4〜5件程度の温泉施設があり、相当の税収にもなっていたとのことです。特に、温泉開発は十勝川温泉よりも早かったとされています。

吐月橋周辺
吹出の源泉

「歌人若山牧水」                               放浪の歌人であつたとされる牧水は夫人と伴って、大正15年10月18日〜22日の5日間を、網走からの途中この地にあった黒田温泉に宿泊、旅の疲れを癒しながら、情景を詠んだとされています。別れの際は、滞在の思いに感銘し再会の約束をしましたが、翌々年の昭和3年に他界し、二度と訪れることは有りませんでした。
  歌碑は昭和12年、「創作」社友や有志の呼びかけ、牧水ゆかりの地として、廃業していた黒田温泉横に建立。老朽化した温泉施設は、その後にとりこわされています。旅の先で詠んだ直筆「幾山河」の短冊を、牧水の実弟から借り受け碑に刻んでいます。
 幾山河こえ さり行かば                          寂しさのはてなむ 國ぞけふも旅ゆく(牧水)
 今は、日新坂を登り切った丘の上に移転されていますが、訪れる多くの人に懐古の感情を一層魅了させています。


若山牧水歌碑
 これらの施設は丘の上に移転され、近代的な温泉施設のほか、幕別の開拓資料舘、パークゴルフ俳句コース、テニスコート、球場などが整備されています。また、ライフスタイルの拠点ともなっていますが、自然学習の場としても最適です。

十勝の農業のはじまり

開拓に奔走した依田勉三

依田勉三碑
開田の碑
(勉三の生い立ち)                                 依田勉三は、嘉永6年5月15日伊豆屈指の豪農に生まれる。幼少より学舎や塾に学び、語学をはじめとする教えを受けています。また、上京して最高学部の慶応義塾に学び福沢諭吉先生の薫陶も受けています。大正14年12月12日、帯広町西2条10丁目自宅で逝去され、享年73才でした。                                  (農本思想)                                      そのころ伊豆地方は二宮尊徳の農本思想の影響と感化を受け開拓報国の雄志を抱くようになったそうです。明治14年には、北海道開発の宿志を家人の同意を得て、単身で本道の開拓地を探査しています。 明治15年、一族で晩成社を組織、副社長となり鈴木銃太郎と十勝川をさかのぼり原始境あった帯広を開拓地と決め、明治16(1983)年依田勉三率いる13戸の農業者が帯広(オベリベリ)に入植したのがはじまりとされています。
(開田の地途別)                                    勉三は明治33年、現在の札内南小学校、瑞穂公園に入植させ開田に着手しています。
  この年に1町7反歩(約1.7ha)の試験作付けによって、1反部当たり、1俵半の収穫があったとされています。稲作が軌道に乗りだしたのは、大正時代になってからだと言われています。今日の機械化時代に創造することのできない困難があったようです。昭和7年の晩成社解散時には、200町(約200ha)余りの田畑が存在したそうです。         

開田の伝統を継ぐ途別小学校

     途別小学校
田植えをする児童
(教育の特色)
 帯広市に隣接する幕別町の西側途別川沿いに位置し、開校104年を迎える学校です。当校の児童は26名で、小規模特認校に指定されており通学区域も途別、日新、上稲志別地区のほか、札内地区から6名が通学しています。
  教育指導の方針は豊かな自然環境の中で、田や畑作業の体験学習を通じ、自分たちで育て収穫した作物を料理し、味わう「食農教育」を実施しています。平成17年には「全国地域にねざした食育コンクール2004」において、優秀賞の栄誉を受けています。また、地域の文化や歴史を守る心を養う「途別百年太鼓や田植え踊り」など、芸能に触れる「表現教育」にも力を入れています。
(恒例の田植え)
  今年も校内で、保護者の見守る中恒例の田植えが行われました。児童は作業に先立ち、先生の和太鼓に合わせ、豊作を祈る田植え踊りを披露しました。その後、昔ながらのかすりの着物にすげがさの衣装で、70平方メートルの水田に、農家から提供していただいたもち米とうるち米の苗を植えました。秋の収穫では、もちやおにぎりにして食べるということです。
  この田植えは、20年前(昭和62年)に途別地域で、ただ一軒残っていた水田農家がやめたことを受けて、同校で伝統を途別地域で引き継ぐことを決め、翌年からはじめています。

       訪問して、交流してみてはいかがですか? 
 内容については、幕別町ふるさと事業委員及び途別小学校の協力の下で掲載させて頂いています。

忠 類 ナ ウ マ ン 象

(発掘の軌跡)
  忠類ナウマン象化石は1969年、旧忠類村晩成の農道工事で、発見されたそうです。                   忠類ナウマン象の生息年代は土質や植物化石、花粉化石の調査などから、約12万年前とされている。当時の気候はブナが成育していたとされ、現在より幾分温暖な時期であったとようです。また、ナウマン象が埋没した環境として、降雨などの増水に時は河川の流路となることもあった川沿いの沼であったといわています。              ナウマン象は、氷河時代の寒冷な気候に適応しながら、日本列島や東アジア大陸に生息していたようです。日本では忠類をはじめとし、瀬戸内海や日本海の海底、長野県野尻湖などで発見されています。              (発掘の状態)                             発掘されたナウマン象は雄(推定)25才前後で、沼地に足を取られた格好で埋まっていたようです。その状態は、ほぼ一頭(80%)、47個が収容され、京都大学名誉教授亀井節夫氏の指導によって復元されました。         骨格は、全長4.3m、頭の高さ2.4m、背の高さ2.2m、牙1.8mで、頭の大きな象であったようです。 

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