「おはよう、おにいちゃん」
「……おはよう、菜々」
多少の間は空いたが、そう返事をしてから光一は時計に目をやった。
「……」
長針は真上、短針は真下……母親が夜勤でいない日の朝の、光一のいつもの起床時間であることを時計は示していて。
「……どうしたの?」
「あ、いや……ん」
なんとなくどころか、むしろはっきりと理解していたが、光一は敢えてそれを口にした。
「菜々、何してるんだ?」
「えへへ、お弁当作ってるんだ」
「そうか」
「そうだよ、見てわからない?」
母親ならば、『ただの皮肉だよ』と口にしただろうが、光一はただ穏やかな微笑みを返事とした。
そして、さりげなく窓を開け……前もって台所の空気の入れ換えを開始する。
1年に1度ばかりの頻度で、こういう朝がある。
それはつまり、こういうことが初めてではないと言うことで……。
母親はもちろん、光一も計画的な性質で……冷蔵庫なり、冷凍庫に収められている食材は、長期保存のモノをのぞけば計算して用意されているモノであり、母親と光一の間にはきちんとした意志の疎通(もしくは暗黙の了解)がある。
何故、料理にチャレンジするときは、前もって自分に相談してくれないのか……光一が、菜々に対して抱いている数少ない不満の1つ。
とはいえ、基本的に菜々は、同じ間違いを何度も繰り返すというわけではない。
これをしてはいけない、こういうときはこうしてから……と、一度きちんと教えさえすれば、(うまく出来る出来ないは別として)教えられたとおりにやろうと心がける、素直な良い子(光一主観)なのだ。
まあ、早い話……テレビや漫画、もしくは光一が作った料理などに刺激されて、『自分でも作ってみよう』などと無謀な挑戦(以下略)。
平面はもちろん、線ですらなく、点としての経験しかないため……菜々の料理は大抵ひどいことに終わることが多いわけだ。
「わ、わわわっ…」
振り返ると、母親自慢の特製ソース(冷凍)がさっきよりもさらにまずいことになっていた。
おそらくは冷凍したソースをいきなりフライパンで火にかけたようで……台所に来たときにはもう手遅れなのが明らかだったから、止める意味がなかったのである。
『なるほど、そういうミスの仕方があるのか』と、光一なり母親に新たな視点を与えるという意味では……菜々はとても優秀な情報提供者と言えよう。
「え、えっ、えっ、何で〜?」
まだ全部溶けてないのに、溶けた部分から焦げていく……そんな光景が瞼に浮かぶ。
「菜々、換気扇」
「えっ、あ、うんっ」
バレーのスパイクよろしく、ジャンプして換気扇のスイッチを押す菜々。
「さて、と…」
光一にとって、慌ただしい朝が今から始まる…。
「そこ、シャツはちゃんと入れなさい」
「あ?……は、はいっ」
何ふざけたこと言って……と、睨みつけようとした男子生徒が、慌ててシャツの裾をツッこみ。
「そこ、車道にはみ出て歩かないっ」
などと、新たな注意対象を見つけて注意を始める恵の脇を、こそこそと通り過ぎていく……教師に対して横柄な態度をとっても、恵に対して同じ態度をとる生徒は、輝日南高校には皆無である。
「……今週は、栗生組の見回りかよ…」
2年生でありながら、風紀委員長の代わりにほぼ実権を握っている恵なのだが……ごく一部の生徒の間では、風紀委員ではなく栗生組と呼ばれており、恵本人もまたそれを知ってはいるが、特に気にしてはいないようで。
まあ、それはさておき……。
「……栗生さん、今日は機嫌良くない?」
「いいよね…何かあったのかな?」
ぼそぼそと、恵の背後で風紀委員が会話を…。
「ほら、ちゃんと声かけと挨拶する」
「あ、はい…おはようございますっ」
「おはようございますっ」
ピンと背筋を伸ばし、登校してくる生徒に挨拶をする……慣れるまでは割と気恥ずかしく感じる行為なのだが、良くも悪くも恵という派手な存在のために、そういうものをほとんど感じる事はない。
……恵が自分たちからちょっと離れると、2人は『やっぱり機嫌いいよ?』と、目と目で語り合ったり。
さて、恵が本当に機嫌がよいのかというと……残念ながら、否である。
以前、柊が問いかけた言葉……『相原に告白することもなく、ズルズルきたのはどうしてだい?』に対する答えとして、『大きくわけて理由は二つある』としながら、口にはしなかったもう一つの理由。
誕生日をダシにして光一をデート(らしきもの)に誘う事に踏み切ったにも関わらず、その、もう一つの理由とやらが解決したわけではないのだ。
つまり……昨日の出来事は、恵が、無理をした結果なのである。
無理をすると、どこかで反動が来る……つまりは、そういうことだ。
「おはようございますっ」
「……」
いつものように注意と挨拶を繰り返す恵の横を無言で通り抜けて……二見瑛理子は微かに首を傾げ、後ろを振り返る。
「こらそこ、靴のかかと踏まないの」
注意と挨拶……それは、いつもの光景。
「……変ね」
それに瑛理子が気付く……のは、皮肉としか言いようがない。
「……」
釈然としない気持ちを胸に抱いたまま、瑛理子はそこを離れ、2年B組の教室の自分の席に腰を……あまり目立たぬように、椅子の上に薄くふりまかれていたチョークの粉をハンカチで拭ってから腰をおろした。
悪戯と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい、いつものことだ。
学年が上がって2ヶ月も経てば、クラスの中での秩序…というか、人間関係の形がある程度組み上がる。
クラスに40人の人間がいても、きちんとコミュニケーションを取る相手は10人程度で、積極的に、という条件を付ければ、大抵の人間は、わずか4、5人ほどの狭い交友関係でしかないことがほとんどだ。
多少、斜に構えた目線ではあるが……瑛理子の見たところ、それらの人間関係は薄くて脆い。
もちろん瑛理子の場合、その薄くて脆い人間関係すら存在しないのだが……自分自身で拒否したモノだから、それを思い悩むこともなく。
「……」
瑛理子はなんとなく落ち着かない気がして、窓の外に視線を向けた。
相変わらず、恵は登校してくる生徒に対して声をかけていて。
「……」
視線を戻し、机の上に肘をつく。
それを繰り返す内に、5分、10分と時間が過ぎ……瑛理子は、自分を落ち着かない気持ちにさせるモノの正体にやっと気がついた。
「…そう、か」
確認するように、ゆっくりと呟いてみる。
「私……彼女のことが心配なんだわ」
自分とは縁のない感情だと思いこんでいたから、気付くまでに時間を要したわけで。
誰かを心配するというその感情は瑛理子を不快にはさせなかったが……自分が何をどうすればいいのか、それがわからないことに対していらだちを覚えて。
「……っ」
瑛理子は席を立ち、教室を出ていった……。
「なーなちゃんっ」
と背後から声をかけてからワンテンポ置き、菜々の返す『おっはよー』にあわせて勢いよくハイタッチ……のつもりが、差し出されるはずの手がそこになく、思いっきり空振りしてバランスを崩すなるみ。
「おはよう、なるちゃん」
「菜々ちゃん、なんかご機嫌ななめー」
と体勢を立て直しながら呟き、その理由に思い至ったのだろう……なるみは、小さく頷いた。
「補習は大変だけど、仕方ないよ、菜々ちゃん」
ブブー。
「……どうしたの、なるちゃん?」
「いや、何か、不吉なブザーが聞こえたような気がしたんだけど…」
「なにそれ?」
「よくわからない」
「ふーん」
と曖昧に頷き、そっぽを向いた菜々をじっと見つめ……なるみは心の中で呟いた。
『……菜々ちゃん、何かあったのかな』
休み時間。
2年B組の教室で、光一と柊、そして恵を含めて3人が談笑している姿を見ることはてとも珍しいといえる。
特に用事があるというわけでもなく、次の授業のための準備の時間という休み時間に、恵がわざわざ足を運び、光一と言葉を交わす。
少なくとも、高校に上がってからはほとんど見られなかった恵の姿に……光一は、微妙な違和感を覚えた。
「……そろそろ時間だから、教室に戻るわね」
と、背中を向けかけた恵の手首を握った……瞬間、光一の身体がくるりと半回転。
「い、いきなり握るからっ」
「いや、ゴメン」
「ここで謝れる相原は器が大きいよね…」
と、呆れたように柊……しかし、眼差しは優しく。
ちなみに、あまりも鮮やかな出来事かつ、相手が光一という事に気付いた恵が素早く受け身をとれるように角度を調節したため、それに気付いた人間はほぼ皆無。
まあ、1人ばかりその隣で目を丸くしていたりするのだが。(笑)
「不用意だったのは確かだし」
と、光一はズボンのすそをパタパタとはたきながら立ち上がる。
「栗生」
「な、何?」
「あんまり頼りにならないかも知れないけど、困ったことがあったら言ってよ。出来る限りのことはするから」
何故光一がいきなりこんな事を言うのか……という困惑の後に、恵はなんとも形容しがたい感情に包まれた。
光一が、自分の異常に、気付いている……はっきりとではなくとも、他人に対して無関心なはずの光一が、それに気付くほど、自分に対していろんなモノを割いてくれているという事実に、大げさでもなんでもなく、感動が恵の全身を渦巻く。
が、その感動の最中にありながらも……恵の心の一部は冷えた恐怖を覚えて。
「別に変わったことはないけど…まあ、その時は頼りにさせてもらうわ」
どうにかこうにかそれを抑え込み、いつもの表情と、いつもの口調でそう告げて教室を慌てて出ていく。
照れているわけではない。
小さい頃からの鍛錬で、自分の精神と身体をコントロールすることは自信がある……が、それ以上に、自分の心と身体がどういう状態に陥るかの予測が外れることはまずない。
光一と柊、2人の前で、それをさらすわけにいかなかったから。
教室を出て、5歩6歩……全身を渦巻いていた感動と昂揚は一気に解け、それに倍する苦悩が恵の精神と身体を縛り付ける。
清く、正しく、美しく、不正を憎み、悪を討つ。
冗談でもなんでもなく、恵は、両親、祖父母等……特に、元海軍仕官だった祖父からそのように厳しく躾られ、またそれを信じ切って実践して成長してきた。
そう、あの時までは。
深く静かに呼吸を整え……恵はキュッと下唇を噛んで顔を上げた。
清く、正しく……という信条が、大抵の人間に『バカじゃねえの?』という目で見られていることを恵は自覚しているし、そんなモノを歯牙にもかけずに生きてきた。
だが、自分のそんな生き方に敬意を払ってくれる光一が相手だからこそ……自分は、これ以上足を踏み外すようなことは、やはり出来ない。
どうせ一度、足を踏み外してしまったのだから……と、開き直ったつもりだったが、あの時恵が犯した、恵にとって許し難い不正……それが結局、今も恵を縛りつけたともいえる。
「……」
さてそうすると、1つ疑問が浮かぶ。
一時的にせよ、恵に無理をさせた原因は……はて、なんだったのか?
それはそうと、恵がでていった教室では。
「……どうかしたのか、柊?」
「いや、相原がああ言うって事は、今日の栗生には、何かおかしな所があったのかな、と」
「え、気付かなかったのか?」
「いや、いつもよりちょっと陽気かな、という感じはしたけど、それは、まあ…」
昨日、キミとデートしたわけだし……と、心の中で呟く柊。
「……俺には、無理をしてるように見えたが。昨日もそうだったけど」
光一の言葉に、柊がちょっと表情をあらためた。
「ふむ……相原が言うなら、そうなんだろうね」
「柊の方がつき合い長いだろ」
「キミより視野は広くても、深さに関してはおよばない事は自覚してるからね」
悟られないように自分も気をつけなくては……と心の中で呟いた柊が、ふとあることに気付いた。
昨日は光一の誕生日だったわけだが、連絡とか居場所の確認などで恵にちょっとばかり(笑)無理を言われた事を思い出し。
「……おや?」
「どうした?」
あの時は、ようやく栗生が覚悟を決めたか、などと微笑ましく思っていたのだが、じゃあ、一体何が彼女に覚悟を決めさせたのか……。
「柊?」
「ん…確かに、何かあったのかも知れないね」
「せんぱーい」
「ああ……って、なるみちゃん濡れたお玉は振っちゃダメだってば」
家庭科室の窓から顔を出してぶんぶんと手を振るなるみを、光一がたしなめる。
「もう、帰るんですか?」
「いや……駅前のスーパーのタイムセール狙いで、ちょっとぶらぶらとね」
「おぉ、主婦してますね、せんぱい」
と、感心したようになるみ。
「ま、両親共働きだから……特にやることのない俺が協力するのは当然だよ」
「でも、なるちゃんから聞きましたけど、せんぱいって、炊事、洗濯、掃除……と、何でも出来るらしいじゃないですか」
「いや、母さんに比べたらまだまだで」
「むぅ、上を目指すとキリがないですよ」
「じゃあ、なるみちゃんは、そこそこのうどんでいいの?」
光一の言葉になるみが首を振る。
「……と、すると、せんぱいはカリスマ主婦を目指してるわけですか?」
「いや、そういうわけでも……」
ふん、と光一は鼻をうごめかせて。
「なるみちゃん、鍋っ」
「あっ」
てててっと、なるみがコンロに駆け寄った。
「あぶなかったです…」
「いや、手遅れかも…」
と、なるみの後を追うように家庭科室に入った光一が、鍋の中をのぞき込んで首を傾げた。
「そ、そうですか?」
「ちょっと貸してね…」
と、なるみの手からお玉を受け取り、光一は鍋の中の液体をひとすくい……。
「ん、アウト」
「アウトですか…?」
と、首を傾げるなるみに。
「なるみちゃん、ちゃんと料理とかするみたいなのに、出汁の取り方とか結構荒いよね」
「あ、その…」
なるみは困ったように照れ笑いを浮かべた。
「普通の料理は、粉末出汁をぱらぱらと…」
「むう」
「と、いうか、おじーちゃん何も教えてくれないから…」
「俺もあんまり詳しくないけど、うどんとかそばのお店の出汁の取り方って結構特殊というか、難しいはずだよ。日本料理なんかと違って、強い火力で、出汁の戻り現象が起こすまでやるらしいし」
「出汁の戻り…って、なんですか?」
背後にクエスチョンマークを出現させるような表情で、なるみが首を傾げた。
「……簡単にいうと、水に昆布とか鰹節をいれて出汁をとるよね?」
「はい」
「水というか、お湯の中に出汁のエキスがでていく……と、反対に昆布や鰹節の中から、エキスが抜けていくよね」
「そうですね」
なるみが小さく頷いた。
「それを続けると、お湯の中の出汁のエキスの濃度が、昆布や鰹節に残った出汁のエキスの濃度を超えて……今度は反対に、出汁のエキスが昆布や鰹節に戻っていく……これが、出汁の戻り現象」
「ああ、なるほど……?」
理解はしたが、今ひとつぴんとこない様子のなるみ。
「ゴメン、説明が悪かったね。日本料理の基本なんかだと、たっぷりの昆布や鰹節で、さっと出汁をとるわけだけど……おそばやうどんの店の場合、強い火力でガンガン煮込んで、それほど多くない鰹節のエキスを完全に出させるというか」
「……それって、なんか違うんですか?」
「うーん、あくまでもイメージなんだけど、すぐにでてくる出汁のエキスはやっぱり弱いって言うのかな……最後の最後まででてこない、頑固者のエキスまで絞り出した出汁じゃないと、うどんやそばの味を支えきれないのかも」
「おぉ」
「と、まあ、やってみるのが一番なんだけど」
と、光一は家庭科室のコンロに視線を向けて。
「火力不足かなあ」
「ですね…うどんのゆで上がりが、やっぱり今ひとつなんです」
「……そういえば、こんな時間からうどん作って、誰が食べるの?」
「今、補習受けてます」
「……菜々?」
「あ、いえいえ、菜々ちゃんじゃなくて、同じ家庭科部の……まあ、その2人は、食べる専門というか、刺繍とか、編み物とか、そういう感じの…」
光一は家庭科室を見渡して。
「家庭科部って…人、多いの?」
前に見学して回ったときも、今と同じようにひっそりと……。
「基本的に活動は自由というか、それぞれがやりたいことをやる…という感じなんです」
「ああ、なるほど」
頷きつつ……家庭科室で1人、黙々と『うどん道』を追求するなるみに、光一はちょっとうらやましいような気分にとらわれた。
「補習って、終わるの遅いよね?」
それまでずっと1人で…?
という言葉をのみこんだ光一に向かって、なるみは首を振った。
「いえ、その2人、成績はいいんですよ。自主的に補習に参加してるというか」
「むう、菜々にもちょっと見習わせたい…」
などと呟きながら、そういえば菜々が『自主的に補習に参加してる人がいる』とか言ってたなあ、と。
そんな光一の心中を知ってか知らずか、なるみがお玉を握りなおした。
「さて、と。せんぱいとお話して元気でたし、集中集中」
「……俺と話すると、元気でるの?」
「でますよ、だってせんぱいですもん」
と、良くわからない言葉に、なるみはさらに一言。
「じゃあ、せんぱい。また明日」
「あ、うん、また明日」
『また明日』……この言葉がでたなら、ここを立ち去るほかはない。
光一は家庭科室をあとにし……さて、スーパーのタイムセールまでどこで時間をつぶせばいいのかと首をひねった。
光一の行動パターンを読み切っているかのように、屋上、化学準備室などの、彼女が立ち去りそうなところに行ってもいつもいない瑛理子。
さすがに最近は、彼女を捜してちょっと話をしてみよう……という意欲が、光一の中から薄れつつある。
正確に言うと、少し時間をおいた方が良さそうだ……という結論。
「……駅前でも、ぶらつくか」
駅前をぶらぶらの『ぶ』の時点で。
「ん?」
今そこにいてはいけない人間を目にしたような気がして、光一はちょっと目を擦った。
輝日南高校の夏服を身をまとい、颯爽と道を行く後ろ姿。
「えーと…」
あれ、今補習中だよね?
という疑問を胸に、光一は彼女の後を追う。
駅から離れて、輝日川の方に……何のためらいもなく足を運ぶ少女の後方で、光一はためらいがちについていくのはちょいと皮肉な光景だ。
やがて、河川敷グランドが見えてくる……と、少女の足取りは小走りに。
「……もしかして」
補習サボって、でも部活の練習にはでられないから自主練習……という、ちょっと順番とかいろんなモノがめちゃくちゃの考えが、光一には透けて見えた気がした。
どうせ、自主練習するなら補習が終わってからにした方が……と、忠告しようと堤防の斜面を駆け下りた光一の目に、とんでもないモノが飛び込んでくる。
「……っ!?」
「あ、相原だ、やっほー」
と、グランド脇の木陰で手を振る咲野明日夏……の行為そのものは、どうと言うこともないのだが。
「ごめんっ!」
光一は慌てて後ろを向く。
そう、明日夏は着替え中だったのだ……と言っても、スカートをつけたままでハーフパンツをはこうとしていたところなのだが。
「どうしたの?」
いや、どうしたもこうしたも…。
という、光一の無言の抗議に気がついたのか。
「ああ、別に制服の下につけてるし、全然へーき」
などと制服をちょっとまくって、下に着ているTシャツを示して屈託のない笑みを浮かべる明日夏だが、光一はじっと後ろを向いたまま。
「……終わったよ」
「あ、そう…」
やれやれといった感じで、光一は振り返った。
「そんなに慌てなくても」
「いや、慌てるって」
「女の子だからね、そこまで無防備じゃないよ」
へへっと、笑いながら明日夏。
無防備の定義に少し難があるようなと言いかけて……ひょっとしたらそういうモノなのかも知れないと思い直し、光一は小さくため息をつくだけにした。
が、明日夏はまったく気にならなかったらしく。
「ちょうどいいや、柔軟体操手伝ってよ」
こっちへこいこい、と光一を手招きする。
それがあまりにも自然だったから、光一は当初の目的を忘れてそれを手伝い……ストレッチのより良いやり方などを忠告したり。(笑)
「なんか、詳しいね……サッカーじゃなくても、何かの経験者?」
「一応、空手……かな?」
「なんで、疑問系?」
「いや、一ヶ月だけだから……経験者という表現に、ちょっと疑問が」
「一ヶ月……うん、確かにそうだね」
まあ、どうでもいいや……という感じに明日夏は笑った。
「そういえば、相原は何でここに?」
「え……あ」
当初の目的を思い出して(笑)、光一は柔軟体操を続けながら切り出した。
「咲野さん、補習は?」
「サボった」
「……えーと」
「昨日、話したよね……私が男子サッカー部にいる理由」
いや、昨日じゃなくて一昨日…じゃなくて、だからこそきちんと練習に参加できるように……と光一が口を開くよりも先に、明日夏が言葉を付け足した。
「どういう形であれ、ブランクは作りたくないんだ」
言い訳……には聞こえなかった。
「中3年の秋から受験勉強で、半年間ちゃんと身体を動かさなかったわけだけど」
光一の手に背中を押されることなく、明日夏は開いた両脚の間にぺたりと上半身をつけながら。
「50メートル走や幅跳び、その他諸々……中3の夏の数値に戻すまで1年かかったよ」
「……それは」
珍しい、と光一は思った。
その時期、大抵の人間は成長期にあたり……ブランクによる衰えを成長力がカバーして、あたかもほとんどブランクが無かったかのように錯覚することがほとんどなのを知識として持っていたから。
「勉強はいつでも出来るけど、サッカーは……スポーツを、高いレベルで出来る時間は、人生からすればほんの一瞬しかないから」
「……うん」
明日夏の言うことはそれほど間違っていない……だから光一は、頷いた。
それと同時に光一は、明日夏の抱く……焦りのようなモノにも気がついた。
「……少し、伸び悩んでる?」
「かもしれない……あ、ちょっと押して」
両手を広げて仰向けに寝っ転がり、腰をひねるような体勢になった明日夏の……膝と、肩を上から押す。
「まわりに女子がいないし、男子はなんか私に遠慮して……試合にでられないのは覚悟してたからいいけど、今の自分の力を……サッカー選手としての力を、知ることが出来ないって言うのは、正直ちょっとつらい」
「そっか…」
春先の、クラブを見学して回ったときの恵の態度……言われるまでもなく、明日夏本人が周囲のそれに気付かないということは無いはずで。
男子にとって、女子に怪我をさせてはいけないというのは、強迫観念に等しいわけだから……単純に男子サッカー部員を責めるつもりに、光一はなれなかったが。
「……この前も言ったけど、珍しいね相原は」
「え?」
「いや、サッカー部の男子は、『男友達の感覚』とか言ってるけど……たまに、意識してるのが見え見えなんだよね」
「……?」
光一が首を傾げる……と、明日夏がちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「いや、今のこの体勢とか」
「体勢…?」
身体をよじろうとする明日夏の上から、覆い被さるように、肩と、膝を押さえて……。
「……普通の、ストレッチだと思うけど?」
平然と。
「……」
「……なんか、変?」
「……あはっ、あはははっ」
我慢できなかったのか、明日夏が身体を震わせて笑い始めた。
「え?」
「いたたっ、ちょっ…もう、押さえなくていいよ」
光一が離れると、明日夏は立ち上がり……何とも明るい笑顔を見せた。
「なんか、相原の妹さんに、ちょっと会ってみたくなった」
「……今、補習受けてる」
明日夏がびっくりしたように聞き返す。
「そうなの?」
「輝日南がギリギリっていうか、最初の1ヶ月、まともに授業受けてなかったみたいだから」
「……それは意外。相原って真面目な感じするし」
と、何かを思い出したように。
「そうでもないか……土曜日は嘘までついて、付き合ってくれたし」
「あはは…」
と、ここで光一はちょっと表情を引き締め。
「補習はちゃんと受けた方がいいと思う」
「……」
何か言いかけたが、明日夏が口を閉じた。
「少なくとも、サッカーって1人でやる競技じゃないから。自己練習そのものは否定しないけど、部の練習に参加できないことで、違うブランクがでてくると思うから」
「……うん」
「補習を受けた後で自己練習……なら、多分問題にはならないと思うし」
「えっと…なんて言うか」
ちょっと困ったように明日夏が視線を逸らし、ぺちぺちと後頭部を軽く叩きはじめる。
「なに?」
「ブランク云々は嘘じゃないけど……なんていうか、正直に言うと…その…」
煮え切らない。(笑)
「……勉強って、ものすっごく苦手なんだよね」
そういった後で、恥ずかしそうに明日夏が後ろを向いた。
「おにいちゃん、どうかした?」
「ん、あ、いや…」
菜々と2人きりの食卓。
心配と疑問が半々の菜々の視線に、光一はちょっと言葉を選びつつ。
「何かを、な」
「ん?」
「いや、はっきりとした目標があって……それを、目指してる人間って、なんかちょっと違うなと思って」
「なるちゃんのこと?」
「まあ、なるみちゃんもだけど…」
菜々と咲野さんにはちゃんとした面識が無いことを思い出しつつ。
「ほら、男子に混じってサッカーやってた女子がいただろ」
「咲野先輩?」
「……知ってるのか?」
「名前は……女の子の間では有名だもん」
と、菜々はちょっと箸を置き。
「咲野先輩と、何があったの?」
疑問ではなく、確認の口調。
「ん、勉強を教えることになった」
「……」
「……菜々?」
「いつ?」
「まあ、昼休みとか」
どん、と珍しい荒々しさで、菜々がテーブルを叩いた。
「昼休みは、私達と、一緒にお弁当を食べる時間だよね?」
もう、誰がなんと言おうと、昼休みは一緒にお弁当……という事になってしまったらしい、菜々の言葉をしっかりと受け止めつつ。
「うん、その後で」
「……私の勉強は?」
沈黙の後。
「……え?」
と、光一が、不思議そうに聞き返す。
「そ、そんなに驚かなくてもっ」
「いや、いつもイヤイヤだから…なんかびっくりして」
「むうぅ〜」
言われてみればその通りだと、菜々は口を尖らせながらも、それ以上の言葉をのみこんだようで。
「じゃあ、菜々の勉強は、家に帰ってから…」
「が、学校で授業受けて、放課後は補習で、家に帰ってからまた勉強なんて…」
「いや、別に、そのこと自体はそれほど珍しくもないぞ」
学校終わって塾に行き、家でさらに勉強……の高校生は、珍しくも何ともない。
「そんなこと無いよ」
菜々が、反論する。
「そんなに勉強ばっかりしてたら、他のこと何も出来ないじゃない」
「……」
「さっきおにいちゃんも言ってたけど、勉強が目的の人はそれでいいかも知れないけど……勉強以外のことが目的な人は…そんなに勉強しちゃいけないと思う」
微妙に歪んだ理論(笑)に首を傾げつつも、何らかの形で菜々が考えた結果ならそれは一応尊重してやらねば……と、光一はちょっと頷いた。
本人が自覚しているかどうはさておき、大抵の人間にとって、勉強は手段であって目的ではない……少なくとも、それは間違っていないと光一は思う。
まあ、2人の両親である母親なり父親に言わせれば、光一のそれもまた幼い意見であると思われるだろうが……。
「……わぁー」
ちょいと早いかな、と思いながら押入から出した扇風機を前に、お風呂上がりの菜々が風にあたりつつ宇宙人ごっこ(笑)に耽っていた。
「油断すると、風邪ひくぞ」
遅く帰宅した父親の夕食の後かたづけをしながら、光一が声をかける。
「うん、もう寝ちゃうから…」
と、スイッチを切って、菜々が階段を上っていった。
もうすぐ夜の11時……高校入学から2ヶ月、菜々の就寝時間は宣言通りに元に戻っている。
柊に言わせると、高校生としてはかなり早いほう……らしいが、いわゆる知人の少ない光一には正誤は不明で。
「さて、と…」
洗い物と明日の朝の準備をすませ……光一は風呂に入る前に、ちょっと家の外に出た。
日課の正拳突き……師範の、恵の父親の言葉を思い返しつつ、回数は多くて20回。
『……何も対象は考えないんですか?』
『うん、対象はいらない』
拳を突き出すとき、何かイメージした方がいいのか……という光一の質問に、恵の父親は首を振った。
まぎれもなく誰かを攻撃する技ではあるが、攻撃する相手を具体的に考えてはいけない……と。
人間一人一人、身長も違えば体重も違い、状況だって変化する。
技そのものに固定観念を持たせないということ、誰かを攻撃するという積極的な意志を持たないこと……光一に対して、表情こそ真剣だが、穏やかな口調でそう言った。
あれから5年。
光一は、いろんな意味で何もない空間に、その拳を突き出し続けてきた。
わずか10回……と笑う人間はいるだろうが、光一はそれに10分を費やす。
6月という事を抜きにして、光一の肌にはじっとりと汗が浮かんでいる……見る人間が見れば、その10分が、いかに濃密なモノかを悟るであろう。
「……ふぅ」
構えを解き、夜空を見上げる。
梅雨入り間近の雲の多い空の隙間から、星がいくつか瞬いており。
なるみと、明日夏のことを考え……光一はちょっと首を傾げた。
恵はどうなのだろう、と。
一見、前者2人より一途に突っ走っているイメージがあるが……恵のそれは、いかにして正しく生きるかを実現しているだけであり、何か具体的な目標を目指しているのとはちょっと違うと光一は思う。
オリンピックとか興味ない……と、スポーツとか競技で認められる事をこれぽっちも考えていないのは、明らかで。
恵にとって、空手とか、剣術とか、柔術は、手段であって、目的ではないのか。
仮に、目的がないとしたら……そこまで1つのことに打ち込めるのも、またすごいことだなあ、とあらためて感心したり。(笑)
ふっと……1つ年上の少女の顔が、光一の脳裏をよぎった。
苦い思いと同時に、何故彼女はあれ程までに勉強に執着したのか……という疑問が浮かび、光一はそれを振りきるようにもう一度空を見上げる。
どこか遠くで車の音がして……光一は、家の中へと戻っていった。
完
後藤さん(笑)になりそうなので、ちょっと明日夏のキャラにアクセントを。
さあ、祇条さん以外は基本的にそろったな……と思って確かめてみたら、結美がまだ舞台の袖口でうろうろしてる状況でした。(笑)
余談ですが……キミキスを書くにあたって、うどんとかそばについてはかなり調べました。(笑)
うどんとそば、さてどっちの手打ちが難しいというと……人それぞれっぽいですね。
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