がたんごとん、がたんごとん……。
 足下から伝わる振動とは裏腹に、通勤、通学で乗車率200%越えの電車の中は、ほとんど身動きできない状態で。
 左手で鞄、右手で棒を掴み……結美は、ぼんやりと先日のことを考えていた。
 
『3月の末から、父親が単身赴任などというモノをやっていてね……まあ、そもそもは、僕がわがままを言ったせいだけど』
 本当は、3月末で引っ越すはずだった……それを、ちょっとだけ無理を言って延ばしてもらった。
 そう言って、柊は笑った。
『だから…なの?』
 無理矢理に……結美の感覚としては、無理矢理としか思えなかったわけだが……光一の周囲の環境の変化のきっかけ。
 それらは全部……ではないにしても、柊が意図的に、引き起こした。
『まあ、僕は……相原にとって、かなり親しい人間だからね』
『……』
『相原にとって、親しい人間ってのは、もう家族のノリというか……家族じゃないけど、そういう人間が、以前にはもう一人いたのさ。星野さんは、中学の頃の彼を知らないだろうから…』
『知ってます』
『……』
『中学の頃の相原君…知ってる。2回会っただけだけど……知ってるよ』
『ふむ…』
 予想外だったな、という感じで柊が雨に濡れた前髪をかき上げた。
『前に柊君が言った、『世界が閉じてる』って言葉の意味、ちゃんと、わかってるつもり…』
『輝日東中だったよね、星野さんは?』
 柊のそれには答えず。
『その人がいなくなって……相原君の世界が閉じたの?』
 微妙な間をおいて。
『……僕には、そう見えたね』
『自分が、いなくなるから……相原君の世界を、無理矢理にでも開こうとしたの?』
『まあ……そうだね』
『引っ越したからって、そんな…』
 柊の視線に気付いて、結美は口をつぐんだ。
 その目が、『キミに何がわかるんだい?』と、責めていたから。
 
 がたんごとん、がたんごとん…。
『次は、……駅に止まります』
 結美の周囲の客数人が、身じろぎを始める。おそらくは、次の駅で降りるであろう彼らの邪魔をしないように、結美はスペースを空ける努力をした。
 人とすれ違うときはお互いに進路を変えるとか、傘を差していたらぶつからないようにちょっと傾けるとか……そういう気の使い方は、ごく当たり前のことで。
 それでも…と、結美は思う。
 自分は、あれほどまでに誰かのことを考えたことがあっただろうか。
 考えるだけじゃなく、行動したことがあっただろうか。
 結局、他言無用を約束させられたのは……柊のそれに圧倒されたからだろう。
 電車が駅に着き……人が降り、また新しく乗ってくる人がいる。
 降車と乗車、人生における人との出会いはそんなものだ……と書いたのは誰だったか。
 ぷしゅー。
 再び電車が動き出す。
 次の駅で電車を降り、輝日南高校へと向かう……それは、結美のいつもの日常。
 でも、それが決していつもの日常ではない事を、結美は知っている。
 がたんごとん、がたんごとん…。
「……もう一人の親しい人って、どんな人だったのかな」
 結美の呟きに、周囲の人間が不思議そうな視線を向けた。
 
「おはよう、鞆塚、矢野」
「おう、咲野」「早いな、珍しく」
 2年C組……同じサッカー部員である少年2人に声をかけ、明日夏はきょろきょろと周囲を見回した。
「伊東は?」
「まだだよ……咲野以上に、遅刻が多いからな、あいつは」
「サッカーがらみだと、絶対遅刻なんかしねえけど」
 そう言って、2人が笑う。
「ふーん……ま、いっか」
「なんだよ?」
「いや、なんというか、ちょっと聞きたいことがあって」
「勉強なら、パスだ」「同じく」
 と、少年2人は、顔をしかめて首を振る。
 彼ら2人もまた、『運良く』赤点を免れた……というレベル程度の成績でしかない。
「つーか、あれだろ?咲野は、あの、相原に勉強見てもらってるんだろ?」
「シスコンとか、色々言われてるけど……順位一桁って聞いたぜ、俺は」
「え、そうなの?」
 と、これは明日夏。
「へえ、相原って、頭いいんだ…」
「おいおい、知らねえで、教えてもらってたのかよ」
「……つーか、相原と咲野が知り合いだったって方が、俺には驚きだが」
 と、呆れたように少年達。
 ちなみに光一の順位は基本的に10番前後だから、多少情報の食い違いがあるが、まあ目くじらを立てるほどのモノでもあるまい。
「まあ、知り合ったの最近だし……じゃなくて」
 明日夏は少年2人の頭を抱え込むようにして顔を近づける……少年2人の表情がちょいと強ばったことに気づいているのかいないのか。(笑)
「あのさ、A組の星野さんって知ってる?」
「星野…?」「星野…って、あの星野か?」
「『あの』…と、言われても」
「星野結美。物静かで、図書室でよく見かけて、髪の毛がさらっと…(以下略)」
「あ、うん、その娘」
 2人のうち、1人が長々と語りだしたのを制して、明日夏が頷く。
「……で、星野さんがどうした?」
「えっと…」
 さて、どう話を進めたモノやら……と、明日夏はちょっと考え。
「男子から見て……ああいう娘は、どうなの?」
「いや、俺は知らねえし」
 と、1人は首を振ったが、もう一人が(以下略)。
「正直、俺も含めて隠れファンは多いぞ……(中略)……あんな娘が、マネージャーになってくれたら、俺は死ぬ気で頑張るね」
「いや、そこは普段から頑張れよ」
 と、呟くもう一人は……その目に微かな非難の色を浮かべている。
 とはいえ、その心遣いとは関係なく、明日夏は別に気にした風もなく、何度も頷きながら。
「なるほどね……じゃあ、問題ないかな」
「何が?」
「別に、こっちの話」
 と、明日夏は教室を出ていき……隣の教室へ。
 おそらくは、またサッカー部員に同じ質問を繰り返すつもりであろうが……その場に残された少年2人としては。
「おい」
「なんだよ」
「お前ね、ちょっとは考えろよ……例えば、お前の前で咲野が他の男子をものすっごく褒めちぎったら、いい気分しないだろ」
「そーかあ?」
 と、首を傾げ。
「つーか、咲野って男友達みたいじゃん」
 などと、さっき明日夏に抱えられて、髪の毛から漂ってくる匂いとか、そういうものに緊張したことをさらりと棚に上げたり。
「いや、でもなあ…」
「……なるほど、狙ってるのか」
「えっ、いや、俺は…別に。だって、仲間じゃん、そーいう対象に見るのは…」
 などと、明日夏が戻ってくるまで、青い春の会話が続けられたのだった。
 
「……」
 ゆっくりと旋回する紙飛行機に、教室内の生徒はみな視線を向けていた。
 エアプレーンを思わせるゆっくりとした飛行は、その紙飛行機の独特の形状と、絶妙のバランスによって生み出されているのだろう……などと考えた人間は、当然1人もなく。
 3回旋回して、紙飛行機は自らを投じた主の机の上へと着地した。
「おぉ…」「すげえ」「計算してやったのか、あれ?」「そりゃ、二見だぜ」
 ざわつく教室内とは対照的に、瑛理子はちょっと小首を傾げつつ、紙飛行機を手にとって、バランスを確かめるように指先に乗せたりしている。
 そして、当然というか、不可解というか……苦虫をかみつぶしたような表情で、教師はただ黙って瑛理子を見つめるだけ。
 ようやくそれに気付いたといった感じに、瑛理子がちょっと顔を上げ、『何か?』と声を出す。
「……授業中だ、二見」
「授業?」
 おそろしく冷ややかであるだけでなく、聞いた者全てが侮蔑されたと感じるほどに、それはある意味芸術的な返答であった。
 高名の芸術家の多くが、死後にその評価を高める事になったのにならったわけでもあるまいが……刺すような視線に瑛理子は包まれる。
 いや、心配そうに、おろおろとする少女が1人……もちろん、祇条深月であるが、この状況を打破できるほど機転が効くわけでもないし、こういうときに自らが動くという行為は、彼女が受けた教育から最も遠い位置にある。
 まあ、それはそれとして……周囲の空気に負けたわけでもなく、瑛理子は席を立って教室を出ていく。
 そんな仕草は、憎らしいまでに普段の瑛理子のそのものなのだが……生憎と、瑛理子の精神状態は通常から遠いところにあった。
 恵のことが心配でありながら、自分が何をすればいいのか、何をしたらいいのかわからない……何から何まで初めての経験に、瑛理子は混乱していたのである。
 理由がわからない、解決策が見つからない…能力の有無を論じる以前の問題。
 以前、勉強の苦手な子が教師に向かって泣きながら『何がわからないのかわかりません』と訴えていたのはこういうことなのだろうか……などと、なまじ頭の回転がよいものだから、瑛理子の思考は拡散するばかり。
「今は授業中よ、二見瑛理子」
 廊下をゆく瑛理子を見て追いかけてきたのであろう恵に、もはや生来のモノとなってしまった冷笑を浮かべる瑛理子。
「……あなたもね、栗生」
「それが、なに?」
「『ならぬものはならぬのです』…ってこと?」
 などと、一部では有名な某会津藩の什(じゅう)の誓いを挙げて揶揄する瑛理子に対して、恵は表情を動かさず……まあ、意味も分からなかったのだろうが。(笑)
「最近変ね、二見」
「……」
「何かあったの?」
「……」
 まっすぐで、善良な少女。
「……違う」
「え?」
 言葉に出来ない、うまく説明できない……そんなもどかしさを覚えながら、瑛理子がようやくに口にした言葉。
「最近変なのは…あなたよ、栗生」
 この瞬間、何かが動き始めた……瑛理子はもちろん、恵もまたそれに気付いてはいなかったが。
 
「……二見に」
 どこか憮然とした表情で、恵が呟く。
「心配されたわ」
「ふむ…」
 柊はちょっと頷き……軽い口調で言った。
「心配してるのは、二見さんだけじゃないけどね」
「そういう話じゃなくて…なんというか」
 恵は眉を寄せ……どう表現したモノやらと思い悩んだ挙げ句、癇癪を起こしたように髪の毛をかきむしった。
「なんでっ!?」
「それはまあ、相原の言ったとおり……二見さんは、栗生に対して好意を持ってたって事じゃないかな?」
「そうじゃなくてっ!」
 もんのすごい目つきで睨まれて、柊は文字通り3歩退いた。
「二見に気付かれるほどっ、今の私はおかしいのっ!?」
「栗生のことを良く見てたんだろうね……彼女の鋭さについては、今更ボクが何か言う必要があるかい?」
 融通のきかないところはあるが、他人の感情をむげに切り捨てたりはしない恵である……これを機会に、2人の関係は新たな局面を迎えるのかも知れないと柊は思った。
 光一もそうだが、恵もまた……自分がいなくなることで、貴重な知人を失うことに変わりはないのだから。
「……何がおかしいの?」
「あ、いや…別に」
 瑛理子と恵が友達づきあいしている想像を、慌てて振り払う柊。
「この際言っておくけど」
 くぎを差すように、恵。
「理由は言えないけど、確かに私は普通じゃないわよ……柊ならわかってるでしょうけど、あの日からね」
 その頑なさが、反対にある程度の指向性を与えるんだけどと、柊は心の中で呟きつつ。
「やっぱり、理由は言えないのかい?」
「言いたくないわ……っていうか、柊。あなたも、変よね」
「何が?」
「冬からよ……色々と、もっともらしい理由をひねり出してたけど、何かがあって、あなたは動き出した。違う?」
「……んー」
「そして、今は理由を言えない……そうでしょ?」
「……相原も、そう思ってるかな?」
「当たり前でしょ……言えることなら言うでしょ、柊は。だから、聞かないだけよ」
 と、恵はため息をつき。
「……何年のつき合いよ」
「そうだね、長いつきあいだ…」
 感情の波立ちを、抑え込みながら……柊は、そう、呟いた。
 
「……なんだか、思ってた以上に大人数になっちゃったな」
 と、背後を振り返りながら光一。
 放課後、家庭科室。
『作るばっかりじゃなくて、たまには他人が料理をしてるところを見るのもいいかもね』……という、なるみへの光一の提案だったのだが。
「家庭部部員が、ここにいちゃいけないって言うのか?」
「そーだ、そーだ…」
「あ、あ、2人はるっこちゃんとまなちゃんです。同じ家庭部で…」
 などと、慌てて説明を始めるなるみを押しのけるようにして、るっこと呼ばれた眼鏡少女が光一を指差しながら詰め寄る。
「大体、家庭部でもないアンタが料理をするのを見て、何の意味が…」
「あ…」
 どんっ。
「うわっ」
「…と」
 突き飛ばされた少女を受け止めながら、光一はやや険しい表情で菜々を見た。
「菜々」
「……」
 ため息をつき、二度目は無視をさせない程度にきつい口調で呼びかける。
「菜々」
「だって、おにいちゃんを…悪く言ったもん」
「菜々がそう思ってくれるのは嬉しいけど、こういうのはダメだろ。ほら、ちゃんと謝って」
「でも…」
「……噂が真実。珍しいケース…」
 と、2人を見て頷くまなちゃん。(笑)
「……いい加減放せっ」
 と、光一の腕をふりほどいて、るっこが脱出。
「ああ、ごめんね、るっこちゃん」
「気安く呼ぶなーっ!」
「わ、わわっ、彼女は夕月薫子で、るっこちゃんです。そ、それで…」
「飛羽愛美……人呼んで、まなちゃん」
 と、愛美。
「そっか、よろしく、まなちゃん」
「こちらこそ…」
 などと、まなちゃん(笑)は差し出された光一の手を取って握手する。
「ま、愛美の裏切り者っ」
 非難の声をあげる薫子に向かって、愛美が静かに首を振った。
「世の中、いい人ぶってる人は多いけど…この人は、本当にいい人…心配ない」
「……愛美が言うなら」
 ぶすっと、まだ少し納得いかないような表情で、薫子が渋々と頷いた。
「ほら、菜々…」
「……ごめんなさい」
 と、菜々は菜々で、渋々と。
「まあ……2人ともよろしくね」
 と、光一は愛美と薫子に向かって微笑みながら頭を下げる。
「……らじゃー」
「ほんっとに、ブラコンなんだな、アンタの妹」
 と、これは呆れたように薫子。
「んー、シスコンとかよく言われるけど、仲が悪いよりよっぽどいいと思うんだけど」
「そりゃ…確かにそうだな」
 と、薫子が少し笑い……背後に視線を向けた。
「で、あっちの部外者は?」
「あ、私達?」
 やっと出番なの…という感じに、明日夏がちょっと手を挙げた。
「咲野明日夏、サッカー部所属」
「ほ、ほ、星野結美…帰宅部…です」
「……?」
「いや、1人で勉強するのは寂しいというか、わからないところを聞く相手が欲しいし……じゃあ、相原の用事が終わるまで星野さんに手伝ってもらおうと思って」
 何故か微妙に視線を泳がせながら明日夏が語り、結美は恥ずかしそうに頷く。
「ほら、どうせ図書室は5時で閉まるし、だったら最初からここで勉強してもいいかなって」
「ああ、なるほど」
 などと頷く光一の背後で、愛美と薫子が意味ありげな視線を交換。
「でてけ」
「でていけ」
「ま、まなちゃん、るっこちゃん」
「高校レベルで、勉強しなきゃ勉強が出来ないなんてのは、所詮勉強には向いてない人間なんだから、無理することはない。ここからでてけ」
「……」
「……」
 周囲の沈黙に気付き、薫子が傍らの愛美に視線を向けた。
「なんか変なこと言ったか、アタシ?」
「人は、右手に誠実、左手に欺瞞を携えて歩いてきたから……正しいだけの意見は、敵しか作らない」
 と、ため息混じりに愛美。
 ちなみに、菜々が『うんうん、向いてないことはやらなくてもいいよね』という感じにしみじみと頷いていたりする。(笑)
「うーん、それは…『人間はかならず死ぬから、生きていても仕方ない』っていうぐらい、乱暴な意見かも」
「……むう」
「るっこ…ここは、素直に謝るが吉…」
 などと、愛美が肩に手を置いて首を振る。
「……すまん、言い過ぎた」
 
 ちなみに、薫子は学年トップ……愛美は1教科以外全部満点、その1教科は『不吉だったから…』と手をつけずに0点で、ある意味、1年真のトップともいえる。
 
「手際いいね、相原」
「ん、普通だと思うけど」
 などと返答しつつも、流れるような光一の動きはそのままで。
「母さん見てると、まだまだだなって痛感するし」
 と、同意を求めるように光一が菜々を見る。
「うん、それはそうだけど……私は、おにいちゃんの料理の方が好きだよ」
「あはは、ホント仲良いね」
 などと、口を開くのは明日夏と菜々と光一だけで、他の4人は沈黙を保ったまま……だったのだが。
 薫子が、肘でなるみをつつき、ぼそぼそと呟く。
「なるみ、アレは普通なのか…?」
「ち、違うと…思う」
「普通じゃ…ないに一票」
 薫子、なるみ、愛美の3人が、同意を求めるように結美に視線を向けた。
「……」
「……?」「……?」「……呆然」
 愛美の言葉どおり、結美は……すこしばかり呆然としていたのだった。
 『結美、料理は女の子の武器なのよ』……などと母親に教えられ、割と子供の頃から料理に親しんでいた結美にとって、武器を振るうべき相手のそれをみたショックが大きかったに違いない。
 それと同時に、『相原君、格好良い…』などという、別の意味でも惚けて(笑)いたりするのだが。
 ちなみに、この場の人間の料理の腕を並べると…。
 
 光一>>>なるみ、結美>>薫子、愛美>>菜々>明日夏
 
 こんな感じになる。
 ただし、あくまでも料理の腕であって、それにかけた時間とか、知識とか才能とは関係ない。(笑)
 少しだけ補足……明日夏はまともに料理をしたことが無いし、菜々は冒険さえしなければ、いくつかの料理をふつーに作ることは出来る。(笑)
 と、そこに遅れてやってきたのは……。
「お、やってるね…」
 と、柊。
「あれ……栗生は?」
「ん、ちょっと用事があるそうだよ…」
「そっか…」
 と、光一は残念そうに呟いた。
「誰だ、アンタ?」
「ん、ボクかい?」
 さわやか少年オーラを発しながら、柊は薫子に向かって自己紹介。
「でて…」
「ごめん、僕が呼んだんだ……人数多い方が楽しいかなって」
「……まあ、いいか。今更だしな」
 と、薫子はため息をついた。
 
「じゃあね、なるちゃん」
「うん、さよなら、菜々ちゃん、せんぱい」
 駅前でなるみと別れ、光一と菜々の2人は家路を歩む。
「ところで菜々」
「なあに?」
「いや、今日、るっこちゃん…夕月さんを突き飛ばしただろ」
「……ごめんなさい」
「あ、そうじゃなくて…」
 光一は菜々をじっと見つめながら。
「二見さんに、悪戯とか……してないよな?」
 菜々は一瞬表情を強ばらせ……光一の視線を避けるようにそっぽを向きながら呟いた。
「し…してないよ……」
「……」
 菜々は光一の無言の責めに5秒ほど耐えた。
「……したけど、最近はしてない」
「……ん、そうか」
 光一はちょっと頷き……菜々の肩に手を置いて言った。
「明日、どうすればいいか…わかるよな?」
「あ、あれはっ…あの人が悪いんだもん」
「……百歩譲ってそうだったとしても、菜々が意地悪をしていい理由にはならないぞ」
「う…」
 形勢の不利を悟って菜々はちょっと俯き……いい機会とも思ったのか、かねてからの疑問を光一へとぶつけた。
「お、おにいちゃん…1つ、聞いていい?」
「なんだ?」
「おにいちゃんは、なんで二見さんに対して腹を立ててないの?」
「……」
「……」
「あー、言われてみるとそうだな……なんか、学校側の対応にはちょっと腹が立ったけど、二見さんに対して、特には感じなかったような」
 などと、のほほんと呟くモノだから、菜々としては大きなため息をつかざるを得ない。
「もう、いいよ…」
 光一の奇妙な鷹揚さというか、そういう部分について、菜々には菜々なりの考察らしきモノがあるのだが……それを、他人に話したことはない。
 その原因(菜々が考える)となった人間に対して、菜々もまた複雑な感情を抱いているせいでもあるからだ。
「あした、謝りに行く…」
「そうか…」
 えらいぞ…という感じに、光一の手が菜々の頭をなで回す。
 手で優しく前髪をかき上げて、おでこにちゅー……から、いつの間にかそうなってしまった行為。
「……おにいちゃん…」
「ん?」
「ううん…髪が乱れちゃうから、もういい」
「あ、ごめん…」
 光一の手が離れていく。
 子供の頃……本当に小さな子供の頃、菜々は3人兄妹だと思い込んでいた。
 おにいちゃんと自分と……おねえちゃん。
 住む家が違ってるとか、名字が違うとか……まあ、そういうものなのだろう(笑)という子供特有のおおらかさによる誤解ではあったが。
 家族だと思っていた相手が、実は家族のような……であることに気付き、そっか、おにーちゃんとおねーちゃんはけっこんできるんだ…などと、無邪気にも母親に向かって『ねえねえ、おかーさん。私とおにーちゃんって、本当の兄妹じゃなかったりするの?』などと質問し、生まれて初めてぐーで殴られる経験を(以下略)。
「どうした、菜々?」
 ほら、早く帰ろう……と、光一が伸ばした手を取りながら、菜々は光一には絶対聞こえないように小さく呟いた。
「ずるいよ…摩央ねーちゃんは…」
 
「……」
 瑛理子は眉をひそめることもなく、そこにあるべきモノがないという現実を受け入れた……別に、珍しいことでもないからだ。
 期末テストを間近に控えているからかしらね……と、心の中で呟く。
 自分が嫌われているのは百も承知だが、それがこういった行為となって現れるのは……いや、現れる頻度が高くなるのは、何らかの形でストレスにさらされた時が多いから。
「……くす」
 瑛理子が薄く笑う。
 弱い者達がさらに弱い者を殴る……それは、ずっと繰り返されてきた人の歴史とも言えるが、そもそも誰に殴られたか理解してもいない連中が、自らの痛みをねじくれた形で他人に与えようという滑稽さがおかしかったからだ。
 そうやってただ他人を笑うだけなら単なるいやな人間だが、瑛理子の笑いは自分自身にも向けられている。
 随分と前から、瑛理子には自分の命を大事にする……という気持ちはない。
 人間、いつかは死ぬ……それも、大抵は理不尽な形で。
 早いか遅いか、それと、理不尽さの強弱。
 わかりやすく言えば……どうでもいいのだ、自分を含めた、この世の中のほとんどのことについて。
 そして瑛理子は、裸足で歩き出す。
 足裏から伝わる感触が、少しこそばゆく……時折、痛みをもたらすが、瑛理子は頓着しない。
「あ、あの…二見先輩」
「……?」
 瑛理子に声をかける人間は、それこそ数えるほどしかいない……というか、偶然とかそういうモノをのぞけば、基本的に栗生恵と祇条深月の2人だけなのだ。
 つまり、『先輩』と話しかけられる覚えがなかったわけで。
「……あら」
「あ、あの…その…」
「何の用かしら」
「あ、あの…色々、いやがらせして…ごめんなさい」
「……いやがらせ」
 はて、どのことかしら……という感じに、わかっていながら瑛理子が小首を傾げてみせる。
「い、椅子の上にチョークの粉を巻いたり…机の向きを逆にしたり…」
 あまり洒落にならないいやがらせを受けている瑛理子にとって、それらは微笑ましいレベルのいやがらせでしかなかったわけだからして……反対に、その犯人が誰か見当がついていた。
 だが、しかし……。
 瑛理子は、あらためて目の前の少女の顔を見つめた。
「別に謝る必要はないわ。あなたにはそれをする権利があると私は思ってるから」
「……私だって」
「……あなただって…なに?」
 やや皮肉を込めた瑛理子の返答に、菜々は口ごもり……時間の経過と共に、元々隠されていなかった不満の色が、これでもかというレベルまで露わになっていく。(笑)
「お、お、おにーちゃんが…謝れっていうから」
「くっ」
 瑛理子は慌てて手のひらで口元を押さえた。
 顔を赤らめ、肩をぶるぶる震わせながら……爆笑しそうになったのをこらえたのだ。
「な、何がおかしいんですかっ!?」
「い、いや…ごめんなさい……」
 笑いをこらえながら、瑛理子は頭を下げる。
 兄も兄なら、妹も妹か……うらやましさとともに、そんなことを思いつつ。
「……」
「……?」
 何やら菜々の様子がおかしいことに気付いて、瑛理子は顔を上げた。
「どうしたの?」
「あの…なんで裸足なんですか?」
「ん…」
 瑛理子の言葉をよどませたのは、この少女の目に醜い悪意をさらしたくはないという、奇妙な感情だった。
「忘れたのよ」
 表情に出すことなく、平然と嘘をつく瑛理子。
 これでごまかせる……という瑛理子の予想は、残念ながら外れた。
「……隠されたん…ですか?」
 自分の見切りが外れたことに軽い驚きを感じつつ、瑛理子は悪びれることもなく訂正した。
「…そうとも言うわね」
「……」
 右に、左に、視線を投げ始めた菜々に、瑛理子がたずねる。
「……どうしたの?」
「ちょっと待っててください」
 と、瑛理子を置いて菜々がその場を去り……約1分後。
「これ……ですよね?」
 と、菜々はびしょびしょの運動靴を瑛理子に差し出した。
「……そう、だけど」
「わ、私がやったんじゃないですよ」
 と、菜々が慌てて首を振る。
「そうじゃなくて…何故?」
「……」
 菜々がちょっと俯き……そのまま顔を上げずに呟き始める。
「探せばすぐに見つかるところで、見つけてもすぐに使えないから……嫌がらせする人は、基本的に手間暇をかけたくないって…」
「……なるほど」
 この、瑛理子の『なるほど』は二重の意味を伴っている。
 つまり、この目の前の少女が、少なくとも靴を隠されたりする程度にはいじめられていたということと、それを助けてくれる存在が身近にいたということ……に関して、瑛理子は、触れないことに決めて。
「そういうものなのね」
 とだけ、呟いた。
 別に菜々に指摘されるまでもなく、絶対に見つからないところに隠そうとすればそれなりの手間がかかるわけで、『嫌がらせ』レベルの悪感情の場合、それほどの情熱を燃やそうとはしない事は理解している。
 もちろん……レベルが上がれば、それだけではすまなくもなることも。
 もう何年も前から、瑛理子が無くしても困らない程度のモノしか学校に持ってくることがないのはそのせいだ。
 いや、今の瑛理子にとって……無くして困るモノなど、ほぼ存在しないと言っても良いのだが。
「かして」
 そう呟いて、瑛理子はずぶぬれの靴をはいた。
「え、そんなのはいたら…」
「靴は、足を保護するためのモノ……何の問題もないわ」
「……でもぅ」
「そんな顔しないで……心配してくれて、ありがとう」
 ごく自然に、そんな言葉が出たことに瑛理子自身が驚いて。
「…えっ?」
「な、何ですか?」
「今、私が言ったの?」
「…?」
「いや、ありがとう…って」
 瑛理子の言葉の意味がわからず、菜々は困惑するしかできない。
 それはそうだろう、悪いことをしたら謝る、他人の親切にはお礼……それが当たり前の中で生まれ育った菜々にとって、瑛理子は良くも悪くも異質な人間なのだから。
 
 その夜、相原家。
 家族4人そろっての夕食は、相原家では基本的に珍しい。
「あ、これってお素麺の酢の物なんだね」
 などと、珍しそうに菜々がそれを箸でつまんで口に運び。
「これなら、私にも作れそ…」
 ごんっ。
「な、なんで叩くのお母さんっ!?」
 菜々の抗議には答えず、母は苦虫をかみつぶしたような表情で、菜々の小皿にコップの水を2滴ほど落とした。
「これで食べてみな」
 そうすごまれて、菜々は渋々とそれを口にする。
「……水っぽい」
「いくらアンタでも、素麺のゆで方ぐらいは知ってるよね?」
「し、知ってるだけじゃなくて、ちゃんと茹でられるよっ!ねえ、おにーちゃん、お父さん?」
「あ、うん…」
「そ、そーだな…」
 などと、光一と父親は苦笑しつつ頷く。
 まあ、これは菜々にとっては少々酷な評価と言えよう。
 ゆであがり直前に『びっくり水』を入れるのが好きで、何度もそれを繰り返してデロデロになるまで茹でたり、沸騰したお湯をふきこぼさせたり……箸でつまんだだけでぶつぶつと切れる素麺、束がそのままくっついて一本うどんみたいになった素麺……ぐらいなら、そもそもあまり実害はない。
 ただ、光一がやるのを見て『私も素麺のつゆを作る』などと、見よう見まねでとんでもないモノを、しかも大量に作った数年前の夏、相原家にとって素麺は地獄メニューとなりかけたのだが、母が一瞬もためらうことなくそれを捨てた事で回避されたと言う記憶が、光一と父親の脳裏を支配していたためだ。
 ちなみに、意外かも知れないが包丁の使い方に関して菜々はそこそこのレベルである。もちろん、そのレベルに達するまで母親と光一の血のにじむような(笑)苦労があったことは言うまでもない。
「水を2滴や3滴垂らしただけで味がおかしくなる料理なの、これは。茹でた素麺からどのぐらい水が出るか……とか考えなきゃいけない繊細な料理に対して、今アンタはなんて言ったんだい?」
「母さん…」
 もうそのぐらいで、という感じに光一が助け船を出し、父親がそれに続く。
「と、いうか、母さんが作ったんじゃなくて、光一が作った料理だろ。そんな細かいことを…」
「お父さんは黙っててくださいな」
 夏という季節を忘れさせるような、母の底冷えのするような低い声に父親が黙り込む。
「菜々、アンタはその『簡単そうだから自分にも出来る』という思考をやめなさい。そもそもアンタは料理に関して簡単そうなことも出来ないんだから」
「母さん、菜々だってちゃんと練習すれば…」
「光一もお父さんもっ、菜々を甘やかしすぎっ!」
 母親が光一に対して声を荒げる事は希である。
 ここにいたり、母親の機嫌があまりよろしくないことに他の3人が気付く。
 多分、病院で何かあったのだろう……という感じで、光一は父親を、父親は菜々を、菜々は光一に視線を送り、ため息をついた。
 そう、今更説明するまでもなく……相原家のヒエラルキーは、母親が頂点である。
 
「……おかーさん、何かあったのかな?」
「あったんだろうなぁ…」
 夕食後、ここ(台所)は私の戦場だから誰も手を触れるな……というオーラを発する母親を刺激しないように、光一は菜々と共に二階の自室に引っ込んだわけだが。
「……また、仕事に対して誠意の見られない新人でもやってきたのかな」
「そっか……7月だもんね」
 ちなみに母親は内科の婦長で……看護婦はおろか、医師連中にとっても頼れる存在であると同時に恐れられている存在なのだが、2人はそこまで母親の職場の実情を知るはずもない。
「あ、そうだ……ちゃんと謝ったからね」
「ん、そうか」
 菜々の言葉の意味することを理解して、光一がちょっと微笑んだ。
「……」
「どうした?」
「あの人……変な人だね」
 ぽつりと菜々が呟くと同時に、部屋のドアをノックする音。
 こんこん。
「はーい」
「……ふう」
 とため息をつきながら部屋に入ってきたのは父親だったり。(笑)
「おとーさん、逃げてきたの?」
「あそこまで荒れてるのは、久しぶりだなあ…」
 しみじみと呟きながら、父親が床の上に腰を下ろした。
「……」
「……」
 父親と菜々が、助けを求めるように光一を見る。
 2人の視線が意味するところは簡単だから、敢えて書かない。(笑)
 
 近寄ってくんなオラァ……なオーラを発しながら、何やら料理の下準備をしている母親の姿に臆することなく、光一は椅子に腰を下ろした。
 正直なところ、恵が怒ったときの周囲を圧する気配の方がよっぽど圧倒的な(笑)だけに……母親の気持ちを無視さえできれば、それは特に難しいことではなく。
「……」
「……」
 無言の戦いがしばらく繰り広げられ……ついに、光一に対して微妙な罪悪感を抱えている母親の方が折れた。
「これ、皮むきお願い」
「ん、了解」
 と、机の上に置かれた食材の皮むきを開始する光一。
「あと、これとこれ……こっちは、塩もみまで」
「うん」
 母親には劣るモノの、光一の手際もかなりのレベルと言って良い。
「……光一」
「ん?」
「あんまり菜々を、甘やかせるんじゃないよ」
「母さんが、もう少し菜々に甘くなればね」
 母親が手を止め、光一をきつい眼差しで見た……が、光一はそれを平然と受け流して。
「母さんの『甘い』は、どっちかと言えば何かをやったことに対する評価に近いものでしかないと思う……きちんと評価されることのほうが少ない世の中なのかも知れないけど、『悪いことをしても怒らない』とか、『やったことを評価して誉めてやる』っていうのは、『甘い』ってこととは別のことだと俺は思うよ」
 どういうときであれ、本当の意味で感情的になれないのが母親の良いところでもあり、悪いところでもあると思っている光一は、それを逆手にとった物言いをした。
「……ふむ」
 そこに問いかけがあれば、思案してしまう……ある意味悲しい性質を持つ母親は、何とはなしに頷いた。
「で、何があったのさ?」
「……」
 自分がどうやら息子の手段(て)に引っかかったらしいことに気付いたのか、母親は少しばつが悪そうな表情でそっぽを向いた。
「……光一は、この家で損な役回りを背負ってるわね」
「そうかな?」
「子供の頃から、菜々の世話と家事の手伝い……挙げ句の果てに母親の愚痴まで聞かされる。そうじゃ、ないかい?」
「俺がもっと子供だった頃は、母さんは父さんの2倍働いてる……そう思ってたよ」
 シフトの都合とはいえ、昼も夜もなく……いきなり電話で呼び出されてそのまま帰ってこない等、事情のわからぬ子供にそう見えても仕方がない。
 さらに、仕事の合間を縫って家事までこなす母親の姿を見て、光一は育ったのである。
「……誰に似たのかね、アンタは」
「まあ、俺も菜々も、母さんには似てないよね」
 光一の言葉に、母親がため息をついた。
 攻撃と防御というより、前衛と後衛というべきか……相原家のバランスというか、運営を考えると、どうしてもサポート役が必要になってくる。
 理屈ではなく肌でそれを感じ取り……光一は、自分をそのポジションへと押し込めたのではないか。
 さっきのため息の7割程度は、光一に対する申し訳なさという成分であり……家庭では夫を尻に敷き、職場では鬼婦長として君臨する母親だったが、ある意味光一だけには弱みを持っていると言えた。
 それからしばらく黙って料理の下準備にいそしんでいた2人だったが、母親がふいに口を開いて言った。
「あの酢の物……良い出来だったよ」
「4人が時間通りにそろった食卓だったしね」
 
 注…母親が言ったとおり、素麺から水が出る、もしくは水分を吸うので、作り置きにすると味がぼやける料理。
 
「何でもそうさ……簡単そうなモノが、一番難しい」
「突き詰めようとすれば…だろ、母さん」
 話が菜々のことにおよぶと思ったのか、光一が先にくぎを差す。
「……」
 図星だったのか、それとも単に話の腰を折られただけだったのか、母親はちょっと口をつぐみ……大きく息をはいた。
「光一」
「ん?」
「他言は無用よ」
 光一が小さく頷くのを確認してから、母親は口を開いた。
「昨今、どこの病院も似たようなモノだとは思うけど……経営がね、危ないの」
「……」
「それで、先日から経営建て直しのために外部の人間が色々と病院の現状を見て回ってるんだけど…」
「……」
 
 高校生に聞かせるような内容ではない、洒落にならない母親の愚痴は2時間続いた。(笑)
 
 その翌日は、明け方頃から雨が降り始めた。
 激しい雨というわけではなく、降っているのかどうか傘をたたまなければわからないぐらいの霧雨模様……霧雨ほど量が多くない、古い表現を使えば糠雨か。
 ちょうどその頃に母親は仕事に出かけ、父親が家を出たのは6時半過ぎ……それを見送ってから、光一は菜々の弁当の準備を始めた。
「おはよー」
「おはよう、菜々」
 入学直後のアレが嘘のように、菜々の朝はいつも通りに戻っている。
 まあ、10時や11時に寝れば、ごく普通に朝の7時には目が覚めるとも言うが。
「あれ?」
「どうした、菜々?」
「お母さん、作っていったんだ」
 食卓に朝食が並べられているわけでもないのに、菜々が言った。
「わかるのか?」
「うん、おにいちゃんのとは、ご飯の香りが違うから」
「なるほど」
「あ、でも、私はおにいちゃんの作ったご飯の方が…」
 などと慌てて言い訳を始める菜々を見て、光一はちょっと笑った。
 
「おはよー、菜々ちゃん」
「なるちゃん、おはよー」
 菜々とてるてる坊主(笑)が手を繋いで道を行く。
 それを一歩離れた位置から、微笑みを浮かべて見守る光一。
「……本日も良いお日柄ですね、相原先輩」
 いきなり背後から声をかけられたにもかかわらず、光一はちょっと空を見上げ……ごくごく真面目に切り返した。
「まあ、こういう天気の方が都合の良い人もいるだろうけど、世間一般の挨拶としてはどうかと思うなあ…」
「人は大抵、自分の都合で動く生き物ですので…」
「……飛羽さんは、こういう天気の方がお好み?」
「……じー」
 視線と、言葉が意味するところを悟って、光一は言い直した。
「まなちゃんは、こういう天気の方がお好みなの?」
「お好みですね……どんよりと曇った空を見上げていると、晴れ晴れとした気持ちになります…」
「なんか、日本語の使い方に矛盾を感じるような…」
 と、光一は苦笑を浮かべた。
 とはいうものの……まさに濡れ羽色の黒髪で、顔を半分隠しているような愛美に、こういう天気は確かに似合っているような気がして。
「……」
「あ、忘れてた。おはよう、まなちゃん」
「……おはようございます、相原先輩」
 と、愛美はちょっと頭を下げて。
「女難の相…」
「え?」
「後、水難やらなにやら……災難のフィーバーデーの気配がします…」
「むう…」
 冗談と笑ってすます……には、愛美の目が真剣だったのだが、それは、あっさりと愛美自身に否定された。
「軽いジョークです…」
「そ、そうなの?」
「相原先輩は、占いや運命、神や悪魔を信じる方ですか?」
「んー」
 光一はちょっと首をひねり。
「正直不勉強だからよくわからないってとこかな。ただ、なんというか……自分の手に余る、大きな流れというか、うねりみたいなモノはあるような気がする」
「……」
「……え、何か変?」
 愛美は……口元だけに小さな笑みを浮かべ。
「なかなかに…」
「え、何が?」
「それでは先輩、ごきげんよう…」
 すすすっと、光一から愛美が離れていく。
「いや、気になるんだけど…」
 と、光一の呟きをかき消すように。
「おっはよー、相原…って」
「うわ」
 傘で片手がふさがった状態で、勢いのついた女子生徒のタックルを食らっては、恵ならともかく光一レベルでは対処のしようがない。
 
「ごめん…」
「いや、咲野さんにケガがなくて何より」
 もちろん、擦り傷程度を除けば光一にもケガはない……が、降り始めからそれほどの雨量でもないのに、倒れたところに割と大きな水たまりがあったわけで。
「……というわけで、外出許可をください」
 と、光一はあらためて学年主任に言った。
 制服の代わりにジャージ着てればいいじゃん……という意見もあるだろうが、問題は下着であった。
「家まで取りに帰るのか?」
「いや、コンビニか、駅前のスーパーで売ってると思うので……まあ、2時限目が始まるまでに帰ってこられると思います」
「ふーん、ならいいぞ」
 わざわざ許可を取りにこなくとも、無断で学校を抜け出せばよいだろうに……とは言わないモノの、学年主任の態度はそんな感じで。
 瑛理子の時の騒動はなんだったのかという程の鷹揚さである。
 
 きーんこーん…。
「うわあ、何か変な感じ」
 HR開始のチャイムを背に受けて校門を通りながら、明日夏が呟いた。
「何が?」
「んー、いつも遅刻ギリギリで登校することが多いから…なんというか、こう、校門をくぐる向きが違う?」
「ああ、なるほど」
 息を切らせてそばを通り過ぎる生徒(遅刻確定)のいくらかは、不思議そうに2人を振り返ったりしているわけだが。
「今朝は、栗生が校門にいなくて良かったよね」
「なんで?」
「いや、また同じ説明しなきゃいけないから」
 これこれこういう理由で、ちゃんと許可もらって外出します……などという同じ説明を繰り返す行為は、明日夏にとっては面倒以外の何物でもないのだろう。
 だが、1つの傘(さっきのあれで明日夏の傘は壊れた)に寄り添うようにして校門を出ていく2人を、『彼女たち』はそれぞれ別の場所から見ていたのだった…。
 
 
                 完
 
 
 さて、やっと話が動いてきたな……などという言葉を、多分書き手が吐いてはいけないんでしょうね。(笑)
 明日夏は良いなあ(後藤さんフィルターの影響あり)…などという気持ちから、突然出番が増えたわけでもないです。
 まあ、ほぼ当初の構想通りなのですが……なんか長くなってきたのが誤算か。
                 

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