ドルファン港が遠ざかっていく…。
「さ〜ら〜ばドルファンよ〜また来る日〜ま〜で〜♪」
「現実逃避はそのぐらいにしておいたら?」
 心配そうな口調とは裏腹に、やはりピコは心の底からこの状況を楽しんでいるとしか思えない。
 まあ、それはそれとして……ドルファンに戻ってくるつもりはこれぽっちもない。
 口ずさんだ歌は、ただのネタだ。
「キミはさあ、一度痛い目に遭うべきだと思うんだ」
 ほう、それは俺が今までに一度も痛い目にあったことがないと思っているわけか。
 甘いな、いろんな意味で甘いぞ、ピコ。
 俺が、この状況を想定していないとでも思ったか。
 戦場は、そんなに甘いモノじゃない。
「……大丈夫か、リンダ?」
 俺は、尋常ではない様子のリンダを見かねて声をかけた。
「……話しかけないでくださる?集中してますのよ」
 水嫌いというか、船嫌いの彼女が、よくぞそこまで…。
「キミについていくためじゃない…」
 苦手を克服することで、彼女の世界は確実に広がることだろう。
「綺麗にまとめようとしない」
 周囲に人がいる状況で、ピコの言葉に一々反応すると変な目で見られるんだよな…。
 ふっと、クレアと目があった。
 彼女が何を思ってこの船に乗り込んだのかは知らないが、今は後悔しているんじゃなかろうか。
 ソフィアのウエディングドレスは、ある意味悪目立ちしているが、クレアのそれは、どこか喪服を思わせる装いだ。
 今に目を向けるのが辛ければ、未来に希望を抱けばいい。
 希望を抱くべき未来を描けないなら、過去に想いを向ければいい。
 過去と今と未来……その全てが悲しみに満ちている人間はそれほど多くない。
 少なくとも、彼女には過去がある。
 そして俺は、彼女に未来を与えられはしない。
「……貴方」
 声をかけられて初めて、クレアが俺のそばに来ていたことに気付いた。
「悲しい目をしてたわ」
「そうか?」
「ええ、すぐに隠してしまったようだけど」
 山奥の、深い湖。
 クレアの瞳が、俺にそんなイメージを抱かせた。
「貴方は、もっと自由に生きればいいのではないかしら?」
「俺は、自由に生きているつもりだが?」
「そうかしら…」
 クレアは、微笑んで。
「私には、貴方がひどく不自由に生きているように思えるわ」
「珍しい意見だ」
 そう言って、ちょっと目をそらした俺の頬に、クレアが手を伸ばしてきた。
「なんだか可愛いわ、今の貴方」
 おそらくは無意識に、俺をコントロールしようとする女の性と言ってしまえばそれまでだ。
「……ごめんなさい」
 クレアがすっと、手を引っ込めた。
 彼女のような女を見るのが初めてってワケじゃない。
 大抵の女は、男よりもタフだ。
 その強さが、他人に自分を委ねることへの慣れからくるのではないかと考えた時期もある。
 視界の端で、何かが動いた。
「キャーっ!」
 悲鳴。それに続いて。
「人が落ちたぞっ!」
 俺は、走り出していた。
 波間に浮き沈みする人影を確認すると、俺は躊躇することなく身を投じた。
 海流と、波に少々手こずったが、俺はすぐに女性の元へと泳ぎ着いた。
 波に揺られながら、彼女は俺に向かって微笑みかける。
「もう少し、早いほうが良かったかしら?」
「いや、良いタイミングだった」
 もうすぐ日が沈む。
 船から二艘の小舟がおろされ、こっちに向かってやってきた。
「……借りは返しましたよ」
「ゼールビスのやつによろしくな」
 彼女には内緒だが、俺はつい先日メネシスに事実を伝えてあった。
 メネシスが覚悟さえ決めたなら、彼女に対抗することも可能だろう。
 波のうねりに合わせて、彼女の身体を小舟に乗せる……もちろん、小舟の上の船員の手も借りてだ。
 続いて、俺……は、もう一艘の小舟に。
 こちらの船員は、ルーナの息が掛かっているはずだ。
 ルーナの乗った小舟は船に向かって、そして俺の乗った小舟は、船から離れていく。
 鈴なりになってこちらを眺めている女達から、声があがった。
「え、ちょっと…?」
「なんで、離れていくの?」
 俺はルーナに向かって、そして船の女達に向かって軽く手を挙げた。
 生きていれば、またどこかで会うこともあるだろう。
 ん?
 ルーナの浮かべた笑みに、ほんの少し違和感を覚えた。
 しかし、船に乗る女達の声が、俺のそんな疑問をかき消していく。
「キャプテンっ!」
「船に戻りなさいよっ!」
「船に戻れっ、キャプテン!」
 船にもどれの大合唱。
 そして、俺の元にたどりついたピコがため息をつきながら呟いた。
「船に戻れってさ、スケッ〇ィーノ」
「おや、懐かしい名前だ」
「そうだね、私がキミと出会ったときに、キミはそう名乗ってた」
 今の世の中、一年も経てば大抵のニュースは忘れ去られてしまう。
「良く覚えていたな」
「ああ、うん……一応、繰りかえすね。船にもどれ。キャプテン・ス〇ッティーノ」
「…?」
 首を傾げた俺にかまわず、ピコがぶつぶつと呟き始めた。
「まったく……ただこれだけの一発ネタのために、手間暇かけちゃって…」
「ふむ、よくわからないが……ほとぼりが冷めるまで、待つ必要があったんじゃないか?」
「そうかもね…」
 ピコはそう呟き……夕日が沈んでいく方角に目を向けた。
 ピコのその横顔を見て、俺は無意識にそれを呟いていた。
「綺麗だな、ピコは」
「はぁっ?」
 ピコのそれは、夕焼けか、それとも羞恥か。
「な、何言ってんのさ…」
「ああ、すまん…つい思ったままを」
 俺は、さらりと流した。
 さて、このまま小舟に乗って近くの島まで……。
「……」
 なるほど、さっきのルーナの笑いの意味が分かった。
 と、いうか……ゼールビスの居場所をメネシスに教えた意趣返しでもあるのだろう。
「じゃ、よろしく頼むわ、ライナノール」
「……言うことはそれだけか?」
 地獄の底から響いてくるような、すごみのある声だった。
 と、いうか……しばらく見ない内に、随分と腕を上げたご様子。
「貴様は言ったな、2年生きろと」
「言った」
「私は約束した」
「したな」
「ならば、貴様はそれを見届ける義務があるはずだろう?」
「はっはっはっ。すまんな、すっかり忘れていた」
 ライナノールの殺気が、ひやり、ひやりと俺を撫でていく。
「それで、ライナノール。生きていて、楽しいと思えることはあったか?」
「ああ、あったぞ」
「そうか…」
 良かった。
 俺は、素直にそう思った。
 惚れた男のことを思い、ただ死だけを見つめていた女……そんな彼女が、生きることを決意してくれたのだ。
「私のこの手で、お前を殺す……それを考えるのが、楽しくて楽しくて仕方がない」
「……もう少し前向きな楽しみを見いだして欲しかったんだが」
「ぬけぬけと…」
 吐き捨てるように、ライナノールが呟いた。
「貴様は、最悪それで良いと思っていたのだろう…」
「それは…まあ」
「私は、貴様の手にはのらん」
 ぎっ、ぎっ、と、ライナノールが俺に背を向けて、船をこぎ始めた。
 女達を乗せた船は、もうごま粒のようにしか見えない。
「貴様が死ぬのは、私の腕の中だ…わかったか」
「いや、俺は逃げるぞ」
 ライナノールが笑った。
 その笑いに、その背中に、嫌になるぐらいこびりついていた死の影はない。
「逃げてもかまわん……私はそれを追いかけるだけのことだからな」
「……何、笑ってんのさ?」
 ピコに指摘されて、俺は自分が笑っていることに気付いた。
 ライナノールに追いかけられることを、どうやら俺は楽しいと思っているようだった。
 俺は、ライナノールの背中を、そしてピコを見つめ……蒼くなりゆく空を見上げた。
 これからも俺は、今を生きていく。
 そうして積み重ねた『今』を、いつの日か懐かしく思うときがくるのだろうか…。
 
 
ごーる
 
 
 さて、すぐにあの事件を思い出すことができたでしょうか?
 あのニュースを目にした瞬間、高任の頭には、この最終話のシーンが浮かんだわけで。
 事件の内容が内容だけに、少し時間をおいて……まあ、多少は気を遣うわけです、高任も。
 
 伏線投げっぱなしの部分が散見できますが、まあ、気にしないでください。高任も気にしないことにしましたから。(笑)

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