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歩いてみませんか、中和倉の歴史 |
【古墳時代】
馬橋方面から馬坂を上がると左手に”内畑遺跡の標柱”があります。
古墳時代のの初期に長津川で水田を作っていた人たちの住居跡で、すでにこのころ中和倉を拠点とした生活があったことがわかります。
【江戸・元禄時代】
内畑遺跡の標柱”50mほど戻って右手に道を進むと、元禄15年(1702年)創建と伝わる熊野神社、その奥に香園寺があります。
当時の中和倉には、宮大工の家があり村を挙げて創建をはかったようです。
熊野神社・香園寺右手の坂を下ったところに清水が湧出ており、この清水をくみこの坂道を登って家の飲み水としていたようです。清水が集まったところに小池があり弁天さまがありました。享保14年(1729年)?にあったと思われます。
生活
元禄元年(1689年)には下総国葛飾群の村として小金3万石の武田信吉の領地だったそうです。村高は135石余。
その後村の生活は水戸街道・松戸宿の発展で
・畑と田圃の農作業
・水戸街道松戸宿の人馬の提供(助郷と言う
・江戸幕府の放牧場であった”小金牧”の一つ
である”中野牧”(現在の常盤平を含む、松戸・
柏・鎌ヶ谷・白井にまたがる広い牧場)の御用
が中心となっていったようです。
村には3ヶ所に庚申塔があります。村の男衆が庚申講 と称して夜を徹して宴会を3年間続け、その記念に
享保14年(1719年)
元文元年 (1736年)
宝暦11年(1761年)
に建立したものと思われます。
熊野神社にはおこもり堂がありました。女衆が祈願をして いました。
【明治時代】
明治5年の中和倉は戸数19・人口113人でした。
【大正時代】
馬橋方面に向かう馬坂が村人の手で、なだらかに改修されました。 明治40年と昭和22年の地図を見比べれば、馬坂が付け替えられていることが見て取れます。
記念碑が坂の途中に建立されています。
【昭和時代】
昭和20年 戦時下の東京防空のため、探照灯部隊が寒風台にありました。
昭和30年代 高度成長期にのり、前田川・長津川の水田が住宅地なりました。字寒風台の畑から上本郷に掛けて大規模な再開発が行われました。
昭和40年秋に県立松戸高校が松戸市矢切から字寒風台の地に移転してきました。
【現在】
前田川近くの中和倉商店街、中和倉幼稚園、熊野神社近くのケヤキの森保育園、県立松戸高校に囲まれて約2,700世帯・4,000人が生活しています。
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