文化・自然 |
|
十勝の農業のはじまり |
|||||
開拓に奔走した依田勉三 |
|||||
|
(勉三の生い立ち)
依田勉三は、嘉永6年5月15日伊豆屈指の豪農に生まれる。幼少より学舎や塾に学び、語学をはじめとする教えを受けています。また、上京して最高学部の慶応義塾に学び福沢諭吉先生の薫陶も受けています。大正14年12月12日、帯広町西2条10丁目自宅で逝去され、享年73才でした。
(農本思想)
そのころ伊豆地方は二宮尊徳の農本思想の影響と感化を受け開拓報国の雄志を抱くようになったそうです。明治14年には、北海道開発の宿志を家人の同意を得て、単身で本道の開拓地を探査しています。 明治15年、一族で晩成社を組織、副社長となり鈴木銃太郎と十勝川をさかのぼり原始境あった帯広を開拓地と決め、明治16(1983)年依田勉三率いる13戸の農業者が帯広(オベリベリ)に入植したのがはじまりとされています。 (開田の地途別) 勉三は明治33年、現在の札内南小学校、瑞穂公園に入植させ開田に着手しています。 この年に1町7反歩(約1.7ha)の試験作付けによって、1反部当たり、1俵半の収穫があったとされています。稲作が軌道に乗りだしたのは、大正時代になってからだと言われています。今日の機械化時代に創造することのできない困難があったようです。昭和7年の晩成社解散時には、200町(約200ha)余りの田畑が存在したそうです。 |
||||
開田の伝統を継ぐ途別小学校 |
|||||
|
(教育の特色) 帯広市に隣接する幕別町の西側途別川沿いに位置し、開校104年を迎える学校です。当校の児童は26名で、小規模特認校に指定されており通学区域も途別、日新、上稲志別地区のほか、札内地区から6名が通学しています。 教育指導の方針は豊かな自然環境の中で、田や畑作業の体験学習を通じ、自分たちで育て収穫した作物を料理し、味わう「食農教育」を実施しています。平成17年には「全国地域にねざした食育コンクール2004」において、優秀賞の栄誉を受けています。また、地域の文化や歴史を守る心を養う「途別百年太鼓や田植え踊り」など、芸能に触れる「表現教育」にも力を入れています。 (恒例の田植え) 今年も校内で、保護者の見守る中恒例の田植えが行われました。児童は作業に先立ち、先生の和太鼓に合わせ、豊作を祈る田植え踊りを披露しました。その後、昔ながらのかすりの着物にすげがさの衣装で、70平方メートルの水田に、農家から提供していただいたもち米とうるち米の苗を植えました。秋の収穫では、もちやおにぎりにして食べるということです。 この田植えは、20年前(昭和62年)に途別地域で、ただ一軒残っていた水田農家がやめたことを受けて、同校で伝統を途別地域で引き継ぐことを決め、翌年からはじめています。 訪問して、交流してみてはいかがですか? |
||||
内容については、幕別町ふるさと事業委員及び途別小学校の協力の下で掲載させて頂いています。 |
忠 類 ナ ウ マ ン 象 |
|||
(発掘の軌跡) 忠類ナウマン象化石は1969年、旧忠類村晩成の農道工事で、発見されたそうです。 忠類ナウマン象の生息年代は土質や植物化石、花粉化石の調査などから、約12万年前とされている。当時の気候はブナが成育していたとされ、現在より幾分温暖な時期であったとようです。また、ナウマン象が埋没した環境として、降雨などの増水に時は河川の流路となることもあった川沿いの沼であったといわています。 ナウマン象は、氷河時代の寒冷な気候に適応しながら、日本列島や東アジア大陸に生息していたようです。日本では忠類をはじめとし、瀬戸内海や日本海の海底、長野県野尻湖などで発見されています。 (発掘の状態) 発掘されたナウマン象は雄(推定)25才前後で、沼地に足を取られた格好で埋まっていたようです。その状態は、ほぼ一頭(80%)、47個が収容され、京都大学名誉教授亀井節夫氏の指導によって復元されました。 骨格は、全長4.3m、頭の高さ2.4m、背の高さ2.2m、牙1.8mで、頭の大きな象であったようです。 |
|
次をクリックして下さい!entai.html へのリンク