悲鳴はおろか、彼女は表情ひとつ変えなかった。
 ちなみに、服の上からではあるが、俺の手はしっかりと彼女の尻をつかんでいたりする。
 俺は、何も言わず彼女を見つめ、彼女もまた静かに俺を見守っている。
「な、何考えてるのさキミはっ!仮にも、神に仕えるシスターに向かって…」
 などと、耳元で金切り声を上げているのはピコだけだ。
 5秒……10秒。
 俺は、名残惜しかったが、彼女の尻から手を離した。
「堪能させてもらいました」
「いえ、こちらこそ…」
 シスターが、静かに頭を下げ……そのまま何もなかったように歩き去っていく。
「……驚いたな」
「驚いたのはこっちだよっ!何の前触れもなく、いきなりすれ違いざまに手を伸ばして……見損なったよ、ホントのホントに見損なったよ、今度ばかりはっ!」
 などと、ピコが泣きながら叫んでいるのだが、俺の頭には半分も入ってこない。
 さっきまで彼女の尻をつかんでいた手を見つめ……ため息混じりに呟いた。
「俺は…世界で3番目に強いと思ってたんだがなあ…」
「ちょっと、聞いてるのっ!?大体キミはっ……」
 ピコはふっと口をつぐんで……俺の顔をのぞき込んできた。
「な、何の話をしてるの?」
「いやあ、さっきのシスター……強いぞ、あれ。10回戦えば、9回は確実に俺が負ける。いや、悔しいが10回とも負けるな」
「……えーと?」
「参ったなあ……じゃあ、俺は世界で5番目って事か…」
「え、えっと…大丈夫?」
 ピコが心配そうにおでこに手を当ててきたりしたのだが、俺は上の空だった。相手の強さを見抜けたなかった……つまり、俺は死んでいたという事で、ただ単に彼女にその気がなかっただけというか、運が良かっただけなのだ。
 
「一応言っておくが、手を出したんじゃなく、出させられたんだぞ」
「……キミは色々と問題がある性格だけど、自分のやったことを人の責任にしないところは認めてたのに」
「いや、だから…」
「情けないよ、ホントに情けないよ…」
「あー」
 俺は徒労感から口をつぐんだ。
 まあ、確かに……こんな若い美人が世を捨てて神に仕えるなんてもったいないなどと考えていたのは事実だが。
 すれ違った瞬間に殺気を浴びせかけられて……俺の手は反射的に動いたが、彼女は俺にそれと気付かせないでかわしていた。
 俺は、彼女に遊ばれたのだ。
 まあ……良い尻だったので、少しばかり得した気分だが。
「新年早々、こんな情けない話をしなきゃいけないなんて、夢にも思ってなかったよ…」
 
「……まあ、戦場では剣を抱えて眠ることも珍しくはないんだが」
 俺はちょっと立ち止まって塀にもたれ……右足、左足、と交互に振った。
 足の感覚がおかしいというか、昨日俺は、正座したまま眠るという貴重な経験をしたのだ。
「ふんだ。そのぐらいで許してあげたんだから、感謝してよね」
 ……なんだろう、とても許してもらえたとは思えないピコの雰囲気だ。
 かっぽ、かっぽ…がらがらがら。
 体格、毛並み共に素晴らしい2頭の馬にひかれた、豪華すぎて少しセンスの悪い馬車が俺の目の前で止まった。
 ドアが開く。
「16歳、お嬢様」
「……キミにしては、見たまんまだね」
 彼女は、しばらく俺を見つめ……やがて、ふっと鼻で笑った。
「所詮はこの程度……まあ、お猿さんの相手なら似つかわしいと言うべきですか」
 ふむ、初対面のはずだが……。
 俺は何気なくピコに目を……。
「ピ、ピコ…?」
 ピコは怒っていた。
 心なしか、髪の毛が逆立っている。
「……こいつ、ムカツク。キミ、この女、ぼろぼろにしちゃっていいよ」
 おそらく、彼女の心というか思考を読んだのだろう。
「ピコ。俺は女性を不幸にしたいなどと思ったことはないんだが」
「あー、どうでもいいや。キミの言う、愛?だっけ…骨の髄まで教え込んであげたら?」
 俺は少女……おそらくは、ザクロイド家の一人娘である、リンダ・ザクロイドに目をやった。
 眉目秀麗……ややきつめの印象を与えるのは、美女の宿命か。
 腰まで伸ばされた髪は輝くようで、身につけた服から小物に至るまで、最高級のモノだが、それに負けていないどころが、従えているような雰囲気をたたえている。
「おーほっほっ……見とれているのね、この私に。まあ、無理もありませんわね……ですが、勘違いしてはいけませんわよ…(以下略)…」
 リンダは長い台詞を喋り終えると、肩をすくめて首を振った。
 ピコはさらに怒りを募らせたようだが、俺はむしろ哀しみを覚えた。
 愛を求める以前に、彼女は愛がなんたるかをわかっていないし、おそらくはそれに触れる機会さえ与えられてこなかったのだ。
 それは、とても悲しいことだ。
 ピコには悪いが……この手のお嬢様には、時間が必要だった。
 
「あ、あのさ…この前…クソ生意気な女が訪ねてこなかった?成金で高ビーのお嬢様って言うか、リンダって言うんだけど」
「ん?」
 俺は、ハンナの問いに少し考えるフリをして……自信なさそうに答えた。
「ひょっとして…あの娘のことかな」
 言葉を選びつつ、ハンナに話す。
「そう、そいつ……もう、イヤなやつでしょ」
「はは、子供はたいてい生意気だからな」
 そう言って、俺はハンナの腰を抱いた。
「あ、う…うん…そう…だね…」
 ハンナの顔は真っ赤だったが……どこか、リンダに対しての優越感のようなモノも感じているらしい。
「そう…だね…子供だから…仕方…ないよね…ボクも…そうだけどさ…」
「そんなことはない…ハンナは大人さ」
 耳元で囁いてやる。
 視界の隅で、ピコが『調子にのるな』と中指をたてているが気にしない。
 誤解しないでもらいたいが、ここは冬の並木道。
 俺とハンナは、仲むつまじく語り合っているだけのことだ。
 くっついているのは、寒いからだぞぉ、ピコ。
 俺は、ハンナを見つめた。
「そ、そんなに見つめられると…ボク、恥ずかしいよ…」
「……傷、残らなくて良かったな」
「あ、あはは……どうでもいいって思ってたのに…今は、やっぱり…良かったって思えるよ…」
 ハンナは、恥ずかしげにうつむいて……俺の胸に顔を埋めた。
「まだ…信じられないよ…ボクが、恋してるなんて…」
 ハンナの手が俺の身体を抱きしめた。
 俺も優しく、抱きしめ返してやる。
「暖かいね」
「ああ…」
 かっぽ、かっぽ、がらがらがら…。
 おいおい。
 俺は多少に呆気にとられながら、豪華な馬車を見つめた。
 リンダは、しばらく俺とハンナを見つめていたが……何も言わず、ドアを閉めて引っ込んだ。
 そしてまた、馬車が動き出す。
 馬車が遠ざかり……俺の腕の中で、ハンナがくすくすと笑い始めた。
「……ハンナ、まさかと思うが」
「あはは、見たぁ、さっきのリンダの顔?」
「……ハンナ」
「え…あ…ごめん…ボク、ボクは…ただ…」
 俺は、悲しいことが好きではない。
 悲しいことは、人が望まずとも多く起こり得ることだからだ。
 わざわざそれを、望むことはない。
 
 
               どこへゆく
 
 
 ホント、どこへゆくんだろう、この話。   

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