「……報奨金も出さない、しみったれた国だなんて思われたくないからね」
と、肩をすくめる王女の言葉を引き継いで、メッセニが憮然とした表情で口を開いた。
「言い訳になるが、報奨金は出ている。それが、貴様の手に渡る前に消えた……そういうことだ」
少なくとも、あの騎士は自分が受けた屈辱を別にして、あの一連の出来事における要諦を見抜いて、きちんと報告すべきだと判断したらしい……そう判断して海燕は頷いた。
「なるほど」
「だからこれは、王女個人からでた金だ……遅くなったが、受け取れ」
と、メッセニが差し出した革袋に、海燕は首を振り。
「中佐。そういうことなら、それはこういう密室じゃなく、傭兵連中の前で渡すべきだと思う」
「貴様に渡すべき金が途中で着服されたなどと、言えるか」
「まあね……それを明らかにすると、犯人捕まえて、罰を与える必要が出てくるし。多分、貴方が嘘をついていると言い張るだけでしょうし……泥仕合になるのは目に見えてるから」
と、王女。
「……報奨金が支払われたと記録に残ってるって事は、単独じゃなくて複数か」
「そういうことになるな…」
苦虫をかみつぶしたような表情で、メッセニ。
金目当てであろうが、海燕と言うより傭兵に対するあてつけからくるものであろうが……それは、メッセニの誇りを激しく傷つけるものであることは想像に難くない。
「ふむ…」
海燕は、少し考え。
「王女からの慰問のために下賜された……という形で、傭兵連中に渡してくれ。ジェフとグレッグの2人なら、俺なんかよりよっぽど後はうまくやってくれるはずだ」
王女はただ苦笑を浮かべただけだったが……メッセニは海燕の顔をしばらく凝視した。
「……東洋人」
「俺が渡すと意味がない。王女自ら……は、おそらく騎士連中に対する配慮に問題があるだろう」
「……」
「中佐が、傭兵連中を集めてそれを渡す……それが一番良い」
半開きのままだったメッセニの口が閉じた……が、メッセニの視線は海燕から逸れることはなく。
こりゃダメだ……と、あらためて王女は苦笑を浮かべ、おそらくは海燕とメッセニ双方に対して助け船を出した。
「メッセニ」
メッセニは、王女に向かって頭を下げ……結局、海燕には何も言わずにその場を去った。
「ところで、海燕」
「なんだ?」
「貴方、狙われてるわよ」
ひょっとすると、報奨金が支払われていない云々に関してあの騎士が報告したわけではないのか……そう思いつつ、海燕は問い返した。
「……どの線だ?」
「そんなに心当たりがあるの……と、ツッコムべきなのかしらね」
「わざと、混ぜ返している部分もあるしな」
海燕ガがそう答えると、王女は少し身を乗り出した。
「……と、言うと?」
「こうして、王女に呼び出されるのもそうだが、ヴァルファにつながる人間と接触を持つ、シンラギに使者を送る……いかにもな行動を取れば、後は勝手に近づいてくる連中が増える」
「うわあ……面と向かって、私を利用してるなんて宣言されちゃったわよ」
と、王女が苦笑混じりに呟き……ふっと、真顔に戻って。
「……私の呼び出しに応じ始めてくれたのはそういう理由?」
「それもある」
「……それ以外の理由は、精神衛生上、聞かない方がよさそうね」
と、ため息をついてから。
「危険は承知の上って事?」
「俺は、背景も何もないただの傭兵だからな……最終的には、自分の命を的にして情報を得るしかない」
「……そうね、人の上に立つ人間には猜疑心が必要だから、貴方の動きに食いつこうとするでしょうね」
「そういうことだ…」
王女はしばらく海燕の目をじっとみつめ……首をかしげてみせた。
「自分の命を危険にさらしてまで、情報を求めるのは何故なの?」
「……性分なんだろう」
そんな海燕の言葉を聞き流しつつ。
「貴方は、この国に雇われた1人の傭兵……なのに、この国の人を思い、それだけでなく命をかけて救い……」
王女はちょっと俯いて。
「そのくせ、雇い主といっても問題ないはずの、この国の王女に対して、無礼な口をきくわ、呼び出しても無視するわ、金には興味を持たないわ……名誉にも興味はなさそうだわ……女に興味はないくせに優しくするわ……」
短い沈黙を経て、王女は顔を上げた。
「つまり、貴方の目的は私?」
「違う」
「金、名誉、美少女……の3拍子そろった、いい女と自負してるのだけれど?」
「長所が全てみてくれに偏ってないか、それは?」
それ以前に、話のつながりが変なんだが……という言葉は呑みこんだ。
が、王女は王女で海燕の言葉を聞くつもりがないらしく。
「騎士にロマンスはつきものらしいし……そうね、王女と異国の剣士って設定で、一大悲劇でも演じとく?」
「年が明けたら、俺は俺の周辺を探っている連中に手をだすつもりだ……心当たりがあるなら、一時的でいいから俺の周りから身を退かせておくように伝えておくんだな」
「うわ。さらっと流されたわよ……」
「本気でもない空言に付き合ってやるほどお人好しでもないんでな」
「ま、それもそうね…」
と、王女がつまらなさそうにそっぽを向き………ふっと、海燕に視線を戻した。
「年明け早々、貴方を見張る連中をぶっ殺すって言った、今?」
「王女らしく、もう少しエレガントな表現を選んだらどうだ?」
「表現を選んでも、やることは一緒でしょ」
「不意を突いて、足と腕の腱を切断して身動きをとれないようにして、目をつぶしたり、身体を切り裂いて、苦痛を与えつつ」
「あー、はいはい、もういい、もういいから……想像させないでお願いだから」
首を振ってから、王女は何かをうかがうように海燕の目をのぞき込み。
「その情報は、私だけに?」
「さて、な」
「ここで馬鹿正直に、私がそうしたら……」
王女が捨てた言葉尻を、海燕は敢えて拾う。
「アンタが、どことつながっているのかがわかるかも知れないな」
「……」
「そう、怖い顔をするな」
王女は何度目かのため息をつき。
「私に対して、ここまで傍若無人な人間も珍しいわよ、ホント」
「陛下もか?」
「陛下って……お父様は優しいわよ」
「ピクシス卿は?」
「お祖父様は、お祖父様というより臣下として接し……」
王女は口をつぐみ……じろりと、海燕をにらんだ。
「何が言いたいの?」
「……東洋圏に行けば、ドルファン国王女という肩書きをありがたがる人間はいないな」
「……それで?」
「この国の政治は、ピクシス卿が主導権を握っていて、陛下をないがしろにしている……と噂されているが、アンタに対して臣下の礼を崩さないというなら、その噂も怪しいモノだと思ってな」
「そろそろ、不敬罪で処刑されても文句の言えないレベルよ」
「誰に対する?」
「王家に対してに決まってるでしょ」
「傭兵の俺に、ドルファン王家を敬うべき義務があるのか?」
「そりゃあ…」
「俺は、この国の人間じゃない」
「……」
「雇い主であることと、王家の人間であることは無関係だと思うが」
「…まあ……義務は、ないわね。義務は」
と、王女は一応頷いたが。
「でも、なんか腹立つんだけど」
「まさに今、傭兵連中はこの国からそういう扱いを受けてるのさ……感情的なものもあるだろうから、どうにかしろとは言わないが、心に留めておいてくれ」
「……わかったわ」
ため息混じりに頷いて……王女は、椅子の背もたれに身体を預けた。
「それにしても、何だったのかしらね、今度の戦いって…」
「……」
「な、何よ…?」
「三大隊しか出動させなかったのは、誰が言い出したことだ?」
「お金がない。そもそも、陸戦の雄ドルファン騎士団が、大軍をもって相手を圧倒するなど名折れである……などとそそのかせば、誰だってそういう風に誘導できると思うわよ」
と、王女は再びため息をつき。
「去年、歴史的敗戦を経験してるってのに……ね」
「そうじゃない……誰が言い出したかで、全然意味が変わってくるんだそれは」
「……」
この男、また何を言い出すのかしら……と、興味の浮いた顔で王女が海燕を見る。
「かなり急行軍だったとはいえ、軍がここを出発して2日でテラ河を挟んでにらみ合いの態勢になったんだぞ。つまり、ヴァルファが余計な回り道をしなければ、パーシル平野どころか、首都城塞まで確実にこれたんだ」
「……来られたのに、来なかった?」
その心は……と、王女が海燕に目で問いかける。
「最低でも、パーシル平野まではこれた……とすると、河の氾濫はおいといて、パーシル平野ではなく、故意にテラ河を戦場に選んだ可能性はある」
「……地形的制約の少ないパーシル平野なら、数の多さを有効に活かせるわよね?」
「対照的に、河を挟んでの戦いなら、渡河地点での狭い戦場になる」
「ほら、つまり……」
王女は首をかしげた。
「攻める方が、守りを考えてどうするのよって話よね」
降参、降参、と王女は手を振って海燕を見た。
「……パーシル平野が戦場となることを想定して、騎士団を大動員し……結果として、テラ河まで誘い込まれるとしたら」
「功を焦って、各部隊が突出して各個撃破……」
それもまたおかしな狙いよね……と首をかしげた王女が、ふっと目線を上げ、虚空を見据えた。
「出撃した大隊の数が多ければ多いほど、ここは手薄になるって事よね?」
「そういうことだな」
「……」
「まあ、所詮は可能性の1つに過ぎないが……その場合、ヴァルファは勝つ必要はない。テラ河という防衛ラインを活用して、ひたすら粘り強くドルファンの攻撃をしのぎ続ける……その隙に、ヴァルファ軍団長自らが率いる精兵……そうだな、生きて戻ることを考えないなら20〜30人もいればいいか…が別働隊となって、長躯ドルファン首都城塞へ……内応する人間がいれば当然夜だな、そのまま城まで……防げるか?」
どこかやりきれないような感じで、王女が首を振った。
「……可能性の話としても、寒気がするわね」
「……事を起こすに際して、生還することを念頭に置く、置かないで選択肢は大きく変わる」
「……」
「そういう意味で、ヴァルファ軍団長の腹の内ってのは重要なんだがな……そのあたり、この国としてはどういう認識なんだ?」
王女はちらりと海燕に視線を向け。
「……何か言ってたの?」
「……」
「デュノス公の娘は」
と、王女が言葉を足して答えを促した。
「多少の推測は出来なくもない……が、娘に対して心情を見せぬことを心がけて動いたとしか俺には思えないな」
「そう…」
王女は小さく頷き…もう一度、『そうね』と呟いた。
「ただ、ヴァルファは戦いのたびに軍団の兵数を減らしている」
「そりゃ……」
海燕の微妙な表現に気づいて、王女が聞き返した。
「……『減らしている』?」
「プロキア国内での戦いについては知らないが……俺が見たところ、一連の戦いにおいてヴァルファに死傷者はほとんど出ていないと思う」
「……」
「イリハ会戦では軍団を2つにわけて戦い……ダナン攻防戦においては小部隊を駐屯させ……今度の戦いで、初めてテラ河を挟んで全軍と対峙したんだが…」
「……伏兵がどうのこうのじゃなくて、ヴァルファの兵数が想像以上に少なく見えたと言うこと?」
「まあ、せわしなく兵が動いてはいたが……そうだな、軍団の規模は違うが、ドルファンが出動させたのと同じ、3大隊程度に感じたよ」
「へえ、3大隊。確か5大隊の規模……ちょっ、それって」
その奇妙な符合に気づいたのか、王女が何かを言いかけた口を閉じる。
イリハ会戦の際、ヴァルファは軍団を2つにわけ……5大隊のうち、3大隊をプロキア軍への応戦にあて、残りの2大隊をドルファンに向けた。
その情報があったから……と言えばそれまでかも知れないが、軍部が出動させたのは、外国人傭兵を含む騎士団2大隊。
ダナン攻防戦はさておき、今回軍部は3大隊を出動させ……海燕の見立てが正しいとしたら、ヴァルファの残存(?)兵力も3大隊。
多数で圧倒することが軍部としてのプライドを傷つけるという心情はさておき……軍部もしくは、軍部に情報を流した存在は、ヴァルファの兵力を正確に見抜いていることになる。
「……一度だけ聞く」
「な、何?」
海燕の視線に、王女が微かにおびえを見せた。
「この国の、出入国の管理を甘くしているのは何故だ?」
「……」
「……消えたヴァルファの兵が、そっくりそのままこの国に…なんてことは」
「それは違うわっ」
「……」
「……」
海燕の視線に、王女のそれが絡み……しばらくの沈黙を経て。
「卑怯な言い方をした…謝る」
海燕にのせられたことが理解できたにも関わらず、王女は恥じ入るように俯いて。
「……デュノス公の娘が入国したことはもちろん、ヴァルファの特殊部隊を率いるべきゼールビスがこの国にいることも知ってた…けど、それは副産物に過ぎないの…」
「そうか……他の連中に、それを逆手に取られるなよ、とだけは言っておく」
王女はしばらく海燕を見つめ……ため息混じりに呟いた。
「……3大隊の出動については、軍部の方で決まったと聞いたわ」
「そうか…」
「正直、貴方が言ったどちらの可能性を求めたのか、安っぽい誇りがそうさせたのかは、わからないし……軍部の誰が、どういう考えを持って動いているのかも私は知らない」
そして、王女は自嘲気味の笑みを浮かべ。
「ほんと、この国の王女って、権限がなくて嫌になるわ…」
「あればあったで、嫌になることもあるらしいが」
「……」
「さて、じゃあ俺はそろそろ…」
と、背中を向けた海燕に王女が声をかけた。
「あ、ちょっと」
「ん?」
「今度のクリスマスだけど…」
「興味はない」
「あ、そう…」
王女の声に微妙な冷えを感じて、海燕は首をひねり。
「……城でやる、クリスマスパーティのこと…だろ?」
「いえ、まったくもって、その通りよ。興味ないんでしょ、はいはい」
と、どこか投げやりに王女。
「……パーティとかそういう華やかな場に対して、俺はどうも皮肉的な見方をしてしまうもんでな。気を悪くさせたなら謝る」
「……国民の不満をいくらかでも解消させる力にはなってると思うけど」
「……パーティに参加できない方に、国の真情が現れることもある」
「……」
「たとえば、王女の慰問中に、そこにいる騎士が、人が、ありのままの素顔を見せると思うか?そもそも、王女が慰問できるのは、既に誰かによって選別された場所に過ぎないのがほとんどだ」
「……貴方の言葉は、いつも耳に痛いわ」
ぽつりと、王女。
「何故なの?」
「王女なり権力者に取り入って、栄達を図る事が出来るぐらいなら、そもそも俺は生まれ故郷から遠く離れたここまで流れてはこない」
「……そうじゃなくて…」
王女の視線から逃れるように、海燕はちょっと目を伏せて。
「国を立てるか、君主を立てるか、自分を立てるか、民を立てるか……王というか君主の下で働く者は、常にその四者択一を迫られ、悩み、苦しむ」
「……?」
「国に殉じた者、君主に殉じた者、民に殉じた者……そして、己の中の何かに殉じた者……それぞれ、後世に名を残す者がいる。無論、同じ事をしながら、名を為さずに消えていった者の方が遙かに多いだろうが…」
やや固い声で、王女が呟く。
「……王家の血をひく者は、もっと苦しむべきだと?」
「そう言ってしまうと、みもふたもないな」
と、海燕は苦笑し。
「状況が許せば、国を2つに割ることは出来る、富も2つに割ることが出来る……だが、1人の人間を2つに割れば、残るのは2つに分かれた死体だけだ」
「……」
「俺はな、人の上に立つ者は、人という存在について鈍感であってはいけないと思っている……なのに、人の上に立つ者ほど、それも生まれながらに人の上にあることを定められた者ほど、人の真情に触れることが少なくなる……その機会の少なさを、才能だけで補えとは、俺には言えないし、言いたくない」
王女は何も言わず……ただ、海燕を見つめていた。
「これはあくまでも俺の意見だが……人の上に立つ存在は、己の下にいる人を引き裂くような真似は極力慎むべきだと思う」
そして海燕はそれ以上何も語らず……王女の視線から避けるように横を向いていた。
しばらく時が過ぎて……。
「貴方……王族の血をひいてるの?」
「……」
ようやくに紡ぎ出されたとおぼしき王女の言葉に、海燕の目がそちらを向いた。
「国の中に居場所がなかったって……そんなに執拗に命を狙われるって事は、少なくとも権力争いが絡んでって事よね?」
単なる好奇心とは思えない感情を王女の瞳に見いだして、海燕は少し戸惑う。
「俺が国を出たのは10歳の時だ……詳しい事情は知らんし、わからん」
「でも、養父って…」
「自分で育てられない子供を他人に預ける…珍しいことか、それは?」
「……ごめんなさい」
そう言って、王女は視線を床に。
「……すまないな、少し感情的になった」
「いいえ、それは…」
「それで、何が聞きたいんだ?」
「……」
「……」
長い沈黙を経て、ようやく王女がぽつりと漏らす。
「……国は捨てられても、自分の血は、捨てられないんじゃないの?」
「……」
「…だったら貴方は…結局……自分の故郷に……」
「先のことはわからん」
「……」
「そもそも、戦場から戦場へと渡り歩く稼業だからな…」
「もういい、帰って」
「……?」
少し首をかしげつつ……海燕は、その場を去った。
そして、王女は……ぽつりと呟く。
「……バカ」
「国、君主、自分……そして、民…その4つのうち、どれを立てるか…ですか」
セーラは目を閉じ……その言葉を刻み込むように反芻する。
「……個人的には、4者択一ってとこに疑問はあるけど」
「そうですね……私も、そう思います」
そう呟いたセーラに、王女は意外といった様子で目を向けた。
「セーラのことだから、あいつのいうことは全肯定するかと思ったけど」
「自分で考えて、決める……それが、先生のお教えでしたから」
穏やかに笑うセーラをしばらくみつめ、王女はちょっと目をそらし。
「……会いたく、ない?」
セーラは王女の横顔を見つめ……全てを見抜いたように、静かに首を振った。
「約束しましたから」
「……」
王女の顔に浮かんだ不満を和らげるように、セーラが再び首を振る。
「先生は、優しい方ですよ」
「私には、これっぽっちも優しくないけどね」
「そう、なんですか?」
と、微笑みを浮かべたままセーラ。
海燕をどう誘ったか……について、2人の間には多少の食い違いがあったが、会話としては無難にかみ合っており。(笑)
「呼び出しを無視されるなんてしょっちゅうなのよ?口の利き方はなってないわ、耳の痛いことばっかり言ってくるわ……いや、笑い事じゃなくて」
「ごめんなさい…」
と、セーラは笑みを消し。
「でも、プリシラ王女は…そういう相手をお望みなんじゃないですか?」
石でも呑みこんだような表情で、王女はセーラを見つめ。
「……な、なかなか…言うようになったわね、セーラ」
「まだまだ、想像でしかありませんが……自分で考えて、決めるということは…ひどく孤独なことなのだと思います」
「……」
「……私、何度か死のうと思ったことがあるんです」
ぽつりと呟かれたセーラの言葉に、王女がはっと顔を上げた。
「今よりもずっと…自分が何もわかっていなかった子供だったんだな、と……それがようやく、わかるようになりました」
それを聞いて、王女が微かに安堵のため息をついた。
「誰の助けもなく、自分で考えて自分で決める……その中で、自分が見えてくるんですね。そうして自分が見えてくると…いえ、自分が見えないと、他人もまた見えない」
セーラは少し顔を上げ……遠い眼差しをした。
「自分がどれだけ多くの人に支えられているのか……私には、そんな自覚すらなかったんです」
「……」
「……私は、こんな身体ですから…どうあがいても1人で生きていくことは出来ません」
「セーラ…」
「それが…私の直視すべき現実で、そこから始めなければいけないのだと……その上で、自分はどのように生きたいのか」
セーラが、王女に視線を向けた。
「笑わないでくださいね、プリシラ王女」
「な、何を?」
「私、先生の力になりたいんです」
「……」
「まだ、何も…具体的な考えはないんですが……先生が思うこと、やろうとしていることを、何らかの形で助けてあげたい……そう、思ってるんです」
王女は、その強い視線に気圧されたように、セーラの手に目をやった。
自分が住むこの国のことを、もっとよく知りたい……と、グスタフを通じて、王家に伝わる資料の閲覧を嘆願されたのは、半年ほど前のこと。
この数ヶ月、少女は明らかに痩せている。
一度、執事のグスタフに注意したこともある……が、グスタフをはじめ、メイドまでもが、どこか透徹した目をして首を振った。
『当家はピクシスの分家ではなく……ただ生きることより、生きることを決意する血筋の家でございます』
グスタフの言葉に、後ろに控えていたメイド2人が静かに目を閉じ、無言でそれを肯定した。
ピクシスの本家を継ぐ立場をなげうって、非業の死を遂げた父。
自分の命と引き替えに、セーラを生むことを選んだ母。
シベリアに渡り、今なお戦い続けるカルノー。
顔を上げ、王女はセーラを見た。
顔の肉が落ちるのは最後だと……あれはどこで誰から聞いたのか。
無惨でもなく、醜くもなく……どこか圧倒されるような美しさをたたえて、セーラはひたと王女を見つめている。
血は、水よりも濃い。
そんな言葉と共に、王女はエリス王妃を思い出し……。
「……セーラ」
「はい」
「あいつの……海燕のやろうとしていることが、カルノーの邪魔をすることになっても……そう、思える?」
セーラの表情に、微かな戸惑いが生まれた。
それを見て、海燕の言葉が、王女の心をよぎる。
『人を引き裂くような真似は、極力慎むべきべきだと思う』
絶対にやるなとは、言わなかった……それは所詮、人として求められる生き方に過ぎず、人の上に立つ存在は、むしろそういった選択を求められることがある。
ただ、これが必要だったことかどうか…その確信が王女にはない。
「……」
目を伏せ、俯き……そして、再び顔を上げるまで、王女は何も言わずにセーラを見つめていた。
「考えて…決めます」
「そう…」
「ただ……その選択から、逃げたくはありません」
痩せはしたが……まだ、強靱とは言えないにしても……セーラの中に、何か、芯のようなモノができた、と王女は感じた。
さて、その一方…。
テラ河より退却し、プロキア国内へとその姿を消したヴァルファバラハリアンの消息は知れず……ドルファンとしては、国境線への備えを余儀なくされた。
そこに至るまでやや時間がかかったが、クリスマスの翌日には哨戒部隊6部隊を新たに国境線へと派遣。
そして、『我らが刃向かうのはドルファン王家に非ず。国の危機とあらば、臣下としていくらでも力をふるう所存である』と、ダナンのベルシス卿から国境警備へ兵を派遣。
ヴァルファとベルシス卿とのつながりを懸念する者は、『これを認めれば、ヴァルファはいくらでも我が国に侵入可能となる』と眉をひそめたが……その申し出を断る理由も、力もなく……事実上、ヴァルファはプロキア国内に存在するとはいえなくなった。
終わりと始まり。
日々繰り返されていく中の1日に過ぎないけれど、新しい年の始まりに、人はみな無意識に祈りを込める。
まあ、酒飲みにとっては、ただ単に酒を飲むための口実なのかも知れないが。
何はともあれ、デュラン国王27年目の治世は終わりを告げ、28年目の治世が幕を開ける。
デュラン国王も、今年で50歳……その一粒種であるプリシラ王女の行く末は、本人が望む望まないに関わらず、ドルファンという国のあり方を占うことになるだろう。
「お前達、これはどういうことだっ!」
酒を口にしたわけでもないのに、顔を真っ赤にして声を荒げる男が、怒気もあらわにその場の人間1人1人をにらみつけていく。
「お父様」
冷たく、静かな声が……そんな男の声と、動きを凍らせた。
「もはや、ここにお父様の居場所はございません」
「リンダ…お前…が?」
「……」
無意識に、男は半歩後ずさる。
「お前…お前は…」
今は亡き父親……リンダの祖父がそこに甦ったかのような錯覚をもたらしたのは、ただそこにいるだけで周囲を圧する存在感。
子供の頃から自分を抑え込み続けてきたそれが消失したとき、男は開放感に有頂天になった。
だが、その爽快感は長く続かず、父親と比較されることに耐える日々が訪れ……そうした雑音を封じるため、父親がやらなかったこと、父親とは違う手法でやる事……それにのめりこんでから約10年。
ザクロイドは、大きくなった。
「……」
「そんな目で……親父と同じ目で私を見るんじゃないっ!」
男はリンダを指さし。
「私は、ザクロイドを…ここまで大きく」
「お祖父様は、それをできなかったのではなく、やらなかっただけです」
「……」
「そもそも、お腹をすかせた子供のように、目に見えるモノをなんでもかんでも口に入れて……それは、大きくなったとは言いませんし、ただ一身に恨みを集めるだけの行為です」
言わずもがなのことを口にしながら、リンダの目から哀れみが消えることはなく。
「お父様、オースティニアに、家を用意させて頂きました……そこで、お母様と余生をお過ごしください」
「よ、よ、余生…だとっ!?」
目をむき、怒りによって自分を奮い立たせ、男はようやく娘の放つ存在感に立ち向かった。
「リンダ。お前は、自分が何を言ってるのかわかっているのかっ!?」
父親の怒り…ではなく、それはおそらく自分の存在を主張する悲しい叫びであったが……リンダは、表面上はそれを静かに受け止めて。
「お父様……お祖父様が築いたザクロイド財閥は、もはやザクロイド家の者がほしいままにして良い所有物ではございません」
「何をバカな。ザクロイド財閥の全ては、ザクロイド家の…」
娘の視線に、父の言葉が途切れる。
「全てが自分のモノだと仰るなら、何故それを大事になさいませんっ!」
「……」
「いざというとき守ってもらえない、そもそも守る能力がない、気まぐれでいつ捨てられるかわからない……そのような人のために、働こうと」
言葉を切って、ちょっと俯き……リンダは、目元をぬぐって再び顔を上げた。
「お父様のために、喜んで働こうとする人間はもはや1人もおりませんっ!」
リンダの言葉というより、娘の目尻に光るしずくの存在が……男の、精神から何かを剥離させた。
「……リンダ」
「……」
「お前は、これから呪われた道を歩むことになる……全てを自分で判断し、全てを自分で背負う、孤独な、呪われた道だ」
「……」
「親父と違って…今お前は、家族すらも切り捨てた……人のためとかみんなのためとか、そういう言い方は私に言わせれば全て欺瞞だ。人はみな、自分自身もしくは、身近な誰かのためにだけ生きられる…」
男が、歩き出す……ドアに向かって。
「私は、お前が破滅していく姿を見物させてもらうぞ…」
自分とすれ違いながらそう告げた父親の背中を見送ることなく、リンダはザクロイド財閥の主立った面々に対して、これからやるべき事の指示を出し始めた。
「……さて、と」
右手に刀をぶら下げて、海燕は部屋を出た。
廊下で、1人、2人と傭兵仲間とすれ違う。
本来、刀を抜いてぶら下げている海燕に気づけば、何らかのリアクションを起こすはずであるにもかかわらず、海燕の存在に気がつかなかったかのように通り過ぎるだけ。
そのまま宿舎を出て、特に身を隠すでなく、足音を忍ばせるでもなく……海燕は無造作に、闇の中にたたずむ影の背後をとった。
そして、あるかなきかの殺気を飛ばす。
「……!」
あってはならない事態に硬直した影の腰骨の隙間に、刃先が滑り込み……すとん、と腰が落ちた。
立ち上がるどころか、腰から下の感覚が全くなくなるという異常な事態に、うめき声1つあげないのはさすがといえる。
「選べ」
冷たい、氷のような言葉の意味を、影は正確に理解し……ナイフで自らの首筋をかききった。
情報を与えることを恐れ、一言も発することなく命を絶った男の所持品を調べるだけ無意味だが……海燕は一応という感じに男の持っていたナイフを手に取った。
それが特殊なモノであるなら尚更だが、武器は、持ち主のことを語ることもある……しかし、その点でもこの男はプロフェッショナルだったらしく、そのナイフは鍛え抜かれてはいても、特にこれといったことを海燕に教えてくれる物ではなかった。
「……」
気がつけば、周囲の気配が1つ消えている……つまり、この異常に気づくことなくまだぐずぐずしているのは、それだけ腕が落ちるということだった。
そして、情報を得やすいのは……当然、まだぐずぐずと居残っている、腕が落ちる連中に違いない。
D28年1月28日。
この日、長く続いた戦いが静かに幕を閉じた。
「……オーリマン卿」
立ち上がり、オーリマン卿に向かって手を差し出した男は、シベリア大使のキルギスキー卿である。
「……」
やや遅れて、オーリマン卿も立ち上がり……その手を力なく握り返した。
「オーリマン卿…」
「何も言ってくれるな、キルギスキー卿……私は、敗者に過ぎない」
自分の足を引っ張った、国内の馬鹿連中を罵るのは簡単だが……結局、その馬鹿連中をいいように操られた事が、自分の力が相手に及ばなかった証明でもある。
その自覚があるだけに、オーリマンの表情はことさらに暗い。
そんなオーリマン卿をしばらく見つめ……キルギスキーもまた、表情を曇らせた。
「もう、お会いすることは無いと思います」
「……?」
怪訝な表情を浮かべて、オーリマンは顔を上げた。
そして、キルギスキー卿は苦笑する。
「正直、ここまで粘られるとは思っていなかったのですよ……私自身はもちろんですが、上の方も」
「……キルギスキー卿、まさか…」
キルギスキーは、穏やかに微笑んだまま小さく頷いた。
「雷帝は、無能を好まない。もはや、シベリアの中枢部に私の居場所はありませんな……国に帰れば…監獄とまではいかないでしょうが、おそらく、どこか片田舎に送られるでしょう」
「それは……」
「貴方との戦いは、緊張感に溢れていた」
そう言って、キルギスキーはにこっと笑い。
「我々は神ではない…何が幸運で、何が不幸なのか、我々が決めるのはおこがましい……そう、思うことにしませんか?」
「それは、シベリアという大国にあるから言えることではありませんか?」
「……」
「ドルファンは危うい…」
「……」
「人の歴史は、離散と集合の繰り返しに過ぎない……私は、今という時代の流れが、ドルファンという南欧の小国を呑みこむような気がしてならない」
「……オーリマン卿」
「……失礼した」
「いや、私はシベリアという国を外からではなく中から見ている……シベリアも、別の意味で危うい」
「世継ぎの話ですか?」
「……さすがに」
シベリアに君臨する雷帝の治世も既に40年を越えた。
大帝からその孫雷帝へと続く、1世紀に近くにわたるシベリアの明るい時代は終焉を迎えるのか、それとも新たな皇帝の元で続くのか…。
「……ドルファンも、それは他人事ではありませんからな」
キルギスキーは、虚空に緯線を向けて。
「人の歴史は離散と集合の繰り返しですか……ならば、我がシベリアは長らく、侵略という名の集合の時代を過ごしてきたと言えます」
目を閉じるキルギスキーの眉間、そこに微かににじみ出たのは無念の思いか。
1分、2分……オーリマン、キルギスキー、両者立場は違えど、思いをはせるのは我が祖国のことであるのは変わらず。
「では…」
2人はもう一度握手をし……『お元気で』という陳腐な別れの挨拶を交わした。
次の日、鉄鋼、石炭の輸入が4月から自由化されることが発表された。
燐光石の輸入自由化についてはオーリマン卿が頑強な抵抗を示し、それを阻止したという形だが、これがオーリマン卿の意地なのか、それともカムフラージュの名残なのか……はたまた、新しい当主を迎えたばかりのザクロイド財閥への義理立てなのかは、オーリマン卿のみが知ることである。
ただ……これがまた別の意味を持つことに、オーリマン卿は気付いてはいなかった。
こんこん。
「入るぞ」
「ああ」
ドアを開け、部屋の中に入ってきたのはグレッグであった。
もちろん、声を聞いた段階で……いや、その前から海燕はそれに気付いてはいたが。
「なんっ……にもねえ、部屋だな」
「寝るだけの、いずれ出て行く事が決まってる場所だからな」
「ま、そこは、俺も似たようなモンだが…」
と、グレッグは腕を伸ばして椅子をつかむと、前後逆にして座り、腕を椅子の背に乗せた。
「今夜は休みか?」
「こんな世の中だ、どの国も人材不足なんだろ」
グレッグは海燕に視線を向け……ため息をついた。
「派手にやったもんだな…」
「すまんな、ちょっとそっちに影響が出たか?」
「いや、『絶対に近づくな、遠くから様子を見守るのもやめろ』と言っておいたからな」
その返答から、どうやら今夜はそれなりの腹を決めてここにやってきたらしいと海燕は推測した。
「……わざわざ釘を刺す必要があったって事は、それなりの腕か」
「そりゃ、お前さんから見たらそうかも知れんが…」
呆れたように呟き……グレッグがあらためて海燕を見つめる。
「それにしても……随分と荒っぽい手段を選んだな」
「目立つからな」
「……自分が殺られるとは思わなかったのか?」
「死ぬときは死ぬ」
「……」
「俺は命を粗末にはしない……が、大事にしすぎることはもっとやらない」
海燕はそこで言葉を切って。
「そのつもりなんだがな…粗末にしてるように見えるのか?」
「いや」
グレッグはため息をつき。
「お前さんが、殺される場面ってのが、これっぽっちもイメージできないんだ、残念だがな」
「殺されて欲しいのか?」
「正直に言えばそうだ……確かに、お前さんは色々と使える存在ではあるんだがな、最後の最後でこの上なく邪魔になると俺はにらんでる」
「ふむ、傭兵として、その期待に応えたいところだな…」
「……」
「……」
己の放つ気配を、海燕に受け流され続けて……グレッグは、息を吐いた。
「今、誰もお前さんに近づこうとはしていない……特に、この前シベリアの腕利きを5人まとめて返り討ちにしたのが効いたんだろう」
「連中のやり方は明らかに杜撰だった……腕利きとは言えないだろう」
「……お前さんの言う、本当の腕利きは、シベリアのような大国でも、1人か2人しかいないんだよ」
「……そんなものなのか?」
グレッグは海燕を見つめ…苦笑を浮かべた。
「今の言葉で、お前さんの、すさまじい戦歴が透けて見えるな」
「ずっと、傭兵を続けてきただけだ」
海燕は一旦言葉を切り……敢えて続けた。
「それと、本当の腕利きが1人いただろう……俺がやることを見物されてた様に思うんだが、あれはお前じゃなかったのか?」
グレッグの目が微かに泳ぎ。
「……今更だが、名乗っておくべきだな。それとも、名乗る必要もないか」
「隠密のサリシュアン…だな」
海燕の言葉に特に動揺も見せず、グレッグは首を振った。
「少し違う…」
「ふむ?」
「集団対集団の戦闘に置いて、最も重要なモノは何だと思う?」
「相手の情報だろう…もちろん、自分の属する集団が完全に統制されているという前提だが」
「そうだ……全欧最強と呼ばれるヴァルファの強さを支えた1つに、傭兵団らしからぬ情報収集力があったと俺は思っている」
「……」
「お前さんに説明する必要はないだろうが、本来、情報収集のためには人数が必要だ」
「……ヴァルファ結成直後から、情報収集力があったということか?」
グレッグはちょっと笑い。
「炎の部族って、知ってるか?」
グレッグの問いかけに対して、海燕は少しばかり記憶をさかのぼらせる必要があった。
「中東の…砂漠の大部族じゃなかったか?」
「……シベリアで、お前さんが倒したヨハンは、その炎の部族を率いる……まあ言ってみれば、王家の血筋をひいていた」
「……」
「炎の部族の歴史は古い……遊牧、交易、戦、ともに情報が命だ。ずっと昔から、炎の部族は、それを利用するしないに限らず、世界の各地に情報の網を張り続けていた」
「情報と言っても、色々あるが?」
短く、一言。
「裏だ」
「そうか……ヨハンは、部族を継ぐのではなく、部族を支えることを課された……言ってみれば、影の血筋か」
納得したように海燕が呟くと、グレッグは少し俯いた。
「ヴァルファは、各地に散らばる情報網を利用することが出来た……おそらくそれは、炎の部族が、ヴァルファ軍団長個人に何か恩を受けた謝礼…もしくは、ヨハンの血筋による権限…か」
「……」
「と、すると……俺がヨハンを倒したことは、かなり重大な意味があったか」
海燕は、グレッグから視線を外し。
「それで…今日は何の用だ、グレッグ」
「お前さんに聞きたいことがある」
「なんだ?」
「王女の意を受けて動いているのか?」
「どこの、王女だ?」
部屋の中の空気が張りつめた……が、それも一瞬で。
「ライズお嬢さんの事は、礼を言う」
「俺が勝手にやったことだ」
「お前さん、シンラギとはどういう関係だ?」
「毎朝、丁寧に頭を剃っている男と、ヨハンのような立場にいる男と、ちょっとした知り合いってとこだ」
「……」
「俺は傭兵だからな、戦場で会えば戦う」
「そうか、そうだな…」
「王女からは少々情報をもらった。お返し程度の働きはしたかもしれないが、命令されて、何でもそれに応えると言うことはない」
「そうか……わかった」
そういって、グレッグは立ち上がった。
「……お前さん、これまではあまり監視の目を気にしてなかったよな?」
「ああ」
「この一ヶ月で、殺されたり、使い物にならなくされた連中は何十人にものぼるが、結果として、一時的だろうがお前さんは誰にも監視されない状態を手に入れた」
グレッグが、海燕を見つめる。
「何をするつもりなんだ?」
海燕はちょっと自嘲的に笑い。
「さあな……ただ、連中を少なからず締め上げたことで、多少の情報は得られた」
「……」
何も言わず、グレッグは海燕に背を向けて…「ああ、そうだ…」と、何か思い出したようにドアの前で立ち止まった。
「ライズお嬢さんは、母親似だ」
「……どういう意味だ?」
グレッグは笑い。
「軍団長に聞いてみな……ただ、俺はその機会を作るつもりはない」
「……」
「お前さんを、軍団長の前に立たせないこと……それが俺の仕事になりそうだ」
森の中、海燕は多少苦労しつつも、お目当ての場所を探し当てる事ができた。
「さて…」
もう一度荷物を確認してから、海燕はドアをノックした。
2度。
3度。
さて、4度目をどうするか……と、思ったところでようやくドアが開いた。
「……何の用?」
半開きのドアから顔だけのぞかせて……警戒しているわけではなく、ただ単に何かの邪魔をされていらだっているだけと海燕は判断した。
「邪魔をしてすまない。以前は世話になった」
「以前…?」
指先でちょっと眼鏡の位置を調節。
「ああ、アンタか…」
「ああ、多分その『アンタ』だ」
海燕の切り返しにも、無表情で。
「で、何の用?」
「入っていいか?」
微かな間。
「……その、後ろの大荷物はなんなのさ?」
「ん、これか?」
「まあ、ぶっちゃけて言うと、今日は頼み事があってここに来たわけなんだが」
と、海燕は荷物の中から革袋を取り出して。
「まずは、金」
「……」
「ただ、金は万能とはいえないからな…」
と、海燕は金の入った革袋を置いて、次に慎重な手つきで箱を取り出した。
「甘い物…具体的に言うとケーキとタルトだ」
「……」
「女性は大抵甘い物には目がないモンだが、当然これにも例外があるからな…」
そう言って、海燕は箱を押しつけ……ここに来る途中で捕らえた鳥を、持ち上げた。
「うまい飯」
海燕の背後の……おそらくは、『うまい飯』とやらに化学変化するらしい、材料に視線を向けながら。
「……アンタが作るのかい?」
「自分では悪くない腕だと思ってるんだが」
「……」
「うまい酒もあるが?」
もしこの場に、テディがいたなら『珍しいこともあるのね』と、口にしたであろう……口元に笑みを浮かべて、メネシスは根負けしたように言った。
「ああ、わかったわかった……入んなよ、汚いところだけどね」
「……ま、たまになら悪くないね」
「と、いうか……普段はどうしてるんだ?」
テーブルの上に並べられた料理……は、元々野外料理だったせいもあるし、メネシスの実験の邪魔をしないようにという配慮もあったのだが、ラボの外で海燕が調理する羽目になったのは、そもそも、このラボに台所が無かったせいだった。
「……人を頼んでる」
グラス(食器があったことが奇跡のようにも思えるが)を傾け、メネシスが呟く。
「2日に1回、ドアの外に食べ物を置いてってくれるようにね……まあ、たまにテディなんかも医者の勉強やら、質問がどうのこうの言いながらやって来るけど、ほとんどは掃除と洗濯、アタシの食事の世話ばっかりさ」
「……ほっとけないんだろう」
「……だろうね」
メネシスが料理に手を伸ばし。
「残念ながら、今の医学は万能とは言えないからね……アタシみたいに、研究の一環ならともかく、医者として患者を診るなら、何かを諦める事を覚えなきゃいけない。もしくは覚悟を」
「……」
「でも、あの娘は、優しすぎる」
「医者としてやっていくには……だろう?」
「まあね……うまいね、これ」
ちょっと驚いたように、メネシスが口元に手をやった。
「ああ、難しくはないんだが、時間がかかる」
「……この、中に詰まってるのは米ってやつだろ……初めて口にしたけど、悪くないよ」
「港に東洋人が出入りしていてな、少し分けてもらった。俺の故郷じゃ、米は主食…」
海燕はちょっと言葉を切り。
「いや、主食とは言えないか……気軽に口に出来る人間とそうでない人間がいる」
「アンタも、東洋圏からこんなとこまで流れてきて戦争ごっこかい…」
「『ごっこ』か」
海燕は苦笑し。
「確かに、世の中にはやらなくてもいい戦争が多すぎるな」
「……逆に聞くけど、やらなきゃいけない戦争なんてもんが、あるのかい?」
「難しいな…戦争はともかく、やらなきゃいけない戦いはある。それは確かだ」
「他人を巻き込むか巻き込まないか……ってことか」
メネシスは別の料理に手を伸ばし…伸ばし…。
「ほら」
メネシスが取りやすいように、海燕は皿を押してやった。
「ああ、サンキュ」
小柄な体つきに似合わず、メネシスは旺盛な食欲を見せている……いるのだが。
「……これは、ダメか?」
「アタシ、それは苦手なのさ……アンタが言うなら、多分、味は良いんだろうけどね」
「俺の故郷では、普通に食われてる食材なんだがなあ…」
「まあ、悪魔の魚なんて名前をつけられてる時点で、こっちでの評価を期待するのは酷ってモンだよ」
「ふむ、ならばこれは俺が食おう」
と、海燕がタコ料理に手をつける。
「……っていうか、市場で売ってたのかい?」
「いや、叩き殺そうとしてた漁師に譲ってもらった」
「どのみち殺されたんじゃないか…」
「そうとも言う」
「……一口だけもらうよ。えっと…そのうねうねしたモノを想像しにくい、部分があれば…」
海燕にとってもらったそれを、メネシスはこわごわと口に運び。
「……ふん…まあ、悪くはない…けど…ね」
歯切れの悪い評価を呟いた。
そして、穏やかに時間は過ぎ。
「……さて」
きゅーっと、グラスに残った酒を飲み干し。
「酔わないうちに、話を聞かせてもらおうじゃないか」
いや、既に酔ってるように見えるが……という言葉を呑みこみ。
「ふむ…始めに断っておくが、このことは周囲に知られないようにしてくれ。それを知られると危険が及ぶ可能性がある」
「……アタシを選んだのは、そういう理由かい?」
「全くないとは言わないが、優れた頭脳の持ち主で、この件とは無関係な知り合いが他にいなかった」
「言っとくけど、アタシは化学に命を捧げてる……正直、専門分野以外はお手上げだよ」
「いや、まさにそこが重要というか……ま、聞くだけは聞いてくれ…」
デュラン国王が、王の座につく前後のドルファン国内の農業生産、商工業……つまり、海燕がメネシスの意見を求めたのは、ドルファンの経済の推移についてだった。
もちろん、経済は政治と密接なつながりがあるため……政治経済関連と言い直しても良い。
「……また、随分と生臭い注文だね」
「別に、気が乗らないなら断ってくれて構わない」
「アタシなんかより、適任がいるんじゃないかい?」
「政治に詳しい人間も、経済に詳しい人間もいる……が、多分、それではダメなんだ」
「……と、言うと?」
やや興味をひかれた感じに、メネシス。
「巧く言葉に出来ないんだが…」
と、前置きしてから海燕は語り出す。
「自分より頭の良い誰かが仕掛けた罠を、頭の良い人間は見抜くことが出来ないというか……同じ道を歩んでいる限り、自分より先を行っている相手には勝てないものだろう」
「……わかるような、わからないような」
「……全体図を把握するためには、少し距離を置く必要があるんだが、俺は頭がよいってわけでもないし、所詮は同じ穴の狢というか、似たような角度からしかこういった物事をとらえることができないんだ」
今になって思うと、ピコは自分に別の視点を与え続けてくれたともいえ……それが、自身の幅となっていた。
そばにピコがいれば……と考えても意味がない今、海燕は割り切った。
「頭が良くて、俺や他の人間が失ってしまった視点から物事を捉えることが出来る人間……思い浮かんだのは、メネシスしかいなかった」
「つまり…」
メネシスはちょっと視線をあげて。
「今の国王が、兄弟喧嘩の結果、王の座をつかみ取った……あたりの状況に、二枚も三枚も裏がある……そうにらんでるわけだ、アンタは」
「全部とは言わないまでも、そこを理解しないと……今のこの国の、現状ってやつを正しくとらえられない」
「……」
メネシスは指先でちょいちょいっと眼鏡のフレームをいじくった。
「アンタから見て、この国の状況ってのは、そんな矛盾してんの?」
「そうだな…」
海燕は指を折りつつ。
「国王の後見人だったピクシス卿のふるまい、アルビアとの友好状況、シベリアの動き、プリシラ王女に対する…」
さて、国王陛下の実の兄が、今になってドルファンに対して攻撃を……などと説明していいのかどうか海燕はちょっとだけ悩み。
「まあ、キリがないな」
「……」
眼鏡のレンズの向こうで……メネシスの瞳が、じっと海燕を見つめている。
「デュラン国王を望んだ者がいたように、国王陛下の兄であるデュノス公が王になる事を望んだ人間がいた……というか、大半はそれを望んでいた」
「望まれない弟が国王になっちまった……良くある話じゃないか」
「それを望んだ人間の顔が見えてこないんだ……ピクシス卿が、国の乗っ取りをもくろんで…という線に、俺は納得できない」
窓の外に視線を向けて。
「何かある……というより、ピクシス卿以外の誰かが、それを望んだはずだが……今のところ、経済面というとっかかりしかなくてな」
「……アンタさあ」
「ん?」
「戦争が終わったら、この国を出て行くんだろ?」
「傭兵だからな」
「アタシはさあ、この国に住んでるけれど、この国がどうなっても構わないのよ……化学の実験が続けられるなら、どこでもいいし、どうでもいいの」
「……」
「戦争に巻きこまれて死ぬのは嫌だけど……嫌だと思っても死んじゃうのが人間だし……医者のまねごとなんかやってると、死ぬときは死ぬっていう当たり前のことが、当たり前に起こるから」
「……テディもなかなか腹がすわってた」
喉元に刃を突きつけられて、震えもしない人間はそうそういない。
戦場を巡る人間も、医者も……死に接して生きていくという意味では似たようなモノなのかも知れなかった。
「……そのテディがさ、アンタのことを言うわけよ」
「……?」
メネシスが、海燕に向かってグラスを突き出した。
「おかわり」
「……」
とっとっとっ。
きゅー。
「おい、そんな一気に…」
とんっ。
「アンタは、この国に金で雇われた傭兵で…戦争が終われば、この国を出て行く……だよね?」
「あぁ…」
「なのに、この国がどうなっても構わない……とは思わないんだ?」
「この国がつぶれると、傭兵としての評価が下がるな」
「……テディがさ、アンタのこと言うのよ」
「……おい?」
「ミハエル・ゼールビスって知ってる?」
「……テディが?」
「テディじゃなく、アタシが聞いてんの」
「知り合い……なのか」
「ミハエルも私も、ガリレア先生の門下生……その反応は、ミハエルのこと、知ってるって事よね」
「ああ」
メネシスはちょっと俯いて。
「アンタってさ、家族とかっているの?」
「……」
「あ、いや、別に答えたくなかったらいいんだよ、答えなくても」
「……俺は、父と母の顔を知らん」
「……」
「養母は殺された、養父は……どうかな、俺が国を捨ててから10年以上経つ」
どこか居心地悪そうに、メネシスがフードをかぶった。
「悪かったね…変な質問をして」
「いや」
「アタシは、ちょっと…わからなくて……家族って、わからなくてさ……だから、アタシは、ミハエルがあの時……どんなショックを受けたか、全然わからなくて…アタシ、化学しか知らないから…何も気の利いたこと言ってあげられなくて…」
メネシスの背中が丸くなっていく。
「そして、ミハエルは、ガリレア先生と私の前から姿を消したの…」
「そうか…」
「……」
ぽつりと。
「今、どこで何をやってるの…ミハエル」
「聞いて…どうする?」
メネシスは首を振った。
「どうもしない…けど、ただ…元気かなあって…また、あの朗らかな微笑みを浮かべられるようになっていたらいいなあって…ただ、それだけ」
「そうか…今度会う事があったら、伝えておく」
「ありがと…ごめん」
「ん?」
「アタシ…酔ってる」
「それはわかる」
「……寝る」
「そうか…ベッドは…?」
「毛布が…」
メネシスの腕が微かに動いたが…そのまま動かなくなり、静かで規則正しい寝息を立て始める。
「……」
どうやらラボの中に決まった寝床はないらしく、海燕は暖炉のそばに毛布を使って寝床を作ってやり、そこにメネシスの身体を横たえてやった。
「……まあ、食器ぐらいは片付けておくか」
空いた食器を手早く洗い、片付けてから……海燕は、メネシスのラボを後にした。
真夜中の森の中は、真っ暗で……月明かりも星明かりも届かない。
「……ゼールビスの知り合いだったとはな」
吐く息の白さも見えず。
温暖なドルファンとはいえ、2月上旬、それも真夜中ともなれば、身体を動かしていても容赦なく足下から熱を奪われていく。
もちろん、海燕はそれを苦にしない……が、身体の反応は多少鈍くなる。
「……」
海燕は、ちょっと足を止めた。
さわ…さわさわさわ…びんっ。
葉なりに合わせて、響く音。
その瞬間、いや、それよりも早く海燕の身体は大きく横へ……空気を切り裂く飛来音が、それが矢であることをあらためて海燕に教えた。
「…?」
第二、第三の矢が、樹木の合間をぬって、正確に海燕に襲いかかる……のだが。
「ルーナか?」
闇に向かっての問いかけ。
相変わらず、視界は効かない……が、そこに彼女が現れたことが良くわかった。
「わかりますか?」
「殺気がなかったからな」
「殺気を消せないようでは二流です」
「いや、消す消さないじゃなく、殺気そのものがなかった」
闇の中で、ルーナが笑った気配を感じた。
「まあ、大抵の人は今ので殺れるんですが」
「銃を使うまでもない…か」
気配に近づいていくと……海燕を先に行かせて、ルーナが後をついてきた。
「……あまり、無防備な背中を見せないでください」
「そう、見えるか?」
「いえ、言ってみただけです」
「1つ、聞いていいか?」
「何でしょう?」
「尾行けたのか?」
誰かに尾行けられていないか、それだけは注意していたはずなのに……もちろん、ただ尾行けるだけ、の方が有利なのは確かだが。
「いえ……今日、ではなく昨日の朝からこの森に」
それはつまり、読まれていたということだった。
「そうか…遅くなってすまなかったな」
「教会をあまり留守にはしたくなかったのですが」
2人が下草を踏む音、風の音、葉なりの音……やがて、森を抜けた。
闇に慣れた目に、月明かりは十分すぎたが……海燕は振り返らずに。
「どうする?」
「話を」
「人目につかない方がいいな」
「そうですね」
「森の中でも、良かったんじゃないか?」
「いえ…木々のざわめきが、心を騒がせますから」
「そうか…」
フェンネル駅へと続く道には向かわず……2人は、別の方角に足を向けた。
「……いい夜ですね」
「風がほとんど無い、という意味か?」
背後で、ルーナが声を上げずに笑った。
「……私の故郷では、風は気まぐれの代名詞でした」
「……」
「急に強く吹いたり、止んだり、向きを変えたり……運任せで引き金を引くようでは、プロとは言えませんから」
「……何かあったのか?」
「……どういう意味でしょう?」
「機嫌が…いや、気分がいい……そんな感じだ」
「否定はしません」
「……」
「つまり、もう私はプロではないということでしょう」
そこでようやく、海燕は後ろを振り返り。
「そう、なのか?」
「……そのつもり、ですが?」
いつもの……というか、以前に見た白い修道服とは対照的に、ルーナのまとっている修道服は闇の中に溶け込むように黒い。
「……なにか?」
口元の、消えない笑み……それを見つめながら、海燕は言った。
「……神は、お前を救ってくれないだろう?」
口元だけでなく、笑いが目元にまで現れた。
「よく……ご存じなんですね」
「話が通じる…というだけだ」
「……十分でしょう、それで」
ルーナはちょっと胸の十字架を指先で探り……そして、言った。
「貴方の殺し、拝見しました」
「……なるほど」
海燕の呟きに、ルーナの目元が微かに動いた。
「……さっき、私が矢を放つ寸前で飛ばれたのもそうですが、その反応はちょっとショックです」
「理由を教えるのは、少し怖い気がするな…それに、銃が相手ならあのタイミングでないと避けられないだろう?」
「……私の尾行に気付かなかった…それを助言と受け取らせてもらいます」
礼儀正しく(?)、ルーナは一礼し……。
「貴方が、死神なんですか?」
いきなり切り出した。
「……同じ話を、以前したような気がするが?」
「『死神という異名を持つ、凄腕の傭兵』……と、貴方のことを聞いていただけですよ、私は」
「……」
ルーナは、海燕から視線を外すだけでなく……身体ごと横を向いた。
「鍛冶屋が、パンの作り方に興味は持たないでしょうし、そういうことを語る人間と付き合いを深めることは稀でしょう」
「……?」
「同じように、パン屋ならパン、農家なら農業という風に、接する人間も含めて、ごく自然に自分が接する情報がその方面に偏っていきます」
「……」
「情報、そして情報とも呼べない噂の類……暗殺を生業に生きて来た私の耳に聞こえてくる噂は…」
くすり、と笑って。
「その中に、『死神』という名が出てくる噂がありました」
「なるほど…」
海燕はため息をつき。
「……どんな噂だ?」
「遙か離れた東洋圏のどこかに、暗殺者を養成する村がある……素質があると認めた子供を集め、課せられる過酷な訓練は、100人に1人が生き残れるかどうか」
「……そこは噂じゃないな、事実だ」
「……多少、オーバーな話と思っていたのですが」
「山奥や島など、人目につかない場所に、そういう村が無数にあって……両親から金で買ったり、身寄りのない子供や、さらってきた子供を集め、訓練し……そこで生き残った子供は、次の村に移される」
「……」
「……生き残るのが100人に1人は言い過ぎかも知れないがな、暗殺者として仕事をするのは、何百人に1人という割合だったはずだ」
「……当然、殺し合いも…?」
「ある……村を脱走しようとした子供なんかも、子供達の手で殺させる。最初に、顔見知りを殺させることによって罪悪感を抱かせ、縛り付けることが狙いだろうがな」
「……哀れな」
そう呟いて胸の十字を握りしめたルーナに、海燕は少し救われた気がした。
同時に、ルーナがどういう経緯でその道を選んだのかという疑問が浮かんだが、それを口に出すことはしない。
「では、貴方が……その村を……その1つを潰した…という事ですか?」
「その通りだが、多分違う」
「……」
「全部……ではないが、ルートをたどる形で生き残りが最後に送られる場所は潰した、ただし2人で」
海燕は、吐き捨てるように言葉を続けた。
「あれから何年も経った…また元通りに、もしくは似たような新しい仕組みが出来ている可能性はあるな」
「……」
「そんな大がかりな養成機関を維持するための金が、どこから出てくるか考えればわかるだろう……暗殺者に、最も多く仕事を依頼する人種」
「国…ですか」
「養成する側も、そこはしたたかでな……複数の国がパトロンとして、しかもパトロン連中には、お互いの存在を悟らせなかった」
自分たちの金によって育てられた暗殺者が、同じく金を出した他国のために働き、時には、自分たちにその刃を向ける。
暗殺や諜報という後ろ暗い仕事を生業とする者にとって、戦乱、国同士の緊張は無くてはならないものとなる。
連中は、パトロンそのものも食い物にして、政治を操っていたとも言える……が、これはまた別の話である。
「正直、あまり思い出したくはないな…反吐が出る」
「そうですか……」
「その時、俺と一緒に戦ったのが、ルーナの言う『死神』だ」
ルーナが、海燕を見つめる。
「……素敵な人だったんでしょうね、その方」
何も応えない海燕を見て、ルーナは少し笑い。
「先日、シアターで事故があったのはご存じですか?」
「事故?」
「ええ」
ルーナが小さく頷き。
「天井に設置していた器具が落下して、下にいた俳優を直撃したそうです…死にはしませんでしたが、大ケガです」
「……事故なのか?」
「偶然にしろ、仕組まれていたにしろ、事故は事故でしょう」
「確かに、そうだ」
「それともう一つ」
「……」
「サンディア岬の灯台……えっと、ご存じでしょうか」
「教会の先の、岬の灯台だな」
ルーナは小さく頷いて。
「先月、いえ、先々月に燐光石を交換したばかりなのに、明かりが点かなかったそうです」
何でもないニュース。
いや、こうしてルーナが海燕に知らせてくるということは、何らかの意図があるにせよ、何でもないニュースのわけはない。
ちなみに、燐光石は6ヶ月程度反応し続ける(光を出し続ける)、昨年反応時間を延ばす事に成功(6ヶ月…7ヶ月へ。ただし、そのための薬品が高価)。
「……また、シベリアの船が入ったか」
「……おそらくは」
「いつだ?」
「昨日、いえ、一昨日から昨日の早朝にかけて……かと。確認はせずに、森に来ましたから」
「そうか…」
海燕によって欠員となった人間の補充……だけでもあるまいが、自由に動ける期間は終わったと思っておいた方がよいだろう。
「礼を言う」
「……教会のシスターが、傭兵宿舎を訪れるのも奇妙な話ですし」
「そうだな…」
と、ルーナが『死神』の話を持ち出してからようやく、海燕は苦笑を浮かべることが出来た。
「タイミングが良すぎるな」
「貴方は腕が立ちます…表も、そして裏も」
「……?」
「ですが、腕だけでは…」
ルーナは、やや自嘲めいた笑みを浮かべ。
「貴方には、運がある」
「そうだな、それは認めるよ」
本当ならとうに死んでいた……その意識が、常に海燕にはある。
生き延びた、と言うより、生かされた。
養父、ピコ、そして……海燕が選べるモノではなかった出会いは、運としか言いようがないだろう。
「謙虚ですね」
と、ルーナは笑い。
「あと、これは貴方に直接関係のある情報ではありませんが…」
そう前置きしてから、ルーナは言葉を続けた。
「ハンガリアで、ボルキア回帰を目指す連中が少々荒っぽい動きを示すようです」
「……」
「お答えできることなら」
「いや……ヴァルファが今になって、ドルファンに対して戦いを仕掛けるのもそうだが、何かが動くには何らかのきっかけが必要になってくるものだろう」
「全てが、とは言えませんが」
「おそらく、何かがあったんだろう」
「……かもしれませんね」
何故、今になって……と思えることは他にもあった。
たとえば……何故今になって、『偽王女は国外に追放』などという文書がばらまかれ始めたのか……も。
「それでは、私はここで失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
海燕の言葉に、ルーナはきょとんとした表情を浮かべ……少女のように笑った。
「ええ、ありがとうございます、海燕さん」
もう一度頭を下げ、ルーナは闇の中に溶け込むように姿を消した。
確かに、ルーナに対して『気をつけて帰れ』という言葉は無意味だったかも知れないが、それとこれとは話が別である。
そして海燕は、空を見上げて。
「……事故、か」
ティーナ・ステラ……本名ではないにしても、そう名乗った少女が被害者なのか、それとも難を逃れたのか。
『殺すべきだと判断したら、貴方は私を殺してくれる?』
あの、真剣な瞳が、海燕の中で今夜のルーナとだぶった。
ひょっとしたら、ルーナはティーナに会いに行ってやれと言いたかったのかも知れない……が、それは出来ない相談だった。
ティーナの抱えている事情、秘めている決意がどうであれ……ティーナ自身は、大した戦闘力もない少女に過ぎない。
海燕が会いにいく……それは、相手を危険に遭わせるのと、ほぼ同義だ。
今、海燕の周囲のバランスは崩れている……どういう形であれ、釣り合いがとれない限りは、海燕は1人で過ごすしかない。
D28年2月6日、ザクロイド財閥は『ノーラッド計画』を発表。
簡単に言うと、熱帯圏におけるダイヤ鉱床の調査、発掘の計画であるが、熱帯圏と呼ばれる地域そのものが、人類にとって……いや、欧米文明圏にとって未開地帯であり、その進出そのものに未だ成功例はないことから、この計画が冒険であり、ある種の賭であることは言わずとも知れる。
ただ、新年早々に、親娘とはいえ、実質はクーデターによるトップ交代をなした、リンダ・ザクロイド……ザクロイド財閥の新しいトップが初めて掲げたモノである。
ある者は、所詮は小娘の……と蔑み、またある者は、実現性はともかく、目の付け所は悪くない……と、評価した。
敢えてこの時期にリンダがこのような計画を発表した真意を、見抜いた者はほとんどいなかったし、リンダもまた、自分の真意を周囲には決して漏らさなかった。
ただ、世界におけるダイヤの生産はシベリアが大半を占めている。
つまり、良くも悪くも、シベリアに対して喧嘩を売る計画には、違いない。
「……リンダ様、ハンナ・ショースキーという少女が面会を…その、なんといいますか」
リンダは、書類に目を通しながらため息をつき。
「通してちょうだい」
「…ですが」
「あのお猿さんは、1度会わないと、絶対に引き下がりません」
「猿…な、なるほど」
一旦口元を押さえ、慌てて表情を取り繕い、新しい執事見習いは出て行った。
ザクロイド家ともなれば、執事は1人だけではない。
全てを統括する第1執事の下につく形で、3人の執事が割り当てられた部門を担当……屋敷の中の細々とした用事は、その下につく執事見習いが担当することがほとんどだ。
かつて、執事見習いとして屋敷にいたルークは、1月半ばで失踪し……今の男は、その後釜というわけである。
言うまでもないが、ルークが既にこの世にいないことをリンダは知っていた。
ごんごん。
乱暴なノック。
執事見習いの苦り切った表情が目に浮かび、リンダは笑みを浮かべ……すぐに、それを消した。
「どうぞ」
「やっほー」
ドアを開け、まずこれだった。
視線で、微妙な表情の執事見習いを部屋の外へ追い出してから。
「……何の用ですの?」
「いや、別に」
「何もないのに、私に会いに来るほど親しい間柄でもないでしょう?」
「ん、いや、そーなんだけどさ…」
と、ハンナは困ったように呟き。
「わかんないことは、リンダに聞けって言われたんだ」
『友人だろう?』と、したり顔でうそぶく海燕を想像し、リンダは口元を歪める。
「……押しつけましたわね、あの男」
「え?」
「いえ、別に」
リンダはしれっと答えた。
少なくとも、あの男はリンダの依頼に応えて、ルークを消してくれたのである……その報酬は払われるべきであった。
「それで、何が聞きたいんですの?」
「……」
「……?」
「リンダって、海燕と親しいの?」
「なんですの、いきなり?」
「いや、だって、ボク、誰に言われたか、なんて一言も言ってないのに、リンダは全部わかってるみたいな感じだし」
また、面倒くさい話を…、とリンダは再びため息をついた。
「海燕が誰かと仲良くなるのは勝手だけどさ……何で会っちゃいけないのさ?話しかけるのもダメって…ボク、そこまで嫌われてるとは思えないんだよね」
まず……ハンナには難しい話は通じない。
というか、そもそも、今海燕に近づくことがどれだけ危険を伴うか……などという事情を、事細かに説明することが不可能なのである。
「……弱りましたわね」
リンダは、ハンナのことをよく知っていた……少なくともよく知っているつもりである。
まっすぐに、ややまっすぐすぎるきらいはあるが、おかしな事はおかしいと、周囲の空気を読まずに声を出してしまう人間である。
そこが、リンダにとって好ましいのであるが……。
リンダは、ハンナを見た。
ハンナは、リンダの言葉を待って、ただ見つめている……その視線に、気後れを覚えた瞬間、リンダは理解した。いや、頭で理解していたことを、全身で理解したのだった。
ルークには消えてもらう理由があった……自分のために、ザクロイドを支えてくれるみなのために、そしてこの国を守るために。
自分の手ではなく、他人の手を借りて、という部分に、リンダ自身、浅ましさを覚えていたのだが……話を聞き終えると、海燕は全く別の角度からリンダに警告を与えたのだ。
『俺は、綺麗事を言うつもりはない…世の中には、殺された方がよい人間がいる事には同意するし、むしろ殺されるべき人間がいることも認める』
海燕の視線……それが、自分の手に向けられて。
『リンダ、お前の覚悟は十分伝わるし、それが必要な理由も俺には理解できる……が、お前の覚悟は半分だけなんだ』
殺される側ではなく、殺す側の心に起こりうる変化……海燕に指摘されるまで、確かにリンダは思いも寄らなかった。人を殺すことに正当な理由をつけること、それはもはや傲慢の域を超えている。
『自分が他人の生死を左右できると考えにとらわれた瞬間、幸福とか喜びとか、そういったモノを求める資格を失うんだ…自分が人間であるという意識を持つことは許されない……それを忘れないことでようやく、生きることが許される』
リンダは、あらためてハンナを見た。
魂が穢れるというのはこう言うことなのね……と、リンダは心の中で自嘲的に呟いた。
「あの男が、金で雇われて仕事をする傭兵なのは、貴女も…」
「あの男って言い方はやめてよ、海燕には、海燕って名前があるんだからさ」
「そうでしたわね…」
と、リンダは素直に頷いた……ただし、心の中で、ほぼ間違いなく偽名ですけど、と呟きつつ、だ。
「海燕は今、ドルファン王家に雇われて、秘密の仕事に従事しているわ」
「え?」
「海燕がこの国に来てから、戦場で抜群の働きを見せているのは、貴女だって知っているでしょう……海燕はその腕を見込まれて、ドルファン王家に、新たな仕事を依頼された」
「そ、そーなんだ…」
ハンナが頷く。
「私はザクロイド財閥の当主になりましたから、その手の情報は耳に入ります」
まあ、本当ならそんな情報が耳に入って来るのはまずいのだが……あの、ハンナが、そういうツッコミをいれてくるはずはないと計算して釘を刺しておく。
「危ない…仕事なんだ?」
「さあ、戦場とどっちが危険なのか、私にはわかりかねますわ」
そう口にしたが、当然リンダにはわかっている。
シベリアのみならず、各国の特殊任務に就く人間の帰還率は、任務にもよるが1年で50%程度……それに対し、参加した半数が戦死する戦いなどほぼ例がなく、1割死ねば、それは勝ち戦ではなく、負けた側なら惨敗と評される。
諜報、暗殺……そういった後ろ暗い任務に就く人間に、降伏は認められないし、とらえられたときの処分も、表に出てこない分、むごく、厳しい。
ルークも、そうだったが……そこに、リンダの意志が働いたとされるのを避けるために、それを海燕に押しつけたが、押しつけるまでもなかったのかも知れない。
海燕に吸い寄せられるように、多くの人間が殺され、またその能力を奪われた。
正直、リンダには海燕の目的がわからないでいた……が、ほぼ無条件にリンダは海燕を信じている。
それが何故なのか……と考える時期は過ぎていた。
「仕事のためには、ボクが邪魔って事?」
「貴女が誘拐されたら、海燕は貴女を救おうとするでしょうね」
「ボクじゃなく、誰にでもそうだよ」
ハンナの心には、あの時の……何のゆかりもないこの国の人間を守るために、猛獣に立ち向かった海燕の姿が強烈に焼き付けられている。
『人を守れっ、守って死ねっ!』
その言葉を口にし、なおかつ、行動に移せる存在。
「……ちょっ、ハ、ハンナっ?」
涙をぽろぽろとこぼし始めたハンナに、狼狽するリンダ。
「ボク…海燕のこと…好きなのかなあ…ううん、好きなんだ…きっと」
ぼそぼそと呟きながらハンナは泣き続け、リンダはザクロイド家当主という立場を忘れて、気の利いた言葉も浮かばず、ただハンナを見守るだけしかできなかった。
「あー、なるほど…」
本を閉じ、メネシスは呟いた。
国の歴史はもちろん、人口、生産に関わる数値は、国力そのものを示す。
早い話、一般市民が閲覧できる資料は限られているわけで。
もちろん、海燕はどこからどうやって手に入れたモノか、かなりの資料をメネシスのラボへと置いていったのだが。
「データ不足だね、こりゃ」
渡された資料からでも、ある程度の推測は可能だが。
良くも悪くも、メネシスは研究者気質というか……とことんまで調べないと気が済まないタイプだった。
これ以上の資料となると…王族および、政治に関わる人間に接触する必要がでてくる。
「メネシス先生、調べ物ですか?」
メネシスはテディに視線を向け……。
「そういや、アンタ……ピクシス家の…分家の娘と知り合いって言ってたっけ?」
「え、あ…セーラさんですか?」
テディはちょっと表情を曇らせ。
「ええ、まあ…」
「……確か、生まれつき身体が弱かったんだっけ?」
「心臓…です。胸から聞こえる異音と、脈の打ち方から、おそらくは、欠陥があるのは間違いないかと…」
「なるほど」
テディと違って、メネシスに少女に対する同情はない。
同情したからと言って、何かが好転するわけでもないというか……非情と言うより、メネシスは実利的なモノの考え方をするだけである。
「悪いんだけどさ、アタシを、紹介してくれない?」
「え?」
「ちょっとね……手に入れたい書物があるんだけど、そのコネって言うか、欲しいの」
「……」
「その娘、セーラの診察ぐらいはするよ……まあ、何が出来るかわからないが、出来ることはする」
「当家執事のグスタフと申します」
と、名乗ったグスタフと会った瞬間、メネシスは色々諦めた。
小手先の理由では、決して納得させられないというか……まあ、曖昧な言い方は、かえってはねのけられるというか、正直に話さざるを得ず、それはそれで断られると思ったからだ。
「いや、悪いんだけどさ、正直に言うと、アタシ、コネが欲しくてここに来たのよ……テディには何の責任もないから、責めないでやってくれない?」
「さて、どういうことですかな?」
「……テディ、アンタは外しな」
「…はい」
納得したようではなかったが、テディは頭を下げ……出て行った。
「それで」
このじじい、どこか雰囲気がガリレア先生に似てるな……と思いつつ。
「この国のね、資料が欲しいのよ……30、出来れば40年ぐらい前からの、人口調査やら、農業生産、工業生産、租税額……」
「……最近の、ではなく、昔の、資料ですかな?」
「アタシは、元々この国の人間ってワケじゃないし、うさんくさいのはわかってるけどね……まあ、アンタがアタシに騙されると思えなかったし、正直に言うしかないと思ってさ」
居心地悪そうに、メネシスはグスタフの視線から顔を背けた。
「最近のデータは、いらないと仰る?」
「10年前ぐらいまでかな……まあ、ぶっちゃけた話、今の王様になってから、この国の産業構造がどう変わったかってのを知りたいのよ」
「……貴女は、名高い化学者でいらっしゃる」
「悪名高い、の間違いじゃないかい?」
メネシスの言葉を聞き流して。
「理由をお伺いしても、よろしいですかな?」
「理由次第では、って受け取っても良いの、それ?」
「さて、どうですかな……当家は、ピクシスの分家に過ぎません。貴女の願いを受け入れたところで、その資料が手に入るとは、お約束は出来ません」
「そりゃそうだ」
「……」
「……」
「……セーラお嬢様の身体を治す、という駆け引きはうたないのですな」
「診察もしてないのに、いい加減なことは言えないね。アタシは出来ることしかできないし、祈るのは嫌いさ」
「ふむ…」
グスタフは少し考え。
「セーラお嬢様を、診てくださいますか?」
「そりゃ、アタシは構わないけど……」
「セーラ・ピクシスです」
「……アタシはメネシス」
「……」
それだけですか、と言いたげなセーラの視線に気付いて。
「アタシは、メネシス。捨て子だったから、姓はないのさ」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないさ……アンタの身体が悪いのと同じで、誰が悪いって話でもないし、アンタだって謝られても困るだろう」
「そうですね…」
「……っていうか、アンタちゃんと食べてる?」
「いえ、あまり…」
「寝てる?」
「いえ、それもちょっと…」
メネシスはため息をつき。
「アンタ、死ぬよ」
「ちょっ、メネシス先生っ」
テディが、腰を浮かした。
「黙ってな、テディ。今のアタシは医者だ」
「……」
テディがおとなしく腰を下ろす。
「今の…ということは、普段はお医者様ではないのですか?」
「アタシは化学者……知らないとは思うけど、ガリレア先生の門下生」
「まあ、そうなんですか」
「知ってんの?」
「はい、お名前だけは…」
「……身体、横にしな。辛いんだろう」
「……失礼します」
テディに背中を支えられて、セーラは横になった。
「触るよ」
メネシスの手がセーラの脈を取り、同時に、薄い胸に手を当てた。
心臓の動きと一致しないだけでなく、脈そのものが弱い。
手首から、脇の下へ……セーラは身じろぎもせずに、それを受け入れた。
脇の下から首筋。
少女の、診察になれている様子を少し悲しいと思ったが、メネシスは淡々と診察を続けた。
「うん、なるほど…」
メネシスがそう口にするまで、それほど、長くはかからなかった。
「どうしようもないね」
「……ですから、先生」
メネシスのこういう物言いには慣れているはずなのに、テディがうなだれた。
対照的に、セーラは穏やかに微笑んでいて。
「……何か、おかしいのかい?」
「いえ、診察を始めてすぐに難しい顔をして、慌ててそれを隠して、私の前では、何も言わないのが、お医者様だと思ってましたから」
「だから言ったろ、アタシは医者が生業じゃないって」
ちょいっと、指先で眼鏡のフレームをいじってから。
「自覚はしてるだろうけどね、アンタの心臓は治らない…少なくとも今の医学では」
「はい」
「切り傷なんかは、時間が経てば治る……けど、切り落とされた腕は、新しく生えては来ない」
メネシスは、ベッド脇のテーブルからペンと紙をとりあげ……手早く、絵を描いた。
「いいかい、セーラ……心臓ってのは、大体、こういう形をしてる」
「……こんな形を?」
セーラとは別に、さっきまでうなだれていたテディが首を伸ばしてのぞき見を始めたが、放っておいた。
「全身を巡った血が戻ってきて、また全身へ送り出される……人間って生き物は、血を失いすぎると死ぬんだよ。それはつまり、この心臓がきちんと機能しないと、生きていくのに十分な血が全身へと巡っていかないってことさ」
絵の上を、ペン先が動き回るのを診ていたセーラの目が、少し焦点を失い。
「つまり、私の心臓は…」
「うまく機能してない…きちんと血が流れてないっていうか、まあ、アタシも身体の中が透けて見えるってワケじゃないから」
「……」
「死んだ人間のね、身体を開くの……どこに何があって、どういう働きをしてるのか。世界中で、多分いろんな人間がそれを調べてる……助けられる人間を助けられるように、もしくは……いや、なんでもない」
助けるための研究があるなら、当然殺すための研究もある。
人間の身体のどの部分をどうすれば死ぬのか……少なくとも、医者なんかより、後ろ暗い仕事をする連中の方が詳しかった時代があったはずだった。
いくらきれい事を言っても、医学は、知識の積み重ねであり……それは、どれだけ多くの死を見つめてきたかという事に他ならない。
「ただ、勘違いしてもらっちゃ困るんだけどね」
「え?」
「アタシがさっき言った『死ぬ』ってのは、アンタが無茶をやってるから」
無言で、セーラがメネシスを見つめる。
それがどうした、という感じで、メネシスは指先で眼鏡の位置を調節して見返した。
「メネシス先生」
「何だい」
「その癖、やめた方が良いと思います」
「癖?」
「はい、その、指先で眼鏡のフレームを弄る癖です……片手でそれをやると、眼鏡の型が歪んでしまうから」
そう言って、セーラは両手で自分の眼鏡を外し、ベッド脇のテーブルに置いた。
「メネシス先生の眼鏡、こうしてテーブルに置くと、片側のつるが浮いてしまうんじゃありません?」
「……アタシ、人前で眼鏡を外すのは嫌いなの」
「ふふっ」
セーラが、笑う。
「……調子狂うね、この娘は」
と、メネシスはため息をつき。
「ジャムは好きかい?」
「え?」
「蜂蜜は?」
「?」
「甘い物は好きかって、聞いてるの」
「は、はい…」
「紅茶は?」
セーラが曖昧に頷くと、メネシスはこれで決まりだという感じに、手を叩いた。
「紅茶に、ジャムか蜂蜜をたっぷりぶち込んで、毎日最低5杯は飲みな」
「ですが、それだと紅茶の味が…」
「薬だと思うんだね」
「…はい」
「……いっとくけど、治療じゃないよ」
「はい、メネシス先生は、はっきりと『治らない』と仰いましたから」
「……もっと、弱々しい娘を想像してたんだけどね」
「どうですかな?」
「扉の外で、アンタ聞いてただろ?」
「おや」
グスタフの片眉が上がった。
「人間の身体ってやつは、うまくできすぎててね」
「ふむ?」
「毎日毎日、馬鹿みたいに走り回ってたら、身体はそれに順応していこうとする……まあ、もっと楽に走り回ることが出来るようにね、強くなんのよ」
「ふむ」
「逆に、毎日毎日寝て過ごしてると……弱っていくのさ」
「……」
「人間の身体ってのは、求められている以上に強くも弱くもなろうとしない……1時間走り続けても平気だったのが、半年もぼーとしてると、5分で息が切れてしまう」
さて、ここから本題……という風に、メネシスはまた指先で眼鏡のフレームをいじった。
「あの娘の心臓は、強い負荷に耐えられない……あの娘も、アンタ達も、あの娘の発作を痛みとして心に焼き付けてる」
「…安静にさせているせいで、セーラお嬢様の心臓がさらに弱くなった、と?」
「残酷だけどね、どっちが正しいかはアタシにもわからないのさ……人間の身体っでやつは、嫌になるぐらいおおざっぱなところがあるくせに、嫌になるぐらいデリケートだからね」
「……」
「ほんのちょっとしたことで、ほんのちょっとした手違いで人は死ぬ……だから、心臓の発作が起きること、これは絶対に良くないことさ。でも、それを恐れて安静にし続けていると、ますます心臓の発作が起こりやすくなることも、間違いないのさ、これが」
「蜂蜜かジャムを入れた紅茶を最低5杯…というのは?」
「モノを食わなきゃ人は死ぬ……凍えて震えている人間に何かを食べさせたら、身体が温かくなって震えが止まる……何かを食べるって事は命を食べるって事だとアタシは思ってる」
「……なるほど」
「別に、もりもり食わせなって言ってんじゃないよ……太るのも、心臓に負担を掛けることだからね。ただ、身体がきちんと動くだけのモノは食べさせなってことさ……食が細そうだから、飲ませるしかないだろ」
メネシスは、グスタフに断りも入れずにフードをかぶり。
「アタシは、あの娘に今のまま生きていけって言ってるわけだ……多分、残酷なんだろうね」
「メネシス様」
「様はよしとくれ…こんなのは、診察でも何でもない」
メネシスの脳裏に、ミハエルの顔が浮かぶ。
「なにもできないってことは、何もやらなかったのと同じ事さ」
そしてメネシスは、グスタフに背を向けた。
「……」
メネシスを引き留めるのは…少なくとも物理的に引き留めることは容易だったが、グスタフは敢えてその背中を見送り、ぽつりと呟いた。
「……あの方も、何かに傷ついているのですな」
メネシスよりも遙かにそれをうまく隠してはいたが、海燕もまたふとした言動に深い傷跡を感じさせたものだった。
「んー」
青空に向かって、大きく伸びをする。
小高い丘の上……と言っても、南と西は断崖絶壁で、そのまま海である。
最初は気になって仕方がなかったが、潮の香りにもすっかり慣れた…つもりだが、セバスに言わせると、『慣れたと思っているウチは、まだまだですぞ』とのことらしい。
腰を下ろし、しばらく海を見ていた。
船の姿でも見えるかと思ったのだが、このあたりは潮の流れが複雑だし、そもそも砂浜もないから船はあまり近寄らないと言ってた事に、偽りはないようで。
軽くジャンプし、振り返る。
村に向かってなだらかにくだってゆく斜面には、草に混じってぽつっぽつっと、小さな白い花が咲いていた。
「へっ」
コーキルネイファは、意味もなく笑いを浮かべ、丘をおり始めた。
ハンガリアの南西部、といってもドルファンの国境からは遠い。
2月になってからというものハンガリアはテロが続発していて、ついこの前はボルキア回帰をもくろむメンバーが、民間船乗っ取って、ハンガリア政府に要求を突きつけた…などという事件まで起こっている。
ただ、ハンガリア国内のそんな騒動からも、この村は遠いところにあった。
「よう、ばあちゃん。腰の具合はどうだ」
「おかげさまで」
老婆が、笑顔を浮かべて頭を下げる。
セバスの故郷、そして自分の父親が治めていた領地の一部……と言われてもコーキルネイファにはピンと来ない。
ただ、村の人間が寄せてくれる好意そのものは、悪くなかった。
王宮勤めで、ほとんどここには顔を見せなかったらしいが、多分、父親は彼らにとってよい為政者だったのだろう。
もちろん、今は違うが……田舎では、時の流れが緩やかだ。
新しい政府がいくら声を上げても、いくら制度を変えても……田舎では、ゆっくりと、ただゆっくりとしか変わっていかない。
「どうした?」
道ばたで男の子が泣いていたのをみつけ、コーキルネイファは近寄った。
「……」
何も言わないが、汚れた服と膝から血が滲んでいるのに気付いて。
「んだよ、転んだだけか、おめぇ」
井戸まで連れて行ってやり、傷口を洗ってやる。
海が近いせいか、村の井戸は少し塩の味がする……塩の味がしない水が欲しければ、村からは少し離れなければいけない。
「……ありがとう」
「洗っただけだ、後はかあちゃんに見てもらえ」
「うん」
コーキルネイファに尻を叩かれると、男の子はくすぐったそうに笑い、駆けていった。
腰に手を当て、空を見上げると……鳥が一羽、上空でくるくると旋回しているのが見えた。
「……」
足下に、視線を落として。
「いいところだな」
そう、呟いた。
多分、セバスはこの村で死ぬ……ここなら、いいと、素直に思えた。
「…行くか」
次の日の朝、コーキルネイファは、セバスとセバスの幼なじみだという老女に見送られながら、村を出た。
その背中が小さくなり、見えなくなったところで…老女、アニタが口を開いた。
「セバス様…1度しかお聞きしません」
「……」
「あの方は…本当に?」
「知らなくていいことはある」
アニタは微笑み。
「セバス様は、これからどっと年を取られますよ」
「……」
「本当は私の方が年下なのに……こんなおばあちゃんになってしまいましたわ」
「すまぬ」
アニタは首を振った。
「コーキルネイファ様だけではなく、皇太子様からも頼まれたのですね」
「……」
「何も教えないままで、よろしいのですか?」
「教えてどうする…知ってどうする……己が血に縛られて、生きるが幸せか?ワシにはそう思えぬ……この国は、王を必要としない事を決めたのだ」
「わかりました、セバス様…」
そういって、アニタは目を閉じた。
遠い昔、そう、ハンガリアがまだボルキア王国だった頃……アニタは一時期、王宮で働いていた。
それを覚えている者も、村ではもうほとんどいない。
時間は、いろんな事を風化させ、消していく。
「……すまぬ」
「もう、いいんですよ…セバス様」
アニタはそっと、セバスの手を取って。
「いいんです……セバス様は、約束を守ってくださいました」
スパン・コーキルネイファ……全欧最強と評されるヴァルファヴァラハリアンの将軍が1人、迅雷のコーキルネイファ。
彼が向かう先は……ドルファン。
海燕が意図したわけではないが、彼と関わった点は、新たな線を描き出そうとしていた。
続く。
まあ、本当は4月まで行きたかったのですが、3月は色々と大事件があって、そこだけで1話書けそうだから、ここで切りました。
1年が大体5話だぜ……などと言ってましたが、中途半端で申し訳ない。
なんか、全16話になりそうな気配が漂ってきましたが、ま、ちょと覚悟はしておけ。
さて、だいぶ『忠実か?本当に原作に忠実か?』などというツッコミが蝉のようにかまびすしく……うるさい黙れ。(笑)
3メートルでは大してずれは生じないが、300メートルだと大きくずれるというのはこういうことですね。
テラ河の戦い。
前話で書いたレッドゲートの故障なんかも含めて、当然こういう推測は出来るよなあ……つーか、なんで3大隊しか出動させないんだよ、絶対これ、情報漏れまくりだろ、打算と裏切りに満ちた、情報戦が行われているのは間違いないですよね?
防衛ラインを敷いて、小部隊が長躯、奇襲……ロマンですね。
リンダ・ザクロイド。
親が子を、子が親を……うーん、スパルタン。(意味不明)
リンダを新しく当主に迎え、ザクロイド財閥がどういう役割を果たすのか……そして、燃え尽きたオーリマン卿と、左遷されるキルギスキー卿の友情は。(笑)
リンダの重要度が上がったのはこれで明白ですが、はたしてハンナはここからどう関わってくるんだろう……などと、想像をたくましくしていただけると幸いですね。
グレッグ。
まあ、脇役なら最初からあんなに出番与えませんよ。(笑)
ルーナ。
だから、脇役なら最初にあんな意味ありげな描写はしませんって。
ちなみに、ヴァルファ8騎将の現在。
破滅のヴォルフガリオ……軍団長、健在。
幽鬼のミーヒルビス ……参謀、健在。
疾風のネクセラリア ……ヤングの父親が営む、ネーデルの牧場に居候中。(笑)
不動のボランキオ ……死亡。
氷炎のライナノール ……死亡。
迅雷のコーキルネイファ…ドルファンへ。ただ、そのままドルファンに行こうと思ってるとこがやっぱりちょっと馬鹿。
血煙のゼールビス ……健在。ドルファンの教会にて、暗躍中。
隠密のサリシュアン ……不明。
このお話で、ライズは八騎将じゃないです。
つーか、ネクセラリア戻ってきそうだな。(戻す気満々)
アニタとセバス。
余生を幸せに過ごしていただけたらと。
まあ、何はともあれ、最後の1年。
広げた風呂敷を、既にじわじわと畳みつつありますが……まだ、広げていない風呂敷もありますので、考えても無駄な部分はありますとだけ断っておきます。
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