国境都市ダナン。
ドルファンという国の形をデフォルメすると、三角形を逆さまにしたような感じであり、その底辺にあたる北部で、西から順にハンガリア、プロキア、ゲルタニアと接している。
ダナンは、一応はプロキアとの国境に位置する都市であるが、すぐ東にはゲルタニアとの国境も迫っており……テラ河の水運等も絡んで古来から複雑な力関係の発生する場所であった。
200年の歴史を誇るドルファンの建国当初から、ダナン地方はベルシス家による自治が認められていたわけだが……ダナン地方の領主としてのベルシス家の歴史はそれより遙かに古い。
幾度も戦乱に巻き込まれ、ある時は家を2つに割って生き残りをはかり、ある時は抜け目無く強い方につき、ある時は味方した陣営を裏切って最終的に自分たちの立場を強化し……どこにでもある、生き残りのために策謀を必要とする小領主とはいえ、その歴史の長さは称賛に値するだろう。
ダナン地方の現領主、ゼノス・ベルシス……は、微かに唇を歪ませ、それを机の上に投げ捨てた。
「……」
「ふむ、不敬とでも言いたそうだな」
「あ、いえ…」
王室会議による決定……により、派遣された使者は、表情を隠すように俯く。
「ダナン地域は、我がベルシス家の自治が認められている……相違ないな?」
「はい」
「騎士団の駐屯を拒否……これは自治権の発動にすぎん……相違ないな?」
「……はい」
「先年の9月、ベルシス家が、王室会議のメンバーから排除された……これは、異常事態によって、ベルシス家が会議に出席することが出来なかったための、一時的措置……そのはずだな?」
「……」
「ドルファン王家に対する叛意を抱き……などと声高に言い立てたのは、ピクシス卿だけではなかったか?」
「それは…」
使者はちょっと顔を上げかけたが……結局、俯いたまま短く応えることしかできない。
「……はい」
「で、これか…?」
と、ゼノスは机の上のそれに視線を向け……使者にどっと汗をかかせる。
「会議に連なる5家のうち、2つがピクシス家……王も、苦労が耐えぬ事よな」
「それは……」
流れる汗を拭おうともせず、使者が口を開きかけ……たところで、ゼノスは笑い声をあげた。
「すまぬ、八つ当たりだ、許せ」
「は?」
「使者のお主に当たっても仕方ないことだが、あまりに腹に据えかねたモノでな……わかるだろう?」
「はい、それは…あ、いや…」
どう答えたモノやらと狼狽する使者に、ゼノスが再び笑う。
「召喚を受ける……が」
「……」
「儂の身の安全の保証というか、警備の最高責任者をピクシス卿に変更してもらいたい」
「それは…」
私の一存では……という使者の言葉より早く。
「ピクシスは二つ返事だろうよ……暗殺に都合がいいからな」
使者の顔が強ばる……が、ゼノスはそれを気にもとめず。
「ともかく、召喚は受ける……まずは、それを伝えてもらいたい」
5月19日、第3日曜日。
「まあ、コオロギが…ですか?」
セーラが目を丸くして驚く。
おそらくは、貨物の中にまぎれていたのか……深夜、海をゆく船に響いたコオロギの鳴き声の話。
それは、セーラの想像をいたく刺激したのだろう。
庭の散歩ですらままならぬセーラは、おそらく諦めの境地にあるのか……海燕の語る世界の話というより、旅の話にある種の悲しみを漂わせることなく、ただ目を輝かせて聞きいる。
こんこん。
「……セーラ様、時間でございます」
グスタフの口調、表情に対する微妙な違和感……それは、ある予感をセーラにもたらしたのか。
「……先…生?」
窺うような視線を、海燕に向けた。
「授業はこれで終わりだ、セーラ」
「……え、あの…今日の授業…という意味ですよね、先生?」
「いや、そうじゃない」
海燕は静かに首を振って。
「今日を限りに、俺は、セーラの家庭教師ではなくなると言うことだ」
「……」
聞き慣れない異国の言葉を耳にしたかのように、セーラはきょとんとした表情で、小首を傾げた。
「……セーラ」
海燕の優しい口調に、セーラではなく、グスタフが微かに肩を震わせる。
「先日、ダナンで戦争があった」
「あ、はい……それは、少し耳にしました」
どこか曖昧に、セーラが頷き。
「この国が勝った……と」
セーラの視線がしばし泳ぎ……海燕からグスタフに、そしてまた海燕へと戻る。
「先生…」
微かに震えるセーラの声に、海燕が小さく頷いた。
「そうだセーラ…」
優しい口調と、おだやかな表情で……海燕が、嘘をつく。
「戦争は、一応だが終わった」
「……ぁ」
セーラの手が、胸のあたりでぎゅっと握りしめられた。
傭兵はその言葉通り、戦争のために雇われる兵士……その事に思い当たったのだろう。
「……この国を」
「……」
「この国を…でてゆかれるんですか?」
「そうだ」
瞳を潤ませ……自分の感情がどこから来るのか、おそらくは理解できないまま……セーラは、言葉も、表情も、何一つ繕うことをせずに、それを口にする。
「何故、傭兵みたいな…怖いお仕事を続けるんですか」
「セーラ様…」
口を挟もうとしたグスタフを制して、海燕は口を開いた。
「俺が初めて人を殺したのは、7歳になる直前だった…」
「……っ」
人を殺すという言葉より、7歳という年齢の方がセーラには衝撃を与えたらしい。
「その日から……故郷を捨てるまで、俺はそれを忘れた頃になるとまた命を狙われた」
海燕の遠い目に何を感じたのか、セーラが逃げるように顔を背けた。
「それが何度繰り返したか……義父に勧められ、故郷を捨てた……だが、無駄だった。命を狙われる機会は、むしろ増えたし……俺に関わった人間が殺されたこともあった」
「……」
「俺はそれに疲れたと言うより……そうだな、何かを諦めたという方が正確だと思う。一度故郷に戻り、故郷ではなく国そのものを捨てると義父に告げ……俺は、大陸に渡った。大陸で使われている言葉も何もわからない、10歳の子供だったが……死ぬときは、誰かを巻き込むことなく1人で死のう……それだけは、国をでるときに決めていた」
「……先生」
セーラの視線に気付いていながら、海燕はことさらに淡々とした口調で話した。
「セーラ、俺はただそうやって旅を重ねてきただけの人間で、中身は何もない……旅と言っても実質は、ずっと人を殺してきただけだ」
「違う…と思います」
俯き、顔を上げることなく弱々しく首を振って。
「うまく言えませんけど…そんなことはない、と思います」
壊れそうなガラス細工を思わせる少女の中に存在する、頑なな何か……それを、表に出してセーラが、首を振り続ける。
「……」
海燕も、グスタフも、かける言葉をうしなって……ただ、俯いたまま首を振り続けるセーラを見つめ……どれほどの時間が過ぎただろうか。
「でも…」
首を振ることに疲れたのか、それとも、心の中で何かの整理をつけたのか……セーラが、ようやくに顔を上げた。
「先生を引き留める事が出来ないのは…わかりました」
「そうか…」
「短い間でしたが…ありがとうございました」
深々と頭を下げたセーラの膝で、微かに音を立てたのは涙であろう…。
いつものように、屋敷の裏口からでていこうとする海燕をグスタフが見送る。
「……終わったのですかな、戦争は」
「いや」
「……と、言いますと?」
「第一次傭兵徴募の契約は約3年間という、期間契約だった」
微妙な沈黙の後、グスタフが首を傾げた……いや、敢えてそういう仕草をしたという風に、海燕には感じられた。
「…妙な話ですな」
「まったくだ……こっちではそういう契約が普通なのかと、俺も勘違いしていた」
「普通に考えると、ありえません……戦わない傭兵に、金を出す雇い主はいますまい」
「外国人に対する姿勢が、期間の契約を結ばせたといういいわけもいささか苦しいし……期間契約という形のせいで報奨金などの設定が低いのも事実だが、第2次徴募以降の傭兵の契約は、任意打ち切り制だ」
「……ますますきな臭い話ですな」
「……俺は、2重3重の意味で傭兵連中を観察しているよ」
「なるほど…」
グスタフが、微かに頷く。
「少なくとも、表面上は戦争に勝ってダナンを解放した。後はプロキアとの間で、やりとりするだけのように見えるが…」
「契約解除の素振りもない……と」
プロキアとの戦争に備えて、傭兵を雇い入れた……そして、プロキアとの戦争が終わったとすれば、その、当然あるべき動きがない。
グスタフの眉が少し上がり。
「次は、プロキアでひと騒動ですかな…ドルファン・プロキアの二国間で条約を結ばせない流れとなると、それ以外ありません」
「と、俺も睨んでる……お前ぐらい、頭が回ってくれる奴が、軍部で大きな顔をしていればいいんだが」
「薄汚い裏工作に従事していた経験ですかな…胸を張れるものでもありませんし」
そう言って、グスタフが笑みを浮かべる……セーラの前では決して見せない、暗い微笑みだった。
「少しだけ……よろしいですかな?」
「なんだ?」
「私の経験上……なんらかの作戦というモノは、実行者よりも立案者の性質に影響されやすいです」
「と、いうと…?」
「……うまく表現できませんが、私の知るシベリアの裏工作とは、毛色が違うように思えます」
「ふむ…」
言うまでもなく、シベリアは皇帝が全てを統括する国である。
「先年の、サーカスの猛獣を利用した銀行襲撃などはその最たるモノですが……」
「立案者が1人とは思えない……と、いうより?」
「……ですな」
あえて海燕が捨てた言葉尻を婉曲に受けつつ、グスタフは細い目を閉じた。
そして、穏やかな……執事としての表情と口調で、海燕に語りかける。
「海燕殿…」
「なんだ?」
「あれで、良かったのでしょうか…?」
「……」
海燕の沈黙をどう受け取ったのか、グスタフは微かに首を振った。
次の日の朝、いつも通りに訓練所に向かおうとする海燕に斜め後ろから声がかかる。
「……おはよう、海燕」
「ああ」
「……計算通りという反応をされると、ちょっと腹が立つのだけど」
いつも通りの表情で、ライズが呟く。
「戻ってくるって、わかってた?」
「傭兵云々は、ライズ個人の行動だろう」
「それはそうね…」
ため息混じりに、ライズが少し笑った。
「ところで…」
「おっはよー、海つば……め?」
その声の主は、海燕の隣にいるライズに視線を向け、海燕に戻し、またライズに向け……ちょっと照れたように笑った。
「ご、ごめん、邪魔しちゃって」
「邪魔だったか、ライズ?」
「…いえ、別に」
何かを言いかけていた口を閉じ、ライズは静かに首を振った。
「だそうだ、気にすることはない、ハンナ」
「う、うーん、そう、かな…?」
ちらちらとライズを見ながら、ハンナが困惑した感じで首をひねる。
「じゃ、これで失礼するわ」
と、ライズがその場を立ち去ったモノだから、ハンナとしてはさらにやっちゃった感が強まったわけで。
「あ、あははー、えっと、ボク以外にも、話する相手とか出来たんだね…」
「多少は、な」
「うん、いいことだよそれは」
と、ごくごく真面目な感じに頷くハンナ……非常に健康的な精神の持ち主であると言えよう。
「えーと……じゃあ、ボクも行くよ」
「ああ、気をつけてな」
「うん、ありがと」
ちょっと手を振り、学校に向かって駆けてゆくハンナ。
平和な、朝の一日……その一方で。
ダナンより召喚されたベルシス卿が、1年以上ぶりに王室会議へと出席すべく、馬車に揺られていたのだった。
「お久しゅうございます、陛下」
「無事で何よりだ」
どこか空々しさを覚える挨拶もそこそこに、ベルシス卿はうさんくさそうにテーブルを囲む面子に視線を向けた。
「何やら、知らぬ顔が1人紛れ込んでいるようだが…」
「ベルシス卿」
「何かな、ピクシス卿」
「ここは、弁明の場だ」
「ほう、私を王室会議から勝手に除籍し、恥知らずにも自分の身内をその地位に引き上げた言い訳でも聞かせてもらえるのかな?」
「……私が言いたいことはわかっているだろう。わざわざ混ぜ返す必要もあるまい」
「なら、先に卿の弁明から聞こうか」
「相変わらず、仲の良いことね」
張りつめる空気を追い払ったのは、この場の紅一点であるマリエル・エリータスであった。
もう50に届く年齢を感じさせないどころか、外見はもちろん、何気ない挙措にもまだまだ艶がある。
もちろん、若かりし頃の彼女を知る者ならば、歳を取ったな……と感慨深いモノを覚えるかも知れないが。
「からかうな、お嬢」
苦笑しながら、ベルシス卿が呟くと。
「あら、この歳でお嬢と呼ばれると多少複雑ですわ、ゼノスおじさま」
と、マリエルが返す。
そんな2人の会話を、ピクシス卿は黙って聞いているだけ。
ドルファン王国200年の歴史の中で、唯一聖騎士の称号を持つラージン・エリータスがこの世を去って10年になるが……政治的な権力という意味で、彼女はそれをきっちりと保持したままだ。
女ながら大したモノだ…と思うのはそれほど親しくない人間で、古くからの知り合いともなれば、随分とおとなしくなったな……と思うに違いない。
全欧各地から俊英の集う…もちろんただ留学させただけというぼんぼんも少なくはないのだが…そのスィーズランドの大学を飛び級で、しかも首席で卒業したことからもわかるように才女として名高いだけでなく、その美貌もまた負けず劣らず有名であった彼女に結婚を申し込む男は国内外を問わず少なくはなかった。
もちろん、彼女はそれら全てに首を振り、当時はただの騎士の1人に過ぎなかったラージンを見出し、夫として選んだのである。
名門エリータス家の入り婿になったことで、ラージンにはそれにふさわしい地位が与えられ……彼は、おそらくは自分自身も気付いていなかったであろう才能を開花させた。
それは、エリータス家の政治的発言力を増すと同時に、彼女の見る目の正しさを喧伝する結果となったわけだが、そのことについて彼女は今も寡黙である。
ラージンが生きている間は、夫を支える良妻の役目を完璧に果たしており……ラージン没後は、不気味な沈黙を保っている……とも言える。
何はともあれ、彼女の父親が亡くなる直前に、『あれは……儂の息子として生まれてくるべきであった』と、漏らした事は一部で有名であり、彼女が女傑であることは間違いないはずなのだが…。
夫ラージンとの間に3子をもうけており、長男はもちろんのこと、次男もそれなりの職務に就いていて、そこそこの評価を受けているが……3男であるジョアンの評判はあまりよろしくない。
しかし、彼女が最も溺愛しているのは、そのジョアンであった。
ダメな子供ほどかわいいモノらしい……と陰で囁かれているが、古くから彼女を知っている人間は、その噂に対して同意を示しつつも、微かな違和感を覚えるのだ。
ドルファン史上不世出の騎士と呼ばれるラージンをただ1人見出した彼女が溺愛するジョアンは、本当に評判通りの存在なのであろうか……と。
余談だが……ベルシス卿の息子の一人が、彼女との結婚を熱望していたのだが、『貴様ではつりあわん』と父親であるベルシス卿は一蹴し、彼女は彼女で『ご冗談でしょう?』などと軽くあしらったあたり、息子の器量は知れようと言うモノだ。(笑)
「何はともあれ、片づけられる案件は手早くすませて、邪魔者の私はさっさと退出したいのですけど」
と、マリエルが、ピクシス、ベルシス、国王の3人に微笑みかけ……同意を求めるように、カイニス家当主であるクルス・カイニスに目を向けた。
「……同感ですな」
クルスは無表情で頷いた。
クルス・カイニスはマリエルより若く、先年40にようやく手が届いたところである。
決して無能というわけではないが、この場においては有能とも言い難く、あまり目立たない存在と言える。
ちなみに、オーリマン卿を非常に嫌っていることで有名なのだが……その原因が、オーリマン卿の夫人となっている女性をめぐっての事であることはあまり知られてはいない。
それはさておき、誰にも相手にされない形となったピクシス分家のアートル・ピクシスは、困ったように俯くだけ。
自分が本家当主の木偶に過ぎないことを自覚していることがよくわかる態度であるし、作者も彼の説明をあまり必要とは感じない。(笑)
口にはださなかったが、マリエルの言葉の正しさを認めたのか、ベルシス卿に対するなんやかんやは後回しにして会議は始まり……。
「……では、後は『仲の良い』3人でごゆっくりどうぞ」
と、皮肉な笑みと口調を残し、マリエルが、カイニス卿と共に部屋を後にしたのは3時間後のこと。
「……アートル、お前も下がっておれ」
「は、はい…」
ピクシス卿に頭を下げ……自分の不敬に気付いたのか、慌てて国王に向かって頭を下げ、アートル・ピクシス(ピクシス卿の次男)が部屋を出ていき、3人が残された。
マリエルが言うところの『邪魔者』がいなくなった事で、反対にそのきっかけがつかめなくなったのだろう、長い長い沈黙を経て、ようやく口を開いたのは国王であるデュラン・ドルファンであった。
「ベルシス、そしてピクシスよ…」
疲れ切ったようなため息をつき、言葉を続ける。
「儂は愚鈍だ」
ピクシス、ベルシスの2人が戸惑ったような目で国王を見る。
「今更取り繕う必要はない……30年以上も昔から分かり切っていたことだ」
ピクシス、ベルシス卿共に、言葉もなくテーブルの上に視線を落とした。
「ベルシス」
「は」
「兄上は、お元気か?」
問いかけにわずかに遅れて。
「…はい」
「そうか…」
「……陛下」
ベルシスの声に、敬意が浮いた。
政治とか、権力とか、そういうものを離れた人間的な何かに感じるところがあったのだろう。
「ベルシス、そちにはそちの信じる道があろう。もちろん、ピクシス、そちにもだ……儂にはそれがない」
それは、事実上国王としての責務を投げ出した発言と言えた……が、曲がりなりにも国王として過ごした長い年月が、それなりの風格を与えており。
「ただ、1つだけ言わせよベルシス」
静かで、どこか祈るように。
「ピクシスの信じる道と、そのほうの信じる道は、白と黒のようなモノではないかの?」
「……」
「儂にはないモノを持っているはずのそなたが、何故に歩み寄ることができぬ?」
ピクシスとベルシス、両名はほぼ同時に国王が流している涙に気付いた。
「国は、つまるところ人の集まりであろう。人は、白や黒ではなく、その中間の曖昧な何かに属して、生きてゆくモノではないのか?」
「……」
「違うか、ベルシス」
国王の問いかけに対して、ベルシスは、どこか哀れむような視線を返答とした。
もはや、この国の状況はそんなレベルをとうの昔に通り過ぎており……未だ、それに気付かぬ国王を気の毒に思ったからか。
そして、その視線をピクシスに向けながら。
「陛下」
「……良い、忌憚なく申せ」
「……私は、ドルファン王家に殉じたいのです」
「ベルシス、貴様っ」
憤怒の表情を浮かべ立ち上がりかけたピクシスを、国王は手で制し……小さく、息をはいた。
「なるほど…な」
目を閉じ、そう呟く国王の仕草に、怒りはない。
今目の前で、『あなたは正当の王ではない』とはっきり口にされたわけだが……王位を継ぐ前からそれを自覚している者にとって、いかほどのモノがあろう。
長い……いや現実的には短い沈黙を経て、国王が大きくため息をついた。
「もうよい……」
「……」
「でてゆけ、ベルシス」
ベルシスの一瞬ピクシスの顔を見つめ……何も言わず、国王に向かって頭を下げてから部屋を出ていった。
結果として、これはベルシス卿と国王の最後の別れとなった。
それからしばらくして……低く、暗い呟きが国王の唇から漏れた。
「ピクシス」
「は」
国王が目を閉じて。
「ずっと、考えていることがある」
その呟きが、ピクシスの表情にとまどいの色を浮かばせる。
「……エリスのことだ」
足された言葉は、ピクシスのとまどいを完全に拭いさりはしなかった。
「王妃が…」
ピクシスは一旦口を閉じて、国王の表情をうかがい……敢えて言い直した。
「娘が、なにか?」
「エリスは、何故に兄上ではなく儂を選んだのであろうな…」
「……」
ピクシスの沈黙は、国王の呟きが答えを期待したモノでないことに気付いてのモノと言うより……その答えを持たないが故であるように見えた。
国境都市ダナンを領地とするベルシス卿ではあるが、当然ここドルファンにも別邸を持っている。
城を出てからそこへ向かったであろうベルシス卿を乗せた馬車に異変が起こったのは、高級住宅街の一角に置いてだった。
もちろん、暗殺の危険性について警戒を怠っていたわけではないからベルシス卿の臣下は、その異変に動揺することなくきちんと対応した。
ただ問題は……暗殺者の集団が、暗殺者らしい配慮に欠けていたことだろうか。
暗殺と言うより、襲撃という言葉が相応しいそれは、隠密性をまったく考慮しない攻撃であり……後に判明したことだが、この周辺の住人のほとんどが惨殺されていた事が主な理由ではあろう。
「……ピクシスにしては」
と、ベルシス卿の手が武器を掴もうとした瞬間、状況に変化があった。
数こそ少ないが、ここぞとばかりに狙い撃ちをしてくる弓の攻撃が止んだのである。
それをあてにして集団戦を仕掛けていた襲撃者にとまどいが見えたところで、それは現れた。
大きめのフードで顔を隠した小さい影が、雷光を思わせる素早い動きで襲撃者を戦闘不能の状態へ追い込んでいく。
「き、貴様何者だっ!」
振り下ろされた剣をかわしつつ、手にした細い剣で男の右肩を貫く。
「それはこっちの台詞よ…」
剣を引き抜き、目にも留まらぬ速さで、男の両太腿を貫いたうえで喉元に剣先を突きつけて完全に動きを封じる。
「あなた達……ピクシス卿に命令された連中ではないわね?」
そう問われた男の判断は速かった。
自ら剣先にぶつかっていき、死を選んだのである。
そのまま抱きつくような格好で倒れてきた男の肉体に邪魔され、背後から攻撃を仕掛けてきた襲撃者に対して反応が遅れるというより、対応ができない。
「くっ」
反撃を諦めると同時に、身体をひねって己に覆い被さる男の肉体を、文字通り肉の盾にした瞬間、ライズの目の前で、男の腕が剣を持ったまま飛んだ。
男の腕を飛ばしたのとは逆の手に持った剣で、男の首筋を切り上げ……女は、あらためてライズに振り返った。
「……早く立ったらどうだ、ライズ?」
ライズに立つことを促した女の正体は、ライナノールであった。
「……気にするな、最初は誰でもそうなる」
物陰で、嘔吐を続けるライズに向かって、ライナノールが声をかけた。
「最初から…見てたの?」
口元をハンカチで拭いライズ。
「私は、既に軍団を抜けた……ベルシス卿が死のうが生きようが、関係ない。ただ、ひょっとするとお前はこれまで人を殺した経験がなかったんじゃないかと思ってな」
「そうね…」
ライナノールの言葉の正しさを認め、ライズはあらためて頭を下げた。
「ありがとう」
「私もただで助けたつもりはない」
「……?」
ライズが、ライナノールを見る。
「バルドーを倒した東洋人」
「……」
「居場所を知っているな?」
「知ってるわ」
微かな間をおいて、ライズが言葉を続ける。
「それを聞いて、どうするつもり?」
「バルドーの敵を討つ」
「無理ね」
ライズの短い返事に、ライナノールは怒らなかった。
「あの男は掛け値なしに強いわ。ボランキオを相手に、尋常な一騎打ちで、しかも余裕を残して勝つほどに。ボランキオに劣るあなたが、どう考えても勝てる相手ではないわ……そもそも、病んでいたとはいえ、あのヨハンを無傷で倒すような男よ。相性がどうこうというレベルとは私には思えない」
「その通りだろうな」
と、ライナノールが肯定するものだから、ライズとしても戸惑った。
「勝てない相手とわかっていて戦うというの?」
「……」
「何故?」
ライナノールが笑った……それはどこか哀しい微笑みで。
「私も、バルドーと同じだから」
「…?」
「いや、バルドーが死んで……やっと、私は、バルドーのことを本当に理解できたんだ」
穏やかとしか思えない微笑みを浮かべたまま、ライナノールは淡々と語る。
「お前が、私を死なせたくなくてそういう風に言ってくれているのはわかるし、その気持ちを嬉しくも思う……」
何かをやり尽くして燃え尽きた……そういった、枯れた穏やかさとは何かが決定的に違う穏やかに澄み切った微笑み……それが、叔父が死ぬ間際に見せた表情にそっくりな事にライズは気付く。
「だが、これは私が私であるためにすることだ……」
「死にたいなら、自分で死ねばいい…何も、他人の手を借りることなどないわ」
冷酷な言葉と、感情を感じさせない表情……それが、自身の気持ちを殺そうとする少女の癖であることを知るライナノールにとって、それはライズの優しさとしか感じられず。
だが、ライナノールはもちろん、ライズ本人も、それに優しさ以外の成分が混じっていることに気がついてはいない。
「隠密行動など得意ではないが、この国で傭兵の東洋人を探すのはそう難しくあるまい」
苦笑しつつ、ライナノール。
「私は、ヴァルファを抜けた……が、それなりの義理を感じてはいるのだ、ライズ」
自分の動きがあらぬ誤解を招き、ヴァルファなりライズの行動に何らかの制約を生ずることは避けたい……言葉ではなく、目でそう語る。
短くはないが、長くもない沈黙を経て……ライズは、口を開いた。
「しばらく、考えさせて…」
ライズ、ライナノール2人のやりとりはさておき、ベルシス卿暗殺未遂事件は、ドルファン国に波紋を呼んだ。
ベルシス卿はピクシス卿に対する非難の声明をだし、許可無しにダナンへ帰ったのは事故安全のための一時避難と主張。
そして、ベルシス卿は自身の関与を強く否定……しかしながらこの主張は、あまり受け入れられたとは言い難い。
ダナンを統治するベルシス家は、臣下の分を越えたピクシス卿を不忠の臣と評し、我々はドルファン王家に刃向かうのではなく、ピクシス家の打倒を目指すための蜂起である……と、国境都市ダナンはドルファンに向かう城門を固く閉ざした。
ここにいたり、ドルファン王国は隣国のプロシアがそうであったように内乱の様相を呈し始め……多くの人々は、ベルシス家があらためてヴァルファの雇い主になるのではないかと予想した。
しかし、そう予想した人々はもちろん、そもそも最初からヴァルファとベルシス家は手を組んでたのさ…と思っていた人々の思惑とは裏腹に、ダナンから姿を消したヴァルファは、依然行方が知れないままであった……。
さて、少し話が前後するが……ダナンはドルファンにおいて北部域に位置するが、隣国プロキアから見ると南東の方角にある。
先年の内乱においてフィンセン公をうち破ったヘルシオ公がプロキアの盟主となったわけだが、当然のごとく未だ国内を平穏たらしめることに腐心するだけの日々である。
フィンセン公およびその直接の支持者はゲルタニアに亡命したものの、元々フィンセン公への失望によってヘルシオ公に助力した諸侯も少なくなく……内乱から1年あまり、ヘルシオ公のやりようがどうやら自分が期待していた程のモノではないらしいと、ある種の興奮から冷めてくる頃でもある。
興奮が冷めるだけならまだしも、不満や反発を抱けば……武力をもって盟主に成り代わるという例を示したヘルシオ公が目の前にいるのだ。
要約すると、自分がそれにならってどこが悪い……という事に尽きる。
無論、それをそそのかす者もいる。
プロキア南東部域を領するのは、カール・イエルグ伯で……ドルファンとゲルタニアの国境近くに領地を与えられている事でもわかるように、武に長じた家として名が通っている。
5月下旬……そのイエルグ伯が、自分の領地にシンラギ軍を集結させているのは不穏な理由からではないかとヘルシオ公が非難した。
先のダナン攻防戦が終わり、プロキアとしてはシンラギとの契約をうち切った。
契約をうち切られた以上は、速やかに国外へでていくようにと……プロキアを東に横断してハンガリアに抜け、やってきたときと同じくアデラマ港から船に乗ってと、その旨は既にハンガリア政府に話を通しているにもかかわらず、だ。
シンラギの軍は、イエルグ伯の領地に集結したまま動かないのである。
シンラギに対してその対価を既に支払った以上、傭兵軍団がそこにとどまっているのは新たな依頼主を得たのでは……と不審に思うのも無理はない。
それに対し、イエルグ伯は『プロキア領に侵入したまま行方が知れなくなっているヴァルファに対する自衛である』と説明。
ここで国外に目を転じれば、暗殺から逃れたベルシス卿は自領のダナンに引っ込み……王家に対する反逆ではないことを明言しつつも、ピクシス家打倒を叫んでいるわけで。
ドルファン北部域とプロキア南東部域……両者が隣接しているだけに、ヘルシオ公の疑念が膨らんだことは言うまでもない。
そんな中、5月26日に、海燕が住む傭兵宿舎に、1通の手紙がやってきた。
「……ここか」
手紙に同封されていた演劇のチケットはともかくとして、くどいぐらい丁寧に説明されていた地図に視線を落とし、海燕は1つ頷いた。
「ふむ、こんな所にこんなモノがあったとはな…」
『あのねえ…キミがこの国に来てから、もう1年以上経ったんだよ?』
もしここにピコがいたならば、呆れたようにこう呟いただろうか。
それはさておき、演劇の舞台が大衆の娯楽となるのはまだまだ先のことであり、この時代においてはまだまだ貴族や一部富裕層だけのモノである。
つまり…。
「あの…」
東洋人云々ではなく、おそらく『外国人傭兵ですが、何か?』という格好の海燕を見て、受付の人間が判断に苦しんだのも仕方がない。
「ああ、彼は私の連れだ」
「これは、オー……と、失礼しました」
何かを言いかけて慌てて口をつぐんだ受付の人間の視線の方角……海燕はそちらに振り向いた。
40に届くか届かないか(もちろん実際は、40をとっくに越えている)……という感じの男が、芝居がかった笑みを浮かべつつ。
「待たせたね」
「…いや」
害意は感じない……というより、どこか面白がっているような気配。
服装そのものにかなり金はかかっているのだろうが、それを感じさせずにさりげなく着こなした……それだけの男ではないことは、深い知性を感じさせる目を見れば十分にわかる。
「では、いこうか…」
そして男はチケットを提示することさえせずに中へ入り、海燕もその後に続いた。
ここには慣れているのだろう、男は案内もなく、迷うことなく自分の座席に腰を下ろし、その隣に海燕を誘った。
「さて……私は、ことのほか芝居が好きでね」
「……何とお呼びすれば?」
「キミの思うとおりで構わないよ。聞けば、人の正体を見抜くのが得意とか」
と、男が茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせる。
「……ベイラム・オーリマン卿?」
控えめに、と言うよりは何かを探るように答えた。
「ふむ、さっき受付の娘がヒントを与えたとはいえ、ズバリだな、海燕君」
「……手紙をくれた人間からも、ヒントをもらってましたのでね」
「ああ、今日は彼女の初舞台でね…」
と、オーリマン卿が微笑み。
「招待状には、なんと書いてあったかね?」
「『死んでも来てね』と」
「ほう、それはそれは…」
くっくっと、オーリマン卿がこらえきれないように笑った。
「それで、素直にやってくるキミはなかなか面白い」
「暇なんですよ」
「なに、すぐにそんなことも言ってられなくなる」
そう呟いた時の、男の目だけが笑っておらず。
「……かもしれませんね」
微かな沈黙……を、オーリマン卿は大げさに肩をすくめることで追い払った。
「失敬…ここは、現世から隔絶された場所であるべきと私は考えているのでね」
「芝居の全てが虚構だ…と仰っているようにも聞こえますが」
「逆だよ、海燕君」
「……」
「現実のほとんどが虚構で、現実の中のわずかなリアルの純度を高めたモノが芝居さ」
海燕は少し考えたうえで、柔らかく反論した。
「否定はしません……が、それはごく限られた人間のためにある言葉としか思えませんね」
「ふむ…」
オーリマン卿はちょっと腕組みし、まだ誰もいない舞台に視線を向けながら言った。
「キミは随分と複雑な人間のようだな……少なくとも、私が知る軍人や傭兵という人種とは、根本的に何かが違う」
「上に立つ人間は忘れがちですが、本来人間という生き物は一人一人違うモノですよ……それと、少なくとも俺は、あなたと会話するためにここに来たわけではないのでね」
海燕が敢えて示した不快感をどう受け取ったのか……男は肩をすくめて。
「……今日の演目は『ロゼッタ』だが、解説が必要かね?」
「解説が必要なら、それは『本物』ではないんでしょう…」
「……なかなか手厳しい」
オーリマン卿が小さくため息をつき……舞台にゆっくりと幕がおりた。
舞台の準備が整い幕が上がるまで、まだ少し時間はある……が、もう、口を開くモノはいない。
「で、どうだった海燕?」
まだ初舞台の興奮さめやらぬのか、微かに上気した顔でティーナが海燕に問いかける。
「芝居についてか?それとも、ティーナの演技についてか?」
「……やな言い方するわね」
舞台の上とは違った、子供っぽい仕草……に、海燕は多少引っかかるモノを覚えつつ。
「俺は、芝居とか演技については良くわからん……ただ」
ちょっと言葉を切った海燕の目を、ティーナが上目遣いでのぞき込む。
「ただ?」
少女の視線をまともに受けとめながら、海燕は正直な感想を口にした。
「お前が次々と人を殺していく姿は、演技とは思えなかった」
少女は小さくため息をつき、フィッシュアンドチップスをひとつかみ……海燕の口に押しつけた。
「……何か引っかかるけど、誉め言葉として受け取るわね」
「と、いうか……そもそも、招待された理由がわからん」
「……へえ?」
並の男なら、思わずたじろいでしまうような視線と『へえ?』だったが……もちろん海燕はたじろがない。(笑)
「……何よ。ひょっとして、私が王女に命令されて、あなたに近づいているとでも?」
「それはそれで、しがない外国人傭兵に目を配る理由がわからんな」
「……しがない外国人傭兵は、ヴァルファの八騎将を討ち取ったり、市民を救うために猛獣に立ち向かったりしないと思うけど」
「成り行きだ」
「……便利な言葉ね」
と、ため息をつき。
「招待したかったから、招待したのよ。何か文句あるっ?」
「そうか。ではあらためて、本日はご招待にあずかり…」
「……ぶっとばすわよ」
「ん、間違えたか?…お招きにあずかり…だったか?」
「……そういうことでもなくて」
再び、少女は深いため息をつき。
「……結構イケてると思うんだけどな…やっぱ、東洋人とは美的感覚が違うって事なのかしら…」
などと聞こえよがしに、ぶつぶつぶつ。
「ああ、ところで…」
「なに?」
「オーリマン卿は、ティーナの……いわゆるパトロンということか?」
「まあ……そうなるかしら」
「……」
「あ、ひょっとして妬いてる?」
どこか楽しげなティーナの問いに、海燕は短く応えた。
「いや」
芸術家の卵とパトロンとすると、2人の関係には少々腑に落ちない部分があるな……などと、感じた事をそのまま口に出そうとは思わなかったからだ。
まあ、もっと根本的な問題を挙げるなら……ティーナが純粋な好意をもって自分に近づいてきていると海燕が思っていない事だろう。
それはつまり……今、こうして目の前ではしゃいでいる少女を、海燕としてはそれほど信用していないことを示している。
「ん、ふふ…」
海燕のそんな胸中を知ってか知らずか、ティーナは機嫌を直したらしく楽しげに微笑み、瞳をキラキラと輝かせながら熱っぽく語る。
「今日の私は、準ヒロインの役だったけど……私、そう遠くない将来に主役になるって自分で決めたの」
「主役…か」
「ええ」
瞬間、少女、ではなく大人の女性の笑みを浮かべて。
「お情けでもなく、代役でもなく……みんなが私を主役と認める…そんな自分に、私はなるの」
「そうか」
と、頷きながら……海燕はティーナの浮かべる笑みに、少し寒気を覚えるのだった。
6月。
新緑の季節を過ぎると……ドルファンの大地には乾いた風が吹き始める。
高温と適度な乾燥をもたらすドルファンの夏は、果実などの栽培に適してはいるが、穀物栽培には適さない。
もちろん、ドルファン国北部を流れるテラ南河流域などは別だし、温暖な気候故に乾燥する夏を避けての小麦栽培などは営まれている。
ただ、温暖な気候に恵まれてはいるモノの……ドルファンは、決して農業生産が豊かな国というわけではない。
かといって、工業が盛んとも言い難く……そんなドルファンが、半鎖国政策などという姿勢で20年あまりを過ごすことができたのは、マルタギニア海を挟んだ隣国、アルビアとの同盟関係によるところが大きい。
陸の雄ドルファンと、海の覇者アルビア……ドルファンのそれは、今や虚名となり果てているが、アルビアの海軍力はイングランドと並び評されているほどだ。
ドルファン港の外海はいうまでもなくマルタギニア海であり、このマルタギニア海を制しているのがアルビアなのである。
アルビア海軍の庇護を受けつつ、自由に航行できる……これは、想像する以上に大きなメリットであり、ドルファンという国を経営する上で手放すことは考えられない生命線なのは言うまでもない。
このことから考えると、現状、ドルファンにとってアルビアとの同盟は必要不可欠なのだが、果たしてアルビアにとってはどうなのだろうか……?
そもそも、同盟関係とは双方に利益をもたらすものでないと成立しない。
アルビアは、ドルファンとの同盟関係を維持していくことで、どのようなメリットを得ているのか……この問いに対して明確に答えられる者が、ドルファンには極めて少ないのが現状である。
6月に入って最初の日曜日……2日。
指定された刻限よりやや早く、海燕はカミツレ地区の古跡群……トルキア帝国が成立する以前に建造された神殿跡前の開けた場所に立った。
神殿への階段に腰を下ろしていた人影に視線を向ける……ゆらり、と炎が揺らめくようにそれは立ち上がり、海燕の正面10メートルまでやってきて足を止めた。
「良く来たな」
赤い鎧、燃えるような瞳……風に揺れる赤い髪。
叩き付けるような殺意とは裏腹に、目の前の女がここに死にに来たことが海燕には手に取るようにわかった。
『……お前の名は?』
『クー』
少女はちょっと笑い、言葉を付け足した。
『多分、死神の方が通りはいいけど…』
遠い昔の記憶。
海燕はそれに微かに戸惑い……彼女を斬ったあの時から、女を斬ってこなかった事を今更に思い出した。
「何がおかしい?」
怒ったというより、少し傷ついたように。
「すまん……少し、昔のことを思い出してな。他意はない」
「そうか」
女はちょっと俯き……また顔を上げ、あらためて口を開いた。
「私の名は、ルシア・ライナノール……既にヴァルファを離れた身だが、敢えて八騎将の1人、と名乗らせてもらう」
「俺は海燕……海燕、丈だ」
思うより先に、言葉が口をついてでた。
「死神の方が、通りはいいか?」
「いや……私にとっては、どっちでもいい事だ」
と、ライナノール。
「貴様に迷惑な話だろうが、これは私怨だ……だから、礼を言う」
「気にするな……ところで」
海燕は、ライナノールの背後に目を向けて。
「やつは、付き添いか?」
「なに?」
ライナノールが不審の表情を浮かべ、背後を振り向いた。
「貴様は…」
「……かつての仲間を、貴様呼ばわりか。相変わらずだな」
男は苦笑を浮かべ……ライナノールから海燕へと視線を転じて言った。
「聞きたいことがある、海燕」
「何だ?」
「やつは……どうしている?」
「ヤング教官なら、除隊された…」
「そうか…」
男は視線を落とし……槍を、肩に担いだ。
話の腰を折られた格好のライナノールが、ネクセラリアに向かって問いかける。
「何をしにきた、ネクセラリア」
「……」
「何をしにきたか、と聞いている」
ネクセラリアは、槍を肩に担いだままライナノールの顔をじっと見つめ。
「……なるほど、死神か」
そう呟き、海燕に視線を向けた。
「死期の迫った戦士には、鼻が利くと見える」
「ネクセ……」
「とめんよ、俺は」
ライナノールの顔を見ず……ネクセラリアは、呟く。
「大バカに、バカをとめる権利なんかないだろうしな…」
「八騎将が1人、氷炎のライナノール…」
状況次第で二剣を扱う戦士は珍しくはない。
戦いの中、破損などによって武器を失ったときのために予備の武器を携えているのが当たり前で、必要とあればそれを使うことはむしろ当然で。
攻撃を防ぐための盾をもって相手を殴打することだってある。
ただ、彼女のように最初から二剣を構えるとなると……。
海燕は、ライナノールの剣に目をやった。
長さ、形状……おそらくは、重量に至るまで同じモノであると思われる剣は、ごく普通のモノ。もちろん、なまくらという意味ではないが。
あらためて名乗ることもせず、海燕は静かに剣を構え……ライナノールは、それを戦いの始まりと解釈したのだろう。
「参るっ」
短く叫び、左手に持った剣を突き出しながら一足飛びに間合いを詰めてきた。
突き出されてきた剣に注意を払いつつ、海燕もまた一歩踏み込む。
「やぁっ!」
右下段から……海燕にとっては左脇下から、恐るべき速度で剣が襲いかかってくる。
間合いを見きり、海燕はわずかに後方に飛んだ。
「しっ」
その動きを見て突き出されていた剣が引き戻され、海燕は無意識に突きの攻撃への対処を始める。
予測通り、突きがきた。
が、その左手の剣の上を滑るような感じで、先ほど斬り上げた右手の剣が振り下ろされてくる。
迫り来る点と線。
身体を開きつつ、海燕は再び必要な分だけ後方へと退いた。
攻撃の終わり……にも大きな隙はない。
その勢いによって右手の剣は多少流れたが、左手の剣がしっかりとこちらの攻撃に対して対応している。
ライナノールは「おのれっ」と短く叫び、右手の剣を高く振りかぶった。
何の小細工もなく、それはそのまま海燕の肩口めがけて振り下ろされる。
充分な気合いと、充分な破壊力を持った剛剣ではあるが、ボランキオのそれとは武器そのものの重量が違い、膂力も違う。
ギィンッ。
それを、海燕は敢えて受けた……瞬間。
静かで、力強さは感じないが速さだけは申し分のない一閃が、海燕の右脇腹を襲う。
先日、シベリアのスパイを切り捨てた技だが…。
「……なるほど」
残念ながら、わざと受けさせるための攻撃に、相手の動きを……少なくとも海燕の動きを封じるだけの圧力が不足している。
仮に、ボランキオと同じだけの圧力を有していたならば、これほど簡単に逃げることはできなかっただろう。
「この程度で倒れるような男に、バルドーが倒されるとは思わん」
攻撃をかわされたことに失望の色も浮かべず、むしろ闘気を充実させて、ライナノールが再び間を詰める。
右の突きが足の甲にきた。
小さなステップで海燕にかわされ、剣先が地面に突き刺さる……と同時に、左の薙ぎ払い。
しかし、ライナノールの右手首に浮かんだ緊張からそれを察知した海燕は、身体の右側に剣を立てつつ、地面に刺さった剣先を足裏で押さえにかかる。
「くっ!?」
計算が狂ったという表情を浮かべ、ライナノールが慌ててそれを引き戻す。
「……何故」
ライナノールの呟きには、感嘆の響きがある。
「いろんな戦士を見てきた、それだけだ」
そう言って、海燕は無造作に剣を振った。
「っ!」
大きく後方に飛んでそれを避けたライナノールに向かって、海燕は話しかけた。
「その前髪に隠された目、見えないんだな」
数秒の沈黙を挟んで、ライナノールが構えを解いた。
「……何故わかった?」
「そのための二剣としか思えん……突きから入る攻撃が多いのは、相手との間合いを計るためだろう。相手の攻撃を受けたとき、もしくはこちらの攻撃が受けられたとき、こちらの攻撃が届く間合いにあるわけだしな」
「……たったそれだけでわかるものなのか」
そう呟くと、ライナノールは右手で前髪をかきあげ……どことなく濁った、無機質な瞳が現れる。
「子供の頃のケガで……こっちの目は光を感じることしかできん。10センチ、20センチならともかく、1センチ、2センチの間合いはどうしても見切れなくてな」
「そうか」
どこか憂鬱そうな表情で、海燕は言った。
「……やつは死に場所を求めていたかもしれないが、戦いに関して手を抜くような男ではなかったはずだ」
「……」
「全てをかけてかかってこい。そうすれば、俺は死神の名にかけて、受け止めてやる」
ざあっと、不意に吹いた乾いた風に……ライナノールがかき上げていた前髪が、揺れて右手から離れた。
ライナノールの口元に、微かに微笑みらしき者が浮かんだ……のも一瞬で。
「……非礼をわびぬ代わりに…」
そう呟き、ライナノールは右手に剣を持つ。
そして、その剣を構えながら、射抜くような視線と炎のような言葉を海燕に向かって叩き付けた。
「あの世で貴様に、死ぬほど後悔させてやろうっ!」
周囲の人間を萎縮させる燃え上がるような殺気は、先ほどまで無かったモノだ。
「我が名は、ルシア・ライナノール!明日は望まず、愛した人の仇を討つのみ。いざ、尋常に勝負っ!」
やや大仰に過ぎる彼女の言葉を笑うでもなく、萎縮するでもなく、海燕は、手にした剣を微かに揺らして、それに応えた。
最初に仕掛けたのはライナノールだった。
防御という概念を忘れ去ったかのように、彼女の操る二剣は様々な角度、速度、あるいは技巧を凝らして海燕に襲いかかった。
片目が見えぬというだけでなく、女としてのハンデを乗り越えるために、肉体を極限まで痛めつけ、創意工夫を凝らした技の数々。
その創意工夫に際し、助言をもらった相手は……ライズの母親だった。
『私、バルドーのように戦いたい』
少女の望みに、彼女は静かに首を振り……『ライナ、貴方は貴方にしかなれない。私が、あの人のようにはなれないと同じで』……と、軍団長に視線を向けたことを思い出す。
彼女は生粋の戦士で、しかしそれと同時にまぎれもなく女であり、母親でもあった。
だが、自分は…恋する少女のまま、母親はおろか、女にもなれずに。
「くっ、っ、ぃあぁっ!」
左の突きから胴体めがけての右の突き、そして一歩踏み込んでさらに右。
渾身の3段突きが、全て空を切る。
海燕の姿が消えたのではなく、死角に回られた事を一瞬で悟ったライナノールは、そちらを振り向く愚を避け、右に飛ぶことによって距離を取った。
終始攻めっぱなしだったライナノールは、肩を上下させて呼吸を整えようとする……が、音もなく距離を詰めてきた海燕がそれをさせない。
この戦いが始まってから、ある意味、初めての海燕の攻撃。
その撃ちおろしの攻撃を受けようと二剣をクロスさせかけたライナノールだったが……早々とその考えを放棄して後ろに飛んだ。
着地と同時に、驚きの視線をもって海燕を見つめる。
ボランキオの体格に遠くおよばぬ東洋人が繰り出した一撃に、ボランキオのそれに勝るとも劣らぬ威圧を覚えたからである。
もしライズこの場にいたならば、海燕の持つ剣が変わっていることに気付いたかも知れないが、ライナノールはもちろん、一度剣を交えた格好のネクセラリアも、それに気付くことはなく。
グレッグが剣を新調するのに合わせて、鍛冶屋に頼んだ、幅広の重い剣。
ドルファンにやってきてから1年、南欧というかこの地域における戦闘スタイルに合わせて剣そのものにそれなりの耐久力を求めた結果であるが、自身の体力面での成長も理由の1つになるだろう。
今年で22歳になる海燕の肉体は、少年期における外見面の成長ではなく、青年期の内質の充実期に入っており……10歳で大陸に渡ってから戦場を渡り歩く生活を続けていた海燕にとって生まれて初めてと言っても良い、ゆったりとした生活がそれを助けている。
そういう意味で、先日ヴァルファ軍団長であるヴォルフガリオが呟いた『死神は……今が盛りか』の言葉は半分誤っている。
今、海燕は戦士として、緩やかではあるものの、未だ上り坂にいたのだから。
離れた場所で2人を見守っていたネクセラリアもまた1流の戦士である。
ヤングとの序列は感情的なものをたぶんに含んでいるからさておき、1対1の戦いにおいてボランキオに劣るとは思っていない彼をして、どうにも勝ち目の見いだせない相手……未だ見ぬ強敵はさておき……そんな人間が1人いる。
言うまでもなく、ヴァルファ軍団長のヴォルフガリオであるのだが。今、目の前の東洋人から感じたものは……。
東洋人と、軍団長の一騎打ち。
夢想としか思えぬ光景に、ネクセラリアは目の前の戦いのことを忘れて興奮を覚えていた……。
「せぇあっ!」
自らの心を叱咤するために、再びライナノールは攻めた。
左、右。
右、左。
下段から上段、突きから薙ぎ、切り返し。
呼吸を止めての連続攻撃が1分近く続いただろうか……それが途切れた瞬間、海燕の手元から鈍い光が弧を描いて彼女に迫った。
ギッ…ン。
はじき飛ばされた左剣と引き替えに、ライナノールは命を拾った……が、それもわずかな時間。
間髪入れず、水平に近い角度で襲いかかった攻撃が、今度は右手に持った剣を根元から斬り飛ばした。
驚愕から一瞬で立ち直り、刃を失ったそれを海燕に投げつけた彼女の行動は賞賛されるべきだろう。
しかし、それで彼女が得たものは……左手からはじき飛ばされた剣を拾い上げる猶予のみ。
「……」
ライナノールは……それを両手で握って、海燕に向き直る。
死が目の前にあった。
彼女にとって二度目の死……最初のそれを救ってくれた愛しい男は、もう、いない。
あの日、あの時から十数年。
共に生きたいという願いを拒絶されても、その背中を追い続けた。
「今、行くわ…」
踏み込み、剣を振り上げる。
それを振り下ろすより先に、衝撃のようなモノが自分の身体を貫いていったのを感じ……ライナノールは目を閉じた。
身体の中で何かが破れ……何かが流れ出していく感触。
与えられた時間を感じ取り、ライナノールは再び目を開けた。
斬られたのではなく、突かれた……それは、できるだけ傷を小さくしようという心遣いなのか。
目の前の東洋人の表情を見ていると、そんな気さえしてくる。
死は、怖くない。
「……あの人を、苦しめるつもりはなかったのだがな…」
その時、妻と娘のそばにいられなかった自分を責め続けていた愛しい男。
生きている人間は、死んでしまった人間には、何もしてあげられない……謝ることはもちろん、償うことさえ。
『……俺は、これ以上裏切りたくないんだ…ライナ』
家族を置いて戦場に。
土産を抱えて村に戻った男に突きつけられたのは、夫として、父親としての裏切りにたいする罰としか思えなかったのだろう。
「本当……苦しめるつもりなんてなかったのに…」
『ライナ』という呼び方が、それから『ライナノール』になって……そう呼ばれるたびに、越えがたい壁のようなモノを感じた。
からん。
手にしていた剣を取り落とし、自分の肉体から力が失われつつあることにライナノールは気付いた。
「……」
何か忘れているような気がしたが……それに対する執着が薄れていく。
死ぬということはこういうことなのだろう。
「すまん」
「……何が…だ?」
「あの男が最後に言った言葉……それが聞き取れなかった」
「……いい…私に…構うな」
「『頼みがある』のあと、『ライナを』『妻と娘…』…俺が聞き取れたのはそれだけだ」
「……っ」
身体が、いや心が震えた。
最後にまた、『ライナ』と呼んでくれたことに。
想いを拒絶はされたが、『他の誰かを…』などと聞いたような言葉をかけることはしなかった男。
多分、その想いに、代用などないことを誰よりも良く知っていた男だったから。
「…バルドー」
1つしかない瞳で、ずっと追いかけてきた男。
目を閉じても、その姿は…いつまでも…。
微笑みを浮かべたまま、ライナノールは左膝からくずれ、そのまま倒れた。
ネクセラリアは地に伏した彼女の身体を抱き起こしながら呟いた。
「……哀しい女だったが、笑って死ねたか」
「手伝ってくれるか?」
「何をだ?」
「八騎将のひとりという事で敬意を払ったんだろう…ボランキオの遺体の一部は、共同墓地の一角に葬られた」
「そうか…」
ネクセラリアは海燕の顔を見上げ……聞いた。
「身寄りがいるとは考えないのか?」
「いないはずだ……そういう目をしてた」
「……彼女は俺よりはるかに古株でな、詳しい話は知らん。どこかの戦争のとばっちりをくった村の、ただ1人の生き残りらしい」
ライナノールの遺体を再び地面に横たえて、ネクセラリアは立ち上がった。
「……夜になってからだな、人目に付く」
「そうか、そうだな…」
振り返り、ネクセラリアが海燕を見つめた。
「こんな事を頼める筋合いではないんだがな……頼みがある」
「なんだ?」
「ヤングに会いたい」
「……」
ネクセラリアは、海燕の視線から逃れるように下を向いた。
「あいつに…謝らねばならないことがある」
「……誤解が解けたか」
弾かれたように顔を上げたネクセラリアが……少し笑った。
「クレアか……女は口数が多すぎる」
「かもしれん……が、何故今になって?」
「ヴァルファを抜けて生まれた時間と、ちょっとした偶然ってやつが交差したのさ」
ネクセラリアは凄みのある笑みを浮かべ。
「誰かさんにとっては、ちょっとした不運だっただろうがな」
そう続けた。
「……」
「わかっているさ。失った時間は戻りはしない……ただ、そこから始めないと俺は前には進めん」
ちらりと、ライナノールに視線を向けて。
「それでも、ボランキオやライナノールのように、死ぬことでしか解放されない奴らより、俺は恵まれていると思う」
夜、共同墓地の一角。
海燕、ネクセラリア、シスターの3人に見守られ、ライナノールはボランキオの隣で永遠の眠りについた。
不在のゼールビス神父に代わって、シスターが祈りの言葉を捧げ……ネクセラリアに視線を向けた。
「あなたが何者かは問いません……が、彼女の名前ぐらいは教えてください」
「ルシア・ライナノール……ただ、それが本名かどうかはわからん」
「そうです…か」
蝋燭の炎に照らされたシスターの表情は一層沈んだ。
「名を変えたところで、新しく生まれ変わるわけではありませんのに…」
翌日、早朝。
「……おはよう」
「ああ…」
何も言わず、何も問わず、ライズは海燕の隣に立ち……掘り返されたばかりで雑草すらない黒い土の上に、手に持っていた花を置いた。
「気配は感じなかったが、見ていたのか?」
「私にとっては姉のような存在だった……だから、それに耐えられる自信はなかった」
「なるほど……ネクセラリアに代理を頼んだか」
海燕の問いに答えず……唇をキュッとかんで花を見つめ続ける眼差しが、ふっと遠くなった。
「もし、彼女の目が両方見えていたなら……ここまで愚直に、1つのモノを追い続けるような生き方にはならなかったかしら?」
「……」
「ごめんなさい、愚問だったわね……ただ」
ライズの視線は、海へ。
「他の全てをはねのけるような彼女の生き方を、うらやましいと思う事はあるわ……時々だけど」
「……すまなかったな」
「謝る必要はないわ……私は…いえ、多分、ボランキオ以外の誰にも彼女をとめられなかっただろうし」
「……」
「負けるとわかっていて、それに挑むって事は……ただの自殺としか私には思えない」
何も言わず、海燕もまた視線を海に投げた。
「いつもこうなの?」
「なにが?」
「自分が殺した相手を…」
言葉を呑みこみ、ライズが足下に視線を落とす。
「……いや」
「……だったら」
「……『死神』として、きちんと斬ってやれなかったからだ」
波の音にまぎれ、ライズは鳥がどこかで鳴いているのを聞いた。
「……笑って死ねた…と聞いたけど?」
「笑えただけだ」
「……よく、わからないわ」
「理解する必要はない」
「……そう」
微かないらだち。
その理由がわからないことで、ライズのいらだちは小さな泡となって弾けた。
「何故、きちんと斬れなかったの?」
言葉という刃が、何かに届いた。
その実感がライズを安堵させ、同時に不安にさせる。
「……女を斬るのが久しぶりだったせいだろう、少し感傷的になった」
「……以前に斬った女の人って?」
つい反射的に口にしてしまった言葉への微かな後悔と嫌悪の中、ライズは海燕の沈黙にひどく動揺する自分自身に困惑を覚えて、ことさらに何でもないように首を振った。
「愚問だったわ、忘れて」
「……」
海燕がライズに背を向けて。
「……死神さ」
「え?」
左右にぶれない歩みで遠ざかっていく海燕の背中を、ライズはじっと見つめ……言葉の続きを待ったが、結局報われることはなかった。
こうして、海燕と氷炎のライナノールとの決闘は、誰にも知られることなく文字通り闇に葬られる事になるはずだった。
しかし、どこから漏れたのか、誰が漏らしたのか、ほぼ1週間遅れで東洋人傭兵がヴァルファ八騎将の1人を倒したというニュースを少なからぬ人間が目にすることになる。
そう、戦争は終わり、海燕がこの国をでたという事を信じていた少女も。
「セーラお嬢様…?」
最初に異変に気付いたのは、メイドの1人だった。
主が部屋にいない……ただそれだけのことが、セーラにとってどれだけ重要かを知っていたから、メイドはベッドの影と下を見て、慌てて執事のグスタフの元へと駆け込んだ。
どんどんどん。どんどんどん。
「海燕殿、私です、グスタフです!」
グスタフらしからぬやり方に、海燕は緊張も露わにドアを開けた。
「何があった?」
「お嬢様が、セーラ様が…」
「誰に?」
「え、あ、いや…」
「セーラが誰かにさらわれ、俺の所に相談にきた。違うのか?」
「あ、いえ、そうではなく」
グスタフが首を振り、それを海燕の目の前に広げて見せた。
「セーラ様の部屋に、これが…」
東洋人傭兵によって、ヴァルファ八騎将の1人が討ち取られた……その記事の見出しに海燕は軽く困惑したが、すぐに冷静さを取り戻した。
「落ち着けグスタフ」
「いや、しかし…セーラ様が向かったのは…」
「庭の散歩すら満足にできないセーラの体力で、ここまで来られるはずがない。家の近くで倒れて、誰かに……使用人総出で、屋敷のの近辺を重点的に探すんだ」
「……確かに」
海燕の対応によって、グスタフもある程度冷静さを取り戻したらしく。
「海燕殿…」
「わかってる、俺も行く」
と、部屋を飛び出しかけた2人の前に、まだ若い……が、隙のない目をした男が現れて、微かに頭を下げた。
「海燕様と、ピクシス家執事のグスタフ様でございますか?」
「そうですが、今急ぎの…」
グスタフを手で制し、海燕は男に視線で続きを促した。
「私、ザクロイド家の執事見習いで、ルークと申します」
そう名乗った男は微かに笑って。
「セーラ様は、ザクロイド家においてお休み中でございます、まずはご心配なく」
「ま、まことですか?」
「はい……っ?」
喉に突きつけられた『それ』を感じて、ルークが身体を固くした。
「何故ここにきた?」
「……っ」
海燕の質問によって、グスタフもまたザクロイド家の執事見習いを名乗る若者の行動の異様さに気付いたらしい。
「あまり、考える時間はやれん」
「ピ、ピクシス家の使用人から、グスタフ殿がここに向かったとうかがいまして…」
微かに震える声。
「行き先を告げてきたのか、グスタフ?」
「はい」
「れ、連絡が遅れたのは…セーラ様が目を覚まされるまで、身元が分からず……」
次に何を質問されるか、先回りして答えるあたり、それなりに頭は回るようだ。
「まあ、セーラが無事なのは本当のようだし、『嘘』の理由は主人に聞くか……」
海燕は一旦言葉を切り、一瞬だけグスタフに視線を向けてから言葉を続けた。
「俺も一緒に連れてこい。そう言われてるんだろ?」
「お、仰るとおりで…」
海燕がすっとナイフをひくと同時に……ルークの額に浮かんだ汗が、一筋流れた。
「セーラ様っ…心配しましたぞ」
「ごめんなさい、グスタフ…私…」
グスタフに謝るセーラの視線がさまよい……微かに開いたドアに向かって呼びかけた。
「先生…そこに、いらっしゃるんですよね?」
それは、有無を言わせぬ強い言葉。
「先生」
「……嘘をついてすまなかった」
「いえ、いいんです…」
セーラは目を閉じて、胸の前でギュッと手を握りしめた。
「ごめんなさい…こんな、騒ぎを起こそうなんて思ってなかったんです…先生が、まだこの国にいらっしゃるって思ったら…ただそれだけで頭が一杯になって…」
「セーラ、俺は…」
海燕の言葉をかき消すように、セーラが口を開いた。
「私が子供で、世間知らずだから…なんですね」
セーラの表情を見て、グスタフが息を呑む。
「『戦争は終わった』……先生のそんな嘘をたやすく信じてしまった私は、生徒失格なんですよね?」
自分の身体が、決してそれを許さないことを承知の上で……どこか哀しい決意を秘めた表情。
「あのあと、私考えたんです……戦争が終わったら、何で先生はこの国をでて行かなきゃいけないのかなって」
「……」
「今度の戦争のために、この国は外国人傭兵を雇いました……でもそれって、この国には、この国を守る十分な軍事力がないって事ですよね」
「……そうだ」
「いざというときに必要だけど、いざというときじゃないときは必要じゃない……だから、いざというときだけ傭兵を雇う」
洗練されてないだけに、それが他人の借り物ではなく、セーラ自身が考えたことがよくわかる言葉。
「でも本当は…いざというときのために、普段からそれに備えなきゃいけないのに……この国は、それができてない。だから、先生は……戦争がおわれば、この国をでて行かなきゃいけない」
最初から十分な軍隊がいれば、この国に海燕が来ることもなかったわけだが……それを指摘するほど海燕は野暮ではなかったし、グスタフはグスタフでセーラの悲壮な決意に言葉を失ってしまっている。
「そこまで考えたとき……」
セーラがちょっと言葉を切った。
「これは…罰なんだと思いました」
「罰?」
「はい……分家とはいえ、この国に少なからず影響力を持つピクシス家の人間でありながら、いろんな事から目を背けて生きてきた私への…」
「セーラ様…」
それまで口をつぐんでいたグスタフが、耐えきれずに声をかけた……が、セーラは大丈夫だと示すようにグスタフにちょっと微笑んでみせ、すぐに視線を元に戻した。
「先生は、私と同じ16歳の時に、どこで、何をしてましたか?」
「……5年前か」
ずっと戦場で人を殺していた……などと答えず、海燕はちょっと考えた。
「北の方の戦場にいた」
「北…シベリア、ですか?」
「いや…」
死神の名を受け継いで……再び傭兵として戦場を渡り歩く生活に復帰した後も、心の中の虚無を隠すため、知らず知らずのうちに饒舌になる自分に負けず劣らず、ピコもまた饒舌だった。
海燕のそれに付き合ったというより、本当に言いたいことが言えなかったが故の……今になって思えば、そんな気がする。
2人の会話は軽く、明るく……しかし、海燕の足は自然と北へと向かった。
多分、穏やかな暖かさというモノを心が拒絶していたのだろう。
シベリアでヨハンを倒したのは、もう少し後のことで……その後、海燕はようやく足を南へ向けることができたのだ。
もちろん、今に至るまでその足が東に向かった事はないのだが。
「……先生」
海燕の沈黙に、何かを感じたのか。
「グスタフが、何も言わなかったということは……多分、子供の私にはわからない他の理由があったんだと思うんです」
「……っ」
身体を固くしたグスタフに向かって、セーラは再び微笑んで首を振ってみせた。
「先生、私はもっと大人になって……その理由を理解して、先生やグスタフの優しさが必要ないと思えるぐらい強くなります」
ちょっと俯き、そして顔を上げ。
「その時はまた…会っていただけますか、先生?」
「わかった、そうしよう」
「……ありがとう、ございます」
そしてセーラは、海燕の姿を見ることなく……自分の家へと戻っていった。
「何やらルークが礼を失したようで、申し訳ありません……丁重に、と念を押したのですが、まだまだ未熟で」
と、海燕に向かって頭を下げた少女……外見的には大人へと脱皮しつつある途中であるが、漂う気配は既に少女とは呼べぬものである。
「私、リンダ・ザクロイドと申します」
何も言わず、ただじっと自分を見つめる海燕に向かって、リンダはちょっと微笑み。
「名乗るのは初めてですが…二度目、ですわね」
「海燕丈だ」
言葉を切り、海燕もまた苦笑めいた笑みを浮かべた。
「その笑みは…覚えていてくださったと判断してよろしいのかしら?」
「1年も経たないのに…別人のようだな」
「学校を卒業するまで、気楽な立場でいたかったのですが……それが許されぬほど、時の流れが速すぎるようですわ」
「……」
「何もしない……それが許されるのは常人のこと。かりそめにも、人の上に立つ者は、誤りを見逃し見過ごせば、それのみで罪悪であると、私は思います」
「ほう」
海燕は、敢えて挑発的な相槌を打ったが……リンダは柔らかく微笑んでそれをかわし、なおかつ、全身に気迫をみなぎらせて海燕の疑問に応えた。
「私、リンダ・ザクロイドには3つの責務があります」
「聞こう」
「1つは、ザクロイド家のために働く人間に対しての責務……これは、あらためて説明するまでもありませんわね」
海燕は微かに頷いて見せた。
「私の祖父が受けた恩義に対しての……今この場で詳しくは申しませんが、ザクロイド家の人間として、為さねばならない責務があります、これが一つ」
「なるほど…」
「最後の1つは……些細なモノですわ」
ここで少し、リンダの表情がかげった。
わずかな沈黙を経てリンダの口からでたそれは、海燕が別の少女……ライズから聞いたのと同じ言葉だった。
「娘である責務」
「……」
「先に述べた2つの責務を果たすためには、心情はどうあれ……私は、父を否定する必要がありました」
「……そうか、決めたのだな」
おそらくは、『気楽な立場』を演じさせていたモノがそれだったのだろう。
そしてそれを…捨てた。
「……娘としての、父に対する感情は私事に過ぎません」
「見事な了見だと言っておこう…」
海燕はちょっと姿勢を正し……あらためて尋ねた。
「だが、俺がここにいる理由はなんだ?」
「オーリマン卿が、一度会っておけと」
「それだけか?」
「それだけ……とは?」
海燕とリンダ、2人の視線が絡み合う。
「そうだな…例えば、そのドアの後ろに控えている人間とどういう関係なのかをはじめとして、色々と不自然にも程がある」
「……ですわね」
微笑みで、海燕の視線を柔らかく受け止めながら。
「とりあえず……ドアの後ろにいるのは、かつて祖父が恩義を受けた方の息子ですわ」
「ほう…」
視線をリンダから外し、ドアの方へ……隠れているのを見破られても、どうやら姿を現すつもりはないらしかった。
ただ、気配を隠す意味を失ったと思ったのだろう、気配そのものは先ほどよりも…
「……?」
ふと、海燕の中で何かがつながった。
理屈ではなく、ドアの向こうから漂ってくる気配に、何かを感じたとしか言いようがない。
セーラを保護し、敢えてここに海燕を呼び寄せたその理由……海燕の思考は収束し、ドアの向こうに向かって呼びかけた。
「……何故、セーラに会ってやらない?」
「……っ」
ドアの向こうで、たじろぐ気配。
「何故、セーラに会ってやらなかった、カルノー・ピクシス」
「……」
「そもそも、セーラが求めているのは俺ではなく、兄の…」
「言うな」
「色々事情があるのは承知だが…」
「黙れ、貴様に何がわかるっ」
「この国に潜入しておきながら、そんなバカな話が…」
「海燕」
冷めた視線と、冷めた口調でリンダ。
「いじめるのはそのぐらいにしてあげなさいな」
海燕をたしなめる……というより、ドアの向こうのカルノーに、冷静さを取り戻させるための助け船だったのだろう。
「カルノー・ピクシスは死んだ…」
ドアの向こうから、低く錆び付いた声が返ってきた。
「僕の名は、カルノー・バリアニコフ……セーラ・ピクシスとは無関係の人間だ」
それをどこか面白がるような表情で聞いていたリンダが、冷めた紅茶を一口飲み。
「その割には、海燕という東洋人をセーラさんに会わせてやりたい……などと、随分と気にかけているようでしたけど」
「……っ」
ドアの向こうの気配が消え、「逃げましたわ」と、リンダがすました顔で呟いた。
「逃がした…の間違いだろう」
「半分だけ正解…ですわね」
そう言ってリンダは、チリンと鈴を鳴らした。
「お呼びになりましたか?」
カルノーが消えたのとは別のドアを開けて、ルークが姿を現した。
「新しいお茶を入れてちょうだい」
「かしこまりました」
新しいお茶…それは、この後も話が続くことを意味しているのだが。
カップとポットを下げたルークが部屋からでていったのを確認してからリンダが呟く。
「あの男の前では、話せないこともありますので」
「カルノーのことか、それともルークのことか?」
「……」
リンダはしばらく海燕の顔を見つめ……ふっと、微笑を浮かべた。
「……もちろん、両方ですわよ?」
「おはようっ、海燕」
「ああ……今朝も元気だな」
「あはは、それだけが取り柄だし」
「そんなことはあるまい」
ハンナは、おやっという表情を浮かべて海燕を見つめ……それを取り繕うように、また笑った。
「どうした?」
「いや…なんというか…今朝は珍しく、会話が続いたなって」
「……そうかもしれんな」
ハンナに迷惑がかからぬように、それと同時にハンナを傷つけぬように……そんな海燕の態度は、ハンナからすればやはり素っ気ないとしか感じられないだろう。
『彼女が私の事をどう思っているかはともかく、ハンナ・ショースキーは、私がただ1人友人と思っている相手です』
昨日、リンダが漏らした言葉が多少なりとも影響していたに違いない……が、それだけが理由というわけでもない。
「……なんだ?」
ハンナがじっと自分を見つめているのに気付いて、海燕は問いかけた。
「あ、いや……やっぱり、違ったかなって」
「……何が?」
「……会話が続いただけってこと」
「……?」
ハンナはちょっと困ったような表情を浮かべていたが……元々辛抱強い性質ではないのだろう、頭の後ろを指でわしゃわしゃっとかき混ぜながら。
「次にまた会話が続くのっていつになるかわからないから言っちゃう。なんかさ、最初にあった頃に海燕から感じた壁と、今感じてる壁が違うの」
「……」
「最初はさ、ものすごく堅そうだけど、中が柔らかそうだったんだよね……それが、3月…じゃないや、2月の終わりぐらいから、ちょっと外が柔らかくなったけど、反対に中がものすごく堅くなったっていうか」
うまく表現できないもどかしさが、ハンナの表情にでている。
「今日は何か会話が続いたからさ……期待したんだけど」
「期待…というと?」
「なんていうかさ……海燕って、ボクのこと避けてるよね?」
「……前にも言ったと思うが」
「ボク、そーいう後ろ向きな考え方、嫌いだよ」
と、言い切ったハンナは、さらに言葉を続けた。
「大体、そーやってボクの立場とか考えてくれるって事は、そもそもボクのことを嫌ってるってわけじゃないんだよね?」
「ああ」
「だったらさ、ボクの思うようにしてくれたっていいじゃん。将来がどうとか、あんまり先のこと考えてるのって辛気くさくない?」
海燕は1つため息をつき。
「ハンナ」
「なに?」
「人間って生き物はな、いとも簡単に天使のようにもなれば、悪魔のようにもなる」
「だからぁ…」
「いざというとき、俺はお前のことを守ってやれない」
「…ぇ」
海燕を見つめるハンナの頬に朱がさした。
「そ、そそそそんなこといきなり言われてもっ」
周りに誰も…少なくとも、会話を聞かれるような事がないことを確認してから。
「真剣に聞いてくれ、ハンナ」
「ボ、ボボボク、真剣だよ。ただ、ちょっと話がいきなりで…」
「そう遠くない将来、この国で、この国の人間はない誰か……もしかしたら、それは外国人傭兵かも知れないが、おそらくは騒ぎを起こす」
「いや、だから……え?」
「この国がどういう方針をとるかまではわからないが、少なくともこの国の人間は、外国人に対して…特に、俺のように一目でよそ者とわかる人間に対して激しく警戒するようになるだろう」
「……」
「そうなると…もう、ちょっとしたきっかけで暴動が起こりかねない」
ハンナは、黙ってじっと海燕を見つめている。
「外国人と親しくしていた、外国人にモノを売っていた……たったそれだけの理由で、それまで誰かを殴った事もないような人間が昂揚の中、人を殺す」
「……」
「理屈じゃないんだ、ハンナ」
「……経験、あるの?」
「ある。何度も見た」
「……」
「俺は傭兵だからな、戦場から戦場へ……いろんな国に立ち寄ったが、人間の本質はそう変わらない。そして、俺はハンナのような少数派の人間に傷ついて欲しくない…そういうことだ」
海燕はちょっと微笑み、ハンナの肩を軽く叩いてから背を向けた。
遠ざかっていく海燕の背中を見つめながら、ハンナはぽつりと呟く。
「だったら……何であの時、キミは命がけで猛獣に立ち向かったのさ…」
ハンナと別れ、訓練所にやってきた海燕に向かって陽気な声が飛んだ。
「よう、海燕。朝っぱらから不景気な面してるじゃないか」
「まあ、誰かさんに1ヶ月連続で酒代を奢らされたりすればな」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ……週に一度は休みにしただろ?」
などと、まじめくさった顔でグレッグ。
ダナン攻防戦で『誰かさんの愛剣』のダメにしてしまった海燕は、約束通りグレッグの酒代を1ヶ月もったのだ。
「それに、今日が最終日だ」
「今日も飲むのか…」
「いや、今日あたり、酒場のジェーンと良い仲になれそうな気がするんだ」
「……挨拶するのがやっとのようだが」
例によって、自分好みの女性にはからっきしのグレッグである。
「ちょっと有名になったからって威張るなよ」
と、海燕に向かって軽くウインク。
「……何かわかったのか?」
「情報提供者ってやつかな……実際に取材したってわけじゃなさそうだ。つーか、情報の裏すらとった気配もない」
「なるほど…」
海燕は首を振った。
律儀に約束を守って酒代をもってやっていることをたてにして、例の、ライナノールとの果たし合いについて記事になった件で、一体どこから情報が漏れたのかをグレッグにそれとなく調べてもらっていたわけだが。
「おい、ちゃんと聞いてたか?」
「何がだ?」
「情報の裏すらとった気配もないって言ったんだぜ、俺は」
「……あ」
自らの不覚を恥じるように、海燕はちょっと俯いた。
「ま、そういうことだ。今夜も忘れずにこいよ」
「……にしても、良くそこまで調べられたな」
「酒は人類の友ってな」
「……なるほど」
グレッグを見送りながら、海燕はあらためて考えた。
ヴァルファの八騎将の生死ともなれば、それはドルファンという国としても見過ごせない情報である。
それを記事にするからには、普通の記事よりも慎重さが求められるにもかかわらず、情報の裏すらとった気配がないというのだ。
それはつまり……情報の確かさ云々ではなく、ドルファンという国に対して気兼ねがいらない情報源であることを意味していると言って良い。
ライナノールを倒した東洋人傭兵……などと名前は伏せていたが、わかる人間にはすぐわかり、記事そのものは好意的。
「さて、何が狙いかな…」
まさか、外国人に対する印象アップ……などという単純な話でもあるまいが。
海燕はライナーノールの死顔を思い出しつつ、唾でも吐きたいような気分になった。
政治というより、権力は何もかもを利用しようとするのは承知だが……何かを汚された、そんな気がしたからだった。
「………っと」
ジョッキをテーブルに置き、口元を拭いながらグレッグが海燕に話しかけた。
「プロキアの動きをどう見る?」
「……そうだな」
海燕は遠くを見るような眼差しでしばらく考え。
「ヘルシオ公は、フィンセン公がダナンに向けて進発した隙をついて武装蜂起した……それについてどんな策をめぐらせたかまではわからないが、イエルグ伯の本拠地に乗り込んでの武力行使については引っかかるモノを感じているんじゃないか?」
「まあ、昔自分が使った手でやられたくはねえだろうしな……おい、もう一杯頼む」
他人の金で飲むのは今日が最後……と言わんばかりに、グレッグは容赦がない。(笑)
「そうして躊躇していると、盟主としての力量そのものを周囲に疑われて…」
「なるほど、第2第3のイエルグ伯がでてくる……か。疑心暗鬼に陥れば陥るほど、動きがとれなくなるってわけだ」
新しいジョッキを受け取ると、グレッグは3分の1ほどを飲みほして海燕を見据えて聞いた。
「お前ならどうする?」
「それは、ヘルシオ公としてか?それともイエルグ伯としてか?」
「イエルグならもう、やるしかないだろう…ヘルシオ公ならって意味だ」
「そうだな、今ひとつ状況をつかみかねるが大きくわけて3つある」
「ほう」
「戦いの準備はするが、動かないこと……俺は、これが上策だと思う」
「ほう、腰抜けと侮られる道を選ぶか」
「ゲルタニアに亡命したフィンセン公とつながっている可能性はあるが、ゲルタニアは今トルキアの内戦に手を突っ込んでいる最中だ」
「ふむ」
「ついでに言うと、シンラギは空手形で働くほど甘くない」
グレッグはジョッキを傾け……納得したように頷いた。
「なるほど、南東部域だけで孤立したイエルグ家は補給が続かない、か」
「第2第3のイエルグ家と手を結ばせないのが重要だが、つぶせるモノは速戦で潰し……少し長引くかも知れないが、後々の統治を考えれば、一番これがよい気がする」
少し寒いモノを感じながら、海燕は言葉を足した。
「幸い、ドルファンをはじめ、ゲルタニアやらトルキアやら、プロキアの内乱に乗じた動きのできそうな隣国は1つもない……」
「ふうむ…」
「ただ、俺がこれを上策とするのは、イエルグ伯の不穏な動きそのものが何らかの計画の一部であると思っているからだ……とは断っておく」
「計画というと?」
「プロキアとドルファンの間で速やかに休戦協定を結ぼうという矢先に、両者の国境地域が不穏な動きを示す……少なくとも、ヴァルファがこの企てに一枚かんでいることだけは間違いない」
「ふうん…状況そのものが与えられたモノなら、最善の策は最悪の策に変じる、か」
「次善の策は、速やかに軍を進めてこれを討つ……だろう」
「勝てるならな」
「勝てないようなら、そもそも盟主の座に納まっているのが間違いだ。背後で策をめぐらされても、イエルグ家の本拠を叩きつぶす……そこまで腹を据えられるなら、だが」
「言えてる」
おかしそうにグレッグが笑い、ジョッキの残りを飲みほした。
「おーい、もう一杯」
「……今日は休みじゃないのか?」
グレッグのお目当てはジェーンなのだろうが、そもそも姿が見えない。
「で、もう一つの策は?」
聞きたくないのか、聞こえなかったのかグレッグが話を戻す。
「……多分、ヘルシオ公はこの策をとるんだろうな」
海燕はそう前置きして。
「ヴァルファを雇う」
「……」
グレッグは石でも呑みこんだような表情をして、海燕を見つめた。
「ヴァルファの手を借りれば、本拠地を無防備にすることなくイエルグ家と対峙することができる……追いつめられた人間には魅力的に映るだろうな、この策は」
「なのに、下策か…?」
「ドルファンがダナンを奪い返したんじゃない、ヴァルファが一旦ダナンを捨て、ドルファンがそれを拾った……といっても、ベルシス卿がピクシス家打倒を叫んで引っ込んだからな、本質的には何も変わっていない。なのに、ヴァルファはプロキア領内へと姿を消した」
「……そいつは」
「今になって思えば、ダナンに駐留してからというもの、イリハ会戦をのぞいてヴァルファはプロキアの兵力を削ぐことに力を傾けてきたような気がする……まあ、フィンセン公との契約は無効などと言い立てたヘルシオ公への意趣返しともとれなくないが」
「ちょ、ちょっと待ってくれ…混乱してきた」
「……ヴァルファの狙いはあくまでもドルファンだ。それを念頭に置いて、整理していけばいい」
「整理しろと言われてもな…」
グレッグは感心したように呟いた。
「たいしたもんだ」
「シンラギも、このぐらいは読むさ」
グレッグの無言の問いかけに気付いて海燕は短く言葉を足した。
「シンラギを率いるグエンは切れる男だ」
「知り合いか?」
「戦場で2度ほど、同じ陣営で戦った」
「……」
「なんだ?」
「同じ陣営で戦ったからといって、シンラギの将軍が傭兵と顔見知りになるとは思えなくてな」
シンラギはかなり閉鎖的な集団として知られているため、グレッグの疑問はもっともなのだが……何も応えずグラスを傾けた海燕に何かを感じたのか、グレッグはそれ以上問おうとはしなかった。
乾期に入ったドルファンでは珍しく、その日は朝から雨で……真面目に訓練所にやってきた傭兵は数えるほど。
ライズという熱心な生徒を失ったこともあり、こんな日は他人の指導にそれほど時間をとられることもない。
「お、おい…きてみろよ、すごいぜ」
傭兵連中が小声で仲間を呼び……物音を立てぬように、そっとそちらを指さす。
訓練所の片隅に立つ樹の下……そこに、海燕はいた。
落ちてきた雨垂れが、膝立ちの姿勢で目をつぶった海燕の周囲で、ぽっ、ぱっ、と音を立てて弾け飛ぶ。
「……?」
「木剣で斬ってんだよ……多分」
「そ、そうか…良かったぜ、俺だけが見えないわけじゃなくて」
「雨粒が弾け飛ぶ音がここまで聞こえてくるぐらいだからな…」
などと、海燕の邪魔をしないように密やかに囁き会う傭兵達だったが……その心遣いはほぼ無意味だった。
雨垂れはいつ落ちてくるかわからないし、ましてや海燕は目をつぶっている。
それを完全に把握できる状態の海燕にとって、周囲の気配を知ることはたやすい。
幼少時から養父に厳しく鍛えられた事、子供の頃から命を狙われ続けた事、国をでて己以外の気配に神経をとがらせる日々を送ったこと、言葉もわからぬ大陸に渡って生き延びるために全身全霊で周囲の機微を探り続ける必要に迫られたこと……ピコに頼ることを覚えて鈍磨していたスキルをようやく取り戻したのだが。
ぽっ、ぱっ、ぱぁんっ。
己の身体に触れる前に弾け飛ぶ水滴……それは、頑なに他人を拒むイメージと重なる。
本来なら、己に向けられる敵意だけ感知すればいいだけのことである。それを極限まで研ぎ澄ませたところで、日常生活の破綻という結果が残るのは明白であるが、海燕は敢えてそれを選んだ。
「……」
海燕は薄く目を開けた……が、姿勢はそのままだ。
右と左。複数。
ぴしっ、ぴぴっ、ぴしぃっ。
自分に向かって放たれた4本の矢を、海燕は全て叩き落とした。
気配が遠ざかっていたのを感じ取り、再び海燕は目を閉じた……今自分が命を狙われたことなど気にもならない。
そう、かつてはそれが当たり前のことだったから。
とはいえ、海燕のそれを見ていた傭兵連中が騒ぎはじめたのはむしろ当然で。(笑)
身体が濡れることも厭わず海燕のそばへと駆け寄った数人、矢の飛んできた方角に見当をつけ走り出したのも数人。
もちろん、海燕本人は気配が遠く離れていったことを悟っており、傭兵連中に敢えて騒がないように頼み、犯人探しは取りやめになった。
しかしこの出来事は、傭兵達の数人の心に騎士連中に対する疑念を蒔いたのだった。
6月下旬、プロキア南東部域……イエルグ伯本拠地であるハーベンにおいて、支持者とともに武装蜂起し、独立を宣言した。
ヘルシオ公は当然これを認めず、武力による制圧を発表。イエルグ伯は『戦場にてまみえん』と応戦の構え。
これに連動してダナンにも何か動きが……とドルファンは注目したが、ダナンは不気味に沈黙を保っている。
そして7月……ヘルシオ公は軍を発し、プロキア南東部の入り口にあたるグローニュにてイエルグ伯と軍と対峙したのが11日のこと。
初戦においてシンラギ軍の巧みな用兵によってイエルグ軍は優勢となり、ヘルシオ公は一旦南東部域から交代を余儀なくされ、プロキアの内乱が長引く事を周辺国に認知させる結果となった。
イエルグ伯とヘルシオ公の軍がまさに戦っていた最中……7月12日。
ザクロイド財閥当主の息女である、リンダ・ザクロイドの誕生パーティが催され、招待状を送られた海燕はそれを受けた。
もちろん、会場の片隅で影のようにたたずみ……彼女を待っていただけだが。
「……待たせたわね」
「気にするな、時間がないのはわかっているから本題だけ話せ」
「……国王には双子の兄がいたことはご存じ?」
「知っている。謀略に破れて国を追われたことまで」
「なら、話は早い…と言いたいところですが」
リンダはすくい上げるような視線で海燕を見つめた。
「貴方も、国王の兄であるデュノス・ドルファンが玉座に座ることが自然だったと思っているのかしら?」
「文武に優れ、決断力もある聡明な皇子だったという話だが?」
海燕の返答に、リンダは薄く笑った。
「軍人の視点ですわね」
「と、いうと?」
「商人とまでは言わずとも、経済面に関して言うなら兄ではなく、弟が国王の地位に相応しかった…ともいえますのよ?」
「……」
「前国王は、粗暴とまでは言いませんが武の人でした。20年あまりも周辺国との戦いに明け暮れた結果、陸戦の雄などという大層な異名は戴きはしたものの…」
敢えて言葉尻を捨て、リンダが眉をひそめた。
「……言われてみると」
海燕は考えをたどるように呟く。
「この国は、それほど豊かではないな」
「私に言わせれば、戦争とは壮大なる消費の塊に過ぎません。それほど豊かでもないこの国がまがりなりにも戦いを続けることができたのは、勝ちを重ね、賠償金や人質に対する身代金を得ることに成功し続けた結果でしょう」
リンダの言はなおも続く。
「そして、戦争によって得た収入のほとんどは戦争を継続するための物資を確保するために消費され続け……それが20年あまりも続くと、どうなると思います?」
「……今ひとつピンとこないが、戦争が起こると物価が上がるな?」
「ええ、ただそれは戦争のために物資が集められた結果、供給される物資が少なくなるためです」
「……そうか、わかった。勝ち続けることによって、この国は分を越えて金を大量に得すぎた……そういうことだな」
リンダが首肯した。
「戦争に特化した経済バランスの歪さはもちろん、パンパンに膨れあがった風船のようなモノだったでしょうね」
「それはつまり…」
海燕がリンダの目を見つめて言った。
「戦争状態を終結させるために、凡庸な王を必要とし…?」
海燕の視線が微かに泳いだ。
「お気づきになりました?」
海燕をして、口にするのをはばかった言葉。
それを、わずか17歳の少女は平然と言い放った。
「おそらく前国王は殺された……証拠はありませんが、私、今回の騒動はそれが原因だと思ってますわ」
リンダ、海燕共にまだ話したい事はあったが、時間がそれを許さず……居残って次のチャンスを待ち続けるのも不自然な気がして、海燕は一言断ってからパーティ会場を後にした。
夕暮れのドルファン港…。
水面は金色に輝き、吹き抜ける乾いた風にのって海鳥が鳴いていた。
どのぐらい風に吹かれていただろうか、たそがれていく空を見ていてふと『逢魔が時』という言葉が海燕の頭をよぎった。
「……っ!」
振り向くと同時に、海燕は走り出していた。
極限まで感覚を研ぎ澄ませようと思った理由が、これだった。
『人ではない気配』を感じ取るため。
追い始めてすぐに、それがピコではないことに気付いたが、海燕は追うのをやめなかった。
ピコが姿を消してから4ヶ月あまり、ようやくにして手がかりらしきモノに巡り会ったのである。止められるはずがなかった。
その気配は、倉庫街へ……人のいない方、いない方に向かっていき、微かに『誘われている』という警戒心を呼び覚ましたが、海燕は気にしなかった。
ついにその姿を視界に捕らえた……人の姿をしていながら、気配は人にあらず。
5メートル、2メートル、1メートル…。
手首を掴み、引き寄せる。
「きゃっ」
海燕の胸に倒れ込み、少女の姿をした人にあらざるモノは動きを止めた。
荒い呼吸にウエーブがかった髪を揺らしつづけていたが……やがて、顔を上げ、脅えた瞳が海燕に向けられた。
その瞳は、深い、海の色をしていた……。
続く。
さあ、アンの登場だっ。
といっても、実にオーソドックスな登場ですね。
しかも、リンダの誕生パーティイベントがきっかけですし、ここまで原作通りなのは高任的に珍しいです。
などという、戯れ言はおいといて。(笑)
今回ちょぉっと苦労しました。
もちろん、前回予定とは違うところできっちゃったからです。
本当なら、今回ティーナがらみでソフィアが再登場するはずでしたし、ジーンも顔を見せるはずでした……まあ、ある意味アリスにとっては幸運だったのかも知れませんが。(笑)
みつめてナイトというゲームの世界観に、経済という視点を持ち込んだ人間はあんまりいないような気がするので、従来の『兄>弟』を反転させ『弟>兄』という論理は目新しさをもって受け止めてもらえるんじゃないか……などと。
つーか、リンダに語らせたように小国が『陸戦の雄』などという異名を得ることなんて、戦争経済的に無理がないかなあ……などと考えてしまったり。
多分、前国王に至るまで国庫を豊かにし続けたんだろう……そっか、前国王は煬帝(中国、隋王朝を滅ぼした張本人)みたいな感じだったんだね。(笑)
……とかやってると、時間食うったらありゃしない。
例によってドルファンの外での出来事も絡めてシナリオを構築してるので、原作によって与えられた材料に対してかなり忠実な物語のはずなのです。(笑)
現時点で、リンダの推測である『前国王が殺された』の是非についてはノーコメントです。
ただ、補足させてもらうならば。
13歳…デュノス、王位継承権を失う。
20歳…デュノス、政争の末国外追放へ。
22歳…デュラン、新国王。(新しく国王となった翌年を元年と定める方式ならば)
20歳の頃に前国王の健康が衰えており、デュノスが王位を目指した上での政争ならばその翌年なり、翌々年に前国王死去という流れで問題なさそうですが。
王位を目指すためには、デュノスは王位継承権を取り戻す必要があります。おそらくこの時点で王室会議においてピクシス家はベルシス家の上位にあるため、働きかける相手は父親である国王でなければいけません。(ピクシス家を孤立させる手もありますが、状況的にやや非現実)
これが健康を損ねた状態の国王だった場合……発言力の低下は否めないでしょう。
ここで重要になってくるのはドルファン史上唯一の聖騎士であるラージン・エリータスが、この頃どの程度の地位にいたか?
かなりうがった見方になりますが、エリータス家はデュノス、もしくはピクシス家を助ける立場をとり……それが、聖騎士の称号を与えられる流れを作った…なんて可能性もあるわけで。
まあ、例によってああでもない、こうでもない、と可能性を1つ1つ確かめていくと……さて、どうなるんでしょう。(笑)
セーラ。
庭に咲くヒマワリに笑われないセーラであって欲しいという高任の願望がもろに。(笑)
少なくとも、高任の書くSSで『どうせ私は死ぬのよ』などとヒステリックに叫ぶ眼鏡娘はありえません。あったとしたら、多分それは高任がその伽羅を嫌いなだけです。(笑)
で、ライナノール。
以前書いたSSと同じく、左手に持った剣で相手の攻撃を防御し、右手に持った剣で激しく攻撃…などとさらりと書くのも芸がない。
何故二刀流……つーか、二剣を使うようになったか。
片目を失っている(多分公式設定)わけだから……ふむ、距離感を補うためにやむを得ずそうなった……みたいな設定にした方がキャラに深みが出るかな、などと、シナリオだけじゃなくこういうことまで凝ったら……もう、楽しいけど地獄ですよね。
なんか、1年1話などという悠長な感じになってきましたが、書いてて苦しいけど楽しいので、絶対最後まで書きます。
時間ができればペースも上がると思いますので、のんびり待ってくれたら幸いです。
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