文化・自然 |
◇兵士や武器を敵陣から防護する簡易な土木作工の洞窟を、掩体壕(えんたいごう)と呼ぶ。 | |||||
|
太平洋戦争中の昭和19年は、本土決戦によるゲリラ戦の準備が余儀なくされた。十勝もその主要な陣地となったことから、大樹町を本官とする部隊が各地域に設置された。本町にも、その役割を果たすため、国道38号線沿いの東13号線北側に兵舎と野戦病院、南側(白人小学校周辺のパークゴルフ場)には、朝鮮人労働宿舎と馬廠(ばしょう)が、設置された。 これらの施設に必要な物資(蹄鉄、医薬品、アルコール、寝具、缶詰などの食糧のほかに50Kg爆弾)を保管するため、東11線と12線の間、JR根室本線沿い西側の山腹に掩体壕が設置されていた。 この掩体壕の設置は、朝鮮人労働によって、下幅が6m、上幅4m、高さ3m、奥行き30mの丸太組による坑道掘進の工法がとられた。 洞窟には「幡龍洞、慶龍洞、晟雲洞」など、朝鮮人の思いを命名札にして、洞窟入口張られていた。このほか幕別温泉入口にも同様の洞窟が計画された。しかし、施工途中で敗戦となったことから中止した。 今では、これらの洞窟入口と軍用道路の痕跡も少しずつ消え、忘れようとしている。 |
||||
◇幕別には、炭化度の低い石炭、木質組織を残している褐色、黒褐色の亜炭が賦存している。 | |||||
亜炭は燃料不足の戦前、戦後の家庭燃料として薪炭と同様にわれた。 最初の採炭所は、幌内炭鉱で、昭和11年に東17線、現JR根室本線にほど近い沢地(森林)で、西猿別の山田氏によって採炭が始められた。 その後、昭和16年には経営のすべてを東亜鉱業株式会社に移譲された。この時は、多くの労働者が従事し、採炭所に4戸3棟の住宅と事務所も建てられ、年間12千トンが出炭されたという。のちに猿別にも採炭所が設けられている。 また、戦後間もない、昭和23年には千住炭鉱として、北新鉱山(新田ベニヤの系列)がJR稲士別乗降場にほど近い南7線付きの東向き斜面の沢で採炭を始めた。 坑道は、土砂などが崩れ落ちないように上部、側面などを補強するため、木材(坑木という)が使われた。掘進によって、生産される亜炭のほか、土砂などはトロッコによって坑道の外に運び出され、亜炭は山積みされたという。 昭和27年以降は、徐々に良質な石炭が出回るようになって、需要は激減の一途をたどったが、価格の安さから銭湯(浴場)で、重宝されてきた。しかし、40年代半ばまで採炭されたものの、採算がとれず生産は中止となった。石炭も経済成長ととも次第に化石燃料に代わること、同じ運命をたどっている。 |
|
||||
|
本稿(掩体壕、幌内・千住炭鉱)は、幕別町札内中央町三公区長の和田直輝様から、資料提供とお話を賜り記述いたしましたものです。ありがとうございました。 |