コンコン。
「菜々、入っていいか?」
「……いいよ」
 いつもなら『うん、入って入ってっ!』などとドアノブに飛びつく菜々であるのだが、目的が目的だけにテンションはかなり低めのようで。
 ドアを開けて光一が部屋の中に入ってきても、菜々は、机の前に座りどこかあさっての方向に視線を向けたまま。
「……ふう」
 菜々の態度から、学校での会話の時以上に容易ならざる状況であることを悟って光一はため息をついた。
「……菜々、ノート」
「……こ、これだけど」
 おずおずと差し出したノートはどれもこれも綺麗で……入学して1ヶ月ばかりとはいえ、綺麗すぎた。
 一言で言うなら、3日坊主の日記帳のような有様というか……英語だけはかろうじて普通のノートと呼べるモノだったが。
「ふむ……教科書は?」
「こ、これ…」
 と、差し出された教科書……そもそも背表紙に折った跡が存在しないモノが2冊に、申し訳程度のアンダーラインすら引かれていないモノばかり。
 まあ、学校での会話から隠蔽工作に走ったりしないことは誉めていいことか。
「さて、と…」
 どういう感じでスケジュールを組もうか……と、光一は腕組みして天を仰いだ。
「あ、あのね、あのね、おにいちゃん…ほら、試験までまだ2週間もあるし」
 無駄とわかっていながら、一応抵抗を試みる菜々……入学して一ヶ月、勉強はおろか授業を受けた形跡すら残していない人間が、自力で残り2週間を過ごせるわけもない。
「菜々…昨日もいったけど、ウチの学校って赤点には結構厳しいんだ」
「う、で、でもぉ…」
「放課後と土曜日の強制的補修が2週間に、期末試験まで毎日毎日、特別課題が与えられて……」
 声を荒げるでもなく淡々と、しかも菜々のことが心配で心配で仕方ない……と、どこを切っても誠意と真心しか出てきそうにない光一の言葉に、菜々としてはうなだれるしかない。
「で、でもでも、毎晩じゃあ、おにいちゃんも大変でしょ。ほら、自分の勉強も出来ないだろうし…」
「馬鹿なこと言うなよ、菜々」
 にっこりと微笑みながら、光一は菜々の頭に手を乗せた。
「自分の勉強なんかより、お前の方が大事に決まってるだろ」
「あ、う…そ、そう?」
 それは喜んで良いのか悪いのか。
 菜々はちょいと複雑な表情を浮かべ……それでも、光一が頭を撫でるのを黙って受け入れる。
「あ、悪い…髪が乱れちゃうんだな、これやると」
「え、あ…そうだけど…」
 離れていく光一の手を、菜々が未練たっぷりに見送った。
 
 学力はもちろん、モノの考え方から、おおよその知識量まで把握した光一による個人授業は、生徒全員のための教師の授業より遙かにわかりやす……少なくとも、菜々にとってはそう思えるのだが。
「……んー」
「どうした、菜々?」
「おにいちゃん、しばらく学校では会わないようにって言ったけど…」
「まあ、教師もピリピリしてるし……しばらくの辛抱だよ」
「……」
「ごめん…」
「おにいちゃんは、悪くないもん…」
 悪いのは全部……と続く言葉を、菜々はぐっとのみこんだ。
「……と、もう9時か、ちょっと休憩するか、菜々」
「うん」
 光一のいれたお茶を飲みつつ、菜々がぽつりと呟く。
「……なんで勉強しなきゃいけないのかな…」
「と、いうと?」
 たしなめるのではなく、光一は続きを促した。
「小学校の勉強はともかく…中学とか、高校に上がってからは特にだけど……こんなの勉強して、なんか意味あるのかなって…そう思っちゃうと…ちょっと…」
「…やる気が出ない、と?」
「……うん」
 大きな意味で、社会的システムの選別手段としての……などと語り出すほど光一はすれてなかったし、菜々もそれで納得できるほど老いてはおらず。
「俺もうまく言えないけど……勉強ってのは、いろんな種類のパズルのピースを集めるようなモノかなあと思う」
「パズル?」
「うん、勉強に限った事じゃないけど、知識とか、経験とか、その時その時で手に入るピースだけじゃ、全然全体図がわからないんだけど……それを地道に積み重ねていくうちに組合わさるピースができるというか」
「……?」
「ほら、ジクソーパズルなんかで、最初は枠のピースを組み合わせるだろ……後は、色とか形とかで推測して、色々試したり」
「うん…」
「そうやって、それまで使い道のわからなかったピースがどんどん組合わさって、全体図が完成する……俺のイメージとしては、そんな感じかなあ」
「……自分の持ってるピースが少ないから、意味が分からないって事?」
「なるみちゃんなんかは、1つの目的を持って、それのピースを集めてるから、見た目にもはっきりしてるのかも知れないけど……俺や菜々は、これといった目的を持たないままピースを集めてるわけだろ。いろんな種類のパズルのピースを集めてるようなモノだから、余計に目的意識がもてないのかも」
「……それはなんか、わかるような気がする」
 ちょっと考え込むような表情で、菜々が頷く。
「ただ、なるみちゃんみたいに、ある1つの目的のためだけにピースを集めようとすると……たった1つ、ピースが見つからないだけで完成しないって事になるからなあ」
「え?」
「なるみちゃんが、おじいさんに『色々経験しろ』って言われた話をしてただろ……いろんなピースを集めておけば、いざというときに代用が利く……って言い方も変か」
「…?」
 首を傾げる菜々に、光一は言葉を補う。
「えーと…ほら、俺って子供の頃から母さんの持ってる医学書とか結構読んでたから、特にクラブとかやってなかったけど、いろんな運動でその知識を活かせたというか……身体の構造っていう知識のピースが、色々使い回せたって事だな」
「んー、わかるようなわからないような…」
「悪い、余計に混乱させちゃったか…」
「……結局、意味があるかどうか、終わってみるまでわからないって事でいいの?」
「それはそれで、ちょっと散文的な結論のような…」
「……散文的」
 どこか自信のなさそうな口調で、菜々が呟く。
「……菜々?」
「な、なあに?」
「散文的…の意味が分からないなんて事は…?」
「そ、そんなこと無いよ。そう、散文的、散文的だよね」
 そうそう、散文的…などと頷く菜々を、光一はどこか不安な目で見つめ。
「まあ、今ところ勉強する意味は、赤点補修を免れるためってことでいいな?」
「……」
「……?」
 光一の口元に目をやりつつ、菜々がぽつぽつと呟く。
「お、おにいちゃん…あの…菜々が頑張ったら…ご褒美、くれる?」
「は?」
「そ、それなら…菜々、すっごくやる気出るから」
「……」
 飴を与えることによる勉強への動機付けの繰り返しは……などと、子供の頃読んだ母親の蔵書の内容を思い出して光一は逡巡したが、そもそもどんな形であれ勉強しなきゃいけないか……などと、自分を納得させて。
「まあ……俺の小遣いで収まる範囲なら」
「大丈夫だよ、お金かからないから…」
 俯いたまま、どこか頑なな菜々の口調に、光一がちょっと眉をひそめた。
「…菜々?」
 心配そうな光一の声に気付いたのか、菜々は弾かれたように顔を上げ、にこにこと笑って見せた。
「あ、あのね、ほら、昔みたいにでこちゅーして」
 右手で前髪をそっとあげながら、冗談として聞き流せてしまえるような軽い口調で菜々が言う……それとは裏腹に、目だけはどこか真剣で。
「……そんなんで、やる気出るのか?」
 え、ツッコムとこ、そこなの?
 などと、ここにいない友人知人なら声をそろえてツッコミを入れたであろうが……。
「……そんなんじゃないよ」
 ぽつりと、光一にすら聞こえないぐらい小さな囁き。
「え?」
「な、なんかわからないけど、久しぶりにして欲しいなって思って…そ、それだけだからっ!」
 と、これは取り繕うように早口で。
「ま、まあ、菜々がそれでいいなら……というか、さすがにちょっと気恥ずかしい気もするけど」
「じゃ、指切り」
 光一の気が変わらない内に……と、ばかりに菜々が小指を差し出す。
 でこちゅーも、指切りも、ずっと子供の頃の……光一と菜々、そして摩央の3人で遊んでいた頃の儀式。
 合計で3時間ほど(笑)勉強して、光一が部屋を出ていった後……菜々が、ぽつりと呟いた。
「お兄ちゃんのキスは……ずっと、菜々のモノだったもん…」
 菜々の知る限り……恵はもちろん摩央だって、光一はそんなことをしていないはずだし、されてもいないはずで。
 菜々が一番許せないのは、瑛理子が恵や摩央と違って、光一のことを何とも思っていないという事だ。(菜々主観)
 自分だけの……大事なモノを汚された気がして、例の少女のことを考えるとなんともいえない気分がわき出てくる。
 兄妹なのに、しばらくとはいえ、学校で会うことも出来なくなった。
 光一は気付いてなかったというより、光一に気付かせないように菜々が注意していたという方が正確だが、瑛理子に対する菜々の恨みは深く……とはいえ、根本的に善良で、幼いだけに……大したことを考えているわけでもなかったのだが。
 
 そして次の日。
 瑛理子はちょっとばかり困惑していた。
 162センチと、女子生徒の平均よりほんの少し高めの瑛理子だが、細いと言うより華奢な体格のため実際より高く見える。
 くわえて、比較となる誰かと一緒にいるという事がそもそも希なために、二見瑛理子は長身だという誤認が根強かったりするわけだが。
 ちなみに、今瑛理子の側に……というより、真正面から見上げるような形でにらみつけている少女の身長が平均よりかなり低いため、それを目にした人間は瑛理子が長身であるという認識をさらに強めるのは間違いない。
 もちろん、瑛理子が困惑していたのはそんな理由からではなかったが。
「……もう一度聞くけど、何か用かしら?」
「……」
 返事はなく、ただ黙ってにらみつけるだけ……と言っても、同じく身長が低い恵のそれとは違ってまるで迫力がなく、むしろ微笑ましい感じで。
 にらみつけられている……と瑛理子が認識できたのは、少女が自分に向ける明確な敵意を感じたからだ。
「……」
「……」
 瑛理子はただ目の前の少女を見つめ、少女は黙って瑛理子をにらみつける。
 どういう形であれ、こんな風に自分をまっすぐ見つめる目が瑛理子にとっては珍しかったりする……それが、その場から立ち去らなかった理由といえば理由だった。
 無視、もしくは背中を向けての悪口、嫌がらせ……いつからか、瑛理子の目を正面からきちんと見て喋る人間はいなくなった。
 友情とか恋とか、親しくしたいという感情に限らず、怒りですらどこかごまかしてしまう世の中……と言うより、周囲にそうさせるのは自分に原因があることを瑛理子はもちろん承知していたし、そんな自分を変えようとも思わなかった。
『いつか殺されるわよ、アンタみたいなの』
 そんな捨て台詞を吐かれたこともある……『何故他人に任せず、自分でやらないのか?』などと最初は思ったが、そういう事を言う連中に限って、結局はやっかいごとに関わり合いたくないだけだったりする。
「(……というか、会ったことないはずなのよね)」
 瑛理子はあまり他人に関心を持たないが、見たことのある顔かそうでないか……ぐらいはわかる。
 と、すると……初めて顔を合わせたはずのこの少女は、何故自分に敵意を向けているのか。
 過去が未来を保証するものではないと思いつつも、これまでなかった出来事に対して、最近の、変わった出来事を反芻するのはごく自然な思考と言えよう。
 結局、論理的思考の積み重ねというより消去法によって……この少女が、相原光一という少年の妹だろうとあたりをつけたのだが。
「……」
「……相原の、妹さん?」
「…っ!」
 振り上げられた右手が自分に向かって飛んでくるのを、瑛理子は多少面白がるような気持ちで見つめていた……が、少女の手は自分に届くことなく遮られた。
「……やめなさい…」
「な、何で止めるんですかっ、恵さん!?」
 遠目で2人の姿を確認し、全速力でこの場にやってきたのだろう……恵の呼吸は微かに乱れていて。
「菜々ちゃんが叩いても大して痛くないわ…」
 ああ、菜々という名前なのね……そう思いながら、瑛理子は恵に視線を向けた。
「相原に続いて、奈々ちゃんまで停学にさせる気?」
「別に…」
 アレに関しては自分の計算違いというか、悪いことをしたという認識が瑛理子にはあり……それも仕方ないと思っていただけだ。
「この人がっ、この人のせいでっ…」
「だから…落ち着いて、菜々ちゃん」
 じたばたと暴れる菜々を、恵は左手と右足だけで完全に封じ込めているが……さすがに口まではふさいでいない。
「学校じゃ、おにいちゃんと、話が出来なくっ…」
 停学じゃなくてそっちかい……などと、恵の表情に疲労が滲む。もちろん、菜々の言葉をそのまま鵜呑みにするわけではなかったが。
「菜々ちゃん、ずるい言い方だけど、相原はそんな菜々ちゃんの姿を望んでないはずよ」
 確かに恵の趣味に合わないずるい言葉だったが……効果はてきめんだった。
 肩越しに振り返って恵を見つめ、唇を噛んで俯き、涙を浮かべた目で瑛理子を睨み……力を抜いた恵の手を逃れて、菜々がその場から走り去る。
「別に…叩かれても良かったんだけど」
「……勘違いしないでね」
 菜々とは比べモノにならない目つきで睨みつけられ、さすがの瑛理子も身体を強ばらせた。
「あなたは、叩かれてお終い……ですむでしょうけど、叩いた方はずっとあとをひくのよ。そんな覚悟の出来てないあの子に、苦い思いをさせたくなかっただけ」
「……」
「ついでに言っておくけど、私は相原が望んでないからやらないだけよ…」
 そう言い捨てて立ち去る恵……その後ろ姿を見送る瑛理子の表情は、本人にも良く説明できないであろう感情が見え隠れしていた。
 
「……?」
 2限終了後の休み時間、瑛理子は身体に絡みついてくるような視線を感じて振り返った。
「……」
 壁から半分顔をのぞかせ、じいいいいいっと、恨めしそうな目つきでこちらを見つめている少女が1人。
 さっきとは違うが、こういう視線も瑛理子にとってはまた初めての経験で。
「(……確か、図書室でよく見かける……けど、面識はないわよね)」
 それも、わりと前に見かけた顔……と言うことは、相原の2人目の妹がどうこういう話でもあるまい。
 と、すると……あれは何なのか。
 瑛理子は首を傾げた。
 日常生活において、不思議に思うこと、理由がわからないこと……滅多に起こらないことに、1日で2回出くわす。
 これもまた、おそらくは……例の少年が絡んでいると考えるのが妥当で。
「……って、いうか」
 視線を向ける……と、さすがに見られていることに気がついたのか、少女は顔を引っ込めた。
「……」
 しばらくすると、おそるおそる顔をのぞかせ……また顔を引っ込める。
 それは、少なくとも瑛理子が日常的に周囲から感じている敵意からはほど遠い。
 まあ、何か話しかけてくる様子もなく……こちらから接触するわけもなく、瑛理子としてはそのままその場から去るしかなかったのだが。
 
 そして昼休み。
 瑛理子は三度困惑していた。
 場所は食堂……例によって、瑛理子の座るテーブルには誰も座らず、混雑する食堂内で一種のエアポケットのような空間を構築していたわけだが。
 今日は、その空間に臆することなく、敢然と瑛理子の真正面に腰を下ろした女子生徒が1人。
「……」
 少し癖のある髪を柔らかく編み込んだ少女は、くりっとした愛嬌のある瞳を微妙に吊り上げてじっと瑛理子を見つめてきたり。
 先の2人と違って……瑛理子はその少女の名前を知っていた。
「……何か用ですか、水澤先輩」
「別に……空いてる席でご飯食べようと思っただけよ、二見さん」
 と、申し訳程度に箸を動かすが……摩央の視線はじっと瑛理子に注がれて。
 ちなみに、2人が初めて会ったのは保健室。
 入学直後、人のいない場所を求めていた瑛理子が最初に選んだ場所が保健室だったわけだが……そこには、午前中に限っては常連とも呼べる摩央がいたわけで。
 2度、3度と顔を合わせ……名前を聞かれたから答えはしたが、その後瑛理子はほとんど保健室に立ち寄ることがなかったため、それっきりの関係だ。
 早い話……わざわざ目の前の席に座って、じっと顔を見つめられるような関係ではない。
「……」
 妹の菜々に、正体不明というか面識のない女子生徒、そして目の前の水澤摩央……他の生徒が瑛理子が向ける視線と違うのは確かなのだが、3人の視線はそれぞれ異なっているように瑛理子に感じられて。
 ふっと、摩央の視線が微妙に移動……どうやら、自分の髪の毛を見つめていることに瑛理子は気付く。
「……」
 何かぶつぶつと呟きながら、摩央は指先で自分の髪の毛を弄んでいる。
「……?」
 首を傾げる瑛理子に気付いているのかいないのか、摩央の視線は細かく動き……それが自分の胸元に注がれるに至って、瑛理子はなんとなく視線の意味に気がついた。
 いや、正確には摩央が胸に手をやりながら瑛理子の胸元を見ていることで気がついたのだが。
「……ねえ、二見さん」
「はい?」
「身長、いくつ?」
「162センチ…先月の検診では、ですけど」
「そ、そうなんだ…」
 と、摩央は何故か嬉しそうに微笑み……突如どよんと表情を曇らせて頭を抱えた。
「…って、何考えてるの…私」
 ちなみに、摩央の身長は瑛理子と同じ162センチだったりする。(笑)
「……」
「え、あ…ちょっと…」
「食べ終わりましたから」
「え、あ、う…お疲れさま」
 摩央としても、食器を手に立ち上がった瑛理子をそれ以上引き留める言葉を持たなかったのだろう……微妙な表情を浮かべつつ、見送るしかなく。
 摩央の視線を背中に感じつつ、食器返却口に皿を置きながら瑛理子はぽつりと呟いた。
「……一体、何なの?」
 例の件によって、自分のまわりで意図せぬ変化が起こりつつあったのだが……予感めいたモノはともかく、瑛理子はまだそれに気付いていなかった。
 
「あの、川田先生…ちょっといいですか?」
「あら、相原君、どうしたの?」
 中間試験まで残り一週間を切り……学校内は、微妙にざわついている。
 図書室の利用率が上がるのも、テスト前のこの時期の風物詩といえるのか。
「先生は、菜々の…妹のクラス、えっと1年A組の授業…」
「あ、説明しなくてもわかるわよ…可愛いわよね、菜々ちゃん。私、あんな妹欲しかったわあ…」
 にこにこと川田先生。
 去年の担任……というか、例の騒ぎ以来、光一に対する川田先生の態度は妙に親切というか、フレンドリーだったりするのだが、2人ともそれには気付いていないようで。
「最近、菜々の授業態度はどうですか?」
「生まれ変わったように真面目ね」
「生まれ変わったように…ですか」
「ええ、今だから言えるけど…最初は、なんというか…」
「いや、いいです…心臓に悪そうなので」
 どこか言いにくそうにしている川田先生の言葉を遮るように、光一は首を振った。
「と、いうか……相原君の方から、菜々ちゃんに会いに行ったりしてないの?」
「いつもは菜々の方から会いに来ますし……今は、例の騒ぎというか、ほとぼりが冷めるまでやめとこう、と」
「んー、なるほどねえ」
 わかるわかる、という感じに、川田先生が頷いた。
「そういえば、今更だけど災難だったわねというべきなの?それとも役得だったわね、と?」
「……川田先生は、二見さんに悪い印象持ってないんですね」
「んー、そうね」
 あごの先にちょっと手を当てて。
「ほとんど関わりがなかった……のも確かだけど、ちょっと気難しい生徒ぐらいにしか私は思ってないわ」
「それは、川田先生だけ…ですか?」
「少数意見ではあるみたいね……とりあえず、大多数の先生は、相原君には悪いことをしたって、同情的だけど」
「喧嘩両成敗ですか」
 光一がそう言うと、川田先生はちょっと瞬きした。
「……合意の上だったの?」
「というか、ダシに使われたんですよ……そりゃあ多少は驚きましたが、廊下でぶつかった、程度のこととしか」
「……相原君のそういうところは、先生ちょっと心配かな」
「は?」
「そうよね、あちらを立てればこちらが立たずというか……理想のお兄さんと健全な男の子は両立しないというか…」
「あ、あの、川田先生…?」
「ああでも、私としてはそのままの相原君でいて欲しい…」
 両手で顔を覆い、イヤイヤと首を振り始める川田先生に、光一はおそるおそると言った感じで声をかけた。
「あ、あの…お兄さんとまた何か?」
「そうなの、ねえ聞いて。兄さんったら、また勝手に私の車に乗って…」
 もう、どっちが教師で生徒なのか……そんな感じで、光一は川田先生の愚痴を聞くはめになったり。
 
「あ、あの、二見さん…何か心配事でもあるのですか?」
 瑛理子はちらりと深月に視線を向け……侮蔑の色も明らかに呟いた。
「何の心配事もない人間は、単に鈍いだけの話ね」
 自分に関わらないで…的なオーラを叩き付けられ、深月はおろおろと引き下がるしかなく。
 クラスの中に居場所がないのは2人とも同じだったが、瑛理子と深月では、その事に対する認識はもちろん、求めるモノが根本的に違う。
 それを理解しない深月は、瑛理子にとって不愉快でしかない。
 もちろん、瑛理子の気分が穏やかであったことなど長らく無かったのだが……ここ数日はいつもより気分がささくれ立っていたのは事実で、そこを指摘されたのが余計に腹ただしかったとも言える。
「……」
 もうすぐ休み時間も終わるというのに、席を立って教室を出ていく瑛理子……今度は深月も声をかけなかった。
 教室を出てすぐにチャイムが鳴ったが、瑛理子は平然と歩を進め、既に授業の始まっている教室の横を通り過ぎていく。
「……」
 そんな瑛理子をチラリと見た教師もいたが、何も言わず……それはいつもの事。
 理科室……準備室の椅子に腰をおろし、なんとなく頬杖をつく。
 停学があけてから、屋上には行ってない……放課後はともかく、授業にここに来るのは初めてなのだが。
「……」
 ビーカーに水を入れ、アルコールランプに火をいれた。
 ビーカーに試験管、アルコールランプおよび燃料のアルコールは全部瑛理子の私物だ。
 この行為自体、誰に文句を言われる筋合いではないと絵里子は思う。
 ゆらゆらと揺らめく炎を眺めていると、何となく心が和む……ずっと昔、子供の頃の誕生日のケーキに刺さっていたローソクの炎を思い出させるからだろうか。
 無粋な数字が……この国の教育制度において何の意味もないとしか思えない検査の結果が、瑛理子の周囲を劇的に変化させた。
 現実から目を背けるという言葉があるが、周囲は全て現実というモノで溢れかえっており……そして瑛理子は目を閉じた。
 そんな瑛理子に、周囲は普通であることと、普通ではないことを求め続け……どうしようもない疲労と同時に怒りを覚え、閉じていた目を再び開いたのは中学2年の時。
 以前見えていたはずの景色とは、まったく別の景色がそこにはあった……いや、自分が変わっただけなのか。
 ビーカーの水に、緊張が現れる。
 突沸を防ぐための沸騰石なんかは入れていない……何かの拍子でいきなり沸き立つそれが、瑛理子は嫌いではなかったから。
 口元だけで笑い、指先で軽くビーカーを叩く……と、緊張がはじけ、沸騰が始まった。
 コポッ、コポポポ…。
 水が半減するまで、7分と言うところか。
 瑛理子は机の上に上体を投げ出し、それをじっと見つめていた。
 
「……今日もいないか」
 放課後の屋上……光一の呟きは、風に紛れて消えていく。
 放課後、ここで20分ほど待って、そのまま帰る……ここ1週間ばかりの光一の行動はそんな感じだった。
 わざわざ噂の炎に油を垂らすこともない……と、瑛理子の教室に赴いたりせず、ここに網を張っていたわけだが、運がないというより、瑛理子にそれを読まれているとは考えていない光一だったりする。
 会ってどうするの……と聞かれたら、光一はおそらく首をひねるだろう。
 説明しようとしても出来ないこと、説明してもわかってもらえないこと……そんなモノはいくらでもある。
 世界が閉じている……と柊に評された光一だが、もちろん本人はそう思っているわけでは無い。
 ただ単純に、それが目に入ってくるかどうかだけなのである。
 瑛理子が、光一の目に入ってきた……だから、気にかけた。
 光一としては、そう表現するのが精一杯だろう。
「さて…」
 ただ待っているのもあれなので、光一は鞄を置き、微かに腰を落として構えを取った。
 正拳突き……入門期間が短かったせいか、光一が人を攻撃するために習った技はそれだけだった。
 もちろん関節の極め方なども理解してはいるが、きちんと指導を受け、練習を積んだのはそれだけと言っていい。
「…っ…っ」
 右、半歩歩んで左。
 恵にはおよばないにしても……だが、本人にまったく自覚はなく、せいぜい素人に毛が生えた程度などと思いこんでいる。
 1日に精々10回……とはいえ、きちんと集中した状態で1つの技に4年である。
 もちろん、拳を鍛えていないのでその破壊力を十分伝達できるかどうか……は別問題だが。
 そして20分が過ぎ。
「……帰るか」
 何故20分かというと、スーパーでの買い物に都合がいいからだった。
 
 中間考査が終了し……全ての結果が判明する頃、輝日南高校の制服は夏服へと装いをあらためる。
 で、明日から夏服……の5月31日の夕方、相原家の台所では、渋い顔をした母と、それをまっすぐに見られない菜々がいたわけで。
「……」
 眉間にしわを寄せ、母が小さくため息をついた。
「菜々、そこに座りなさい」
「す、座ってるよ?」
「椅子じゃなく、床の上、正座」
「あ、う…」
 おとなしく、言われたとおりに正座する菜々。
 中間考査までの2週間、菜々は頑張った……確かに頑張ったけれども。
「まあ、テスト前の2週間ばかり、光一と一緒に菜々が頑張っていたのは知ってるけどね……」
 ぺしぺしと菜々の額を叩くのは成績表。
「が、頑張った…よ?」
「うん、じゃあそれまでは?」
「……」
「光一じゃなくて、学校の先生から聞いた」
「あぅ…」
 もうダメだ、という表情を浮かべて菜々が俯く……が、母は指先でついっと顎を持ち上げて。
「光一はアンタに甘い。父さんもね……って事は、母さんがアンタに厳しくしなきゃいけないのはわかるね?」
 噛んで含むように言いながら、ぺしぺしと額を叩き続ける。
「英語以外、全教科赤点……『中学の内容の復習に近い、1年1学期の中間考査でこの成績は非常に珍しいケースですよ、お母さん』などと言われちゃったよ」
「ひ、非常に珍しいって事は、初めてじゃないって事だよね?」
 ぺしぺしぺしぺし。
「あぅ、あぅ、あぅ、あぅ」
「まあ、光一の学年に全教科赤点の女の子がいたらしいけど、他人は他人。誰かが人を殺したからって、菜々も人を殺していいかってのとは別問題」
「…はい」
 そのたとえは極端だよ…という言葉をグッとのみこみ、しおらしく頷いてみせる菜々。
「菜々、アンタは学校の先生に反対されたのを押し切って、輝日南を受験して入学した……それは確かに立派だよ」
 母はじっと菜々の目を見つめて。
「その理由はともかくね」
「……」
 菜々の目に頑ななモノが浮かび……母は肩をすくめた。
「アンタのそれを今更どうこうは言わないけど、試験のたびに光一に面倒見て貰うつもりかい?卑怯な言い方だけど、今回の試験、光一はちょっと順位を落としたよ」
「……え?」
 と、菜々の表情が動く。
「そんな、おにいちゃんは何も…」
「……実際それが原因がどうか分からないけどね、アンタの勉強みてて、自分の方に手が回らなかったなんて、口が裂けても光一が言うもんか」
 その言葉の正しさを認めたのか……菜々がうなだれる。
 母はそんな菜々をどこか哀しげに見つめ……いたわるような口調で囁いた。
「母さんはもう出かけなきゃいけないから、菜々は自分の部屋に戻って、後は1人で考えなさい…」
 
「……以前も話したとおり、私は競技武道には興味がありません」
 恵の叔父……つまり父親の弟は、柔術家である。
 恵の父親の空手道場のように門下生を多く抱えているわけではないが、実践術として警察というか、週に1度か2度機動隊の指導にあたる。
 母方の祖父は、いわゆる戦後の剣道界において第一人者と呼ばれる実績を残してはいたが、本人は剣術家であることを強く自認しており、もうすぐ70に手が届く年齢でありながらバリバリの現役で、これまた警察関係者とは縁が深い。
 本人は気付いているのかいないのか、これまで恵がやらかした正義の鉄槌に対して、そっち方面から何らリアクションがないのは……以下略。
 まあ、その関係で恵の家にもちょくちょく警察関係者が訪れるわけだが……叔父の道場で、祖父の道場で練習する恵の姿を見て、感動にも似た驚きを覚える人間がいるわけで。
 特に、世界に広まったジュードーの復権のため、キミが必要だ……などと熱っぽく語る人間がいたりするわけだ。
「そもそも、襟をつかまれる前に指を折る、蹴りも、拳も使う……10年以上、そういう修行をしてきた人間に、それが出来ると思いますか?」
 絞め技なり、寝技の防御のために脇を締めて丸くなる……そんな姿を見た瞬間、後頭部に一撃を入れるだろう。そして即座に反則負けだ。
「いや、しかし…」
「なら、立ち会って決めますか?」
 180センチ100キロオーバーの、かつて全日本を制した経験のある男が、150センチに満たない恵に、しかも少女に言われ……既に現役ではないと言っても、聞き流すのは困難だっただろう。
 そして数十秒後、男は昏倒することになる。(笑)
 もちろん柔道なら反則負けだが、武術に反則などありようもない。
 まあ、帰り際に『私は諦めたつもりはないよ…』と言い残したのは立派と言えるだろうが……多分諦めた方が賢明だろう。
 ちなみに、恵の成績は普通である。
 
 光一には劣るものの、恵よりはかなり上……の柊が、その頃何をしていたかというと、意外にも輝日南高校の屋上で1人ぽつんと空を眺めていたりする。
 空を眺めていながら、その目は何を映すのか……。
 5月最後の夕焼け空に、運動部のかけ声が響いて消えた。
 
 
 
 
 やはり、キャラが全部登場しない。(笑)

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