資料   1953.4-1955.3 東大音感合唱研究会グリークラブ


学 27

テキスト ボックス: へ 後の証言     坪陽

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54年4月には、音感G合唱団の活動は週1回の全体合唱のほかに、一般学生対象のC合唱(みんなうたう会)週一回、クラス合唱指導、学外サークル指導、都内大学サークル連絡、男声合唱、寮音感コーラス、発声、芸術理論ディオンり、がっす。

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A のこを考ないいと不満って、君をしづら(求したのはなか。動、に連かっか。さえはないか恋愛を私有化していなかったか。恥かしく思います。

B 今、ナチの圧制の下で銃殺されていった27人のフランス共産党員の遺書を読んだところです。皆、愛する妻や子や両親を残して、自分の死が無駄でないことを信じて死んでいった。貴方も少し暇になったら読んでみるといいわね。私達の闘いが、より強くなるよう努力するのが、正しい愛情ですものね。愛情は口付けだけぢゃないんでしょ。

A 全寮停電中、ローソクで書いてます。Mが帰ってきて、他の連中をとっつかまえて、国民のための学問のあり方だとか、東大生のプチブル性だとか、活動ができず劣等感を抱くとか、からんでいます。みんな、苦しんでいます。悩んで疲れているんだ。昨夜もよる二時まで話しあった。喰いつきそうな眼で発言しているのをみると、その気持ちがギリギリ感じられて、「俺たちの学問そのものに対する考えが甘いんじゃないか」というんだ。明日は試験だろう。頑張れよ。

B 近江絹糸の闘争に行ってみて、今はもう一人一人が力一杯頑張らなきゃ駄目なんだという事を強く感じました。

でも、学佼では仲間に距があるのです。歌ってるときは、楽しくって。土曜の合唱で会えるわね。淋しくって。

A 君は、恋愛を、生活からはなれた特殊なものと位置づけたり、考えたりしていないだろうか。恋愛を中心にして生活を組立てる傾向はないだろうか。

「生活のすみずみまで闘いへ」ということが基本的な点だよ。学問も活動も恋愛もつながっていることはわかるだろ。わかってできないのは「オジョウサン的」なんじゃないか。

B ところで一言。合唱団の中では、貴方はなるたけ他人行儀にしていて、二人だけになってから始まる恋愛なんて、それこそ恋愛セクトよ。

それから、私って、タバコの火をつけて上げたり、お世話して上げる所に喜びを感じるような人間だけど、間違っているのに気がついたので、これから直します。

A 学間はいつも、すみからすみまで民衆自身のものでなければならない。今、俺たちに国民が何を要求しているかを、知らなくてはならない。浅間の農民は「米を引きあう値段で買ってくれ」という。これは二重米価や農業政策のカラクリを経済学的に明示してくれと云っているのだ。農村の青年たちは、学生みたいに暇がないから、歌ったり踊ったりできんと云う。それは何故か。中小企業が倒れていく。それは何故か。日鋼室蘭の労働者が云う、「大学出は頭を貸してくれ」。俺たちの学問は現在の社会を変革することを希う人々のためにある。俺達の恋愛と同様に。そのためには、大学だって造り変える必要がある。

オンカンがんばれ

B コーラスで、イタリア・バルチザンの歌で「愛する人よサヨウナラ」を歌いながら、貴方のことばかり考えていました。「美しき祖国のために」も練習しました。青年歌集も片っ端から。

A 午后、青団協文化祭。「七つの子」「若者よ」「ジェリコの闘い」「シベリヤ賛歌」を歌いました、「オンカンがんばれ!」「まってました!」など声がかかって愉快。夜、音大の邦楽の人と話す。民俗音楽は、滅びつつあるのではなくて、滅ぼされていっているのだとのこと。

B 学佼から帰って机の上を見たら、貴方のお母さんからの手紙。うれしくて大急ぎで続みました何しろ、素晴らしい、うれしい手紙です。

A 咋夜、君の夢を見ました。二回目。裸で立っていて、美しいなと思いました。しかも観覧料は只

音感の活動をとおして、作曲家として成長していった人たちには、沖はるお氏、宗像和氏、仲俣申喜男氏、宇津木充氏の名があげられますが、これらの人たちはみな53年以前に入会しています。53年、54年に入会した仲問から、音楽の分野で活動しつづける者がいなかったことに、私たちはいくらか負い目を感.じます。

当時は音楽運動としての理念と方法と技術が体系づけられないままに、音楽表現の形式としてではなく、大衆活動の形式の発見、発展のなかで、音楽を見失いがちな時期だったのではないかと思います。そのことは、学生うたごえ連絡協議会が結成されていく過程で、歌をどう表現するかの討議より、サークルをいかに組織するかという討議が先行していたことに見られます。

     かみつぼ ひかり ソーシャルワーカー

(朝日ジャーナル 19705.17号 p31-35)