「先生、あけましておめでとうございます」
 そう言ったセーラが……ちょっと困ったように微笑んだ。
「……後10日も経てば2月ですし、変な挨拶でしょうか…?」
 月に一度の家庭教師の日……それはすなわち第3日曜日当日を意味する。
 既に1月の20日……新年の挨拶にふさわしいかどうか自信がなくなったのだろう。
「2月や3月ならともかくまだ1月だ、別におかしくはないと思うが」
「そ、そうですよね……新しい年になって、先生とは初めてお会いするわけですし」
「ああ…セーラ、あけましておめでとう」
「はい」
 セーラはにこっと微笑み、あらためて頭を下げた。
「先生、今年もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、セーラ」
 どこか、世間から隔絶されたような……セーラの部屋を訪れるたびに、海燕はそんな錯覚を覚える。
 海燕が思っていたよりもセーラの身体は虚弱らしく……執事のグスタフの言葉によれば、身体の成長に対して心臓がほとんど成長していないのではないか、と。
 子供の頃はまだ庭を散歩したりする事が出来たらしいが、最近ではそれもできず……この部屋と、バルコニーだけがセーラにとっての物理的な世界の全てなのだと。
 グスタフの言葉を証明するように、部屋の中の書物を一瞥するだけで……病弱な少女の想いを知れる。
 そんな身体だけにもちろん学校に通うことは出来ず……もちろん、国内有数の良家の子女だけに、それぞれ専門の家庭教師がいるわけだが……それは海燕のように月に一度というわけでもない。
 その事からグスタフの望んでいることを正確に把握した海燕は、傭兵として世界各地を巡った経験を元に、いろんな話を聞かせつつほんの少し勉強を教える……そういうスタンスでセーラに接していた。
「先生の話を聞いていると…本に書かれているのとは随分違っていて、ちょっと戸惑います」
 一体どっちが正しいんでしょうか……セーラが浮かべるそんな表情は純粋以外の何物でもなく。
「ふむ、どっちも正しく、どっちも間違っているんだ」
「…え?」
「例えば…」
 海燕は銀貨を取り出した。
 相手がセーラでなければ、もう少し芝居がかった取り出したかをしただろうが……喜んだり、悲しんだり、驚いたりといった強い感情が、心臓に強い負担をかけるせいだろう、セーラはあまり感情を表に出さない。
 いや、感情を抑圧して大きく気持ちを動かさないと言った方が正確か。
 それは意識的ではなく、おそらくは無意識に身につけた習慣なのだろう。
「銀貨…ですね」
「ああ、これがあれば……そうだな」
 この国……というより、シーエア地区の雑貨店でどれだけの買い物が出来るかセーラに話して聞かせ。
「でも、俺の故郷で買い物が出来るかというと……そう単純でもない」
「それは…通貨が違うからですか?」
「もちろん、それもある……が、そもそも金や銀の価値が、国というより、地域によって違う事があるからな」
「そう…なんですか?」
 貨幣の話をきっかけに、ある地域で当たり前だと思われていることが、別の地域でとんでもなく奇妙な事だと思われたりすること……環境が違えば当然、文化が異なり、それは異なった価値観を形成することを、丁寧に語っていく。
 セーラの知識は、基本的に書物から得たモノばかりで……今はそれがいい方向に働いているようだった。
 実践の伴わない知識は思考の硬直化を招きがちだが、セーラのように限りなく実践がゼロに近い場合、理屈をそのまま理屈として受け止められる柔軟さとなる。
 もちろん、そこには一抹の危うさがあるのだが……グスタフが自分を家庭教師の一人に選んだ理由はそのあたりだろう、と海燕は見当をつけていた。
「……『私は自分の見たことの半分も書いていないのだ』とジャンベルグが言い残したらしいが、セーラは知ってるかい」
「はい」
 セーラは小さく頷いた。
「……後の世で、非難の対象になると心配した友人が、作者であることを取り消すように勧めた時に、そう言ったらしいです」
「うん、なるほど……当時、ただの空想小説の類と思われていた事がよくわかるエピソードなんだが、もう一つ大事なことがある」
「……なんでしょう?」
「それが単なる比喩ではなく真実だとしたら、ジャンベルグは何故、見たことの半分も書かなかったのだろう?」
 海燕に指摘されて初めて気がついたのか、セーラは不思議そうに首を傾げた。
「そう言われると、そう…ですね。もちろん、取るに足らないことは書かないでしょうけど……それだと、そんな言い方はしませんよね」
「もちろんこれは、俺の想像でしかないんだが…」
 そう前置きした上で、海燕は言葉を続けた。
 書物は、基本的に読み手の存在を意識して書かれること……ここでジャンベルグにとっての読み手は、当然全欧圏文化に属する人間だということ。
 価値観の違いによって生じる摩擦……まず、ジャンベルグの場合、異なった価値観を持つ人間が、異国の文化に触れてどう感じるか。
 次に、ジャンベルグが感じたモノを、他人に説明する時どうするか。
 本に書かれたことは、基本的に書き手の価値観を通してのものであるが……読み手が理解出来るかどうかを加味して、ある部分を削除したり、付け加えたりする。
 ジャンベルグの価値観と海燕の価値観が異なっているのは当然で、2人の話が異なって聞こえるのはむしろ自然であること。
 そういう意味でどちらも正しいが、セーラにとってはどちらも間違っている……。
 海燕の説明にセーラはちょっと微笑んで。
「あの……先生は、自分の言うことを信用するなと仰っているようです」
「まあ、わかりやすく言うとそうだ」
「……」
「セーラの、セーラだけの価値観を持たなければ……知識や情報に翻弄されるだけになる。さっきの、俺の話と書物に書かれた内容のどちらを信用するか、それともどちらも信用しないか……それを決めるのはセーラ自身で、俺はセーラがそういう力を持つことが出来るように努力しようと思っているわけだ」
 セーラはじっと海燕を見つめ……ぽつりと呟いた。
「先生って…変わってらっしゃるんですね」
「学問というのは、結局ただの知識に過ぎないからな……それをどう活かすかは、結局本人次第だ。知識を覚えるだけなら、本を読むだけで充分だろう……それなら、教師の存在価値はないと俺は思うが」
「あ、いえ、そういう意味じゃなくて…」
 セーラがちょっと首を振った。
「他の家庭教師の先生とは……違うって」
「それは、そうだろう」
「あ、いいえ…その…」
 セーラはちょっと俯き……ぶつぶつと呟いては首を振り、どう表現すればいいのかを考えあぐねているようだった。
 そして…。
「先生…私は、先生の授業が好きです」
 穏やかな微笑みととともに、そう口にしたのだった。
 
「海燕殿」
 ピクシス家の屋敷から出ていこうとした海燕を、グスタフが呼び止めた。
「何故、いつも裏門から出入りなされるのです?」
 微かな逡巡の後、かつてシベリアの軍にいたというグスタフならば、そのまま話す方が良いだろうと判断して海燕は口を開いた。
「出来る限り迷惑はかけたくないからな」
「……と、仰いますと?」
 グスタフの疑問に直接答えることはせず、海燕は反対に問いかけた。
「この国の人口は、どのぐらいだ?」
「ふむ……正確な数字は把握しておりませぬが、50万を越すぐらいでしょう」
「なら、500人というところか」
「……」
「一目でわかる異邦人で傭兵だ……俺の経験からすると、人格がどうこうと判断してくれるのは、1000人に1人がいいとこだろう」
 海燕のいわんとすることを理解したのか、グスタフの眉毛が微かに動いた。
「貴方はセーラ様の家庭教師でございます。このグスタフ、人を見る目は…」
「残りの999人はそうは言ってくれんな……」
 海燕が浮かべた笑みに、グスタフがはっと息をのむ。
「俺も木石ってわけじゃない……自分に好意を向けてくれる相手には、それなりの好意を抱く」
「海燕殿…」
「東洋人の、しかも傭兵が家に出入りしている……そんな風に言われないに越したことはないだろう」
「そう……ですな」
 ためらいがちな肯定……は、グスタフなりの優しさか。
「海燕殿が、傭兵になってからどのぐらい経ちました…?」
「10年程だな……この国に来てからを、加えるつもりはないが」
 グスタフは大きくため息をつき、軍人がするように、視線を動かさずに微かに頭を下げる礼をした。
「表門から…とは敢えて言いますまい」
「俺が勝手にしていることだ…」
 闇の中にとけ込むようにして海燕が姿を消した後も、グスタフはしばらくそちらの方を見つめていた。
 
「おはよう、海燕」
「おはよう」
「今日から2月だね、寒いけど風邪なんかひいちゃダメだよ」
「ああ、気をつける……ハンナもな」
「うん……えーと、じゃあね」
「ああ」
 海燕がドルファン学園の側を通って騎士養成所に向かうタイミングを把握したのか、1週間のうち5日……つまり、ほぼ毎日だが、ハンナが声をかけてくるようになった。
 あまり多く言葉は交わさないが……海燕と言葉を交わすハンナに対して、やはり怪訝な顔を向ける通行人がいる。
 最初にそれを指摘したが、ハンナはまったく気にとめてもいない……というより、反対にムキになったのだろう、海燕の姿を見かけるとわざわざよってきて声をかけてくるようになって、この有様というか。
 こうなるともう、放っておくしかない……精々、口数少なく挨拶程度で別れる関係を貫き通してやるぐらいでしか守ってやれないのだ。
「もうちょっとさあ…会話の潤いというか…」
 耳元で聞こえよがしにぶつぶつと呟くピコを敢えて無視して歩き出す。
 第二騎士養成所の建設は、建設予定地付近住人の反発にあって事実上ストップしており……今現在でも、呉越同舟状態とまでは言い過ぎか。
 軍の再編成、傭兵部隊の事実上の分離、騎士団からのダナン派兵への度重なる要請……海燕に言わせれば、この国の冬など冬と呼べない程の温暖さではあるが、おそらく派兵は春になってからになるだと判断していた。
 それは当てずっぽうでも勘でもない……プロキアに雇われたシンラギの牽制云々はあるが、去年の7月の戦闘からヴァルファはドルファンに対して大きなリアクションを起こしていない。
 一方、ドルファンは……大惨敗を喫したイリハ会戦の後始末の問題はあったが、騎士団から再三の要請にもかかわらず、時期尚早とそれを突っぱねて続けている。
 さすがに水面下で何が行われているかを把握することは出来ないが、現在の状況だけを分析すればヴァルファは守りであり、ドルファンは攻めである。
 攻撃側が、攻撃のタイミングを選択できる……ならば状況を有利にするため、色々と策謀の糸を国外へと伸ばすのが常道だろう。
 国王ではなく、国政をないがしろにしていると思われているピクシス卿がこの国を守るために奔走するのは一種の皮肉のようだが、事実、ピクシス卿は去年の秋から精力的に国内外を問わず働きかけていた。
 プロキアは言うに及ばず、ハンガリア、ヴァン・トルキア、ゲルタニアなどの周辺国に対する根回しに加え、ダナンと統治するベルシス家にもその糸は伸ばされて……しかしピクシス卿は、策謀が相手の背後に穴を掘ると同時に、自分の背後にも穴を掘る行為である事を重々承知しており、己の策謀に酔うような性格ではない。
 まだ青年だった彼が、数十年という時をかけて今の地位を築き上げたことからもそれは明らかであり、才能の証明でもあったが……長所は短所の裏返しであり、慎重さは果断さの欠如とも言える。
 第二次派兵における判断にも、彼のその傾向が現れている……と、海燕の判断の根拠を挙げるならそんなところか。
 世界各地で様々な生臭いことを見てきた海燕に言わせると……ピクシス卿は、ある集団のトップ近くまで到達するが、集団そのものを乗っ取るだけの果断さに欠けた人物ではないか、と。
 もちろんこれは、ピクシス卿にとって少々酷な評価だろう。
 故郷を離れ、子供の頃から傭兵として数多くの陣営に身を投じた経験に加え、ピコの仲間の手がかりを捜すためにいろんな人から話を聞き、また書物を読んだことが包括的なモノの見方を海燕に与えたが……突き詰めると、海燕もまた武の人である。
 優秀な軍人であればあるほど文官と対立する……というのは、東洋圏の大国のことわざであるが、ピクシス卿は極めて優秀な文官と言って良い。
 傭兵とはいえ、基本的には軍人のメンタリティである海燕が、優秀な文官であるピクシス卿に好意を持つはずもない……その上での評価であるから、多少の割引が含まれるのは致し方ない。
 まあ、ピクシス卿が本当に国を乗っ取るつもりがあるかどうかはさておき、国内の弱体化と、外圧に対する抵抗力の保持……一見矛盾するその2つをコントロールしえた者だけが簒奪という甘い果実を味わうことが出来るのだが、軍人のそれに比べて文官による簒奪(暗殺等をのぞき、大規模な武力行使を用いない)は歴史上極めて少ない。
 これは、能力云々ではなく……そもそも文官業務に必要な資質と、国の乗っ取り(もしくは建国)という行為に必要な資質が真逆だからだろう。
 およそ国家というものがこの世に誕生して以来、一点の曇りなき歴史を持った国家など存在するはずもなく、それはドルファン国も例外ではない。
 建国王、ディーン・ドルファンにしても、大トルキア帝国からの独立に大小さまざまな戦闘に加え、陰謀の数々……建国の影で国を治めるのに不都合な情報は隠匿され、きらびやかな部分が誇張されて喧伝されるのは世の常だが、本来その一生はインクではなく、人血によって書き上げられるべきモノであることは疑いない。
 所詮どの玉座も大小の差はあれど血塗られている……裏を返せば、それが出来ぬ人間に建国は不可能とも言えるだろう。
 破壊と創造という矛盾を内包したまま、己の意志を強力に押し進める……それは、平常時の文官には必要ないと言うよりむしろ不要な資質である。
 それはさておき……今のドルファン軍は、文官が御しやすい軍人が主流である。
 陸戦の雄のなれの果てと言ってしまえばそれまでだが、この外圧をどう乗り切るか、乗り切った後で、軍の力を削いだままにしておけるか……ピクシス卿に簒奪の意志あるならば、まだまだ問題は山積みと言えよう。
 もちろん……簒奪の意志が無くとも、いろんな意味でドルファンという国は問題が山積みなのだが。(笑)
「…そういえば、今日からだっけ?」
「ん、何が?」
「……やっぱり、聞こえないフリをしてたんだね」
 どこか恨みがましい目つきで、ピコが海燕を見る。
「で、何が今日からなんだ?」
「……ま、いいけど」
 ピコはため息をつき、どこかあさっての方に視線を向けながら呟いた。
「新しい傭兵というか、第三次徴募でやってくる連中だよ…」
 大規模なダナン派兵が近づいていることを証明するもう一つの理由……もちろん、ヴァルファなり国外に対する牽制のためとも考えられるが、200名ほどの外国人傭兵が今日から新たに加わることになっていて。
 もちろん、例によって騎士養成所での訓練コースにご招待。
「……そろそろかな」
「戦争が?」
「いや…策謀を巡らせるのは、ドルファンだけじゃないって事だ」
 ピコはちょっと海燕の顔を見つめ……耳元で囁いた。
「キミのことだから……もう、いくつか目星はつけてるんだよね」
「2人ほどは、な……おとりかも知れないが」
「気をつけてね…」
 そう、金で雇われる傭兵にもピンからキリまである……それこそ、金さえ貰えば何でもやるといった手合いまで。
 状況次第で手のひらを返す類の連中という意味ではなく、最初から別の雇い主を持ちこの国にやってきた傭兵……そいつらが動き出すのを、海燕は静かに待っていた。
 
「……何の騒ぎだ?」
「おう、きたか」
 海燕と同じく、傭兵のリーダー的存在の一人であるグレッグがにやりと笑った。
「何か、用事でもあったのか…」
「いや、新入りがな、ジェフのやつに喧嘩を売ったのさ」
「ほう…それは」
 海燕、グレッグとは別のグループを率いる存在の名である。
「……というか、あの男が売られた喧嘩を買ったという方が驚きだな」
 既に戦士としての峠を過ぎつつある年齢で、面倒見が良く、周りの人間に慕われる……海燕の見るところ、ジェフはそういう人間で。
 いわゆる荒くれ者の傭兵だが、腕力だけで周りの人間がついていくかというとそう単純でもない……もちろん能力も必要だが。
「……まだ、何かありそうだな?」
 グレッグのにやにや笑いに目を留め、海燕は水を向けてみた。
「女だ」
「ほう」
 女の傭兵は少ない……が、みなそろって腕が立つ。並の男などものともしないほどの腕がなければ、傭兵としてやっていけないからだろう。
 海燕の反応が鈍かったのが気に入らなかったのか、グレッグが言葉を付け加えた。
「ただの女じゃないぜ、若くていい女だ」
「本人にそういってやれ」
 苦笑しつつ海燕がそういうと、グレッグはちょっと困ったように顔を背けた。
 以前、酒場に行ってわかったのだが……傭兵としての能力とは裏腹に、口で大きな事を言うくせに、女性に対してひどく初な男なのである。
 いや、好みの女性に対して……というべきか。
 好みではない女性には普通に軽口を叩くくせに、いざそういう女性を前にすると、ぶっきらぼうな口調で追い払ってしまい、その後で頭を抱えてしまう……傭兵にも、いろんな男がいるもんだと海燕に再認識させた程だ。
「…とはいえ」
 真面目な表情を浮かべ、グレッグが顎の下を撫でる。
「やってきて早々、リーダーの一人に喧嘩を売ったのが若くていい女……ちょいときな臭くてな」
「なるほど、同感だ」
 グレッグもまた己の腕と勘を頼りに、数多の戦場を生き抜いてきた歴戦の傭兵である……用心深い判断力は確かなモノがあるはずだった。
「で……どっちが勝ったんだ」
「一応はジェフだが、俺には、わざと負けたように見えた……それで、アンタを待ってたわけだ」
「俺に喧嘩を売れと?」
「いや…」
 グレッグはちょっと声を潜め。
「ちょいと癪に障るが、俺よりアンタの目の方が確かだろうと思ってな」
「……酒代でも奢って欲しいのか?」
「と、言うより…」
 グレッグが、稚気に溢れた笑みを浮かべて言葉を続けた。
「これはと思う女の絡んだ時の判断力に、俺はまったく自信がないのさ」
 戦士としての確かな腕前と……時折見せる抜けた部分。それが、グレッグの周りに人が集まるゆえんだろう。
 面倒見の良いジェフのまわりには、比較的傭兵としての経験の浅い連中、グレッグのまわりには、一見荒っぽくとも細やかな優しさを示せる連中が集まってグループを為している。
 などと思っているくせに、自分のまわりに何故人が集まるのか……それについて海燕は何も考えようとはしていないのだが。
「ま、そこまでいうなら…」
「ならこっちだ」
 グレッグが先導し、海燕が後をついていく。
 養成所の片隅に生えた樹の根本で、その女は片膝を抱えた格好で……2人が近づいてくるのに気付いているはずなのに、じっと地面を見つめていた。
「おう……アンタの目当ては、この男じゃないのか?」
 おい、話が違うぞ……とグレッグにツッコム気力もなく、海燕はため息をついた。
 女、というよりは少女と呼ぶ方が正確な……というか、そもそも初対面とは言い難い。
 もちろん、今はドルファン学園の制服ではなく、軽装鎧に身を包み、お下げ髪を解いて、そのまま無造作に後ろに流しているところは外見上の違いと言ってもいいが……最も印象深い、燃えるような瞳からして間違えようがない。
「……」
「初めまして」
 『初めまして』という言葉に込められた意志を尊重して、海燕は小さく頷いた。
「……俺は、海燕という」
「じゃ、後は若い奴らに任せた」
 何かしら感じるモノがあったのか、グレッグがそんな事を言ってその場を後にする。
「……とりあえず、あの時のことは礼を言う」
「別に…」
 音もなく、少女が立ち上がる……その動きだけで、戦士としての確かな技量が知れる。
「万全の貴方と、戦いたかっただけ…」
「…なるほど」
「……理由は聞かないの?」
 剣を構えながら、少女。
「心当たりが多すぎるな…」
 特に構えは取らず、無造作に剣をぶら下げたまま海燕。
「話す気があるなら、終わった後で聞いてやる」
 ギャリッ。
 金属同士がかみ合うイヤな音が響く。
 少女の叩き付けるような撃ち込みを、海燕は顔色1つ変えずに受け止め……面倒くさそうにそのまま払いのけた。
「相手との力量差がわからないやつは、早死にするぞ」
「……」
 初めて会ったときの、殺気が少女の身体からわき上がる。
「はっ」
 先の撃ち込みとは比べモノにならぬ速さの踏み込み、そして剣撃……ちょうど拳1つ分ほどの余裕を持って海燕はそれをかわした。
 さらに踏み込み、薙ぎ払いから、剣を持ち替えての撃ち下ろし……計ったように、拳1つ分の間隔をあけて、海燕はそれをかわし続ける。
 何の小細工もない、ある意味傭兵らしさのない剣……だが、おそらくは少女が本当に得手としている武器はこれとは違うのだろう、などと考えられるほど海燕としては余裕があった。
「……っ!」
 裂帛の気合いを込めた二段突き……2つとも、拳半分の距離でかわしてやると、少女は口惜しそうな表情で海燕をにらみつけ、持っていた剣を樹木の幹に突き立てた。
「……もう、いいのか?」
 燃えるような瞳で海燕をにらみつけたまま……少女は唇を噛み、涙をポロポロと流し始めた。
「……」
「貴方はあの時、警備隊員に言ったわね…『人を守って死ね、それがお前達の責務だ』と」
「ああ…」
 心の奥に感じた苦さを顔には出さず、海燕は頷いた。
「私は……責務を果たすためにここに来たわ」
 口には出さず、ただ視線だけで『どういう意味だ?』と海燕は問い返した。
「傭兵ではなく…娘としての責務」
「娘…というと?」
 微かな沈黙。
 周囲に誰もいないことは……少なくとも2人の話し声が誰にも聞かれないことはわかっているだろうに、少女は視線を周囲に走らせて。
「私の名は、ライズ・ヴォルフガリオ」
 少女の言葉は、海燕をして顔色を変えさせるだけの重さがあった…。
 
「ねえ……どこまで信用するの?」
 既に夜はふけ……安物の蝋燭の芯が、じじっ、じじっ、と微かに音を立てている。
 ついさっきまで、部屋の中にはライズがいたのだが……元々、あまり口数の多いタイプではないのだろう、頭の中で整理してみれば、話し終えるまでにかかった時間ほど長い話というわけではなかった。
「多分……嘘はついてないだろう」
「……」
「ただ、本当に話すべき事を半分も話してないだろうが…」
「普通、それって信用できないって言わない?」
「話したくても、話せないことなんかいくらでもあるだろうさ……いきなり、『ヴァルファの軍団長は、ドルファン国、現国王の双子の兄です』なんて、言われた方が信用できないと思うが」
「それは、そうだけど……」
 海燕の頭の上からふわり、とピコが舞い降り……ちょうどの目の前で、空中静止する。もちろん、4枚の羽根だけは動いているのだが。
「……今、断言したね、キミ」
「ライズの話を聞いて確信を持った……何故、今になって、という疑問はあるが」
「私は……何で、あの娘がキミに接触してきたかが気になって仕方ないよ」
「多分、俺がヨハンを倒した相手だからだろ」
「だろ……と言われても」
 わかったような、わからないような、微妙な表情を浮かべたピコ。
「…っていうか、あの娘、キミに殺気持ってるじゃない」
「ヨハンの太刀筋と、特にあの二段突きは瓜二つだったからな……そりゃ、殺気ぐらいは持つだろう」
「……師匠の仇って事なら余計、何で『軍団長を止めて』とか頼みに来るのさ?第一、『止めて』だけじゃ意味が分からないし」
「止めて欲しいんだろう……父親を」
 微妙な沈黙。
「……ねえ」
「なんだ?」
「あの娘や、キミの言ってることが良く理解できないのは……私が、人間じゃないからなのかな?」
「人間同士って事だけで理解し合えるのなら、多分戦争の半分は無くなるだろうな」
「半分ね…」
 ピコがちょっと無理をして笑い……ぽつりと呟いた。
「全部は無くならないんだ…」
「……戦争の理由が愚劣なのは、それにからむ人間の数が多いからだと俺は思っている」
「……1対1なら、馬鹿馬鹿しい理由じゃない戦いもあるっていうの?」
 ピコの問いかけに海燕は答えず……目をつぶった。
 
「ばれんたいん……というと?」
 薄いピンクのリボンのついた箱を受け取りながら、海燕はグスタフに問うた。
「……そうでしたな」
 眉を持ち上げ、グスタフが微笑んだ。
「まあ、細かい由来はともかく……オホン」
 ちょっと咳払いして、グスタフは言葉を続けた。
「なんと言いますか、お世話になった相手に対して、主に女性の方から感謝を示すために贈り物をする……この日は、そういう日なのです」
「……」
「……海燕殿?」
「俺は、何かセーラに感謝されるような事をしているのか?」
「セーラ様の家庭教師をなさってますな」
「給金を貰っている……仕事だろう?」
 ため息をつくピコの気配がした。
「戦場で……兵の数が絶対とは申しませんが、ある力になることは確かでしょう。助けられると思えば助ける……本人にしてみれば、それは自分のためかも知れませんが、助けられた相手はやはり感謝するでしょう。本人がどう思っていようとも、感謝の気持ちは寄せられる……そういうモノではありませんかな?」
「そうか、すまなかった…」
 グスタフが少し寂しげな笑みを浮かべる。
「戦場は、人の想いを重荷に感じるようにさせますからな……少なくとも、私が経験したのはそういう戦場ばかりでした」
「この国に戻ってきて、何年になる?」
「……20年ほどですかな」
 呟くように。
「あの頃……人ではありませんでしたな。今になって思うことですが、あの頃の私は人の形をした、何か別の生き物だったと思います」
「そのまま戦場を離れることが出来たことをのぞけば、珍しくない話だ」
 グスタフはにこりと笑い、ちょっと海燕を見つめた。
「余計なことかも知れませんが…」
「1人は素人で、無関係だ」
「何をするかわからない…という意味で素人も怖いものですが、2人のプロに見張られている海燕殿もなかなか」
 剣呑な言葉を平然と呟くグスタフに、海燕はちょっと肩をすくめてみせた。
「……遠い昔、剣と剣でわたりあうような、そういう戦場に憧れていたのですが…」
「そういう時代は終わったな……いや、はじめからなかったのかもしれんと思うようになった」
「かもしれませんな…」
 そう呟き、グスタフが微かに眉を動かした。
 何故見張られているのか……その理由を尋ねられたような気がして、海燕は口を開く。
「どうも、俺はよほど注意人物と思われているらしくてな……まあ、誰かの想像力をちょっとばかり刺激するような行動をとっているのは確かだから仕方がないとも言えるが」
「……セーラ様の家庭教師というのも、なかなか微妙なところですからな」
「あんたの判断でクビにしてくれて構わない……俺も、セーラを巻き込むと判断すれば行かないつもりだ」
「セーラ様が悲しまれますので、クビには出来ませぬな」
「……?」
 グスタフが小さくため息をついた。
「本当は、少し話をしようと思っていたのですが……またの機会にした方が良さそうですな。数日すれば家庭教師の日でもありますし」
 軍人ではない、貴族の執事としての礼をして、グスタフはその場を去った。
「……ねえ」
 海燕の耳元で、ピコが囁く。
「2人のうち1人が、グスタフについていっちゃった」
 どこか憂鬱そうな表情で、海燕は自分の首筋に手をあてた。
「……セーラを巻き込まないと約束した手前、動かざるを得んな」
 
「……どうするの?」
「どうするかな」
 街灯のある大通りに比べるべくもないが、建物の窓から漏れる明かりによって足元がかろうじて確かめることが出来た。
 見上げれば、空には星が瞬いていて。
「……っ」
「どうした、ピコ?」
「いや、なんか…よくわからないけど…」
 何かをごまかそうとしているわけではなく、うまく説明できない……そんなピコを見て、海燕は足を止めた。
「戻るか?」
「いや、キミが危険とかそういう感じじゃなくて…なんだろう……この感じ……」
 5分、10分……その場に立ち止まって動かない海燕があまりに不自然だったからだろう、素人丸出しの気配はもちろん、海燕をして見失ってしまいそうな微かな気配は消えた。
 もちろんそれに気付いてはいたが、海燕はただ黙ってピコを見守り続ける。
「……ぁ」
 ピコが空を見上げ、小さな悲鳴を上げた。
 海燕の視線がそれを追いかける。
「…月蝕か」
 ゆっくりと、月が闇に食われていく……のを見て、そう呟く。
「誰か…呼んでる…?」
「ピコ?」
「…こっち…?」
 いつものキレの良い飛び方と違って、風に漂うように……ピコが、港や砂浜から外れた方に向かって飛んでいく。
「おい、ピコ」
 歩きから小走りに……海燕が速度を速めれば速めるだけ、ピコもまた同じように速度を上げて遠ざかっていく。
 やがて明かりを漏らす建物がなくなり、月明かりが途絶え……海燕は、ピコの姿を見失った。
「ピコ…ピコッ!」
 10年という歳月を共に過ごしたのである……ピコが、自分の知覚できる範囲にいないことをわかっていながら、海燕はピコの名を呼んだ。
 もちろん答えはなく……その日はもちろん、次の日も、ピコは帰ってこなかった。
 
「海燕殿は、カルノー様をご存じですか」
 ピコがいなくなって3日目……2月の第3日曜日、海燕はセーラの家庭教師を終えて、グスタフと向かい合っていた。
「セーラの兄だろう……3年ほど前に留学したとの話だが、実際は亡命じゃないのか」
「逃亡と言った方が正確ですな」
「……相手は?」
「この国そのもの……とでも言いますか」
 静かな、それでいて深いため息をグスタフがついた。
「自分の父親を殺した……実行犯ではなく、父親を殺そうとした力を、カルノー様は激しく憎まれましてな…」
「……」
 海燕の沈黙に、詳しく語る必要もないと思ったのか……グスタフは、簡潔に結果だけを述べた。
「私に出来るのは、シベリアの知人を頼ることだけでした…」
 よりによって…という言葉を海燕はのみこんだ。
 ある意味、シベリアだからこそ逃げられた……と思えなくもない。
「去年のクリスマス……セーラ様の部屋のバルコニーに、プレゼントが置かれておりました。セーラ様は、私が用意したモノだと思ったようですが…」
「戻ってきた……と?」
 海燕は少し考え……口を開いた。
「サーカスだろう」
「いえ、手段ではなく……目的が気がかりなのです」
 大手を振ってこの国を歩けない……のは確かだが、セーラやグスタフに直接会おうともしない状況なのか、それとも…。
「これは、私の想像にすぎませぬが…」
「グスタフ…」
 グスタフの言葉を遮って、海燕が言葉を続けた。
「お前の望みは何だ?」
「セーラ様……セーラ様に、必要以上に傷ついて欲しくありませんな」
「……」
「生きている限り、まったく傷つかずに……と思うのは、傲慢な望みでしょう。それがわかる程度に歳を取りました」
 顔をあげ、グスタフが海燕を見た。
「私が申し上げるまでもないかも知れませぬが、シベリアへ逃亡する前、カルノー様とプリシラ王女は恋仲の関係にございました」
「……いや、初耳だ」
「……そもそも、国王家がシベリアのサーカス団の来演を望んだという話は?」
「それも、初耳だな」
 深く、静かなため息をつくグスタフ。
「海燕殿は……これまでもこんな風に色々な相手から、相談事を持ちかけられたと思うのですが、不思議に思ったことはありませんか?」
「……その事についてあまり深く考えたことはないな。約束したことは守る、自分からは決して裏切らない……その2つだけは守って生きてきたとは思ってるが、そういう星回りなんだろうと思うぐらいで」
「信頼…ですな」
「……俺はむしろ、他人を突き放すように生きてきた」
「そうではありません…」
 グスタフが口元だけで笑った。
「目の見えぬ人間が自分の手を引く相手に寄せる信頼……まったく関係ないとは言いませぬが、性格とか、人柄は関係ないのですよ」
「……」
「目が見える……信頼するのは、相手のその能力ですな。どんなに優しく親切な相手だろうと、自分を導く能力に不安を感じたなら手を放す……生まれたばかりの赤ん坊が、自分を抱く手に全てを委ねきるのと同じで……理屈ではなく、感じるのでしょうな」
「……買いかぶりだろう」
「1人2人ならともかく……おそらくは多くの人間が、海燕殿に感じているのですよ。どんな生き方をしようと、人に頼られ……それは、多くのやっかい事を背負い込むという意味でもありますが」
「何が…いいたい?」
「この戦争が終われば……何か、傭兵以外の生き方を探してみてはどうですかな」
「……」
「絹より脆く、鋼より堅い……絆と呼ばれるモノに、人はどうしようもなく結びつけられることがあります。ですが、切ろうと思えば、切れないこともない……私は、それでセーラ様に出会えました」
 眉を上げ、グスタフが顔全体で笑った。
「まあ、年寄りの繰り言ですかな……単に、私には戦場に生きる能力に乏しかっただけかも知れませんし」
 
 やはり、ピコが側にいないという事だけがはっきりとわかる。
 ベッドの上に寝ころび……盗まれて困るような荷物がないとはいえ、ずっと窓は開けたままにして……天井を見つめる。
 グスタフの話を考える。
 国王というか、プリシラ王女とセーラの兄であるカルノーの結びつきはともかく……カルノーが、シベリアとどの程度結びついているかで状況は様々に変化する。
 結局はまだ、パズルのピースがそろっていない……もちろん、ピースが全部そろうことなど滅多にないのだが。
「……ちっ」
 右手をベッドに叩き付けると、頑丈なだけのベッドが不気味にきしんだ。
 表面上はともかく、海燕はいらついていた……あの日、あの瞬間から感じているまたピコに会えるという感覚が、これまでほとんど外すことのなかった勘なのか、それともただの期待に過ぎないのか曖昧な気がして仕方がないからだ。
 こうして側に誰もいないと、そのいらだちが表面に現れる。
 早く、戦いが始まればいい……その間は、余計なことを考えずにいられるはずだった。
 
 いらだちの中2月が過ぎて……ドルファンに春が訪れる。
 
 
                 続く
 
 
 え、ヒロインここでいなくなっちゃうの?
 と、思う人が4割。
 なるほど、この流れであのキャラを登場させるわけですか…
 と、思う人が4割というところでしょうか。
 え、残りの2割は……高任がそんな素直なわけねえじゃん…と。(笑)
 
 まあ、それはさておき……ゲームの中で月蝕が起こるのは2月の16日になってますから、そこはちょいと原作をねじ曲げてます。
 いや、今更ねじ曲げるも何も……などと、ツッコミはいりましたか。(笑)
 この前、『いや、みつナイはチョコキスよりよっぽど原作に忠実…』とか言って、知人に殴られました。
 なるほど、こうした見解の相違で戦争ってのは起こるんだなあ……と人類の歴史に思いを馳せたり。
 
 

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