さて、中間テスト後の赤点補習もとりあえず終了……もちろん、課題のプリントは継続中だが。(笑)
「……今日も雨だね」
「まあ、梅雨だからね」
「光一、ひねりが足りないよ」
 菜々、光一、母の3人、言葉は違えど、視線は仲良く窓の外。
 しとしとしと……などという生やさしい擬音とはかけ離れた雨音の激しさが、そうさせているのか。
「……タクシーで出勤なんて、お父さんずるいよね」
「いや、出勤じゃなくて出張……というより、朝一番の飛行機に乗るためだから別にずるいも何も」
「光一、優等生的な発言はやめな」
「……母さんも、タクシー使えば?」
「やだね」
 と、母の返事はにべもなく。
 ちなみに、母親は病院まで原付通勤。
「……母さん、何かあったの?」
 母はちらりと菜々に目をやり……呟いた。
「容態の良くない患者がいてね……ひょっとすると今夜だけじゃなく、明日も帰ってこられない」
 わざわざ言葉を選んだということは、容態が良くないどころの話ではなく……という事を察し、光一は曖昧に頷いた。
「……なるほど」
「お母さんが、病人になっちゃいそうだね」
「ま、倒れても病院だからね」
 気楽な菜々の言葉をさらりとかわし、母は立ち上がって食器を流しへと。
 現代社会において、病院は最も人が死ぬ場所でもあるわけで……人のことは言えず、母さんも菜々には甘いよな……などと、光一は心の中で呟いた。
「じゃあ光一、母さん先に行くわ……ダメならメール入れておくから、家のことは頼むわよ」
「うん、わかった」
「お母さん、私は?」
「……」
「……」
「……じゃ、行ってくるから光一」
「な、何でスルーなのっ?」
「アンタは、勉強」
「う…」
 たじろいだ菜々に歩み寄り、母は、低く威圧するように言った。
「学年1位とか無茶は言わないけど、期末でも似たような成績だったら……」
「だ、だったら…?」
「アンタの部屋の、漫画とか、ぬいぐるみとか……勉強道具と、日常生活品以外は全部燃やすから」
「え、ええっ!?」
「……母さんは、やると言ったらやる女だよ」
 それが、ただの脅しではないことを菜々は良く知っている。(笑)
 かつて、何度注意されても部屋の整理整頓をしなかったため、それを一度やられたことがあるからだ。
 ただ、『赤点を取ったら』ではなく、『似たような成績だったら』という所に、母親としての温情や、少しずつでも前に進めという公平さを感じとれるように……母がこれまで光一や菜々を育ててきた行為において、血も涙もない苛烈な処置はなかったわけで。
「お、おにいちゃん…」
 ちらり、と助けを求めて菜々が視線を光一に……。
「とりあえず最下位脱出を目指そうか、菜々」
「な、なんでビリだったって、知ってるのっ?」
 知られたくなかったから見せてないのに……と、菜々が母親に非難の視線を向けた。
「母さんは言ってないよ」
 じゃあ、ユダの正体は一体……と首を傾げた菜々に、なにか問題があるのかなあという感じに光一が答えた。
「いや、父さんから聞いたんだけど」
「おとーさんの、ばかあぁっ!」
 
 激しい雨、傘……自分の視界が狭くなるだけではなく、相手の視界も狭まるこの状況である。
 やはり、最低限の危険回避は心がけておくべきだろう……と、光一は声をかけた。
「……菜々、あんまり車道側を歩くと危ないぞ」
「あ、うん…」
 菜々も素直に、光一のとなりに戻ってくる。
「……この雨だと、電車通学とか、自転車通学とか関係ないね」
「そうだな」
 太陽の光が平等に降り注ぐように……最近は日照権の問題などでそうでもなさそうだが……雨もまた、平等に降り注ぐ。
「クラスの男子がね、濡れたからって教室で靴下とか干すんだよ……デリカシーのかけらもないんだから」
「……まあ、みててあんまり気分の良いもんじゃないけど」
 そのぐらいは勘弁してやれよ……と続けようとした光一のとなりを、リムジンが滑るように走っていく。
「……ずるい」
「まあ、校門から校舎までの間に濡れるのは同じだけど」
「でも…」
「ななちゃーん、せんぱーい」
 後ろからなるみの声。
「なるちゃん、おは……」
 振り返った菜々は途中で言葉を失い、光一もまた…
「お、思い切ったなあ、なるみちゃん…」
 などと、呟くしかできず。
 ぴっち、ぴっち、ちゃっぷ、ちゃっぷ、と駆け寄ってきたなるみは……傘ではなく、頭からかぶるポンチョタイプの合羽を身にまとい、足には長靴(黄色)。
 まあ、身長が低いために……下手をすれば小学生と間違われるような、そういう格好だった。
「な、なるちゃん…それは…」
「えへへ、やっぱりこれが一番楽。濡れないし」
 などと、菜々に向かってなるみは屈託なく笑い。
「まあ、機能性を追求すれば間違ってはないよね」
「え、でも、こういう格好って、可愛くないですか?」
 等と不思議そうに言い、なるみはその場でポンチョの裾を広げるようにふわりと1回転。
「てるてる坊主…」
「てるてる坊主だね…」
 などと、菜々と光一は呟きあったのだが。
「ですよね?」
 などと嬉しそうになるみが笑う。
 どうやら、なるみに言わせると、てるてる坊主は可愛いモノらしかった。
 
 さて、菜々となるみの在籍する1年A組。
 6月に入ってすぐに席替えを実施したため、入学直後の男女出席順という味気ない(?)席順は一変し、親しい人間が隣り合う、その逆、まあ、色々とドラマを内包しているのだが、菜々となるみの座席はななめではあるが、一応隣同士に収まっている。
 少し話は逸れたが、3時限目の授業中にそれは起こった。
 廊下側、一番後ろの座席に座る少女は、授業そっちのけで内職というか、携帯をいじっていたのだが……ふと、視界の端に黒いモノがよぎったのに気付いて身体を固くした。
 あれ、今のって……などというレベルではなく、見ちゃダメ、確かめたらダメ……という事がわかっていながら、少女はゆっくりとそれに目を向け…。
「ひぃっ」
 椅子を後ろに倒しながら立ち上がった。
 まあ、いわゆる1つの頭文字(イニシャル)G。
 本気で生理的嫌悪を感じる人間はもちろん、ここで騒げば授業が中断すると考えての確信犯などを含め、大騒ぎになりかけたところ。
 すぱんっ。
 丸めたプリント(数枚)でそれを叩きつぶすと、ポケットティッシュで包むように拾い上げ、別のティッシュで床を拭き、それらをゴミ箱へ捨てたのは……なるみだったり。
「……えーと、みんな静かに、ね」
 と、腰の退けていた女教師がみなに声をかけ。
「……なるちゃん、すごーい」
「太郎さんぐらいで、騒いでたら何もできないよ、菜々ちゃん」
「……太郎さん?」
「あぁ、お店でそれを呼ぶのはあれだから……ねずみとか、そういうのは全部太郎さん」
「へぇー」
「ほら、菜々ちゃん、授業に集中しないと」
「……うん」
 微妙に複雑そうな菜々の表情に、なるみが気付いたかどうか。(笑)
 
「……って事があってね」
「菜々、今は食事中だから…」
 光一がやんわりと注意する。
「この時期は、太郎さんより、食中毒の方が怖いんです……保健所の検査とか、色々ありますし」
「あぁ、そうだね…」
 うんうん、わかるわかる……と頷きあう、なるみと光一。
 まあ、実際に危ない(増える)のは5月から10月ぐらい……だし、飲食業を営む人間は一年中気をつけているから、6月だけが特別というわけでもないのだが。
「せんぱいは、大丈夫ですよね?」
「うん、子供の頃から母さんにきつく言われてたし」
「……私、言われたことない」
「まあ、太郎さん?……に関しては、家の外からやって来て仕方がない部分もあるし」
「ですよねえ…」
 最近、なるみはスルー技能を身につけたらしかった。
「ところでせんぱい」
「ん?」
「今日って、図書室で勉強ですか?だったら…」
「うん、咲野さんと寄るよ」
「はい、準備して待ってます」
「……」
 
 さて、数日前の放課後の図書室。
「わー、可愛い」
 そっかー、この子が噂の……などと、明日夏が菜々の頭をなでなでなでなで。(笑)
 色々と考えていたらしい菜々は、その攻撃の激しさの前に圧倒されたのか、明日夏のなすがままにされたい放題。
「いいなあ、私もこういう妹欲しいなあ」
 べたべたべた、なでなでなで。
「咲野さん、兄弟は?」
 くりっとした瞳を光一に向けながら……もちろん、菜々をなで回す手の動きはそのままで。 
「ん、いないよ」
「あ、一人っ子なんだ?」
「うん」
「えーと……菜々が目を回しかけてるから、その辺で」
「え、あ、ごめん、ごめんね、大丈夫?」
「あ〜う〜?」
 
 ……という事があったのをふまえて。
 
「……菜々ちゃん、せんぱい達と一緒に勉強しなくていいの?」
「……あの人、なんか苦手」
 などと、なるみのいる家庭科室に避難している菜々だったり。
「……菜々ちゃん、薬味用の細ネギでも切る?」
「……おにいちゃんやお母さんが見てないところで包丁を使ったらダメっていわれるからやらない」
 もう、仕方が無いなあ、菜々ちゃんは……という感じに、なるみが苦笑した。
 
「すとっぷ、相原」
「ん?」
 教科書をなぞっていた光一の指が止まる。
「ごめん、何言ってるのか全然わからない」
「なるほど…」
 本格的な勉強に取りかかる前に、明日夏の習熟度というか……各教科に対する、理解度を認識しないと教えようがないということで、1日1教科ぐらいの速度で現在地を確認していたのだが。
 光一は、これはなかなかに教え甲斐がありそうな……という感じに呟いた。
「……思ってたより、ひどいかも」
「あ、やっぱり?」
「うん……この感じだと、全教科赤点でもおかしくない気がする」
「あはは、昔から、記号問題だけは強いんだ」
 と、ちょっと照れたように明日夏。
「でも、スポーツの出来る人って、そういうのが多いらしいよ……勝負強いとでも言うのかなあ」
 などと、光一は真面目に取り合い。
「……でも、赤点は今回が初めてなんだよね?」
「うん、なんとか」
「1年の頃は…?」
「最初は平均だったかな……2学期の終わりぐらいからは、ずっとギリギリぐらいで」
「……なるほど」
 などと、真面目に(?)勉強する2人を、貸し出しカウンターからじっと見つめる少女が1人。
『え、本当にいいの?』
『うん…ちょっと調べモノがあるから、ちょうどいいし』
 などと、当番を代わってもらった……某2年A組の図書委員。(笑)
 時折思い出したように、棚の整理をしてるフリをしたり、本を読んでいるフリをしたり……仕事しようぜ。(笑)
「……っていうか、1日1時間半ぐらいの勉強でいいの?」
 明日夏がちょっと不思議そうに問い返す。
「まあ、赤点を取らないための勉強だから」
 さらりと光一。
「サッカーの練習が出来ないぐらい勉強に時間をかけたら、咲野さんにとっては本末転倒ってやつだよね」
「そりゃ…まあ、ね」
 ちょいとそっぽを向きながら、明日夏。
「……」
「な、なに?」
 光一の妹は、菜々である。(笑)
「……本末転倒の意味ってわかる?」
 
 びしいぃっ!
「遅い」
 端から見ていると、軽く打たれたとしか見えなかったのだが……小手をとられた少年が思わず竹刀を取り落としてしまったところから察するに、なかなか強烈な一撃だったらしく。
「早く竹刀拾う」
「お、おうっ」
「返事は、『はい』」
「お、は、はいっ」
 『はっきりいってレベルは低い』と恵に両断された、柔道部および空手部だったが……男子剣道部の個人戦において、県予選を3位で通過し、インターハイの地区予選へと駒を進めた3年生が1人でた。
 まあ、早い話……全国大会というか、インターハイ出場を目指して、1つ年下の……恵に稽古を付けてもらっているという状況。
 と、それを見守っている剣道部員の1年生の1人が、2年生の肘をつついた。
「あ、あの…山崎先輩」
「稽古中だ、私語はやめろ…ぶん投げられるぞ」
 誰に…という主語はもちろん省略。(笑)
「……っていうか、あの人、部外者ですよね?」
 1年生だけに、まだ恵という人間のことを良く知らないのだろう……ぼそぼそと言葉を続け。
「あの坂上先輩が、子供扱いって、何者ですか?」
 ぱぱぱんっ!
 小手、面、面……の連続技をまともに受けた少年に向かって、恵が厳しい声を投げる。
「せめて、1つぐらいは反応しなさいっ」
「は、はいっ」
「それと、そこの2人」
「…っ!?」
「面打ち2往復」
 振りかぶって面打ち……の際、重心が前に移動する。
 つまり、面打ち1回で10センチほど前に移動するわけで、道場の端から端まで2往復しろと言うこと。(笑)
 逆を言うと、きちんと重心移動が出来ないといつまで経っても前には進まない。
「……すんません」
「投げられなかっただけマシだ…」
 と、荷馬車に積まれた子牛よろしく、面打ちを開始する少年2人。
 さて……柔道とか空手のイメージが強い恵だが、当然剣道も……いや、正確には剣術の腕も一流である。
 竹刀に慣れると、腕が鈍る(笑)から……と、いわゆる剣道の稽古はほとんどやらず、もっぱら真剣で(以下略)。
 と言っても、機動隊に所属し、全日本選手権に出場するようなレベルの人間(もちろん男)と、体格差をモノともせず互角以上に戦うわけだから……高校生男子が、どうこうできるようなレベルではないのは確かで。
「りゃぁあっ」
「ん」
 少年の攻撃の出始めを、恵が竹刀の先で制止する。
「そこでね、脇が空いてるの……気持ちだけが先に走って、肘が甘くなってるのね。あとは、膝の動きが…」
 などと、指導する恵の姿は堂に入ったモノである。
「じゃあ、それに注意して乱撃ね……誰か、時間お願い」
 ちなみに、剣道に乱撃という言葉はない。
 ここでは、受け手となる恵がわざと隙を作り、相手はそこに打ち込む……というかかり稽古の一種と思っていただきたい。
「何分ですか?」
「じゃあ、軽く10分ぐらいで」
 恵をのぞく、その場にいた全員が『全然軽くじゃねえだろ、それ』とツッコミを入れたのは言うまでもない。
 
 図書室のカウンター。
 星野結美は、ちらちらと時計に目をやり……深呼吸を二回、小さく『ふぁいと』などと呟いてから立ち上がった。
 ゆっくりゆっくりと、目的の場所へと足を進め……。
「あ、あの…相原君」
「え?」
「そ、そろそろ…閉館…時間だから」
「え、もうそんな時間?」
 と、意外そうに聞き返したのは、明日夏。
「は、はい……もう、5時…です」
「そっか…気分がのってたのに、残念」
 と、残念そうに呟かれた明日夏の言葉に……結美が、微妙な表情を浮かべる。
「まあ、勉強になれてない内は、程々に頑張らないとね……昨日頑張ったから、今日は軽めで……とか言い出すと、もうダメだし」
「あはは、スポーツと同じだ」
「……」
「わざわざありがとう、星野さん。僕と咲野さんはすぐにでるから」
「えっ、あ…はい」
「片づけ終了」
 と、机の上の勉強道具をそのまま鞄に放り込む明日夏。
「……」
「……」
 光一と結美の無言の抗議を感じたのか、明日夏は再び鞄からそれを取り出し、こんどはきちんと片づけた。
「じゃあね、星野さん」
「あ、うん……さよなら、咲野さん」
 ちら、と光一に視線を向ける結美。
「さよなら、星野さん」
「さ、さようなら…相原君」
 
「えへへ、このこの」
「な、なに?」
 図書室から家庭科室へと向かいながら、明日夏が肘で光一の脇腹をつく……いや、実際は光一がかわしたのだが。
「いや、星野さんって、1年から同じクラスなんでしょ?」
「うん……でも、ほとんど口をきいたこともないなあ」
「……」
 明日夏はちょっと失敗したかなという表情を浮かべ……どうやら、笑ってごまかすことにしたようだった。
「あははは」
「咲野さん、どうしたの?」
「いや、別に何でもないよ」
 結美の態度から見つけた小さな恋のメロディーを壊してしまわないように、明日夏はただただ笑って。
「さてと、今日のなるみちゃんのご飯は何かな〜」
「まあ、うどんなのは間違いないんだけどね」
「と、いうか……材料費とか、出さなくていいのかな?」
 と、明日夏がちょっと真面目な表情で呟いた。
「うーん、まあ出しても『修行中ですからっ』とか言って辞退するだろうし……気になるなら、色々目をかけてあげればいいんじゃないかな」
「なるほど、お金以外で代価を払うって事だね」
 うん、それでいこう、と頷いた明日夏が、ちょっと光一に視線を向けた。
「ん?」
「お腹がすいたから、先に行くよ、相原」
 光一の視線を避けるために小走りで駆けだした明日夏は、心の中でぽつりと呟く。
「……私は、相原にどういう代価を払えばいいのかな…?」
 そして家庭科室のドアを開け。
「やっほー」
「あ、明日夏先輩、こんにちわ」
「……何でこの人、こんなにテンション高いんだろう」
 そんな2人のそばに近づいて。
「菜々ちゃんも、なるみちゃんも可愛いなあ…」
 なでなでなで、べたべたべた。
「わっ、わわわっ」
「あ、明日夏先輩っ…お鍋、お鍋見てますからっ!?」
「ごめーん」
 と、明日夏はなるみだけを解放し。
「……またやってる」
「お、おにぃちゃ〜ん…」
「咲野さん、その辺で」
 
 さて、図書室の戸締まりをすませ、鍵を教師に返し……星野結美は、帰路を……と言っても、駅への道を歩んでいた。
 朝ほどの強さではないが、雨はまだまだ降り続いていて。
「……今日は、いっぱいお話できたな」
 などという、ツッコミどころ満載の、結美の満足げな呟きを耳にしたモノはいなかった。
 結美は、ふっと足を止めて空を見上げる。
「あの日も、こんな天気だったよね…」
 結美の脳裏に浮かぶのは……初めて、光一と出会ったときのこと。
 輝日南中学に通っていた光一達に対して、結美が通っていたのは輝日東中学校……読書が趣味で、インドアタイプの結美の行動範囲は、今も昔も狭い。
 そんな2人の接点となったのは、輝日市の中央にある図書館の……。
「……?」
 回想を中断し、結美は視線を右へ。
「柊…くん?」
 道路を挟んだ向かい側に、光一の友人である柊が歩いている……ただそれだけなら、どうという事のない光景なのだが。
 柊らしからぬというとアレだが、表情の暗さが気になった。
「……」
 結美は時計を見て……柊の歩いていく方に向かって足を向けた。
 
「まあ、予想はしてたけど…」
 公園のベンチに腰掛け、柊はそっと頬に指をやった。
 雨に打たれて冷えていく全身の中で、そこだけが熱を持っている。
 春休みからつきあい始めた(向こうから柊にアタックしてきた)輝日西高校の彼女に叩かれたモノで……いや、元彼女と言うべきか。
「予定より、ちょっと早かったかな」
 『夏休み前に別れることになると思うけど』という、柊自身の予想よりちょっと早く……まあ、別れることになったようだ。
 自分からそれを言うのではなくて、向こうが先に気付いた……それが、予想外だったわけだが。
 すっと、雨が止んだ……いや、自分の頭上に傘がさしかけられたのだと柊が気付くまでに2秒ほどかかって。
「やあ、星野さん」
「……」
「最初から最後まで、見てたって感じだね、その表情からすると」
 いつも通りのおだやかな表情の軽い言葉……結美は、それにまったく反応を見せず、ただ呟いた。
「……『遠距離恋愛』って、どういう意味?」
「言葉通りの意味じゃないかな?」
 しばしの沈黙を経て、結美が口を開く。
「……2月頃だったよね?」
「何が?」
「柊君が相原君の…うまく言えないけど、友達とか、交友関係を広げようとしだしたのって」
「……」
「もう一度聞くね…」
 結美は、まっすぐに柊を見つめて。
「引っ越しするのは、さっきの女の子?それとも…柊君?」
 
「……今夜は、お母さん帰ってこられないの?」
「うん、そうみたい」
 ちょっと遅めの夕飯の準備をしながら、光一が曖昧な返事をする。
 今朝の会話、そしてさっきのメール……その患者は、やはりダメなのだろう。
 もっと子供だった頃、母親に向かってちょっとばかり無神経な質問をしたときのことを思い出しながら、光一はため息をついた。
「おにぃちゃん」
「ん?」
「天気予報で、明日も一日中雨だって言ってる…」
「まあ、梅雨だからなあ…」
 我ながら芸のない……と苦笑する。
「えっと、おとーさんの出張先は…」
 と、背後で菜々が何かを探す気配……10秒ほど経って、光一はため息をついた。
「東北地方」
「あ、そうそう、東北だよね、と・う・ほ・く…」
 ヒントを与えられて、やっと目当ての場所を見つけたのか。
「わ、明日は晴れだって……おとーさん、ずるい…」
 それは、父さんの責任じゃないよなあ……と光一が心の中で呟きつつ。
 すこん、と中華鍋をお玉で叩いて。
「ん、できた……夕方にちょっと食べたし、気持ち少な目で」
「うん、なるちゃんには悪いけど…太っちゃうよね」
「栗生みたいに、運動してたら話は別だろうけど」
「……恵さんの運動量って、半端じゃないよね?」
「ウチの学校の運動部連中だと、絶対ついていけないと思う」
「……やっぱり、そーなんだ」
 父親は出張、母親は仕事……相原家の食卓は、光一と菜々の2人きり。
「……ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
「咲野先輩の勉強、いつまで見るの?」
「あの感じだと、期末までで大丈夫じゃないかなあ……赤点さえ取らなければいいっていう目標がはっきりしてるし」
「そっか…」
 ちょっと安心したように、菜々が呟く。
 光一はそれをどう受け取ったのか。
「咲野さん、一人っ子らしいからな……多分、兄弟とか、そういうのに憧れがあるんだろうな」
「……あの人、多分猫には逃げられるタイプだよね」
 全力で可愛がろうとして、猫に嫌がられ……そんな光景を思い浮かべたのか、菜々がため息をつきながら呟く。
「別に、イヤならイヤって言ってもいいと思うぞ」
「言う暇がないよ…」
「……なるほど」
 それもそうか、と光一は納得した。
 そんな会話をしながら2人は夕食を終え……両親がいないせいか菜々は安心してテレビにかぶりつき、光一は夕食の後かたづけと、明日の朝の支度を開始。
「菜々。適当に切り上げて、お風呂に入れよ」
「うん、もうちょっと…だから」
 いいところなのか、菜々の返事は気もそぞろな感じで。
 まあ、11時頃に就寝する菜々だけに、あまり心配することもないのだが。
「……んー」
 冷蔵庫の中身をチェックし、明日の買い物やら、献立などを光一は考え始める。
 いつも通りの平和な一日。
 だから、光一はまだそれに気付いていなかった……そして、6月が終わる。
 
 
                  完
 
 
 まあ、ほとんどひねってない内容なので、このあたりは予想通りというか、お約束の展開ですね。
 
 

前のページに戻る