からん。
 夏の暑さを少しだけ和らげてくれるような軽やかなドアのチャイムの音に反応して、スーは視線をそちらに向けた。
「いらっしゃいませー?って、あなた新しいバイト君?」
 まだ幼さを残した顔がこくりと頷くのを見て、スーは柔らかく微笑んだ。
「そう、私はここの娘でスーって言うの。スー・グラフトン、よろしくね。」
 
「しかし、暑いわねえ。」
 そう呟きながら、スーはうらやましそうに通りの学生服姿の少女達を眺めている。
 店の奥でどんどんと新しいパンを焼いているので、その分熱が店内までやってくるのだ。こんな時ばかりは、彼女も自分の家が大人気のパン屋であることが少し恨めしく思う。
 ふとその視線が海燕の方に向けられた。
「しかし、海燕君って本当ならまだ学生やってる年なんでしょ?どうして傭兵なんか志願したの?」
 その瞬間、あまり表情豊かとは言えなかった海燕の表情に新たなバリエーションが加わった。
 困惑と疑問を7:3でブレンドして、味付けに怒りとからかいを少々といった表情である。
「スー、一体俺を何歳だと思っている?」
「そうね、17か18ってとこでしょ?」
 背伸びしたがっている少年を温かく見守るようにしてスーが答えると、海燕は黙って自分の身分証明書を彼女に手渡した。
「え?嘘・・・21ぃっ!」
 素っ頓狂な声を上げながらスーは海燕と身分証を交互に見比べる。やがて、落ち着きを取り戻したのかスーは証明書を海燕に返しながら言った。
「へえー。東洋人は若く見えるっていうけど本当なのね。」
 と、スーはここで一旦言葉を切ると海燕に向かって指をさした。
「で・も・ね。あなたが私より年下ってことに変わりはないからね。大それた事は考えないでね。」
「・・・大それた事って何なんだ?」
「ほら、そう言うのが年下なのよ。」
 よくわからないスーの理論に、海燕は黙って頷いた。
 
 海燕がいつもの時間にパン屋に行くと、『本日都合のため昼より営業いたします』の立て看板が店の前に置いてあった。
 不思議に思いながら海燕が店のドアを開けると、大音量の泣き声が海燕の鼓膜を直撃する。海燕は眉をひそめて親父さんの側に行き、この有様の理由を尋ねてみた。
「ああ・・・スーの奴恋人にまた逃げられたらしくって・・・」
「『また』って何よ、『また』って。今回でまだ5人目じゃない!」
 とそれだけ抗議すると再びテーブルに突っ伏して泣き始める。
 どのみちこのままでは仕事にならないな、と判断して海燕は親父さんに話しかけた。
「俺が少し気分転換させてきましょうか?」
「そりゃうれしいが・・・多分パンを焼くより100倍は難しいぞ?」
「まあ、やらないよりましでしょう・・・。」
 
 憂鬱な表情の海燕の後ろから、むすっとした表情のスーがついてくる。さすがに人前で泣くようなまねはしないだけの分別を持ち合わせているのか、スーは渋々と言った感じで海燕の後をぶつぶつ言いながら歩いている。
「で、どこに連れて行ってくれるの?つまんないところだったら承知しないわよ。」
 そんなことを言われても、元々何か考えがあって連れ出した海燕ではない。どうしようかな?なんて考えていると突然スーが大きな声を上げた。
「あら?あっちで結婚式をやるみたい。海燕君行くわよ!」
 と、海燕の手を取ると教会の方に向かって小走りにかけ始めた。
「ああっ、やっぱり素敵よねえ。」
 白いウエディングドレスに身を包んだ花嫁に熱い視線を送りながら、スーは自分の胸の前でぎゅっと手を握りしめている。時折、何かの妄想にとらわれたようにぶつぶつと独り言を繰り返しながら・・・。
「・・そうよ、落ち込んでなんかいられないわ。私も近いうちにここで周囲の人に羨まれるような結婚式を挙げるのよ。・・・ふふふ、うふふふ。」
 カップルに向かってライスシャワーが行われ、いよいよ花嫁がブーケを投じる瞬間が近づくと、スーは瞳をきらきら輝かせて戦闘準備をとった。
 花嫁がブーケを投じようとした瞬間に、海燕はスーに向かって短くささやいた。
「右だ。」
 まるで暗示にかかった様にスーの体が右の方に動いた。そして一瞬後。
「やったわ!私が取ったのね!これで、これで私も結婚できるわ!」
 スーは上機嫌で、そのまま帰っていった。
 海燕には何の挨拶もないままに・・・。
 
 いつものようにバイトに出かけようとした海燕は、街の雰囲気がいつもと違うことに気がついた。人が、いや一般市民の姿が見えないのである。
「・・・物騒だな。」
 海燕は、肩を怒らせながら歩いている兵隊に尋ねてみることにした。
「何があった?」
 神経質そうに表情をゆがませた男は海燕の姿を見て大きく口を開きかけたが、胸に光る勲章を目にしてそれを思いとどまった。
「サーカスから猛獣が逃げ出したらしい。住民はみんな家に帰るように指示している。」
「そうか・・・もし猛獣を見つけたらどうするように言われている?」
「生死は問わないそうだ。できるかぎり殺さないでくれとは指示されているが・・・」
 猛獣を前にしてそれだけの技量を持ち合わせる人間は騎士の中にもそうはいない。
「そうか、じゃあ逃げるのが一番だな。」
「違いない。まあ、後は特に手強いのだけ逃げているそうだからな。」
 海燕との会話で少し緊張がほぐれたのだろう、男は少しだけ微笑むとまた注意深く辺りを見回しだした。
 一方海燕は心持ち眉をひそめると、何事もなかったように平然と歩き出した。
「今日は仕事になりませんね・・・」
 そう言いながらパン屋の扉をくぐる。
 しかし、実直なパン屋の夫婦は二人そろってきょとんとした顔つきを見せる。海燕は苦笑いしながら、おそらく街の騒ぎも知らずにパンを焼いていた夫婦に今聞いてきたことを教えてやった。
「大変だ!さっきスーがパンの配達に・・・」
 顔色を変えた親父さんの言葉を聞くが早いが、海燕は店の外へと走り出していた。
 
「変ねえ・・・?」
 スーはきょろきょろと辺りを見回しながら呟いた。いつもは人通りの耐えない通りなのだが、今日は誰もいない。
「ちょっと、どうしたんですか?ひっ・・・」
 と、自分の前方にうつぶせにになって倒れている兵士の人影を見つけてスーは走り寄ろうとしたが、兵士の周りには赤いシミが絨毯のように広がっていた。しかもそれはゆっくりとではあったが未だその範囲を拡げつつある。
「な、何?なんなのよこれ?」
 スーは2・3歩後ずさりすると、腰が向けたようにその場に座り込んだ。子供の頃の喧嘩とかならいざ知らず、こんな形で人の死を見るのは初めてである。
 時々噂にあがった騎士同士の決闘などを想像したことはあっても、このような血なまぐささは想像の範疇を超えていた。
 それ以前にスーの想像というのは、自分を賭けて決闘するというところに主眼があったのだから仕方がないと言えば仕方がない。
 ゴルルルルル・・・
 ちなみに、スーは今街で何がおこっているのか知らない。
 既に神経がパニックモードに入っていたため、振り返った先にサーベルタイガーが大きな顔をしていても『ふーん、大きいわね』ですませてしまう状況であった。
 ここではこれがいい方向へと作用した。
 ぽかんと自分を見つめる人間に対して攻撃の必要を認めなかったのか、サーベルタイガーはじっとスーを見つめていた。
 しかし、スーにとって運の悪いことに風向きが変わった。
 スーの後方に倒れている兵士の血の香がサーベルタイガーの鼻腔を刺激する。神経を狂わせ、野性の攻撃本能をくすぐるそれは朝から追われ続けていた獣の理性を解き放った。 その殺気がスーにも伝わったのか、自分の身の危険を感じてじりじりと後ろへ下がろうとするのだが体が動かない。
 スーの目にはサーベルタイガーがにやりと笑ったように見えた。
 猛獣が飛びかかるのと、黒い影が横合いからスーの体を突き飛ばすのとがほぼ同時に行われた。
 自分の胸にはしる焼け付くような痛みを感じて海燕は顔をしかめた。
「ちっ・・・鎧を着てくるんだったな・・・。」
 次の攻撃を加えようとしていた猛獣に向かって、海燕は自らの殺気を解き放つ。が、一瞬とまどったような素振りを見せただけで。再びこちらの方をにらみ付けている。幸か不幸かスーのことは完全に忘れているらしい。
「・・・だめか、血の臭いに酔ってやがる。」
 海燕はそう呟いて腰の剣を抜き、猛獣の左目の辺りに剣先を向けた。
 
 何度か猛獣の攻撃を受け流しながらじっと様子を観察していた海燕だったが、やがてあきらめたように大きく踏み込んで剣を振るった。
 頸椎の辺りから血を吹き出して一度は倒れたが、サーベルタイガーは石畳の上で死ぬことを拒否するかのようにゆっくりと立ち上がり海燕をにらみ付けた。
 海燕はもう一度剣を振りかぶりかけたがゆっくりとその剣先を下げた。ゆっくりとその力を失いつつある瞳には、すでに狂気のかけらもなかったのがわかったからである。
「・・・死ぬことでしか正気に戻れんとは・・・ま、傭兵も似たようなものだがな。」
 立ったままその命を失った猛獣に向かって呟くと、海燕はスーの方を振り返った。
「スー、もう大丈夫だぞ・・・」
 と、海燕の差し出した指先から逃れるように後ずさりする。スーはそんな自分に気がついたのか、慌てて立ち上がるとどこかわざとらしく自分の頭を叩いた。
「いけない。私配達の途中だったんだわ。」
「おい、まだ猛獣が・・・」
 走り去ろうとするスーを追いかけようとした海燕の前に道化師が現れた。
「いえ・・・これで全部です。」
「サーカス関係者か?・・・すまないな、殺したくはなかったんだが。」
「・・・あれはあれで幸せな死に方だ。・・・・戦って死ねたのだから。」
 仮面の下の表情は窺うことができないが、寂しげな表情を見せているのではないか?海燕はそう思った。
「酒を持ってるか?ついでに火も?」
「ウオッカで良ければね。火は勘弁してもらいたい。」
 上等だ、とばかりに海燕が微笑んだ。渡されたウオッカを胸の傷にぶちまける。そんな海燕の姿を眺めながら道化師が呟いた。
「英雄気取りはやめた方がいい。強いと言うことはこの国では畏怖の対象になる。」
 そこで初めて海燕はさっきのスーの態度を理解した。
 どうやら、この国の雰囲気に毒されていたらしい。元々、傭兵が快く受け入れられる場所など希有な存在でしかない。
「そうか・・・忠告を感謝する。できることなら俺の前に敵として現れないでくれ。酒代の分、剣が鈍るかもしれない。」
 笑いながらウオッカの瓶を投げ返すと、道化師もまたのどの奥で低い笑い声を上げた。
「もちろん。手に余りそうな危険はできるだけ避ける主義だからな。」
 できるだけ避ける・・・それ以上二人は言葉を交わさない。おそらくそれ以上の会話は加速度的に危険度を高めていくことを肌で感じ取っていたからかもしれなかった。
 
「スー、パンの粉はどこに・・・」
 ぷい。
 海燕を無視するようにスーは店の奥に消えた。その姿を不思議そうに見つめる母親に向かって海燕は弁解する。
「ちょっとこの前血なまぐさいところを見せちゃいましたからね・・・。」
「あれがあんたを怖がっているとでも言うのかい?」
 母親はおかしそうに笑うと、海燕の肩をぽんぽんと叩いた。
「ありゃ、あんたに照れてるのさ。」
「お母さん!変なこと言わないでっ!」
 店の奥からスーが顔を真っ赤にしながら走ってくる。そして海燕の視線に気がつくとぷい、とそっぽを向きながらしゃべり続ける。
「だいたい、私は年下には興味ないのよ。そりゃ・・・この前命を助けてもらったことは感謝してるけど・・・格好良かったし・・・」
 耐えかねたようによそを向いた母親の肩の辺りが小刻みに震えている。
「でもね、だからといって年下には変わりはないのよ。私の理想は高いんだから・・・まずはムードをわきまえてる人で・・・」
 などと言い訳のように語り続けるスーを無視して、グラフトン・パンでは次々と新しいパンが焼かれていた。
 
 水晶のなかにゆっくりと特徴的な顔が浮かび上がる。
 思えば学生の時から毎年この占いに通い続け、その度に違う人物の顔が浮かび上がってきたなどという事実は一旦心の棚に投げ上げた。
 少なくともこの占いに勇気をもらって恋人になるまではだいたいの成功率を収めているのである。
 だが今回はほんの少しだけ心にブレーキをかけてみようとスーは思った。
 既に自分も24歳。結構崖っぷちに立っている気がしないでもない。ここでの失敗は18歳の時の失敗とはその重みが違う。
 家に帰って少し考えを整理してみようと思い、海燕との挨拶もそこそこにしてスーは我が家へと急いだ。
 ・・・そもそもなんで年下って駄目なんだったっけ?
「・・・まず、せっかちでムードがないのよね。エスコートも下手だし・・・ま、海燕君はその点わきまえてるんだけど。」
 スーは眉をひそめて自分の人差し指を額の辺りに押しあてた。
「それと、いざというときに頼りにならないのよね・・・」
 スーの脳裏に、身を挺して自分の命を救ってくれたシーンが浮かんだ。
「格好良かったわね・・・あれぞ騎士の鏡ってものよね。・・・傭兵だけど。」
 ただ、騎士の中に親しい友人のいる父から聞いた話では海燕の戦功は群を抜いて素晴らしいものであるらしい。
 ま、幸せな結婚を望むスーにとっては相手が騎士であろうがパン屋の主人であろうがどちらでもかまわないのであるのだが。
「・・・問題は経済力よね。」
 スーにとって傭兵の支給金額など予想もつかない。ただ、命がけで戦闘に赴くのであればそれなりの金額が支払われて当然だろうとスーは考えた。
「あ、でもずっと傭兵してるわけにもいかないしね。」
 とここまで考えたスーはある疑問に突き当たった。
 『なんで、パン屋でバイトなんかしてるのだろう?』という疑問と『なんで傭兵なんかしてるのかな?』という二つの疑問である。
「・・・今度聞いてみようっと。」
 
「何それ!命をかけてるのにそんだけなの?じゃあ、うちで渡してるバイト代の方がよっぽど高いじゃない!」
 目を見張って怒ったように立ち上がるスーを海燕が押しとどめた。
「あー・・・俺の存在意義が危うくなるから、そういうのは心の中だけで頼む。」
「じゃあ・・・何で傭兵なんかしてるの?だいたいその若さで東洋からこんな所までどうして流れてきたの?」
「スー!喋ってないで配達に行って来てくれ!」
 厳しい父親の声にはじかれたように、スーは慌てて伝票片手に店を出ていった。
「すまんな、海燕君。」
 焼きたてのパンをトレイの上に並べながら、親父さんは心底すまなさそうに呟いた。
「いや、別に謝られるような事は何も・・・。」
 海燕の視線から目をそらすようにして親父さんはぽつりぽつりと話し出した。
「あれは・・・世間知らずだから。大事に育ててきたきたつもりだったが、もう少し社会勉強をさせておくべきだったのかもしれんなあ・・・。」
「・・・素晴らしい事じゃないですか。スーがあれほど結婚にこだわるのも親父さん達を間近に見てきたからでしょう。誇りこそすれ、恥じることなんかありませんよ。」
「そう言ってくれると嬉しいがな。」
 親父さんはにっこりと笑って、カウンターに座る妻と微笑みあった。
「ここのパンが評判なのもそのおかげでしょう?」
 それを聞いて母親はわざとらしく表情を曇らせた。
「じゃあ、いつまで経っても満足にパンが焼けないあの子はどうなるのかねえ?」
 グラフトン・パンの店内に明るい笑いが充満する頃、スーはちょうど3回くしゃみをしていた。
 
 こんこん。
 ためらいがちにドアをノックする音に海燕はベッドから身を起こした。
「誰だ?」
「ちょっとおっ、いつまで寝てるのよ!開けなさいよ!」
 どんどんがんがん、とドアが激しく乱暴されるのを見かねて海燕はカギをはずしてドアを開けた。
 額に汗をうっすらとかき、スーが心持ち頬の辺りを染めながらにっこりと微笑んだ。
「おはよう、海燕君。」
「・・・おはよう。」
「じゃ、行くわよ。」
 不可解そうな海燕の表情がスーの気に障った。
「何よ?誰かと約束でもしてるの?」
「スーと約束した覚えもないんだが?」
 スーは慌てて郵便箱の中身を本人の許可もなく引っかき回した。そしてその中の一枚の手紙を見つけてぶるぶると肩を震わせる。
「どういうことっ!なんで自分宛の手紙ぐらいちゃんと目を通さないの!」
「昨日まで戦争してたんだ・・・そんな余裕はない。」
「もうっ!これだから年下は・・・」
 ・・・多分違う。
 ふと、スーは部屋の中の様子に気がついて頭を抱えた。
「この前掃除してあげたのに、また散らかってるうぅっ!」
 と言っても、せいぜい読みかけの本と脱ぎすてた服が一枚床に転がっているだけなのだが・・・。
 スーの母親に言わせると、『ありゃ、何とか口実を見つけてあんたに会いに行ってるんだね。』らしいのだが、ここまで世話を焼くのはいかがなものか?
 今年の夏至祭において、生まれて初めて二年連続同じ人物が浮かび上がり、そのせいでスーが何かを吹っ切ったことなどこれっぽっちも知らない海燕はただあきれたようにスーの姿を眺めるだけであった。
 
「俺をバイトとして雇っていることで何か不都合なことはおこっていませんか?」
 クリスマスを目前に控えた街並みはどこか浮かれ気味で、しかしその光とは裏腹にドルファン国は隠しようのない暗部をふとしたことで大きくさらけだす様になっていた。
 そんな暗部とは本来無縁のパン屋の店内で、親父さんが不思議そうに海燕を眺めていた。
「急にどうしたね?」
「・・・外交人犯罪の増加で、排斥運動が活発になってきている。もし、俺のせいで何か問題があるなら・・・」
「何もない。だから君が気にするようなことも何もない。」
 海燕は黙って引き下がった。
 外国人傭兵である自分を気軽に雇ってくれる場所はそう多くない。最近では力仕事関係でも断られるようになっていると仲間からは聞いている。
 他人の好意に甘えることになれていない海燕は、何か問題がおこったら親父さんがなんと言おうと黙って姿を消そうと思っていた。
 しかし、それより先に国による強制退去が行われそうなことに気がつかない程海燕は無能ではない。また、親父さんも騎士に友人がいるだけにそういう情報に耳聡い様だ。
「ただいまー。配達終わったわよ。」
 カウンターに座る母親に伝票の束を渡すと、スーは黙って海燕の作業を手伝おうとする。
 そんな娘の様子を、父と母はどこか哀しそうな瞳で見つめていた。
 
 だいたい月に一度スーは海燕の部屋を掃除しにやってくる。ほとんど必要のない作業にかこつけて、どこかに遊びに行ったりするのが常ではあったが。
 3月16日の朝、スーはがらんとした部屋を見て呆然と立ちつくした。
「・・・何これ?」
 きちんと整頓された部屋の中には、備え付けのベッドと机、そしてタンスだけ。タンスの中には何の荷物も残されてはいない。
 どこか意志を失ったような視線が机の上に置かれた一通の手紙を発見する。
 自分宛の封筒の中には短い文面で簡潔に事実だけが述べられていた。
 
 がらんごろんがらん・・・
 店のドアを突き破る勢いでスーが飛び込んできた。ちょうどその場にいた自分の両親に海燕が国の強制退去によってこの国を去ることを告げた。もちろん、興奮していたためその説明は要領を得ないものではあったが。
「スー・・・新聞ぐらい読みなさい。」
 あきれたような父親の呟き。てっきり自分の娘はわざと明るく振る舞っていたものだと思っていたのだが、どうやら違っていたようである。
「何?じゃあ、二人とも知ってたって言うの?ひどいわ、私の気持ちも知らないで・・・。」
 下唇を噛みしめながら父親をにらみ付けるスー。
 そんな雰囲気を打開するかのように、母親が静かな声で問いかけた。
「スー。じゃあお前は一体これからどうしたいんだい?」
「これから・・・?」
 スーの顔に瞬間きょとんとした表情が浮かんだ。だが、すぐにきっと顔を上げて口を開く。
「そんなの決まってるわ。私は・・・」
 
 スィーズランド行きの船の甲板で海燕は遠ざかっていくドルファン港を眺めていた。夕日に照らされた港はだんだんと小さくなるにつれ、海面に反射するオレンジ色と区別が付かなくなってしまった。
 それでも名残惜しげにその方角を眺め続ける海燕の後ろに人影が近寄った。
「・・・あの国に心残りでもあるの?」
「いくつかあったが・・・そのうち一つは今無くなったようだ。」
 海燕は後ろを振り返りもせずそう答えた。
 そのまましばらく二人とも黙ったまま船は進んでいく。
 やがて夕日が沈み、空の蒼と海の青が見事な芸術を描き出す頃、海燕は後ろを振り返った。
 そこには冬服に身を包んで厳しい顔つきをしたスーの姿があった。
「一つ聞いていいかな?」
 スーはゆっくりとうなずいた。
「スーがこの船に乗ったのは、『別れの挨拶をするため』なのか?それとも・・・」
「そんなこともわからないのっ!・・・まったく、これだから年下って駄目よね。」
 そう呟きながら、スーの表情が少し柔らかくなった。
「・・・逃がさないんだから。ぜえっっっったいに逃がさないんだから。」
 言葉とは裏腹にスーの瞳が不安気に揺れている。
「私ね・・・結婚に憧れてたの。」
 何を今更と思ったが、海燕は黙っていた。茶化す雰囲気でもない。
「でもね、きっと違うのよそれは。多分ウエディングドレスを着たいとかそんな気持ちだけなのよ。」
 でも、という風にスーの視線が一瞬だけ海燕に向けられた。上気した顔に潤んだ瞳が海燕にとってとても魅力的に映る。
「私はね、あなたと結婚したいの。あなたじゃなきゃ駄目なの・・・。」
 懇願するようにスーは海燕の胸元の辺りをぎゅっと握りしめた。見上げてくる瞳には海燕の顔が映りこんでいる。
 海燕はスーを安心させるようにその頭をそっと自分の胸に押しつけた。
「・・・どうやら無条件降伏だな。」
 と、何かに気がついたように海燕が身じろぎしたのを感じて、スーが不思議そうに海燕を見上げた。
「親父さん達は何て?」
 海燕がほんの少しだけ表情を曇らせながら呟いた。それに対してスーはにっこりと微笑む。
「そうそう、伝言があったの。えーとこれがお母さん。」
 と、スーは海燕に向かって一枚の伝票を手渡した。本来白いはずのその伝票の裏にはこう書かれていた。
『本日はグラフトン・パンの製品をお買いあげくださり誠にありがとうございます。この製品は私たち夫婦が25年間丹誠込めて育て上げてきたもので、多少の不都合はあるかもしれませんが胸を張ってお客様にお渡しすることのできるものです。なお、この製品は当店にとって唯一の製品なので返品・お取り替えはいっさい受け付けません。どうか末永くお側において慈しんでくだされば私たちも満足です。』
 海燕は無表情にそれを読むと、スーに視線で『親父さんのは?』と促した。
「えーと、お父さんのは口頭でなんだけど・・・。」
 スーは少しだけ頬を染めてゆっくりと話し始めた。
『外国人排斥ってのは時代の流れに逆らってる。だから制度が廃止され次第戻ってこい。ただし、孫を連れてな。』
 海燕は、あきれたように呟いた。
「俺に断られるという考えはなかったのか?」
「・・・だって、私どこまでも追いかけるって決めてたもの。」
 そう言ってスーはぎゅっと海燕を抱きしめた。
「ね?」
 そう呟くスーの顔は、かけがえのない宝物をしっかりと手にして満足そうに微笑んでいた。
 
 
                   完
 
 
 このキャラって恋愛状態に持っていくと凄い可愛いんですよね。(笑)一部やりすぎという話もありますが。
 ただ私の知人に1人『スーを攻略していると非常に身につまらされることがあって怖いです。』などとのたまう人がいましたが何があったんでしょうかねえ。針で穴でも開けられたんでしょうか?『ちゃんと責任取ってねうふふ・・・。』などという台詞がつぼにはまってしまったのでしょうか?(笑)
 しかし、私がラストで少し思ったこと。
 強制退去が決定した瞬間にスーと結婚してドルファン国籍を取得したら全然問題無しなのでは?おや、それは言っちゃ駄目?
 

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