資料 1953.4-1955.3 東大音感合唱研究会グリークラブ
激動の大学 27
戦後の証言 上坪陽
昭和20年代の後半、うたごえ運動は全国の大学にひろまり、基地反対闘争、帰郷活動など当時の学生運動を支えた。だが、若者たちの心をとらえたこの合唱運動も、いわゆる"組織優先’によつて音楽は見失われがちとなり、やがて学生運動の変貌につれて忘れられていく。
東大音感合唱研究会G(グリークラブ)合唱団の活動を、1953(昭和28)年4月から1955年3月までの2年澗に限定して、資料を記憶でつないで書いてみます。この時期の学生は、だれもが、なんらかの意味で「戦争」を知っていたこと、そして、レッド・パージ、三鷹・松川事件、朝鮮戦争、警察予備隊、一サンフランシスコ平和条約、メーデー事件など.の経験を共有していたことが特徴的だったと思います。それが感覚なものであったとしても……。
活動と音楽の統一めざして
「陰惨な秋です。お元気? 水害と風害と冷害。ぼくらはどん底にうごめいて、再軍備は進んでいます。どうなるのでしょう、ぼくたちの祖国は。平和は死んだのですか。ぼくたちの願いは? 聞きたいのです、あなたのお考えを。とりいそぎ」と、短い私信にかいてきたHのあせりには、実感がこめられています。
このころの学生運動には、内灘試射場、妙義・浅間基地反対闘争と、学生の選挙権を郷里におくべきだとする自治庁通達反対闘争を中心に、53年の夏季休暇期間に始る帰郷運動、農村工作・調査の大衆的路線化、日鋼赤羽、日鋼室蘭闘争支援、原水爆禁止運動への参加などがあります。
日本のうたこえ運動としては、四八年に青年共産同盟の合唱団が中央合唱団に発展し、五一年まで中央合唱団創立を記念して行われていた発表会を、52年から「日本のうたごえ」祭典として開催で.きることになった背景には、全国的な運動の発展と指導部としての音楽センターの位置が定着するようになったことがあったといえます。
後になって「うたこえ運動は、人間としての個性にもとづいた、歌う人自らの主体的な音楽的感動を創造する、集団的・民主的な文化運動である」という定義を仮鋭として、東大音感のすぐれた理論的指導者だった故山田清康氏(『仲間たち』の作詞者、『泉のほとり』の主訳詞者)がまとめています。
が、どちらかといえば、民主的音楽の創造に重点をおいた活動が、すでに基調にありましたし、その立場で、50年以降53年までに、先述した『泉のほとり』や『国際学連の歌』など、数多くの・訳詞と曲の紹介、演奏活動、普及活動が行われ、53年7月には、それまでの作詞作曲活動を確立するために、創作曲集『ばっぷくどん』の月刊化が始められています。
53年4月当時の活動状況は、本郷にトニカ合唱団(指揮は井上頼豊氏)と一般学生を対象にした昼休みのアーケード合唱、駒場にはG合唱団(指揮は北'川剛氏、後に闘忠亮氏と北寮前のうたう会が主になっていました。そして両含唱団とも混声でしたが、女声はほとんどが他の女子大学からの参加者です。
53年は、会員の数が急増し、20数人から80人近くになっています。
このことは、うたごえの運動理論、全学連の運動方針とも無関係ではありませんが、合唱団内部で、活動を音楽的に統一することが困難になるという一面をうみだし、同時に音楽的な観点と運動的な観点との対立がみられはじめたといえましょう。
ソビエト歌曲『エルベ河』の訳詞『われらの母なるロシア』『大いなる祖国のまえに』について、本当に実感をこめて歌えるのかどうかという論争があったり、定例の合唱練習をやめて政治的なデモ・集会などに参加することの是非について、討議がつづいたりしました。
しかし、この時期の討議の内容は、少なぐとも両者の観点を、なんとか自分たちで統一したものとして把握し{納得しあえるととろで活動を高める実践を行おうという姿勢だけはあったと思います。
もっとも「話合い」という形式が一般化するようになったのも、この時期なのですが……。
大衆的路線の導入は、同じ学生合唱団体との連携、うたごえサークルづくりの方向が、より強調されて活動上にもあらわれてくるとともに、大衆的なもの・政治的なものとの、かなり安易な結びつきが「暗黙の了解」として基礎づけられてきました。
53年6月には早大合唱団創立一周年記念発表会(指揮は小野光子氏)がもたれ、東京女子大学民謡の会、青山学院大学、小石川高校などとの直接間接の連携がすすむなかで、全国学生うたごえ連絡協議会を結成しようという呼びがけが提起されてきました。
そのころ、大阪女子大学のうたごえ指導者あてに出された手紙に、「音感は、確かに、平和を歌うサークルですが、ある人はクリスチャンだし、ある人は社会民主主義の理論家だし、ある人はコミュニストだし、仲々、皆の一致した点を求めるのが難しいのです。それでも、春からの努力の甲斐もあって、農村工作、軍事基地反対闘争には、33名の仲間が参加し、その後、各自その故郷で、いわゆる帰郷運動をやっています。(中略)・それに、自治庁に毎日のように抗議に行き、クラスやサークル、寮内で討論をやらなくちゃいけないし、忙しい事、甚しい限りです」と「運動」上の統一の困難を書いています。
歌が人間を変える
また、東京女子大学から音感G合唱団に参加していた女性は、機関紙にこう書-いています。
『音感に通っていながらも、(東女大民謡の会に)入会しなかったのは・・・その活動を一面的にしか理解しなかったからだった。……それより先、民謡の会は"アカい”という奇妙な宣伝が流されていた。……“若ものよ”を“共産党の讃美歌"だ、などと心得ている人達には、無理からぬ事かも知れない。
…そんな裏での宣伝に関らず、一年生の会員がどっと入って来て、それ迄十人余りで細々と続けられて来た民謡の会は、戸惑いつつも嬉しい悲鳴をあげた。
……、“プレイディ"での合唱発表も、歌と踊りの会も一応成功だった。……“民謡の会の歌っている歌は私達の気持にぴったりする。““難しい曲を美しく歌っても、それが洗濯しながらでも口をついて出て来ないようではつまらない”など、歌と生活感情という問題が出て来たが、サークル外への働きかけの場としての“歌と踊りの会"については、表面的触れ方しかされなかった。
……(その後〉僅かずつではあるが会員が減り…一部メンバー"が"歌と生活"という事を強調して書いたりしたが、楽しい会、楽しい歌式の会員とのギャップがでた。……ボス運営追放!のための委員選出、会の運営批判会などを行なったが、……そんな或る日"民謡の会の中心メンバーは、はっきりしたイデオロギーをもって、会を引張って行こうとしているのではないか、私の周囲の人,は、この不安のために止めて行った”と云われた。
こういう感じを与えているとすれば……やり方が間違っていた事の証明だった。あらゆる機会に素直に意見をのべ合っていたら、異なった意見を持った同士、その討論に基いて”統一してやって行こう”と云う気持になったろう…。
とに角、そんな消耗な問題をきりぬけながら、人数も減る事なしに、文化祭での合唱発表、歌唱指導、クラス合唱運動、そして初めての外部出場としでの音感合唱の集いへの参加へと進んで行った。…更に“歌声をはばむもの”として自治庁通達が取りあげられ、又、指揮研究グループ、民謡研究グルレブが誕生した。
…しみじみと合唱の良さを思う。日常生活の様々なわずらわしさから逃れて音の美にひたる様な一時的、孤立的なものではなく、自分の気持をぶちまけて歌う事によって自分のかぶっているカラ(古い価値体系)を突き破り、自分自身を解放する事、更にすべての人に人間らしく生きる権利があるのだと云う確信を与えてくれます。自己解放の喜びを知った人間は、次には新しい価値体系を自分の中に造って行く、自己改造をしていく事でしよう"歌が人間を変えて行く”合唱サークルの前向きの姿勢は、この様なものだと思うのです」
かなり長い引用をしましたが、この報告と意見は、そのころの典型のひとつといえます。そして、活動なり運動なりの欠陥を、活動方法や技術の欠陥としてだけでなく、音楽思想上の問題として、基本をつかまえる力量が不足していた時期だったといえます。
農村工作、基地反対にも
53年夏の私のメモから引用してみましょう。
「7月1日 音感という所はケッサクなところだ。仲良しクラブといわれている。しかし、それだけでもなさそうだ。
7月15日長野県北佐久のN宅で合宿に入る。ボクは途中下車で、軽井沢の基地反対同盟と打合せして、夜、合流。
7月18日合宿が終る。朝、13人の仲間と農村工作へ。夜は、7人が人形劇、幻灯をもって上発地(編集部注」地名)へ。他の五人は泉洞寺(同)へ。涼しすぎる。
7月19日I女史来る。昼、児童施設へ。夕方、合宿の残りのメムバー全員来て、三石(同)へ。さんざん農民に批判される。農家に分宿。
7月20日夜、大日向(同)。全町協議会には昼出席。大日向の神父(ドイツ人)、シスター(カナダ人)と合唱交歓。評に曰く。「オルフェのような声です」幻灯『山城農民一揆』
7月21日 追分。幻灯『内灘の闘い』、踊の交歓。民族独立行動隊を歌わせられる。
7月22日 借宿。子供会。後で青年団と話しあい。古いしきたりなどの話を聞く。ミチューリン会があるとのこと。Mさん発熱、医師を招く。
7月23日 新軽井沢文化会館。基地反対ビラまき。
7月24日 朝二時の汽車で五人帰る。ビラまき。中学校で内灘の人達と懇談する予定が、来ない。群馬の人に来てもらう。
7月25日 殆んど帰る。昼、離山に登る。夜、離山で会合。最後まで残ったのは、N、F、Kとボク。
8月3日 日鋼赤羽のスト支援。射たれそうになった。戦車に弾痕など」
「東大校歌を歌わぬ」
農民との話合いのなかで.「大体、東大を出たやつは、若いころ、いくらうまいこといったって、役人になったり、大会社の重役になったり、結局は、百姓や労働者をいじめる方にまわるに決ってるじゃねえか」「おれは、あんたらが学生ばかりとは思えねえ、第一、東大の校歌も歌わねえ」「本気になって闘うんだったら、なにも本名かくして、変名で活動することはない」など、学生側の思想そのものをつく意見がだされ、その後、音感活動と人生をどう結びつけるかの課題が残されたが、個人的な決意を心情的に確認したにとどまりました。
53年夏の帰郷運動は、基地反対、憲法擁護などの課題に、災害地救援など地域の要求を加え、各大学の教授も講演活動などを行いましたが、音感G合唱団では団員が各自の郷里で歌唱指導などの方法で、地域集会を成功させることのほか、各大学うたごえサークルとの連絡をつけることにも、重点がおかれました。
それが、54年に日本のうたこえ祭典へ向けて、全国連絡協議会結成の基盤となり、53年祭典には東京を中心に150人の参加だったものが、関東ブロック、関西ブロックを基礎にした運動がひろがり、教育大、お茶の水大の「鳩の会」、東京外大、栄養短大の「クローバ」など、中.心的な合喀団が活躍を開始しました。
一方、学内では秋の駒場祭へ向けて、クラス合唱の拡大がとりくまれ、クラス合唱用の曲集『冬から春へ』『七つの子』・『もぐらもち』などが発行され、とくに、五四年の駒場祭では、クラス合唱祭が、催し物としては、成功を収めたといえます。この活動を背景に、学内の合唱団体「柏葉会」と管弦楽団と合同で、ショスタコビッチの『森の歌』を、部分的ですが初演奏をしています。
54年3月14日には全学連指導蔀の監禁事件を口実に、駒場寮が警官隊に襲撃されるという事件がありました。音感G合唱団内の詩誌、『詩と人間』(54年1月創刊)3号に、記録があります。
「君は朱色の半月が/都会の塵層に/不気味に傾くのを/見たことがあるか/午前四時/それは いびつにゆがめられた都会が/瞬間 凍えるのだ/その中で/冷えきった風に身体を/カサつかせながら/棍棒に突かれた額の疼きや/泥靴に蹴り上げられた脛の痛みを/あの日 − 三月十四日/ガラス窓を叩き割り/なだれこんだ八百の警官を/その屈辱と憎しみを/俺の腕からもぎ取られ検挙されていった友の/怒りに充ちた叫びを/そして/奴らを 俺たちが/どんな暴力にも/決して崩れなかったスクラムで/跳ねかえした誇りを/こんなにきびしく/感じることがあるか//屋上に立ってみろ//―またたくネォンが/渋谷だ/左は/新宿/−あの 赤く輝く/アンターレスの下に/画された暗がりは/第三方面予備隊だ/沈丁花の香りに/奴らの脂ぎった/動物の臭いがせぬか/そこを凝視せよ/全寮生は/眼を 俺に托して眠っている/涙の出る程監視するのだ/春だが/うそ寒い 木々の暗いさやぎに/俺と君の絆を/ねじ切ろうとする 奴らの/企みを聞く/抑えきれぬ憤りをもって/頭を割られても/ガラスで傷ついても/動かず ぐっと耐えた/仲間たちの眼を想う/それが どんなに美しいものであるか/君は知っているか/君はそれを見て/泣いたことがあるか//姶発電車が響く//夜は東から明ける//ネオンが/なんと白々しく/哀れであるか」(「ピケ」)
54年4月には、音感G合唱団の活動は週1回の全体合唱のほかに、一般学生対象のC合唱(みんなうたう会)週一回、クラス合唱指導、学外サークル指導、都内大学サークル連絡、男声合唱、寮音感コーラス、発声、芸術理論、アコーディオン、踊り、読書会などにひろがっています。
さらに夏季休暇中には、長野の農村、北海道の…炭鉱、茨城、福島の平和祭、小豆島などへ班編成で活動するかたわら、杉並で始った原水爆禁止署名運動をあわせて行っています。前年の活動と違うのは、基地反対闘争一般、農村工作一般ではなく、行く先々に合唱サークルをつくろう、すでに合唱サークルのある場合には交流しよう、前年に感じられた演奏曲自と聴衆のズレをなくそう、迷惑はかけないようにしよう、などの取決めをしている点です。
しかし、この期間の活動直後、長野県北佐久で、団員が原永爆禁止署名に回った家を、駐在の警察官一人、刑事二人が調査しているとの連絡がありました。現地へおもむいたところ、「白樺湖付近に山村工作隊がうろついているので、関係がないかどうか知りたい』『学生からの手紙があったら見せてくれ」「村の若い衆とケンカをしたという話だが、青年団との話の中身を教えてくれ」などという名目をつくって、一軒ずつ調査した事実がわかりました。
同じころ雑誌『全貌』誌上に、悪質な紹介記事が掲載されるなど、権力による.弾圧が強められていました。
また、うたごえサークルが、この年には民間企業の職場にも多くひろがり始めていて、学生服では工場に入れてくれないので、一着の背広を回して着たりして歌唱指導に行ったり、ときに巡視のいない隙に、労働者に助けられて塀をのりこえたりしました。
歌声から生れた恋
こんな状況のなかから、音感運動を通じて恋愛をはじめた青年の記録を、抜き書きしてみます。
A バイトに行って、家庭教師をしているときが、一番君のことを考える。他に考えなくてもいいから、精神的に楽になるからだろう。
エゴイズムなんだろうけど、今夜は君に会いたい。俺にとって嬉しいことがあったんだ。
B 朝一時二十分前。こんなに寒いのに送って頂いたりして済みませんでした。久しぶりで自由な時間がもてたのに、余り話せなかった。いま、お隣の部屋で仲間たちが「スリコ」を歌っています。身体のことも、もっと重要視して下さいね。
A 寮に暖房が入って快適、とは云え、寮費も高くなって、この所滞納。昼、君から電話が掛って来たとき、家に帰れるのが羨しかった。提案、このノートと君のノートと交換して書こう。
B 貴方によりかかり過ぎるつていう事、考えてみました。どうも本当らしい。甘えてるのかな。一人で歩けるように、貴方の支えになれるようにガンバリます。でも学校を止めて活動するかもしれないって聞いたら、辛くて……。
A 君が精一杯、俺を支えようとしている気持に応えたい。止める、止めないは別にして。それから、お金を二千円、カンパするなんて無茶だと思う。千五百円は返すから、試験のためた全生活を高めるよう使用して下さい。君の勉強の手伝いが出来ないのが残念です。じゃ、大きな赤ちゃんみたいに、おやすみ。
読んだ本、『最初の衝突』『抗日自衛隊』『政治経済学』。
B 今日、Kからの手紙で、活動家の郵便が三名も開封されていたと報せて来ました。それに、診療所で一緒に歌っていたT先生が、真昼間、道で、八年前ものことで捕まったとのことです。
警察のやり方のひどさに、口惜しさと憎悪でいっぱい。
A 君のことを考えていない、話してくれないという不満、考えました。ぼくにゴウマンな所があって、君を話しづらくさせたり(従順さを要求したりしていたのではないか。君の活動、全生活に連帯の責任を感じていなかったのではないか。君への愛情さえ、間違っていた面があったのではないか。恋愛を私有化していなかったか。恥かしく思います。
B 今、ナチの圧制の下で銃殺されていった27人のフランス共産党員の遺書を読んだところです。皆、愛する妻や子や両親を残して、自分の死が無駄でないことを信じて死んでいった。貴方も少し暇になったら読んでみるといいわね。私達の闘いが、より強くなるよう努力するのが、正しい愛情ですものね。愛情は口付けだけぢゃないんでしょ。
A 全寮停電中、ローソクで書いてます。Mが帰ってきて、他の連中をとっつかまえて、国民のための学問のあり方だとか、東大生のプチブル性だとか、活動ができず劣等感を抱くとか、からんでいます。みんな、苦しんでいます。悩んで疲れているんだ。昨夜もよる二時まで話しあった。喰いつきそうな眼で発言しているのをみると、その気持ちがギリギリ感じられて、「俺たちの学問そのものに対する考えが甘いんじゃないか」というんだ。明日は試験だろう。頑張れよ。
B 近江絹糸の闘争に行ってみて、今はもう一人一人が力一杯頑張らなきゃ駄目なんだという事を強く感じました。
でも、学佼では仲間に距があるのです。歌ってるときは、楽しくって。土曜の合唱で会えるわね。淋しくって。
A 君は、恋愛を、生活からはなれた特殊なものと位置づけたり、考えたりしていないだろうか。恋愛を中心にして生活を組立てる傾向はないだろうか。
「生活のすみずみまで闘いへ」ということが基本的な点だよ。学問も活動も恋愛もつながっていることはわかるだろ。わかってできないのは「オジョウサン的」なんじゃないか。
B ところで一言。合唱団の中では、貴方はなるたけ他人行儀にしていて、二人だけになってから始まる恋愛なんて、それこそ恋愛セクトよ。
それから、私って、タバコの火をつけて上げたり、お世話して上げる所に喜びを感じるような人間だけど、間違っているのに気がついたので、これから直します。
A 学間はいつも、すみからすみまで民衆自身のものでなければならない。今、俺たちに国民が何を要求しているかを、知らなくてはならない。浅間の農民は「米を引きあう値段で買ってくれ」という。これは二重米価や農業政策のカラクリを経済学的に明示してくれと云っているのだ。農村の青年たちは、学生みたいに暇がないから、歌ったり踊ったりできんと云う。それは何故か。中小企業が倒れていく。それは何故か。日鋼室蘭の労働者が云う、「大学出は頭を貸してくれ」。俺たちの学問は現在の社会を変革することを希う人々のためにある。俺達の恋愛と同様に。そのためには、大学だって造り変える必要がある。
オンカンがんばれ
B コーラスで、イタリア・バルチザンの歌で「愛する人よサヨウナラ」を歌いながら、貴方のことばかり考えていました。「美しき祖国のために」も練習しました。青年歌集も片っ端から。
A 午后、青団協文化祭。「七つの子」「若者よ」「ジェリコの闘い」「シベリヤ賛歌」を歌いました、「オンカンがんばれ!」「まってました!」など声がかかって愉快。夜、音大の邦楽の人と話す。民俗音楽は、滅びつつあるのではなくて、滅ぼされていっているのだとのこと。
B 学佼から帰って机の上を見たら、貴方のお母さんからの手紙。うれしくて大急ぎで続みました何しろ、素晴らしい、うれしい手紙です。
A 咋夜、君の夢を見ました。二回目。裸で立っていて、美しいなと思いました。しかも観覧料は只
音感の活動をとおして、作曲家として成長していった人たちには、沖はるお氏、宗像和氏、仲俣申喜男氏、宇津木充氏の名があげられますが、これらの人たちはみな53年以前に入会しています。53年、54年に入会した仲問から、音楽の分野で活動しつづける者がいなかったことに、私たちはいくらか負い目を感.じます。
当時は音楽運動としての理念と方法と技術が体系づけられないままに、音楽表現の形式としてではなく、大衆活動の形式の発見、発展のなかで、音楽を見失いがちな時期だったのではないかと思います。そのことは、学生うたごえ連絡協議会が結成されていく過程で、歌をどう表現するかの討議より、サークルをいかに組織するかという討議が先行していたことに見られます。
かみつぼ ひかり ソーシャルワーカー
(朝日ジャーナル 1970.5.17号 p31-35)