「去年はとうとう二日とも8時間を切ったわ」
「それはすごいな……俺なんか、二日目の途中から記憶がないし」
「ちゃんと最後までやり遂げたわよ…日付が変わる直前だったけど」
「足の皮がずるむけて、しばらく歩くのがつらかったことは覚えてるけど…」
「……柊さん、なんの話ですか?」
 恵と光一の会話の意味が分からず、また話に割り込むのもできなかった菜々が柊に囁いた。
「ああ、栗生の家が空手道場なのは知ってるよね」
「はい」
「毎年ゴールデンウイークにね、二日連続で正拳突き一万回という、非人間的な荒行をやるんだよ……構えて、打つ、の繰り返しで、朝の5時から始めて、大抵は12〜3時間ぐらいかかるらしいけど」
「……」
 構えて、打つ、の構えが乱れていれば、道場主である恵の父親がそれを正し、そこから打つ……初級なら1時間600発、中級で1時間1000発、上級で1時間1200発。
 と、計算上はそうなるのだが、朝の4時起床、朝食……医者が待機しているとはいえ、5時から休憩もなく水分補給すらなく(お昼にホースで頭から水かけられるだけ)ひたすらに正拳突き……これを二日間。
 もちろん、途中でリタイアする(自分の意志、もしくは恵の父親なり待機している医者によるストップも含む)人間は少なくない。
 先の恵の言葉、『二日とも8時間を切った…』の価値は推して知るべしである。
「もちろん、栗生の父親がこれと認めた人間しか参加できなくて……入門したばっかりの相原が参加を許されたのは、よほど見込まれたんだろうね」
「二ヶ月で逃げ出したアンタと、相原を一緒にしないっ」
 と、恵がちょっと怒ったように言った。
「や、結局俺も1ヶ月ぐらいでやめちゃったし…」
「それは…そうだけど」
 気づかれないように、恵がちらっと菜々を見る。
「……って事は?」
 恵の視線に気付く事なく、菜々がびっくりしたように光一を見た。
「えっ、おにいちゃん空手道場に通ってたのっ!?」
「し、知らなかったのかい、妹さん?」
「初耳ですよぅ」
 心底から驚いたという感じに、柊は光一を見やった。
「ああ、言ってなかったからなあ…」
 慌てず騒がず、のほほんと光一。
「え、え、え?」
「ほら、中学に上がったばかりの頃……あれ、学校のクラブじゃなくて、栗生の家の道場に通ってたんだ」
「そ、そうだったんだ…」
 と、ここで菜々がはっと顔を上げて。
「え、じゃ、じゃあ……私のせいで、やめちゃった…ってこと?」
「ん、元々は、いざというときに家族を守れるようになりたいと思って入門したわけだから…本末転倒だったし」
「そう…だったんだ」
 微妙な表情で菜々が俯く……その頭に手を乗せ、髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「お前にそういう顔をさせないために、強くなろうと思ったんだよ。だから、なんの問題もないぞ」
「え、えへへ…」
 と、ここでやっと菜々が笑い、柊は苦笑を浮かべ、恵は微妙な表情で視線を逸らす。
 さて、何故こんな話題になったかというと、ゴールデンウイークを目前に控え、『柊さんや恵さんは、何か予定があるんですか?』などと、菜々が言い出したためである。
 で、恵は今年も家の荒行に参加する気満々なわけで。
「そういえば、恵さんって、空手だけじゃなく、柔道や剣道の道場にも通ってるんですよね」
「どっちも親戚だけど……正確には、柔術と剣術ね」
「はい?」
 柔道と柔術、剣道と剣術の違いを明らかに理解できてない表情の菜々。もちろん、恵としてもそれを説明するつもりはないのだろうが。
「みなさん、お待たせしました〜っ!」
 と、大きなトレイを抱えたなるみが現れる。
 トレイの上にはどんぶりが5つ……もちろん、なるみの手打ちうどん。
「今日はシンプルにうどんだけを味わって貰おうと思いまして、ネギとかまぼこだけのせてます」
 楽しくて仕方ないといった感じで、みんなの前にどんぶりをおいていくなるみ……を見つめて、恵が言った。
「里仲さん、今日は大目に見るけど……授業サボってまで、ってのは感心しないわ」
「はい、次から気をつけます」
 ぴしっと、直立不動のなるみに恵は小さく頷いた。
「じゃ、みんなで冷めないうちに…」
 と、自然と恵が仕切る形で5人そろって手を合わせ。
「いただだきます」
 菜々と柊はいきなりうどんを食べ、恵と光一は汁をすすり……なるみは、目をキラキラさせながらみんなの様子を見つめ。
 ずるずる…ずずっ…
 と、4人が一旦箸を置くやいなや、なるみが身を乗り出した。
「どうですかっ?」
「普通」「まあ、そこそこかな」「ふつうにおいしいよ」
「相原せんぱいは?」
 このメンツで最も厳しい批評というか、建設的な批評が出来るのは…と睨んだのか。
「んー」
 光一はちょっと首を傾げ。
「店の料理という前提で言えば……とりあえず出汁の取り方がちょっといいかげんかな。多分、うどんの生地につきっきりで、出汁まで手が回らなかったんじゃないかと思うけど」
「ちょっと、相原…」
 もうちょっと加減しなさいよ…と言いたげに肘をつつく恵に向かって、なるみが首を振った。
「違うんです。当たり障りのない批評じゃ、意味ないですから」
「……そういう意味だと、私は役に立てそうもないわね」
「と言うか、里仲さんも食べたら」
「そうだよ、なるちゃん」
「そっ、そうですね」
 と、なるみがうどんをすすり……眉をひそめた。
「なるみちゃん、最初からうまくいくってのはムシが良すぎるよ」
「そ、そうですね…あ、すみません、とりあえず、食べちゃってください」
 と、恵や柊、菜々はもう普通に食べ始めたが、光一はじっくりと時間をかけていて……なるみは、そんな光一をチラチラと見ながら。
 そうして、記念すべきなるみの手打ちうどん初お目見えは終了したのだった。
 
 後かたづけが終わるまでは料理です……と言ったなるみを家庭科室に残して、光一達4人は廊下を歩く。
「それにしても…相原って味に厳しいのね」
「一度、駅前の『里なか』で食べてみればわかるよ……というか、アレがなるみちゃんの目標だから、甘い批評はちょっと本人のためにならないかなと」
「確かに、アレは美味しいね」
「変な言い方だけど、うどんじゃないみたいだった」
「……え、食べてないの私だけなの?」
 と、仲間はずれにされたような表情を浮かべる恵。
「だったら、学校帰りにでも……買い食いはいけない」
 恵に睨まれ、柊が視線を逸らしつつ有名無実の校則を口にする。
「それ以前に、寄り道がダメなんだけど」
「まあ、どこからどこまでが寄り道か…って問題はあるが。俺なんか、スーパーで買い物とかどうすんだよって事になるし」
「私だって、ちゃんと相手を見て注意してるわよ、むやみやたらに校則を振りかざしてるわけじゃ…」
「確かに、昔に比べたら丸くなったよね栗生は」
「そ、そーなんですかっ?」
「……どういう意味かしら、菜々ちゃん」
「聞いたままの意味だと思うよ、栗生」
 と、ため息をつく柊。
「『めぐみって呼び方はなよなよして嫌いなの、めぐむって呼んで』とか言ってた頃を思え……いたたたたっ!」
「どうしたの柊?具合が悪いなら保健室に行きましょ」
 と、さりげなく柊の関節を二カ所極め、恵がそのまま歩いていく。
「おにいちゃん…めぐみって呼び方は、なよなよしてるの?」
「さあ……でも、俺も最初にあったときはそう言われた」
 などと、2人の背中を見送りながら光一と菜々は呟くのだった。
 
「まったく、男のくせにぺらぺらと…」
「栗生、『男のくせに』という発言は今の世の中では…」
 クキッ。
「〜〜っ!!」
「悲鳴を上げるほどの痛さとかいうけど、本当に痛いと声も出ないモノなのよね…」
「っ!っ!」
「というか、柊…ちゃんと鍛えてる?相原じゃないけど、いざというとき、彼女を守れるぐらいの強さは持っておいた方がいいわよ」
 などとため息をつきながら恵は保健室のドアを開け、そこでやっと柊を解放した。
「く、栗生…?指先の感覚がないんだが…」
「平気よ……個人差はあっても、人間の身体がどこまでやったら壊れるかぐらいはわかってるか……ら」
「ん…?」
 恵の視線を追って、柊が背後を振り返った。
 癖のある髪を柔らかく編んだのを二つに垂らした……水澤摩央が、少しばつの悪そうな表情を浮かべてそこにいる。
「水澤先輩、お久しぶりです」
 と、そこはさすがに如才のない柊だけに、努めて明るく挨拶を……同じ中学の先輩後輩と言うだけでなく、摩央が中学を卒業するまでは、光一を中心にかなり親しくしていた間柄でもあるのだから。
「あはは、ホント久しぶりね、柊君に…恵ちゃん」
「…こんにちは」
 目線をあわせず、恵がちょっと頭を下げる。
「それにしても、見違えましたよ先輩。失礼な言い方をすれば、中学の頃とは別人のようで」
「あら、お上手…」
 摩央がちょっと口元に手を当てて。
「柊君も、この前女の子と街を歩いてたの見たわよ……冬に、明らかに年上の女の人と歩いてたのも」
「ははは、まあ、色々とありまして」
 と、微妙な空気をどうにかしようとする柊の奮闘も……恵と摩央の2人にその気がないのだからどうしようもないと言うか。
「……じゃあね」
 微妙な笑みを浮かべ、摩央はそのまま保健室を出ていく……微妙な空気だけを残して。
「……栗生」
「何よ」
「いや……何でもない」
 今この場で迂闊な発言をすると……という恐怖が先だった。(笑)
「まあ、…出ようか」
「そうね…」
 と、2人は保健室を出て……もちろん、あたりに摩央の姿はなく。
「……柊」
「なんだい?」
「…ありがと」
「何も聞くな、と言われたからね」
 空気が重くなりすぎぬよう、軽くさらりと口にする。
 2人は同じ小学校の……正確に言うと、『やだっ、やだよ母さん。あそこ、男女の栗生がやってる道場なんだから』などと泣いて嫌がる柊を引きずって、『この子、ちょっと鍛えてやってくださいな。死なない程度に』などと穏やかに微笑んだ柊の母が恵の父親の道場にやってきた…小学2年からつき合いが始まったと言うべきか。
 そのあたりの呼吸は、柊にしか出来ない1つの技であろう……そこに至るまでの苦労は、言うまでもない。
『柊。アンタ、ウチの元門下生なんだから、もっとシャキッとするっ!』
『元門下生が、ウチの看板汚すようなことするなっ!』
 そんな言葉を限りなく受け……もちろん、それだけではなく。
『は?私はアンタの兄弟子なのよ?守るのは当たり前でしょ?』
 などと、あまりよろしくない年上の連中数名を叩きのめした後で、当たり前のことでしょ……いう事も少なからずあったわけだが。
 少々堅すぎることをのぞけば……さっぱりした気性の、気の置けない存在で、友人としては貴重な存在である。
 もちろん、そこまでつき合いが深くなる前に逃げ出す人間がほとんどで……いや、それを理解したとしても恵と友達づきあいが出来るかどうかは別の話かも知れないが。
 ただ……男と女という意味では、大きな声で『NO』を叫ばざるを得ない柊でもある。
「あ、そうだ……余計なことかも知れないけど」
「何よ」
 その口調から、本当に余計なことではないと判断したのか、恵は素直に目を向けた。
「相原がね、二見さんと知り合ったみたいだよ」
「…あの女と?」
「『あの女』……ねえ」
 その表現だけで、恵の瑛理子に対する感情は言わずとも知れた。
「『あの女」としか言いようがないわよ」
「向こうもそうかも知れないけどね…」
 そう呟いた柊に向かって、意外にも恵は首を振った。
「……というと?」
「私は『あの女』が嫌いだけど、むこうは私をからかってるだけ……だから余計に腹が立つったら…」
「栗生を、からかう…」
 自分で口にしながら、言葉の意味が飲み込めなかったのか……柊の意識はしばし遠くを彷徨った。
「それは……また、なんというか」
「そうじゃなくて見切ってるのよ私を……いつ、どんな時も、それを計算して、行動してる……かわいげがないったら」
 苦虫をかみつぶしたような表情で吐き捨てる恵……を、柊はじっと見つめた。
 基本的に恵はいつも正しい……それは、まず前蹴りから入って右正拳につなげる…といった感じに、誰を相手にしても型にはまった戦い方をするのに等しく。
 その正しさを逆手に取り、自分に被害が及ばぬようにコントロールしている……のであれば、『天才』なのは、勉強に限った話ではないのだろう。
 あれだけ周囲に嫌われていながら、平然と学校生活を送っている……もちろん、嫌がらせの噂は耳にするのだが……おそらく、恵の言葉を借りると教師を含めて周囲の人間をほぼ一見で見切っているのか。
「……カレをどう見切るのか……興味が湧くね」
 そのひどく小さな囁きは、恵の耳には届かなかった。
 
「どうしたの、おにいちゃん?早く帰ろうよ…」
「ん…ちょっと」
 光一の視線を追った菜々が目を向けたのは、校舎の……屋上だった。
 おそらくはなんの部活にも入っていない生徒が、ぞろぞろと校門を抜けていく……その流れに逆らうように、光一と菜々は立ち止まっているわけだが。
 今は見えないが、ついさっき光一はちらっと人影を見た。
 もちろん、屋上は開放されているから誰がそこにいてもおかしくはない……が、HRが終わってまっすぐそこに向かったというタイミングは、否応なしにあの少女の姿を光一に連想させた。
「菜…」
「いいよ、おにいちゃん。私、一人で帰るから」
 と、光一よりはやく、菜々は屈託のない笑みを浮かべてそう言った。
「……悪いな。わざわざ教室まで迎えに来てくれたのに」
 菜々は光一の顔をじっと見つめ……ちょっと笑った。
「そのかわり、明日はおにいちゃんが私の教室まで迎えに来てね」
「ん、わかった」
「……あはは、大騒ぎだね、きっと」
「……なんで?」
「じゃあね、おにいちゃん」
 菜々が小走りで校門を抜けていくのを見届けてから、光一は踵を返した。
 
「また、下手な歌を歌いにきたの?」
 屋上のドアを開けてすぐに、その声が上から聞こえてきた。
「……と」
 反射的に見上げかけたが、光一はなんとかそれを押しとどめた……含み笑いの気配は気のせいではないだろう。
「そこ、広いの?」
「……2人が寝転がるぐらいなら余裕ね」
「上がっていい?」
「……どうぞ」
 横に回って、光一は梯子に足をかける。
「上がるよ?」
「どうぞ」
 こんこんこんっとリズム良くかけあがり……瑛理子に向かって光一はちょっと頭をさげた。
「おじゃまします」
「くどいわね」
「だって、二見さんの場所だろ、ここは?」
 瑛理子は何かをいいかけ……口端をちょっと歪めて笑った。
「そうね……私の場所だわ」
 風で乱れる髪を手でサイドへ流しながら、瑛理子は視線を光一から外す。
「座らない?」
「え?」
「ここは高い場所だもの」
「……?」
 意味は分からなかったが、光一は瑛理子に従って腰を下ろした。
「それで?」
「……?」
「何か用があったんじゃないの?」
 瑛理子の視線は光一には向かず、ただ遠くの空を眺めているようで。瑛理子が下にハンカチを敷いているのを見て、自分もそうするべきだったか、と光一は思った。
「用、ないの?」
「……厳密に言うとあるのかも知れないけど、言葉で説明できないあやふやなものかな」
「……なんとなく?」
「うん…なんとなく、かな」
 そう応えながら、光一の目は景色へと向いている。
 屋上のそれより、高々2メートルあまり高くなっただけだが……新鮮だった。
 まあ、身長が10センチ大きくなれば世界が変わる……という事を考えれば、当然と言えば当然か。
 ふと、瑛理子がこちらを見ていたことに光一は気付く。
「ん?」
「別に……当たり前のことが当たり前に感じられないだけのことよ」
「ごめん、ちょっと景色に見とれてた」
 話しもせず、ただ景色だけを……は、多少礼を失したと思い直して。
「二見さんは、ここ、良く来るの?」
「期間限定かしら…」
 瑛理子の冷めた口調よりも、醒めた瞳の方が光一には印象的で。
「と……言うと?」
「理科室の準備室……この前、そこを追い出されてね」
「……科学部か何か?」
 瑛理子がふっと口元で笑った。
 いわゆる冷笑にしか見えなかったが、なんとなく血が通った仕草に光一には思えた。
「『ここはあなただけの場所じゃないっ』……ってね」
「占領してたの?」
「別に…そんなつもりはなかったけど」
 瑛理子がそこにいるだけで、誰も近寄ってこなかっただけのこと……無論、そうさせたのが自分だということをわきまえてもいたが。
「……なんか、道理に合わない言い分のような」
「……そう思う?」
「うん……別に、他の人間が入れないようにしたとか、そんなんじゃないなら、追い出される理由にはならないよ」
「他の人間が入れないようにしたなら、追い出される理由にはなるわけね…」
 光一はちょっと瑛理子の顔を見つめ。
「……したの?」
「どうかしら……相原は、入ってきたけど」
 5秒ほど経って、やっと光一は言葉の意味を理解した。
「なるほど……二見さんの場所を構築してたわけか」
「元々人の立ち寄らない場所なのに…」
「二見さんは、ここよりそこが…」
「しっ」
 瑛理子がすっと唇の前で人差し指をたてた……菜々や恵、なるみとは違った白くてしなやかな指に光一はなんとなく目を奪われる。
 ガチャ。
 ドアの開く音が、光一を呪縛から解き放った。
 一体誰がやってきたのかと、瑛理子が止めるよりも早く身を乗り出した瞬間。
「そこは昇っちゃダメって事も知らな…」
 光一の顔を認めて恵は言葉を途中で失った。
「……栗生」
 と、光一の声で我を取り戻したのか、恵は1つ大きなため息をつき。
「相原…さっさと降りる」
「あ、うん…」
 後ろに隠した手で瑛理子にそのままじっとしててと合図を送りつつ、光一は頷いた。
 こんこんこん…と、上ったときほどの勢いはないが、リズム良くはしごを下りた光一の前に立ち、恵はもう一度ため息をつく。
「あのね、相原……」
「ごめん、知らなかった…高いところから街を見たくなって…」
 すっと、音もなく光一の内側に入り込んだ恵の右足が光一の腰を跳ね上げる……いわゆる柔道の大腰だが、普通は体の大きい選手が得意とする技で、自分より体の大きい相手に仕掛けるのはかなり難しい。
 ばぁんっ。
 もちろん、引き手は持ったまま……だが、隠れていた瑛理子が顔をしかめるほどの音が響き渡り。
 尻と足の痛みに顔を歪める光一だが……身体そのものにダメージの残らない投げ方をしてくれた恵に感謝しつつ。
「……し、知らないことが…ダメ…なんだよな」
「そういうこと」
「そ、それはともかく…なんで…」
「あのね、景色がよく見える場所は下からもよく見えるの」
「な、なるほど…」
 先ほどの瑛理子の言葉『ここは高い場所だもの』の意味を知る光一。
「ほら、いつまでへたり込んでるの、シャキッとする」
「お、おいっす…」
「……というか、簡単に投げられすぎ」
「いや、てっきり、正拳か、蹴りが来るもんだと…」
「そのつもりだったけど、踏み込む直前に相原の腰が浮いたからね」
「そうしないと、間に合わないからなあ…」
 と、やっと痛みの波が収まり、光一はズボンの裾をパタパタと払った。
「何度も言ってるでしょ、相手の受けに対応できない技なんて技とは言えないって…」
 もう一度ため息をついて、恵はじっと光一の顔を見つめた。
「相原、私に何か言うことはない?」
「もう、昇ったりしない」
「……」
「……多分」
「……」
「えっと…」
 火を噴くような足払いを食らって、光一は両脚をそろえて横向きに倒れた……瞬間にはもう、恵は右腕を背中にねじ上げ、光一の背中に片膝をついている。
「何も言うことはないということは、相原はあそこに一人で昇って景色を見ていたという事よね?」
「ああ、そうだよ」
「……わかったわ、降りるわよ」
 呆れたような声……それを予期していたのか、恵はそちらに視線を向けることもしなかった。
 光一のそれとは対照的に、瑛理子がはしごを降りる足つきはかなり危なっかしく……時間も倍以上かかった。
「誰かさんに、準備室を追い出されて行くところがなかったのよ…」
 皮肉な口調で瑛理子。
「教室なら、文句言わないわよ」
 と、恵はここで光一を解放したのだが。
「栗生は何で二見さんを準備室から追い出したんだ?」
「……」
 黙り込んだ恵を見て、瑛理子がちょっと目を細めた。
「栗生?」
「何度も授業をサボって入り浸ってるからよ。お菓子を持ち込んだり……そういう場所がなくなれば、授業に出るしかないでしょ」
「それは、二見さんのせいなのか?」
 そう問われて、恵がちょっと視線を逸らした。
「……フフッ」
「何がおかしいの?」
「別に……ちょっと場所を変えない?」
 何故瑛理子がそんなことを言いだしたのかわからなかったが、なんとなく光一も恵もその提案を受け入れた。
 屋上を出て……廊下へ。
「で、どこに…?」
「そうね…」
 と、瑛理子の目はこちらに向かってやってくる教師の姿を認め。
「相原」
「ん?」
 振り向いた光一の顔をそっと引き寄せ、瑛理子は光一にキスをした。
「…っ!?」
「二…見っ!?」
 掠れ声で瑛理子の名を口にするのがやっとの恵に向かって妖しく微笑みつつ、瑛理子はこちらに向かってやってくる教師の姿を冷静に見つめていた。
 
 
 
 
 ふう、これでやっとタイトルに偽りなしだぜ。(笑)
 まあ、本来ならこれを1話に持って来なきゃいけないんでしょうが。

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