「望、英語の宿題やってきた?見せてくれないかな?」
 英語の授業を次に控えた休み時間。
 クラスメイトの何気ない一言に慌てふためく私に隣の席から遠慮がちに差し出されたノート。
「良かったらどうぞ・・。」
 単なるクラスメイトに過ぎなかった未緒と親しくなったのはこんな些細なきっかけだった。
 
 いつもの練習は終わったとはいえ、広い室内プールに部員は望を含めて2人。
「立派な施設が泣いてるよ・・・。」
 望はため息と共にそんな言葉を吐き出した。やれやれと肩をすくめ、プールから身体を引き上げながら公人に声をかけた。
「公人、私は走りに行くからプールの戸締まり頼むね。」
 公人は顔を望の方に向けて右手をあげた。
 少々やりきれない気持ちだったためか、入り口のドアを勢いよく開くと途中で妙な抵抗を受けた。続けて女の子の押し殺したような悲鳴。
 望が慌ててドアの向こう側に回り込むと、赤くなったおでこを押さえて少し涙ぐんでいる未緒を発見したりする。
「ご、ごめん未緒。大丈夫か?」
「へ、平気です・・。」
 そのまま放っておくわけにもいかないので、望は未緒の手を引いて室内プールのなかに連れてきて救急箱を取りに行った。
 幸いおでこをうっただけで大したこともなく、眼鏡のフレームが少しゆがんだだけのようで望はほっとため息をついた。
「そういえば未緒は何であんな所に立ってたんだ?」
 何気ない望の一言に、未緒は顔をやや上気させ口ごもりちらちらとプールの方を盗み見る。
 しばらくして望がそのことに気が付いてぽんと手を打った。
「ああ、なるほど。・・・まったく公人のやつは・・。」
 そう呟きながら望が身近なビート板を拾い上げてプールの方に歩いていくのを見て、未緒は慌てて引き留めようとするが間に合わなかった。
 公人がちょうど水面に頭を出した瞬間、望がモグラ叩きのようにビート板でその頭を一撃する。柔らかな素材とはいえかなりの衝撃に公人の首が嫌な音をたてて軋んだ。
「・・・何するんだよ?」
「未緒を待たせたまま練習するんじゃないの。」
 腰に手をあてて仁王像のように公人を見下ろしていた望の手を未緒がくいくいと引っ張った。
「あの・・望さん。別に待ち合わせしてたわけじゃないんですけど。私が勝手に待ってただけで・・。」
 ちゃぷちゃぷと水音だけがしばらく3人の周りを支配していたが、望はやがて大きく息を吸い込んで公人の顔を指さした。
「お前が悪い。」
 ・・・・世の中というのは結構理不尽がまかり通るものである。
 
 結局望は走りに行く気分も消えて、未緒と2人で家路を歩むことになった。
「こんな真っ暗になるまでねえ・・・。」
「ずっと待ってたわけじゃなくて、図書室で調べものをしてたら遅くなって室内プールに電気がついてたからひょっとしたらと思ってのぞき込んだだけなんです。」
 望は早口で言い訳をまくし立てる未緒を横目でちらりと見ただけで敢えて何も言わなかった。未緒にとっては望のそういう態度の方がキツイものがあるのだが・・。
「言っちゃえばいいのに・・つき合ってくださいって。端から見てると公人の方も満更じゃなさそうだし。」
 暗闇の中に真っ赤になって俯く未緒の顔が見えるようであった。そしてため息。
「高見さんは誰にでも優しいから。・・多分望さんの勘違いですよ・・。」
「誰にでも優しく、均等に3ヶ月に1回デートに誘うのか?」
「望さん、その時点でもう高見さんの本命じゃないって事です・・。」
 などとあまりしゃれにならない会話を繰り返した。罪作りなシステム、もとい主人公である。(笑)
 休日のたまの息抜きを除けば、練習熱心な望でさえ舌を巻くほどに水泳に打ち込む公人の姿からは想像もつかないのだが・・。
 
「よし。清川さん、勝負だ。」
 月に一度こうやってタイムレースをしている。
 日本女子水泳界では既に『清川の前に清川無し、清川の後に清川無し。』とまで囁かれているだけに並の高校生男子では歯が立たない。(ちと無理があるけど・・。)
 差は詰められているが、前回は1秒余り差を付けて勝っている。県下でも名が知られてきた公人に近い内に追い越されるであろうが、望としてもそう簡単に負けるわけにはいかない。何と言っても高校から水泳を始めた素人に1年ちょっとで抜かれるのは自分のプライドが許さないのだ。
 水面に浮かびながら喜んでゴーグルを投げあげる公人の姿に感じた軽い羨望。望は来るべき時が思ったより早く来てしまったことに半ば喜び、半ば残念な気持ちになった。
 厚い胸板に、長く大きな手足。単純に女子が男子に劣るとは思いたくないが、肉体的なハンデの存在は認めている。
 望は現実に負けてしまうことで自分は女の子なんだなとつくづく実感した。
 スポーツで世界に挑もうと思ったら女性は女性であることを、男性は人間であることを越える努力が必要とされる。
 望はそのための今までの努力を否定された気分になって、そのまま静かに更衣室へと姿を消した。
 頭の中の何かを洗い流そうとシャワーにうたれたまま壁に背中を預ける。
 勝ち続けることで忘れていた、いや忘れようとしていた現実。望の心の中の女の子の部分が目を覚ました日からゆっくりと成長してきたこと。
 あたり前のこと・・。恥ずかしいことでも何でもない。ただ問題は相手なのだ・・。
 引き締まった望の身体を流れていく水流に、一粒、二粒と違う液体が混ざりながら排水溝へと消えていった。
 
「未緒ちゃん、古文の宿題写させて。」
 ぱん、と両手をあわせながら頭を下げる望。少しはにかむように静かにノートを手渡す未緒。いつも通りの日常。
「ありがとう、お返しに今度体育の長距離走を走ってあげるから・・。」
「ばれますって・・。」
「いや、ウイッグをつけて眼鏡をかければ遠目にはわからないと思う。」
 腰に手を当てて大いばりで断言する望に未緒はくすくすと笑った。
「そうじゃなくて、タイムでばれます。」
 あ、と望は口を開けて絶句した。どうやらそこまでは気が回らなかったらしい。
「ハーイ、望。何話してるの?」
「久しぶり、彩子。」
「片桐さん、こんにちわ。」
「親友に向かって久しぶりはないでしょ、久しぶりは・・。」
 苦笑いする彩子に対して望は頭をかいた。
「いやあ、最近水泳で忙しくって。」
 ご存じ水の苦手な彩子がプールに近寄るはずもない。トレーニングに明け暮れる望が彩子と出会う回数などそう多くはない。
「まったく、真っ黒に日焼けしちゃって・・身体は筋肉質だし、遠目に見ると男の子みたいなんだから望は。それに引き替え、私なんかは男の子を引きつけるナイスバディ。」
 女の子同士の気安さからけらけらと笑いながら彩子は自分の胸を強調するかのようにぐっと寄せる。望はふざけて彩子の胸に手を伸ばす。未緒はきょろきょろと落ちつきなく周りを見渡し、男子のいないことを確認してほっとため息をついていた。
 マシンガンのように喋るだけ喋って彩子は2人の元から去っていった。その後ろ姿を見送りながら望は苦笑いする。
「中学の頃、彩子と2人で遊びに行ったらカップルと間違われた事があってね・・。」
「中学の時と今とはまた話が違いますよ、きっと。」
「・・・どうだろうねえ。」
 椅子の背中を抱え込むようにして望は腰をおろしてそう呟いた。
 
 暦のうえでは秋とはいえ、まだまだ残暑の厳しい9月。夏を思わせる太陽も大分西に傾き、やや過ごしやすい時間帯へと変わりつつあった。
 先生の用事で一人残されていた望が自分の荷物をとりに教室に戻ったときには既に教室はもぬけの殻であった。スポーツバックを肩に掛け、教室を出てふと隣の教室をのぞき込む。やっぱり誰もいない。
 おそらく公人ももう水泳の練習を始めていることだろう。しかし、望の足は無意識に窓際の席に向かった。椅子をひいて腰をおろす。
 教室の中から窓の外へと視線を泳がせてぼんやりとする。
「・・・これがいつも公人が見てる景色なんだ・・・。」
 自分の唇から漏れ出たような呟きに気付いて望はくすぐったそうに身をよじらせる。
「なんだ・・充分オンナノコしてるじゃない、私ったら。」
 望はしばらく頬杖をついたまま窓からの景色を眺めていた。
「・・・望さん?何してるんですか?」
 ドアの方から声をかけられて望はゆっくりとそちらに視線を向ける。声の主は未緒であった。
「ああ、未緒か。別に・・」
 何もしてないよ、と言いかけて望は今の状況を劇的に思い出す。この教室は望の教室ではなく自分の座っている席は公人の席だと言う事実に。
 がたあっ!!
 望は慌てて立ち上がり顔を真っ赤にして弁明を始めた。
「違う!別に公人の席に座ってたのは深い意味はなくてただぼんやりとしてただけなんだって。誰もいなかったから・・。」
 一瞬の間をおいて未緒が聞き返す。
「え?そこ高見さんの席なんですか?」
 墓穴。
「もしかして望さん・・・。」
 未緒の言葉を待たずに望はいきなり走り出す。
「ちょっ、ちょっと望さん。」
 未緒の脇をすり抜けるようにして廊下を駆け抜けようとする望の背中に未緒のありったけの大声が炸裂した。
「待ってください!私が望さんに追いつけるわけないでしょう!」
 望は動きを止めてゆっくりと振り返ると、未緒の身体がゆっくりと倒れていくのが見えた。
 
「すいません。大きな声を出したものでちょっと酸欠になったみたいです。」
「・・・・・」
 椅子を並べて簡易ベッドを作りそこに寝かされた未緒と顔を赤らめたまま視線を逸らそうとする望。
「あの、望さん?」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
 望の無言に未緒も無言で返した。先に沈黙のプレッシャーに負けたのは望の方だった。観念したように顔を未緒の方に向けて呟くようにぽそぽそと話し出す。
「うん・・実はそうなんだ。」
 身体の前に下げた左手の肘の辺りを右手で抱き、視線を逸らす。
 それを聞いて未緒はゆっくりと体を起こして望の手を取った。望はおそるおそる未緒の方に顔を向け2人の視線が重なると未緒はにっこりと笑って口を開いた。
「負けませんよ、望さん。」
「え・・?」
「お互い高見さんに振り向いてくれるように頑張りましょう。」
 望は黙って頷いた。
 未緒の明るい笑顔に救われた気分になってとても声の出せる状況になかったからだが。
 
 季節は巡り、望達が高校生になって3度目の桜の季節を迎えていた。
 成績優秀、容姿端麗、エトセトラエトセトラ・・。
 四字熟語のデパートのような形容詞をぶら下げて友人達と会話する詩織の姿を見て望はため息をついた。
 そのまま足下をみつめていた望は自分に近づく影に気が付いて顔を上げる。
「あの清川さん・・私に何か用?」
 自分が注目されていることになれている望は、誰かをさりげなく見るということに慣れていなかったせいだろう。目の前に突然現れた詩織の姿に望は少し動揺した。
 ・・・こういうのが公人の好みなんだ・・。
 望は状況も忘れて再び詩織をじろじろと眺める。
「清川さん?」
「えっ?・・ああ何でもないの何でも・・。」
「そ、そう?」
 詩織の声で我に返った望が慌てたように手を振って弁明するが、詩織は明らかに不審そうに首をひねっている。
「あのさ藤崎さん・・・やっぱり何でもない。」
 季節はずれの紅葉を顔に散らして望は走り去った。後に残された詩織はただ首を傾げるばかりである。
「変な清川さん・・。」
 
 鏡の中の自分をみつめ、指先で耳の辺りの髪の毛をいじる望。
「髪を長くすると泳ぐのに邪魔になるんだよね・・。」
 物心ついたときから泳ぎ続けてきた。それは、楽しいから・・。他人が言うほど勝つことに対しての執着はない。
 最近泳ぐことに関してのモチベーションが薄れてきているのが自分でもわかる。泳ぐこと以外の目的をみつけてしまった、ただそれだけのこと・・。
 泳ぐことが嫌いになったわけではなく、それ以上の楽しみを見つけてしまった。それでも、水泳の力を見込まれてこの高校にやってきた。泳がないわけにもいかない。
「インターハイが終わってからかな・・。」
 望は未緒の所属する演劇部の中に入っていった。
「え?かつらですか?」
 未緒が目をぱちくりとさせて聞き返す。
「そう、かつら。なんか自分はどんな髪型が似合うのかな・・・なんて・・。」
 望は物珍しそうに部室の中をきょろきょろと見渡しながら、未緒にそう言った。
「かつらといっても・・・カルトマンや金太郎侍しか見あたらないです・・。」
 小道具箱の中を引っかき回しながら未緒が申し訳なさそうに呟く。
「・・・いらない。」
 もし、似合ってたりすると悲しすぎるというもんだ。(笑)
「それじゃあ、合成してみましょう。」
 まず鏡の前に望を立たせて、その背後に未緒が立ちおさげを望の肩にのせる。
「パソコンか何かでやるんじゃないのね・・。」
「・・・そんな部費はないです。」
 2人そろってため息をついたところを冷ややかにみつめていた彩子が声をかけた。
「何を馬鹿なことやってるの?」
 望と未緒は同時に何かをひらめいたのか顔を見合わせた。
「彩子(片桐さん)、いいところに!」
「はい?」
 さらさらとスケッチブックにペンを走らせる彩子を2人は緊張した面もちでみつめていた。2・3分でペンを置き彩子はスケッチブックを2人に手渡した。
「何これ?」
「ガーギー風の望、ロングヘアーバージョン。」
 未緒がおそるおそる口を開いた。
「あの、片桐さんの専門って?」
「抽象画。」
(注・抽象画はまず写実的に対象を捉えてそれから自分の中で消化するために、高度な写実技術を必要とします。誤解しないでくださいね。)
 
 最後のインターハイ。男女共にきらめき高校のアナウンスが何度繰り返されたことだろう。公人と望は出場規定が許す限度一杯までエントリーし、その全てを総なめにした。
 雑誌の記者に囲まれて2人は片手に余るメダルを高く掲げた。既に2人とも高校のレベルを遙かに超え、世界の一線に立つレベルであるから当然なのだが・・。
 写真撮影とはいえ、望は公人に肩を抱かれ顔を上気させている。自分の心臓の音が公人に聞こえなければいいがとだけ望は考えていた。
「やっと解放された・・。」
 公人はぐったりとして腰をおろす。笑いすぎて顔が痛い。
「すぐに慣れるよ・・。」
 望は何でもなさそうに呟くと自分の荷物をまとめている。中学生時代に日本記録を樹立してから騒がれっぱなしだった望にはなんてことないのだろう。
「話は変わるけど、私の泳ぎを見てどう思う?」
「うん、俺が水泳始めたのは清川さんが泳ぐのを見たからなんだ。あの頃と同じで格好良いと思うよ。」
「ふーん、格好良いか・・。」
 ・・自分が欲しいのはそんな言葉では無い。私が欲しかったのは・・・。
「・・・さようなら。」
「うん、さよなら。」
 望の別れの言葉は何に対しての言葉だったのか?そんな望の心の内を知る由もなく公人はただ単に挨拶を返した。
 
 インターハイ直前に切った髪が少し伸び、髪の先がもうすぐ肩に届きそうである。
 休養中ということにしてあの日から水泳部には顔を出していない。それでもトレーニングはやっぱりやめられない。望は髪先を指で弄びながら中途半端な自分に苦笑いする。
 この伝説の樹の下に来る直前に未緒が励ましてくれた。短い一言、『頑張って』と。彩子は残念会の下準備に余念がない。一緒に帰ることすらできなかった自分がこうやってこの場にいることを不思議に思う。
 公人に出会うことで目覚めてしまった女の子の部分が勇気をくれたのだろう。望はそんなことを考えながら目を閉じた。
 心臓の音がやけにうるさい。今に始まったことではなく、昨夜は一睡もしていない。どんな結果に終わったにしろ、今夜は多分眠れるだろう。
 風に乗って微かな塩素の香り。高校生活を水泳に捧げてきた人間の匂い。こんな匂いを持っているのはこの学校に2人だけ。1人は望、もう1人は・・。
 望はゆっくりと目を開けた。
 時計の秒針が一周するぐらいの間、2人は見つめ合ったまま動かない。
 やがて望の口が開かれ、伝説の樹は新たな伝説を語り継ぐべく繁みを風に揺らせ始めた。
 
 
 

 このキャラも難儀です。エンディング直前までは心のNO2伊集院を抑え、如月嬢に迫る勢いだったのですがNO3へと転落しました。何で水泳をやめるかなあと当時は首をひねったものでした。敢えて今回はそのケースを話にしてみましたがどうですか?
 まあ、好きなキャラであることには変わりないですが、(笑)やっぱりオリンピックでお互いの金メダルを半分ずつ取り替えるとか、いろいろ考えてしまいます。
 しかし、このゲームなんでインターハイが冬なんだろう?・・甲子園は夏だけど。
 ところで、塩素の香りは死の香りいぃぃ!!とか言う突っ込みはなしです。
 昔自分の知り合いから、恋人ができてクラブやめたやつとクラブ以外考えたくないから恋人と別れたやつの話しを聞いたことがありますが、みなさんはどっちに共感を覚えますか?どっちも嫌と言うシンプルな答えもありでしょうが、自分は恋人と別れる方に共感を覚えますけどね・・。
 しかし、私の心の1・2・3に対する人気投票の結果っていったい?如月嬢の人気急上昇は某如月小隊の活躍のあれだし・・。まあ、ひとのことは言えませんけどね。(笑)
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