「……お父さん、どういうことですか」
 優しかった父……そして、怪我が元で騎士団を除隊してから酒に溺れた父……どちらも自分の父親であることに変わりはない。
 今の姿もまた父であるならば、自分はそれを受け入れる。
 そうすることでしか、かつての優しい父を肯定できそうになかったから……
 そんなソフィアが、生まれて初めて父に向かって声を荒げた夜。
「ジョアン君はいい青年だ……」
「……」
 自分を非難するような娘の眼差しに、父はついカッとなって手をあげかけた。しかし、顔に傷跡でも残してこの話が流れてしまうことを恐れて我慢する父。
 その代わりに、心優しい娘…そんな娘を縛る一言を口に出す。
「お前が頷けば……借金がなくなる」
「…っ!」
 大きく開かれたソフィアの瞳。
「お父さんは、私に……値段をつけたのね」
 熱量の全く感じられない呟きに、父ははっと顔を上げた。
 今は恨むかも知れないが、いずれ自分に感謝する日が来る……そう信じることで自分を納得させた。
「……お前のためだ」
 父と娘、その絆を断ちきる一言。
 この日、婚約者を得たソフィアは父を失った……
 
「助けていただいてありがとうございました……でも」
 ソフィアは、青年の腰にある剣を見て顔をしかめた。
「暴力的な手段以外に……何か無かったんですか?」
 自分に絡んでいたガラの悪い連中……しかも、近くを通りかかっただけの青年に勝手に喧嘩を売って勝手に負けたのだからどちらに非があるのかは明らかであった。
「力でねじ伏せる……暴力は不幸な結果しか生まないと思います」
「まあ、そういう考え方もあるか……」
 青年の手がゆっくりと持ち上がり、軽く撫でるようにしてソフィアの頬をはたいた。
「…?」
「このぐらいですむ相手ならそれもいいだろう……しかし」
 青年の大きな手が、ソフィアの華奢な首を掴んだ。
「ここまでする相手なら……戦うしかない、違うか?」
 青年の手から解放され、ソフィアは空気を大きく吸い込んでむせた。
「そ、そんな極端な意見……」
「肉体的な争いはともかく、誰にでも譲れないラインがあるだろう……それを許したら自分が自分でなくなる様な。その時も抵抗しないのか?」
「そんな言い方、卑怯です……」
「そう口にするのも抵抗だな……時には直接的な暴力にも優る」
 青年は器用に肩をすくめると、ソフィアに背を向けて歩き始めた。
 海からの風に後押しされるような飄々とした足取りと、どっしりと落ち着いた背中が好対照である。
 この国では珍しい東洋人……おそらくはスィーズランド連邦を通じて軍部がおこなった海外からの傭兵徴募でやってきたのだろう。数日前から、その是非についていろいろと騒がしい。
 かつて父は、騎士は何かを守るために戦うのだと言った。
 騎士であることをやめ、そして家族を守ることさえも放棄した瞬間、父は父であることもやめた。
 金のために戦う……ひょっとすると、一番ピュアな存在なのかも知れない。
「……何故、助けてくれたんですか?」
 青年は、さも意外そうな表情で振り向いた。
「助けを求めただろ?」
 ソフィアは虚を突かれた様に息を止め、そして、力無く微笑んだ。
「……そう、ですね……助けを求めたら……見ず知らずの人でも、助けてくれるんですよね…」
 しばらく忘れていた暖かさが、ソフィアの胸にじんわりと広がっていく。
「わ、私…ソフィアです」
「……海燕だ」
 D・ドルファン歴26年4月1日。
 この時の2人の距離は約10メートル……
 
「ゴワアッ!!」
 ゆっくりと崩れ落ちるホワイトタイガーを確認すると、遠巻きに眺めていただけの市民がぞろぞろと広場の中央に立つ海燕に向かって近づいてきた。
 サーカスの関係者及び、地区警備隊の連中がおっかなびっくりの様子で気を失っているだけの猛獣を捕獲されると、その輪は一層狭まった。
 ドルファンでは馴染みのない猛獣だが、その猛威を目の当たりにしていただけにそれをうち倒した青年の技量をも理解する目安になったのであろう。
「……随分と、優しい戦い方をするんですね?」
「何のことだ?」
 剣をおさめながら、海燕はゆっくりとした動作で隣を振り返った。
「てっきり殺されてしまうと思ってましたよ……」
 道化師が1人、感情を隠した声で囁きかける。
「主人の命令をきいたあげくに殺されるのは不憫だと思ってな……」
「……我々が、自らこの騒動を引き起こしたとでも?」
 海燕の視線と道化師の視線がぶつかった。
「この騒ぎで……地区警備隊が手薄になった隙をついて銀行が襲われたそうだな?」
「初耳ですね……悲しい一道化としてはおどけるしかできそうにありませんが」
 2人の間の空気が重たくなってゆき、そして不意にそれは消え失せた。
「ま、俺には関係のない話だが……」
「賢明な判断です……と、そちらのお嬢さんは知り合いですか?」
 道化師が顔の向きだけで指し示した方角を、海燕は顔を動かさずに盗み見る。
「……まあ、顔見知りというところだ」
「そうですか……英雄気取りは程々に願いますよ、東洋人のお客人……」
 道化師はそう言い残すと、捕らわれた猛獣の入った檻と共にその場を去っていった。
「……優しいんですね」
「剣で動物を叩きのめした男のどこが優しい?」
「わざと、刃のない方で叩いたじゃないですか」
「……見えた、のか?」
 海燕はちょっと驚いたような表情でソフィアを見つめた。
「父が騎士でしたから……剣を振るのを見てただけですけど」
 海燕が腰に下げている剣を一瞬だけ見ると、ソフィアはそこから視線を外した。その遠い眼差しは、今ではない何かを見つめているように思える。
「……」
「あ、父は生きてますよ……怪我をして除隊しただけです」
 海燕の沈黙を勘違いしたのか、ソフィアは慌ててその場を繕った。海燕も、敢えて誤解を解くようなことをせずに軽く頷くだけにする。
「そうか……元気な頃に一度手合わせしてみたかったものだな」
 ソフィアの目が父譲りであるならばなかなかの騎士であったのだろうと思い、海燕は場をつなぐために社交辞令めいた台詞を口に出した。
「父はただの平騎士でした。海燕さんとは、比べものにならないと思いますけど……」
「それだけなら、腕がたたないという証にはならん……特に、この国ではな…」
「そうでしょうか?優しい父ではありましたけど…?」
 ソフィアの口調が全て過去形であることに気が付き、どうやら話題を変えた方がよさそうな事に海燕は遅まきながら思い至った。
「やれやれ、せっかくの休日が台無しだ……」
 わざとらしく肩をすくめて晴れ渡った空を見上げる海燕を見て、ソフィアは微笑んだ。不器用な気の使い方がいかにも無骨な感じを受けておかしかったのである。
「台無しにできてこそ休日だと思いますよ……」
「……違いない」
 そう呟いて、海燕は素っ気なくソフィアに背を向けた。
「……さようなら」
「ああ…」
 海燕の背中が人混みに紛れて見えなくなってしまうと、ソフィアは小さなため息をついて自分の右手をじっと見つめた。
「羨ましい……と言えば、きっと怒られ……いや、あの人は笑うんでしょうね……」
 何のしがらみもなく飄々と生きる……端で見る程には楽ではない生き方であることはわかってはいるのだが、ソフィアは海燕を羨ましく思う。
 あれは、強さに裏打ちされた優しさ……それに対して、自分を傷つけることでしか他人に優しくできないということがもどかしい。
「……強くならないと」
 家族全員を救う事ができるように……そして、父のしたことを笑って許せるそんな日のために。
 冷たい風が広場を吹き抜けていく。
 澄んだ空が、どこまでも高く続いているように見えた。
 
「あ、海燕さん……どちらへ?」
「これからダナンへ出張だ」
 いつもとは違ったものものしさを漂わせながらも、海燕は何でもないように白い歯を見せて笑った。
「そう…でしたね」
 軍部にその様な動きがあることは噂で聞いていた。
「気をつけて…下さいね」
「敢えて死にたいとは思わんね…」
 良く晴れた5月の空を見上げたまま屈託のない笑みを浮かべている海燕を見て,ソフィアは何故か胸が痛んだ。
 祖国を遠く離れた異国の地で笑いながら戦場に赴く……おそらくは自分と10歳も違わない青年である。
 自分の能力に自信があるのか、それとも自分というものをどこか投げているのかはわからない。誰かを守るためというのではなく、金もしくは他の何かのために戦場に出る傭兵という存在。
 自分は、きっと笑えない。
「無事に、帰ってきてくださいね」
「……」
「ソフィア!こんな所で何を…おや東洋人、僕の婚約者に何か用か?」
 海燕はほんの少しだけジョアンの方に視線を向け、そしてソフィアを見た。
「……ええ、彼の言うとおりです」
「なるほど……」
 悲しげに目を伏せたソフィアがおずおずと頷くのを見て、海燕は軽くため息をついた。
「東洋人!僕を無視するなあっ!」
「……なに、ちょっとした知り合いだ。気にしないでくれ…これから戦争なのでな、失礼する」
 軽い口調でそう言うと、海燕は2人に背を向けて傭兵部隊の集合場所へと歩き始めた。その背中を見送りながら、ソフィアは傍らに立つジョアンの顔を不思議そうに見上げる。
「……ジョアン。あなたは戦争には行かないの?」
「ふっ、そんなことは傭兵や下級騎士のすることだよ……聖騎士ラージン・エリータスの息子たる僕がそんなことするわけが……」
 エリータス家は、ドルファン王室会議に出席する5家の中の参位に位置する名門である。上位はドルファン王家、次席(筆頭)はピクシス家であり、実質3番目の権力を握る勢力といえた。
 ただ、ジョアンは三男坊であり家を継ぐこともない……早い話が穀潰し。
 次男ならまだしも、それ以下となれば騎士として自らの腕によって居場所を獲得するのが習わしなのだが、苦労を知らずに育ったのかそんな発想がないらしい。
 今はジョアンの母、マリエル・エリータスが家を切り盛りしているからいいだろうが、その後のことを考える度にソフィアはぞっとする。
 父は借金の肩代わりと、エリータス家という家名に目がくらんで近視眼的な見方しかできなくなっているとソフィアは思っている。
 アルコールと、アルコール以外の何かに酔い続ける父と病弱の母にかわって、一家の運命がソフィアの双肩にかかっていた。
 そして今の家族を救う手段と言えば……このままジョアンと結ばれる以外に手だてが見つからない。
 先日おこなわれた劇団アガサのオーディションは、ソフィアにとっての夢であり、またもう一つの細い道だったのだがその道は閉ざされてしまった。練習生として学べること自体は嬉しいのだが、ソフィアが学校を卒業するとすぐに結婚式がおこなわれる予定になっている事態の解決にはならないのだから。
 今のソフィアに残るのは、小さな頃から描いてきた夢をつまらぬ打算で汚してしまった後悔だけ。
「ソフィア、気分でも悪いのかい?」
「何でもないわ、ジョアン。何でも……」
 ソフィアはぎこちなく微笑み、首を振った。
 そんな仕草ですら他愛もなく騙されてしまうジョアンが、時折父の姿とだぶるようになってきた。
 まわりが見えない……弱い人間。
 父を捨てきれなかったように、この婚約者のことも捨てることができないだろうと薄々感じているソフィア。
 自分もまた弱い人間だと自覚している故に、それが理解できていた。
 多分全てを投げ出してしまうような強い感情でしか自分は羽ばたくことができないのだろう……見上げる空には、これから戦闘が始まるであろう国境都市のダナンに向かって飛んでいく鳥の一群が見えた。
「……無くしてしまったかも知れないけど」
 いつか、飛べる日が来るだろうか……
 
「貴様ごときに許可を出すとはな、衛兵の目はどうかしているっ!……だが、フフッ、せっかくのパーティだというのに1人なのか東洋人?」
「……そう突っかかるな」
「目障りだからだ!」
 何の迷いもなくきっぱりと言い切るジョアン。
 確かに、外国人の数が増えてきたとはいえドルファン国内の東洋人ともなると数えるほどで、傭兵ともなれば海燕ただ1人。
「……最近流行の、トルク(トルキア人至上主義)にでもかぶれたのか?」
「そのような、下賤な輩の思想には興味はない」
「……」
 ドルファンの隣国ゲルタニアでは、去年新トルク党によって新政権が発足していた。
 排他思想と軍事力信奉を打ち出す新政権により、トルキア人優遇政策をすぐさま実施し、そのあおりを受けて元大トルキア帝国であった周辺各国……特に若者層の間でトルク思想が高まっている。
 ドルファン国内でも、若者の4割がトルクを指示しているという調査結果もあり、相次ぐ外国人排斥運動は彼らから発していると言っても過言ではない。
 いずれその世論に押し切られるように、王室会議でもそれを受け入れる事態になるだろう。元々、王室会議の次席であるピクシス家は外国人の存在を好んではいない。さらに、ドルファン王室に対して造反によって会議より除籍されたベルシス家に代わり、ピクシス分家が組み入れられたことによって、その色が一層強くなってもいる。
 国境付近に不安を持つドルファン・内線に揺れるプロキアとトルキア・そして政治不信によるテロで揺れているハンガリアを踏めての半島全体がいまや火薬庫の上に乗っかっているようなものだった。
 その不安背景に、大帝国ロシアの影があることを誰も否定はしない。
「……で、その……東洋人。ソフィアを見かけなかったか?」
 何やら聞き難そうに呟くジョアンの顔をまじまじと見つめてしまった海燕。普段の驕慢な態度は影を潜め、心底からあの少女に惚れていることが窺える。
「……何故、俺に聞く?第一、この人出だ……見つけようとして見つかるものであるまい」
「心配なんだ!」
「子供じゃあるまいに……」
 肩を怒らせて立ち去ってゆくジョアンの背中を呆れた思いで見送っていると、後ろからおずおずとした声がかけられた。
「あ、あの…海燕さん?」
「タイミングがいいのか悪いのか……ソフィア、ジョアンが探してたぞ」
「そう…なんですか?」
 ソフィアの表情が一瞬だけ複雑になった。
 それを見のがす鈍い海燕ではないし、敢えて口に出すほど野暮でもない。
 千人単位の人が入り乱れるパーティ会場に、ダンスの時間を告げる曲が流れ始めた。近くにいる異性と手に手をとって踊ることが不文律とされている。
「……ソフィア?」
「決まり……ですから」
 海燕の手を取り、フロアへと踏み出すソフィアの顔が緊張で引きつっていた。オーディションの直前にも見せなかった表情だが、海燕がそれを知る由もない。
 その強ばった表情がやわらかくゆるんで、頬を微かに紅潮させるまでにそう時間はかからなかった。
「……上手、なんですね」
「批評されるのは初めてだから、なんとも言えんな……」
 ゆったりとした曲のリズムを、心臓のリズムが追い越してゆく。
 触れた手の熱さを不思議に思われないだろうか、そんな雑念も全てが溶けてゆく頃に曲が終わった。
 あっけないほど簡単に自分の手を放す海燕に、ソフィアは眉をひそめ、それでもなんとか笑った。
「……ありがとうございました、海燕さん」
 仰々しいほどに深く頭を下げると、海燕が不審に思うほど足早にソフィアはその場から走り去っていく。
「……東洋人」
 気配を感じさせずに背後をとられたことに多少狼狽しながらも、それを顔に出さずに振り返る。
「ああ、すまん、さっきまでソフィアがいたんだが……」
 多少の罪悪感がそんな言い訳めいた言葉を口に出させたのだが、ジョアンはその言葉を聞いているのか聞いていないのか良くわからない状態に見えた。
 そして、絞り出すように一言。
「ソフィアは……いつもああして笑うのか?」
「意味が良くわからないが?」
「貴様と踊っている最中だ!」
「自分の足下を見るのに必死でな、そんな余裕はなかった…」
「そうか……」
 傲慢な青年が背中を丸めたまま歩くという珍しい光景を、海燕はじっと見送った。
 
『この日曜日、私の初舞台なんです。是非見に来てくださいね……』
 端役とはいえ、ソフィアが初舞台を迎える日曜日。
 いろいろと用事を片づけた海燕が劇場に向かって再び足を向けた頃……舞台裏に備え付けられた1つの時限式爆弾が時を刻み続けていた。
 ザクロイド財閥との癒着の噂が絶えない、輸出入管理の権限を一手に背負ってロシアからの燐光石輸入に頑強に抵抗していたオーリマン卿を狙った爆弾は全部で4つ。
 そのテロとは別口で、ドルファン内部の過激派組織の仕掛けたお粗末な爆弾だったが、破壊力だけは人々を傷つけるのに十分な威力を秘めていた。
 地区警備隊による怪我人の救出と、野次馬のの人だかりによって混乱きわまりない劇場を目の当たりにして海燕は慌てた。
「……馬鹿な?」
 救出活動にあたっていた地区警備の1人を捕まえ、負傷者が搬送された病院を聞き出した海燕は国立病院へと向かった。
 
「あ、海燕さん。あいにく今忙しくて……」
 休日と言うこともあり、運び込まれた怪我人の処置で看護婦も大変なのだろう。
「ソフィア・ロベリンゲという少女の病室を教えてくれないか?」
「ロベリンゲさん…ですか?」
 歯切れの悪いテディの口調に、海燕は眉をひそめた。
「重いのか?」
「いえ、外傷はほとんどないんですがショックが強かったようで。ですから…」
「長居および興奮させたりするなということか?」
「そう言うことです……こっちですよ」
 忙しいはずなのにテディは海燕を案内しようとする。
「海燕さんとロベリンゲさんはどのような……」
「まあ、いろいろあってな……この国では数少ない知り合いだ、見舞いぐらいは……」
「私が入院したら……と、そこです。実は私も先生に言われてロベリンゲさんの様子を見てくるようにと……」
 どこかあさっての方角に視線を向けるテディをちらりと一瞥し、海燕は病室へと足を踏み入れた。
 頭に包帯を巻いたソフィアが、ベッドで上半身を起こして外を眺めていた。
「ロベリンゲさん、どうですか具合は?」
「ええ、大分落ち着いてきました……看護婦さん、そちらの方はどなたですか?」
 不思議そうに海燕を見るソフィアから視線を外し、テディは困惑したような眼差しで海燕を見た。
「あ、あの……海燕さん?」
「海燕……さんですか?」
 頼りなさそうに呟くソフィアを見て、テディの表情がにわかに険しいものになり、すくっと立ち上がって病室を出ていった。おそらく、先生を呼びに行ったのだろう。
「爆弾騒ぎで怪我人が多いらしくてな……忙しいんだろう」
「はい……あの、海燕さんでしたっけ?」
「……」
 どことなく自分を警戒するようなソフィアの眼差しにひるむことなく、海燕は落ち着きのないソフィアの目をじっと見つめながら呟いた。
「……事件について気が付いたことを聞いて回っているんだが……何も覚えてないかな?」
「ああ、そうなんですか…」
 ソフィアの表情に納得したようなぎこちない笑みがこぼれた。
「あ、でも……何もわかりません。いきなり舞台の脇から凄い衝撃があって……」
「なるほど……まあ、そのつもりなら頑張るんだな」
「え……?」
 病室を出た瞬間、海燕はメネシスとすれ違い、そしてテディに捕まった。
「確かにお知り合い、なんですよね?」
「混乱させると問題があると思ったのでな、俺は退散させてもらう」
「……何というか、憎たらしいぐらいリアリストですよね」
 テディはため息混じりに呟いて、病室内の様子を窺う。
「記憶の混濁でしょうか……?」
「さあな……さて、いつまでもここにいるわけにもいかんな」
 海燕はそう呟いてテディに背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと海燕さん!彼女のことが心配じゃないんですか?」
「メネシスに伝えてくれ…目をつぶっててくれ、と」
「え?」
 軽く手を挙げて振り返りもせずに消えてゆく後ろ姿を見て、テディは首をひねった。
「……あっ、メネシス先生。ロベリンゲさんは?」
 メネシスは眼鏡の位置をちょっと調節し、海燕の歩いていった廊下の方角を眺めて呟いた。
「どうもこうも……ま、アタシには関係ない話だね」
「え、でも……」
「海燕には借りができたからね。元々、怪我は大したものじゃないし」
 メネシスは建物の中だというのにフードを目深にかぶって視線を落とした。
「……アタシも疲れてるから研究所に戻らせて貰うよ」
 
 日ごとに高まっていく外国人排斥運動の中で、普段通り訓練所に向かおうとした海燕を呼び止める声がした。
「待て、東洋人」
 声に目を転じると、そこには少しやつれたようなジョアンが立っている。
「事故以来ソフィアとは会ってないぞ……」
「……貴様もか?」
 海燕の顔をにらみ付けたまま、ジョアンの身体が小刻みに震え始めた。
「貴様も僕を腹の底では笑っているのだろう?」
「……」
「何が東洋人の事なんか知らないだ……そうやって隠すからには何かがあったのだろう?」
 海燕は何か言いかけ、それをあきらめた。
 元々自分の話を聞き入れるような人間ではないし、今は完全に常軌を逸している。
「貴様などこの国から叩き出してやる……ソフィアは、ソフィアは僕のものだ」
 その様な類の言葉をぶつぶつと呟きながら、ジョアンは身体を小刻みに揺らしながら立ち去っていく。
 それからほどなくして行われた王室会議にて、外国人排斥を訴えるピクシス家にエリータス家が肩入れすることで事実上外国人排斥法は成立へと進んでいく。
 そんな中で、ダナンの近くの廃村に潜伏していたヴァルファが総員を結集して首都城塞へと迫った最後の決戦が始まろうとしていた。
 軍は、3年にも及ぶプロキア・ドルファン紛争の流れから始まったヴァルファとの確執を終わらせるべく、国境駐屯部隊を除いた、全9大隊の内8大隊をもってこの決戦に挑む決意を表明した。
 おそらくは総数で2大隊ほどのヴァルファに対して、4倍の大軍で完全に押しつぶそうというのである。決意の深さが見てとれた。
 その編成作業の中で、普段は戦闘に参加しない貴族の子弟達の多くが配置され、首都城塞から郊外の平野へと押し出していく姿はかつて陸戦の雄と言われたドルファンの面影が残っている。
 所々で頑強な抵抗にあい、多少の指揮系統の混乱があったが、戦の体勢は僅か半日で決した。
 それでも尚、未だ雄々しく戦い続ける小集団の中に真っ赤な鎧に前進を固めた、偉丈夫ヴォルフガリオの姿があった。
 言うまでもなく、ヴァルファの軍団長である。
「我が名は破滅のヴォルフガリオ!死を望む者は、いざ参られよ!」
 夕日が、返り血にまみれた赤い鎧を照らして禍々しい色彩に染め上げる。
 誰1人騎士達が動こうとしない中で、1人の傭兵が名乗りを上げる様をジョアンは見ていた。
「手合わせ願おうか?」
「良い度胸だ……我がドルファンの騎士にあらずというのが残念だがな」
 百合にもおよぼうかという一騎打ちの末に、勝利を勝ち取った傭兵の姿が夕日の中に雄々しくシルエットを浮かびあげている。
 その光景に自分が目を奪われたことに気付き、ジョアンは血の滲むほどに唇を噛みしめてその場に背を向けた。
 
「……来たか」
「ジョアンっ!これはどういうこと?」
 月明かりに照らされた銀月の塔に現れた海燕を見て、ジョアンの傍らに立っていたソフィアが慌てて婚約者である青年の腕を掴んで揺さぶった。
「会ったこともない男がどうなろうと構わないだろう、ソフィア?」
 奇妙なほど優しい表情をしたジョアンに、ソフィアの顔が引きつった。そんなソフィアには構わず、ジョアンは言葉を続ける。
「ソフィア…君はお芝居が下手だねえ。それでは舞台に立てない…きっと、僕のいない所では、僕のことを笑っていたんだろう?」
「ち、違うわジョアン。私、そんなこと…」
「話は後で聞くよ……可愛い、僕のソフィア」
 ジョアンはソフィアの身体を押しのけるようにして海燕と対峙した。
「後一週間もすればこの国を出ていく傭兵に決闘を挑む理由を聞こうか?」
「エリータス家が…父が汚されるのを黙っているわけにもいかないんだ」
 ジョアンがゆっくりとマントを外すと、見事な装飾に彩られた純白の鎧……父が聖騎士の叙勲を受けたときに送られた鎧が露わになった。
「貴様がこの国を出ていく前に叙勲式がある……それに生きたまま出席させるわけにはいかない」
 狂気めいた殺意がジョアンの身体から迸った。
「伝説の聖騎士ラージン・エリータス……聖騎士を名乗るのは、僕の父ただ1人だ」
 ジョアンが剣を抜くのと同時に海燕もまた剣を引き抜く。両者に引き抜かれた剣が月光を反射して鈍く光るのを見て、ソフィアはジョアンの身体に抱きついて叫んだ。
「やめて、ジョアン!死んでしまうわ!」
「ククッ…」
 ジョアンがおかしそうに笑い始めた。
「僕が死んだ方が都合がいいんだろう、ソフィア。……それに、僕が負けると信じてることが僕を馬鹿にしてる証拠にはならないかい?」
「ジョアン……私は…」
「君ができることは黙ってみていることだけだ……立会人としてね」
 それまで右から吹いていた風がふっと方向が変わった。
 その瞬間、両者の腕から伸びた鈍い輝きが弧を描いて相手に迫る。伝説の聖騎士を父に持つジョアンの腕前は確かだった……しかし、才能にあぐらをかいてきた剣と、死地を切り開いてきた剣とでは開きが見える。
 打ち合うこと数合、ジョアンの持つ剣が高々と舞い上がって離れた地面に突き刺さる。
「……僕は貴様になど降伏しない、殺せ」
「断る」
「何故だ、そんなにも僕を嘲笑いたいのか?」
「女に恨まれるのは好きじゃない…」
 剣を収めてゆっくりと自分から離れていく海燕の姿が見えなくなって、ジョアンは自分がソフィアによってかばわれていたのを初めて知った。
「ソフィ、ア……?」
「ジョアン、私はあなたのもとへと嫁ぎます。だから、馬鹿な真似はやめて…」
 慌てたように海燕の去った方角を見るジョアン。そこにはもう海燕の影も形もない。
「ジョアン、私はあなたが好きです……」
 少女から聞く初めての言葉に、ジョアンは耳を疑った。
 しかし、涙を流しながら自分の身体を抱きしめるソフィアの姿を見ると何も言えなくなった。
 
 コンコン…
「…海燕さん」
「中には入るな……自分で選んだカードを取り替えるような真似をするなよ」
 ソフィアは、ドアのノブに伸ばし掛けた手を引っ込め、そのかわりこつんと額をドアに右打ち付けた。
「……あの人を、殺さないでくれてありがとう」
「……」
 ドアの向こうに海燕の気配を感じた。
 初めて名乗り合ったとき、距離は離れていたが隔てるものは何もなかった。しかし、今はこんなに近くにいるのにドアによって隔たれている。
 そして、ドアを閉じたのは自分。
 父や家族…そしてあの婚約者を捨てることが自分にはできなかった。
「それと……知らないフリをしてごめんなさい」
「舞台の稽古が足りないな」
「……あはっ、そうですよね」
 ソフィアは力無く微笑み、ドアから離れた。そして、大きく頭を下げる。
「私、空は飛ぶ翼はないけど足があります……だから、だから…私は歩けます」
 沈黙、それを振り払うようにしてソフィアはもう一度頭を下げた。
「いつか、私の舞台を見に来てくださいね……」
「……約束しよう」
「約束ですよ……さようなら、海燕さん」
 ドアの表面を軽く撫でると、ソフィアは振り返った。
 一度も振り返ることなく歩き去っていく……二本の足で、しっかりと地面を踏みしめながら……
 
 
                     完
 
 
 最初に一言。
 ソフィアファンの人ごめんなさい。
 ……こいつ嫌い。(笑)ですませたらまずいんだろーなー……などと思いながら、さてどうするかなと悩みに悩んだあげく……てへ。
 ソフィアの場合、何かを切り捨てることができなければ前には進めないけど愛すべき父や家族を切り捨てることはできない……という設定ががっちり固定されてますよね。
 つまり、この設定の何かを切り捨てなければハッピーエンドは不可能になると思うのですが…つーか、決闘の最中に割り込んできてジョアンに約束しときながら結婚式の誓いの言葉を述べようとせず主人公が名前を呼んだ瞬間に弾かれたように結婚式から逃げ出すあの展開は、性格設定とかを完全に無視している以前に、自分だけが被害者で自分だけが我慢していればみんな幸せになれる……でも、駄目なんです、この感情は抑えられない!……って感じのよろめき偽善者ぶった自己中の行動(何気なく酷いこと言ってる高任)が高任にとっては鼻持ちならないんですけど。
 はっきり言って、周囲に迷惑をかけたくないと願うばかりに一番迷惑をかけてしまうタイプの典型です、ソフィアってば。
 そう言うわけで、ギャルゲーヒロインキャラの中で間違いなくとんでもないキャラランキングのベスト3に入ってると思います。(笑)
 なんか、女性ユーザーの間ではソフィアの人気がものすっごく悪いらしいですが、男性ユーザーの間ではどうだったんですかね?

前のページに戻る