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ぼくは、ふと思い出して、もう十年ぐらい前に読んだ本を、本箱からひっぱりだして、読み直してみた。
『ノラや』(内田百閨E著)という随筆集だった。
これは黒澤明の映画『まあだだよ』の原作にもなった本だから、内容を知っている人がいるかもしれない。
内田百閧ェ、飼い猫の「ノラ」を失って、長い間悲嘆にくれた、その心情を事こまやかに綴ったものである。
失った、といったが、正確にいうと、百閧ヘノラの死に際を看取ったわけではない。ある日突然猫が失踪して、それきり二度と帰ってこなくなったのだ。
死んだのか、それともどこかで生きているのか、心配で心配でたまらない。仕事が手につかなくなって、百閧ヘ一年以上も悲嘆にくれて泣き暮らしているのだ。
今の言葉でいうと、百閧ヘ重度の「ペットロス」に罹ってしまったのだろう。
勿論その頃は「ペットロス」なんて言葉はない。今でこそ、ペットを失った嘆きを、飼い主が表に出すことは恥ずかしいこととは思われなくなったが、当時これほどあけすけに自分の感情を吐露している事に、その百閧フ素直さ、やさしさに、胸を打たれる。
正直に言って、ぼくはこの本をはじめて読んだ時、百閧フ嘆きがよく理解できなかった。
今はそれが良く解かる。この本を読み直すことで相当慰められた。
もうぼくは泣く事はないだろうけど、これからもしみじみとした哀しみが、時折胸に湧き起こってくることだろう。
だがその哀しみも、いずれ、だんだんと薄れてゆくことだろうと思う。
けれども、綺麗さっぱり、跡形も無くなってしまうことがあるだろうか?
無くなったら無くなったで、別にかまわない、とも思う。
これは別に投げやりな気持ちというより、今は、この気持ちの中にいるのが嫌なのだ。忘れられるなら、忘れたい。
でも、いつかは思い出すことがあるだろう。
いや、思い出してやらねばならない、というような義務感めいた気持ちもある。
ぼくはこの文章を、最初は、自分の気持を整理して「哀しむのは、これでとりあえずやめにしよう」と決着をつけるつもりで書きはじめた。
思い出したいこと、思い出したくないこと、その両方を書いた。
まだクロが死んで間もないが、これを書くことが必要な気がした。
最後のクロを絵に描き、また文章に綴ってみた。
ぼくはこの文章を、いつか読み直すことだろう。
その時、ぼくは、今の気持ちを忘れているかもしれない。そして読みながら思い出すことだろう。忘れてはならないことを思い出すのだ。
他人にとってはつまらない、子供っぽい事かもしれないが、それはぼくに必要なことなのだ。
この文章を書く意味が自覚できた今、ここで筆をおこうと思う。
ぼくは、猫一匹に、深い「生」と「死」を教わった。
おまえにはいつでも会える。忘れない。
クロよ、ほんとうに、ありがとう。
<おわり>