「勇太っ。ねえ、起きてよ勇太ったら…」
 ガクガクと身体が乱暴に揺さぶられる……
「勇太ってば…」
「んあ……」
 目を開ける……もちろん、るり姉だ。
 瞼を擦りつつ時計に目をやる……
「……おやすみ」
「寝るなーっ!」
「まだ5時じゃねえか!ラジオ体操だって始まってねえっつーの!」
「今日はハンドボール部の朝練があるのっ!だから、朝ご飯つくって!」
「……たまには自分で」
「私はっ、勇太のご飯がいいのっ!」
「……」
 るり姉に黒い翼と尻尾が生えてるんじゃないかと思うのはこんな時だ。
「あ、おみそ汁は大根とワカメでお願い」
「へいへい……弁当は後でいいな?教室まで持っていってやるから」
「よろしくっ!」
 るり姉が出ていった部屋の中で、俺は頭をかきながら呟く。
「……こんなでいいのかな、俺は」
 明るくてワガママの、1つ年上のるり姉……仕事が忙しくて家を空けがちな父さんも含めての3人家族。
 俺が小学校低学年の時、母が死んでからわかったのだが、父さんもるり姉も……そういう方面の才能がまるでなく、炊事洗濯掃除……等の責任が全部俺にきた。
 中学校の修学旅行の際、5日ほど不在だった我が家に帰ってきたとき、俺はしみじみと母から引き継がされた自分の責任の重さを感じたもんだったが。
 まあ、この2人は多分死にはしないだろう……俺が耐えられない生活環境に耐えられるから。
 パスタ(茹でる前)をぽりぽりとかじっていたるり姉の勇姿は今も瞼の裏に焼き付いている。
「さて……大根はともかくワカメは乾燥モノで我慢して貰うとして……」
 ハンドボール部の朝練って事は、ご飯とみそ汁じゃ厳しいモノがある。消化の良いおかずを1つ2つ……何かあったかな?
 
「勇太、早弁か?」
 弁当袋片手に立ち上がった俺を見て、誠太郎がちょいと勘違いしたようだ。
「いや、ルリ姉の分…」
「おやおや、相変わらずのシスコンぶりで…」
「まあな」
「否定しろよ、否定!」
 誠太郎の言葉を背中で受けつつ、俺は渡り廊下を通って3年教室のある2校……この学校は2つの校舎があって、それぞれ1校(1年2年)、2校(3年と専用教室)と呼ばれている……へと向かった。
 姉のクラス……なのだが、るり姉がいない。
「あ、すいません…」
「はい?」
 俺に声をかけられてくるりと振り向いたのは、誠太郎曰く『久夏高校のマドンナ、顔写真売り上げナンバー1』の、有森先輩……確かに有名なので、俺でも顔を見覚えている。
「えっと、ルリ姉……じゃなくて、森崎るりさんは?」
「……るり姉…って事は…」
 有森先輩の視線が動くたびに、濡れ羽色の長髪がさらさらと音をたてているような錯覚を覚える……タイプはまるで違うが、るり姉とは美人という意味でいい勝負だと思う。
「えっと、るりちゃんの弟さん?」
「あ、はい」
「そう…」
 ふ、と有森先輩の視線が床の上に落ちた。
「勇太ーっ!」
「うおっ」
 いきなり後ろから抱きつかれる……というか、羽交い締め。
「お弁当は、お弁当は?」
「ちゃんと持ってきたよ……休み時間の分の小さいの含めて2つ」
「わーい、さすがは勇太ね、わかってらっしゃる」
 俺を解放すると同時に、俺の手から弁当袋を奪い取る……大げさじゃなくそんな感じでもぎ取った。
「あの、るりちゃん?」
「ん、どうしたの、瞳美?」
「この人が、弟さん?」
「そうよ……」
 るり姉は俺にちらりと視線を向けた。
「勇太、いくらアンタでも瞳美の紹介は必要ないよね?」
「ああ、有名だから知ってる……けど、そういう問題でもないだろ」
 俺は有森先輩に向き直り、今更だとは思うが軽く頭を下げて挨拶した。
「森崎勇太です。ルリ姉がいつもお世話になってるみたいで…」
「あ、有森瞳美…です」
「あーあー、瞳美。勇太ってば堅苦しいから、つきあわなくってもいいよ」
「ルリ姉がくだけすぎなんだよ…」
「なんですって…」
「あ、2人とも…そろそろチャイムが」
 キーンコーン……
「……いいや、じゃあね、勇太」
「時間があったら、軽く水洗いしといてくれ」
「イヤよ、めんどくさい…」
 俺はため息をつくと、もう一度有森先輩に小さく頭を下げてから踵を返した。
 
「あ、森崎君…」
「ああ、佐藤さん」
 学校からの帰り道……から少しはずれた商店街で、クラスメイトの佐藤さんと出会った。
「夕飯のお買い物?」
「ああ、育ち盛りが1人いるもんで…」
「あはは、それ聞いたらお姉さん怒るわよ」
 口元を押さえつつ佐藤さんが笑う。
「佐藤さんは……」
「うん……今日もお母さんに頼まれちゃって」
 困ったもんよね…とばかりに佐藤さんは肩をすくめてみせた。
「でも、最近多くない?」
「え、えっと……お母さん、最近ちょっとおっちょこちょいで」
「そ、そうなんだ……」
「そ、そうなのよね……まあ、買い忘れなんて誰でもするし、大した量じゃないから」
 と、言いながらどこか不安そうな表情の佐藤さん。
 確かに、戦場を思わせる夕飯前のスーパーは慣れてないとただの負け犬になる可能性が高いし。佐藤さん、どこかのんびりとしてて、戦場には不向きだし。
「じゃあ、今日も一緒に買い物する?」
「え、いいの……じゃあ、お願いしようかな」
 佐藤さんは少しはにかむように微笑んだ。
 そんなこんなで佐藤さんと2人で買い物を終えてから家に帰る……と、留守番電話のランプがちかちかと点滅していた。
『勇太、父さん今日は仕事で遅くなるから夕飯はいらない…』
 今日『は』、じゃなくて、今日『も』だろ。
『勇太ーっ!今日の夕飯はおでんがいいな!ガチャ、ツーツー…』
「ルリ姉……正気かよ」
 夏真っ盛りのこの季節におでん?
 つーか、買い物しながら考えていた俺のプランは台無しですか?
「大根は今朝のみそ汁で使い切ったし……練り物の買い置きは当然ないな」
 俺はため息をつき……なんか、最近ため息の回数が増えたような気がするな……買い物袋の中からキャベツを取りだして外側の葉をむしってから保温鍋に入れ、芯をとってから湯を注いだ。
 買い物から帰る頃には、いい具合に柔らかくなってるはずだ。
 ロールキャベツが好きだからな、るり姉は。
 
「たっだいまぁっ!」
 思ったより帰ってくるのが早いな……もう少し時間があると、おでんがよく馴染むのだが。どうせ、部活の練習で汗だくだろうし、先に風呂にでも入っててもらうか。
「勇太っ!お姉さんに対してお帰りなさいは?」
 ドンドンと玄関脇の壁を叩く音。
 ……いつもはドカドカ靴も揃えずにあがってくるくせに、一体?
 俺はコンロの火力を確認し、玄関へと続くドアから顔を出した。
「おかえり、ルリ姉」
「ただいま」
 俺が姿を見せるのを待っていたかのように、るり姉が靴を脱いだ。
「……お邪魔します」
 それに続き、丁寧に頭を下げて挨拶する有森先輩。
「ああ、お邪魔されます……って」
 俺の前を通り過ぎようとしたるり姉の腕を掴んで引き戻した。
「ルリ姉?」
「ああ、瞳美も一緒に夕飯食べるから。ちゃんと言ったでしょ?」
「聞いてねっす!」
「ご飯は大人数で食べる方が楽しいのよ」
「そりゃ、食べるだけならな…」
 製作と、後かたづけは俺だ。
「そんなことより、おでん!おでんはちゃんとできてる!?」
「具が馴染むまでもう少し時間が欲しいから、先に汗を流しててくれ……」
「はーい」
「ちゃんと洗濯物出せよ」
「夏だから大丈夫よ」
「夏だから大丈夫じゃないんだっ!」
「くすっ…」
 鈴の音のような笑い声に引き戻された。
 イカンイカン、ついるり姉と2人きりのつもりで……にしても、妙に存在感がうすいな有森先輩って。
 
「いっただっきまーすっ!」
 クーラーをガンガンに利かせた台所でもうもうと白い湯気をあげるおでん……なんて、季節感のない。
 いきなり自分の好物のロールキャベツを3つ、自分の皿に取りわけるるり姉……この傍若無人ワガママ台風12号は、普段から、自分の友人達にもこうなんだろうか?
 ちらりと有森先輩に目をやったが、いたって、平然とした有森先輩の様子からそれを絶望的に悟る。
「ああ、有森先輩もどうぞ…」
「ええ…」
 るり姉からおタマを受け取り、まずはセオリー通り大根を取って……卵が先だとか、がんもが最初だとかいう流儀もあるが、俺は断然大根派だから、ちょっと嬉しい。
 それはそれとして、俺はおでんには箸を付けず(夏におでんなんて正気の沙汰じゃねえ)、豚肉とシメジとタマネギを炒め合わせ、仕上げに大根おろしと豆板醤を絡め合わせた炒め物を自分の皿に取り分け、それをおかずにして飯を食い始めた。
「……何1人だけ違うモノ食べてんのよ」
「欲しかったら自分の皿に取れよ……まあ、おでんは残り物の方が美味いからな」
「……あ、あの」
「はい?」
 慌ててそちらに振り向いた。
「このおでんのダシって…」
「いや、ごく普通の……強いて言えば、昆布を細かく刻んで天然荒塩と混ぜ合わせたのを使う事で醤油を少な目にして、ダシを透明に……」
「ふんふん…」
 興味深げにうなずく有森先輩。
「じゃ、こっちの炒め物の……」
「ああ、これは大根おろしの水気を切ってから豆板醤と合わせてピリ辛チックに……」
「そうなんだ…」
 有森先輩はふうっと深いため息をつき、そして笑った。
「料理、好きなんですか?」
「ん……別に好きってわけじゃないけど。まあ、女の子のスキルとしてそれなりに……ね」
「……だってさ。聞いてる、ルリ姉?」
「何よ…女だからって料理ができなきゃいけないなんて誰が決めたの。少なくとも私は決めてないわよ」
「ルリ姉……できないのと、やらないのとは意味が違うぞ」
「やってもダメだったの!アンタができるんだから必要ないじゃない」
 居直ったな……
「それはそうと……瞳美、納得した?」
「うん、なんとなく」
「……何の話?」
「勇太には関係ない話」
「あっそ…」
 
 かちゃかちゃ……
 俺が食器を洗い、有森先輩が水を切っていく。
 そして、るり姉は幸せそうにテレビを見て笑う……どこか間違ってないか、それ。
「……ずっと」
「はい?」
「ずっと、あなたが家事をしてきたの?」
「ええ、まあ……るり姉が、あんなだし」
 あんな呼ばわりされた本人はそれとは知らず、テレビ画面を指さしながら大口開けてけらけら笑っていた。
「でも、優しいのね……るりちゃんが『おでんにして』って言ったら、ちゃんとつくってあげるなんて」
「……?」
「るりちゃんが電話をかけたとき、私も側にいたから」
「止めてくださいよ。作りながら汗だくになったんですから…」
 有森先輩は、何も言わずに微笑んだ……美人だけに許される返答かも知れない。
「……私ね、以前るりちゃんとお弁当を交換した事があって」
「はあ…」
 言うまでもないが、るり姉の弁当は全部俺が作っている。
「それはまた、何というか……」
「で、食べてみて、『弟が作った…』って聞かされて、すっごく悔しかったりしたのね」
「……どうも」
 我ながら芸のない受け答えだが、それ以外の言葉を返しようがない。
「あなたのお父さんは……美味しいって言ってくれる?」
「仕事が忙しくて余裕がないからアレですけど、まあ目新しいモンを作った時とかは」
「ふうン…」
 どこか間延びしたような返事が気にかかったが、俺は何も言わないでいた。
「ご飯食べないでそのまま寝ちゃったりとかは…?」
「……まあ、最初は」
 水を切る手を止めた有森先輩の視線が続きを促していた。
「疲れてるときは、食べたくなるような飯を作ればいいってわかりましたから……単なる栄養補給のための食事ってのは、エサと変わらないですし」
「……」
「こっちに余裕がないときは、父さんやるり姉が気遣ってくれますから」
「そういうところかな……」
「は?」
「ううん、こっちの話」
 有森先輩は微笑みを浮かべ、水を切った食器をカチャカチャと食器籠に並べていく。
「ところで……もう結構な時間ですが大丈夫ですか?」
 時刻はもうすぐ9時。
 るり姉なら大丈夫だろうが、おっとりとした感じの有森先輩が暗い夜道を歩くのは少し不用心のような気がする。
「勇太、言い忘れてたけど今日は瞳美泊まっていくから」
「先に言え!」
「ご、ごめんなさい…」
「いや、有森先輩に言ったワケじゃなくてですね……」
 るり姉……こっちの会話に耳を澄ましてるんじゃないだろうな。
 それはさておき、押入に予備の布団はあるけど、しばらく日に当ててないな……
 
「勇太君」
「……はい?」
 状況を理解するまで少し時間がかかった。
 ここは2年生のクラスで、目の前にいるのは3年の有森先輩で。
「一緒に昼ご飯しましょ」
「ええ、いいですね…」
 そして、誠太郎曰く久夏高校のマドンナと呼ばれる存在が俺を昼食に誘っていたりするわけで。
「この前のお礼もかねて、お弁当作ってきたの」
「えっと…俺は自分の弁当があったりするんですが」
「ええ、それは私にちょうだい。私が作ったのは勇太君が食べて」
「はあ…」
 で、中庭のベンチに2人仲良く腰を下ろすまでにそう時間はかからなかったわけで。
「……多くないですか、それ?」
「大丈夫、頑張って食べるから」
 自分の胸を叩く仕草……が、女性である事を強く認識させる。
 それにしても、るり姉が見せる明るさとは違ってどこか切々とした感じを受けるのが気にかかるんだが。
 とりあえず俺は、有森先輩お手製の弁当に手をかけた。
 そういえば、自分以外の人間が作った飯を食うのは久しぶりか……家計を預かっている身として、外食なんてほとんどしないし。
「……美味い」
「あ、勇太君にそう言われると嬉しいな」
「いや、なにげに手が掛かってませんか、これ?」
 昨夜の残り物等をベースにして違った料理に変化させている俺の弁当とは違うというか……いわゆる、弁当のために一からこしらえた料理。
「このコロッケも、出来合いじゃないでしょう?」
「あ、気付いちゃった?」
「そりゃ…」
「そうやって、『手間をかけたよ…』って気付いてくれるのって嬉しいわよね」
 にこにこしながら空を見上げる先輩。
「何か、ありましたか?」
 そう口にした自分にちょっとびっくりしていた。
「……うん」
「そうですか…」
 聞いても何もできないのに……
「何があったかは聞かないの?」
「俺が何かできるって言うなら別ですけど……何もできないなら、多分聞く資格なんてないんです……すいませんでした」
「うふふ、本当にるりちゃんとは正反対ね…」
 先輩はそう呟き、俺の作った弁当に箸を付けた。
「でも、方法が違うだけで2人ともすごく優しいんだね…」
 俺は一旦箸をおき、有森先輩にきちんと向き直って改めて頭を下げた。
 先輩は間違いなくるり姉の理解者だという事がわかったから。
「ルリ姉がいつもお世話になってます…」
「…?」
 きょと、とした感じで瞳をしばたたかせると、先輩はくすくすと笑いはじめた。
「いいわね、そういうの……なんか、お互いに理解し合ってるって感じがするわ」
「そりゃ、家族ですし」
「んー」
 先輩は口元に人差し指をあて、ほんの少し首を傾げてから頷いた。
「そうね」
 何故だろう、どこか冷めた口調のような気がした……。
 
「とうとうシスコンは卒業か…」
「何言ってんだ、誠太郎?」
 放課後の屋上、夏の陽射しは和らぎ、吹き渡る風がここちよいのに、誠太郎がまたおかしな事を言い出す。
「シスコンを卒業したからには、るりさんの写真を販売してもいいって事だな?」
「両肩の関節をはずされる覚悟があるなら売れ」
 誠太郎はひどく神妙な顔つきで、俺の肩に手をおいた。
「友よ、二股はイカンぞ、二股は関わっている人間全てを不幸にする」
「いや、だから何の話だ?」
「昨日はいい天気だったな」
「ああ、そうだな…」
 絵に描いたようなピーカン。
 青い空、白い雲、そしてプールサイドではじける水着姿の女の子。
「昨日、プールで、有森先輩と、楽しんだんじゃないのか?」
「るり姉もいたぞ?」
「くっ、両腕に花とでも自慢したいのか森崎勇太」
「花も何も、るり姉と有森先輩は親友同士で、俺は荷物持ち兼昼食製作委員会の委員長だったと言うだけの話だが?」
 友達と遊びに行くからお弁当つくって……などとるり姉から頼まれるのは今に始まった事じゃないし、荷物持ちをさせられるのも初めてと言うわけでもない。
 まあ、最近有森先輩と一緒に下校したり、寄り道デーとなるモノを繰り返しているのは事実だが。
「ふっ、るりさんを利用して有森先輩に接近していくとは……いつの間にか、随分と戦略的な人間になったモンだな」
「おいおい…」
「いや、それを恥じることはないぞ。むしろ誇りに思うべきだ!」
「えーと…」
 俺の話を聞かずに空回っていく半永久運動を停止させるために、俺は誠太郎の首筋にチョップを叩き込んだ。
「……落ち着いたか?」
「ふ、ちょっと我を忘れていたようだ」
 ずれた眼鏡の位置を指先で調節しながら立ち直る誠太郎だが、いくらなんでも忘れすぎだろ。
「大体だな、恋愛ってのは1人でやるモンじゃないだろう」
「ふむ……」
 誠太郎は少し考え込む素振りを見せると、小さく頷いた。
「仕方がない、我が親友にはこれを見せてやろう」
 と、誠太郎が鞄から取りだしたのは……2つの分厚い写真の束。
「ん、とこれか……」
 と、誠太郎のポケットから写真の束がもう2つ転げ出る……こ、この男は。
「全部俺が撮った有森先輩の写真なんだが……こっちは去年、そしてこっちの束が今年の……特に最近の写真」
「……」
「そして、こっちの束が…」
「何枚隠し撮りしてやがる、この野郎!」
「まあ、細かいことは気にするな……で、こっちがごく最近の、限られた状況での先輩の写真だが、これは後で見せるとして…」
 俺は積まれた写真に視線を落とした。
「わかるよな?」
「まあ、タイトルを付けるなら、『明と暗』ってところか…」
 ちらりと誠太郎を見る。
 写真のことは良くわからないが、誠太郎の腕はいいのかも知れない。
「で、これが…」
 誠太郎の指先が、もう一つの束から写真を抜き出す。
「お前と一緒にいるときの有森先輩だが……こっちの写真と比べる必要があるか?」
「……」
「笑ってるよな、有森先輩」
 誠太郎の問いかけには何も答えず、ただ写真を見つめる。
「見ていて痛々しい笑顔もあるけど、お前の前ではいつも笑ってるだろ」
「ああ、そうだな……」
 確かにいつも笑っていた……最近は、無理して笑っていると感じることが多かったけれども。
「信じて貰えないかも知れないが……」
 そう前置きしてから、誠太郎は鞄からいくつも写真の束を取りだした。
「お、お前なあ……」
「俺は、笑っている女の子を撮るのが好きでな……顧客からの注文があるとはいえ、最近の有森先輩を撮るのはちょっとつらい」
 誠太郎の言うとおり、写真の中の見知らぬ女の子(例外あり)はどれもこれも笑顔だった。
「だから、この写真は……」
 今年に入ってからの先輩の写真、それらを一カ所に集めていく。
 火のついたマッチが写真の上に落ちた。
 適度な風に煽られて、メラメラと燃えていく写真。
「……没と言うわけだ」
「家にネガがあるんじゃないのか?」
「お前、本当に俺を信用してないな?」
 おそらくは気が遠くなるほどの手間をかけて誠太郎が撮った写真は、ものの2分ほどでほとんど灰になってしまった。
「燃えたな……」
「ああ、俺にはお前が何をやりたいのかは良く理解できんが」
「でもまあ、燃えないモノもあるんだな多分……」
 灰を前にしてしゃがみ込むと、まだ熱を持っているだろう灰の中に、誠太郎が手を突っ込んだ。
「お、おいっ」
「……と」
 灰の中から引き抜かれた誠太郎の手には、灰で薄汚れてはいたが燃えていない写真があった。
「やるよ、親友…」
「……」
 投げ渡された写真の中で、有森先輩が俺に向かって微笑んでいた。
「そういう風に笑ってる有森先輩をみたいとか思わないか?」
 
「……ったく、誠太郎の奴、下手な手品みせやがって」
 灰の中に手を突っ込む前に、どこかに隠しておいた写真を忍ばせる。ただ、それだけのことだが……誠太郎が何を言いたいのかは良くわかった。
 それはつまり、俺がどうにかしろと。
 先輩が時々見せた痛々しい笑顔の理由……それに踏み込む覚悟が今の俺にはない。
 それを聞いてしまったら、それを教えてくれたなら……その瞬間から、俺には責任が付随してしまう。
 そんな堅苦しく考える奴の方が珍しいのかも知れないが……俺はどうしてもそうやって考えてしまう。
 俺と……るり姉だけしか知らないことだが、俺は昔るり姉に告白した。
 あれは、中学にあがった頃。
 好きになったら、それを告白するのが男らしいと信じていた……相手が誰であろうと。
 るり姉が真剣に怒ったのを見たのは、今のところあの時だけだ。
 
『勇太……アンタはそれだけの覚悟があるの?』
『覚悟って何だよ……ルリ姉を好きっていう気持ちだけじゃいけないのか?』
『ダメに決まってるでしょっ!』
『どうし…』
『アンタ、私を守れるの?』
『え…?』
『たとえ私がアンタを好きだとしても、アンタの好きって気持ちが本物だとしても、まわりが私達をどう見るか……アンタの足りない頭でも理解できるわね』
『そんなの関係…』
『関係あるの……その時、アンタは私を守れる?世界中を敵にまわしても……なんて漫画やゲームの台詞じゃなくて、現実的にアンタは私を守れる?』
『……』
『もし私がアンタの立場だったとしたら、守れないって断言できるわ…』
『俺は……』
『覚えておくのよ……好きって気持ちをね、ただ相手にぶつけるのは単なるワガママなの』
『だったら……』
 いつそれを相手に告げることができるのか……
『……さあね、ただ真剣に真剣にそれを考えて、考え抜いたら……好きなんて簡単に言えない』
『……』
『想いを秘めておくのは苦しいから告白して楽になる……そんな甘ったれた弟を持った覚えはないわ』
 頭を殴られたような衝撃。
 そうか、俺は逃げたんだ……苦しいから。
『勇太の勇は勇気の勇……お母さんが言ってたわ』
『母さんが…』
『恐いから、苦しいから勇気が必要なのよ……恐くも苦しくもないなら、勇気なんて必要ないもの。だから、恐いとか苦しいと思うことを恥じることはないの』
『……』
『だから、誰かを好きになったときは目一杯苦しみなさい……』
 
 あの時のるり姉の言葉が、俺を恋愛に対して慎重にさせた……いや、臆病にさせたのか、あまり他人の内面に踏み込みたくない。
 あれから俺は、そういう想いに極力目を背け……そして、その感覚が良くわからなくなってしまったように思う。
 それはそうだ、誰しもが直面するそういう感情を、俺はあの時から育んでこなかったのだから。
 
「森崎君は……有森先輩とつき合ってるの?」
「え?」
 手にしていたキャベツを取り落としそうになった。
「ど、どうして?」
 夕方時のスーパーの青果売り場は買い物の主婦でごった返していて、そう聞き返してから喧噪に紛れて聞こえなかったフリをしなかったことを少し後悔した。
 いや、俺を見つめる佐藤さんの瞳がそれをさせなかったのか。
「……最近、良く一緒にいるなと思って」
「いや、そうじゃなくて…」
 どうしてそんな事を聞くの……と続けようとした言葉は、割り込んできたおばさんに遮られた。
「えっと、後でね」
「……うん」
 おばさんの群に立ち向かいながら、俺はとりあえず最低限の買い物だけを済ませてスーパーを後にした。
「……佐藤さん、何も買わなくて良かったの?」
「……」
 どこか思い詰めたような表情で、佐藤さんは足下を見つめている。
 俺やるり姉が子供の頃は、今ぐらいの時間まで遊び回っていたような気がするが、今は時代が違うのか、夕暮れの公園はひっそりとしていた。
「えっと、有森先輩はルリ姉の友達で……」
「……」
「友達で……」
 それ以外に、先輩を語る言葉を持ち合わせていない自分に少し狼狽する。
「友達で……あれ?」
 それきり黙り込んだ俺に向かって、ひどくぎこちない笑みを浮かべながら佐藤さんが言った。
「……そっか、好きなんだね」
 佐藤さんのショートボブの髪が、夕暮れの優しい風に揺れた。
「好き……なのかな?」
「……え?」
「良く……わからない」
「……なんで?」
 つうっと、佐藤さんの目から透明な滴が流れた。
「何で、そういう期待させるような事言うかな?」
「……期待?」
「私、去年からずっと森崎君のこと見てた……また同じクラスになれたときはすごく嬉しくて、今年こそは頑張ろうって思った」
 ぎこちない笑みを浮かべたまま、それでいて涙をこぼしながら、佐藤さんは言葉を続ける。
「2年になったばかりの頃、お母さんに買い物を頼まれて……森崎君と初めてまともに話ができた」
 覚えている。
 いつも行くスーパーの戦場で、負け犬と化していた見覚えのある女の子……それが佐藤さんだった。
「それからは買い物なんか頼まれてないのに商店街に行って、時々森崎君と一緒に買い物ができて、デートしてるみたいで嬉しかった」
 そう言われれば、佐藤さんの買い物はいつも何かの買い忘れを補うようなモノばかりだった。
「言ってくれれば…」
「断ったでしょ」
 肺腑を抉るような口調。
 いつも恥ずかしそうに、穏やかな口調で話す佐藤さんだけに……効いた。
 確かに、多分いや、おそらく断った。誰かを好きになることも、誰かの好意を受け止めることも……そんな覚悟ができなかっただろうから。
「森崎君優しいから……断った自分自身を責めるだろうから、告白なんてできなかった」
「……」
「ふられるのも恐かったし、森崎君に迷惑なんてかけたくなかったからっ!」
 目元の涙を拭い、心の中の想いをそのまま言葉にするように。
「今、自分がすっごく迷惑かけてるってわかってるけどっ」
 みんな……こんな当たり前のように好きな相手を気遣うことができるんだろうか。
 だとしたら、俺は人間としてどこか欠けた部分があるのかも知れない。
「……ごめん」
「何で…謝るかな」
「良くわからないけど…ごめん。でも、自分が有森先輩をどう思っているかは良くわからないから……俺、多分佐藤さんみたいに誰かを真剣に好きになったことがないから」
「森崎君…」
「佐藤さんすごく真剣なのに…俺は、良くわからなくて……だから、それが申し訳なくて…」
「……」
 ただ頭を下げる。
 そのままどのぐらいの時間が過ぎたのか、どこかでカラスの鳴き声が聞こえた。
「……だから、告白するのイヤだった」
 ぽつりと、いろんな感情から解き放たれたような呟き。
「ごめん…」
「森崎君、そうやって馬鹿みたいに自分を責めるだろうなってわかってたから…」
 顔を上げると、いつもと同じ、少しはにかむような表情をした佐藤さんがいた。
「じゃ、最後に1つだけ……有森先輩から告白されたら断る?」
 少し考えた。
「……良く、わからない」
「それって……それに、先輩は」
「は?」
「……やめた」
 佐藤さんは西の空に目を向け、そしてそっと目を閉じた。
「うん、森崎君が馬鹿みたいに優しいなら……私は、ちょっと意地悪になっちゃおう」
 
「……ただいま」
「遅い、こんな時間まで夕飯も作らずに……」
 るり姉の言葉が止まった。
「悪い、今から作る…」
「……たまには、私が作るわ」
「え、でも……」
「いいから、アンタは黙って待ってなさい!」
 俺の様子から何かを察したのか、るり姉はそのまま台所へと消えた。
 その夜るり姉の作った夕飯は、いろんな意味で泣けた……
 
「何か、あったの?」
「え?」
 心配そうな瞳が俺を見つめていた。
「いや、何でもないです」
「ん……話してくれないかな?」
 ちょっと困惑したように微笑み、先輩が言う。
 なんで、そんな事が聞けるんだろうと思う。
 例えばここで俺が昨日あったことを話したとして、先輩は今の俺のなんとも言えない沈んだ気持ちをどうにかできる自信があるんだろうか?
 少し腹がたった。
「話せない事……ですから」
「そうね……話せない事ぐらい、あるよね」
 先輩がちょっと脇を向いた。
 時々見せるその仕草は……多分、頑張っても笑えない時。
 気まずい雰囲気を助けてくれたのは、昼休みの終わりを告げるチャイムの音だった……
 
 放課後の屋上で、ひどく寂しそうな表情で遠くを見つめている有森先輩を見た。
 そんな表情を見るのは初めてではなかったけれど、これまでは見ないフリをしてその場を離れたけれど、今日の俺は馬鹿みたいにその場に突っ立ったまま、ずっと先輩を見つめていた。
 先輩のそんな顔を見ていたくないという思いは確かにある……だからといって、俺が先輩の悩みを和らげたり、ましてや笑顔にさせられるなどという自信もない。
 自信がないなら、責任が持てないなら、聞くべきじゃない……そう思う。そう思うんだけど……
『ふられるのも恐かったし、森崎君に迷惑なんてかけたくなかったからっ!』
 佐藤さんの言葉が耳に甦る。
 今、ここに佐藤さんがいたならば迷惑なのを承知で聞いてみたいと思った。
 じゃあ、どうしてあの日はそれができたの……と。
 次の日、何もなかったように俺に話し掛けてきた佐藤さん。
 俺がただ弱虫で、佐藤さんが強いだけなんだろうか……
 遠くを見つめたまま身じろぎもしない先輩……ひょっとすると、俺がここにいることに気付いているのかも知れないと思えるほどに。
 俺は間違いなく先輩に好意を持っている……けど、好意というなら佐藤さんに対してだって持っている。
 ただ、先輩へのそういう気持ちと佐藤さんへのそういう気持ちはやぱりちょっと違ってて……かつて、るり姉に対して感じていたような想いとも少し違う気もする。
 
『ただいまより〜、青果コーナーおよび、精肉コーナーでタイムセール開始です!お客様、そろってご利用下さいませ…』
 おばさんという名の、歴戦の戦士達が売り場に向かって殺到していく。
 こういう光景を見るたびに、醜いという事と逞しいという事が同義であるような錯覚を覚えてしまうのは何故だろう。
 積まれた商品に向かって伸びる手……が、左右背後からの圧力で山の中に消えていく。
 歴戦の戦士に囲まれた、絵に描いたような負け犬は、久夏高校の制服を着ていた。
「あうう…」
 床にぺちゃんと座り込んだ佐藤さんの買い物籠に、おそらくは目当てのものである商品を入れてやる。
「……なんで?」
「追加商品を運んできたワゴンからひょいっと(反則)」
「いや、そうじゃなくて……」
 佐藤さんはスカートの裾を手で払いながら立ち上がり、困惑したような笑みを浮かべて呟いた。
「森崎君から、話し掛けてきてくれるって思ってなかったから……」
「ん……ちょっと、話したいこととかあって」
 
 休日なら親子連れでにぎわうデパートの屋上だが、平日の、しかも夕刻の休憩広場ともなるとほとんど人気がない。
「……あの公園だと私がいやがると思って、気を遣ってくれたのかな?」
「まあ、そんなとこ……」
「あれから考えてみたけど、実は私が好き……なんて、虫のいい話じゃないよね、やっぱり」
「……」
「ごめんなさい、ちょっと意地悪だったね」
 ベンチの背もたれに背中を預け、佐藤さんは空を見上げている。
「……」
「……あの日の、私よりも言いにくい事?」
「言いにくいっていうか……佐藤さんに聞きたいことがあって」
「……」
「でも、それが……また佐藤さんを傷つけることになるんじゃないかって……だから」
「私…」
 俺の言葉を遮ったのは、佐藤さんの穏やかな、穏やかすぎる言葉。
「傷つく事のない人間関係ってないと思うの…」
 佐藤さんの言葉が、穏やかな風に乗って夕焼け空に溶けていく……
「傷つかないのは赤の他人だから……だから……傷ついたって事は、その人と触れあった証拠よね……」
「佐藤さん…」
「あ、あはは……思いつきで言ってみたけど、なんかの名言みたい」
 思いつきだから、ふと心に感じたことを言葉にしたから心を震わすことができるのかも知れない……などと、今の状況を忘れて考えた。
「いいよ……」
「え?」
「私を傷つけてもいいよ……」
 空を見ていたはずの佐藤さんの瞳が、真っ直ぐに俺に向けられていた。多分、それに応えない事が、一番彼女を傷つけるだろう。
「ごめん、じゃあ聞く……」
 恥も外聞もなく……想いを拒絶した女の子に、それを聞いた。
 
『……私、自分の好きな人にはいつも笑っていて欲しいから。だから、私にできることはしてあげたいしっ』
『ほ、ホントはまだあきらめてなんかいないし……森崎君を笑わせてあげるのが私だったらすっごくいいな、なんて思ってるけどっ』
『なんか偽善者みたいなこと言ってるけどっ、全部が嘘じゃないって思うし』
 どうして質問に答えてくれたのか?
 それに対して佐藤さんが言った言葉を思い出しながら……佐藤さんをまた泣かせてしまったな、なんて自己嫌悪に陥りながらも、それでもあの日のように表情には出さないように気を配りながら……俺は、家のドアを開けた。
「おや……」
「なんだよ、ルリ姉?」
 夜遅くに家に帰ってきた俺を出迎えたるり姉は、じろじろと俺の顔を眺め、そして肩をすくめた。
「な、なんだよ、それ…」
「別に……ただ」
 るり姉がちらりと視線を向けた先は冷蔵庫。
「さっさとご飯作る!」
「はいはい……」
 俺は冷蔵庫のドアを開け……今朝破るのを忘れていたらしい日めくりカレンダーを一枚破って捨てた。
 
「……話せば長くなるし、聞いてて楽しい話でもないけど」
 そう前置きしてから、先輩は語り出す。
「私、るりちゃんや勇太君と一緒でお母さんがいないの…」
「……」
「……同情、されてるのかな、私」
「いや、違います……何というか、俺はすごく無神経なことを聞いているんじゃないかと思うと申し訳なくって」
「くすっ」
 先輩はちょっと笑った……演技じゃなくて、ふきだすような、耐えかねた笑顔。
「私ね、昔るりちゃんに怒られたことがあって…」
「……るり姉に?」
「るりちゃんからね、『母さんいないのよね、私ン家も…』って言われた時に……なんか、そういう表情をしてたみたいで」
 先輩の穏やかな瞳が、空に向けられた。
「私の家庭の事情はるりちゃんに話してたから……『瞳美、アンタ自分が可哀想って思ってるの?』って言われて……ドキッとしちゃった」
「……」
「私、それまでは自分が可哀想って思ってたから……」
 触れると壊れてしまいそうな儚い口調……それなのに、先輩は笑っている。
「母親に捨てられるぐらい自分はダメな子供なんだって思ってたから、るりちゃんの言葉が嬉しかった…」
「え?」
 先輩は小さく頷いた。
「死んだんじゃないの……両親が離婚して、お母さんが親権を争わずに放棄して、一度も会いに来てくれなくて……勉強も、スポーツも、一杯頑張ったけど会いに来てくれなくてっ」
「あの…」
「何?」
「泣いていいと思います……無理に、無理に笑う必要なんて」
 先輩の話はまだまだ始まったばかりなんだと思う。
 だって、誠太郎の写真の中で先輩は笑っていたから。本当に笑っていると思えたから。
「俺は、ルリ姉に『薄情者』って言われたことがあります……子供の頃のことですけど」
「……え?」
「ほとんど覚えてないんですよ……母さんが死んだ頃の事、死ぬ前のこと」
 目を閉じて、靄に包まれた白い記憶を辿ろうとする。
「母さんが死んで、ずっと部屋に閉じこもって飲まず食わずで泣いてたらしくて……気がついたら病院で……いろんな事、忘れてて」
 何かが頬を伝っていく感触。
「悲しいとかじゃないんですけど……思い出そうとすると、勝手に流れちゃうんです」
 目を開け、涙を拭う。
「多分……骨の髄まで弱虫なんだと思います。いろんな事から逃げ出してしまうぐらいに……勇太の勇は勇気の勇らしいんですけど、完全に名前負けです」
「勇太君……」
「名前、つけてくれた母さんに申し訳ないなあと思うんですけど……」
「……」
「だから、俺は大したことも言えないし、できません……自信もないです」
「そんなことない…」
 泣きそうな微笑みを浮かべたまま、先輩は必死で首を振った。
「そんなことないよ、勇太君はっ」
「それでも、聞かせてください……悲しい話の時は悲しんでください、嬉しかった話は嬉しそうに話してください……俺にそんな資格があるかどうかわからないけど、俺は先輩をもっと知りたいです」
「……」
「自信なんてないけど……先輩のことをもっと知らないと、どうやったら笑わせてあげられるのか全然分からないし」
「……」
「良くわからなくて……今も良くわからないけど」
 先輩をほっとけないと思う気持ち。
 先輩に笑ってほしいと思う気持ち。
 その答えが正しいかどうかわからないけど……
「迷惑かも知れないけどっ」
 俺は…
「先輩が……好きだから」
 実際に口にしてみると、もやもやっとしたいろんな思いは収束し、現実味を帯びて心に根ざした。
 ちょっと呆然としたような面もちで、先輩が目を丸くしている。
「ありがとう……で、でも、それって返事が必要なのかな?なんか、気付かれてなかったとしたら、私すごく悲しいんだけど」
 そう言った先輩の笑顔は、写真のそれよりも綺麗で……流れている涙は、嬉し涙だと信じたい。
 
「転校して、るりちゃんと離れるのが辛かった……」
 長かった先輩の話は、終わりに近づいていた。
「後半年で卒業だからって、お父さんはここに残ってもいいって言ってくれたけど……」
 先輩は、ちょっとだけ恨むような表情を浮かべ続けた。
「お父さんに、『エサ』を食べさせたくないし」
「……ああ」
 先輩と一緒に夕食を食べた日の会話。
 本当の意味ではわからないけど、何となくわかった気がした。
「料理のこととか教えて貰おうと思ってたのに……勇太君、私の心の中にするする食い込んできて」
「え?」
「勇太君といる時間が楽しくて……でも楽しければ楽しいほど苦しくて……苦しいのわかってるのに、やっぱり会いに行っちゃって…」
 先輩はこつんと、自分の頭を叩いた。
「馬鹿みたいでしょ、私」
「ルリ姉には…」
「話したわ…」
「……えっと、それは転校するって事をですよね?」
「ううん…」
 先輩は首を振った。
「勇太君の事好きなんだけど、どうしようって…」
「……勘弁してくださいよ」
 黒い翼と尻尾をはやしたるり姉が俺を指さして笑っているのが見えた気がした。
 
 
 それから時は流れ……
 勇太君と遠く離れてから、二度目の桜の季節。
 勇太君は、薄情にも家事をほったらかして私と一緒にいることを選んでくれた……のかな?
 だって、るりちゃん……こっちの大学に通ってるし。
 勇太君のお父さん、ちょっと可哀想な気もするけど。
「先輩、合格しましたよ!」
 掲示板を指さし、嬉しそうに笑う勇太君。
「ねえ、勇太君…」
「はい?」
 うん、今のうちに一応はっきりさせといた方がいいかな……だって、勇太君の事大好きだし。
「私とるりちゃん、どっちが好き?」
「……そ、そんなことまで話しましたかルリ姉は?」
「うん…きゃっ!」
 いきなり、勇太君に抱きしめられてびっくりした。
「先輩です、先輩が大好きですってば……大体、家族に向けるというか……母さん…というか家族というか……愛情の質が違います」
 お母さんのことに触れると、やっぱり悲しそうな表情を浮かべてしまう勇太君。
 いつか……その事もひっくるめて、笑わせてあげたいな。
 あなたが、私を笑わせてくれたように……
 
 
                      完
 
 
 『う、うわうわ、佐藤さん、アンタそんなキャラやないやろ、俺の手を離れてどこに行くつもりやねん…』
 などと、内心でツッコミながらも、佐藤さんの独走止まらず。(止めるつもりもなかったですが)
 そりゃ、登場人物全員が勝手に動き出してくれると楽しいし、楽なんですけど……『佐藤さん1人突っ走られると』話の展開とかテーマとかが、バブルの弾けた放漫経営銀行並に破綻してしまうと言うか何というか。(笑)
 でもまあ、思わずヒロインを交代させちゃおうかと思ってしまうぐらい、佐藤さんが突っ走ってくれましたわ。ただ、佐藤さん1人突っ走ってしまったせいで、お話としてはいびつな部分が……ありまくったので、涙を呑んで佐藤さんの出番を削ったり修正したり。
 ああ、もう、なんでこんなに可愛いのかこの話の中の佐藤さん。(笑)
 それでもまだいびつな部分というか、お話の矛盾というかがあるんですけど、これはこれでいいかなと思ったり。
 主人公はちょっとヘタレ風味で、先輩はラストで壊れ風味ですけど。(笑)
 
 この話を読んで『へえ、佐藤さんってこんなキャラなんだ…』などと騙される人がいることを願いつつ……

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