「さあ、旅立ちの準備だ、ピコ」
 ピコは、死んだ魚の目で山と積まれたチョコレートを見つめた。
 いや、正確に言うと、部屋にはチョコレートの山が2つあり、その山の1つを見つめている。
 やがて、ピコは俺に視線を向け、やたら平板な声で言った。
「王女様と、ヤっちゃったの?」
「いや」
 俺は首を振った。
「あの夜は、救い出すので精一杯だったからな」
 シベリアからやってきたサーカス団……そこに紛れ込んだテロリスト集団が、プリシラ王女を誘拐(以下略)。
「そう?炎に包まれたサーカス団のテントから飛び出してきたとき、王女様はキミの首にすがりつくような格好でさ、目なんかハート形してたけど?」
「だから、テントの中で色々あったんだ」
「へえ、『危ないからテントから出てろ』とか言っといて、自分はのんびりと色々ヤってたんだ」
 今、一部分発音がおかしくなかったか?
「そりゃ危ないよね…旅立ちの準備もしなきゃいけないよね、なんといっても、ドルファン国王の一人娘に手を出しちゃったんだから」
「だから、出してないって…」
 ピコは、ふっと顔を背け……再び、プリシラから送られてきたチョコレートの山に目をやった。
「それにしても、国民の血税をこういうことに……というか、質より量ってところが、王女様らしくないよね。以前言ってた、偽物説ってのも、案外…」
「ピコ」
「つーんだ」
「……」
「ほらほら、いつものように、この国を逃げ出す準備でも何でも始めれば?まあ、キミの場合、女の整理だけだけどね」
 ひどくとげとげしいが、ピコの言ってることは大きく間違ってはいない。
 俺はふっと、懐かしい2人の友人の事を想いだした。
 
『女と煙草なら、俺は煙草を選ぶね。なんといっても、捨てるのが簡単だからな』
『女ってのは、まず別れるときの事を考えてからつきあうもんだ』
 
「つくづく最低だよね、キミの友人ってっ!」
「人の回想に割り込むなよピコ…」
 俺は苦笑を浮かべつつ、腰を上げた。
 俺の考える『別れ』は、ピコはもちろん、友人2人のそれとも違う。
 トラブルを起こさないとか、後腐れなく別れるとか、美しい思い出を残すとか……そういう事ではないはずだと、俺は信じている。
「……だから、考えてることと、やってることに隔たりがありすぎるんだってば…」
 そんなピコの呟きは、気にしないことにする。
 
「よう、また来たのか…」
 修道服に身を包んだライナノールを認めて、クレアは微笑んだ。
「ルシアさん」
 足繁く墓地にやってくるクレアと、教会に居候しているライナノールが出会うのはむしろ必然であった。
 戦場で夫を失った……それだけなら気にもしなかっただろうが、かつての自分の仲間であるネクセラリアと戦った上での結果となると、ライナノールもそれほど無関心ではいられなかったのだ。
 ボランキオを失い、ヴァルファを抜けて、1年半あまり……ライナノールの自覚はともかく、彼女の世界は外に向かって開きつつあった。
 同情と腹立ちの混じり合うままに、ライナノールはクレアに向かって言う。
「墓の前で祈らなきゃ、実感できないのか?」
「……夫を失った実感なら」
「そうじゃない」
 ライナノールは首を振り。
「お前の、愛する男の存在をだ」
「……」
 ライナノールにとって、ボランキオの存在は全てだった。
 そこに至までの経緯の特殊さはさておき、彼女にとって、ボランキオを感じるのに、墓も、祈りも……何も特別な事を必要とはしない。
 いつ、いかなる時も、ボランキオは彼女の中にいる。
「失礼ですが、ルシアさん…貴女も」
「私の愛する男は死んだ。死ぬために戦い続けて、それで死んだ」
「……」
「私はあの人を愛していたが、あの人は私を見てくれなかった……だが、そんなことは、私があの人を愛することに何の関係もないことだ」
 そう、死んだことさえも。
「……強いんですね、ルシアさんは」
「私は強くない」
 そう答えながら、ライナノールは自分の饒舌さに驚いていた。
 自分は何を話しているのだという気持ちと、話さなければいけないという気持ち。
 知らず知らずのうちに、彼女は、心の中で何かを乗り越えた。
 そしてクレアは、しばらくライナノールを見つめ……おそらくは、気後れのようなものによって、それを口にした。
「私の夫を殺したのは、かつての私の恋人でした」
「……」
 ネクセラリアが、かつてハンガリアの軍人だったと口にしていたことをライナノールは思い出した。
「いえ、自分のせいでとか、そういうことを考えてるわけではありません……ただ、少し…天を恨みたくなるような巡り合わせだなと…」
「……」
 ライナノールの沈黙が圧力となったのか、クレアはふっと視線を海に投げた。
「あの人は…」
 ぽつりと。
「色々と噂されていますが、たぶん優しい…優しすぎる人なんだと思います」
 クレアの言う『あの人』が、おそらくは夫のことではないのだと、ライナノールは気付いた。
「過去も、未来も……あの人はたぶん『今』だけを信じて…だから…」
 クレアの声は、独り言のようになり……それは、風に紛れて飛んでいく。
「私は、たぶん…いえ…きっと…」
 クレアの手が、顔を覆った。
 暗い予感を覚えて、ライナノールは声を出した。
「よせ」
 それ以上言うな。
「あの人に、惹かれてるんです…」
 何の証拠もなく、クレアの言う『あの人』が、ボランキオを殺した男であることをライナノールは確信する。
 顔を覆ったまま、クレアはその場に跪いた。
「夫の墓に向かって祈ってないと、心だけでなく身体まで、あの人の元へ飛んでいってしまいそうで…だから…」
「抱かれたのか?」
 自分が出した、固い声にぎょっとする。
 嫉妬。
 頭に浮かんだその言葉が、ライナノールをさらに動揺させた。
「いえ、あの人は……それとわからぬよう、お金を届けてくるだけです」
「……」
「嫌なんです…私、金で魂を売り渡すような気がして…耐えられないんです…」
 低く、クレアは嗚咽を漏らし始めた。
 その嗚咽を、ライナノールは自分のモノとして聞いていた…。
 
「ねえ」
「ん?」
「キミってさ、たぶん気付かないところでも女の子を泣かしてると思うよ」
 俺はちょっと考え。
「まあ、それはそれで仕方がないな…すっとぼけるつもりはない」
「でも、逃げるんだよね?」
「はっはっはっ…」
「……」
 身構えた俺に対して、ピコは何もしなかった…。
 
 
つづく
 
 
 よいよい。

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