「緋菜ちゃん…どうしてみんなと一緒に遊ばないの?」
「……つまらないから」
 お昼寝部屋の片隅で膝を抱えてうずくまっていると、決まって先生がやってくる。
「えっと……いつも1人でいると、お友達ができないわよ」
「いいもん…」
「んー……明日からの夏休み、ずっと1人で遊ばなくちゃいけなくなるわよ…」
「せんせい…緋菜はここのみんなと遊ぶとつまらなくて、1人で遊ぶと楽しいの。どうして、イヤなことをしなくちゃいけないの?」
「……」
 ほとほと困り果てたように、先生が肩をすくめる。
「わかりました。じゃあ、緋菜ちゃんはずっと1人でいなさい」
 ずっと1人でいなさい……それは何度浴びせられても、幼い緋菜にとって多少の魅力的な響きとともに、少し恐いイメージを引き起こす。
 泣きそうになり、それを堪えるために唇を噛む。
 先生も含め、この幼稚園にいるみんなが嫌いだった。
 遊びたくないのは『ここにいるみんな』であって、自分は決して一人きりでいるのが好きなわけではない。
 伝えようとしてもできない自分と、それをわかろうとしてくれない先生達。
 明日になれば、そんな砂を噛むような想いから解放される……それは、緋菜にとって嬉しいことだった。
 
 ビュウッ!
「あっ」
 この夏、買ってもらったばかりの麦わら帽子……母曰く、『緋菜、これはあなたの色よ…』と教えられた、赤と茶色が混ざったようなリボンが気に入った。
 外に出るときはいつもこれを被ろうと思っていたのにもかかわらず、夏の気まぐれな強風が、緋菜がそれを押さえるよりも早く麦わら帽子を攫っていく。
 追いかける緋菜を弄ぶかのように、帽子はフラフラと宙を舞い、そして小川に落ちた。
「……う」
 見た目の穏やかさとは違って流れが速いため、絶対に入ってはダメと念を押されているだけにちょっと腰が引けた……それでも行こうとした瞬間。
「そこで待ってて」
 見知らぬ男の子が、帽子を追って小川に入っていく。
 十数分後。
「こ、この小川、流れが速いから、子供は入っちゃダメって…」
「……そ、そういう事は、もっと先に……」
 草むらに寝っ転がり、ぜえぜえと荒い呼吸を続ける男の子。
「……ごめんなさい」
「ま、無事だったし……ほら、大事なモノなんだろ」
 にこっと笑い、少年は命がけ(緋菜主観)で救ってくれた麦わら帽子を緋菜の頭にかぶせてくれる。
 その男の子の白い歯を見ていると何故か恥ずかしくて、緋菜は麦わら帽子の型が崩れそうになるまでぎゅっと深く被ると、小さく頷いた。
「……うん」
 それが、男の子との出会い。
 その時から、緋菜にとって夏は一番好きな季節になった。
 
 男の子と初めて出会ってから2度目の夏。
 去年かわした約束通り、男の子は再び緋菜の住む街にやってきた。
 みーみーみー…
 2人でいつも遊んでいる神社の、大の大人が2人でやっと抱え込める程の太さの大きなクスノキを見上げた。
「ねこさん…」
「……降りられなくなっちゃったんだ」
「えっと……危ないから登っちゃいけないって」
 今度は忘れずに先に言う。
 子猫が震えている枝まではおよそ3メートルほどか。
 蝉の大合唱にもかかわらず、子猫の鳴き声はひしひしと2人にのしかかる。
「……」
 大人に怒られるのを承知で覚悟を決めた瞬間、男の子がクスノキの幹に取りついた。
「そこで、待ってて」
 男の子の顔が微妙にひきつっているのを見て、緋菜は気がついた。
 男の子は決して強くない……ただ、優しいだけだと言うことに。
 思えば、川に落ちた帽子を拾ってくれた時も、多分そうだったんだろう。
「気をつけてね…」
「うん」
 緋菜の声に励まされたのか、男の子はにじにじとよじ登っていく。
「…もう少し」
 男の子の手が子猫に触れた……その瞬間、ベリッと音をたてて男の子が足場にしていた樹皮がはがれて落ちた。
「だ、だいじょうぶ!?」
「だ、だいじょぶ……ほら、こいつも…」
 男の子は顔をしかめつつ、抱きかかえていた子猫を緋菜に向かって差し出した。
 みー。
 野良ではなくて飼い猫なのか、子猫は緋菜の手に抱かれてもおとなしいまま。
「……ごめんね」
「なんで謝るの…?」
「……なんでもない」
 緋菜はちょっとだけ考えて、首を振った。
 男の子の優しさに対して、自分はそれを黙っていることで応えたいと思ったからである。
 
「……ゆーたくん、また帰っちゃうの?」
「ん……もうすぐ、夏休みも終わりだから」
 初めて出会ってから3度目の夏……それも、もうすぐ終わる。
「えっと…えっとね」
「ん?」
「あの…その…」
 緋菜はもじもじと自分の指を組み替え組み替え、顔を真っ赤にして蚊の泣くような声で呟く。
「け、けっこんすれば、ずっと一緒にいられるんだって」
「けっこんって、誰と誰が?」
 あまりにもつれない言葉に、ちょっと憤慨したように、緋菜が言う。
「も、もちろん、緋菜とゆーたくんが、だよ…」
「……」
「え、えっと……ゆーたくんとけっこんしたら、ゆーたくんのお姉さんとも仲良くなれるようにがんばるから、お母さんがいつも悩んでるしゅーとめ問題とかいうのもだいじょうぶ……」
 男の子のお姉さんとは何回も顔を合わせたことがあるが、見るからにいじめっ子オーラを発していてちょっと苦手だった。
 『おヒナちゃん』という呼び方が小馬鹿にされているようで、何度もやめてと頼んでみても改めようとしてくれないあたり、多分男の子とは血がつながっていないのだろうなどと、勝手なことを考えていたりする。
 もちろん、呼び方はともかく緋菜がどうこうされるわけではないのだが、男の子に対して横暴なのが気にくわないという気持ちもあった。
「えっと……確か、けっこんって大きくならないとできないって聞いたことが」
「そんなことないよ。お母さんが言ってたもん……2人が好きあってたら、けっこんできるって……」 
「2人が好きあってても、けっこんできないこともあるって聞いたことが……」
 困ったようなゆーたの様子を見て、緋菜はちょっとびっくりした。
 てっきり2人は相思相愛で、一部の例外を除いてまわりに祝福されつつ結婚できるモノだと信じ込んでいたのだから。
「……ゆーたくん、緋菜の事きらい?」
 緋菜はキュッと唇を噛んで、男の子の顔を見つめる……それは、もう一押しで泣いちゃいますのサイン。
「い、いや…そんなことないよ」
「じゃあ…」
 ぱあっと、後光のさしそうな笑顔を浮かべかけた緋菜を、男の子は手で制した。
「えっと、だから…大きくなったら……」
「大きくって……どのぐらい?」
 男の子は腕組みをしたまま首をひねり、ぽつりと呟いた。
「……小学生になったら、かな?」
「じゃあ……来年の夏?」
「うーん、小学生になったらだいじょうぶ……だと思う」
「……わかった。じゃあ、来年の夏休みになったら、すぐ来てね。ここでけっこんしようよ……約束」
 男の子の顔をじっと見つめたまま、緋菜はそっと小指を差し出す。
 そして、絡み合う小指。
 
「うっわー……」
 目覚めるやいなや、緋菜は意味不明のため息をもらした。
 なんとも言えない気恥ずかしさと、なんとも形容しがたい胸の痛み。
 それは、雨の日も晴れの日も、毎日神社の境内に腰を下ろして男の子を待ち続けた、緋菜の人生の中で最低の夏休みの記憶を否応なしに思い出せられてしまったせいなのか。
 あの男の子は、結局次の夏休みには姿を見せなかった。
 その次の夏休みは確かめることができなかった……緋菜自身がもうその街には住んでいなかったから。
 寝癖がついてひどいことになっている髪をかき混ぜつつ、朝日を一杯に受け止めているカーテンを開く。
「……夏かぁ」
 眩しい陽射しを浴びていると、自然に顔がほころんでしまう。
 あれからもいろいろなことがあったが、緋菜は、やっぱり夏が大好きだった。
「うん……夏よね」
 暦の上ではとっくに夏だったが、今日から夏……緋菜は自分がそれを決めるかのように確信を持って頷いた。
 
「えいっ!」
 チャンスボールを気合い一閃……したのはいいのだが、どうもラケットの角度が甘かったのか、ボールはあらぬ方向に。
「……ナイスホームラン」
 パートナーの恵が、肩をすくめて呟く。
「ご、ごめん……取ってくるね」
「はいはい…」
 コート内に転がったボールは球拾い役の人間が拾ってくれるのだが、コート外に打ちだしたボールは責任者が拾いに行かねばならないと言う暗黙の了解がテニス部にはある。
「こっちの方角だったと思うけど…」
 がさごそと校舎裏の茂みをかき分けてみたのだが、ボールは影も形もない。
「……テニス部の人?」
「はっ、はいっ!」
 いきなり背後から話し掛けられ、緋菜はシャキッとしゃちほこばった感じに背筋を伸ばして振り返った。
「な、何でしょう?」
「えっと、捜し物は……アレ?」
 どこか気の毒そうに、少年はすっと木の梢あたりを指さした。
「……あ」
 黄色いボールがちょこんと木の葉に紛れている。
「えっと、脚立かなんかを借りてきてから…」
「大丈夫。私、木登りとかわりと得意で…」
 そう言って木の幹に手をかけた瞬間、少年の手が緋菜の肩を引き戻す。
「そこで待ってて…」
「え……」
 ひどく懐かしい響きに緋菜は思わず少年を凝視してしまう……が、そんな緋菜に気付いているのかいないのか、少年は無言で制ズボンの裾をまくり上げた。
「よいしょっ…」
 少年は高く飛び上がって木の枝に捕まると、猫のような俊敏さでたちまち上半身を梢の中に消してしまう。
 やがて、ボールの埋まった枝のあたりが揺れ、にゅっと伸びた手がそれを掴む。
「いくよ…」
「あ、はい…」
 ぽーんと放物線をえがいて投げられたボールを、緋菜はしっかりとキャッチした。
「……あ、あの…」
 登るのもあっという間なら、降りてくるのもあっという間で、パンパンとズボンの裾を払っている少年に、緋菜はおずおずと話し掛ける。
「ん?」
 緋菜は、高鳴る自分の鼓動を感じながらその名前を口にした。
「ゆーたくん?」
 
『えっと、俺って子供の頃の記憶をほとんど無くしてて……ごめん』
 困ったような表情で頭を下げた少年の、悲しそうな瞳を思い出すと、緋菜の胸は締め付けられる。
 森崎勇太……あの頃の自分にはとてもじゃないが書けなかった漢字で、紙にそれを書いてみる。
 押入の奥から引っ張り出したアルバムの写真と、瞼の裏に焼き付けた少年の顔。
 いや、外見とか名前の問題ではなく……
「……『あの』ゆーたくんだよね、絶対」
 ぽつりと呟く。
 決して激しくはない……が、穏やかというのにはほど遠い鼓動を感じるたび、胸の奥から甘い何かが全身へと広がっていく。
 あの夏休み以来止まっていた、緋菜の中の何かが動き出した……。
 
「……その、なんと言えばいいのか」
 森崎勇太と同じクラスに所属している女子テニス部の友人は、困ったように言った。
「まあ、一言で言うと……無愛想かな」
「…?」
 その説明に、緋菜は首を傾げる。
「ま、浮いてるとまでは言わないけど。何というか、1人で居ることが多いって言うか、放課後とかクラスの子に誘われても、用事があるからっていつも断ってたし……それと」
「それと?」
 少女はちょっと意地悪そうに緋菜を見つめ、ぽつりと呟く。
「彼、シスコンって噂が…」
「シスコンって……お姉さん?」
「ええ、1つ上のお姉さん……なんか彼、成績めちゃくちゃいいのにわざわざこの学校に来たのも、お姉さんがいるからってらしいし」
 ゆーたくんのお姉さん……
 もやもやっと緋菜の頭に浮かんでくるのは、男の子のように真っ黒に日焼けし、あっという間に近所のガキ大将を小突き回してその地位を乗っ取った女の子の姿。
「……るり…さん?」
「あ、楠瀬も知ってた?ハンドボール部のキャプテンやってる人なんだけど…」
「……そうか、やっぱりそうなんだ」
 ぽつりと呟いた緋菜の言葉を間違った意味に取り、少女は慰めるように首を振った。
「あ、別にシスコンって決まったワケじゃ……」
 
「ん?何か用…?」
 ぱっちりとした大きな瞳……に、当時の面影が残っていると緋菜は感じた。
「あ、あの…私、楠瀬緋菜と言います…」
「楠瀬…緋菜……んん?」
 森崎るりは、額に指をあて遠くを見るように目を細めた。
「もしかして、おヒナちゃん!?」
「……覚えててくれましたか」
 多少の皮肉を込め、緋菜はそう言った。
 もちろん、それを意に介するような相手ではなかったが。
「へえー、懐かしいわ……あのおヒナちゃんがねえ…」
 るりはそう呟き、そしてため息をつきながら遠い目をした。
「そっか、もう10年も経ったのね……」
「あ、あの……」
「仲良かったもんね、あなた達」
「で、ですから…聞きたいことが…あって…」
 緋菜の頬がほんのりと染まったのに気づき、るりが茶化すように言った。
「ちょ、ちょっと、もう10年も前の…」
「……」
「え、うそ……マジ?」
「あ、そういうのじゃなくて……あの夏、何があったのかな……とか」
 ますます頬を赤く染める緋菜を見て、るりは非常に困惑した面もちでため息をついた。
「勇太、変わったでしょ…」
「そ、そんなこと無いです!」
 ブンブンと首を振る緋菜に再びため息をつき、るりはぽつりと呟いた。
「変わったわよ、勇太……姉の私が言うんだから、間違いないって」
「……」
「……あなたがこの学校にいるってコトは、引っ越しでもした?」
「はい……小学2年の時です」
「そう、私も小学3年の時に引っ越したわ……つまり、勇太が小学校2年の時ね」
 るりはそこで一旦言葉を切った。
「…と言っても、隣町に引っ越しただけだから大した引っ越しじゃなかったけど」
「……隣町への引っ越しですか」
「ええ、そうよ」
 全ての感情を拭い去ったような表情で、るりは緋菜を見つめている。
「私が……聞いていいお話ですか?」
「ダメって言われて納得できる?」
「いえ…」
「聞いたら後悔するかもね…」
 ふ、と自分自身さえも突き放したよう表情を浮かべ、るりは緋菜から視線を逸らしながら呟いた。
「母さんが死んだのよ……勇太のせいで」
 
「……自分のせいで母さんが死んだことを認めたくなかったんでしょうね。だから勇太は……そう簡単に出してしまえる結論じゃないと思うけど…母さんがどうやって死んだかの記憶を無くした」
 るりが呟いている間、緋菜は顔を上げることができなかった。
 体調を崩している母に無理を言って田舎に連れて行ってもらおうとした理由が、自分との約束を守るためだということが痛いほどわかっていたから。
「ゆー……森崎君を恨んでるんですか?」
 彼だけに責めを負わせてはならない……その思いから、俯いたまま、やっとの思いでそれを口にする。
 るりは、普段の彼女を知る人間からは想像できないような自嘲的な笑みを口元に浮かべつつ、そっと目を閉じた。
「と言ってもね……勇太、半年ぐらい経って、少しずつ母さんが死んだ頃の記憶を取り戻し始めたの」
「……?」
「勇太が悪いワケじゃないってお父さんに言われてたのに…」
 るりの声が震えているのに気付き、緋菜は弾かれたように顔を上げた。
「私、責めちゃったのよね……アンタのせいで母さんが死んだって」
「…っ!」
「子供だったから……それが免罪符になるとは思ってないけど」
 るりはどこか投げやりな感じで呟き、閉じていた目を開く。
「……母さんが死んだ頃のことだけじゃなく、その以前の記憶もほとんどなくしたのはその時よ。今の家でこのまま生活するのは良くないかもって精神科の先生に言われて引っ越したの…」
「そう……だったんですか」
 緋菜は自分の声がどこか遠くから聞こえるように感じた。
「中学にあがるまではね、勇太、カウンセリングとか受けてたんだ……」
 るりは一旦言葉を切り、そして言った。
「でも、ある日いきなり……『面倒だからもういい…』って、それっきり」
「面倒……ですか?」
「どうだろ。あの子、記憶を無くしてから自分の心の中をあまり見せなくなったし……ただ、勇太がカウンセリングに行かなくなって私がほっとしたのは事実…」
 ふ、と訪れた沈黙に耐えかねたように、るりがぽつりと呟いた。
「ねえ…」
「はい?」
「あなたは……勇太が記憶を取り戻した方がいいと思う?」
「それは……」
 緋菜は言いよどむ。
「勇太変わったよ……あんまり笑わなくなった。私がいろいろワガママ言ってみても逆らわないのは、無意識下で自分を責めてるからじゃないかって正直思っちゃう……でも」
「あれ、ルリ姉」
 項垂れたまま呟き続けていたるりが、いきなり顔を跳ね上げた。
「ルリ姉に…楠瀬さん。こんなとこで何してんの?」
 緋菜を抱きかかえ、るりは少年を小馬鹿にしたような表情で手を振った。
「アンタには関係ない話よ……はいはい、帰った帰った」
「なんだよそれ……まあいいけどさ」
 口の中でぶつぶつと何かを呟きながらも、少年はおとなしく姿を消す。
「……るりさん」
 るりの震える手をそっと押さえ、緋菜は呼びかけた。
「心が壊れてしまうような記憶なんて……忘れたままの方がいいに決まってる。私は……死んじゃった母さんよりも、生きている勇太の方が大事」
 心の底までずしりと響くその言葉に、緋菜は何も言い返すことができなかった。
「第一……何かをすれば記憶が戻るなんて保証もないわよ」
 
「あ、森崎く……ひゃっ…」
 濡れた廊下に足を滑らせた緋菜は、バランスをとろうと両腕で宙をかいた……しかし、その代償として抱えていたペンケースと教科書が声をかけようとした少年めがけて投げ出されてしまう。
「…っと」
 慌てず騒がず、まるで魔法を使ったかのようにその全てを少年の手が受け止めたのを確認したのはいいが、肝心の緋菜自身は盛大に尻餅をついてしまった。
「あたた…」
「ゴメン、優先順位を間違えた…」
「あはは、私は大丈夫だから…」
 申し訳なさそうに差し出された手を取って、緋菜は元気良く立ち上がった。そしてにっこりと笑う。
「ありがと、森崎君」
「ま、怪我がなさそうで何より」
 手渡される教科書とペンケースを、緋菜は受け取った。
「でもすごいね……空中でぱっぱっぱって」
「いや、ペンケースと教科書の二つで、手は二本あるし…だから、大したことじゃ」
「そ、そうかな?」
「大体楠瀬さんが倒れるのを支えられなかったし…」
「……」
「怪我がなかったからいいけどさ、ペンケースとか教科書とか受け止めても……俺って、そういうとこちょっと抜けてるから」
 何かを達観したような、すんだ哀しみのようなものを少年の目の中に感じて、緋菜はそこから目が離せなくなった。
「どうかした?」
 少年の言葉に、緋菜は慌てて首を振った。
「わ、私っ、このペンケースすごく大事にしてたのっ!」
「は?」
「もう、ホントに大事でっ!落として壊したりしなくてすっごく嬉し……」
 自分を見つめる少年の奇妙な表情に気付き、緋菜は仕方なく苦笑した。
「あ、あはは…やっぱりちょっと無理があるかな」
「かなりね……でも」
 ぽん、と緋菜の頭に手が乗せられた。
「ありがと。優しいな、楠瀬さんは…」
「そ、そそそ、そんなこと…」
 頬をほんのり染めながらも、緋菜は少年の反応に少し納得のいかない何かを感じていた。
 
 みーんみんみんみん……
 蝉時雨……と呼ぶには少々かしましい。
「……アブラゼミばっかり」
 単調な蝉の鳴き声に不平をこぼしつつ、緋菜はかつて自分が住んでいた田舎の、いろんな種類の混ざった蝉の合唱を懐かしんでいた。
「アブラゼミは高温乾燥の街の気候への耐性があるから」
「へえ、そうなんだ……って、ええっ!?」
 緋菜はテニスで鍛えた華麗なステップワークで距離をとりつつ、後ろを振り返る。
「ゆ、ゆゆゆ、ゆーたくんっ!?」
「……一応、何度か声はかけたんだけど」
「あ、そーなんだ……」
 ばくばくと激しく活動する心臓をなだめつつ、緋菜は気付かれない程度にちょっと深呼吸した。
「学校ではともかく、こんなとこで会うなんて珍しいね」
 そう言いつつ、緋菜は神社の境内の中を見渡した。
 あの頃2人でよく遊んだ神社と似ている……と言っても、どこの神社も大体作りは同じなのだが。
「……ちょっと用事があって」
「用事…」
 緋菜は少年が持っている袋に目をやった。
「ああ、これは猫のミルク」
「猫……」
 緋菜は自信なさげにぷつりと呟いた。
「森崎君……猫用のミルクなんて飲むの?」
「えっと、それはマジボケ?」
「…?」
 少年はちょっとだけ笑い、手を振った。
「この神社、子猫がいるんだ」
「……捨て猫?」
「多分ね……俺も、この前教えてもらっただけだから」
 数分後。
 ヨーグルトの蓋に注がれたミルクを舐める子猫を見つめながら、緋菜は義憤に耐えぬといった口調で呟いた。
「こんなに可愛いのに、ひどいコトするね…」
「……可愛くなかったらどうでもいいように聞こえるけど」
「そうじゃなくてっ!」
「……考えようによっては、俺の方がひどいことしてるんだけどね」
「え…」
「どんな理由があろうとも飼えないのに餌をやるってのは偽善だよ……約束を果たせないのに、約束を交わすようなモノで」
 にー…
 ミルクのおかわりをくれとせがむかのように子猫が鳴くのを見て、空になった入れ物に少年はミルクを注ぐ。
「森……ゆーたくん?」
「……」
「ひょっとして……記憶が無いって言ってたの」
「嘘ついてゴメン……全部が全部思い出してるってワケじゃないけど」
「……何で?」
 刹那の沈黙を経て、少年は口を開いた。
「そうした方が、ルリ姉にとっていいかなと思ったから」
「……」
「死んだ母さんよりも、生きているルリ姉の方が大事だろ…」
「そう……だね」
 『面倒だから…』の言葉は多分……そんなことを考えつつ、緋菜は曖昧に頷いた。
「約束、守れなくてゴメン……夏休みに入るちょっと前、母さんが死んでゴタゴタしてたから」
 緋菜は、少年の目をじっと見つめながら言った。
「ゆーたくんが今嘘をついたのは……私に気を遣ったから?」
「え?」
「誰かに気を遣って、ゆーたくんはまた嘘をつくの?」
「……」
「本当は、全部思い出してるんじゃないの?」
「……ルリ姉か」
 ちょっと困ったような表情で、少年はぽつりと呟いた。
「ゆーたくんのお母さんが事故にあったのは…」
「酔っぱらい運転の車がこっちの車に突っ込んできただけだよ」
「だったら、ゆーたくんのせいでも無いでしょ!」
 自分でそう言いながら、緋菜はあの約束を悔やんでいた。
 あんな約束さえしなければ、終業式の日に少年の母は車を走らせることもなく…
「……母さん、俺をかばって死んだから。ルリ姉は、事故の瞬間後部座席で寝てたからそれを知らないはずだけど」
「……」
「母さんは俺のせいで死んだんだよ……だから、ルリ姉は間違ってない」
「……」
「だからヒナちゃんの約束はもちろん関係ない……それに、元々は約束が守れなくてゴメンっていう話だったはずだよね」
 暗い雰囲気を和らげるように、少年がぎこちなく笑った。
 
「……何がしたかったのかな、私」
 ベッドに寝転がったまま目を閉じる。
 高校に入学した頃、中学校時代の頃、こっちに引っ越した小学校の頃……鮮明に覚えているつもりでも、やはり記憶はどこか曖昧で。
 細部が欠けていたり、おそらくは脚色されていたり……考えたくはないが、自分にとって大切なあの思い出も、本当の意味での記録ではないのかも知れない。
 でも、曖昧かもしれないこそ……それを語り合う相手が居たら嬉しいと思う。
 記憶を無くしてるとばかり思っていた幼なじみは、本当は記憶を取り戻していて……もちろん、思い出を語り合うなんて雰囲気はまるでなくて。
 約束が守られなかった理由はもちろん事故のせいだし、思い出といういう点ではもう何も気がかりはないはずなのに。
 生まれて初めての友達。
 あの出会いがなかったら……自分は、未だに集団の中で自分の居場所を見つけることができずにいたのではないか、そう思う。
 好きとか嫌いとかを別にして、自分にとっての特別な人。
「……そっか」
 緋菜はぽつりと呟いた。
 るりが言ったように、変わってないといくら思いこんでもお互いが過ごしてきた生活が……いわば年月が人の立場を変えていく。
 ヒナちゃんは緋菜に、ゆーたくんは少年に。
 とりあえず、それは認めよう……それは認めるけど……
 
「おはよう、森崎君」
「おはよう、楠瀬さん」
「……」
「ど、どうかしたの?」
「え?」
 緋菜はちょっとだけ首を傾げ、くすりと笑った。
「うん……私って子供なのかなと思って」
「は?」
 首を傾げる少年に向かって、緋菜は再び微笑む。
「森崎君」
「ん?」
「昨日、森崎君は『約束守れなくてゴメン』って言ったよね?」
「あ、うん……」
 どこか申し訳なさそうに視線を逸らす少年に、緋菜はわざとらしくくすくすと笑う。
「考えてみたら……まだ、約束って守られなかったわけじゃないよね」
「……え?」
 何の事だかわからないと言った少年のようすを無視するように。緋菜は空を見上げて大きく背伸びをした。
「もちろん今すぐってワケじゃないけど……」
 一旦言葉を切り、そして緋菜はひまわりのような笑顔で少年を振り向いた。
「これから約束通りになるかも知れないって事」
 
 
                       完
 
 
 どうして暗くなるのかなあ…(笑)
 途中で話をぶった切って、無理矢理明るく……したのがばればれですな。
 ちなみに、緋菜の話についてはもう一つアイデアがあって(緋菜が主人公と幼なじみだと気付いていない設定)……『そっか、私それと知らずにまた同じ人を好きになっちゃったんだ……』ってな決め言葉のシナリオなのですが。
 それは別のお話……またの機会に。(笑)

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