プロローグ
 
「お母さん、ただいまあ。」
「おかえ・・!!」
 夕飯の支度をしていた母は、自分の娘の方を振り返った瞬間に顔をこわばらせた。
「詩織!だめっ、入って来ちゃだめ!」
 勝手口のドアを開けて、今まさに台所の中に入ってこようとした詩織の体を母は慌てて押し戻す。
 なんで?とばかりにぽかんと母の顔を見つめる詩織の手を取って、母は詩織を庭の方へと連れて行った。
 じゃばばばばば・・・
 頭から水をかぶせられ、楽しそうにはしゃぐ愛娘の姿を見ながら母はため息をついた。
 ・・・私の育て方は間違ってるのかしら?
 ふと何気なく、お隣の高見家の方に視線を向けると、そこには同じようにして泥だらけの体をホースの水で洗い流されている公人君の姿が。
 ただし、楽しそうな詩織と違って公人君は『詩織が・・・詩織が突き落としたんだ・・・』と泣きじゃくっているのだが。
 その夜、母は詩織に向かって言い聞かせた。
「もう少しお淑やかにならないと公人君に嫌われるわよ。」
 それを聞いて、詩織は心の底から不思議そうに首を傾げた。
「そんなことないよ。あのね、詩織と公人君は約束したんだもん。大きくなってもずっと、ずうっと一緒だって。」
 あきれるほど屈託なく笑う娘の姿に、母は苦笑いを返すだけだった・・・。
 
『なあなあ、藤崎って可愛いよな・・・』
 中学にあがると、自分の周りでそんな会話を頻繁に聞くようになった。何故かは理解できないけれど、女子の方が男子よりも早く大人になるものらしい。
 ついこないだまで二人で泥だらけになって遊んでいた様な記憶があるだけに、公人にとって今の詩織の姿は余計にまぶしく映る。
 でも、詩織の態度は昔のままで、気軽に手を取ったりする。
「公人君、一緒に帰ろう。」
「あ、うん。」
 少し気恥ずかしいような思い。でも決して不愉快じゃなかった。
 そう、クラスメイトの何気ない一言を耳にするまでは・・・。
「なんか、藤崎と公人が並んでいると不釣り合いだよな・・・」
 怒れば良かったのだ。
 でも公人は怒らなかった。それは、内心自分でもそう考えていたからかもしれないし、子供の頃から抱き続けていた詩織に対しての気持ちが少しずつ変化していくことに対してのとまどいだったのかもしれない。
「公人君、帰ろう。」
 手を握ってきた詩織の手を反射的に振りほどいてしまった。
「・・・な、公人君?」
 何か信じられないものを見るような詩織の表情がやけに気に障った。それは普段大事にしていた飼い犬に手をかまれたような表情に見えたからかもしれない。
「よせよ、本当は詩織だって嫌なんだろ・・・俺みたいなのと一緒にいるのって・・」
「・・・詩織だって?・・・『だって』ってどういうこと?」
 最近こそなりを潜めていたが、勝ち気な詩織の気性に火がついた。怒ると一部分だけに集中してしまい、周りが見えなくなる子供の頃からの悪い癖。
「じゃあ何?公人君は私と一緒にいるのが嫌だって事?」
「ああ、嫌だね。詩織といると何かと比べられるんだ。俺は詩織の引き立て役なんかじゃない。」
 乾いた音が公人の左頬の辺りに炸裂する。
「私と比べられて嫌なら努力すればいいじゃないの!それを何よ、自分の怠惰を棚に上げて、意気地なし!」
 平手打ちとともに意気地なしとまで言われ、公人も何か言い返してやろうと思って詩織の方を振り返る。
「なんだと、この・・・」
 下唇をきゅっと噛みしめ、目元の辺りに涙を一杯に浮かべたまま自分の方をにらみつけている詩織を見るとあっという間に気分が萎えた。
 黙ってしまった公人の姿を見て余計に神経が高ぶってしまったのか、詩織は泣き出す前の子供のように大きく息を吸い込んでから短く叫んでそのまま走り去っていった。
「公人君のばかあっ!」
 
 目の前で母親が大きくため息をつく。
 世の中の親は、この何気ないため息によって子供達がどれだけ傷ついているのかわからないのだろうか?
 毎度の事ながら通知票を渡した後はまるで死刑執行人を待つ死刑囚の心境だ。
「お隣の詩織ちゃんとまでは言わないけど・・・せめてもうちょっと何とかならないかねえ・・。」
 知らず知らずのうちに公人の心をえぐっている事に気がつかない母親の呟き。ずっとそのことが気がかりであれから何もする気にはなれなかった・・・というのは体のいい言い訳だろうか?
 あれからの詩織はまるで公人に対してあてつけるようにして勉強に部活に一生懸命になり、だらだらと後悔の中で日々を過ごしていた公人とはどちらも比べものにならない程の差がついていた。
 もちろんあれから詩織とは口をきいていない・・・いや、涙が出るぐらいに冷淡な事務的な会話なら何度かかわしたことがある。
 高校受験がどうの、進学塾がどうのなど、同じ事をくどくどと何度も繰り返す母の独り言じみた説教を聞き流し、公人は家の外に出た。
 年が明けて1ヶ月もすれば早いところでは高校受験が始まる。
 何もしてこなかった中学時代。
 自分で投げ捨ててしまった宝石を、ただうらやましそうに指をくわえて眺めていただけだ。
 それなのに休み前に行われた進路希望調査の風景がやけに気に掛かる。
『ねえ、詩織ちゃんはどこの高校に行くつもりなの?』
『え、私はきらめき高校よ。』
 友達に対してそう言って、挑戦的な視線を一瞬だけ俺に向けた詩織のあの姿が忘れられない。あんな詩織の表情を公人はずっと昔に見たことがある。
『詩織。危ないから帰ろうよ。』
『・・・怖かったら帰って。詩織、1人で行くから。』
 そのくせ公人がついていくと、詩織はどこか安心したように公人の手をぎゅっと握る。
 あれは・・・?
 と、そこまで考えたところで公人は頭をかいた。
「そんなわけないよな。」
 あれは多分『あなたにはうかりっこない』というだけの意味。
 あてもなく歩きながら深い考えに沈んでいた公人が我に返ると、大きな木を目の前にして立っていた。
 しゃがみ込むと、詩織と幼い頃にかわした約束の証は今もそこに息づいていた。
 その部分を指でなぞりながら公人は目を閉じた。
「・・・そうだな。」
 公人は呟いた。
 それは今まで逃げ続けていた自分の心に言い聞かせるため、自分の手に届かぬものをあきらめようとしていた負け犬の心を叱咤するために。
 自分がどうすればいいかなんて昔からわかっていた。
「まずは謝らなくちゃ・・・すべてはそれからだな。」
『私と比べられて嫌なら努力すればいいじゃないの・・・』
 口先だけじゃなくて態度で示そう。
 公人はもう一度二人の名前の刻まれた部分を指先でなでると、勢いよく立ち上がった。
 
 
                   第1章
 
 沙希は早朝の街を散歩していた。
 うっすらと霧のかかった街並みはゆっくりと目覚めつつあったが、未だその大半は眠りの中にあった。
「うーん、気持ちいい。・・・でも、どうして今日に限ってこんなに早く目が覚めたんだろう?」
 物珍しさも手伝ってどんどんと歩いていたせいか、いつの間にか沙希のまわりは見覚えのない景色に囲まれていた。
「・・・・おや?」
 誰かに尋ねようにも、通りかかる人もいない。仕方がないので、沙希は目に付いた公園のベンチに腰を下ろしてぼんやりと辺りを眺めていた。
 たったったっ・・・
 小さな公園のなかに入って来た足音の主は、沙希の同年代の少年のように見えた。新しいトレーニングウエアがよく似合っている。
 おそらくはランニングを終えてきたのだろう、時折額の汗を拭いながら整理体操をする姿を沙希は邪魔しないように見守っていた。
 少年がふう、と一息ついたところで話しかけてみる。
「おはよう・・・何かスポーツをしているんですか?」
 誰もいないと思っていたのか、少年は少しびっくりしたように見えた。
「いや、まだ決めてない。」
 その一言が沙希の心をうつ。
 スポ根ものの好きな沙希は、こういう覚悟を決めたような台詞にとても弱い。普通ならスポーツを始めてから走り始めたりするものだが、ただ黙々と自分を鍛える姿勢に何かを感じ取ったのだろう。
「そうですか。・・でも、きっとあなたの血液を沸騰させるような何かに出会う時がくると思うから・・・がんばって!」
「え、あ、うん・・。ありがとう。」
 少し照れたように答えるその姿も沙希にとってポイントが高い。
「あ、ところで・・・・ここはどこでしょう?」
「は?」
 
 グラウンドに野球部監督の怒声が響き渡る。
「甲子園てなあ、何だあっ?」
「オッス!努力と根性ッス!」
 コンマ1秒の狂いもない部員達の大合唱に満足したのか、監督がにやりと笑う。
「その通りだ・・・だったら甲子園なんて簡単だ。ひたすら努力して根性だしゃあいいんだからな・・。」
 その光景を眺めて沙希は目が点になる。
 ・・・違う、私の求めているのとはかなり違う。
 沙希は静かにその場を離れながら、他の部活の練習風景に目を転じた。
 きらめき高校に入学して3日目。沙希は自分の青春をぶつけるべき部活を求めてあらゆる運動部の練習風景を見学してまわっていた。
「うーん、なんかもっとこう、かっと瞬時に血が沸騰するような部活ってないかしら?」
 そう呟いて弱小サッカー部の方に目を転じた。
 ちょうど1人の新入生が入部希望でもしているのか、部員達が拍手なんかしている。
 ・・・あの人?
 その姿を確認した瞬間、沙希は立ち上がっていた。
 似たり寄ったりの部活なら、あの星に賭けてみよう。そんな思いとともに、沙希はその場でサッカー部のマネージャーになることを宣言した。
「はい、マネージャー希望の虹野沙希です!よろしくお願いします。」
 驚いたように自分を見つめている少年に向かって沙希はにっこりと微笑んだ。
 
「詩織ちゃん、最近なんだか楽しそう・・・。」
 詩織の隣を歩く愛が、ぽつりと呟いた。
「そう?だって高校生になったもの・・・うきうきして当然でしょ?」
「ん・・・」
 愛は軽くうなずいただけで何も言わなかった。
 確かに詩織は合格発表の掲示板を見てから目に見えて上機嫌になった。でも、どこかつまらさそうに自分の名前を見つけ、それから・・・・・・何を見てから機嫌が良くなったのだろう。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。」
 ・・・何でもない。
 引っ込み思案で、ほとんど親しい友達もいない自分にとっての最高の親友。1人ぼっちだった自分に初めて声をかけてくれた。
 詩織と出会えたことが中学時代の自分にとって最も幸運だったと思う。
 そんな幸せな愛の心に今、小さな小石が投げ込まれた。
 その小さな波紋は今は目に見えない。
 
 季節は夏へと移り、蝉の鳴く声がどこか遠くから教室の中へと聞こえくる。
「ねえ、藤崎さん。ちょっといいかな?」
 昼休み、横合いから急に聞き覚えのない声をかけられて、詩織は首を傾げながら声のした方を振り向いた。
「・・えっと、虹野さん・・・よね?・・・何?」
「あ、そうか。初対面だったよね。私、虹野沙希です。」
 きびきびとした感じでぺこっと頭を下げられて、詩織も慌ててそれにならう。
「藤崎詩織です。・・・・で、どうしたの?」
 よくぞ聞いてくれました、と言うふうに詩織の目の前でぱん、と両手をあわせる。
「高見君の幼なじみなんでしょ?彼のこといろいろ教えてくれないかな?」
「・・・いろいろって・・・・どういうこと?」
 その、どこか感情を押さえ込むような口調に気がつくはずもなく、沙希は目の前で大きなマネージャーノートを広げ出す。
「うん。高見君の昔の運動能力データがあったら練習計画とかたてやすいの。だから子供の頃のこととか聞かせて欲しいなあって。」
 喜々として鉛筆片手に身を乗り出してくる沙希を押し返しながら、詩織はすまなさそうに呟いた。
「そんな・・・データなんて。もう忘れちゃったから。」
「そんな堅苦しく考えなくてもいいの。かけっこが速かったとか、木登りが得意だったとかでいいから・・・」
 そんな沙希の表情を窺うようにして、詩織はじっと沙希の目の辺りを見つめていた。が、沙希は全く気にならないのかにこっと微笑み返す。
「・・・本人に聞けば一番早いんじゃないの?」
 ぶっきらぼうな詩織の言葉だったが、それを聞いて沙希の頬の辺りがぱあっと紅潮する。慌ててそれを隠すように、ノートで自分の顔を隠す仕草がやけに可愛い。
「そ、そんなの恥ずかしいじゃない。」
「他人に聞いてまわる方が余計恥ずかしいと思うけど・・・?」
「どうしても!なの・・・。」
 詩織は沙希に気づかれないようにしてため息をはいた。
「そうね、運動神経は悪くなかったと思うわ。後は・・・」
「何?」
 詩織はすまなさそうに眉を寄せて頭を下げた。
「・・・ごめんなさい。あんまりお役には立てないみたい。」
 
「え?高見さん・・・・?」
「うん、同じ中学でしょ?」
 きらきらと目を輝かせた沙希の視線を避けるようにして、愛は首をすくめた。
「あ、あの・・私、男の子って苦手だから・・・・」
「名前も聞いたことがない?・・・おかしいな、彼って中学の時は目立たなかったのかしら。・・・藤崎さんの幼なじみらしいんだけど?」
「・・・詩織ちゃんの?」
 愛の瞳が急に思案深げな色を帯び始めた。
 ・・・幼なじみ。そんな仲のいい男の子がいたら忘れるはずないんだけど?
 詩織と出会ってからというもの、ほとんど詩織の側にいたのだ。そんな存在がいれば記憶に残っているはずなのだが。
 もちろん、詩織の口からもそんな名前を聞いたことがない。
「んじゃ、見たら思い出すかも。」
 と、呟くなり沙希は愛の腕をとって走り出す。
「あそこの・・・今ボール持ってるのが高見君。」
 沙希の指さす方向を見る。
 泥だらけになってボールを追うその姿を見て、愛は首を傾げた。やはり見覚えはない。
 ・・・でも、なんだか不思議。高見さんってあんまり怖くない気がする。
「あの、もしもし?美樹原さん・・・どうしちゃったの?」
 沙希の呼びかけにも反応を見せず、どこか遠くを眺めているような愛を見て沙希は困ったな、という風に頭をかいていた。
 
 夏休みの早朝。
 いつもとは違うランニングコースを求めた望は、自分の前方を走る小さな影を目にして少しペースを上げた。が、人影との差は縮まらない。
 ただ単に朝の挨拶でもしようと思っていただけだったのが、ついつい本気になる。しかし、結局その影に追いつくことはなく望はゴールであるきらめき高校の校門へとたどり着いた。
「・・・自転車かなんかだったのかなあ?」
 男子だろうが女子だろうが、大概の人間には負けない自信のあった望はそう呟く。
 たったったっ・・・
 グラウンドの方で軽い足音がする。静まりかえった早朝にはそんな微かな音がよく響くものだ。
 足音の主の少年を見た瞬間に望は感覚的に理解する。さっきの人影はこの少年に間違いないと言うことを。
 ・・・へえ?この学校にもいるんだ。
「おはよう!君って何部の人?」
「・・・サッカー部だけど?」
 少年はゆっくりと立ち止まり整理体操をしながらそう答えた。
「ああ、ごめんごめん。邪魔するつもりじゃなかったんだ。」
「いいよ別に・・・まだアップの途中だから。」
 午前5時すぎからアップを始めている少年・・・そこで望にはぴんときた。
「ひょっとして高見君かな?沙希が目をかけてるっていう。」
「何だ、虹野さんの友達?」
 少年の体から警戒心が解かれたのを感じた。と、同時に望の顔をじっと見つめる余裕ができたのだろう。その口があ、と言う形に開く。
「水泳部の清川さんか・・・こんな朝早くから熱心だね。」
「お互い様。」
 何で名前を知ってるの?などという野暮なことは聞かない。高校生にして日本記録を持つ自分という存在はこの学校で有名なのだから。
「でも、団体競技は大変だね。沙希も不思議がってたよ。高見君が一番弱小のサッカー部に入部したのか理由がわからないって。そこまでサッカーが好きとも思えないとも。」
 ふと少年の瞳がそこにはいない誰かを見つめるように遠くなった。
「・・・そのぐらいじゃないと、あいつに許してもらえないから。」
「え?」
 少年は喋りすぎたとでも言うように視線を逸らし、軽く右手を挙げて短いダッシュを繰り返し始めた。
 自分の練習も忘れて、望は黙って汗を流す少年の姿を眺め続けていた。
 
「・・・うーん。私はサッカーのことよくわからないけど、この試合は負けるね。」
 競技場の手すりに捕まりながら、望がそう呟いた。それに対して詩織はため息を吐く様に同意する。
「私も多分そう思うわ・・・残念だけど。」
 後半も時間が押し迫って何点差で負けていて・・・というならまだしも、まだ試合は始まったばかりである。
 望はただ単に両チームの選手から発せられる雰囲気を比べただけであり、詩織は公人に対しての包囲網が完成していることをバスケット部員としての観察眼で判断しただけのことである。
 おそらくグラウンド上の選手個人としての能力は公人が一番であっただろう。地区大会の決勝ということを考えればそれは充分立派なことには違いない。
「・・・でも、それだけ。」
 寂しそうに呟く詩織の目の前で試合終了のホイッスルが鳴った。
 競技場からの帰り道、詩織は公園に立ち寄って目当ての木を見つけてしゃがみ込むと、二人で彫り込んだ名前をそっと指先でなでた。
「・・・公人君てば、いつになったら私に話しかけてくれるんだろう?」
 自分の後を追いかけるようにきらめき高校に合格し、今では成績も詩織のそれと遜色ない。でも、彼にとってはまだ何か足りないのだろうか?
 本当は今日の試合に勝ってもらいたかった。そうすれば・・・という期待がなかったと言えば嘘になる。
 詩織にだって意地はある。でも最近は寂しさがそれを上回るようになっている。
 その寂しさがふと詩織の心を狂わせる瞬間がある。
 公人の努力がすべて自分のためというのは単なる自分のうぬぼれであって、本当はもう私のことなどどうでもいいのではないかという思い。
「それでなくても最近格好いいから女の子が騒いでるし・・・。」
 詩織の腕が寒そうに自分の体を抱く。初冬の風は一人きりでいるには少し冷たい。
「帰ろう・・・。」
 と立ち上がった詩織の視界に、うなだれたままこちらに歩いてくる公人の姿が目に入った。詩織は慌てて近くの茂みの中に姿を隠すと、息を潜めて成り行きを見守った。
 公人は先ほどの詩織と同じように、指先で二人の名前をなぞった。そして呟く。
「・・・いつになったら詩織の隣に立てることやら。」
 ・・・え?
 自分で想像はしていても実際に公人の声で呟かれるとどきりとする。高鳴る心臓の音を聞かれまいとするように詩織はぎゅっと胸の辺りを押さえ込む。
「あの時のことを謝って・・・」
 くしゅん!
 詩織は慌てて自分の口をふさいだが手遅れだった。
 なんとも気まずい沈黙が辺りを支配する。
 公人は自分の上着を脱ぎ、詩織のいる茂みの辺りに向かって投げると、黙ってその場を立ち去った。
「・・・一度決めたらてこでも動かないのよね。」
 公人の上着をまとい、公人の体温を感じながら、詩織は久しぶりに心の底から穏やかに微笑んだ。
 
 
                   第2章
 
 一年前はグラウンドの隅っこで申し訳なさそうに練習していたサッカー部も、大勢の新入部員を迎え入れた今年になってやっと本来の使用区域を回復していた。
 ここならすぐに試合に出られるという現代っ子らしい打算的な目的でやってきたものや、名門校特有の上下関係を嫌ったもの、また弱い(と思われている)チームで強いチームを倒すという熱い目的をもってやってきたなど、理由は様々であるが有望な選手がそれなりに集まった。
 だが、有望とは言っても所詮技術的側面であって、肉体的にはまだまだ脆弱な中学生の域を超えていないためまずは体づくりから始めなければならないのだが。
 そんなグラウンドに目を向ける少女の姿が一つ。
 その視線は少女の性格を表すかのように、どこかおどおどとした、控えめなものであった。
 それでもその視線の中に含まれる熱量は、単なる視線という範囲を超えたものであるように感じられた。
 そしてその視線はグラウンド全体ではなく、1人の少年に対して向けられている。
 
「パス行きますっ!」
 自分の意志だけを簡潔に伝えたかけ声に反応して、ディフェンスが反射的に詩織の視線の方角に向かって手を伸ばす。
 が、詩織の右手首はまるで手品のようにひるがえり、ディフェンスとは逆の方向にボールが放たれた。
「ナイッシュー!」
 インサイドに注意を向けられ、完全にノーマークになったアウトサイドからきちっとシュートを入れたキャプテンがちらっと時計を確認して大きく手を叩いた。
「はい、今日はこれまで。各自整理体操はしておいてね。」
 体育館を使用する部活動は多い。そのため詩織の所属する女子バスケット部も決められた時間の中で全体練習することを余儀なくされていた。
 もちろんそれ以外の場所で練習は可能だし、個人で練習するのにも制限はない。
 新入部員達と一緒になって用具の後かたづけをすませ、ほっと一息をついた詩織は遠慮がちに自分を見つめる愛の姿を見つけた。
「で、何なの相談って?」
 詩織は椅子に腰掛けながらそう尋ねた。
 放課後の教室に人影はない。時折グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声や、吹奏楽部の演奏の音が余計に静けさを強調させているような感覚にとらわれる。
 そんな中で、詩織は自分の目の前に座る愛の顔をのぞき込みながらもう一度質問した。「相談したい事って何?」
 愛はちょっと詩織の表情を窺い、ためらいがちに口を開いた。
「あ、あのね。高見さんって詩織ちゃんの幼なじみなのよね・・・?」
「・・・メグに話したことあったっけ?」
 詩織は何かを思い出すように教室の天井を見上げた。が、当然天井にも記憶にも答えはない。
「ううん、虹野さんの・・・」
「ああ、あの時の・・・。」
 詩織は合点がいったという風にうなずいたが、その仕草はどこか曖昧な印象を受ける。
「うん、幼なじみで家もお隣だけど・・・?」
 それがどうしたの?という風に愛の顔を見つめた。しかし愛は詩織の視線を避けるようにして机の上を見つめている。
 ・・・長期戦になりそうね。
 そんな詩織の思いとは裏腹に、愛はしばらくすると詩織の手をぎゅっと握りしめて切り出してきた。
「詩織ちゃんは・・・彼のことをどう思ってるの?」
 少し意表をつかれた様に詩織は大きく目を見開いた。それに遅れるように頬の辺りが微かに紅潮する。
 愛はそんな詩織の表情を一瞬たりとも見逃すまいと凝視している。
「・・・あー、その、あれよ、・・・あれ。」
 普段の詩織からは考えられない歯切れの悪い物言いが続き、指先は机をとんとんと叩き続けていた。
 ちらりと愛の顔を盗み見ると、まともに視線がぶつかってしまい、詩織は観念したように大きくため息をついた。
「・・・うん、大好きだよ。子供の頃からずっと・・・。」
「・・・そうなんだ。うん、そうだよね。高見さんって成績もいいし、格好いいから。」
 そう呟く愛の瞳はどこか意志を失ったか弱い雰囲気を漂わせていたのだが、照れたように俯いていた詩織にはそれを見ることができなかった。
「・・・ちょっと違うかな。」
「え?」
 恥ずかしげに呟いた詩織の言葉に反応して、愛はうつむきかけた顔を上げた。
「成績とか、そんなんじゃなくて・・・彼、優しいの。・・・私は、それだけでいいのに。本当に馬鹿なんだから・・・。」
 そこにはいない誰かに話しかけるような詩織の姿に、愛は自分の平衡感覚が失われたような感覚を覚えて、机についた両腕で必死で体を支える。
「・・・ごめんね。」
 その言葉が自分に向かって投げかけられたものであるということを理解するまでに数瞬の間が必要だったのだろう。どこかうつろな表情で愛は振り向いた。
「・・・え?」
「だって・・・公人君を紹介して欲しかったんじゃないの?」
「・・・・え?あ、そうなの。でも私じゃ詩織ちゃんなんかに勝てないし、詩織ちゃんはずっと高見さんの事が好きだったんでしょ?だからいいの。」
 そんな自分を卑下するような愛の体を優しく抱きしめて詩織はささやいた。
「そんなこと無い、メグは可愛いよ。でも公人君は、公人君は誰にも渡したくないの・・・だから。」
「・・・詩織ちゃんは・・・」
「何?」
 愛はふるふると首を振って、開いた口をきゅっと閉じた。
 
 学校からの帰り道。
 愛は、軽く右手を挙げて背中を見せかけた詩織に向かって呼びかける。
「詩織ちゃん!」
 詩織は、ん?と言う風に振り返り愛の言葉を待っていた。
「私・・・詩織ちゃんのこと応援するから。困ったことがあったら相談してね。」
 詩織は心から嬉しそうに微笑んだ。
 遠ざかっていく詩織の背中を見つめながら、愛は本当に聞きたかったのに聞けなかった質問を小さく呟いた。
「詩織ちゃんは・・・私よりも高見さんが大事なの?」
 夕日に照らされた愛の影が長く長く背後に伸びていた。
 
 去年の雪辱を果たして全国大会出場を決定したサッカー部の練習はやはり活気にあふれている。
「ラスト5分です。みんなー頑張って!」
 時計を確認しながらグラウンドに声をかける沙希の後ろでは黒い影が立っていて、その様子をじっと眺めていた。
 その正体は冬にも関わらず真っ黒に日焼けした清川望、その人である。
「沙希、あんたマネージャー失格。」
「え?」
 いきなりそう言われて、沙希は慌てて後ろを振り向いた。
「望・・・いきなり何?」
 マネージャー失格とまで言われて笑顔で対応できるほど人間はできていない。沙希は厳しい表情で望の視線を真っ正面から受け止めた。
 望は腰の辺りに両手をあて、ため息をついた。
「沙希ってさあ、サッカー部のマネージャーやってるんだよね?」
「当たり前でしょ。」
 望は自分の頭をがりがりとひっかきながら少し哀れむような目で沙希を眺めている。
「そう。・・・でも、あんたってサッカー部の中の1人しか見てないじゃない。スポーツ選手の立場として言うけど、あんたの態度って部全体をしらけさせるよ。」
「そ、そんなこと・・・」
 ない、と言いかけて沙希は黙り込んだ。自分としても多少の自覚があったのだろう。
 それから、と望が再び口を開いた。
「これは、親友としての忠告だけど・・・」
 普段の望らしからぬ歯切れの悪さに、沙希は目でその先の言葉を促した。
「公人は、あんたのことなんか見ちゃいないよ。あんたの王子様には既にお姫様がついてるの・・・。」
「・・・どういうこと?」
 沙希の顔から何かでぬぐい取ったように表情が消えた。
 『公人の奴は、サッカーが好きなわけでもあんたのように熱血が好きなわけでもないの。ただ、藤崎さんに認められるためだけに努力してるんだって。』
 そして今、沙希の目の前で詩織と公人が何の言葉もなくすれ違っていく。視線すら合わせようとしない。
「・・・変、そんなのすっごく変だよ。」
 沙希はそう呟くと、何かを決心したように大きく頷いた。
 
「・・・説明してくれないかな?ねえ、藤崎さん。」
「私と公人君の関係なんか虹野さんには・・・関係ないと思うけど?」
 問いつめるような沙希の表情に対して、詩織には困惑の表情がありありと浮かんでいる。
「だって気になるじゃない。お互い好きなのに、まるで喧嘩してるみたいな態度取るのなんて・・・。」
「・・・喧嘩、か。そうね、私たちずっと喧嘩してるの。もう5年目になるわ。」
 どこか達観したような詩織の様子に、沙希はなおも食いさがる。
「でも、好きなんでしょう?」
「私はね。でも・・・」
 そう呟いて視線を逸らした詩織の目の前の机に、沙希の手がたたきつけられた。
「お願いだから、はっきりして!」
 思いもかけない悲痛な叫びに、思わず詩織は俯いてしまった沙希の顔をのぞき込んだ。
「・・・虹野さん・・・。」
 沙希は一杯に見開いた瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、詩織に向かって痛切に訴え始める。その手は何度となく机を叩き続けながら。
「あなた達がはっきりしないと夢見ちゃうじゃない!女の子だもん、当然でしょ?でも失敗するのがわかってる哀しい恋を追い続けられるほど強い人なんて滅多にいないわよ!」
 そこで沙希が顔を上げて詩織の顔をきっとにらむ。
「それとも、後1年以上もこんな思いを抱えて高校生活を過ごせっていうの?」
 沙希の瞳がまっすぐに詩織を見つめている。
 やがて、詩織はその瞳の前に敗北を認めた。それは多分、そこに自分の姿を見てしまったからかもしれない。
 
 そして冬休み、全国大会初出場のきらめき高校の快進撃が始まった。一回戦・二回戦はノーマークだったせいか、危なげなく勝ちあがる。だが、三回戦ともなるとチームの司令塔である公人が執拗なマークにあい、思うように機能できなくなった。
 だが、劣勢だった試合をひっくり返したのは後半からのポジションチェンジであった。公人は自らポストプレイヤーとして前衛に移り、守備をを重視しての縦のロングパス一本という変形イングランドスタイルで、相手チームのファウルを誘ってフリーキックをもらう作戦が的中する。それ以降相手チームの公人へのマークにためらいが生じ、なんとか振り切る事に成功する。同じように準決勝もフリーキックで得た虎の子の一点を守りきって決勝へと駒を進めた。
 ただ、反則をもらうたびに公人の体は宙を舞い、傷だらけになっていく。詩織はその光景を何か祈るようにじっと見つめていた。
 決勝戦のフィールドに立つ公人。両膝のサポーターと右太股のテーピングの白さが何とも痛々しい。しかし、作戦はそれしかない。走っては転ばされる愚直な繰り返しに詩織の心が悲鳴を上げる。
 何度も目をそらしかけるが。鉄の意志でその衝動を押さえ込む。公人がそこにいるという事実が詩織にそれを許さない。
 そして一点差で負けている後半も残り10分と言うところで、バックチャージを食らった公人の体は大きくバウンドし、それきり動かなかった。
 公人の2年の冬が終わりを告げた瞬間、きらめき高校の快進撃も終わりを告げた。
 
 白い病室の中には右足首をギプスで固定された公人の姿があった。まだ麻酔が効いて眠っているのか、その体は身じろぎもしない。
 ベッドの横には赤く泣きはらした瞳の詩織が腰掛けていた。その両手は公人の右手をぎゅっと握りしめている。
「・・・こんなになって・・・。」
 独り言のような詩織の呟きに反応したのか、公人の右手がもぞもぞと動き出す。
「公人君!」
 公人は首を少しだけ傾けて詩織の顔をじっと眺めていた。やがて口を開くと、ゆっくりと話し出す。
「・・・また、泣いてるんだな。」
「だって、心配だもの!なんでそこまでやる必要があるの?私はもう公人君のこと怒ってなんかいないわよ。・・・だから、もういいじゃない。」
 話しているうちに感情が高ぶってしまい、詩織は再び涙をこぼし始めた。それに対して公人はゆっくりと首を振った。
「・・・俺は・・・あの時の詩織の顔が忘れられないよ。」
「公人君・・・」
「詩織が俺のことを許してくれても、お前にそんな顔をさせた自分を何よりも俺自身が許せない。・・・だから・・・」
 詩織は公人の手をぎゅっと握りしめて激しく首を振る。
「そんなことない!そんなことないよ!・・・だから!」
「・・・ここで逃げたら、俺はまた詩織を泣かせるかもしれない。」
「・・・・・・。」
「だから、今は帰ってくれ。」
 詩織は黙ったまま立ち上がり、病室のドアノブに手をかけたところで立ち止まった。そして少し照れたように小さく呟く。
「私、・・・後一年しか待たないから。それがすぎたら私の方から公人君に近づいていくから。」
「・・・ありがとう。」
 ぱたん。
 ドアが小さな音を立てた。
 
 
                   第3章
 
 階段のところでぐらついた公人を見て、愛は息をのんだ。だが、愛の想像したような参事にはならず、公人は何でもなかったようにバランスを取り戻してゆっくりと階段を下りていく。
「・・・高見さん、手伝います。」
「ありがとう。でも、それじゃ意味がないんだ。」
 手を差しだそうとした愛に向かって公人は柔らかな笑顔を向けた。切れた靱帯はつながったものの、前以上に鍛えなければ激しい運動には耐えられない。公人の今の課題は体を支えるヒフク筋(足首付近の筋肉の一種)の強化である。
「美樹原さんにそんな言葉をかけてもらえるとは思わなかった。」
「・・・どういうことですか?」
「だって、ずっとにらまれてたからね。」
 愛は赤面して公人から視線を逸らした。
「・・・ずっと嫉妬してましたから・・・」
「え?」
「なんでもないです。・・・頑張ってくださいね、詩織ちゃんのためにも。」
 愛は恥ずかしそうにそう言い残して立ち去った。その姿を見送ってから、公人はまた黙々と階段の上り下りをひたすら繰り返し始めた。
 春が過ぎ、夏が終わる頃には公人は再びグランドの上にいた。
 そんなある日のこと。
 詩織の下駄箱から手紙がこぼれ落ちた。
 
「私は誰にもあのことは喋ってないよ。」
「・・・そうとは思ってたけど、一応ね。」
 沙希は詩織の手から手紙を受け取ると、感心したような声を出して手紙に目を通す。
「『藤崎さんは高見さんにふさわしくありません。』、か。・・・自信家だね、この子。誰だか知らないけれど。」
「そんなことないよ、詩織ちゃんは高見さんとお似合いだと思う。」
 相変わらず詩織のこととなると見境のない愛は、周りの視線に気がつくと顔を真っ赤にして身を縮こまらせた。
 詩織は指先で手紙をつまみ上げてつまらなさそうに眺めながら呟いた。
「・・・中学時代の公人君は、肩身狭かったんでしょうねえ。」
「詩織ちゃんは中学の頃からみんなのアイドルだったから。」
 愛が嬉しそうに語るのを、詩織と沙希はなんとも複雑そうな表情で聞いている。
「肩身の狭い思いをしないためにも、私も努力しないとね。」
 涼しげにそう語る自分を見て微笑む沙希に気がついたのか、詩織は不思議そうに問いかけた。
「・・・私、なんか変なこと言った?」
「一般的には『恋におちる』っていうけど、そういうのってなんかいいよね。」
「何が?」
「お互い高め合うっていう関係。それって何かうらやましい。」
 沙希はほんの少し頬を赤らめて呟いた。ただ、その瞳はほんの少し遠くを見ていたように詩織には思われた。
 
 ある限られた期間というのは、その終わりを意識しだすと時の流れを早く感じるものらしい。
 去年と同じ日の同じ場所で。
 去年と同じように涙を流しながら。
 でも、去年とは全然違う結末に心の底から喜んでいる。
 国立競技場が揺れていた。
 声にならない叫びが充満する応援席の中の視線の一つと、あらゆる外界から切り離されたようなフィールドの中の一つが重なった。
 『もういいよね?』とばかりに涙を流しながら詩織が微笑みかける。それに対して公人は大きく頷くと応援席めがけて走り出した。
 そして詩織に向かって大きく口を開く。が、歓声の中ではその声は届かない。
 しかし、大歓声に包まれるスタンドに座ったまま、詩織ははっきりと公人からのメッセージを受け取った。
 それは・・・・
 
 一方その片隅では・・・
「おやおや、泣いてるねえ、このお人好しが。」
 からかうように望が沙希の髪の毛をかき混ぜる。
「私は優勝したから嬉しくて泣いてるの。」
「ま、そういうところが気に入ったから親友してるんだけど・・・」
 望はそう呟いてぽんと自分の胸を叩いた。
「今日は特別にこの胸を貸してあげよう。一杯泣いていいからね。」
 それを聞いて、それまでは控えめに流れていた沙希の涙が急激にその水量を増やす。もちろんそれらは全部望の服の繊維にしみこんでいったのだが・・。
 
「詩織、まだか?」
「すぐ行くわ。」
 スポーツバックを抱えた詩織が門の所までやってくるのを見届けてから、公人はゆっくりと歩き出した。
「あ、置いていこうとしたな?」
「そんなわけないだろ。」
 冬休みの最後の一日、つまり昨日のことになる。
 公人は詩織と一緒にずっとずっと飽きることなく語り合っていた。謝りたかったこと、話したかったこと・・・まるで数年ぶりに出会った親友同士のように・・・
 公人の隣を歩きながら、詩織は横目で公人を盗み見た。
 昔は文字通り肩を並べて歩いていたのに、今は詩織の鼻の辺りに公人の肩がある。その過程がすっぽりと二人の歴史から抜け落ちていることを今更ながら残念に思う。
「どうしたの?」
 その視線に気がついたのか、公人が心配そうに詩織の顔をのぞき込む。
「ううん、何でもないの。」
 お互い何か照れたように視線を前方へと移して黙ったまま歩き出す。
 冬の朝は晴れると寒い。二人の吐く息は白く、体にまとわりついては強い風に吹き飛ばされその姿を消していく。
 ふと、詩織は大きく息を吸い込んでそっと公人に近寄った。
「・・・ちょっと寒い・・・よね?」
「・・・冬だからな。」
 おずおずと詩織の指先が公人の手に触れ、ためらったように逃げようとした瞬間に公人の手がそれを捕まえた。
「あっ・・・。」
 詩織が顔を赤くして公人の顔を見上げると、公人は口をへの字にしてその視線を避けようと必死になっている。それを見て勇気づけられたのか、詩織はくすりと笑って自分からその手をきゅっと握り返した。
 つながれたその手は放されることなく、二人はそのままきらめき高校で付近で数多くの好奇の目にさらされることになる。
 どちらかというと嘆き悲しむ視線の方が多かった気もするが・・・
 
 
                   エピローグ
 
「公人君って絶対意地悪になったと思う。」
 詩織が心持ち頬を膨らませてそう呟いた。
「・・・何で?」
 顔に感じる外気は冷たいけれど、その柔らかな日差しはきっと春のもの。卒業証書を片手に、二人は肩を並べて歩いていた。
「・・・だって、私を置いてサッカー留学なんかするんだもの。」
 どこか照れたように詩織は公人から視線を逸らした。
「あ、いや・・・それは悪いとは思ってるけど。」
 困ったように呟く公人の方を詩織は笑顔で振り向いた。
「冗談だよ。」
「・・・それはそれでちょっと悲しい。」
 隣を歩いていた詩織の足が止まったのに気がついて、公人は詩織の方を振り返った。
「どうした?」
「ん、あれ。」
 詩織の指さす方向には、伝説の樹があった。そして、その下に佇む人影と、その下へとかけていく人影。
「・・・上手くいくといいね。」
「うん。」
 しばらくそうしていたが、二人は同時にお互いを振り向いてくすりと笑った。
「詩織ちゃん!」
 自分を呼ぶ声に気がついて後ろを振り返ると、そこには愛や沙希をはじめとした高校時代をともに過ごした友人達がそろっている。
「公人、これから打ち上げに行くんだけどどうだ?」
 無意味に白い歯をきらめかせながら、好雄が誘いをかけたのだが公人は首を振った。
「悪いな、これから詩織と公園まで行くんだ。」
「・・・公園?何しに?」
 首をひねる好雄にはかまわず、公人と詩織は手をつないだまま走り出す。
「俺達だけの伝説の樹がそこにはあるんだよ!」
 駆けだした二人に向かって優しい風が吹き付ける。それはほんのりと温かく、優しい臭いを含んだ風。
 優しい風が吹く頃、季節は春へと移り変わる。
 季節が巡り、二人の間にどれだけの年月が降り積もっても、きっと二人はこの年の季節を忘れないだろう。
 つないだその手を二度と放さないために・・・・
 
 
                     完
 
 書き終えて一言。やっぱり難しかったです。
 始めに断っておきますが、ここしばらく私は瀕死連合のページを直接見たことがありません。『こんな感じだよ』と言う風に作りかけのページをみせてもらったことはあるのですが。(笑)
 だからリクエストについてもラオウさんからのまた聞きです。
『中学時代だめだめだった主人公が努力して詩織のハッピーエンド。最初はシリアスでラストはラブラブだそうだ。』
 シリアス!そういや、最近書いて無いなあ。(笑)
 で、のりのりでかき上げた文章は『詩織ファン・メグメグファン・虹野ファン・紐緒ファン・その他数人ファン』には確実に読ませることのできないどろどろの人物関係ができあがっていたのでした。ちなみ嫉妬で(ぴー)が(ぴー)を階段から突き落としたりすると言えば大体想像がつくかと。(笑)
 ラオウさんに相談してみたところ、『いや、シリアスってのはそう言う意味では・・』
 ちょっと冷静になってみました。・・・ファイルを消去。
 おそらく、二人が幼なじみ以外の何者でもない関係から出発するのを希望しているのだろうか?それとも・・・
 私が選んだのは後者です。
 ひょっとすると、朝窓を開けたら視線がぶつかるとか、子供の頃二人で買った時計(壊れている)が急に動き出すとか、もうお約束全開な展開を期待していらっしゃったならおそらく物足りなく感じるでしょう。
 主人公の動機付けをしたかったのと、最初のうち『一緒に帰るのが恥ずかしい・・・』あたりを理由付けしたかったんですが・・・。
 しかし、リクエストと言うことで多分ジャンルを限定してくれたんでしょうね。やったこともないギャルゲーがリクエストされたらどうしようとか思ってたんですけど。かなりの範囲をカバーできるつもりではあったんですが。
 

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