温暖な気候に恵まれたドルファンだけに、春の訪れはそれほど急激ではなく……ふとした拍子に、ああ、春が来たな……と、感じさせる程度の、穏やかな歩みを見せる。
それとは別に、時の流れは激しく……2月末から、3月上旬にかけてドルファンおよび、トルキア半島地方ではかなり情勢が揺れ動いたと言えるだろう。
まず一番大きな動きとしては、ヴァン・トルキアの内戦において、アレイス派の拠点であるハーベルンがゲルタニア軍の働きによって陥落し、シベリア軍の一部が撤退……これで、内戦に一区切りついたと考えたのか、クルニガム家の当主である、エラン・クルニガム4世の戴冠式が略式で行われた。
もちろん、アレイス派がそれに出席することもなく……半ばゲリラ化した抵抗が各地で続いているという状況で、ゲルタニア軍の駐留は今も続いている。
この内戦による働きで、領土の一部を割譲(南東部ベスタの一部)されることになったゲルタニアだが、この報酬が多いか少ないかを判断するのはまだ早いと言わざるを得ない。
それに比べれば、ドルファンにおける出来事はあくまでもちょっとした程度の事に過ぎない。
騎士団の兵舎に軍部の監察班が入り、騎士数名が逮捕されただけでなく、ドルファン港の第2埠頭から国外逃亡を企てようとしていた連中を一網打尽に……合わせて数十名が絞首刑に処せられたことなど、死んだ人間の数という観点から見れば、取るに足らないことと言っていいだろう。
ただ、彼らの罪状は密輸取引などとされ……罪状に対する刑が苛烈で、加えて執行を急ぎすぎではないか、と一部の人間の眉をひそめさせたあたりにどうしようもないきな臭さを感じさせはしたが。
その直後に、ドルファン王室会議はダナン第二次派兵を決議……時期は最速のケースで4月下旬、全軍投入を辞さない規模で行うと発表された。
そして、それが発表された頃……大人2人が手を回せば何とか抱えられる程度の、おそらくは100年以上時をかけて成長してきた樹を前に、海燕は刀を構えて立っていた。
手入れのためには別にして、およそ6年ぶりに手にしたそれは、やはりイヤになるほど手に馴染んでいて。
ピコがいなくなって約1ヶ月……10年あまりもの間、知らず知らずのうちにピコに頼ることで甘くなったモノを取り戻すため、訓練を休んで山に向かったわけだが。
食も水も断って、まずは2日ほど山の中を駆け回った……もちろん、睡眠も無し。
3日目の朝に少し水を飲み、鳥を殺して食べ、それから同じように3日ほど山の中を駆け回る……それは、別に戦場なら何も特別なことではない。
水を飲み、ウサギを殺し……睡眠をとり、刀を構えてこの樹の前に立ったのが昨日の夜のこと。
一度は消えた鳥や動物が、朝の訪れと共に戻り……それとは別に、離れた場所からこちらを窺っているらしい2人の気配に気付いた瞬間、海燕は刀を鞘に収めた。
チン。
その澄んだ音に遅れ……何が軋むような音と、葉鳴りの音が騒がしくなる。
海燕の目の前で、ゆっくりと……両断された樹が倒れ、地響きがそれに続いた。
鳥の羽音、小動物が移動する草葉の囁き……それらが完全に静まってから、海燕はゆっくりと後ろを振り返る。
「……こんなところまで、何の用だグレッグ」
「いや、様子を見に来たというか…」
グレッグが、ニヤニヤと笑いながら背後の少女に視線を向けた。
「ついてきてくれるように、私が頼んだの」
「子供じゃあるまいし、1人で来ればいいだろう」
「最初はそのつもりだったわ」
海燕に視線を向けず、両断された樹の幹を見つめながらライズが言葉を続けた。
「2人きりで会うと殺される……そんな気がしただけ」
「殺したな、不用意に近づけば…だが」
ちらりと海燕を見て、ライズがため息をついた。
強弱はあったモノの、初めて会ったときから海燕に向けられていた殺気が今は綺麗に消えて……もしくは完璧に隠されていて。
「剣で樹を倒せたからどうだ……とは言えないわね。こんなモノを見せられると」
「別に、樹を倒すこと自体は何の意味もない」
「そりゃそうだ、斧を使えば誰だって倒せるしな」
と、グレッグが笑ったが、ちらりとライズに視線を向けて。
「……と、割り切れるほど年を食っちゃいねえか、このねーちゃんは」
そんなグレッグの呟きを聞いているのかいないのか、ライズがすぐ側の樹木の前で腰を落とす。
ガッ。
直径50センチほどの幹の半ばで、ライズの剣はくい止められていた。
剣から手を放し、海燕が両断した樹を振り返って……ライズはため息混じりに呟く。
「生きていくのがイヤになりそうな差ね…」
「樹を樹として斬るなら、剣の質、力、速さ、角度、タイミングだけの問題だからな……そういう意味では、俺とお前の間にそれほど大きな違いはない」
「……慰めは不要よ」
「俺は樹を斬ったんじゃない、戦っただけだ……時間をかけてな」
「……東洋の思想?」
「さあな……俺がそう思っているだけで、俺にそれを見せてくれた人間は、別のことを伝えたかったのかもしれん」
国を出ようとする直前に、養父は海燕の見ている前で……もちろん樹の太さは今海燕が倒したものよりずっと細かったが、剣や刀ではなく、木刀でそれをやった。
そして、ただ見せただけで、海燕には何も言わなかった……養父が伝えようとした何かを、自分がちゃんと理解したとは到底思えない。
「……」
ライズはしばらく海燕を見つめ……何も言わず、幹に刺さったままの剣を苦労しつつ引き抜いた。
「で、何の用だ?」
「……1週間姿を消す。その影響を本人が理解しているかどうか不安だったから」
相変わらずニヤニヤと笑っているグレッグに視線を向け、海燕は聞いた。
「何かあったのか?」
「いや、俺には何のことだか」
にやにやにや。
「……?」
「多分、このねーちゃんとアンタにしかわからない話じゃねえのか?」
にやにやにや。
「……?」
「と、いうわけで、後は若い2人に任せた」
などと言い残し、グレッグがその場を去ってしまう……もちろん、本当に帰ってしまうわけではなく、その場からいなくなったというだけであろうが。
「……で、何があった、ライズ」
「とりあえずは、王室会議でダナン第二次派兵が決議された事かしら……全軍投入を辞さない覚悟らしいけど、1ヶ月以上も先の話ね」
「ただの威嚇だろう……まともに戦争をやりあおうとまで腹を据えられる連中が、下はともかく上にはほとんどいない」
「なるほど……なめられたモノね」
呆れたように、ライズが呟く。
「で、とりあえずじゃない話はなんだ?」
「ドルファン王家の……まあ、早い話プリシラ王女が、貴方の居場所を探そうと躍起になってるみたいね……そのせいで、色々と」
「俺は、別に隠れていたわけじゃないんだが」
そもそも、傭兵仲間の数人に『1週間ほど山にこもる』と伝えていた海燕だけに、困惑するのは当然で。
「さあ…本気で無能なのか、貴方をダシに使おうとしてるのかはわからないけど、そういう動きがあるって事を知らずに戻ってくるのも…」
どこか探るようなライズの視線を、海燕は軽く受け流し。
「それはそれとして、ライズ」
「なに?」
「次の戦いで、死んでおけ」
海燕の言葉にライズは少し微笑んだ。
「……そうね、言われなくてもそのつもりだったけど」
「言われなくても……と言っても、協力者がいないと難しい事になると思うが」
ライズが微笑みを消して、海燕を見つめる。
「……何故?」
「今度の戦いで、傭兵部隊はほとんど戦闘に加わることが出来ないはずだ……というか、そうなるだろ?」
「……」
「ドルファンの狙い通り、ヴァルファは小部隊を残して……そうだな、プロキア南部あたりに逃げ込む予定だろう」
パズルのピースはまだ全部集まらない……が、集まらないなら集まらないなりに見えてくるモノはあった。
ミハエル・ゼールビス神父もそうだが、わざわざ別の名前を用いて傭兵として志願したライズもまた別の意味で……ピコと2人、首をひねった入国管理の甘さがどこからくるのか。
入国管理の責任者はメッセニ中佐……与えられた仕事はきちんとやり遂げる、軍人として信頼できるタイプという海燕の判断に誤りがなければ……導かれる答えは限られてくる。
つまり……この国の入国管理の甘さは、意図的なモノなのだ。
「……」
「抜いたら死ぬぞ」
おそらくは無意識に剣に伸ばしていた手を止め、ライズは表情を強ばらせた……額に汗を滲ませて。
「ちょっと事情があってな……今の俺はあまり余裕がない。ついでに言うと、今俺が持っているのは、手に馴染みすぎた刀だ。意志より先に動く」
海燕の言葉の正しさを認めたというよりもただ威圧され、ライズはゆっくりと後ろに下がった。
「何が……あったの?」
どうしようもなく掠れた声で、ライズが尋ねた。
「別に……『死神』と呼ばれていた頃よりもっと前のことを思い出しただけだ」
それは、国を捨ててから、ピコと出会うまでの……どうしようもなく、一人きりだった頃の事。
気配には気付いていたが、海燕は構わずドアを開けた。
「きゃっ…」
可愛い声をあげ、少女がよろめく。
輝くブロンドに、赤いリボンが1つ2つ3つ……。
「何の用だ、ティーナ」
「え?」
ティーナと呼ばれた少女が、ちょっとびっくりしたように海燕を見た。
「何故?」
「あの場で、ティーナと呼ばれていた……だから、そう呼んだだけだが」
「……いえ、そうじゃなくて」
少女は少し複雑な表情で言葉を続けた。
「何故、何のためらいもなく、私をそう呼べるの?」
「大抵の人間は一人一人気配が違うからな」
「それはつまり…」
海燕の表情を探るように一旦言葉を切り。
「あの場で…私がプリシラ王女と呼ばれてたなら、今ここでそう呼んだと言うこと?」
「俺は、名前にそれほど意味は求めん」
「貴方の名前……偽名なの?」
「10年以上前から同じ名前を名乗っている……そっちがどう思おうが勝手だが、俺にはそういう認識はないな」
「……そっか」
ぽつりと。
「……なるほどね」
どこか自分自身を突き放すように。
「それで、何の用だ?」
「可愛い女の子が訪ねてきたんだから、もう少し愛想良くできない?」
「……」
「ごめん、もういい」
「別に、可愛い、という部分を否定したつもりはないが」
「あー、はいはい。用件だけ告げてとっとと帰ります」
今さら何よ……という感じで、ぷいっとそっぽを向く仕草に、ふわりと浮かんだティーナの素顔をかいま見たような気がした。
「第二次ダナン派兵において、外国人傭兵部隊は騎士大隊の一部として組み込まれる方がいいか、それとも独立部隊として編成される方がいいか……返事は今すぐここで」
「ふむ……10分ほど時間をくれ」
「別に、待つことには慣れてるから」
傭兵部隊のみで独立編成されること、騎士大隊の一部に組み込まれること……そのどちらにもメリットとデメリットが存在する。
もちろん、短期的に動きやすいのは独立編成されることだが……。
海燕はちらりとティーナに視線を向け。
「ここでの返事が、きちんと反映されるのか?」
「メッセンジャーに、多くは期待しないで欲しいわ」
と、何故かティーナが胸を張る。
「それもそうだな…」
海燕は沈思し……『いい加減決めてよ』と口を開きかけたティーナを制するように立ち上がった。
「騎士大隊に組み込んでくれ、と伝えてくれるか」
「……理由は?」
「それも聞いてこいと言われてるのか?」
「いいえ、純粋な好奇心」
「なら、答える必要はないな」
「あっそう…」
不機嫌そうに呟いたティーナがドアへと向かい……くるりと振り返った。
「多分、もう会わないと思うから言っておくけど……プリシラ様の事、あまり信用しない方がいいわよ」
「……もう、会わないとは?」
「え、そっちを聞くの?」
そう呟いたティーナの表情は、どことなく嬉しそうで。
「この3月いっぱいで、私、プリシラ様付きのメイドじゃなくなるから」
「……」
「……何よ?」
「いや、もしティーナの方からやめたいと言い出したなら……身の回りに注意した方がいいな」
意味が理解できなかったのか、ティーナがきょとんとした表情を浮かべた。
「人の上に立つ人種は、往々にして懐疑心が強い」
「……元々、この3月までって約束だったからよ」
「しかも、プリシラ姫と容姿が似ている……か。いろんな意味で狙われそうだ」
「ちょっと。人を不安にさせて楽しい?」
くわっと、ティーナが白い歯を見せて怒る。
「経験に基づく一般論を述べただけだが」
「傭兵なんかやってるくせに、そういう話に詳しいみたいな態度ね」
「便利な使い捨ての道具だからな……普通に生きるよりも、生臭い話には詳しくなる」
きゅっと、ティーナの口元に強い線が浮かんだのは一瞬で……どこか寂しげな目でぽつりと呟いた。
「道具……ね」
「……」
数秒ほどの沈黙を経て、ふっとティーナが顔を上げた。
「ティーナ・ステラ」
「……」
「名前よ、私の名前」
どこか自嘲的な微笑みで、言葉を続ける。
「貴方と同じで、元々の名前ってわけじゃないけど」
「そうか」
「……運が良ければ、オーリマン卿の屋敷で会えるかもね」
「ほう、オーリマン卿がプリシラ姫の側に人を置いていたのか」
「そういうわけじゃっ…と」
ティーナは自分の胸に手をあて、気を落ち着かせるように深呼吸した。
「オーリマン卿はそういうつもりだったかもしれないわね」
「すまないな……傷つけるつもりはなかった」
「遅いわよ」
ティーナは苦笑を浮かべ……『じゃあね、海燕』と言い残して背中を向ける。
「ちょっと待て」
「な、なに?」
口調だけは戸惑ったように、しかし振り返った動きはそれを予想していたようで。
「鍵は?」
海燕の質問に、ティーナがため息をつく。
「ヘアピンで」
「そうか」
「せっ、はっ、はぁぁっ!」
ライズのかけ声に合わせて、剣が空を切る。
突きから薙ぎへ、そこから切り返し……のところで、身体の動きと腕の動きに齟齬が生まれた。
ギィンッ。
「あっ」
一瞬、ライズの目が弾かれた剣を追い……首筋に触れた剣の感触で我に返り、羞恥か屈辱か、顔を赤らめてうなだれた。
「武器を手放すな…は大原則だが、それを失った瞬間に、意識を切り替えろ」
「わかったわ…」
訓練所において……ライズがやってくるのは決まって夕方からだが(笑)、ちょうど他の傭兵も帰り始める時間なので、海燕の指導を受けられる時間は長い。
もちろん、その代わりに海燕は朝から夜までほとんど休憩無しのハードスケジュールになるわけだが、むしろ本人がそれを望んでいるため、お互いの利害が一致したスケジュールとも言える。
「もう一度…お願い」
「熱心だな…」
ふっと、ライズの口元に笑みが浮かぶ。
「傭兵が強さを求めてはおかしい?」
「いや、強くなければ死ぬだけだからな、この稼業は…」
「そうね……敗北は死を意味するわ」
「まあ、強さにも色々あるんだがな…」
剣を拾ったライズが構えをとる。
海燕自身も他人のことは言えないが、それはおよそ傭兵らしくない構えで、そこから繰り出される技もかなり洗練された……死線をくぐり抜けることで、個性と言うよりはどこかいびつに歪んだ何かを感じさせるモノが多い傭兵の技とは一線を画したモノだ。
どちらがいい悪いの問題ではなく、結局は自分に合っているかどうか……だが、やはりライズの剣と、そこから繰り出される技は、海燕の目から見て使い慣れたモノとは思えなかった。
無意識に隠しているのか、それとも隠さざるを得ないのか、はたまた違う剣を身につけたいと思っているのか……まではわからないが。
「はっ」
ライズの動きに合わせて、それまでかわす事が多かった海燕が一転して自分の剣を力任せに叩き付けた。
「うくっ」
剣を受け流しかねて、ライズの体勢が乱れる……もちろん、首筋にひやりとした感触だけを与えて、既に海燕は剣をひいていて。
「散漫な打ち込みは、逆をとられるぞ……力じゃなく、速度で圧倒しろ」
「はい」
こうして海燕に指導されているときのライズは……本来の2人の立場を思えば、驚くほど素直だった。
それが演技なのか、それとも傭兵として強さに敬意を払っているのか……海燕はその事について、深く考えることを放棄している。
わかるときにはわかる……どのみち、ライズが自分の命を狙いに来るなら、正々堂々と果たし合いを望んでくるだろうと見切ってもいたからだが。
「よお、仲がよいな、お2人さん」
「そう見えるか?」
「せっ」
グレッグに視線を向けた動きを隙と見たのか、ライズの剣が糸を引いて海燕の胸部…胸当てを着用した部分ではあるが…を襲う。
ガランガランッ…。
「……っ?」
「ほう、お見事」
何故自分の剣が地面を転がっているのか理解できていないライズに対して、グレッグは口笛でも吹きそうな表情だ……海燕が、何をやったかをきちんと理解したからだろう。
「しばらく、休憩だ」
「……はい」
頷きつつ、ライズの目はじっと転がった剣を見つめていて。
「やるか、グレッグ?」
「勘弁してくれ…」
と、グレッグは肩をすくめた。
「まあ、そこのお嬢さんに負けるつもりはないが…な」
「と、すると……何の用だ?」
「いや、なに……傭兵部隊が騎士大隊の一部に組み込まれることが決まったらしくてな、便宜上隊の指揮を誰がとるか…あたりを、相談に」
「ジェフでいいだろう」
「俺も同感だが、ジェフが嫌がってる」
「じゃあ、グレッグで」
「ジェフもそう言ったが、生憎とグレッグも嫌がってる」
などと、グレッグが他人事のように首を振る。
「何故?」
「……騎士が3人ほど、お目付役として部隊に加わるそうでな。こう見えても俺は気が短い方でな、ついうっかり3人とも斬り捨てるかもしれん」
「埋める場所に気をつければ、問題ないだろう」
「おいおい…」
グレッグが苦笑して。
「わかった、俺がやろう……そのかわり、アンタはジェフと一緒に俺の補佐ってことでいいな?多分、そっちの方がお目付役相手に難儀することが多いと思うが」
「わかった…」
嵌められたのかな……という思いを隠さずに、海燕が苦笑した。
どのみち、寄せ集めの傭兵部隊の、隊長、副隊長などの並びは、便宜的なモノでしかない。
己だけをひたすら信じる者、経験をもとに誰に従う方がよいか判断する者……その場その場で、変化するから命令系統もへったくれもない。
海燕にしろ、自分の上の人間の判断が誤っていると判断し、このままでは自分の身が危ないと思えば、平然と命令を無視するだろう。
そして結局……愚直なまでに命令を守ることが出来る人間しか、軍隊には向かない。
チェスのコマが思い思いに動き始めたら、指揮官は何も出来ない……傭兵を、騎士に取り立てるなどという事を言い出す輩には、『優れた傭兵のほとんどが、軍人としては落ちこぼれである』という事がわかっていないのだ。
もちろん……優れた傭兵が、意思の統一された軍隊の指揮を執るというならまた話は変わってくるが。
「……話は終わった?」
終わったなら、もう一度……と剣を構えるライズにグレッグは苦笑を浮かべ、海燕に向かって片目をつぶって見せた。
「えらい女につかまったな、アンタも…」
「少なくとも、教え甲斐はある」
「ははっ、そういう意味じゃないんだがな……」
グレッグが背を向けると同時に、ライズが斬り込んでくる……のを、そのまますかして、海燕が少し距離をとった。
「……?」
「戦いも近いし、ちょっとした経験をさせてやろう」
海燕の剣がゆっくりとあがって……突如、ライズは全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
「ふ、くっ…」
「下がるな」
「……っ」
海燕がじりじりと距離を詰めるにしたがって、ライズの全身は汗に濡れた。
圧力はどんどんと高まり、神経が悲鳴を上げる……が、動いた瞬間に死ぬという確信めいた想いが、かろうじてライズの足をその場につなぎ止めていて。
「そのままだ、ライズ…」
目の前を、皮一枚の差で剣先が振り下ろされ……ライズは、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「はぁ、はっ…はっ…」
虚勢を張る余裕もなく、ライズが大きく肩で息をする。
「……腕は立つが、まだ本格的な戦場を経験したことはないだろう」
「……?」
「いざという時、今の経験が役に立つ……多分な」
「……1つ…聞いて…いいかしら?」
「……なんだ?」
「3月…いえ、2月の中旬に何があったの?」
「……」
「……以前より、人当たりは良くなったように思えるけど……貴方は…あの頃から、誰も信じていないように思える…」
「……」
大きく息をはき、ライズが立ち上がった。
「別に、気になっただけ……答える必要はないわ」
立ち去ったと思わせて、そのまま物陰に潜んでいたグレッグは小さく笑い……ぽつりと、呟いた。
「……女の方も、自覚はなさそうだな」
「王室会議は、我々のことを見くびっているのかっ!」
拳を叩き付けられたテーブルが悲鳴を上げた。
男の名は、カール・フェルドマン……騎士団第5大隊所属の中隊長を務め、黒騎士の称号を持つ猛者として有名である。
2メートル近い全身には隆々とした筋肉をまとっており、腕の立つ鍛冶屋に特別にあつらえさせた両手持ちの長剣は、刃物と言うより普通の剣の倍ほどもある重量に任せて敵をなぎ倒す、もしくは叩ききるための武器だが……それがカールの筋力と合わさると、恐るべき暴風を発生させる。
大抵の相手は、武器を破壊され、鎧を破壊され、そして身体を破壊されて命を落とす……。
彼を激昂させているのは、つい先日王室会議から為された提案……騎士団の編成変更案の項目にあった、銃兵団の新設という項目である。
「我ら、陸軍の雄と言われたドルファン騎士団に、銃兵隊などといった、軟弱な部隊など必要あるモノかっ」
今は亡き聖騎士、ラージン・エリータスの戦場での逸話をおとぎ話のかわりに聞いて育った彼は……少なくとも、個人レベルでの勇者と呼ばれるレベルには達しており、若くして黒騎士の称号を得ているのはその証明でもある。
もちろん、かの聖騎士とは違って……性格やら、日常生活やら、はたまた戦場における視野の狭さとか、集団の指揮能力にはすこしばかり、いや、かなり問題があったりする。
もちろん、彼を指揮官がうまく使いこなせれば問題はない……が、生憎と彼は中隊長という地位にあった。
自分を基準にして戦術を考える時点で、もう指揮を執る資格はないのだが……いかんせん、戦功によって出世する事が多い軍は、失敗をやらかすまで当人の能力の欠如に気付かないことが多い。
そして、能力の欠如によって引き起こされた失敗は往々にして悲惨な結果を生む。
ちなみに、軍部の重要な地位にあるアレックス・フェルドマン准将は、カールの叔父にあたる……その点、彼の出世はちょっとばかり身内びいきな部分があったかも知れない。
さて、こう書くと銃兵隊に反対する意見が珍しい者のように思えるかも知れないが、誇りと傲りは紙一重というか。
20年、30年も前の陸軍の雄ドルファンという呼称を、必要以上に心の支えとしている騎士は多く……王室会議の提案を、当然のように拒否した。
それは、ドルファンという国の構造が、有力者の寄り合い的なモノへと変化している事を意味しており……今は、ドルファン王家とピクシス家という合同体がこの国の中で頭1つか2つ抜けているが、何かのきっかけでバランスが崩れたとき……さてどうなるか。
もちろん、今も水面下で足を引っ張り合い、片手で握手、片手でナイフを突きつけあうといった心温まる交流が国境を越えてなされているわけで。
……話を戻そう。
「そもそも、傭兵徴募を行った時点で、我々騎士がないがしろにされているのだ……」
「……ピクシス家は、徴募そのものには最後まで反対されていたようですよ」
と、それまで何も言わずにカールの言葉に頷いていた……奇妙なほど、特徴のない男が、これまたこれといって特徴のない声で呟く。
「おお、わかっている」
「結局…ドルファン王家が、騎士団をないがしろとは言わずとも、頼りに思っていないと言うことでしょうな」
「うむ…」
「ドルファン王家のために血を流し、泥にまみれてきた騎士を頼りに思わない……金で雇われた傭兵など…いざというとき、何をするかわかったものではないですのに…」
「おお、まさにそうだ」
我が意を得たり、という感じに大きく頷いたフェルドマンだったが、ふと、今自分の目の前で酒を飲んでいるこの男が一体誰だったのか気になった。
「ああ、グラスが空いてますな…」
手を叩き、新しい酒をもってこさせて、それをフェルドマンに。
時に甘く、時に毒を混ぜ込んで……男の言葉は、酔い始めたフェルドマンの意識を浸食していった……。
4月中旬……事態は一気に動き始めた。
まず、ヴァルファの斥候がウエール方面に向けて盛んに出動を繰り返しているという報が入り、軍部は一気に緊張を高めた。
同時に、傭兵の1人が国外へ逃亡しようとしていたとして、まさに船に乗る直前にとらえられて、絞首刑が行われていたりする……が、それに関連ある動きとして認識していたのはごく一部であろう。
既に、隠すことなくダナン派兵は来月初旬と発表してある。
軍部(トップ)としては、あわよくばこちらの本気を悟ってヴァルファに撤退してもらう腹づもりだったが、まずウエールをおとし、二段構えの防衛ラインを敷くつもりなのかもしれぬ……と、ウエールの駐屯部隊に臨戦態勢をとらせるとともに、すぐさま第3大隊を派遣して戦力を増強させた。
それと前後するように、ヴァルファ大部隊……おそらくは4大隊と思われる……が、ダナンからウエール方面に向かって出発。
ここで、それまでなりを潜めていたプロキア軍とシンラギ軍が、プロキア南東部の小都市ハーベンから長駆してダナンを急襲……ダナン残留部隊と戦闘を開始する。
戦闘を開始して間もなく、ウエール方面に出発したはずのヴァルファ部隊が、ダナンを急襲したプロキア・シンラギ軍を包囲……徹底した殲滅戦を開始。
ドルファンのダナン派兵に備えて、まずは一方を強烈に叩いておこうとする思惑がうまくいったかと思われたが……ダナンを急襲した部隊のほとんどがプロキア軍であることを悟り、ヴァルファ軍団の軍師であるミーヒルビスは眉をひそめた。
「………さすがはグエンという事ですか」
シンラギ軍単独ならばこのような罠をかけたりはしないが、プロキア軍との混成という事であるいは……とも思ったが、シンラギ軍を率いるグエンは、冷酷に雇い主の部隊を見捨てたと言うことだろう。
「気にするな……これでしばらくは、グエンは動けん」
「……確かに」
雇い主の軍だけを戦わせた……おそらくはそんな理由で、プロキアのヘルシオ公はシンラギを非難するだろう。もちろん、実際はミーヒルビスの流した情報に踊らされたプロキア軍指揮官が功に駆られて暴走した……のが事実なのだが。
傭兵の悲しさ……戦場に勝機を見出したとしても、今しばらくは自由に動けない不自由さがつきまとう。
「それに、少なからずプロキアの戦力を削れた……悲観するような失敗もなく、お前の思ったとおりに事は動いていると思うがな」
「デュノス様…」
「イエルグ家への工作は順調なのだろう?」
「はい」
「ならばよい…」
「ですが、デュノス様…」
「堂々と旗を押し立て、戦えるなら戦いたい……だが、戦いとはそういうものではないことを、共に学んできたはずだろう」
ミーヒルビスは、ただ静かに頭を下げ。
「一度だけの愚痴と思って聞き流してください……私は、デュノス様に、大きな声で叫んでもらいたかったのです…『ここに、我がいる』と」
「……」
「デュノス様に、そういう戦い方を……戦場を用意するのが、参謀である私の役目と思っておりました…」
「よい」
「デュノス様…」
「よいのだ、キリング……」
そう呟く、軍団長の視線はまっすぐにドルファンへと向けられていて。
「全ての事情を知る者はおそらくいまい……事を起こした我々ですら、全てを知り得ているとは言うわけでもないしな。我らの戦いを非難する者は多いだろうが、それで良いのだ」
遠い遠い、故郷。
事情を知らぬ者からすれば、馬を飛ばせばここから4日程の距離だというだろう……しかし、そうではない。
それは、今この場にいる2人だけが共有できる遙かな距離。
「…ヨハン」
シベリアで死んだ義兄の名を呟き……そして、軍団長は空を見上げた。
『受けた恩を返すまで、私はお前についていく……ついてくるなというなら、私と兄はここで命を絶とう』
砂漠の、炎の部族を統べる血筋にふさわしい、燃えるような眼差しの少女と、その兄……あれは、もう20年以上も前のことになるのか。
キリングと共に、彼らに手を貸したのは、ほんの気まぐれのようなものだった。
王位継承権を奪われ、国を追われ……『いつの日か故郷に戻る』と口では言ったが、正直、全てがどうでも良く、ただ流れていた。
炎を思わせる激情を持つ少女との接触が、やがて……すべてを諦めていたはずの心に火をともした。
名は捨てた……いや、捨てたと言うよりも、南欧のちっぽけな小国の王族の名が役に立つほど世界は狭くなく、傭兵として各地をまわり、名前ではなく力を売った。
全欧最強と名高い傭兵騎士団ヴァルファバラハリアンの原型……全てはこの4人から始まり……今残るは2人のみ。
もちろん、軍団員の数は飛躍的に増えた……が。
「キリング…」
「はっ」
「……ライズは、おとなしくしているか?」
「デュノス様に出来ないことを、私にやれと言われても困ります…」
苦笑を浮かべたミーヒルビスを見て、軍団長は笑った。
「母親が母親だからな…」
「父親が父親ですし…とも言えますな」
と、ここでミーヒルビスが真顔に戻り。
「デュノス様……1つだけ、確認しておきたいことがございます」
「……何だ」
「……ライズ様の存在が、作戦に支障をきたすようなときは…」
「…それは、かなり特殊な状況に思えるが」
「ライズ様が接触している男……あの、死神でございますぞ」
「……自分の叔父の、ヨハンの仇と知ってのことか?」
驚いた、というよりどこか楽しげに軍団長は問いかける。
「でしょうな」
「ふむ…」
軍団長は己の腕を見つめた。
今年で49歳になる……既に戦士としての峠を越え、衰える体力を技と経験で補い、なんとか現状維持を続けていると言うところか。
もちろん、それも後数年……。
「死神は……今が盛りか」
軍団長と同じく老いの下り坂にあるだけに、その呟きの意味を理解したのか、ミーヒルビスが静かに答えた。
「ドルファンに入国したときの書類によると、まだ二十歳そこそこらしいですな……」
「なんだと?」
「小柄な男……ではなく、子供だったということですな。まあ、ミハエルも遠目でその場を確認しただけという話でしたし」
「……ゼールビスには、シベリアに気を許すなと伝えておけよ」
「……そう、伝えればよいのですね?」
と、どこか含む口調で問い返す。
「良い……あれにはあれの生き方がある。第一、奴にとっては、我らの行動が滅びとしか思えぬだろうよ…」
「……はっ」
頭を下げ……ミーヒルビスはもう一度口を開く。
「デュノス様、質問に対するお答えをいただいておりません」
「……キリング」
「……」
「もう、アーサー王の時代ではないのだ……1人の男が、1本の剣が時代を動かすことはない」
「……デュノス様」
沈黙が降りる……が、その刹那。
「ライズには手を出すな…」
「御…」
「必要ならば、儂が斬る」
ミーヒルビスは微かに肩を震わせ……それを取り繕うかのように頭を下げた。
5月5日。
「開門ーっ!」
かけ声と共に、レッドゲートが開かれる。
第1から第8までの騎士大隊(第4は先の大敗による再編成で、今のところ欠番扱い)……ウェールに駐屯している第3大隊と途中で合流するため、合計7大隊の出撃となった第二次ダナン派兵。
4月下旬……ダナン近辺の街道付近で、斥候部隊が小規模の爆発音を確認しており、罠によっていたずらに被害を増やさぬよう、また前回の敗戦に懲りたのか、戦力を分散させることなく、全軍でそのままダナンに向かって街道を行くと決定されている。
たとえ奇襲を受けたとしても、戦力差ではね返す事が出来る……という判断とも言えるが、ダナンに駐留するヴァルファに対する『逃げたければ逃げろ、退路は与えてやる』というメッセージとも受け取れる。
経過はどうあれ、ドルファンとしてはダナンを奪回したいのが、まず第一で……トルキア地方のきな臭さを思えば、戦わずに奪回できれば言うことはない。
もちろん、こちらが無傷でヴァルファを壊滅させる事が出来れば最高だろうが……騎士連中の一部を除けば、それが可能とは誰も考えてはいなかった。
ちなみに、傭兵は第2大隊に組み込まれているわけだが……第2大隊に所属する騎士連中の多くは、それを侮辱と考えて不満を持っていたりする。
わずかに一部……先年のイリハ会戦の生き残りの中の数人は例外にあたるが、主流から外れているだけに、何が出来るというわけでもないのだが。
「……始まりますな」
ドルファン軍が、ダナンに向けて進発した……という報告を受け、ミーヒルビスが呟いた。
国境都市ダナン……ドルファン首都城塞ほどの規模はないが、もちろん四方を城壁に囲まれた城塞都市であり、領主であるベルシス家の自治が認められている……いや、ヴァルファが駐留している現在は、過去形で語るべきであろうか。
その中央北より……早い話、プロキア側よりだが…に位置するダナン本城。
国境前線に位置する城とあって、城の作りは戦の香りが漂ってくるような……それでいながら、歴史を感じる調度品や構造が散見できる。
それもそのはず……と言うと妙だが、ドルファン王家のそれより、ここダナンを統治していたベルシス家の歴史の方が長いのである。
ドルファン王国の始祖、デーィン・ドルファンは……トルキア大分裂の混乱の中、小さいながらも自分の国をうち立てることに成功したわけだが、その前身はというと……小領主に身を寄せる豪族の出自であった。
それに対して、ベルシス家は当時からダナン地方の領主であり……大トルキア帝国建国時の資料をひもとくと、確かにベルシス家の名前を目にすることが出来る。
少し、話が逸れた。
状況から鑑みて、駐留するヴァルファによって、何らかの拘束なり監視を受けているはずの現領主、ゼノス・ベルシス……老いの一徹という言葉がよく似合いそうな、70を越える老人である……が、口を開いた。
「デュノス様、しばしのお別れですな」
「うむ…」
軍団長は立ち上がり……ベルシスに向かって微かに頭を下げてから、部屋を後にする。
そして、部屋に残されたのはミーヒルビスと、ベルシス卿の2人。
「ゼノス様……無理はなさらないでください」
「……」
「……戦いが終われば、すぐにゼノス様を召喚する通達が来るはずです。ピクシスの狸、いざ行動するときは、はっとするような手をうちますぞ」
ベルシス卿が、口元を歪めて笑った。
「あやつも、先が短いからな……3代続いたピクシスの名馬も、あやつの代で打ち止めと見える」
ベルシス卿の笑みに、どこか苦いモノが混じった。
「ゼノス様…」
ベルシス卿が大きく息をつき……肘掛けにもたれるようにしてミーヒルビスを見つめた。
「……自分の息子に夢が託せぬ時、男という生き物は無理をする」
「私は、妻帯しませんでしたので…」
「儂は…早々と、自分の息子がダメな事を悟った……」
静かに、淡々とした口調で語るベルシス卿が、意見を求めていないことをようやく悟り、ミーヒルビスは口を閉じた。
「……息子に託すべきを夢を、形を変えて、デュノス様に託したのだ……それが、ピクシスにしてやられるまで、息子の無能さを悟りながら、自分の無能に気がつかなかった」
ただ苦さだけを感じさせる笑みを浮かべて。
「デュノス様の苦境は……全て、儂の責任だ」
「……」
「ミーヒルビス」
「はっ」
「老い先短い儂の命、精々有効に使え」
言葉もなく、ミーヒルビスはただ静かに頭を下げた。
プロキアとドルファンの国境の大部分を形成するテラ河だが、中流域から北河と南河に分かれており、いわゆる国境線となっているのは北河にあたる。
ドルファン軍がダナンに向かって進軍を始めたとき、プロキア軍(シンラギ含む)もまたプロキア領ハーベンからダナンに向かって出発していた。
プロキア軍は、ダナンからみて西北西の方角から近づき、テラ北河岸に布陣する予定である。
もちろんこれは、あくまでも牽制のための動きであり……ドルファン軍のように7大隊という大規模なものではなく、先の敗戦もあって総数でヴァルファよりやや劣る程度の規模である。
詳細は省くが、西北西側に布陣するというのは、牽制であると同時に、敗軍がプロキア領内になだれ込んでくるのを防ぐ意味合いを持つ。
ただでさえドルファンの支援であるという認識によって士気が低いところに、先日の敗戦というより、ほぼ大隊1つ分を壊滅させられた事によってプロキア軍の士気は、はるか水面下というところだが……その中にあって、兵の練度は高く士気も旺盛な集団は、言うまでもなくグエン率いるシンラギククルフォン傭兵部隊である。
しかしながら、先日の敗戦の責任を押しつけられ……グエンは全軍の指揮権を与えられることなく、シンラギは動きを制限される状況にある。
「……面白くありませんな、グエン将軍」
「面白くない…とは、何についてだ?」
副将に目を向けるグエン……決して体格に恵まれているというわけではないが、左目の下から鼻に向かって刻まれた数本の刃傷と鋭い目つき、そしてそこにいるだけで周囲に与える威圧感が、歴戦の戦士であることを否応なしに周囲に悟らせる。
もちろん、グエンが歴戦の戦士であることは間違いない……が、顔の傷に関してはおそらく誤解がある。
それは敵の刃を受けて出来た傷ではなく、自分に近しい人間の死を弔うために顔に傷を刻むという先祖代々の風習を几帳面に守っている事が理由だが……本人も、その風習の正確な理由を知らないでいる。
顔の傷に誰もが目を向ける……と思いきや、初対面の人間はまずグエンの頭部に視線を向けてしまう事が多い。
まあ、なんというか……つるつるに剃り上げてあるのである。
今から10年ほど前……齢30前にして、日々後退していく生え際に癇癪を起こし、潔く剃り上げてしまった……と、兵士の間で囁かれていたりするが、これもまた真実を知る者はごくわずかであり、彼の前でそれを話題にする者はいない。
「将軍、ヤギに虎を率いることが出来るはずもありますまい」
「……ドルファンの連中がダナンを奪回するまでという契約だ」
「……ほう」
副将が、楽しげに口笛を吹いた。
「浮かれるな」
「はっ」
口元を引き締めはしたが、副将の目に未だ楽しげな色がある事に気付いて……グエンは、別段口調を改める事もなく言葉を足した。
「ヴァルファの連中、ダナンを捨ててこちらに来るぞ」
「……しかし、それでは」
連中は何のためにダナンを占領していたのか……と副将が困惑の表情を浮かべた。
「知らん」
「……」
「だが、ヴァルファはこっちに来る……確実に、だ。プロキアの連中を守ってやる必要はない。適当に流して、適当に退け」
「はっ」
余計な問いを重ねることなく副将が頭を下げた。
グエンが来ると言えば、必ず来る……副将はもちろん、部下達の、グエンに寄せる信頼はすこぶる厚い。
一人一人の技量の確かさはもちろん、集団としての統一性が東洋圏最強の傭兵軍団と呼ばれるゆえんなのだが……全欧圏において、シンラギの評判ははかばかしくない。
雇い主への裏切りは珍しくなく、政治結社としての思想への警戒……などが理由としてあげられ、テロリスト集団だと声を荒げる人間も少なくない。
しかしそれは、東洋圏との文化思想の違いはもちろんだが、シンラギククルフォンに対する誤認があるからだろう。
そういう意味では、こちらの人間よりよっぽど海燕の方が彼らについては詳しく……おそらくは、公平な意見を持っていた。
「彼らは、傭兵団というよりは1つの国なんだ」
「国?」
訝しげに、ライズが聞き返す。
「帰るべき土地を奪われた状態で……政治と、軍と、国民だけがあり、国土だけがない。そういう状態が100年近く続いている」
「……少し、理解しかねるのだけど」
「俺も、他人から聞いた話ではあるんだが、彼らの故郷には何もなかった」
ほんの少し遠い目をして、海燕が語り出す。
「山に囲まれた、ろくに作物も収穫できない石ころだらけの土地……どういう経緯で、そこに国の様なモノが成立したかまではわからない。ただ、彼らがそこで生きていくためには、それぞれが各地で傭兵として働き、糧を得るしかなかった」
「……」
「国としての唯一で最大の資源が国民というか、傭兵だった……子供の頃から、厳しく訓練され、大きくなると傭兵として旅立ち、国の女子供に糧を送る」
「何故?」
どうしても納得できないという感じに、ライズが首を振った。
「そこを離れて、別の場所へ行けばいいだけの話のように思えるけど」
「さあな……ただ、彼らにとってはそこが国であり、故郷だったんだろ。それは、彼らにしかわからない想いだ。そもそも、そこしか残っていなかったのかも知れない」
「……」
「それと……規模の違いを別にすれば、東洋ではそういう集団は珍しくない。傭兵民族というのかな……ひょっとしたら、そういう民族が集まって、シンラギという集団が出来たのかも知れないが」
「……結局、その、何もない故郷を奪われたと言うこと?」
「昔から彼らは優秀な傭兵だったんだな。散々利用しつつ、彼らの雇い主は同時に彼らを恐れたんだろう……」
「それは……少しだけ、わかるような気もするわ」
ぽつりとライズが呟き……海燕をじっと見つめた。
「……何だ?」
「故郷……というものは、そんなに大切なモノなの?」
「さあ、な…」
忘れたはずの、苦い記憶。
「私は……わからない」
ライズの呟きが、夜風に紛れて飛んでいく。
「もう寝ろ、ライズ…」
「貴方は?」
「グレッグとちょっとな…」
「そう…」
それから数時間後の5月6日未明……ヴァルファは、ボランキオ率いる部隊をダナンに残して、テラ北河に布陣しつつあったプロキア・シンラギ混成軍に襲いかかった。
兵の士気が低く、指揮官の能力も低く、その上不意をつかれ……頼みのシンラギは姿も見えずとあっては、プロキア軍としてはどうしようもない。
先の敗戦以上の被害を受け、軍の形を為さない状態で逃げまどうプロキア兵を、ヴァルファは残酷とも思える程徹底的に殲滅しつくした。
ほぼ無傷で撤退したシンラギ軍は別にして、プロキア兵士で命からがら逃亡に成功した兵士は50人に1人ほどの割合で……後世の歴史家が、『史上希にみる局地殲滅戦』と評するほどの戦いとなる。
もちろん、この殲滅戦が終わりを告げる頃……5月8日、ダナンにおいてボランキオ部隊とドルファン軍の戦いは開始された。
「うおおおーっ」
常人では扱いかねる巨大な戦斧が、唸りと共に鎧ごとドルファン騎士の右腕を吹っ飛ばした。
噴き出した血が大地を叩き、騎士は悲鳴も上げずに倒れ伏す……と、もう興味を失ったかのように、次の獲物に向かって突進していく。
局地的な防衛戦に関しては並ぶ者なしと評されるボランキオであるが、守りを固めて……というイメージからはかけ離れた戦いをする。
それは言うなれば暴風雨……ボランキオを先頭に、触れる者全てをのみこみ、戦力の差とは関係なく膠着状態を作り出す。
眼前の脅威に対してのひるみは当然だが、そもそも戦力差は大きく、ごく普通に考えれば自分たちが勝つ……そんな状況で、誰が好きこのんで危険を冒して攻め込むだろうか。
加えてボランキオ隊は全てが重歩兵であり、機動力はほとんどないため、攻め込まない限りその猛威から逃れることは難しくない。
勝ちに乗った集団には勢いがつくが、勝ちを計算した集団は反対に萎縮する……死を恐れぬというより、死を求めて戦うボランキオが、どんな不利な状況でも生き残ってきた理由の1つにそれが上げられる。
暴れるだけ暴れている内に相手がうんざりとしてしまい、遠巻きに眺めるような形で戦闘を拒否されて、本人の望みとは別に、部隊を率いる人間として退却せざるを得ない……つまりはそういうことだ。
もちろん、本人の戦士としての優秀さは当然だが……基本的に、ボランキオは機動力を必要とする作戦には向かず、また総合的な指揮官に必要な広い視野も持ち合わせてはいない。
それ故に、ボランキオが投入される戦場は……こういうケースがほとんどだ。
「おおおっ、陸軍の雄とまで評されたドルファン騎士団は、こんなものかっ!」
距離を取り始めた敵兵を前に、挑発するような雄叫びを上げるボランキオ。
「そうだっ、かかってこいっ」
戦斧が騎士の顔の上半分を斬り飛ばし……その凄惨な死は、ただでさえ実戦経験に乏しいドルファン騎士連中の腰を退けさせる。
それを見たボランキオの顔に失望が浮かんだ…。
「……困ったな」
「……困ったわね」
と、全然困った様子を見せずにライズが同意した。
何が困ったかというと……戦いのどさくさに紛れてライズを逃走させるつもりだったのだが、元々戦力差が大きい上に、爆薬等の罠の存在を恐れて(もしくは、敵がそのまま逃走してくれることを期待して)、正面からのぶつかり合いを選択したため、傭兵部隊がまったく戦闘に参加できないからだ。
いや、もちろんそれは当初から予想していたことなのだが、予想以上に部隊が前線から遠い。
戦闘に参加してない状態で、戦死者が出た……などと報告すると、さすがにまずいだろう、と。
「別に、敵前逃亡でもいいのだけれど?」
「他の連中に迷惑がかかる」
「なるほどね…」
ドルファンの傭兵に対する扱いというより、向けられる感情は決して良くない。
ここで敵前逃亡者が出たなどという事になれば……それがわからないほど、ライズは鈍くない。
「……貴方に言わせれば、仲間を裏切るのは傭兵じゃないのよね」
「ああ…」
海燕の答えは短く。
「……と、いうか」
ちらり、とライズが前線の方角に目を向けた。
「想像以上に脆いのね」
「実戦経験者がほとんどいないようだからな……国境警備兵なんかは話が別だろうが」
「戦いが兵を強くし、平和が兵を腐らせる……兵の存在意義を考えると、皮肉としか思えないわね」
「……」
「これ、独り言だから」
そう断ってから、ライズは淡々とした口調で語り始める。
「今、ダナンに残留してる連中は、勝っても負けても……というか、負けることが前提なんだけど……この戦いを最後に、ヴァルファからいなくなる」
「……何故それを?」
「『何故それを』……ね。そこまで読めてるなら、これ以上私から言うことはないわ」
「そうか…」
「……いや、1つだけ」
「……なんだ?」
「8騎将の中で、ライナノールだけは異質な存在…」
そう呟くライズの瞳に、微かな哀しみの色が漂う。
「……二剣を使うという噂ぐらいは」
「そういう事じゃなくて……彼女は、軍団長に対してではなく、今あそこで戦っているボランキオの言葉のみに従うわ」
「……?」
「ヴァルファが何をするかを考えるとき、彼女の行動は無視すべきね」
「ふむ……わかった」
この『わかった』は、意味を理解したということではなく、情報として頭に入れた……という意味だ。
ライズがチラリと海燕に目を向け……ぽつりと呟く。
「シベリアで……あの時、あの戦場で、死神と呼ばれていたのは貴方よね」
「……そうだ」
ほんの少し、間が空いた。
「……貴方は強い。それは認める」
「……」
「でも、あの時の叔父は……戦えるような身体じゃなかった」
震える声で。
「あれは、自殺だった……と、私は聞いたわ」
「……かもしれない」
「わかっていて…斬ったの?」
「挑まれた」
「それも、聞いたわ」
「強かった」
「……っ!」
「事実だ」
ライズが噛みしめた下唇から、赤い糸が一筋……顎に向かって流れる。
「ライズにはまだわからないかも知れない……が、自分の身体が動く内に、まだ戦える内に戦場で一生を終えたいと思う人間がいる」
「……」
「皮肉なことに……そういう人間は例外なく強い」
言葉はライズに、視線は離れた前線に。
海燕のそれを追って、ライズもまたそちらに視線を向ける。
そこは、前線でありながら前線とは呼べなくなっていた。ただ遠巻きにして、矢を射掛ける事もせず、背後の逃げ道をきちんと残して立ちつくすドルファン軍と……。
ふと、ライズは海燕に視線を向け、息をのんだ。
「……何故?」
そう言葉にしながら、何が『何故』なのかライズ自身もわからず。
何も応じず、ゆっくりと歩き出した海燕の姿が……ライズの胸に、小さな、理解を与えた。
「やっぱり……行くの?」
海燕が歩みを止め……ゆっくりと振り返った。
「死神に憑かれてる……叔父は、ボランキオについてずっとそう言ってたから」
「ライズ……お前を戦死させてから、俺は行く」
哀しい目。
おそらくは叔父を斬った時と同じ……そして近い将来、同じ目をして、父を斬るのか。
「…何故?」
「……死神の名を受け継いだ。それだけだ」
その海燕の言葉は、ライズの心にさらなる理解を与えてはくれなかった……。
5月8日……既に、陽は傾きつつある。
国境都市ダナンの南方での攻防戦……死傷者の数は圧倒的にドルファン軍に多く、それだけを比較するならヴァルファが勝ったとも言える。
だが、眼前に広がる光景……自軍の十倍以上の兵士に囲まれた、それは、負け戦以外のなにものでなくて。
こちらが近づけば距離をとり、ただ目線で背後を指し示す。
戦斧を握りしめた、ボランキオの腕が震える。
『まだ、死にたいのか?』
個人としての最初の敗戦を喫した軍団長が、この戦いが始まる前にかけた言葉が甦る。
『相手次第です……いつものように』
敗北は死。
敗北ければ死ねる……が、わざと敗北けるわけにはいかない。それは、死だけでなく、生そのものも冒涜することだから。
北欧の、戦いすら遠い片田舎で畑を耕し、妻と娘を慈しむそんな毎日……満たされる部分と満たされない部分。
一度だけ、一度だけでいいんだ……と、農具を武器に持ち替え、自分の中に熱く燃えていた血を燃やし尽くすために、必ず帰ると、なんの保証にもならない言葉を残して戦いに出た。
子供の頃から身体が大きく、腕力もあった……農作業の傍らで手がけた猟師としての経験が想像以上に役に立った。
人を殺した……赤く、温かい血を振りまいて、簡単に死んだ。
周囲の人間も死んだ。
自分は死ななかった。
妻のために鏡と櫛を買い、娘のために服とペンダントを買い、それでもなお余った賞金で、牛と豚を買った。
牛の背に乗せたそれを見ながら、もういいと思っていた。
人間は、簡単に死ぬのだ。
生きよう、妻と娘と共に、生きよう……人をたくさん殺したという悔いはあったが、それ以上に、何か胸の奥から次々と湧いてくるモノが、それ以上に、ただ暖かくて。
戻った故郷に……妻と娘はいなかった。
流行病が、小さな村の人口の4割を奪い去っていた。
妻と娘の墓の前で……そうだ、人間は、簡単に死ぬんだった、と呟いた。
その後、何か呟いて……なにか、わけの分からないことをわめきだし、妻と娘の墓をめちゃめちゃに壊して、そして……泣いた。
どのぐらいそうしていたのか、涙が流れなくなった事に気付いて周囲を見渡すと……村の人間が、遠巻きに自分を眺めていた。
自分を囲む村人の輪は一カ所だけ欠けており、村から出ていく道へと続いていた。
そう、ちょうどこんな風に。
『まだ、死にたいのか?』
また、軍団長の言葉が甦り……それを振り払うように、空に向かってボランキオは叫ぶ。
「……ぅおおおおおおおっ!」
自分を取り巻く輪が、また広がった。
どこにもっ、もう、自分は、どこにも行きたくないのだ。
再びの叫びは、むなしく空に吸い込まれていく。
誰か俺をっ、もうっ、どこにも行けなくしてくれっ!
「……?」
自分を取り巻く輪の間から、それは、煙のように現れた。
急ぐでもなくゆっくりと、しかしそれは確実に近づき……ボランキオの目の前に立つ。
「すまない、少し手間取った」
男は、血糊のついた大きな剣を手にして……少し寂しそうに笑う。
歯の白さが、男が東洋人であることをボランキオに知らせた。
「……お前か」
会ったこともない相手のはずなのに、懐かしいような、不思議な気分がボランキオを包む。
ずっと待ち望んでいた……勝てない、という事が痛いほどわかる相手。
死ねる、という思いと同時に、死ねないという思いが微かにではあったが湧いて、ボランキオを動揺させた。
「……」
「指揮官だからだ」
「……?」
「部下を、退却させろ……」
「……そうか、そうだな」
ボランキオが振り返って、背後の兵に退却を命じる。
退却していく兵を眺めていると、ボランキオは指揮官である自分がただの個人へと戻っていくように感じた。
死ねない、という思いが薄れて、消えていく……。
最後の兵士の姿が見えなくなったとき、自分は死ねるのだな……と、ボランキオの表情が穏やかなモノになり。
「……どうした、何故残っている?」
ただ1人そこに居残って動こうとしない兵士に向かってそう言いながら、ふと、ボランキオは何かに気付いたように。
「ライナノールに、何か言われたか?」
「はい」
何か思い詰めたような表情で、兵士が頷く。
「……お前は、ライナノールの兵か?」
「……」
何も答えない兵士に、ボランキオはちょっと微笑み。
「わかった、ならそこにいろ」
そして、ボランキオは振り返り……海燕と向かい合った。
「……やるか」
「やろう」
ボランキオは微笑み、海燕はどこか思い詰めたような表情で。
それだけを見るなら、いや表情とは関係なく、彼らを取り巻く人間のほとんどが、ボランキオの勝利を確信しているのは間違いないだろう。
すっと……始まりの合図のように、ボランキオが戦斧を右腕一本で高く掲げた。
『ヴァルファバラハリアン八騎将が1人っ、不動のボランキオ、参るっ!』
そのまま、海燕の頭上に向かって振り下ろされる戦斧。
海燕の頭が砕け散るのを想像した人間とは別に、その攻撃を繰り出したボランキオ自身はかわされることを確信していた。
しかし、海燕はボランキオの予想を裏切った。
ガッ、キィィーン!
戦斧の一撃を、下からすくい上げるように剣で受け止めたのである。
「おうっ」
激しく唸り、ボランキオは距離をとった。
戦斧を握る右手を確かめて笑う。
「いいなあ…」
「何がだ?」
「軍団長以来だよ…俺の戦斧を受け止めてくれたのは」
「そうか…」
海燕がちらりと剣を見る。
ちなみにその持ち主はグレッグなのだが……2人の戦いをみるでもなく、ドルファン騎士の死体数人分を、埋める作業に没頭していたりする。
「だが、こいつはどうだ…」
ゆらり、とボランキオの身体が前方へと傾いだと思えた瞬間、強烈な斬撃が海燕の肩口を襲った。
それを海燕は愚直にはじき返す。
はじき返された斧を頭上に掲げ、ボランキオがそれを回転させ始めると……。
ヴォォン、ヴォォン、ヴォン、ヴォン、ヴォンヴォヴォヴォヴォ…。
空気を切り裂くと言うより、うなり声のような音が周囲にこだまし始めた……いや、それに、ボランキオ自身が発する雄叫びのような声が混ざり合っていく。
「いくぞぉっ」
単純だが、遠心力を利用した速く、激しい攻撃は単発に終わらず、何度も何度も海燕を襲う。
それが十数度を数えたとき、愚直に攻撃をはじき返し続けていた海燕が、ほんの少しだけ受けるポイントをずらした。
ぎぃりぃっ!
耳障りな音を残して、斧と剣がかみ合った。
「……すまん」
「何がだ」
渾身の力を込めながら、ボランキオの声は穏やかで。
「これ以上は、剣が持たない…」
「……そうか…まあ、いいさ」
ボランキオが微笑んだ瞬間、海燕は戦斧をすりあげるようにはじき飛ばして一歩退き、ボランキオは宙で斧を握りなおしながら一歩前へ。
「おおおおおっ」
ただ、速く、強く、それを振り下ろす。
そこにいたはずの、海燕の姿が消え……全力で振り下ろした戦斧は、勢い余って地面へと突き立ち、一瞬遅れて、そこに赤い雨が驟雨となって降り注いだ。
不思議と、痛みはない……が、それが自分の命だということがよくわかる。
「……死ねるのか、俺は」
「……ああ」
斜め後ろから聞こえた声で、ボランキオは自分がどのようにして斬られたかをおぼろげに理解した。
「これでやっと…」
ボランキオが目を閉じ……何か思い出したように、重そうに瞼をあげた。
何かを探すように、右へ、左へ…
「ここだ」
「頼みが…ある」
「聞こう」
「ライナを……」
ボランキオの唇が動く……が、もう、それは声とはならないのか。
瞳に、意識の混濁が見え……また、唇が動きだす。
「妻…娘…」
地面に突き立った斧にすがりつくようにして支えられていた身体がゆっくりと倒れていき……手が斧から離れ、最後の最後で、ボランキオは傭兵から、ただの男へと戻れたのか。
その顔は、ただ穏やかに微笑んでいた。
第二次ダナン派兵……は、事実上この瞬間に終了した。
これから 騎士団の一部はダナンへと入り、幽閉されていた領主のベルシス卿を解放し、その主権の回復と、様々な細かい処置をすませていくわけだが。
ベルシス卿は、復帰そうそう騎士団の駐屯を拒否する。
ダナンには、ダナンの……ベルシス卿の私兵というか、軍隊が存在し、解放そのものに感謝はするが、自治領という扱いである限り、そちらの指図は受けない…と。
まあ、この話は後に譲るとして ……とりあえずは、ドルファンへと帰っていく騎士団に話を移そう。
「……すまん、グレッグ」
「お、俺の愛剣が…」
後一押しで破壊……というか、修理不可能な状態の剣を見て、グレッグはわなわなと震え続けて。
「ところで…」
「痛かっただろう、つらかっただろう、こんなになるまでぼろぼろに酷使されてっ!」
大げさに泣き始めるグレッグに苦笑しつつ。
「おごる、酒場で一ヶ月、おごる」
「まあ、男は船、女は港だよな」
と、グレッグは表情を改め。
「と、いうか……この剣を、ここまで、なあ…」
感心したように呟き……欠けた刃の部分を指先でなぞっていく。
「剛直で、いや、素直過ぎる攻撃だった」
「いや、俺が感心してるのは、お前さんの方さ」
「何が、だ?」
「そりゃあ、俺らみたいな傭兵なら大抵の武器は扱える……が、使いこなせるかどうかは別の話だ」
「さすがにちょっと重かったが」
グレッグが、ちょっと真面目な顔をして海燕を見つめた。
「何故だ?」
「……」
「それは、どれについての『何故だ?』だ?」
「全部と言いたいところだが…」
グレッグは困ったように頭をかき。
「とりあえず、答えてくれそうなことだけ聞くか…」
騎士団は一部を除いて5月11日にはドルファンに戻り、ダナンは約1年ぶりに解放された。
頭上の暗雲が取り払われたように感じたのか、勝利の報に接した国民達の顔は明るい。
しかし、そうではないことを知っている……もしくは感じている人間も少なくはない。
「……そうか、ご苦労だった」
不動のボランキオこと、バルドー・ボランキオの最後の様子を聞き終え……女は、兵士をねぎらった。
と、まだ何か言いたげな兵士の様子に気付いて、女が穏やかな口調で話しかける。
「……どうした?」
「ヴァルファを……ぬけるのですか?」
「……八騎将などと大層な名をいただいてはいるがな、私に、軍を指揮する力はない」
「そんなことは…」
「1対1の戦いで強いということと、軍を指揮するということは別だ……指揮能力で言えば…そうだな、私はコーキルネイファといい勝負だろう」
と、女が笑う。
「ネクセラリアに、バルドー……あの2人も、限られた戦いでしか指揮を任せられないと、参謀どのや軍団長はお考えだったと思う」
「……」
「ぬけるもぬけないも、これから先の作戦に……私は必要あるまい」
「……軍団長は、一体どういう」
「聞いてどうする?」
冷たい、それでいながら火傷しそうな熱を感じさせる女の口調に、兵士は口をつぐむ。
「戦いに負けて、ヴァルファの数が減っていく……実際の戦死者以上にな」
「……」
「ネクセラリアが去り、バルドーがいなくなり、次の戦いで、コーキルネイファ……いや、そもそも最初にぬけたのは……」
女はちょっと俯き……。
「……お前は、ヴァルファをぬけた後どうする?」
「……傭兵は続けるつもりですが」
そう言って、兵士が頭を下げる。
「そうか、続けるのか…」
「シベリアやドルファンを恨む気はありませんし、死にたくもありません……が、それ以外の生き方も出来そうにないですから」
「……3年、だったか?」
「そうですね、そのぐらいです……ヴァルファ、最後の新入りですよ」
「なるほど…」
女がちょっと笑い、ゆっくりと剣を抜いた。
「……?」
「私は、シベリアが嫌いだ…」
「それが…」
言葉を続けようとした男に向かって女が剣を薙ぎ払う。
ガッ。
「……いつもより口が軽いのでおかしいなとは思っていましたが」
男の剣は、女の剣を確かに受け止めた……が、その口元から赤いモノがこぼれ出る。
「見抜かれてましたか…」
「これが、私の最後の仕事…」
そう呟きながら、女は剣を兵士の身体から引き抜く。
一振りして血を飛ばしてからそれを収め、その後でもう一方の剣を収める。
「……将軍」
「まだ、何か言うことがあるのか?」
「…敵討ちは…おやめ…ください…」
「……」
「死んで……どう…なります…」
優しい目を向けながら……はるかシベリアを故郷に持つ男は息絶えた。
その優しい目に微かなとまどいを覚えた自分をたしなめるように、女は手で自分の顔を覆い……短くも長い、想い出の中に心を浸す。
それがどのぐらい続いただろうか。
「やっと……やっと、死ねたのね、バルドー」
女は呟くように言い、低い声で笑った。
その笑い声が少しずつ変化していく……泣いているのだった。
続く。
うわーん、ここでひいてやる。(笑)
と、いうか……もろに次回予告みたいな形になって、それはそれでいっか。(笑)
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