「プリシラ様……?」
部屋の中を見渡し、プリシラ付きのメイド、プリム・ローズバンクの声は少し震えた。
つい5分ほど前に声をかけたとき、プリシラの返事を確かに聞いた。それからドアの前で時間を潰していたのだから、プリムに気付かれぬように姿を消せるはずはない。
これ見よがしに開け放たれた窓……地面に安全に降りるにはベッドのシーツが10人分、もしくは特製の縄ばしごが必要な高さである。
しかし……
ふらふらっと窓に向かって歩き出そうとする自分を叱咤し、プリムは慌ててドアにはりついた。以前その手に引っかかって、脇をすり抜けるように逃げ出されたことがあるのを思い出したからである。
「プ、プリシラ様!どこかに隠れてるんでしょう?私はドアの前から絶対に動きませんからね。あきらめて出てきてください!」
耳の痛くなるような静寂だった。
もし部屋の中にいるのが自分一人だとするとかなりなさけない。
「……あ、ゴキブリ」
静かだった……
プリムはごくりとのどを鳴らし、覚悟を決めてプリシラの悪口を口にする。
それでも静かだった……
「……あ、あのクソアマ、いつかぶっ殺してやるわっ!」
今日は大事な用事があるから逃げたりしないでくださいねと、あれだけ頼んだというのに実にあっさりと放棄するとは……
プリシラが城を抜け出すたび、プリムはメイド長から2時間あまりも説教されてしまうのだ。人使いが荒くて、ワガママで、メイドの心労および休暇なんてモノには目もくれないという、3拍子揃ったお姫様。
ただでさえ祖母の件で王家に対して良い印象を持っていないと言うのに、ますます悪印象を……と言うより、プリシラ個人に対しては、悪感情が殺意レベルの水域まで高まりつつある。
もちろん、秘密の通路を通って城を脱出中のプリシラがそんなことを知る由もないのだが。
「カディッシュのアイスが食べたいな」
「はあ……」
「だから、カディッシュのアイスが食べたいってば」
ちなみに、カディッシュと言うのはサウスドルファン駅の近くにあるアイスクリーム屋の店名で、チープで大味な甘さが人気の行列店である。
プリシラが騎士団を慰問したその帰りに立ち寄ったことから、その行列はますます長くなったと聞く。
プリシラ曰く、誰かから評判が高いのを聞いて……などと言っていたが、かつてプリシラが城を抜け出した時に実際に食べる機会があり、それで気に入ったのではないかとプリムは睨んでいた。
「プリシラ様……」
「何よ…?」
「まさかとは思いますが、私に買いに行けと仰ってますか?」
「仰ってるけど?」
何を当たり前なことを、と怪訝そうな表情を浮かべるプリシラには気付かれぬように、頭の中で3回ほど刺し殺す想像をして精神を落ち着けようとする。
「どうしたの?お顔がブサイクになってるけど」
刺し殺す想像、さらに倍。(笑)
「……生まれつきでございます」
「あ、そう……で、カディッシュのアイス。プリムの分も買ってあげるから」
元々は国民の税金なんだけど……と、支配者と被支配者の意識の違いを実感しつつ、プリムは表面上だけ笑って見せた。
「どれを買ってきましょうか?」
「あ、そーね……どれもこれも捨てがたいし面倒だから、美味しいやつお願い」
プリムはぼんやりと暖炉の火掻き棒に目をやったまま、『これでクソ女を撲殺したらスカッとするでしょうね…』などと考えていた。
「あら、あなたプリシラ様の…?」
「『プリシラ様の…』で言葉を切るんじゃない。あらぬ誤解を生みそうだ」
その台詞を聞いた瞬間、プリムは自分の目の前に立つ青年が気さくで親しみやすい庶民派お姫様などと人気の高いプリシラの実態を知っていることに気付いた。
もちろん、非常に強い連帯感をも同時に抱くのも無理はなかっただろう。
「申し遅れました、私はプリシラ王女付きのメイドをしているプリム・ローズバンクと申します」
周囲に人影が無いことを確認してから、礼儀正しくちょこんと頭を下げる。
「ああ、二度ほど会ったな」
「二度……でございますか?」
一度ならわかる……プリシラ王女の生誕日に、プリシラ王女が直々に会いたいとごねたので、海燕を呼びに行ったのがプリム自身だったから。
「……はて?」
「いや、覚えてないのは無理もないんだが……」
海燕から説明を聞き、8月、2週連続で城から脱出を計ろうとしたプリシラが侍従長に捕まり、『国立公園で会う約束をしてる人がいるの…お願いだから』と頼まれた事を思い出した。
「ああ、あの時はもう夜になってたし……って、あなたが約束のお相手だったんですか?」
海燕が1人寂しく夜の公園に立ちつくす姿を想像し、プリムは平素のたしなみも忘れて吹きだした。
「そこまで笑うか?」
「いや、だって律儀に待ってるなんて……」
「約束ってのは守るためにある…自分から破るのはまっぴらだね」
「そ、それはそうかも知れませんけど……ぷっ」
再び吹きだしそうになって慌てて口元を押さえた。
今日会ったばかりの少女の、しかも去り際に一方的に突きつけられた約束事なんて自分なら絶対に守らない。
ごく普通に考えれば、からかわれていると判断するのが当たり前であろう。
「……忘れてたとはいえ、プリムだって一応は公園まで来たじゃないか」
「それはそうですけど……って、それだけで良く覚えてましたね」
ちらりと見ただけで覚えていた……それがプリムの自尊心を少しくすぐった。
「自覚無いのかも知れないが、その服は目立つぞ」
「あ…」
プリムは絶句して自分の服装を見つめた。
確かに赤を基調としたメイド服は、城仕えのメイドだと言うことが一目でわかる。
城内なら違和感はないが、確かに街中となると……
「だ、だって、忙しいから着替えてる暇なんて…」
「忙しいくせに、こんなところで何をしてる?」
「あ、プリシラ様に言われてカディッシュのアイスを…」
「カディッシュ…」
何か嫌なことを思い出したかのように海燕が眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない…」
「ん…?」
確か、プリシラがシーエアー臨海区の騎士団第一駐屯地を慰問した帰りにカディッシュに立ち寄ったのが8月末……
プリムの頭の中でふと何かがつながった。
「そういうことですか……今、私がこうしてプリシラ様にお使いに行かされるのも、元を正せば海燕さんのせいですか」
「断言しよう、濡れ衣だ」
「どうだか……ま、手伝ってくれますよね?」
「……仰せのままに」
ガラーンガラーン……
弔鐘が風にのって海へと響いていく。
祖母の魂が天に昇るのか地に潜るのか、それとも、どこか自分の知らない場所にいるのかはわからない。
ただ、この風はどこまでも届いていくような気がした。
自分の両親を含め、葬式の参列者がいなくなってからプリムはそっと祖母が眠る墓石に刻まれた文字をそっと指先でなぞった。
レイス・ローズバンク……
プリムのように直接王族に接するメイドの数はそんなに多くない。王族に接する機会が多くなればなるほど、本来知られてはいけない事を知ってしまうことも多い。
宮内局がドルファン城勤めのメイドの一般公募をとりやめているのも、数年前におこったエリザベス事件が直接原因である……もちろん、色々と偽装工作はあったにせよ、他国のスパイをメイドとして雇い入れてしまった失態は拭い去りようもないが。
それ故に信用のおける家系……と言うか、王族付きとして仕える人間は親から子へ、子から孫へと世襲されることが最近は多い。
プリムの祖母もそうで、現国王のデュラン・ドルファンの双子の兄であったデュノス・ドルファン付きのメイドどしてお城に勤めていた。
幼少時、火事によって顔の右半分に火傷を負ったことでを王位継承権を失い、青年時には政争に敗れ国外脱出を余儀なくされ、後に病死されたという噂だが……祖母曰く、国王になるために生まれてきたとしか思えないほど思慮深く、また人を思いやることのできる優れた人格だったらしい。
両親ともに多忙だったため、プリムは祖母に見守られながら育った……いわゆるお祖母ちゃんっ子だっただけに、墓を前にしてぐずぐずと立ち去ることができないでいたのだが……ふ、とプリムの全身が影に覆われた。
「……?」
後ろを振り返る。
息を呑むような大きな身体をした男が、じっと墓を見つめていた。顔に巻き付けられたマフラーから、鋭い目がのぞいている。
「あ、あの…?」
男の目が、プリムに注がれた。
「レイス……レイス・ローズバンクのお孫さんか?」
その巨躯にふさわしく聞く者を圧倒するような声だったが、不思議と、優しさを同時に感じさせる。
「は、はい……あの、祖母のお知り合いの方でしょうか?」
「まあ……旧い知り合いだ」
鋭い目つきが、ほんの少しだけやわらかく細められた。
「そうですか、わざわざありがとうございます……祖母も、きっと喜んでいると…」
「いや、怒っているかも知れぬな……今の儂を見て」
「え?」
「すまぬ……しばらく、2人だけにさせてもらえるかな?」
「あ、はい……私は、もう帰るつもりでしたから」
プリムはもう一度だけ頭を下げてその場を離れた……その男には名前を聞こうとするのを思いとどまらせる何かがあったから。
「……ふうっ」
小さくため息をつきつつ、海を見つめた。
季節がそうと言うこともあるのだろうが、祖母の人柄のような、穏やかな波が寄せては返し、また寄せてくる。
そんなプリムに向かって、ゆっくりと男が近づいてきた。
「失礼。ローズバンク家の……」
「……プリムです。何か?」
男は手に持ったペンで、こめかみのあたりを掻いた。
「ああ、レイス・ローズバンクさんのお孫さんでしたか……私、リベラル紙の記者をやっている者ですが…」
プリムの顔を知らなかったような口ぶりだが、それがただ単に見せかけであることを容易に理解してプリムは多少身構えた気持ちになる。
「レイスさんは、現国王の兄君であるデュノス公付きのメイドをなさっておられた?」
疑問口調でありながらも単なる事実確認に過ぎない様子なので、プリムは男の顔を見つめたまま黙っていた。
「……お年を召された方というのは、大抵昔の手記なんかを大事に残しておられるもんですが、レイスさんはどうでしたか?」
「さあ、どうでしょうか?まだ、祖母が亡くなったことに対して心の整理もついておりませんし……お話しできるような事は何もございませんが」
「ふむ、そう仰られると言うことは……レイスさんは何か残しておられた?」
「そう仰られましても…」
プリムを見つめる男の目に形容しがたい光がきらめいた。
口調こそ丁寧だがどことなく崩れた感じがあり、男が口にしたリベラル紙という名が革命組織のヴァネッサの機関誌であると言うことをプリムはもちろん知っていた。
ヴァネッサというのは……早い話が左派。
もちろん、ヴァネッサの中にも過激派と呼ばれるグループや穏健派のグループ等に細かく別れている。
内容云々ではなく、祖母の手記をこのような人物に利用されるのは我慢がならない。
「……なるほど」
男がうっすらとした笑いを浮かべた。
芝居じみた態度でポケットに両手を突っ込むと、じろじろとプリムの全身を舐め回すように見つめる。
「少額ですが、謝礼もご用意できますが?」
「失礼ですが記事はただ真実を述べるべきでしょう……謝礼云々を持ち出すようでは、あなたが口にした雑誌社の素性が知れると言うモノです」
「はっは……こりゃ、しっかりしたお嬢さんだ。王族付きのメイドをしてるだけあって、忠誠心に溢れているようで」
「……」
「ですが、その忠誠心は報われることはありませんよ……レイスさんのように」
「帰ってください!」
「デュラン公が国外に脱出してからレイスさん……あなたの祖母がどういう扱いを受けたか、ご存じでしょう?」
プリムの心の突破口を見つけたと言わんばかりに、男はかさに掛かってまくし立てる。
「それ以上何か仰るというなら人を呼びます」
「人を呼ぶ?何のために?私は、紳士的にお話ししているだけですが?」
プリムは無言で自らの服に手をかけ、ボタンを引きちぎった。
下着に包まれた胸乳が露わになり、男をたじろがせる。
「……人を呼ばれないうちにお帰り下さい」
「なるほど……退散しましょう」
自分の立場の悪さを悟ったのか、男はあっさりと背を向けた。
そして、二歩ほど歩いてプリムの方を振り返る。
「何か?」
「罪なき者を陥れようとする……アンタも王族の同類だよ」
「ええ、あなた達にはとてもかないそうもありませんが」
男は忌々しそうに舌をうち、そのまま去っていった。
その後ろ姿が見えなくなってから、プリムは大きく息を吐いてその場にぺたんと座り込む。
身体が微かに震えている。
そんなプリムの目の前にそっと手が差し伸べられた。
「……っ?」
「すまん、あまりにも対応が見事だったんでちょっと見とれていた……と、ボタンはここか」
海燕が自分のコートを脱いでプリムに羽織らせようとした瞬間、自分が今どんな格好をしているかに思い至り、プリムは顔を真っ赤に染める。
「い、いつから見てたんですか?」
「最初からだが……」
プリムの手のひらが空を切る。
「何でっ…」
「あのぐらいの人間を自分で追い返せないようでは、今ここで俺が助けに入っても意味がないからな」
そう言って、海燕はプリムの手にそっとボタンを握らせた。
「……一体どこに?」
プリムは怪訝そうにあたりを見渡したが、さり気なく人が身を隠せるような場所は見当たらない。
「さて…ね」
海燕が薄く笑うのを見て、プリムは話題を変えた。
「それにしても、共同墓地なんかで何をしてたんですか?」
「もちろん、プリムを探しに来たんだ」
「……言いたくないなら、別にいいですけど」
プリムは服のポケットから針と糸を取りだし、服を着たままボタンを繕い始める。
「さすが…」
「……私は、プリシラ王女と違って金の匙をくわえて生まれてきたわけではございませんから」
1分と経たずにボタンを繕い終え、羽織っていた薄いマントを海燕に返す。
「……何か?」
「いや、随分とプリシラ王女を嫌っているんだなと思ってな」
「好きになれるわけがないです……最悪とまでは言いませんが、仕え甲斐を感じさせない方ですし」
海燕が苦笑を返すと、視線を背けるようにしてプリムは海の方角を向いた。
「……そういう事、俺に喋っていいのか?」
「あなたは喋りません」
「何故?」
「人を見る目には自信があります」
「光栄だね……といいたいが」
海燕は微妙な表情を浮かべ、プリムと同じように海に視線を向ける。
「……こうしてじっと見つめてみると、海の色ってのは場所によって随分違うもんなんだが」
自分の目を疑われたような気がして、プリムは多少皮肉を込めて呟いた。
「男性である海燕さんにはわからないかも知れませんが、女性という生物は、普段の生活にこそその本性を現します」
「王族というのは……そう単純でもないんだな、これが」
顔を動かさずに、プリムは横目で海燕の顔を見る。
遠くを見つめる海燕の瞳から何の感情を見いだすこともできず、プリムは何も言えずにただ潮風に吹かれ続けた。
「……?」
一日の仕事を終えて控え室に戻った瞬間、プリムは微かな違和感に襲われた。
首を傾げながらも、いつもそうするように窓に近づいて空気を入れ換えようと思ったしたとき、部屋の空気がいつものように澱んでいないことに気付く。
朝早くに部屋を出てから夜遅くに戻るまで、締め切られていた部屋の空気ではない。
部屋の鍵はかかっていた……まさかとは思うが、窓の鍵もかかっている。
「気のせい……なのかしら?」
納得しきれない自分を納得させるため、敢えてそう呟いてみたが疑念は募るばかり。
「盗まれるようなモノは…」
プリムの瞳が微かに揺れた。
まさかという思いとやりかねないという相反する思いがぶつかり、慌てて引き出しの鍵を開けた。
もどかしげに聖書を開く……
「……ある」
何らかの理由で欠損した部分に祖母の手記が挟まれ、元から一冊の本であったかのように綴じられている聖書はプリムが手を加えたわけではなく、父も母も、プリム以外は誰も気がつかなかった祖母の息吹が聞こえてきそうな形見の品。
純然たる祖母の手記ではあるが……王位継承権を失い、その後政争に敗れて国外に脱出したデュノス・ドルファンへの……母親めいた愛情に満ちあふれた文章が書き連ねてある。
ただ一般には知られていない国の暗部に触れたものが散見できるだけに、何かに利用され無いとも限らない。
プリム達メイドには、ごく私的な日記などを除けば、仕事の合間に知り得た事を手記として書き残したりはしないという暗黙の了見がある……というか、それがメイドの心構えと、祖母は幼いプリムに何度も言いきかせた。
その祖母が残した手記……プリムにはそれを焼き捨てることができなかった。
「……お祖母ちゃん、これをどうしたかったの?」
ぽつりと呟く。
ふと感じた空気の流れ。
プリムが顔を上げる……と、開けた覚えのない窓が開き、カーテンが夜風に揺れながら不自然にふくらんでいる。
「……えっ!」
「お静かに…」
穏やかな声は、まだ若い男のものようだ。
「残してはいけない手記を残した理由……それはただ一つ」
その言葉を聞いて、プリムは身体を固くした。
カーテンの影から、プリムの目の前に男がその姿を現した……ただ、その顔には仮面が付けられている。
「まずは夜更けの訪問と先ほどの無礼をわびましょう……」
優雅に一礼する男に、プリムは固い口調で言った。
「祖母は自分が仕えていたドルファン王家に忠誠を誓っていました……」
「確かに、レイス・ローズバンクさんは正統なドルファン王家に忠誠を誓っていたでしょう……」
祖母の手記を読んでから心に積もり始めた澱……それが、男の言葉を聞いてかき混ぜられた。
「……どういう意味です?」
「深い意味はない……あなたがどう受け取るかは自由ですが」
デュノス・ドルファンが王位継承権を失った火事とその処置、そして政争に敗れて国外に脱出せざるを得なかった事件……その両件について祖母の手記からは激しい非難の感情がくみ取れた。
そして、そのいずれの処置および当事者に関わるのはピクシス家。
「何が目的です?」
「……籠の鳥を空に放してやりたい…と言っても理解できないだろうね」
男の声に心もち感情がこもるのを感じた。
「ただ一つ、僕はこの国の行く末にはなんの興味もない……君を、いや、君の祖母の手記を利用したいだけだ」
「奪いますか?」
「……できるならばそうしてもいい」
「……え?」
2人の間に漂った沈黙を、呼び鈴が破った。
男が口元を押さえ、くっくっと笑う。
「随分と人使いの荒い主人のようだね…」
「ええ、気の休まる間もありません」
男は先ほど度同じように一礼し、窓枠に足をかけて闇の中に身を投じた。
プリムは窓を閉め直してから小さく息を吐き、おずおずと声を出した。
「……海燕さん?」
静寂が痛かったが、プリムはもう一度呼びかけた。
「絶対に怒りませんから出てきてください」
「……その言葉を信じて出ていったら絶対に怒るよな?」
「当たり前です」
呼び鈴が連続して鳴り響く。
プリシラが呼び鈴の紐を乱暴に引っ張り続けている姿が目に見えるような鳴らし方。
「……明日、共同墓地で待ってます」
プリムはそう言い残し、人使いの荒い主人の下へと向かった。
「……で、昨夜のアレはなんの真似ですか?」
「いや、偶然通りかかって……って言い訳には無理があるかな」
「ありすぎです」
ふ、と悪戯を見つかった子供の様な表情を浮かべた海燕を見て、プリムは反射的に顔を背けた。物柔らかな光の面を見せられるほど、プリムは海燕の中にどこか影を見いだしてしまう。
「海燕さんも、祖母の手記が目当てですか?」
「……手記自体には興味はない、内容に関して純粋な好奇心がないと言えば嘘になるが」
「だったらどうして…」
刷毛ではいたようにプリムの頬が赤く染まる。
「……私に付きまとうんですか?」
「そんな暇人に見えるか?」
「見えますけど」
「……」
苦笑を漏らし、海燕は指先で顎のあたりをコリコリとひっかいた。
「じゃあ……質問をかえます」
「……」
「私の祖母は……どうしてあんな手記を残したんでしょうか?」
紙やインクの具合からして、祖母が晩年になって書き残したとしか思えない。
海燕はそれには応えず、ただ口元に穏やかな微笑みを浮かべたままローズバンク家の墓石の表面を指でなぞった。
「墓はなんのために残されるんだろうな…」
「それは……」
「戦場では……死んだ場所に埋められることさえ珍しい。たとえ葬ったとしても、石を置いたりなんかはしない」
海燕の視線が、共同墓地の一角に向けられる。
そこには、イリハ会戦、ダナン戦闘……名を記されることもなく、ただ戦没者の冥福を祈る碑がある。
「……墓は、人の心の中にある」
「捨てろって言うんですか!」
「そうじゃない……ただ、自分が死んだ後、俺は見ず知らずの人間に祈って欲しくなど無い」
澄んだ……いや、澄み切り過ぎていてどこか無機質な印象を与える視線がプリムに向けられる。
「……」
「プリムのお祖母さんが何を思って手記を残したのかは知らない……ただ、自分が生きている間にそれを発表しなかった事実だけは覚えておくべきだ」
穏やかに呟き、海燕はふっと目を閉じた。
「……ただの覚え書きだという可能性だって」
「それはありません」
きっぱりと言い切ったプリムに、海燕が意外そうな表情を向けた。
「祖母は……仕事に誇りを持っていました。仕えていたのが王族だったからと言うことではなくて、なんの理由もなく主について書き残したりすることはありません」
心の中に築かれた確信。
「祖母には……この手記を書き残す理由があったはずです」
プリムを見つめていた海燕の視線が微かに和む。
「……単なる推測に過ぎないが」
「?」
「その手記を……誰かに読ませたかったんじゃないだろうか」
「誰かに……読ませたかった?」
ベッドに腰掛け、プリムは唇をキュッと噛んだままそれを待っていた。
シーツをかぶった自分の姿を見てプリシラがその場にうずくまった瞬間、おおよその見当がついた……いや、ついてしまったと言うべきか。
「……」
微かな、だが敢えてそれと感じさせるような気配に、プリムは天井を見上げる。
「……ドアから来れば良かったのに」
プリムの言葉を了承と受け取ったのか、天井の羽目板が音もなく動いた。
「幽霊騒ぎで近衛兵がうろうろしていてな……」
猫のように床の上に降り立った海燕を見て、プリムは強ばった笑みを浮かべた。
「……あなたの言うとおり、私には自分が仕える主人の器量すら見抜く目がなかったんですね」
「……」
黙っている海燕に、プリムは哀しい視線を向けた。
「……プリシラ王女は、気を失ったフリをしただけなんでしょう?」
「どうしてそう思う?」
「はっ、あの女が幽霊ぐらいでしおらしく気を失ったりするもんですか!」
はすっぱな口調は自身への後悔を示しているのだろう、プリムの表情は暗い。
「途中で幽霊の正体が私だって事に気付いて……」
プリムは一旦言葉を切り、そして海燕の視線から顔を背けるようにして呟いた。
「……私でさえ気付いたんだから、海燕さんが気付かないわけがないですよね。だからわざわざプリシラ王女を介抱するフリをして騒ぎを大きくした……私が逃げる時間を稼ぐために」
「まあ……プリシラは否定するだろうが」
ふ…と、プリムが無機質な笑みを浮かべた。
「幽霊騒ぎを起こしたことでいろんな事がわかりました……」
「何をだ?」
「生きてるんですね……現国王の双子の兄君である、デュノス・ドルファン公は」
広くはない部屋の中で、一瞬だけ緊張した空気が張りつめた。
「何故そう思う?」
「デュノス公の幽霊が出るはず無い……デュノス公が異国で病死したという情報を流した張本人達が…幽霊の存在を信じていないんじゃなくて…デュノス公の幽霊が出るはず無いと話してましたから」
「……何故、それを俺に言う?」
「さあ、どうしてでしょう……」
プリムはそっと目を閉じ、胸につかえていた何かを吐き出すように呟いた。
「もし海燕さんがデュノス公がどこにいるかを知っていたら……これを渡して欲しくて」
「心当たりがないこともないが…」
「じゃあ、お願いします……私には心当たりさえありませんから」
古ぼけた聖書をそっと差し出すと、海燕はそれを受け取った。
「先日公開されたあれは…?」
「他の誰かの覚え書きでも発見されたかは知りませんけど、多分あの人達のでっち上げです……デュノス公付きのメイドだった祖母の名が利用されただけで」
事実という意味での内容そのものにそう違いはなかったが、王室の汚点を暴露するアレと祖母の手記とはあり方が全然異なる。
「結局、祖母の手記が必要だったわけじゃないんです……きっと」
「なるほど……」
「ただ、祖母が嘘つきであるかのように言い募られた事が私には許せなかっただけです……」
よほど悔しいのか、プリムが唇をキュッと噛む。
「今なら海燕さんの言ってたことが良くわかります……私も自分が死んだ後に見ず知らずに人間に祈って欲しくなんかありませんし、利用されたくもありません」
「そうか……」
2人の間におとずれた奇妙な沈黙を破ったのはプリムだった。
「あの…」
「幽霊騒ぎのことなら問題ない……」
「いえ、そうじゃなくて…」
プリムは首を振り、言いにくそうに言葉をつなげた。
「どうして……私を守ってくれたんですか?」
「……プリシラに頼まれた」
「そう……ですか」
心の落胆を隠そうともせず、プリムは項垂れる。
「私……本当に人を見る目が無いですね」
雨の共同墓地。
祖母の墓の前で傘も差さずに立ちつくしている少女の姿をプリムは認めた。
「あの…?」
「ぁ…」
まるで軍人のように身構えようとする少女の様子を見て、自分の気配に気付かなかった事を恥じているのではないかとふとプリムは思った。
「濡れてますよ…」
「そうね…」
思わず間抜けな一言を口にしてしまうが、少女はただ小さく頷くのみ。
少女の身を包んでいる制服はとうにずぶぬれで、お下げ髪も重そうに垂れ下がっている。
「寒くないんですか?」
「……寒い?」
少女は意外そうに呟き、何かを納得するように頷いた。
「そうね……ドルファンで生まれ育った人間にはそう感じるのかも知れないわね」
「?」
「故郷を追われた人間は……何を求めて故郷を目指すのかしら」
少女は哀しそうに首を振り、その場から去っていった。
首を傾げながらプリムは墓に視線を移す……と、革袋が墓の前に置いてある。
「何…かしら?」
革袋の中にはこれまた濡らさないように気を遣ったのか、油紙に包まれた……
「えっ?」
プリムは慌てて先ほどの少女が去っていった方角に視線に向けたが、もうそこには誰もいない。
数的に完全劣勢である事がわかっていながらヴァルファが戦いに踏み切ったパーシル平原の戦いから10日前の話である……
嵐の音にまぎれ、何かが天井を移動していくような音を耳にしてプリムはこめかみのあたりに鈍痛を覚えた。
「プリシラ様」
いきなりその音が止んだ……そして返ってきたのは『にゃー』という鳴き声。
立てかけてあったほうきを手に取り、音が止んだあたりをほうきの柄でゴンゴンとつつき回す。
「ちょっ、やめっ、プリム…きゃああっ!」
羽目板が外れ、スカートの裾をひらひらさせながらプリシラが天井からぶら下がる。
「どこに行くおつもりですか?」
「……お散歩」
「お散歩できるような天気ではございません……」
プリムは呆れたように呟き、窓の外に視線を向けた。
季節はずれのハリケーンが上陸しており、こんな日に外を出歩くのはよほど酔狂な人間か、ヴァルファの軍団長を捕縛したという連絡を受けてダナンへ向かった軍人ぐらいのモノであろう。
「……行かなきゃいけないところがあるのよ」
「こんな嵐の日に…ですか?」
微かな逡巡の色を表し、プリシラは意外にも身軽に床の上に飛び降りた。
「こんな嵐の日だからよ」
今まで見たことが無いプリシラの表情……いや、雰囲気を感じてプリムは息を呑む。
「ですが…」
やっとの思いでそれだけを絞り出した。
「……だったら、あなたに頼むわ」
「は?」
思わず間抜けな声をあげてしまうが、プリシラは気にもとめないように言葉を続けた。
「海燕に伝えてちょうだい、『ヴァルファが来た』と」
「……えっ、それって?」
「いいからさっさと行く!」
「は、はいっ!」
「……どういうこと、だったんでしょうか?」
目の前に置かれたティーカップを見つめたまま、プリシラは口を開いた。
「37年前に決着が付いたと思われていた政争……それが続いていたのよ、水面下で」
「37年前に決着……デュノス公が王位継承権を失った事件ですか?」
プリシラが小さく頷く。
ピクシス卿とベルシス卿、当時の上位2家(現在ピクシス家に次ぐ上位であるエリータス家は、ラージン・エリータスが聖騎士となってから力を持った)が、前国王によってデュノス、デュランそれぞれの後見人に指名された事から2家の暗躍が始まる。
双子とはいえれっきとした兄であり、そして器量としても上のデュノス公が王位につくのはごく自然の成り行きだった。
双子の両名に後見人をつけた前国王の失策だったのかも知れない。
ピクシス家当主であるアナベル・ピクシスは人知れず牙を研いでいた。
温暖な気候のドルファンにおいて珍しく雪が降った冬の日、当時13才となっていたデュノスは不可解な火事にあった……。
国王は国の支柱であり、顔である……そんな理論を振りかざし、ベルシス卿の態度に不満を持っていた有力貴族に十分な根回しを行っていたピクシス卿は、デュノスの王位継承権を剥奪させることを国王に認めさせる。
「……全部推測に過ぎないけどね」
「いえ、当たってると思います…ただ」
祖母の手記の内容を思い出しながら、プリムは小さく呟いた。
「デュノス公は復讐のためだけでなく……弟である国王陛下のために、王家の血筋を引く人間としてあるべき姿をきっと…」
ドルファン城城門において、海燕との一騎打ちに敗れたデュノス公の浮かべた最後の表情は微笑みだった……
祖母は何かの拍子でデュノス公が生きているのを知り、かつ全欧最強といわれる傭兵騎士団を結成した意図をほぼ正確に理解したのだろう。なんと言っても、生まれたときから乳母として世話を焼いたのだから我が子よりも深く理解していたに違いない。
「……プリシラ様、あの日は何故海燕さんに」
「賭だったのよ……」
プリシラは遠くを見つめるように天井に一隅に視線を向け、そっと目を閉じた。
「国の危機を救ったのが外国人の傭兵……外国人排斥の流れをせき止められる最後のチャンスだったの…」
ふうっと息を吐いたプリシラの身体が一回り小さくなったように思えた。
「でも裏目に出てしまった……エリータス家までもが外国人排斥の立場に回ってしまったから」
プリシラの口元に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「聖騎士の位を授けられる人間がいては……目障りだからでしょうね」
「……聖騎士とかの称号ってそんなに大事なんですか?」
「プリム……」
プリシラの視線で、プリムは自分が泣いているのに気付いた。
「海燕さんは……どういう思惑があったにせよ、結果だけを見るならこの国のために戦っただけじゃないですか!」
「……腐ってるのよ、この国は。そして、この私もね……」
プリシラが浮かべた空虚な笑み……それが何を意味するかをプリムは知ることができない。
それにしても、国の暗部に関する事をぺらぺらと喋るプリシラの態度が解せない。しかしそれはそれとして、プリムは以前からくすぶっていた疑問を思い切ってプリシラにぶつけてみた。
「プリシラ様、どうして海燕さんに私の近辺を守らせたんですか?」
「主人がメイドを守るのは当たり前でしょう?」
「え、あの、そうじゃなくて……どうして…海燕さん…に…」
「……近衛兵はおろか騎士を含めて、腕が立ちかつ信用できる人がいなかったから」
吐き捨てるような呟きが、プリムの心のどこかを突き刺した。
庶民派であるという顔、メイドに無理難題を言いつける顔……多分、幼い頃からずっと色々な表情の下で他人を観察し続けてきたに違いない。
「昔は……1人だけいたけどね。ただ、私は王女だったから……その人の手を取るわけにはいかなかったのよ」
窓の外に視線を向けたプリシラの横顔に、少しだけ仮面の下の素顔をのぞいた様な気がしてプリムは顔を背けた。
「プリシラ様……」
「何?」
「……いえ、なんでもありません」
プリムは静かに首を振った。
この国が倒れてしまえばいい……そんな気持ちがあるかどうかを聞くことはさすがに許されないと思ったからである。
「……プリム・ローズバンク。本日をもってあなたに暇を与えます」
「クビですか?」
「ええ、私を憐れむようなメイドは必要ありません」
プリムは、その時のプリシラの表情を一生忘れないだろうと思った。
「責任取って下さい」
「……言ってる意味が良くわからないのだが?」
夕凪の時刻。
黄金色に輝く穏やかな海面を見つめながら、プリムはほんの少しだけ頬を染めている。
「自分で言うのもなんですが、私、働き者です」
「それは知ってるが…」
「プリシラ様付きのメイドをクビになりましたから……この国で、雇ってくれるところなどありません」
理由はどうあれ、自分から暇を貰ったのと暇を告げられたのとでは全然違う。それも、格式ある王家に勤めていたのだからあらぬ噂が尾鰭をつけていくのは間違いない。
「……働き者にはつらい職場と思うがね」
「かまいません」
プリムは海燕の顔を見つめ、そっと呟いた。
「……あなたの側でいられる時間が増えます」
完
んー……どうもキャラがいまいちつかめてないせいか、ただのシチュエーション垂れ流しSSっぽいですな。(笑)
話の流れと色恋の感情のベクトルが違うともいうか。
ま、それはさておき……『幽霊騒ぎで気絶するプリシラ』のイベントですが、やっぱりアレは演技だろうと高任は思います。
プリシラをほったらかして犯人を見つけると激怒されますが、あれは多分自分に仕えるプリムを大切に思っているからこその怒りだと思うのですよ。
なんせ、『薄情者!』ならともかく、『裏切り者!』ですからね。どうして自分の意に逆らって犯人を捕まえたのか……と解釈するのが自然でしょう。
全然関係ないですが、ルーナやグスタフが見送りに来てくれるエンディングがあるのだから、プリムもあるだろう……なんて思ってた人はどのぐらいいるんですかね。
いや、探せばあるのかも知れませんけど。(笑)
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