「…あ、おにーちゃんっ!」
 ととととっ、と、危なっかしく走り寄ってきた菜々がそのままの勢いで光一の胸の中に飛び込んでくる。
「ととっ…」
「あぶないっ」
 よろけた光一の背中を支える手。
「ごめん、待ったか菜々」
「まったよぅ」
 口をとがらせ、髪留めを揺らしながら全身で不満を表す菜々……を、なだめようと、張本人が頭を下げた。
「ごめんね、菜々ちゃん。ちょっと用事ができて…」
「まーおねーちゃんのせい?」
 それじゃあ、『まお、ねーちゃん』じゃなくて、『まー、ねーちゃん』じゃないか…と、注意する。
「菜々…まーおねちゃんじゃなくて、まお、ねーちゃん」
「まーおねーちゃん?」
 小学生になった光一と、まだ幼稚園の菜々……子供の頃の一年の差は大きく、菜々の口調はまだどこか舌足らずな印象を抱かせる。
「あはは、いいわよ光ちゃん。まーおねーちゃんで」
 1年の差……それは、光一と摩央の間にもしっかりと存在しており、男とはいえどこか少女のような華奢な体つきの光一より、摩央のほうが背が高く、力も強かった。
「まおねーちゃんは、まおねーちゃんだよ」
「まーおねーちゃん」
「……」
「もう、男のくせに細かいわね光ちゃんは…」
 何度も言われたので口にはしなかったのだが、表情に出てしまっていたらしい。
「まーおねーちゃんのせいでも、おにーちゃんやくそくやぶったーっ」
 菜々は話の流れを読むこともなく。
「光ちゃん、やくそくは破ったらダメよ」
 摩央は自分の責任を棚に上げ。
「あ、う…ごめん、菜々」
 光一は素直だった。
「じゃあ、ちゅーして」
「…えっ」
 それは光一ではなく、摩央の声。
「そっか、ちゅーでゆるしてくれるのか、菜々」
「うんっ」
 と、これは光一と菜々。
「ちょ、ちょちょちょちょっと待って、光ちゃん、菜々ちゃん」
 グイッと、2人の間に身体を割り込ませた摩央が、どこか慌てた感じにぶんぶんと手を振った。
「…?」
「どうしたの、まおねーちゃん?」
 3人の中で一番年上のせいもあるだろうが、いつも一番落ち着いている摩央の慌てたそぶりに首を傾げる光一。
「おにーちゃん、はやく、ちゅー」
 と、話の流れを読まない菜々は、既に目を閉じ、ちょっと背伸びするように口を尖らせてスタンバイオッケー。
「いやいやいやいや…」
 たまにテレビに出てくるタレントのように、ぶるぶると首を振りながら、摩央が光一と菜々を近づけまいと両腕で遮る。
「……まーおねーちゃん?」
 と、ここで菜々は目を開け、不思議そうに摩央を見る……が、摩央の視線は光一に向かって一直線。
「こっ、こここっこうちゃん?」
 不自然に語尾を跳ね上げる口調で、まさに詰めよるという表現がぴったりな感じに。
「ちゅ、ちゅちゅちゅっちゅーって、兄妹でしょ?っていうか、初めてじゃないわねっ!?」
「…顔赤いよ、まおねーちゃん?」
「話はっ!?」
「…目で聞くって、ちゃんと摩央ねーちゃんみてるけど?」
 2人が通う小学校のお約束というか、人の話を聞くときはちゃんと相手の目を見なさい……という事を徹底させるために、教師が良く使うのだ。
 それ故に、まだ幼稚園の菜々には2人のやりとりの意味が分からない。
「てれびでみたのー」
 話の流れを読まないが故にかみ合った……というか、摩央がなんとなく察した。
「ちゅー、ダメ」
 菜々と、光一の顔を交互に見ながら。
「えーっ、なんでー?まーおねーちゃん」
 ダメって言うなら別に構わないけど……という感じの光一とは違って、菜々は不満を摩央にぶつける。
「っていうか、ちゅーってのは、こう、お互いに大好きで…」
「菜々、おにーちゃんだいすきだもん」
「ぼくも、菜々…」
「光ちゃんっ!?」
 話の流れ読みなさい…という目つきで、光一を黙らせる摩央。
「えーっ、なんで?なんでー、まーおねーちゃん?」
「えっと、だからね…」
 と、今度は光一1人が蚊帳の外に。
 わいわい、ひそひそと、数分間。
「光ちゃん」「おにーちゃん」
「あ、終わったの?」
 おとなしく待っていた光一に、摩央はどこか疲れた表情で。
「おでこにちゅー…で」
「でこちゅー」
 と、菜々はわけもわからず楽しそう。
「おにーちゃん、でこちゅー」
 と、ちょっと背伸びをして、目を閉じて口を尖らせる菜々を見てぼそりと摩央。
「口は普通でいいってば…」
「えっと…じゃあ…」
 光一は、ちょっと摩央の顔色を窺いながら菜々のおでこに唇を寄せていった……。
 
「……んっ?」
 こんこん、こんこん…
 ドアをノックする音に遅れて。
「お兄ちゃん…もう、寝ちゃってる…?」
 どこか遠慮がちな菜々の声。
「どうした、菜々」
 ベッドから身を起こす……と、ドアが開いて菜々が顔を出した。元々鍵なんかかけちゃいない。
「ごめんね、寝てた…?」
 ベッドの上、寝起きの表情……今さら強く否定する気にもなれず、光一は微笑んだ。
「ああ、ちょっとうとうとっとしてた」
「……」
「で、どうした?わからないとこでもあったか」
 ベッドの梯子を途中まで降り、全然眠くないぞとアピールするように飛び降りる。
「うん、ちょっとわからなくて…」
「そうか…どうする、そっちの部屋に行こうか?」
 と、机の上の時計に目を向ける……0時30分。
「うん、この部屋寒いし」
 どこか遠慮する感じでうつむく菜々の髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜてやった。
「ほら、後1週間ちょっとだろ」
「わ、髪の毛が乱れちゃう」
 と、光一の手をふり払う菜々の瞳にいつもの明るさが戻ってきた。
「……と、確かに寒いな。早く菜々の部屋にいくぞ」
「うんっ」
 と、嬉しげに頷く菜々……を、どこか犬っぽいと思っている光一なのだが、それを口にしたことはない。
 
「おはよう、相原」
「おっす、柊……と、すまん」
 光一は慌てて口元を手で押さえた。
「……眠そうだな」
「ん、ほら、菜々の勉強見てやってたから……」
 と、これで納得がいったのか柊……柊明良(ひいらぎ、あきら)は、頷いた。光一とは中学が同じだけに、このあたりは細かい説明の必要もない。
「そうか…1年前の我が身を思い返すな」
「別に、柊は余裕だっただろ?」
「よりによって、キミに言われたくはないな……というか、妹さん、まずいのか?」
「……ひいき目に見て、ボーダーかな」
「キミの、妹さんに対するひいき目でボーダー……か。それは厳しそうだな」
 『妹さんに対する』という部分に多少のひっかかりを覚えたが、光一は素直に頷いた。
「まあ、菜々も自覚してるみたいで、ちょっと焦ってるって言うか……落ち着かせるというか、当日も俺がついててやれればいいんだけど…」
「……心配なのはわかるけど、その日の約束、忘れないでくれよ」
 その日は柊と共に注目していた映画の試写会の日で……2人のうちどちらかが当たればいいな、と応募したハガキ…光一の方が当たった。もちろん2人一組。
「はーい、みんな席に座ってーっ!」
 ぱんぱんと手を叩きながら現れたのは担任の川田先生。
 輝日南高校の教師陣の中ではトップクラスの人気を誇る、まだ初々しさを残した、いわゆるおねーさんっぽい教師……で、くわえて美人。
 いつもの朝の、いつものHR……だった。
「そうそう、忘れるところだったわ……来週の日曜日にこの学校の入試があるのはみんな知ってるわね」
「せんせー、正確には再来週」
「細かいこと言わないの」
 混ぜ返した生徒を軽く睨みつけ、川田先生が切り出した。
「その日の試験監督というか、お手伝いをやってくれる人はいないかしら」
「バイト代は?」
 生徒の声ににこりと笑い。
「当然出ません」
「せんせー、それじゃ希望者いないって」
「あ、でも、お昼のお弁当は出るのよ。朝の8時から、夕方の5時過ぎまでみっちりと手伝って貰うけど」
 などと本気で募集しているのかいないのかわからない発言……あたりが、生徒に好かれているのかも知れないが。
「……試験監督…か」
 ふっと、光一の頭にひらめくモノがあった。
「先生。俺やります」
 教室内の視線が集まる。
 成績はよいが、高校ともなるとそれが話題になることは少なく、運動は出来る方……と言っても帰宅部で、クラス内での友人といえば柊だけ、と社交性豊かとも言えない光一はあまり目立つ存在ではなかった。
 その目立たない少年が、よりによってこんな割に合わないモノに立候補しようと言うのだからこれは別の意味でも注目されて当然であった。
「ホントによいの、相原君」
「ええ…というか、妹が受けるんです入試。同じ教室ってのは無理でしょうけど、まあ、落ち着かせてやることぐらいは出来るかなと思いまして」
 淡々とした光一の口調……が、教室内のざわめきを遠いモノにした。
 目立たないと言っても、1年に近い時間を共有したクラスメイトである。
 妹思いの兄……で割り切れないような印象を、ちょくちょく他の人間に与えていた……それが、ある水準を超えて飽和した……とでも言うのか。
 一人の少年がぽつり、と。
「……相原ってさ…シスコン?」
 どっ。
「やっぱり?お前もそう思う?」
「ちょっと度が過ぎてるよねぇ」
「遊びに誘ったら妹が病気で寝てるから…って断られたことがある」
 教室のあちこちで、思い思いに語り出す生徒達。
 もちろんクラス全員が……ではないが、他人のゴシップじみた話題に興味を示すのは人間の悲しい性質なのか、それらは輪を拡大していく。
 そして、並の……というか、普通の少年なら多少顔を赤らめてそれを否定するための声を上げたりするモノだが……本人は、不思議そうにクラスメイトを見つめるだけで。
 教室の盛り上がりに乗り損ねた生徒が数名…の一人であるおとなしそうな女子生徒が、ちょっと不思議そうに光一を見つめ、その隣で柊がやれやれと言った感じで首を振っていたり。
「はいはいはい、みんな静かにっ」
 事態を収束させるために川田先生が手を叩き……ひそひそ声は続くモノの、騒ぎは収まりかけた。
「家族が困ってるときに力を貸す…それって、何か変なのか?」
 再びの騒ぎにはならなかった。
 光一の言葉にどこかそれを妨げるような響きがあったからかも知れない。
「いや、相原のは度が過ぎてるって言うか…」
 などの声は、あくまでも散発で。
 そして柊が口を開いた。
「相原、何か忘れてないかい?」
「……すまん」
 柊との約束を思い出し、光一は頭を下げる。
「その『すまん』は、一人で行ってくれ…の意味かい、やっぱり」
「チケットは渡す。誰か誘ってくれ」
「まあ……いいんだけどね」
 どこか諦めたように柊。
「やっぱり、相原おかしいって。連れの約束より妹の…って、近くにいてやるだけだろ?見てやるわけにはいかないんだから」
「俺にも妹いるけど、そんなに可愛いもんじゃないぞ。ほっとけ」
「そうだよな。俺のとこもなまいきっつーか、文句ばっかり言ってるよ」
 と、これに反応したのが女子の一人。
「何よ。兄貴なんて意味もなく威張ってて、いない方がマシよ」
「そうよ、そうよ」
「ああ、ちょっと、みんな落ち着い…」
「あのさ、ちょっといいか?」
 光一には珍しく、川田先生の声を遮るように口を開いた。
 光一が何を言うのか……という興味が勝ったのか、教室内が静まりかえる。
「妹がどうのってこれまでに何回も聞く機会があったんだけど……例えば、友達との約束を優先して妹を無視する……のに、自分は妹にそれ以上の扱いを期待するのっておかしくないか」
「……」
「家族だから気をかける…から、向こうも気をかけてくれるもんだろ?それを普段からほったらかして、いざというときだけ、家族、家族とか持ち出す方が俺は変だと思う。第一、身勝手じゃないか?」
 教室内は静かだった……が、どこか危ういモノをはらみつつ。
 柊は肩をすくめ、そのとなりの女子生徒はただじっと光一を見つめ続けて。
 やがて……女子生徒の一人が、その危ういモノを破裂させた。
「そうよっ、兄貴なんて、兄貴なんて勝手なのよっ!」
「私、相原君みたいなお兄さんが良かったっ!」
「ちょっと男子。相原君バカにしたら許さないわよっ!」
 普段どんな扱いを受けているのか……おそらくは兄のいる女子生徒が、まさに魂の叫びとも言うべき声を次々に。
 事ここにいたり、教室内は収拾のつくような状況ではなくなった。
「……えっと、すみません川田先…」
 がしっと、川田先生に手を握られる光一。
「相原君。先生は相原君の味方だからね」
 どうやら、川田先生にも兄がいるようだった……。
 
 余談ではあるが、この異様な騒ぎになった件で、この後川田先生が校長先生に叱責を受けた。
 
「え、ホントにホント?」
「ああ、本当ならその日生徒は学校内にはいられないんだけど」
 その日の夜、とりあえずこういう理由で同じ会場内にはいられるぞ……と告げると、菜々は安心したように微笑んだ。
 今日も夜遅くまで受験勉強……のつもりなのか。
 もうこの時期になれば、体調を整えた方が……と光一は思うのだが、それは受験に対してなんの苦労もなかった自分の意見に過ぎないと思って口には出さない。
 勉強することで多少不安が取り除けるならそっちがいいだろうし……これ以上はまずいと思ったら、そこで止めればいいだけの話だった。
 高校は輝日南高校だけでもないし、既に滑り止めの私立には合格を決めてもいる。
「さて……」
 時計に目をやる……11時半。
「ちょっと夜食でも作ってくるよ」
「え、何を作ってくれるの?」
「それを楽しみにして、勉強してろ」
「はーい」
 と、素直に机に向かう菜々を残して、光一は階下の台所へ。
「さて、ああは言ったが…」
 時間をかけず、温かい、そして『これじゃ太っちゃうよ』などと言われない夜食となると……。
 光一の頭の中で、ぐるぐるとメニューが回転する。
「…何をごそごそやってるの、光一」
「あ、母さん」
 台所の壁に貼ってある、母の勤務シフトに目をやった。
「もうちょっと寝てたら?」
「夕方から寝てたからね。こんなもんよ」
 と、腰掛ける母の表情には、確かに疲れは見えない。
「じゃあ、お茶入れるから……というか、ちょっと早いけどご飯作ろうか?菜々の夜食作ろうとしてたところだし」
 光一の母は看護士である。今日は早朝から……の変則シフトで、朝の4時前に家をでればオッケーというところ。
 母が看護士なら、父は医療関係者……と言うわけでもない。
 昔ぽつりと、『本当は医者になりたかったのよ、母さんは。だから、意地でも医者とは結婚しないと決めてね』……と聞いてから、なんとなく触れてはいけない話題のような気がして、光一は両親のなれそめを知らないでいる。
「すまないね、光一」
 仕事の忙しさにかまけて家庭をないがしろに……していたわけではない。忙しい両親を思って光一が自ら家事をこなし始めたのだが、母は息子を頼みにしながらもどこかでそれを心の負担に感じている節があった。
「別に、身体の空いてる人間がやればいいだけの話だろ」
「家族のためなら、無理に身体を空けるところがああるからね、アンタは」
 光一のいれたお茶を一口飲んで。
「中学に上がったときだって、菜々が家で一人はイヤだ…って駄々こねたから始めたばかりの部活もやめちゃって」
「また、昔の話を」
 母に向かって苦笑を返す。
「怒られるかも知れないけど……あんまり、やりたいこととかないんだ、俺」
「……そうかい。母さんは怒るつもりはないよ」
 そしてまたお茶を一口。
「話は変わるけど……光一から見て、菜々はどうなの?」
「……正直、ギリギリ。全員が普段通りなら多分落ちる」
「……」
 母が黙ってお茶を飲む。
「でもまあ、入試で普段通りってのは難しいから……菜々が出来るだけ普段通りで他がダメならなんとか……だし、選択問題の1つや2つでひっくり返るレベルだから」
 まあ、なんとかなるよ……という微笑みを付け加える。
 母が大きくため息を付き……椅子の背もたれにもたれるようにして背筋を伸ばした。
「『兄は余裕の、妹は無理目の受験…相原さんとこの子供にはやきもきします』…って言われたよ」
「あはは、堀田先生元気だった?」
 光一が中学3年の時の担任と、菜々の今の担任は同じ教師だった。
 人の良い教師で、菜々を相手に光一と比べて……という発言をするはずもないが、母を相手にしてさすがにちょっと言いたくなったのか。
 母と会話しつつ、光一の両手はよどみなく菜々の夜食を作り始めていた。
「何を作ってるの?」
「まあ、無難にお粥というか…」
「光一。母さんは一応主婦だからね」
「菜々から見れば、ただのお粥だって」
 楽しみにしてろ……と言った手前、当たり前のお粥で菜々が納得するはずもなく。見た目やメニューが平凡なら、それなりの味が求められる。
「光一。菜々にもちょっとそういうのやらせなさい……アンタと違って筋が悪いのは知ってるけど」
 香味用に軽く湯通しした大根の葉をごま油で炒めて、お粥の上にちらばせる。
「じゃ、後でね母さん……」
 
「……お粥?」
 予想通り、菜々の表情は不満そうだった……が、それも一口食べるまでで。
 数分後、菜々は満足そうに両手を合わせていた。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
 と、食器ののったトレイを下げる。
「甘いお粥なんて初めて」
「うどんでも作ろうかと思ったけどな…ほら、駅前に里なかって店があるだろ」
「食べたこと無いけど、おいしいの?」
「ちょっとびっくりした」
「そんなに?」
 食休みの会話……と言っても精々が数分。
「そういえば、菜々はなんで輝日南を志望したんだ」
「……」
 どこかたじろくような視線を光一に向ける菜々。
「……お兄ちゃんは?」
「まあ……近いからかな」
 どこか苦い味のする嘘だった。
「私も同じ。まあ、お兄ちゃんが通ってるからってのもあるけど」
「そうか」
「……」
「……」
「じゃあ、勉強に戻るね、お兄ちゃん」
「ああ、無理せずほどほどに頑張れよ」
 菜々の口調に、光一はどこかよそよそしさを感じていた。
 
「……大丈夫か、菜々」
「う、うん」
 表情は硬い……が、光一の目から見て菜々はある程度落ち着いているように見えた。
「同じ教室で見回るってわけにはいかなかったけど、隣の教室が担当だから休み時間とか、不安だったらいつでも来いよ」
 結局、生徒から志願した……のは光一ただ一人だけだったようで、足りない分は、運動部顧問をしている教師が、部員を強制的に集めたとか。
 生徒の補助の役割にも色々あり、教室内を見守る監督官を当てられるわけではなかったが、隣の教室担当……は、おそらく川田先生の尽力であろう。
「教室の中には暖房とか入ってないから……まあ、人が集まるからそんなに寒くはならないと思う」
 3月上旬。
 冬の高く澄み渡った空から少し曖昧な感じの春の空へと移り変わり……しかし、吹く風はまだ冷たい。
「もう、大丈夫だよお兄ちゃん」
 ちょっと怒ったように…それでいて嬉しそうに、菜々が笑う。
「お兄ちゃんは、いつもどの教室で授業を受けてるの?」
「ん、菜々の隣の教室……っていうか、俺が担当する教室」
「へえ、そうなんだ…」
 と、ちょっとだけ残念そうに。
「まあ、4月になれば変わるんだけど……」
『受験生の方は…』
「ほら、呼ばれてるぞ菜々」
「う、うん…後でね、お兄ちゃん」
 受験生を一度体育館に集め、そこで説明をしてからそれぞれの教室へと移動……それは去年と同じだった。
 もちろん、光一もぼさっとしてるわけにはいかない。
 既に説明は受けてはいるが、教室の見回りに机の上に這った受験番号の確認など、やらなければいけないことは少なくないのだ。
 
 静まりかえった教室……というか、学校中が静まりかえった雰囲気は、光一にとってはいささか新鮮だった。
 普段は校庭では体育が行われていたり、教室内での生徒同士のひそひそ声などで静寂と呼べるモノでもなく。夜の校舎……ならまた話は違うのだろうが、静かでありながら人の気配には満ちているのだ。
 もちろん、物音はしている。
 答案を書く音、緊張からなのかいつもより大きいであろう呼吸音……鉛筆を転がす音はご愛敬。
 きーんこーんかーん…
「はい、そこまで。筆記用具を置いてください」
 教師の声。
 ため息。椅子の軋む音。様々な呟き。
 光一は列の後ろから答案用紙を集めていき、教卓の上に置く。
「これで、午前中の試験は終了です。昼食を挟んで午後の試験にうつりますが…」
 教師の説明を聞いているのかいないのか。
 張りつめた緊張から解放され、しかし昼休み終了後にはまた緊張の一を張りつめなければいけない……そこで立ち直る生徒もいれば、反対に崩れていく生徒もいる。
 去年の受験で、光一はなんとなくそういう生徒を眺めていたからよくわかる。
「……ぁ」
 教室の片隅で、口元を押さえた女子生徒。
 何かあったな……と、光一は近づいて声をかけた。
「どうかした?」
「あ、いえ…お弁当を…」
 冷静にさえなればたかが昼食なのだが、入試と言う緊張状態においては、それが取り返しの突かない失敗のように思えてしまう。
「忘れちゃったの?」
 ことさらに意識して、光一は穏やかな声を出した。
「は、はい…」
 ショートカットの毛先が微かに震えている。
「そっか、今日は売店も閉まってるし……駅前まででないと店もないけど、混んでたりしたら時間がなあ」
「そ、そうですね」
「あ」
 今日のバイト代……早い話、弁当をこの女子生徒に渡せば問題なし、と光一は思い当たった。別に答えを教えるわけでもないし、特に問題はないだろう。
「お兄ちゃん、一緒にご……」
 ご飯食べようよ…の言葉を呑みこみ、光一の胸に抱きついたまま、自分と同じ受験生らしい少女をみつめ、何かあったの?という視線を光一に向ける。
「ああ、彼女お弁当忘れちゃったみたいで」
「え、そうなの……この辺お店もないし、売店は?」
「今日は休み……って、受験案内に書いてあっただろ」
「読んでないもん」
「あ、あの…?」
 説明を求めるような視線に促され、光一が口を開く。
「見ての通り兄妹……っていうか、俺は入試の手伝いに来たここの生徒」
「あ、先生じゃなかったんですか…」
「ひどい。お兄ちゃん、そんなに老けて見える?」
「あ、ごめんなさい」
 菜々に向かって頭を下げる。
「ま、それはそうとちょっと待ってて」
「お兄ちゃん、どうするの?」
「菜々も、待ってろ」
「待ってろ…って」
 面識のない少女と2人きり……幸い、2分ほどで光一は帰ってきた。
「はい、お弁当」
「え、あ、これって…?」
 安堵しつつも、どこか恐縮した面もちで光一を見上げてくる少女の目。
「ああ、今日手伝うと弁当がもらえるんだよ」
「え、でも、それじゃあ…」
 こつん、と少女の頭を叩きながら。
「受験生は妙な心配せずにきっちり食べなさい」
 それをどこか面白くなさそうに見ていた菜々が、光一の腕をとる。
「お兄ちゃん、私のお弁当半分こしよう」
「受験生はきっちり食べろ」
 と、今度は菜々の頭を小突く。
「でも…」
「俺は駅前にでも…ほら、この前言ったうまいうどん屋の、里なかってとこで食べる。あんまり外食しないから、かえってチャンス…?」
「え、えへへ…」
 さっきまでの緊張した表情から一転して、少女が照れたように頭をかいている。
「……どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないですっ!お、お弁当ありがとうございました。絶対合格しますからっ」
 と、体育会系を思わせるきびきびした動作で走り去っていく少女。
「なんだろ?」
「さあ?」
 と、後に残されたのは不思議そうに首を傾げる兄妹2人。
 
「さて、自己紹介でもしていってもらおうか」
 温暖化の影響か、桜が咲く頃…ではなく散る頃、光一は2年生となり……菜々はなんとか、本当に何とかのレベルで合格、入学式を明日に控えている。
 『本人には内緒よ』と川田先生が教えてくれたのだが、下から2番目…ブービー通過だったらしい。
 光一は2年A組で……友人の柊に、後はちらほらと去年と同じクラスメイトが何人か。
 それはそうと、ここ1ヶ月程で光一の周囲が少しばかり変化した。
「相原光一です。部活は特にやってません…えーと、後は」
「シスコン」
 男子生徒の一人がぼそっと呟いた言葉に反応して、どっと、教室内に笑いが巻きおこる。
「ちょっと、相原君バカにしちゃダメだって言ってるでしょっ!」
 柊曰く、光一は例の一件をきっかけに有名人になったらしく。
「相原。妹さん合格したんだろ?良かったな」
「つーか、可愛いんだって?」
 やれやれといった様子で柊は肩をすくめつつ……それでも、話題の中心にいる光一をどこか温かく見守っている。
 おや、その隣でこれまた同じく光一を見つめている少女は……。(笑)
 
 そして次の日。
「あーっ!」
 元気いっぱいの声に菜々が振り返る……と、そこには入試の日に出会ったあの少女。
「良かった、受かってたんだ。しかも同じクラス」
 『受かってた』という言葉に微妙に引っかかるモノを覚えたが、菜々の手を取って喜んでいる少女には、あまり裏表があるようにも見えず。
「うん、あなたも…」
「私、里仲なるみ。なるみって呼んでね」
「あ、私は…」
「えへへ、良かったあ。あなたのお兄さんにちゃんとお礼言わないとって、そればっかり考えてて」
 にこにこと、ひまわりをイメージさせるなるみの笑顔をじっと見つめ、菜々はがしっとなるみの手を握りなおして言った。
「私は相原菜々…いいお友達になれそうだね、私達」
「うん」
 見るべきモノが見ればどこか危ういモノを感じただろうが……当のなるみは、まったくそれに気づくこともなく。
 校舎、グラウンドに分け隔てなく降り注ぐ日差しは柔らかく、吹き抜ける風はどこからか運んできた春の匂いを、どこかへと運んでいく…。
 
 
                   完
 
 
 むう、アニメが始まる前に何とかしようとしてたのに。
 情報を集めるために会話のマッチングに時間をかけていたのですが……結局途中で投げ出しました。
 何とかなるだろう……とは思うのですが、はてさて。   
 
 
 
 
 
 

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