「……素敵だったわ」
 耳元で囁いた彼女の唇が、軽く俺の唇に触れた。
「朝どころか、もうすぐ昼ね……」
「カーテンを開けましょうか?」
「やめて……きっと今の私、ひどい顔をしてる」
 俺は、彼女の唇をふさぐことで返事とした。
「……ふふ、半日も貴方を独り占めしてしまって、他の人に恨まれてしまうわね」
 そう言って彼女は身体を起こしかけ……俺は、慌てて彼女の身体を支えた。
「やだわ、腰から下が痺れて……死んだあの人も、こここまで私を愛してはくれなかったわ」
 彼女は、俺に肩を抱かれたまま微笑んだ。
「私の夫のこと、ご存じ?」
「ええ、もちろん……ドルファンが誇る、唯一無二の、聖騎士ではありませんか」
「……作られた英雄よ」
 そう言うと、彼女は少女のような仕草で、俺の胸に身体を預けてきた。
「夫は、エリータス家を利用し、エリータス家は夫を利用した……政略結婚でしかなかったわ」
「政略結婚の相手を、自分に惚れさせる……悪くはないですよ」
 俺がそういうと、彼女は小さく笑った。
「そうね…きっと、素敵なことでしょうね」
 そう言うと、彼女……マリエル・エリータスは、俺をじっと見つめてきた。
「貴方、最後まで私に何も要求しないつもり?」
「高価なお土産を、何度か持たされましたが…?」
「戦争で死んだ兵士の家族や、戦災孤児たちのために、みんな使ってしまったでしょう?」
「金は、必要とするところに、必要なだけ使われるべきですよ」
「そうね……政治としてそれは正しいけど、女としては、少し寂しいモノよ」
「しかし、いただいたお土産を、俺が自分のために使ったら、貴女は金で俺を買ったような気分になるはずです」
「嫌な男ね」
 マリエルが、俺の胸をつねった。
「貴方が望めば、この国にいられるようにしてあげる……プリシラ王女も、それを強くお望みだし」
「この国における、貴女の立場が悪くなる」
 俺は静かに首を振って言った。
「俺は、この国を出ていきます」
「そう…」
 ため息混じりに、マリエルは呟いた。
「残念だわ」
 
 マリエルの部屋から出てきた俺を見て、ジョアンが顔を真っ赤にして噛みついた。 
「き、ききき貴様ぁっ!」
「お義父さんと呼ぶことを許可する」
「ふ、ふざけるなっ!」
「まあ、それは冗談だが……さすがにそろそろ、お前も親離れの歳だろう?そもそも、お前はエリータス家の三男坊だし、身の振り方とか考える時期だと思うぞ?」
「き、貴様ごときに…」
「ジョアン」
「お、お、お母様っ!」
 ドアを開けたマリエルは、もはや恋する女性の顔ではなく、エリータス家当主に戻っていた。
「それ以上の無礼は許しませんよ」
 おっと、ちょっとだけ恋する女性でもあったか。
 俺はマリエルに失礼をわびると同時に敬意を示すため、少し頭を下げた。
 しかし、それで収まらないのがジョアンであり、いいとこのボンボンだ。
「お、お母様。何故このような男に…」
「ジョアン…この方は2年以上前から私の大事な方です」
「んなっ!?」
 ああ、知らなかったのか、ジョアンのやつ。
 別に隠していたつもりはないんだが。
「お、お母様ぁっ!この男は僕の婚約者であるソフィアにまで手を…」
「出してないぞ」
 俺のツッコミを勘違いしたのか、ジョアンは得意顔でマリエルにそれを訴えだした。
 ソフィア以外の女性に手を出したことは認めるが、ソフィアには手を出していない……とはいえ、当のソフィアは俺のためにお菓子を作ったり、弁当を作ってきたり……ああ、ジョアンが勘違いするのも無理はないか。
 あああぁ、涙ぐんでやがる、ジョアンのやつ。
 そりゃ、息子である自分よりも、得体の知れない馬の骨の方を母親が信じるんだから無理もないか。
「こ、こうなったら、ソフィアに全部話してやるっ」
「あ、それはやめた方が」
「う、うるさいうるさいっ!」
 そう言って、ジョアンは走り去ってしまった。
「むう、親切で言ったんだが…」
 マリエルの視線に気付いた。
「何が親切なんですの?」
「いや、ソフィアは良い娘なんですけどね、ちょおっと思いこみが激しいというか、芝居がかった考え方をするところがあって……」
「あぁ…なるほど」
 マリエルが頷いた。
「私、様子を見てくるね」
 と、ピコが俺の肩を離れて飛んでいく。
 さて、どうなる事やら。
 
「あぁ…」
 悪意混じりとはいえ、ジョアンのそれを聞き終えたソフィアは、口元を手で覆った。
 いや、実際は、聞き終える前からそうしていたのだが、ジョアンはそれに気付いていなかった。
「あの方は、そんなことまでして…」
「そうだよ、ソフィア。あいつは、ろくでなしの女たらしなんだ。その点僕は違うよ、僕はソフィア、君だけを愛して…」
「馬鹿な人…本当に馬鹿な人。そこまでして…」
「……?」
 ソフィアが口にした『馬鹿な人』という言葉のニュアンスに微妙な違和感を覚え、ジョアンは首を傾げた。
 ジョアンに言われるまでもなく、街に溢れる噂からソフィアもまた逃れることはできない。
 悪意に満ちた男達の噂と、女性の間で囁かれる噂との落差も含めて、ソフィアはソフィアで、色々と考えていたのだ。
 飲んだくれの父親と、病弱な母親。弟はまだ小さい。
 よりによって、父親が借金のカタに娘である自分を、エリータス家の三男坊に売った。
 まさに、悲劇のヒロイン。
 現実逃避の部分もあったが、ソフィアは自分の身に降りかかる悲劇に酔っていた。
 見境なく女性に手を出す……その男が、自分には手を出さない。
 その男にとって、自分は特別な存在なのだ。
 無条件で、ソフィアはそう信じた。
 家族のこと、借金のこと、婚約者のこと。
 ジョアンの口から聞かされた話……その男が婚約者であるジョアンの母親と関係を持ったというのだ。
 ソフィアの悲劇のヒロイン回路が、その話をどう解釈するか…。
「ソフィ…ア?」
 ソフィアの心の中の船が、大きく帆を揚げた。
 風は強く吹いている。
 父親、母親、そして弟……家族という名の錨では止められない、強烈な推進力。
 ソフィアは、ジョアンを見た。
 強い決意を秘めた瞳。
「さようなら、ジョアン」
「え…?」
 ソフィアは、ジョアンに背を向けて歩き始めた…。
 
「……どうだった?」
 俺が聞くと、ピコは曖昧な表情を浮かべ。
「あー、うん……なんていうか…『もう、誰にもとめられないんじゃよ』って感じ?」
「ああ、やっぱり……だからこそ、手を出さなかったのに…」
「……それは愛なの?」
 俺は、ピコを見つめて言った。
「俺は、『今』だけしか与えられない男だからなあ…未来を求められても、手に余るというか…」
「……」
 ピコは、何も応えなかった…。
 
 
つづく
 
 
 こういう話を書くから『ソフィアに対する悪意が半端ねえ』とか『行間からにじみ出る悪意に、作者の押しつぶされた情念を感じる』とか言われるんだろうなあ…。

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