早稲田一九五〇年史料と証言 3号

 早稲田のうたごえ私記 

              早大合唱団のあのころ

                                                                      高橋 英夫

語り部

 「ちょっと見せたいものがある」といって、何台かのパソコンの並ぶオフィスの一隅にぼくを導いていったのは早大合唱団の後輩、中井弘明(理工)である。

 所用があって赤坂の彼の事務所を訪ねたのは、六月上旬の夕刻だった。彼の他には人気がない。用件が済むとごく自然に話題は共通の友人、合唱団時代のだれ彼の近況に及んでいった。

 彼が見せたいという情報とは一体何なのか?もしかすると還暦すぎのぼくのよろこびそうな、噂に聞くピンク情報かも知れない、と多少の期待をこめて彼の操作する画面を凝視していた。

 「これ、これ」と彼の指し示したのはピンク情報ではなかった。早大合唱団のホームページである。そこには、団員数、練習日、発表会等々合唱団の現況が要領よく紹介されていた。更には、理工学部出身の彼が往時所属していた理工のグループ「どんぐりコーラス」のホームページまであるではないか。

 恥しい話だが、ぼくはいまもってパソコンはまるでダメ。ガリ版のインクの匂いの中で育ったぼくにとって、自分がかつて在籍していた早大合唱団のプロフィールが電子的な情報として簡単にアクセスできることは、正直のところ〃今昔の感〃と形容し得るほどの驚きであった。ただ、残念ながらホームページでは、早大合唱団創立前後の事情については触れていない。この辺りの歴史についてはガリ版世代に属する語り部の出る幕かも知れない。

背 景

 早大合唱団は文字通り時代の申し子であった、といってよい。合唱団が生まれる前後の事情を考えるに当っては当時の学内の諸状況はいう迄もなく、学園をとりまく社会的な情勢を避けて通ることは不可能である。前号で芹沢寿良(法)が整理したレポートを下敷きにしつつ、合唱団誕生の時代的な背景を探ってみたい。

 全学連の拠点校として、激しく闘われた五〇年のレッドパージ反対闘争は苦い代償をもたらした。自治会は解散させられ、多くの活動家が学園を追われていった。組織的な空白期間が訪れる。

 これが解消されたのは五二年の全学学生協議会(全学協)の結成によってであった。五〇年代初頭、早稲田の学生運動を支えたのは、主として文化団体連合会(文団連)傘下のいくつかの研究会と日本共産党早大細胞だったということができよう。

 文団連の内部に、文化団体懇談会(文懇)というセクト的なグループがあった。〃傾向のいい〃八つのサークルの連絡機関で、それぞれの代表が週一回の集りをもち、情報交換やその時どきの重要なテーマを話し合っていた。参加していたのは、社研、ソ研、中研、民科、歴研、綜文研、文研、自由舞台の八団体で、当時の事情を知る者にとっては納得のいく顔ぶれであろう。

 五三年の早春、社研の増田興一(商)が文懇議長だったとき、民主的なサークルを一つでも二つでも増やしたいということが話し合われた。もっとも学生に受け容れられるもの、学生から求められているものとして〃合唱団〃に意見が集約された。正確にいえば、この決定こそが早大合唱団の誕生を約束したものといえよう。

 当時、学内には、グリークラブ、混声合唱団、女声合唱団、コールフリューゲル、と既存の四団体があったが、これらとはひと味違うコーラスがあって然るべきだというのがその理由である。後で触れるが、中央合唱団によって始められたうたごえ運動がこの頃まさに〃高度成長期〃を迎えようとしており、学内にもその影響が及んでいたのはごく自然の現象だろう。

 コンパやデモ、ハイキングなどの機会に、労働歌やロシア民謡が歌われるのは珍しくなかったが、それらはいわば個別・散発的なもので、これを掬い上げる組織的な受け皿が求められていた。合唱団のための豊かな土壌が用意されていた、といえるかも知れない。

 増田の述懐によれば風間洋子(文)の存在も大いに意識したという。お互い旧知の間柄でもあり、大隈銅像前での彼女の歌唱指導は昼休みの風景としては既に定着していたからだ。増田と共に創立に深く関った社研の中藤泰雄(政経)の証言もこれを裏付けている。

 

 彼女は五二年から中央合唱団の一五期研究生としてレッスンを受けていた。「歌うことを通して生来のはにかみ屋から少しづつ脱皮してゆくのを自覚しており、教室に出る以上の充実感を歌唱指導に見出していた。ただ一つの悩みの種は、時々招く中央合唱団の常任に対する謝礼である。参加者にカンパを訴え、僅かばかりのものを払っていたが、この気苦労から解放されたい、何とか自前のコーラスが創れないものかと頭を悩ませていた」。セコい話だが合唱団誕生にまつわる裏ばなしである。

 増田の提案に風間がこおどりしたのはいう迄もない。文懇という有力なグループが全面的な支援を惜しまないという。「いいわ、わたし、やるわ」。蒔かれた種が芽を吹こうとしていた。五三年の春まだ浅いある日のことである。

 寺内俊之(政経)はホヤホヤの一年生。五二年のメーデー事件や、志望する早大で起った流血の弾圧のニュースは、受験生だった彼の胸をはげしく揺さぶった。「索漠たる受験勉強の机に向いながらもこんな事をしていていいのだろうかという疑問と、何かをしなければという焦燥感に苦しめられていた」。社研に入り初めて参加したメーデーの会場で運命的な出会いが彼を待っていた。

若者よ からだを鍛えておけ

美しい心が 逞しいからだに

からくも支えられる日がいつかはくる

その日のために

からだを鍛えておけ 若者よ

 これを聞いた時の「身の震えるような感動を、いまだにはっきりと想起することができる」という。以来、風間洋子同様、社会科学の研究よりも歌うことに大きな情熱を傾けることになってしまった。これが増田の目にとまった。寺内を風間洋子の助っ人として引き合せ、スタートの準備が加速する。

 記録も散逸、記憶もおぼろげだが、発足の時期は早大新聞(五三・五・二五)などから推して五三年の五月はじめといってほぼ間違いない。

 文懇の合意から三ヶ月ほどが経過していた。

 「みんなで歌おう明るい歌を」「音痴歓迎」手書きのポスターが貼り出され、合唱団づくりの活動が始った。

中央合唱団

 ここでうたごえ運動と、それをリードしていた中央合唱団について触れておくのも無駄とは思えない。早大合唱団は、意識するか否かは別にしても、中央合唱団の背中を見て育ってゆくことになるからだ。

 「歌は世につれ世は歌につれ」といわれる。うたごえ運動も例外ではない。その足跡をたどってみると〃歌〃と〃世〃が相互に絡みあって、起伏を伴いつつも影響を拡めていったことが検証できるというものだ。

 「うたごえは闘いのなかに」は戦後の高揚する労働運動の中から生まれた旗印であり、「うたごえは平和の力」はストックホルムアッピールが「平和は髪の毛一本で支えられている」と形容した世界的な緊張関係を背景に掲げられたスローガンであった。うたごえ運動をリードした中央合唱団の歴史や、卓越した指導者、関鑑子の生涯をふり返ってみてもそのことが裏付けられる。

 四八年に発足した青共中央合唱団から民青中央合唱団、更には「民青」の二文字が外されて中央合唱団となった経緯からは、うたごえ運動が大衆的な文化運動として大きなふくらみを見せる過程で「民青」の枠に収まりきれなくなった事情が読みとれる。

スタート

 新しいコーラスグループの誕生を告げ、歌う仲間を募るポスターにひかれて少しづつ学友が集ってきた。日ごろの歌唱指導のつみ重ねやポスターの文面から、既成の合唱団とは違ったサムシングを嗅ぎとった学生もいた。混声を前提にしている以上、女性の参加は欠かせない。スタートしてしばらくは、誘い合って参加してくれた協組(早大生協)の女性の存在に大いに助けられたものである。因みにその後は日本女子大、共立女子大、学習院、川村短大などからの越境入団が相次いだ。

 三十人ほどの仲間が集まると、当り前の話だが歌の練習を始めなければならない。場所は法学部の五階、アップライトのピアノが一台置かれていた屋根裏部屋のような奇妙な空間である。ピアノを弾いたのは誰だったか定かでない。そもそも弾けるものがいたのか、これも怪しい。何のことはない、青天井での歌唱指導が屋内に移った程度のレベルだったと思えば間違いない。

 二、三回の練習の後、落ち着き先が見つかった。政経の地下、第二社研の部室である。何しろ文懇のお声がかりでできた合唱団であり、家主の第二社研の目にも友誼団体がヨチヨチ歩きを始めたと映ったのだろう。好意的に庇を貸して貰えたと考えられる。

 この頃、当時の合唱団にとっては身分不相応な指揮者を迎えた。風間洋子の求めに応じて頂いた中央合唱団の小野光子先生である。先生は関鑑子女史の一人娘で、芸大を卒業して間もない長身の美人、中央合唱団で発声指導に携っていた。

 レッスンワンは発声練習、大きく口をあけて「アー」。芸大でオーソドックスな教育を了えられた先生は歌うことが何であるかを知っていた。歌うことは、よろこび、怒り、嘆き、さけび、願いの表現である。これを声で人の心に訴えるために声楽技法が必要であることを、噛んで含めるように教えてくれた。コールユーブンゲンという万国共通のテキストが存在することを、初めて知った団員も多い。

 スタートした直後は文懇所属のサクラも何人か混じっていた。彼らは「インターナショナル」や「世界をつなげ花の輪に」だけでなく、叙情的なロシア民謡の二つ三つを覚えたいという欲求は持っていたが、それにしても「アー」には大いに面喰らったに違いない。

「どうもお呼びでなかったらしい」と、一人、また一人と去っていった。発展途上にあったうたごえ運動のあちこちに見られた現象だろう。

 こうして歌うことに自己表現の喜びを感じ、仲間同志の連帯を確かめ合う本物のメンバーが残ることになった。

 とはいえ、残ったメンバーが思想的に一枚岩として〃純化〃されていた訳では勿論ない。古田寿(政経)は「大雑把だが」と前置きして、その頃のメンバーの属性を四つのタイプに分類している。

(A)学生運動にも積極的に関わってゆく活動家。

(B)技術的にも思想的にも悩んでいる一群。

(C)明るく希望にあふれている、歌を覚えるのも面白そうだ。

(D)実りある学生生活のために、趣味に合った〃定位置〃を見付けたい。友達も出来るだろう。

 メンバーの一人に木下そんき(文)がいた。高校時代から創立メンバーの一人としてうたごえサークル「奈良・蟻の会」に所属し、合唱のみならず広く音楽に関心を寄せていた。入学後間もなくグリークラブや早大交響楽団への接触を試みたものの決心がつかぬままでいた折、寺内の一本釣りで参加することになる。技術面での指導に携るだけでなく、アコーディオンによる伴奏も引き受けた。おまけに夜は夜で、新宿のうたごえ喫茶「灯」でのアコーディオン演奏と大忙しだったことはあまり知られていない。卒業後もうたごえ運動との関わりをもち続け作曲家として歌劇「沖縄」などいくつかの作品を発表するかたわ

ら、理論面での貢献も高く評価されている。合唱団の生んだプロ一期生というべきだろう。

 創立間もない組織を軌道に乗せ、より活発な活動を継続させるためには風間、寺内、木下などとは異なった個性が要求された。

 鈴木靖(政経)の存在に触れない訳にはいかない。前川一郎(法)、石渡敬次(法)共ども、中央合唱団の研究生として同期だった三人は、創立直後から参加していた。鈴木は内部に対する目配り、気配りを怠らないと同時に、公認のための地道な努力を続けた。

 我々は、未公認なるがゆえの肩身の狭さやひがみを感じたことは断じてないが、部室、補助金、諸行事への参加など公認団体という〃市民権〃を獲得するに越したことはない。

 彼が水木享というペンネームで寄せた五四・九・二二の早大新聞から抜粋してみよう。

 「私達学生の生活をおびやかすものは、すべて私達の団結を、一つにまとまった若い力を最もおそれている。私達の合唱団も未公認という事情もあって、多くの悪条件や圧迫に悩んでいる中略従って私達がとり得る道は、歌うことを一つの社会的事実として広く認識されるまでに普及させる以外にない」。

 表現としては若さゆえの生硬さも否定し得ないが、それだけに当時の鈴木が抱いていたパッションが生々しく伝わってくる。この頃、すでに既存の合唱四団体に負けない存在感を示していた早大合唱団の公認を側面から援助すべく、早大新聞が好意的に提供してくれた紙面であった。

 合唱団が公認をかち取ったのは、五五年の春のことで安藤彦太郎、横田瑞穂両教授のお力添えを頂いた。

軍楽隊

 時期的には前後するが、この頃の学園内外の動きの中から主なものを二、三注目してみたい。

 五三年六月一八日、自治庁が各地の選挙管理委員会に通達を出した。学生の選挙権の行使を大幅に制限するもので、何とも血迷った、としか形容できない代物である。この頃、内灘試射場の無期限使用に反対する気運は全国的な盛り上りを見せていたが、自治庁通達は結果として火に油を注ぐ敵の失策でもあった。

 学生は敏感に反応した。撤回を求める決議がクラスやサークルで次々と採択され、学生の意識の高まりが肌で感じとれるほどであった。連日のような抗議行動、デモや集会に、合唱団は余人をもってはなし得ない〃軍楽隊〃の役割を果たした。デモ行進をリードするために歌い、シュプレヒコールを叫び、間を埋めるための歌唱指導等々に、団員はエネルギッシュに取り組んでいった。だが自治庁もしぶとい。この素頓狂な通達ですら、撤回させるのに一年四ヵ月を要した。でもこのカンパニアが、合唱団が多くのものを学びとる契機となったことも一面の事実だろう。団員の意識は前進し、蓄積された行動力は「学生の

うたごえ」や「早稲田祭」での活動にひきつがれてゆく。

 五三年「第一回日本のうたごえ」が開かれたが、これに学生代表として東大音感と共に参加した。指揮をとったのは音感の今泉まさはる、アコーディオンの伴奏は早大のもう一人の風間、風間耿子だった。洋子さんがボーイッシュな活動家とすれば、耿子さんは一見ディレッタントふう、辻音楽師の雰囲気を漂わせていた。

 この経験が自信となり、翌年の「学生のうたごえ」のためのオルグ活動に積極的にとり組んだ。首都圏の大学を片っ端から訪ね、うたごえサークルの結成を呼びかけ、その数二十校を超えた。よくできたものだと思う。

 第一回の定期演奏会は五四年六月二三日と鈴木の手帳にメモされている。大隈講堂で〃衝撃のデビュー〃という訳にはいかなかった。商学部の地下、文化室と呼ばれていたホールで「ともしび」「バイカル湖のほとり」「トロイカ」などロシア民謡のスタンダードナンバーがプログラムの中心であった。とにもかくにも演奏会が持てたとお互い肩を叩きあったものだ。五四年秋の「学生のうたごえ」には全国から三十を超える大学が参加したが、これが合唱団のオルグ活動と無関係だったとは到底思えない。

 かの「原爆許すまじ」を生んだ原水爆禁止の運動や砂川の基地反対闘争に加わったことは事実の指摘のみにとどめ、早稲田祭へのとり組みに筆をすすめたい。

早稲田祭

 それまで、早稲田には五月祭のような全学が統一して短期間に集中して行う文化的なイベントがなかった。たしかに各サークルの主催する催し物があったには違いないが、十月のなかばから冬休みの直前まで三ヵ月にも及んでメリハリに欠けることおびただしい。内容も著名な講師やアーチストを招いてのものが殆んどで、人集めより金集めが目的と思われるものも多く、主人公たるべき学生はカルチャースクールの受講生という位置から出なかった。これでは、学生が自らの手で創造したという充足感など、期待する方が無理というものだ。

 なんとかしたい、と文団連と全学協がアクションを開始する。各サークルへの呼びかけ、日程の調整、学校当局との交渉がたび重ねられた。当局は〃通年計画〃なるものを楯に頑として応じない。しかし、臨界点に達しようとする学生のエネルギーの前に、施設の使用については黙認見て見ぬふりという最低の譲歩をしたと記憶している。期間の中の一日が「うたごえ」の日と設定され、何がなんでも成功をかちとらねばと前田健治(教)を軸にして団員は走りまわったものだ。

 〃自賛〃を避けるために、結果の報告は早大新聞に委ねよう。(五四・十二・一)

T、「前夜祭 会場ゆさぶるうたごえ」。

前夜祭は出来るのかしら、と誰もが思った。学校側は、前日に掲示を出して、はっきりと前夜祭は許可しないと声明していた。中略実行委では、会場を共通講堂前の広場から雨のため共通講堂内に切りかえた。鮮やかな処置だ。前夜祭は早大合唱団による『原爆許すまじ』『若者よ』などの歌唱指導から始った。現代思潮研、社研のコーラスがあり、すでに会場は超満員、露文三年の『バイカル湖のほとり』や、中研、児童文化研のうた、東伏見寮の学生達は『前夜祭にはどうしても参加したかった』といって舞台に上がった。一政のKがとび入りで『泉のほとり』、民科が原爆反対の構成詩を行った。ついで早稲田

に歌声をひろめる偉大な役割を果した早大合唱団が登場した。美しいリズム、力強い歌声。聴衆は我を忘れて聞きほれた。」

U、早稲田の歌声「歌声は平和の力」。

参加団体は文字通り全学を網羅していた。ジャズバンドから県人会の合唱までとにかくメロディーを持っている団体はすべて大隈講堂の舞台に上がったのである。『早稲田のうたごえ』は輝しい統一をかちとったといえるだろう。早稲田祭開催前の準備会で、軽音楽の音楽協会の人達がいっていた。『私達は皆さんと少し畑が違うかも知れません。でも早稲田祭を本当に成功させるために、どうしても一緒にやりたいのです』。このような声が実って、雄弁会の人達も堂々と聴衆の前に姿を現して拍手を浴びたのである。昨年まではこのようなことは絶対になかった。ジャズやタンゴと一緒に平和の歌が実際に聞けたの

だから私達は喜ばずにはいられない

 大隈講堂のステージに上ったのはなんと二千人、かくれたベストセラーと耳目を集めていた青年歌集の向こうを張った一部十円、手づくりの歌集も三千部以上が学生の手に渡った。

摩 擦

 生まれて一年半、それも未公認の合唱団がこれだけの活動を展開したことは大いに注目されてよい。しかし、平坦な道を一直線に歩んだと考えたらそれは美しき誤解である。うたごえ運動全体が抱えていたいくつかの問題と無関係ではあり得なかった。

 うたごえ運動の極めて好意的な同伴者だった作曲家、芥川也寸志が、読売新聞(五五・十二・七)紙上で述べた見解を、運動のキーパーソンの一人藤本洋が次のように要約して

いる。

 @無理論。十年先、三十年先への確信が持てるような理論の構築。

 Aなんでも政治闘争に結びつけないと気がすまない体質。

 B歌うことを強要するような自己中心的な傾向。

 C音楽的な高さを追求する姿勢の欠如。

 D音楽文化全体を推進させるための専門家の協力体制。

 合唱団にとっても、いずれも身に覚えのあるものだった。また、五六年一月に放送されたNHK放送討論会、「うたごえ運動をいかに考えるか」で出席者の一人、馬淵威雄は「中央合唱団の歴史をみると、日本共産党と関係があると私は理解しています中略指導の方向には政治性があると考えざるを得ません」。と発言している。同氏が東宝の取締役であったことを把えて、これを時の政府、財界の考え方と斬って捨てる(藤本洋)のは容易だが、それこそ頑なな政治性というべきだろう。

 山本七平に「空気の研究」という著作がある。〃空気〃は日本の文化だとぼくは理解しているが、いまは踏み込むまい。

 「社会主義は正しい」「ソ同盟は平和の砦」「右は反動・左は進歩」を公理として素朴に信じる〃空気〃が支配しがちなあの頃の学園の中で、進歩的でありたいがアカはどうもという、ためらう〃空気〃が合唱団の内部にもあったことは認めなければならない。

 レーゾンデートルを何に求めるべきか、といういわば路線問題についての意見の相違が選曲をきっかけに表面化し、深刻な摩擦の末、党員活動家二名の除名という事態を招いてしまった。鈴木は回想する。「主力メンバーでもあった両名の排除は勇気のいる力仕事だった。しかし小児病的な独善から身を守り、団としてのアイデンティティを保つためには避けられない選択であり、その後公けになった六全協の精神を先取りしたものだと今でも考えている」。

 戦前から引きつがれている古典的な論争のテーマ「党と大衆組織」「政治的価値と芸術的価値」との錯綜した関わりも、こうした摩擦の底流として存在していたように思う。

 また、モスクワ音楽院へ留学する小野先生の後任として迎えた指揮者の矢川仰子先生を、非礼極まる言辞で忌避してしまったのは、今なお胸の痛むできごとだった。先生は著名なチェリストでうたごえ運動の指導者でもあった井上頼豊氏の夫人で、ほほえみを絶やさない温厚な人柄だった。声高に「ゆるすまじ」とも「つきすすめ」ともいわなかった。これが一部の団員の誤解を招き、「早大合唱団を指揮するためには〃世界観〃が必要、先生は世界観を持っていない、従って指揮者としての資格に欠ける」という乱暴な言いがかりで辞任に追い込んでしまった。〃若気の至り〃では許されない振舞いである。先頭に立った内山卓郎(政経)は、「心から謝罪して赦しを乞いたい。」といっている。

 いろんな曲折があったことは事実だが、はっきりいえるのは団員の一人一人が時代を真正面に見つめる姿勢を失わなかったことだ。人生と社会を熱っぽく語りながら時代の要請に真剣に耳を傾ける態度を貫き通したという誇りを共有している。

未 来

 九八年十月、大隈ガーデンハウスで創立四五周年を祝う集いが開かれ、多数の現役も出席して賑やかな交流のひと刻を過した。親子二代に亙るOBがいるのも歴史の証しの一つであろう。四五年間のおもなレパートリーを振り返ってみると、ある種の感慨が去来する。でも、一〇〇名前後の団員が明るいうたごえをひびかせながら、二一世紀を迎えようとしているのは心強い限りだ。

 「日本のうたごえ」運動は五十周年という節目を迎え、三日間の祭典では盛り沢山のプログラムが組まれている。

 呼びかけ人の一人、ジャーナリストの黒田清は「いま私たちに大事なことは、みじめで危険な時代だが、いじけたり投げやりになったりしないで、みんなが歌う歌に耳を傾け、自分でも歌うことだ」と訴えかけている。

    〈取材協力〉 内山卓郎、風間洋子、木下そんき、黒崎茂、鈴木靖、芹沢寿良、寺内俊之、中井弘明、中藤泰雄、古田寿、増田興一

たかはし・ひでお

1956年商学部 全学協発足後総務担当、早大合唱団創立に参加

 早稲田 一九五〇年

史料と証言・三号(非売品)

 発行・一九九八年一二月二〇日

早稲田・一九五〇年・記録の会

              ホームページ http://www.m-net.ne.jp/~tabe/waseda.html

 代 表・橋本  進

 編集部

              吉田 嘉清           大金 久展

              岩丸太一郎           芹澤 壽良

              安倍 徹郎           長瀬  隆

              藤川  亨           猿渡 新作

              坪松  裕           大塚 茂樹

              清水 弘道           坂本  尚

              小野 安平          

 制作・(株)新制作社

                    池上 明彦

              東京都港区赤坂七一七

              〒 一〇七〇〇五二

              TEL 〇三三五八四〇四一六

              FAX 〇三三五八四〇四八五