クロや
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2001年、季節は冬に向かっていた。
ある日、柴犬のハルが自分の小屋の前に佇んで、しきりに中を覗きこみながら、困惑したような顔をしている。
父が中を覗いて、「あっ、猫がいる」と言った。小屋の奥の方で、小さな黒い塊がうずくまっている。金色の眼がふたつ、キラリと光った。
小さな黒猫だった。
その時は「そのうち出ていくだろう」と漠然と思い、放っておいた。
だが、ハルの奴、小さな侵入者を追い出すわけでも、吠えるわけでもなく、ときおり合点のいかぬ顔で小屋の中を覗きこみ、ずっとその前に立っている。ハタから見ると、犬が子猫の番をしている格好になっているのだ。
夜になっても、子猫は出ていかない。ハルは入り口に張り込んだままだ。手を突っ込んで奥の黒い塊をひきずりだしてみた。雌の黒い子猫だった。
柔らかく、小さかった。こんなものを手でつかんだことがなかったので、こちらもビクビクしていた。ガリガリに痩せていて、眼の周りに目脂がたくさん溜まっている。目脂の奥のうつろな金色の眼が光って、不気味なようでも可愛いようでもあった。だが、ボロ雑巾のようにすこぶる汚い、しかもくさい。クシュン、クシュンと、しきりにくしゃみをして、その度に鼻水が糸をひいて垂れてくる。しぶきがぼくの顔にもかかってくる。「アン・・・アン・・・」と、か細い声で鳴いていた。
「こりゃほっとくと、そのうち死ぬかもなぁ」と思った。
母が可哀想に思って、ハルのエサとミルクをあげた。ムシャムシャ食い出した。
隣りでハルが低く唸っている。「あっ、俺のエサを食いやがって」というわけだ。こいつはそういうケチなところがある。
しかしエサとミルクをやったのは運のつきだった。その後、子猫はそのまま家に居座ることになる。
家の中に入れると、秋田犬のクウが、しきりにその黒い塊をベロベロと舐めだした。子猫の方は舐められるがままになっている。しつこいぐらいに舐めまわすので、黒いボロ雑巾が黒い生ゴミみたいになった。
「どうしよう」「このまま飼うことになるんだろうか」
黒い生ゴミはそのまま寝入った。
その時はまだ飼う気なんか全然なかった。
次の日もくしゃみは止まらない。時々物凄く臭いおならもする。エサを与えるとムシャムシャ食うが、すぐにゲロゲロと吐き出す。
妹が病院につれていった。薬を貰ってきて飲ませた。猫用のエサを買ってきて与えるようにした。
家族に猫好きはいなかったし、誰も飼う気なんかなかった、正直迷惑な闖入者でしかなかったが、世話を焼くうちに、いつのまにか、家族全員が、こいつのことが気になって気になって仕方がなくなってきた。
寝ているぼくの顔の上にゲロをもろに吐いたこともあった。「きたないな」とは思ったが不思議と腹は立たない。「体の中の毒をぜんぶ吐き出して、はやく元気になれよ」としか思えない。もう情が移ってきている。
一週間もたつと、見違えるように元気になった。くしゃみも止まり、ゲロも吐かなくなった。毛が艶もみるみるよくなって、撫でてみると、柔らかくてビロードのように手触りがいい。目脂とれてうパッチリ開いた瞳を良く見てみると「こいつ、結構可愛い顔をしているんだな」といことに気付いた。
生ゴミが一週間で可愛らしいお嬢ちゃんに変身した。
いつのまにか「クロ」と皆が呼ぶようになった。
家で飼うことが、既成事実になってしまった。