「えっと…つまり、この関数が2つの解を持つと言うことをこのXY座標は示しているわけで……」
「んー……?」
いつもは利用者の少ない図書室なのだが、期末試験前とあってにわかに人口密度がはねあがっている。
本のページをめくる音、ノートにペンを走らせる音、グループになって勉強を教え合う囁き声……1つ1つは小さいのだが、これだけ集まると普段の図書室とは比べモノにならないぐらいの喧噪といえた。
「いや、だからね……この方程式が成立するためには右辺と左辺が…(以下略)…つまり、Yが0の時のXが…」
「でも、Yが0じゃないときも方程式は成立するんでしょ?どうしてYが0の時だけに限定しなきゃいけないの?」
「いや、あのね海燕さん……元々の方程式曲線と判別式をごちゃ混ぜに考えたら」
「有沢さん…」
「……何?」
目の前に座る少女の無邪気な笑顔に不安を覚え、志穂は意識的に眼鏡のフレームの位置を指先で調節した。
「判別式ってなんだったっけ?」
「……ちょっと休憩しましょ」
ため息をのみ込みながら志穂は呟いた。
来週から始まる期末試験……自分はともかく、彼女は駄目だろうという確信が志穂の心の中に根付きつつある。
「あ、また雨だ……有沢さん、傘持ってきた?」
「ええ、もちろん」
「そっかー、そうだよね、梅雨だもんね……」
「……忘れてきたの?」
「あ、あはは……」
困ったように、はにかんだ笑みをこぼす少女。
その屈託のなさを呆れると同時に、羨望にも似た感情が微かに志穂の心に芽生える。
「……気を悪くしないで欲しいんだけど、どうしてあなたがこの学校に外部入学できたのかちょっと不思議」
「うーん、家から近かったのと、学園案内のパンフレットが送られてきたから受験してみたんだけど……この学校ってレベル高いよね」
「あ、そういえばこの街に引っ越してきたのよね…」
「うん、でも小さい頃はこの街に住んでたんだけど」
私立はばたき学園……基本的に幼年部からエスカレータ方式なのだが、中等部に比べると高等部の学生数は約半数。
成績の優秀な生徒か、部活動などの各方面で際だった成績を残すであろう生徒達しか生き残れない……無論、外部受験による合格者数は少なく、また例外なく成績優秀な人間が多い。
「知ってる?海燕さんのクラス、外部受験者はあなた1人だけなのよ?」
「え、そうなの?」
「赤点3つで……補習授業が待ってるけど」
「有沢さん、実は私、予知能力があるの」
真剣な表情に、志穂は思わず少女の顔を見つめてしまう。
「このテストは多分駄目と思ったら、結果が本当に駄目なの……なんと的中確率は10割なのよ」
「……」
「私、今度の期末テストで最低4科目は赤点とるような気がするわ」
志穂は心おきなく大きなため息をついた。
「でもね…」
志穂の反応を気にした風もなく、少女は雨粒の流れ落ちる窓に視線を向けて呟いた。
「この学校を受験したとき……不思議と落ちる気はしなかったの」
「そう…なの?」
「うん、今考えると不思議なんだけどね……」
「あっはっはっ……翠(すい)ちゃん。仲良く補習受けよか?」
「え、姫条くんも?……なんか、一科目だけ100点ってのが胡散臭い成績だね」
「一科目だけいい点を取るのがみそやねん……なんか、実力はあるのに手抜いてるような雰囲気があるやろ?」
と、誇らしげにはった胸に翠はすかさずツッコミを入れた。
「んなワケないでしょ!」
「それにしても翠ちゃん……成績真っ赤っかやけど、大丈夫?」
「有沢さんに教えてもらってやるだけはやったんだけど……」
「……お前ら本当に外部受験かよ?」
と、これは補習を受ける数少ない仲間を探していた鈴鹿。
いわゆる、成績ではなく運動能力で高等部にあがったエスカレータ組の1人で、一年生にして既にバスケ部のレギュラーとしていろんな意味で大暴れしている……今のところ主に5ファウル退場でだが、実力はチーム一。
「おいおい和馬、お前さんの成績も結構悲惨やで?」
バスケットボールの部員として背が低いことを悩んでいるのを知りつつ、まどかは和馬の頭をポンポンと叩いた。
和馬の身長は171センチだが、まどかは帰宅部でありながら185センチの長身である。
「うるせーな……俺の赤点は3科目だぞ、お前と一緒にするなよ」
「自分、総合得点では負けてるで…」
「わ、私なんか全教科赤点で、しかも総合得点でも(下から)トップなんだから!」
「……」
「……」
憐憫の視線を2人に向けられ、翠は床を指先でつつきながらいじける真似をした。
「ここは、笑い飛ばすのが本当の親切なんだけど……」
「すまん、あまりに悲惨すぎてちょっと言葉が……」
「大丈夫や翠ちゃん。根拠はないけど、自分はやればできるって」
などとその場を繕おうとした2人が、何かに気付いて半歩下がった。
「海燕、君のおかげで氷室学級の平均点は1.4点下がった……クラスの人間が40人として君の点数がクラス平均とどれだけかけ離れているか計算したまえ」
「え、えっと?」
助けを求めるようにまどかと和馬に視線を向ける翠だが、2人は暖かい視線を送りながら心の中で応援してくれているだけだった。
翠は精一杯の笑顔を浮かべながら、思いつくままに答えてみた。
「へ、平均点が1.4点下がったって事は、1.4点ですか?」
「……海燕。私は冗談が嫌いだ」
「そ、そうですよね……クラスの平均点から1.4点低いだけならここまで真っ赤な成績になるはずもなくて」
しどろもどろになって答える翠に、氷室は冷ややかな視線を向け続けた。
「なんや翠ちゃん、そないしょぼくれて…」
補習授業の帰り、ふらついた足取りで校門を出ようとしていた翠をみかけてまどかは肩を叩いた。
「……」
「翠ちゃん?」
「……ベンチャーキャピタル成長において、リスク移転存在数が多ければ多いほどその機能は正常に…」
「翠ちゃん、なんか漏れてる!なんか漏れてるって!」
まどかに肩を揺さぶられ、翠の瞳に力が戻った。
「あ、ごめん……なんか方程式やら世界史が喉いっぱいにつめこまれて意識が…」
「喉いっぱいって……ま、多少はわかる気がするわ」
まどかは鞄を抱え、夕焼け空に視線を向けた。
「姫条くんは、どうしてこの学校に?」
「あ?なんやバイト先で出会ったリッチそうなおっさんが俺のこと気に入ったみたいで入学案内とかくれてな……まあ、タダでええいうからありがたく通わせてもらってるんやが」
「タダ?」
「あ、しもた…」
自分の失言に気がついたのか、まどかは慌てて自分の口を手でふさいだ。
「……そう言えば、姫条くんを入試会場で見た記憶がないんだけど」
あまり人数は多くなく、教室2つの試験会場で行われた入試……ひときわ目を惹くまどかのような少年がいれば多少なりとも記憶に残っていて当然なのだが。
「翠ちゃんにはかなわんなあ……実は俺、インチキくさい話やけど、入学試験を受けてないねん」
「……は?何それ?」
「なんやよーわからんけど、若者にはすべて青春を謳歌する権利があるとかないとか……まあ、確かに学校ってのも悪くないところやし……でも、あのおっさんどこかで見たことあるような」
「……まあ、いいんじゃない?得したと思えば」
「ははっ、翠ちゃんのそういうとこ好きやで。一応みんなには内緒にしててや」
「誰も信じないって…」
「かもしれへんなあ」
まどかは眩しそうに目を細め、翠の頭をポンと軽く叩いた。
「な、何?」
「自分、変わった子やな…ちょっと興味が湧いてきたわ」
「え?」
まどかは小さく微笑み、さりげなく翠に歩調を合わせた。
「自分、休日はどんなことしてんの?」
「え……うん、いろんな場所を散歩してる」
「へえ、散歩が好きなんか?」
「好きっていうか……ちょっとね、教会を探してて」
教会と聞き、まどかは意外そうな表情を浮かべた。
「なんや、翠ちゃんはクリスチャンなんか?」
「ううん、そうじゃないの……なんかね、子供の頃遊んだ教会がどこかにあるはずなの」
「おや、ワケアリッぽいな……よっしゃ、この話題はやめにしよ」
「翠ちゃん、今度の休みにどっか遊びにいかへん?」
「あ……ちょっと用事があって」
「なんや、つれへんなあ……ま、しゃーない」
残念そうに呟くまどかに頭を下げ、翠はいたたまれない気持ちでその場を後にした……が、廊下の角を曲がったところで誰かに肩をつかまれた。
「ちょっと、翠」
「あ、奈津実ちゃん…」
くりくりと元気良く動く大きな瞳と活発そうな身のこなしが志穂とは好対照の奈津実。もちろん、どちらも翠の大事な友達である。
「……あのさ、私に遠慮してるならやめてよね」
「あ、そんなんじゃないの……ただ」
「ただ……何よ?」
まどかのことを好きな奈津実に遠慮してないと言えば嘘になる。
ただ自分に興味があるらしいまどかだけではなく、誰の誘いに対しても首を振り続けている事を奈津実は知らない。
「私、今は男の子に興味ないから…」
「え、えーと…?」
奈津実は翠の肩に置いた手を離して視線を泳がせた。
「えっと、私、翠とはいい友達でいたいかなと思ってるんだけど…」
「いや、女の子が好きなわけでもないんだけど…」
「あ、そう…」
奈津実はほっとしたような表情を浮かべ、そして首を傾げた。
「本当は……誰か好きな人でもいるんじゃないの?」
「……謝りたい人なら、いるけど」
「え、それって…」
キーンコーン…
「ほら奈津実ちゃん、受業が始まるよ…」
「え、あ、うん…」
まだ何か聞きたげな奈津実の背中を押すと、翠は人の流れに逆らうようにして歩き出した。
「鰯が一匹、鰯が二匹と…」
秋晴れの空の鰯雲を見ながら、翠は大きくのびをした。
「やっぱり、気分転換には散歩だよね……」
広大な学園の敷地だけに、未だ足を踏み入れたこともない区画があって飽きない。
さらに、午後の受業が始まっていたりするから教師に見つからないように身を隠す必要性もあったりするからスリルも満点だ。
「…と?」
目の前に現れたいかにも手入れのさされていない雑木林に、翠の足は止まった。ためらいではなく、思いもかけず懐かしいものに出会った困惑と言った方がいいかも知れない。
ぼうぼうに生えた下草を気にしながら、それでいて身体は記憶をたどるようにして進んでいく。
そして、ぽっかりと光の降りそそぐ空間が現れた。
「……私、馬鹿みたい。こんな近くにあったのに…」
古ぼけた小さな教会は、まるで何かの魔法をかけられたように翠の記憶通りの姿を保っていた。
かつて、名前も知らない少年と……いや、ただ単に忘れてしまったのかも知れない……翠が遊んだ教会。
少年と過ごす時間が楽しくて最後まで引っ越しすることを言い出せなかった。
『また明日、待ってるよ』
それが、少年の最後の言葉……次の日のその時間、翠は引っ越し先に向かう車の中にいた。
彼は、誰も立ち寄ることのないこの教会でずっと待っていたのだろうか?
ゆっくりと近づき、教会の扉に手をかける。
ガチャ、ガチャ…
「鍵…」
開かない……あの頃は、いつも少年が教会の中で待っていてくれた。しかし、約束を破ったから鍵がかかっているのは当然なのか。
「……何してる」
「えっ?」
慌てて振り返ると、そこには少し眠そうな瞳をした少年が立っていた。
「あっ、えっ…葉月…くん」
成績優秀、スポーツ万能、そして大人気の学生モデル……ちなみに同じクラス。ただ、その派手な経歴に似合わず、いつも1人で孤独を楽しむような雰囲気を纏っているのがかえって印象的だった。
「何故?」
「何…?」
葉月は見たくないモノを見てしまった後ろめたさを隠す様に、翠の視線から目を背けた。
「何故、泣いてる」
「え?」
葉月に言われて、静かに流れ続ける涙の存在に翠は気付いた。
「あ、これは…ちょっと」
「……この場所で、泣くのはやめろ」
「葉月…くん?」
「……悪い、忘れてくれ」
どこか浮世離れした感じでとっつきにくいモノを感じていたのだが、この場所での葉月に翠は人間くさいものを感じた。
そして次の日。
「そこのお嬢さん」
「え?」
今まさに雑木林の中に足を踏み入れようとした瞬間、背後から声をかけられて翠は身体を硬直させた。
なんと言っても、今は授業中である。
「あ、私、転校生なんですけど迷っちゃいまして……」
愛想笑いと同時に、そんな言い訳が口をついて出る。
優しそうな瞳よりも、胸のポケットに飾られた一輪の薔薇が印象的で、しかも、それが似合っているところがどこか日本人離れしている紳士。
「……って、理事長先生!?」
「おや、いきなり正体がばれてしまった……しばらくは謎の人として登場しようと思っていたのに」
「そりゃ、入学式で『校則はただ一つ、青春を謳歌すること!』なんて言われたら忘れようにも忘れられません……」
「入学式……君は転校生ではなかったのかね、海燕君?」
思わず小さな笑みをこぼし、理事長はそれを隠すように口元に手をやる。
「あ、いや、そのですね……」
名前で呼ばれた事に多少の疑問を感じたが、少なくとも嘘がばればれであることだけははっきりと理解できた。
「ふふ、このあたりには妖精パックが悪戯な魔法をかけていてね……記憶が混乱するという事にしておこうか」
「……教室に戻ります」
「うん、そうしたまえ」
ぴょこんと頭を下げて高等部の後者に向かって駆けていく少女を見送ると、理事長は雑木林を振り返って遠い目で呟いた。
「重い荷物を背負ったままはばたくには強い翼が必要だ……」
「海燕君…」
「えーと……」
もう何度となく聞き慣れた声だけに、振り返らずとも誰だかわかった。それ以前に、薔薇の花の香を漂わせた男性がそう何人も実在してるとは思えない。
「ちょっと道に迷ってしまいまして……」
「うん、確かに君は人生の迷子になっているようだね……そういうときは、薔薇の手入れをしてみるといい」
にこやかに微笑みながら、理事長先生は翠の手に消毒液をまく霧吹きのようなモノを押しつけてきた。
「いや、あの……今は授業中だったり」
「いいからいいから……」
柔らかな口調とは裏腹に、理事長は翠を薔薇の花壇へと連れて行く。
「……この花壇って?」
「ああ、私の趣味でね……」
あの教会と同じく、ほとんどの生徒達はこんな場所があるのを知らないのだろう。
数は多いのだが、株の種類や成長の度合いが一本一本異なっているのに翠は気がついた。
「これって……一本一本手入れの仕方が違いますよね?リンや窒素の分量も時期によって違う筈ですし」
「……薔薇を育てた経験があるのかな?」
「……昔、そういうことを教えてくれた友達がいて」
「そうか……きっと花が好きな友達だったんだろうねえ」
「そう……だと思います」
何かに導かれるように迷い込んだ教会で出会った少年……今考えても不思議な少年だった。
短い春休みの間、翠が引っ越すまで教会で毎日遊んだだけで、教会以外の場所で遊んだ記憶はない。
「……あの」
「ん、なんだね?」
「林の奥にある教会って……」
「うん、この学園ができる前からあったらしくてね……ずっと使われていないんだが、これでも宗教建築というものに敬意を持っていて何年に一度は補修作業をしているよ」
「ずっと……使われていないんですか?」
「そうだよ?」
ステンドグラスから光がこぼれ、幻想的なまでの美しさを醸し出した床の上には塵1つ落ちていなかった筈だ。
「あの……あの教会に何かあるんですか?」
パチン…
肥料の窒素が多すぎたのか、大きく育ちすぎた薔薇の葉をはさみで切った音がやけに大きく響いた。
「さあ、古い建物だから何かあるのかも知れないねえ……でも、どうしてそう思うのかな?」
「その……なんだか私が教会に近づくのを理事長先生が邪魔してるような気がして……って、そんなはず無いですよね。すいません、変なこと言って」
何故そんなことを言ってしまったのかわからず、翠は黙々と霧吹きで薔薇の葉の一枚一枚に薬液を散布して回った。
病気の治療ではなく予防のための薬液で、こうしてこまめに散布すれば大概の病気は防げる……と聞いた気がする。
「……学校は楽しいかね?」
「はい」
「うん、即答してくれると学園の理事長として嬉しいね」
「あ、あはは…勉強は苦手なんですけど」
「うーん……情熱の色とはいえ、全教科赤点というのは感心できないね」
「うわわ……」
翠の顔が真っ赤に染まる。
「ははは、氷室先生はその点に関して厳しいだろう?」
「はい…でも、すごく熱心でいい先生です……それにしても、理事長先生ってすごいですね。生徒一人一人の名前や成績まで覚えているなんて」
「いやいや、海燕君の成績はちょっと印象的だったからね…」
「うう…次の試験ではせめて忘れられるぐらいには頑張ります」
「はっはっはっ、期待しているよ」
「二年生に進級できて良かった……」
「三学期の試験では赤点が1つだったもんね」
「……藤井さん、それってフォローになってるかしら?」
志穂、奈津実、翠の3人グループに違和感を覚える者は多い。
成績優秀でどこか生真面目さをを与える志穂に対して、成績は並みの下でスポーツ万能、そして遊び好きの奈津実……おそらく、翠がいなければ2人が結びつくことはなかっただろう。
「今度は誰かと同じクラスになるのかなと思ったのに…」
「海燕さんはまた氷室先生が担任で羨ましいわ」
「私、氷室っちが担任はヤだな……何というか、ロボットみたいだからからかうのは好きなんだけど」
「あきれた…」
小さくため息をつく志穂。
しかし、レンズの向こうにある視線はどこか優しい。
「でも、良かったわね海燕さん……この調子でいけば、今度の試験で藤井さんといい勝負ができるんじゃないかしら?」
「そ、そうかな?」
「う、それってなんか複雑……」
そんな三人の目の前を、ひとひらの桜の花が流れて落ちた。
「そういや、公園の桜が満開だっていってたかな…」
「息抜きに桜色の風を感じるのも悪くないわね…」
「リリカルリリカル…♪」
「海燕さん、藤井さんはほっといて2人でお花見しましょうか」
奈津実に背を向けるようにして翠の肩に手を置く志穂。
去年の一年間で随分と奈津実の扱いを心得た感がある。
「あ、ごめん……私お花見はちょっと」
「え?」
「なんか、桜の花を見てると……泣いちゃう時があって」
少し恥ずかしげに告白する翠を見て、志穂は小さく微笑んだ。
「桜を見て泣くなんて、詩人ね…」
「いや、多分翠には桜の花に関わる悲しい想い出があるに違いないわ」
「……」
「あ、あれ?」
冗談のつもりだったのだが、黙り込んでしまった翠に奈津実は慌てた。
「なーんてね、びっくりした?」
「もう、翠ったら…ちょっとだけマジになっちゃったじゃない」
「あはは、成功成功…」
志穂はやたら明るく笑う翠を見ると、奈津実を肘でつついて目配せした。
「何よ?」
志穂による話題を変えなさい光線を浴び、奈津実は最近のファッションの流行について話し出す。
「あっ、もうすぐバイトの時間だから…」
「えっ、翠のバイトってまだ…痛っ」
「海燕さん、また明日…」
「うん、2人ともまたね…」
手を振って駆けていく翠の姿を見送り、志穂はため息をつきながら奈津実の方を振り向いた。
「……もうちょっと気を遣いなさいよ」
「私達が変な風に気を回したら翠は余計に気にするでしょ!」
「ごめんなさい、気付いてないのかと思ってた…」
「あ、あのね…」
奈津実は肩をすくめ、そして空を見上げながら呟いた。
「学校の敷地内にある小さな教会の事知ってる?」
「小等部の頃改修作業が行われたでしょ。その時に一度だけ見に行ったことがあるけど…」
「翠ってばさあ、たまにそこで泣いてるのよね……子供みたいに」
「え?」
「なんか、自分でもどうして泣いているのかわからないって感じなんだけど……鍵のかかったドアの前で誰かを待ってるように座り込んでじっとしてるの」
奈津実はそう言って視線を落とすと、転がっていた石を蹴り上げた。
「謝りたい人がいるって聞いたことがあるけど……翠って去年の春にこの街に引っ越してきたわけでしょ?」
「小さい頃、この街に住んでたはずだけど……」
「……なんか、翠がつまんない事で悩んでるような気がしてきた」
「あの、奈津実ちゃん?」
「眠い……」
「ごちゃごちゃ言わずに2人ともついてくる!」
右手に葉月、そして左手で翠を引っ張りながら、奈津実は教会の方に向かってズンズンと歩いていく。
「……」
「何のつもりだ?」
教会が近づくにつれて翠は無口になり、葉月の表情からは眠そうな様子が消えていった。そして、下草を踏み分けて教会にたどり着くと、そこで初めて奈津実は2人の手を放した。
「アンタ達、この教会で誰かを待ってるんじゃないの?」
「お前には関係……?」
「……?」
お互いに顔を見合わせる翠と葉月。
「アタシの誤解なら誤解でかまわないんだけどさ……なんか、運命の赤い糸ってやつを信じたくなったわよ」
口に出してから恥ずかしくなったのか、奈津実はプイッとそっぽを向いた。
「翠は小学校に上がる直前までこの街で住んでたから……誰かさんの記憶と一致するんじゃないの?」
それだけを言い残し、奈津実は教会を後にした。
そしてその場にのこされた2人は、ただ言葉もなくお互いの顔を見つめ合う。
「……そう、なのか?」
「……そう、なの?」
微かな沈黙の後、2人は同じおとぎ話を語り始めた。
囁くような呟きは少しずつ大きくなり、そして2人とも何かを喉に詰まらせたように黙り込む。
「約束、守れ…なくて…ごめ……なさい」
ぽろぽろと涙をこぼしながら謝り始める翠。
「……守ってくれた」
少女とかわした約束……いつの日かこの教会で。
走り去る車を呆然と見送った少年の記憶。
そして2人は、同時に教会のドアに手を伸ばした……
ガチャ、ガチャ…
「……開かないね」
「…そうだな」
「……あの頃、どうやって鍵を開けてたの?」
「え……?」
葉月の顔に不思議そうな表情が浮かんだ。
「教会の中で待ってたのは……お前だろう?」
握っていた手がどちらともなく静かに離れていく。
「……私が引っ越したあの日、教会で待ってたのよね?」
「違う……俺は、泣きながら手を振るお前を見送るだけしかできなくて…」
2人は同時にぺたりと座り込んだ。
「あ、あはは……人違いだね」
「そのようだな……」
「でも、ちょっとだけ安心した……」
「俺もだ……自分だけが馬鹿をやってるわけじゃないことが分かってほっとした」
翠は抱えた膝の間に顔を埋めて呟いた。
「ごめん、葉月くん……私、ちょっと泣くから」
「好きなだけ泣けよ…ここにいてやるから」
「ありがと……1人で泣いてると気が滅入るから」
「海燕先輩!」
「ああ、日比谷君……どうしたの?」
「先輩が一年の時、全教科一桁の赤点とったって本当ですか?」
「あ、あはは……まあね」
渉はそれを聞いて感激したかのように小刻みに肩を震わせた。
「是非、勉強の仕方を教えて欲しいっす!」
「いや、あの……私の成績ふつーなんだけど?」
「その状態から普通の成績に持っていったって事がすごいっす。自分、ちょっと辛い成績なんで尊敬してしまいます」
翠は一年生のテスト結果順位表に目を転じた。
「……日比谷君って、外部入学だったよね」
「はいっ、志望判定Dだったっすが、神風が吹いてくれたみたいっす」
「……なんで、合格できたんだろ」
「先輩、それはきついっす…」
「あ、ごめん……日比谷君じゃなくって、私のことなんだけどね…」
今になって考えると、合格するはずがなかったと思う。
第一、この学園の入学案内が送られてきたとき翠はこの街から遠く離れた場所に住んでいた。もちろん、春になったら引っ越しすることは決まっていたのだけどおかしな話には変わりない。
「あ、あの…どうかしたんですか?」
「ん、ちょっと……ね」
翠の脳裏に浮かんだのは理事長の顔だった。
まどかのことといい、不可解なことが多すぎる。
コンコン
「…失礼します」
理事長室の分厚いドアを開けると、そこに誰もいないことが一目でわかった。
「また、薔薇の世話でもしてるのかな?」
そう思って踵を返しかけた瞬間、パタンという小さな音がして翠は振り返った。
「ん?」
マホガニー製の重厚な机にゆっくりと近づき、小さな写真立てを手に取った。
「うわわ、国際結婚なのかな?」
理事長の隣に立っている女性が蜂蜜色の髪と薄いブルーの瞳をしている以外はごく当たり前の家族写真のように見えた。
優しそうに微笑む女性と小さな2人の子供達……
「……ん?」
「おやおや海燕君、何か用かな?」
「ひゃっ!」
翠は慌てて写真立てを机の上に置いた。
「ご、ごめんなさい!無断で入ったりして…」
「はは……鍵がかかってなかったのなら仕方ない」
穏やかな口調と真剣な眼差し。
「……け、結構貴重品っぽい品物がゴロゴロしてるような気がするんですけど」
「不用心だったかな?」
「不用心だと思います……鍵をかければいいという問題でもないと思いますけど」
「確かに……どんなに厳重な鍵をかけても、大切な何かを失うことはある」
理事長の瞳がここではないどこか遠くを見ているような気がして、翠は少し落ち着かない気分になった。
「本当に大切な物には、鍵をかける必要なんて無いんだよ…」
そう呟き、理事長は机の上に置かれた写真立てに目をやった。
「理事長先生…?」
理事長は小さく微笑み、そして机の引き出しを開けて何かをとりだした。
「……その目で確かめてくるといい」
翠の手に、小さな鍵を握らせる。
「これって……」
「教会の鍵だよ……まずは行っておいで。葉月君と一緒に…」
鍵は随分と長い間使われていなかったのか、スムーズには開かなかった。
「貸してみろ…」
翠の手から鍵をとり、葉月が落ち着いた手つきで鍵をまわす。
ガチャリ……
鍵が開いた瞬間、ドアは来訪者を歓迎するように自然と外側に向かって開いた。
「……」
覚悟していたような埃っぽさを全く感じさせない教会の中は、ステンドグラスからこぼれた光で別世界のように彩られていた。
「……同じだ、あの頃と……ただ、季節が違うだけで」
感嘆したように呟く葉月。
翠は何かに導かれるようにゆっくりと教会の中に入っていった。そして、教会の奥まった部分に辿りつき、柱の陰から震える手で一冊の絵本を取り出す。
「それって……」
「うん……あの絵本」
「どうして?」
その疑問は絵本が全く傷んでいない事に対してなのか、それとももっと違う事に対してなのかはわからなかったが、翠はただ首を振った。
「葉月くん…理事長先生に会いに行こう」
「え?」
「……多分、つらい話になると思うけど」
写真を見る理事長の優しすぎる瞳と、古ぼけた教会の鍵……多分、鍵はこれ一本しかない。
コンコン…
「どうぞ…」
窓の向こうに視線を向けている理事長の背中が心なしか小さく見えた。
「……はばたき学園の理事長として、過去に捕らわれている君達を見ることは非常に残念だった」
「……」
「でも……1人の父親として、私は君達にお礼を言いたい」
理事長の肩が微かに震えていた。
「……あの子達が、父親である自分一人だけにしか覚えていてもらえないと考えるたびにどうしようもなく辛くてね」
その言葉を聞いて、葉月は弾かれたように顔を上げた。
「……ずっと、あの子達のことを忘れずにいてくれてありがとう」
「嘘だ…」
「葉月くん…」
立ち上がりかけた葉月の手を翠は引っ張った。
「あの頃、妻と私はちょっとした行き違いから不仲になっていてね……あの子達は、いつも教会で遊んでいた」
老人の思い出話のように不必要なほどに長々とした話だったが、翠と葉月の2人は黙ってそれを聞いていた。
「……桜の花の咲く頃、妻が娘を連れて実家に帰ると言いだした。それを聞いた瞬間、ここを離れたくないと火がついたように泣き出したあの子を見て、妻と私は思わず顔を見合わせてしまったことを覚えている……」
葉月の肩が小さく震えた。
「その次の日、私は一冊の絵本を子供達に与えた…」
翠は、教会から持ってきた絵本をぎゅっと胸に抱きしめた。
「それが、この絵本…?」
「……そうだ。私は家族揃って暮らせることを信じていたからね……一度自分の国に帰れば、妻の心も落ち着くと思っていた」
そこで理事長は初めて表情を曇らせ、悔悟の念と共に言葉を吐きだした。
「私は、子供達にではなく妻にその言葉をかけてやるべきだった……言葉にしなくてもわかる…そう信じていたんだよ」
「私があの子と出会ったのは……」
「妻が出て行ってから一年後のことだよ……短い間だったが、あれが久しぶりに明るい笑顔を見せたので良く覚えている」
「私、何も言わずに引っ越しちゃったから……」
理事長は目を閉じ、そして小さく息を吸い込んだ。
「あの日、あの子は教会には行かなかった……いや、行けなかった」
「え?」
「……妻の運転する車が事故を起こしたと連絡がはいってね、私とあの子は国際線に乗っていた」
理事長は一旦言葉を切り、そして抑揚のない声で呟いた。
「あの子はそれを後悔していた……約束を破ったから、怒っちゃったんだと……それを謝りたくて毎日毎日君と同じように教会に通いつめて」
「……そう、だったんですか」
「いや、夏がくるまでの短い間だった……そして私は1人になった」
「……事故ですか?」
「病気だった……自分は何故医者じゃなかったのか呪ったがね」
室内に沈黙が訪れた。
「……理事長先生は、私をこの学園に入学させて何がしたかったんですか?」
「病室のベッドでひたすら約束のことを口にするあの子の姿が目に焼き付いていてね……海燕君を捜し出したからといってどうなるわけでもないのに」
「俺も……ですか?」
「いや、葉月君のことは後で知った……しかし、海燕君が教会に通う姿を見ているとあの子を思い出してたまらなくなってね」
翠は、胸に抱いた絵本を広げた。
再会を約束する王子と姫……多分、家族の再会に対する願望が投影されたものだったのだろう。
あの子が話してくれたおとぎ話は、絵本に書いているように王が異国の王子を追放するのではなく遠くに連れ去られた姫を王子が迎えに行くお話だった。
そのお話を、きっと妹にも話して聞かせたのだろうか……
「葉月君、海燕君……」
「はい」
「…はい」
「これで話は終わりだが、この部屋を出ていく前にはばたき学園の決まりを復唱してくれたまえ」
翠と葉月は、ややためらいながらもそれを口にした。
「青春を謳歌すること」
「よろしい……」
そして2人は理事長室を後にした。
どこかで雲雀が鳴いていた。
「翠、どこ行くの?」
「あ、奈津実ちゃん先に行ってて、後で行くから」
「……待ってるわよ、海燕さん」
「うん、待ってて」
右手に持った本を振り回しながら駆けていく翠の後ろ姿を見送りながら、志穂は卒業証書の収められた筒で奈津実の頭を叩いた。
「行く場所なんて決まってるじゃない…」
「わかっててても、聞いてあげるのが友達なの……そんなんだから、柱の陰から『守村君…』なんてため息つきながらポエムを書き続ける高校生活になるのよ」
「なっ…」
志穂の顔が真っ赤になる。
「じゃ、じゃあ私だって言わせてもらうけど、藤井さんだって姫条君のこと…」
「な、何で知ってるのよぉ?」
と、志穂に負けず劣らず顔を真っ赤にする奈津実。
「ばればれよ……それに、友達だもの」
「うー…まあ、いいけど」
奈津実と志穂はお互いにクスリと笑い、空を見上げた。
「半分予想はしてたけど、私達の進路ってバラバラだね…」
「私と藤井さんはともかく、海燕さんの進路は意外だったわね…」
「そうだよね……どっちかっていうと、志穂が絵本作家を目指すならわかるんだけど」
「目指すって言うより……海燕さん、もうプロだから」
「食べていけるのかな?」
「さあ、海燕さんなら何とかするでしょ」
「確かに…」
「藤井さん…」
「何?」
志穂は小さく咳払いをすると、蚊の泣くような声でぽそりと呟いた。
「海燕さんもそうだけど、藤井さんがいなかったら私はこの卒業式できっとこんな風に笑えてなかったと思う」
奈津実は志穂の背中をバンと叩き、白い歯を見せて笑った。
「それはこっちの台詞。ありがと、志穂」
「理事長先生、この鍵、お返ししますね…それと、理事長先生にもこれを」
と、翠が理事長に差し出したのは一冊の絵本。
「おや、これがそうかね……」
「はい……私の、2冊目の絵本です」
「ふむ、後でゆっくりと読ませて貰うよ」
「そうですね、お互いにその方がいいかも知れません」
そう言ってにっこりと笑う翠の背中に、白い翼を見たような気がして理事長は微かに首を振った。
「どうしたんですか?」
「いい、高校生活だったかね?」
「最高でした……って、何に比べて最高なのかはわかんないんですけど」
「はははっ、学生時代には比べるものなんて無いよ。ただ、自分がどう思ったかだけが大切だからね」
かつて、翠が写真の中で見たのと同じ明るい笑顔だった。
吹っ切れたとは言わないが、あの日以来理事長が何か重い荷物を下ろしたという雰囲気だけは伝わってきていた。
「そう言えば葉月君は?」
「あは、さっき教会で出会ったんですけどね、葉月君ったらこれから親子喧嘩を始めるつもりなんですって……」
「ほう、それは興味深い…」
「葉月君にとってもいい高校生活だったと思いますよ、きっと」
「おやおや、嬉しいことを言ってくれるね…」
翠は不意に悪戯っぽい笑みを浮かべ、理事長に向かって話し掛けた。
「葉月君には内緒にしときますけど……あの話、全部が全部本当じゃないですよね?」
「さあ、何の事かな?」
理事長は軽く片目をつぶった。
「バラ色の頬の君にそんな無粋な質問は似合わないよ…」
「冷静に考えてみたら、理事長先生の話って細かい部分が変なんです」
「昔の話だからね……記憶が曖昧になるのは良くあることだよ」
翠は小さくため息をつき、真面目な顔つきで頭を下げた。
「理事長先生……ありがとうございました」
「……はばたき続けることに疲れたら、この学園で過ごしたことを思い出して羽を休めたまえ」
「はい……あ、そうだ」
「ん?」
「理事長先生も、過去に捕らわれすぎるのは良くないですよ」
返事を待たず閉められたドアを見つめ、理事長は何かを堪えるようにしながら机の上の写真立てを手に取った。
「……お前が好きになった子は明るく聡明で、そして優しい娘だな」
絵本をめくってみる。
そこには神様の存在を信じてみたくなるような優しいお話が綴られていた。
「翼、桜……」
今はもうこの世にいない子供達の名前を数年ぶりに呼んでみる。
子供を失った哀しみを妻に向けてしまった若すぎた自分……今更やり直せるとは思えないが、一言謝りたかった。
理事長の手が、ゆっくりと電話に向かって伸びた。
「……」
『……』
「……」
『……』
「……2人で将来を誓いあったあの教会で、君が来るのをバラの花束を持って待っている」
完
やあ、もう途中から最初の主題がイスカンダルぐらいぶっ飛んでしまいましたね。疲れてる証拠ですね。(笑)
ただ、このゲームやりながら思ったのは『初期パラメータの主人公の学力では絶対にこの学校に合格できない』という事でした。
それはつまり、この胡散臭い理事長が裏から手を回したはずで……などと、寝不足と疲労をロケットブースターにして妄想大爆発(笑)
最後の最後で、みなさま盛大にちゃぶ台をひっくり返してくださいませ。(笑)
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