右頬に押しつけられている自分以外の体温で目が覚めた。
 身体が微かに揺れている。
『ああ、海燕の背中か。』
 ジーンは瞬時に自分の置かれている状況を理解する。
 潰れてしまうまで飲みたい夜。そんな夜に本当に潰れるまで飲んでしまうのはただのガキだとわかってはいた。
『今日はつぶれるまで飲みたい気分なんだ……つき合ってくれるか?』
 そんな無茶な申し出を海燕が断らないであろう事はわかっていた。
 だから質が悪い。
 ジーンを背負ったまま歩いている海燕の足取りは、全く疲れた素振りを見せていない。既にカミツレ地区までやってきている様だった。
 酔いで火照った身体に12月の夜風は心地よいのを通り越して少し肌寒いのだが、人間1人背負って歩いている海燕にとってはどうだろう。
 重くはないだろうか、とジーンは大柄な自分の身体を恨めしく思った。
 今更降ろしてくれと頼むのは、何となく気恥ずかしい。
 ふと、海燕の足が止まる。
「起きたのか、ジーン?」
 独り言かと間違うような囁き声。
 ジーンは身体を硬くし、
「あ、ああ……」
 黙っているわけにもいかないので、ただそれだけを口にした。
「……そうか。」
 そうしてまた歩き出す。
 降りろとも降ろそうともしない。
「あのよ……重くないか?」
「甲冑程じゃない。」
 どこか揶揄するような口調だが、ジーンはどう反応していいかわからなかった。もともと、甲冑がどのぐらいの重さか知らないのだ。
「それに、もうすぐだ。」
 ジーンの家までは後数分という所である。
「……すまなかったな、海燕。」
「ふふっ、謝るぐらいなら誘うな。それに、俺も謝られるぐらいなら誘いにはのらんよ。」
「しかし……」
 なおも口を開きかけたジーンを制するように、海燕はジーンを支えている手のひらに力を込めた。
 もちろん、手のひらの位置はジーンのお尻だ。
「なっ、何しやがるっ!」
「これで貸し借り無しだ。」
 顔を真っ赤にしたジーンが途端におとなしくなった。二時間近くも背負われていて、今更という事に気が付いたのだろう。
 そうこうしている内にジーンの家へと辿りつき、海燕はジーンをゆっくりと地面に降ろしながら呟く。
「どうしても気がすまないってんなら……」
「あん?」
 訝しげな視線を送るジーンには目もくれず、海燕は夜空を見上げた。
「俺が頼んだときに、黙ってつき合ってくれればいい。」
「オレにお前を背負ってってのか?」
「なあに、その時も先に潰れるのはジーンだから関係ないさ。」
 海燕は踵を返すと、軽く右手を挙げて歩き始めた。
「お、おいっ、海燕。もう帰るのか?」
「悪いな、明日は朝からバイトなんだ。」
「バイトしなきゃ食えないような傭兵なんてやめちまえよ。お前の腕ならオレが乗合馬車の親方に口をきいてやるからさ。」
 海燕は何も答えず、ただそのまま歩いていく。
 遠ざかっていく背中を見つめながら、ジーンは夜空を見上げて小さく呟いた。
「理由ぐらい聞いてくれよ………ったく。」
 南の空に明るい星が輝いている。
 だが、その星のまわりにはただ闇が広がっていた。
「……オレだって女だぞ。」
 
「あんたもタフだな。」
 少し二日酔いの残る頭を抱えながら、ジーンは呟いた。断片的な記憶をつなぎ合わせると、自分よりも海燕の方が飲んでいた気がするのだから無理もない。
「お客様、ご注文は?」
「ブラック。」
 ウエイターとして一分の隙も見せない海燕に向かって、ジーンは注文を告げた。
「かしこまりました。」
 ほどなく出されたカップを傾けると、必要以上に苦い液体がジーンののどを通り抜けていく。その苦さに顔をしかめながら、きびきびとコマネズミの様に働く海燕を眺め、ジーンは再び呟く。
「オレはコーヒーが嫌いなんだけどな、わかってるか?」
 だがその口調は優しい。
 飲み慣れない苦い液体をもう一口だけすすって、ジーンはカップをテーブルの上に置いた。
 海燕の姿が店の奥へ消えたのを確認して、ジーンは勘定書を指先でつまんで立ち上がった。
「ありがとうございました。」
 店員の挨拶を背中に受けて店を出る。
 雲一つない晩秋の空を見上げて顔をしかめ、ジーンはゆっくりと国立公園を抜けて海に向かって歩き始めた。
 キャラウェイ通りのショッピング街を抜けると、サンディア岬が見えてくる。ここまで来ると、つんと鼻を刺激する潮の香りが漂いだす。
 湿気を含んだ重い風が海から吹いてくることで、ドルファン人は冬が到来することを知る。
 しかし比較的海抜の高いスィーズランドの中でも、標高の高い山々の連なる山脈の麓で生まれ育ったジーンにとって、この国の冬は冬とは言えない程暖かい。
 鳥の群が海を越えていく。
 あの鳥たちにとっては、この国の冬は寒すぎるのだろう。美しくつややかな長髪を潮風に舞わせ、ジーンは空と海の境目を眺めながら思った。
 スィーズランド人のジーンが、ドルファンに帰化してから数年が過ぎている。おそらく、第二の故郷と呼んでも差し支えはないだろう。
 伝統と慣習に縛られた不自由な国という思いがジーンの心の中にある。
 そして、おそらく自分もまたこの国では異邦人であるということも。
「外国人排斥か………」
 この国のよどんだ空気を押し流すはずであった自由の風は、既に行き場を失っている。後はこの国を通り過ぎるだけでしかない。
 突然の強い風に、ジーンの上体が揺れる。
 よろけそうになったが、一歩踏み出すことでなんとかバランスを取り戻す。
 そしてジーンは小さく笑った。
 
 昼を過ぎると、ジーンの気分はすっかり良くなっていた。まあ、もともと大した二日酔いでもなかったこともあるが。
 街をぶらついていたがどうにも落ち着かない。
 ジーンの足は知らず知らずのうちに人気のない寂しい場所へと向かっていた。
「オレ………馬鹿みたいだな。」
 結局、岬まで戻ってきてしまった自分を笑うように呟いた。
 以前からそうだった。
 動物や自然が好きと言うよりも、人間が苦手なのだ。
 もちろん、気の合う奴はいるが大概は合わない。将来牧場を経営したいというのも、裏を返せばできるだけ関わり合う人間の数を少なくしたいという願望の現れだ。
 そして関わり合うなら、できるだけ波長の合う人間をという願望………
「雪でも降らないかな………」
 スィーズランドの冬は、雪が当たり前だがここドルファンでは雪は降らない。少なくとも30年以上振ってないと聞いたことがある。
 ただ、この夏ドルファンは異常低温に見まわれていた。これほどの冷夏は以前雪が降った年以来であると言うから、この冬は雪が降るかもしれない。
 冷夏が農作物に与えた影響と、そのことによる国内の不満の高まりは皮肉としか言いようがないのだが。
 ジーンが雪を見ていない年数は、すなわちドルファンで過ごし始めてからの年数。
 スィーズランドに身寄りがなくなってからドルファンにすむ叔父夫婦に引き取られるまで、ジーンは毎日雪空を見上げていた。
 降りつのる雪の数に負けないぐらい涙を流し、ずっと祈り続けていた。
 あの時祈った父と母は天国にいけただろうか?
 ジーンは、自分があの日以来泣いたことがない事に気がついて、唇を小さく歪めた。
 
 コンコン。
「オレだよ、海燕。」
 相変わらず何もない部屋の中を一瞥し、ジーンは壁にもたれた。
「どうした?」
「今日はシルベスターだろ、銀月の塔にでも行ってみないか?」
 ジーンにとってカウントダウンでごった返した人混みはごめんだった。
「今からか?」
 海燕は無意識に窓の外を見た。
 既に窓の外は暗い。
 そこに着く頃には真夜中近くになっているだろうことは簡単に予想できた。
「いや、無理にとは言わないけどよ。」
「………まあ、いいさ。行こうか。」
「ありがとよ。」
 人の流れに逆らうようにしてカミツレ地区へと歩む2人。その吐く息は白く、闇の中へ白いベールを溶かし込んでいく。
 あまり急いで汗をかくと風邪をひいてしまうので、2人は多少ゆっくりとした速度で階段をのぼりきった。
「誰もいないな。」
「こんな夜に外出する奴は、みんなカウントダウンにでも行ってるさ。」
 そう呟いて、ジーンはコートの前を合わせた。
 冬でも温暖なドルファンだが、今日はかなり冷え込んでいる。スィーズランド生まれのジーンはともかく、ドルファンの人間には厳しい寒さだろう。
「ん?」
「どうした?」
 いきなり空を見上げた海燕につられ、ジーンも空を見上げた。
「あ………」
 真っ暗な空に白い斑点が浮かび上がっている。
 ジーンの脳裏に、雪空を見上げて泣いていた少女の姿が甦って、無意識に目元に手をやった。
「ジーン、どうかしたのか?」
「いや………」
 自分はあの時とは違う。
 ジーンは海燕を見て微笑んだ。
「あんたが隣にいてくれて良かったよ。」
「?」
「………こっちの話さ。」
 この夜、ドルファンは38年ぶりの降雪を記録した。
 
「勝手なもんだぜ………」
 外国人排斥法が昨夜正式に決定されたことを知り、ジーンはそう吐き捨てた。
 いきなり受け入れを全解放したことと、受け入れを開始した時期が悪かったことぐらいはジーンにだってわかっている。
 特に今年の冷夏はまずかった。
 民衆の不満が全て外国人に向かってしまった。
 今のこの国にとって、体のいいスケープゴートとして扱われた感もある。
「じゃあ、オレも急がないとな。」
 ジーンはそう呟き、叔父夫婦の住む牧場に向かって家を出た。
 
 黄昏色に染まる波止場で、ジーンは海燕の姿を見つけるなり殴った。
 海燕はそれを甘んじて受ける。
 身体をよろつかせもしない海燕を見て、ジーンは笑う。
「なんで、殴られたかわかってんだろうな?」
「だから、避けなかっただろ。」
「フン、じゃあこの話は終わりだ。」
 ジーンは海燕から視線を逸らし、黄金色に輝く海を見つめた。
「また戦争のある国に行くのか?」
「………まあ、そうなるだろうな。」
「急な話……でもないな。こうなることは目に見えてたしな。」
 静かな波の音が2人の間を埋め尽くしていく。
 その沈黙に耐えかねたように、ジーンは自分の頬を平手で叩いた。
「ああっ、駄目だ。こんな話をしにきたんじゃないんだオレは。」
 硬い表情だった海燕の口元が、ほんの少しほころんだ。
「自分の食い扶持は自分で稼げよ。」
 そう言って、海燕はジーンの頭を軽く叩いた。
「え?」
 怪訝そうに振り返るジーンを無視するかのように、海燕はゆっくりと船に向かって歩き出した。
「海燕?」
 心配そうなジーンの声を耳にして、海燕は後ろを振り返っていった。
「早く来いよ、船が出るぜ。」
 自分の心が見透かされていた様な気分。
 だが、決してそれはジーンにとって悪いものではなかった。
「オレみたいなのでいいのか?」
「ジーン以外なら断ってる。」
 海燕の顔が夕日に照らされて赤く染まる。
「手紙の1つもよこさなかったくせに。」
「その話はさっき終わったはずだろ?」
 そういって海燕は自分の頬を撫でた。
 
 
                    完
 
 
 うーむ、結構お気に入りなんですけどこれというイベントが思い浮かばなくて。(笑)
 夏の並木道での子猫イベントとか持ってくると、ギャグになりそうだし。手作りお菓子イベントも『うう、ああ』とか選ぶと実は失敗作と言うオチになるし、長々と書くには案外難しいキャラのようです。
 ちなみにこのキャラとの正真正銘のファーストコンタクトで『どうもすいませんでした。』を選んでしまった私。(笑)
 ただ、最後のエンディングで手紙を出さなくてもキャラがやってくると言うことを知ったのはジーンが初めてでした。
 手紙を出したときと少し台詞が違うので、知らなかった人はチェックするように。(笑)

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