夏の陽差しを和らげるように、時折風が吹いている。
 潮の香りを含み、妙に心を騒がせる風だ。
 肩越しに振り返ると、防波堤の向こうには砂浜が見える。
 およそ海水浴には不向きな、狭い砂浜である。このぐらいの風で波が高いところを見ると、ひょっとしたら遊泳自体が禁止されているのかも知れない。
 砂浜の反対側には、すぐ近くまで山が迫っている。丘、と呼べないこともない小さな山だが、山にはかわりはない。
 自然に囲まれた……といえば聞こえはいいが、俺に言わせれば、絵に描いたような見事な田舎街にしか見えなかった。
 俺は、バス停に降り立ったままの状態で、やはり貸し切り状態のような路線バスに乗ったのが間違いの元だったか、と深く反省する。
 知らず知らずのうちにこぼれた俺のため息を、海風が吹き飛ばしていく。
 ぐうううぅぅぅっ。
「むう。」
 自分の腹に手を当てた。
 そういえば、今日は朝から何も食べていない。
 もう一度ぐるっとあたりを見回した。
 田舎だった。
 しかも、自分の立っている場所は、街はずれだった。何もあるはずがない。
「……まあ、街の中心部なら、食物屋の1つや2つはあるだろ…。」
 俺はうだるような暑さの中、バス停を離れて、おそらく街の中心へと続くであろう海岸沿いの道を歩き始めた。
 照りつける太陽にアスファルトから放射される熱。
 ちょっとしたサウナにでも入っている気分だ。時折吹く風だけが俺の気分を唯一和らげてくれる。
 しかし、いつまで歩いても人がいるような場所に出ない。
 俺は暑さの中でふと思った。
 第一、路線バスというのは、普通街の中心まで続いているものじゃあないのだろうか?だとすると、俺が今歩いている道は間違っていて、誰もいない街外れに向かってとぼとぼと足を運んでいるだけなのか?
 かなりネガティブな思考に捕らわれつつあった俺の左手の方角に、学校と思わしき建物が現れた。俺はひとまず精神の安定を取り戻すことに成功する。
 さらに、俺が歩いている道の向こうには小さいながらも商店らしきものも見える。
 何となく心の余裕を誰かに見せつけてみたくて、俺はことさらゆっくりとその商店へと歩いていった。
「……何があるかな?」
 商店の中をのぞき込んでみると、どうも雑貨屋のようだ。隅の棚にはパンが売っているらしく、いくつか乗せてある。
 ……しかし、店番がいない。
「むう……平和な街だ。」
 その気になれば、店ごと盗めそうなところが田舎チックである。
 まあ、確かにここでパンを買う必要があるわけでもない。どうせ食べるなら美味いものを食いたい気分でもあった。
 食事できる回数は上限があるのだから、わざわざ貧しい食生活に甘んじるのは罪悪だという意見もあることだし。
「……そうだな。ラーメンセットなんかいいかもしれない。」
 冷房の程良く効いた店で汗を流しながらラーメンをかきこむ自分の姿が浮かび上がる。
 暑いときには熱いもの。誰が最初に言い出したのかわからないそんな言葉が、呪文のように頭の中で繰り返された。
「……いいね。凄くいい。」
 自己暗示にも似た考えに支配された俺の視界に、買い物かごをぶら下げたおばさんが歩いていく姿が目に入った。
「買い物かご…ってことは多分買い物に行くんだよな…向こうか……?」
 俺はおばさんの歩いていく方向に向かって一歩足を踏み出した。
 そのままおばさんの後をつけるようにして、照りつける陽差しの中を歩いていく。
 10分も歩くと商店街の入り口らしきもの見えてきた。
「まあラーメン屋があるかどうかはわかんないけど、とりあえず飯にはありつけるだろ。」
 のどの渇きが耐え難くなってきていたので、俺は目についた自動販売機を前にしてポケットの財布を探った。
 はて?
 俺は身体の埃を払うように手の届く範囲をぱんぱんぱんぱんと叩き続けたが、どこかにあるべき筈のふくらみが無い。
 俺はできるだけ冷静さを装いながら、人差し指を額にあてて考えた。
「バスを降りるとき金を払った……あのとき財布は確かにあったよな…?」
 うだるような暑さの中で、俺の頭は順調に回転を続けている。
「えーと5W1Hってやつだ・・。WHO(俺は)、WHERE(バス停からここまでのどこか)、WHEN(いつのまにか)、WHAT(財布を)、WHY(俺にもわからない理由で)HOW(落とした)……なにいいぃぃぃっ!!」
 事態はレッドゾーンである。
 俺は慌ててやってきた道を後戻りし始めた。道の左右に厳しい視線を繰りつつ、バス停まで戻ってきたものの財布は見つからない。
「交番!」
 道行くおばさんを捕まえて交番の場所を聞きただし、光の速さでそこに駆け込むが届け出は無し。
 ……あまりにも悲しい現実であった。
 せめてのどの渇きだけでもと、目に付いた学校の中に入り込んで水をがぶ飲みする。そして全ての気力を失ったように風通しの良い木陰を見つけてそこに寝ころんだ。
 動きたくない、考えたくない。
 それなのに、いろいろと考えずにはいられない。
「なんで旅行なんかする気になったんだ俺?」
 今時珍しい勤労学生として二年。
 後期の分の学費は既に稼いでいたので、他の学生達と同じように羽を伸ばしてみたかったのだ。
 もちろん、働くことは苦痛ではないが……
「こんな小さな街で雇ってくれるような所あるのかなあ?」
 ぐうううぅぅっ。
「……とりあえず寝よう。涼しくなってからどうにかするということで。」
 ひょっとすると、目が覚めたときには落とし物が届けられているかもしれない。
 そう思って目を閉じたところ、不意に校舎の方が騒がしくなった。時間的にも昼休みかなんかになったのであろう。
「……ま、いいや。」
 咎められたら、その時はその時だ。
 そう腹をくくって、そのまま居座ることにした。が、すぐに人の気配が近づいてくる。
「あら……先客かしら?」
 独り言とも、俺に聞かせるためとも受け取れる呟き。
 その落ち着いた口調は、女教師を思わせた。
 しかし、俺は一度決めたことは必ずやり通す男である。夕方になるまでは絶対にここからは動かないぞと、固い決意を込めて瞼をぐっとつぶった。自分が一体、何に対して意地を張っているのか分からない。
「……眠ってるみたいですね。お隣で静かに昼食をいただくことにしましょう。」
 昼食?
 ぐうううぅぅっ。
「……。」
 痛いほどの視線を感じる。今俺は間違いなく見つめられている。いかん、何とかごまかさなければ。
 ……いびき。そう、いびきということにしよう。
「……ぐ、ぐううううぅぉっぉう。」
 俺の顔をじっと観察でもしているのか、俺の頬の辺りを柔らかな毛先が撫でていく感触がくすぐったい。髪から漂う微かな香りは、何故か潮の香りがした。
「……鼾、なんでしょうか?」
 パーフェクトッ!!
 何故そこまでしてごまかさなければいけないのか?それは全くわからない。強いていえば俺の中のDNAがそうしろと叫んでいたとしか言う他はない。
 潮の香りに混じって卵焼きの匂いが流れてきた。間違いなく砂糖を混ぜた甘い卵焼きだ!賭けてもいい……賭ける金はないけど。
 ぐううぅぅぅっ。
「ぐ、ぐうううぅぅおっぉっ。」
 また視線を感じた。
 今回の鼾は少し失敗だったのかもしれない。ここは安らかな寝息でフォローするしかない。
「……あの…?」
 すうすう、すやすや。
 ぐううううぅぅぅっ。
 ふっ、……大失敗だ。
「ひょっとしてお腹がすいてるんですか?」
「いえ、僕はただここで眠っているだけです。どうかお気になさらないで食事を続けてください……これは寝言です。」
 困惑した雰囲気が感じられた。
 普通、こんな怪しい人間の隣で安らかに昼食を取れることのできる人間はまずいまい。それが出来る人間は、やはり怪しい人間だけであろう。
 ふうっ、と小さく息を吐く音がして、また落ち着いた声が俺の耳に届いた。
「今日は何か食欲がありません。ここにお弁当の残りをおいとけば誰かが食べて、お弁当箱は簡単に水洗いをすませてここにおいといてくれるに違いないですね。……これは独り言です。」
 そう言って立ち上がったのだろう。
 スカートかなんかの布がこすれる音が俺から少しずつ遠ざかっていく。
 これは何かの罠かもしれない。今、いそいそと起きあがったりすると眼鏡をかけた女の先生が俺の背後で睨んだりしてるに違いない。きっとそうだ。
 ぐうううぅぅっ。
「……もしもし?」
 返事がない。俺は思いきって目を開けた。背後を振り返る。誰もいない。そしてちょこんと日陰に置かれたままの弁当箱。
 僅か0.5秒。俺は田舎の人情を噛みしめながら違うものもまた噛みしめていたのであった。
 弁当箱を丁寧に水洗いした後、俺は考え込んでいた。ここに弁当箱を置いておけばいいとは言っていたが、それではあまりにも失礼にあたるのではないだろうか?人間は何も食わずにいると死んでしまう。とすると彼女は俺の命の恩人というわけであって・・。
「こんなところで何してるのお?」
 どことなく間延びしたような声に振り返ると、後ろにどことなく幼い顔立ちをしたショートカットの少女が立っていた。おそらくこの学校の生徒であろう。だが、俺の命の恩人とは違うようだ。
「・・・人を捜してるんだ。」
「あなた、この学校の人じゃないよね?あ、でも転校生かも・・こんな夏休みの直前に転校なんて大変だよね・・・。」
 人の話を聞かない奴はあまり好きじゃない。俺が黙っているとこの女はどんどん自分勝手に話しをすすめている。
「あ、私は霧島佳乃っていうのこれからよろしくね。」
「何をよろしくしろと言うんだお前は?」
 少女はきょとんと俺の方を見つめ、俺を指さした。
「クラスメイト・・。」
「いつ、だれが、お前のクラスメイトになったんだ?」
「これから、私と貴方がクラスメイトになるんじゃないの?」
 何かどっと疲れた。ひょっとするとこの少女の手首に巻き付いている黄色いバンダナから俺を疲労させる光線が出ているのかもしれなかった。いや、それ以前に黄色いバンダナということはこの少女が実は偽物だと言うことなのかもしれない。だったらどうしたというわけでもないが。
「そのバンダナ・・・邪魔じゃないのか?」
「前の学校は私服登校だったの?」
 だめだ、この少女とは話がかみ合わない。もう俺は適当に相づちをうつことにした。そうしてしばらくすると。ふとなにかを思い出したように少女の瞳が丸くなった。
「あ、私用事があったんだ・・。じゃあまた明日ね。」
 元気良く手首のバンダナをひらつかせながら走り去っていく少女を見送ると、さらに疲れが増した。自分が急に年寄りにでもなってしまったように思える。
 俺は服が汚れるのもかまわずにそのまま横になった。しかし、部外者が校内に侵入しているというのに何故誰も注意しに来ないのだろう。何となく田舎の人情ではすまされない気がするのだがいかがなものだろうか?
 ふと背中の当たりに視線を感じた。さっき感じた視線とよく似ている気がする。
 俺がその視線の方を振り向いてみると、おそらくその視線の元であった少女がぱたぱたと校舎の方に駆けていく姿が見えた。
「・・・まあ、あれが普通の反応だよな。」
 なぜだか、俺はほっとしたものを感じた。
 
 結局放課後になっても命の恩人らしき人物は現れなかった。もしかすると俺がいなくなるのを待っているのかもしれないと思い、俺は木の根本に置いた弁当箱に向かって深々と頭を下げてから学校を後にした。こんなことならすぐに仕事を探しに行くんだったと内心では後悔しつつ。
 狭い街だけに一通り聞いてまわるのにもほとんど時間はかからなかった。やはり、こんな田舎街にそうそう都合のいい仕事が転がっているわけはない。俺は時々思いだしたようにため息をつき、堤防に腰掛けたまま赤く染まる海をみつめていた。
 寄せては返すゆったりとした波の動きに、俺はうつらうつらしている自分に気付く。が、眠っているでもなく目を覚ましているでもないそんな状態が妙に心地よく、そのままの状態で無駄に時間をつぶしていた。
「海が好きなんですか?」
 背後から声をかけられて目が覚めた。奇妙な程他人に警戒心を抱かせない静かな声だった。心地よい状態を破られたというのに腹もたたなかったのはそのせいか・・。
「・・そう、見えるのか?」
「どちらかといえば、他にやることがないので仕方なくそうしているように見えます。」
「手厳しいな・・。」
「気にさわったならごめんなさい。」
 どこか浮世離れした物言いに、俺は思わず後ろを振り返った。
 薄い水色のリボンにまとめた長い髪を風になびかせ、少女が俺に向かって軽く微笑んだ。昼間学校の中で出会った少女と同じ制服。生まれながらにカリスマの高い人間が希にいるらしいが、この少女がそういった類の人間かもしれないと俺は思った。それでいてどこか存在感が希薄で、人間臭さを感じさせない佇まいが俺の視線を釘付けにする。
「お隣、よろしいですか?」
 少女はそう言うと、座るところならいくらでもある堤防の上だというのに、わざわざ俺の隣に腰をかけた。それも俺の返事を待たずして・・別に断る理由もないが。
「この街はどうですか?」
「今のところ最悪と最高が五分五分と言うところだ・・。」
 いきなりの質問がこれだ。まあ、狭い街ということだろう、この少女にとって街の人はみな顔見知りといったところか・・・。
「学校でお弁当貰ったのはどっちなんですか?」
「……見てたのか?」
 俺は思わず少女の顔を見つめた。
「知っているならあれが誰だか教えてくれ!お礼も言ってないんだ。」
 少女はというと、少し驚いたような表情で俺の目をみつめていた。
「お知り合いの方ではなかったのですか?」
「名前はおろか、顔も見ていないぞ・・。」
 今になって気がついたのだが、この少女は喋るときに口をあまり動かさない。慎み深いというか、おそらく小さい頃からしつけられた礼儀作法の一種なのであろう。俺にそう思わせるだけの上品な雰囲気をこの少女は持っていた。少女の人間臭さの希薄さはそのせいだろうか。
「卵焼きはおいしかったですか?」
「絶品だったな・・・。」
 砂糖を入れた卵焼きは火加減が難しいのだが・・・・・・・・?
「・・・・・本人・・・じゃないよね?」
「残念ですが違います。遠野美凪さんという私のクラスメイトが犯人です。」
 確かにこの少女はあの時の恩人とは声が違う。あの時の様子をどこからか見ていただけなんだろう。しかし、犯人という表現はいかがなものかと。
「あら、申し遅れました。私は神尾一鈴(いすず)と申します。」
「国崎空人(くうと)だ。今は大学生と旅人さんの二足の草鞋をはいている。」
 必要もない軽口を多用してしまうのは、目の前のこの少女の持つ雰囲気に馴染めなかったせいかもしれない。
「その旅人さんが何故こんなところでぼんやりと背中を丸めて海をご覧になっているのでしょうか?」
 見かけや言葉遣いと違ってきっつい少女である。悪気はないのだろうが、おそらく良心もなく好奇心のままに質問を投げかけてきているだけに質が悪い。
「・・・海が好きなんだ。」
「好きなものを眺めながらため息をつかれる癖がありますの?」
「頼むから、軽いボケに対して真顔で話を続けないでくれ。」
 困惑する少女の顔つきからしてどうも意味が通じていないらしい。多分彼女はこの田舎街の素封家の娘かなんかで大事に育てられた上に、テレビのチャンネルはNHKしか入らないのだろう。
 不毛な会話を続けているうちに夕焼けの赤が濃くなった。そろそろ野宿の場所を探さなければ。砂浜は湿気がくるから・・・やはり学校が無難なところか。
 ぐうううぅぅっ。
「・・・カモメが鳴いているな。」
「カモメはそんな声で鳴きません。」
 ざ・ざーん。
「波の音かもしれないな。」
「波の音ならもう少し叙情的な音色を奏でます。」
 何故か無性に腹が立ってきた。しかし、世間知らずのお嬢さん相手に言葉を荒げるのも大人げない話である。俺は少女を無視するようにして荷物を背負い歩き出した。
「明日、お弁当作って学校で待ってますね。」
 ぴたっ。
 明日まで我慢しろと言うのか?・・・じゃなくてどういう会話の流れでそうなるのか?・・・まあ、俺は女でもないし高校生でもない。理解しようとは思わないが、とりあえずただで飯を食わせてくれるというなら行ってみてもいいと思った。
「約束はできないぞ。」
「その時は私が2人分食べればいいだけです。」
 目元を伏せながら涼しげにそう答えた少女を見て、俺は一層認識を深めた・・・・変わった奴だ、と。
 
 幾分すごしやすくなった風を背中に受けながら、ぶらぶらと辺りを見てまわる俺は間違いなく不審人物である。そうしているうちに、気がつくと広場のような場所に出た。
 駅?・・・だとすると野宿には最適だが、どこかおかしい。この時間帯に人の姿のない駅なんて・・・?
 と、構内をのぞき込んで全ての疑問は解けた。赤字路線の廃止路線というわけだ。
 成長に取り残された街というとどこか澱んだ空気があるように思うのだが、この街は空気が入れ替わりもしないのに妙に澄んだ空気に支配されているように感じる。・・・ただ単に自分がこれまで空気の澱んだ世界で生きてきただけで、まだまだ各地にこんな街が点在しているのかもしれない。
 奇妙な感慨に耽っていた俺の鼻先にシャボン玉が1つ飛んでくる。つい反射的に手を出してしまうとそれはぱちん、と音をたてて割れてしまった。
 すたたたたたたたたっ。
 ふと嫌な予感がして俺は軽くサイドステップをきざんだ。
「にょっ?」
 がさささっ。
 さっきまで俺がいた場所を走り抜けるようにして草むらの中に突っ込んだ女の子は、その草まみれの顔を拭うこともせず俺の方を振り返り、じっと俺の顔を睨みつけている。
「なんで壊したの?あれから風に乗ってぴゅーって高く舞い上がるはずだったのに!」
 ああ、そういうことか・・。
「いや、ひとりぼっちで空へ行かせるのはかわいそうだったからな・・。」
「・・・んに。」
「やっぱりシャボン玉はたくさんの仲間と一緒に空に飛ばさないと。」
「うん、そうだね。1人は寂しいもんね」
 すたたたたたっ。
 むう、なんて素直なガキなんだ。これじゃあ俺が単なる悪者みたいではないか。いや、大人というのは子供に社会の汚さを教えてやらなければいけない義務があるからこれでいいんだ。
 無理矢理自分を納得させた俺の目に、何度も何度もストローをくわえてはその度石鹸水で顔をべたべたにしている女の子の姿が映った。
 先に何の細工もしていないストローで、大きなシャボン玉を作ろうとするのが間違っているのだが、そこらへんは己の身体で覚えさせるのが真の教育であろうと思い、口出しするのはやめておくことにした。
 個人的には夕焼けの赤と夕暮れの蒼が入り混じるこの時間帯の空を、ふわふわと舞い上がるシャボン玉の大群を見てみたい気もあったのだが・・・あの不憫な女の子ではそれも叶うまい。
「だめだ・・・姉さんお願い。」
 なぜだか知らないが、確信に近いものがあった。姉さんと呼ばれた少女の姿を見た瞬間に悟っていたように思う。
 ストローを受け取った少女はその直径に逆らわない大きさのシャボン玉を無数に空に舞い上げていく。周囲の風景にとけ込むような彼女の姿は、決して存在感が希薄というわけではなく、周囲との完全な一体感によってもたらされたものであった。
 言葉を見失うような光景の中で、空高く舞い上がっていくシャボン玉を見つめる彼女の瞳がそんな呪縛を解き放ってくれた。何かに対する憧れ、そしてそれが自分の手には入らないというあきらめの入り混じった寂しい瞳だった様に思う。
「・・・すいません、遠野さん・遠野美凪さんですか?」
 あまりに唐突だったのかもしれない。彼女は困惑したように俺の顔を眺めている。
「・・・・エスパー?」
 ・・・この街にはどこかずれた奴しかいないのだろうか?
「えーと・・・昼にお弁当くれたの君だよね?一言お礼が言いたくて・・。」
「お礼・・?」
 少女はポケットから何やら取り出すと俺の方に紙切れを差しだした。確認してみれば全国共通お米券である。主婦のみなさんも大喜びの一品だ。
「何故そうなる?」
「足りませんか?」
 まあ、貰えるものは貰っておこう。
「・・・・ただ単に俺はありがとうって言いたかっただけなんだが。」
「普通こんな時はまず感想を述べるものです・・。」
 この街で普通が通用したことがないような気がするのは気のせいだろうか?
「美味かった。」
「おそまつさまです。」
「ねえ美凪姉さん、この人だあれ?」
 いつの間にか、さっきの不憫な女の子が少女の顔を見上げていた。
「えっ・・・と、田中権左右衛門さんです。ほら、みちる。ご挨拶は?」
 ゴ・・・!いや、相手にするのはよそう。
「あのね、みちるはみちるっていうんだよ。」
 しかし、この2人が姉妹なのか・・。神様というのも酷なことをなさる。
 きんっ。
 身体が小さいだけに、下からすくい上げるような蹴りは東京ドーム三杯分の威力をもって俺の背筋を駆け抜けていった。
「この人、凄く失礼な想像してた気がする。」
 俺は強靱な精神力で股間を押さえて飛び跳ねるのを我慢していたのだが、端から見ればやせ我慢以外のなにものでもなかったであろうことは想像に難くない。体の中に何かが侵入してくるような、それでいて体の中から何かが出ていきそうなあの感覚がはげしく俺を襲っているのだ。今こうして立っていることだけでも奇跡に近い。
「すいませんでした。あの・・大丈夫ですか?」
「・・・そ・う・・見えるのか?」
「時間が全てを解決するように思います。」
 恐ろしいぐらいの正論ではあるのだが、この場合少し正しくない様な気がするのは俺の気のせいだろうか?
「それでは、私達はこれで失礼します。」
 少女とくそガキがぺこりと頭を下げて立ち去っていく。俺は十数分もそうして脂汗をながしていただろうか。やがて悪魔の鈍痛から解放されると、この駅を今夜のねぐらと決めて準備を始めた。元々宿に泊まる様な豪華な旅の予定だったわけではないから特に問題はないといえばない。
 いろんなことがあったが、今のところ、この街の印象は最悪が一ポイントリードというところである。
 ただこの街を歩き回っているうちに気になることが1つあった。そう広くもないこの街で見つけた学校は1つ。それは今日出会った遠野達が通っている高校であるのだが・・・普通、高校があるなら小学校や中学校があるものではないだろうか?日本の教育制度からして地域毎に小・中学校があるはずなのだが見あたらない。・・・不思議な街である。
 
 目を覚ますと空が白み始めていた。
 あちらが東の方角だとすると、どうも俺は北枕で寝ていたらしい。どうりでこんなに腹が空いているわけだ。・・・いや、関係ないか。
 結局、昨日俺が口にしたのは遠野に貰った弁当だけ。しかも小さくて可愛いお弁当箱は中に入る量もそれなりだったから仕方あるまい。
 時間は・・・5時前というところか。昨日、一鈴とかわした約束が有効ならば後7時間経たないと確実に飯にありつくことはできないということか。とはいえ、成人式も済ませた大人として自分の食い扶持ぐらいは何とかして見せよう。
 ・・・・・・そうした今朝の決意もむなしく、俺はとぼとぼと学校に向かっていた。俺が余所者だからというわけではなくて、小さい街だから仕事がないだけの話である。隅から隅まで探せばそうでもないのだろうが、そこは余所者としての悲しさと時間の無さ故で、仕方のないことかもしれない。
 誰に注意されることもなく校門をくぐり、昨日遠野と出会った木陰へと腰をおろした。無防備なのはこの学校だけでなく、この街全体がどちらかといえば無防備なのかもしれなかった。
「約束・・・覚えててくれたんですね。」
 しかし、一番無防備なのはこの少女かもしれない。人・・という存在を善なるものとしてしか捉えていないのだろう。できることなら、このままこの街でひっそりと暮らす方が彼女にとってはきっと幸せだろう。
「・・・・他に飯を食えるあてがなかっただけだ。」
「・・・商店街に行けばお店がありますけど?」
 相変わらず悪気がない質問だけにきつい。俺はとても正直なところを答える気になれなくて黙っていた。
 俺の沈黙を好意的に解釈したのか、一鈴はやわらかく微笑んだ。
「やはり私の約束を守ってくれたんですね。」
「・・・そういうことにしとくか・・。」
 喜んでくれているのだからわざわざ訂正する必要もないだろう。俺はそう思って鷹揚に頷き、一鈴の敷いてくれたシートの上に腰をおろす。
 ふと、背後からためらうような気配を感じて振り向いた。
「あ、ごめんなさい。失礼します。」
 逃げるようにして校舎の方に走っていくのは遠野だった。昨日の口振りからしていつもここで昼食を取っていたのだろう。そんな場所にクラスメイトと正体不明(?)の男が2人して座っていたら・・・・気まずいよな。
「遠野さん・・・どうしたんでしょう?」
「いつもの場所が占領されていたから・・・じゃないか?まあ、逃げることはないと思うが・・・友達なんだろ?」
 俺が何気なく話した言葉に反応したのか、一鈴は目を伏せて少し寂しそうな目をした。彼女のそれだけの仕草でも俺の心に軽い罪悪感がわき上がる。
「私・・・あまり友達と呼べるほどのつき合いをしている知り合いっていないんですよ。みんな少し私を避けているみたいで・・。」
 一鈴を避けるみんなの気持ちもわからないではない。本人が気付いているかどうかはともかく、これだけ他人を圧倒するような上品な雰囲気を身にまとっていたら大概の人間は尻込みするだろう。後、これは今理解したのだが、彼女の感情の発露は周囲を確実に巻き込む。誰だって気疲れするような相手と積極的に親しくしようとは思わないだろう。
 そう言えばスケールこそ一鈴に比べれば小さいものの、遠野にもそんなところがあるかもしれない。
 俺は思ったよりも地味目の弁当に箸を付けた。
 美味。
 細胞の1つ1つにグリコーゲンが配達されていくのを感じる。今の俺にとって味は二の次なのだが、この弁当はまあ上手に作られていると思う。
 黙々、もぐもぐ、黙々、もぐもぐ・・・。
「あの・・たくさん食べてくださるのはいいんですが、せめて感想の一言ぐらいはいかがなものでしょう?」
「美味。」
「・・・それはどうも。」
 俺の食べっぷりが感想になっていることに気がついてくれたのか、一鈴はただ静かに微笑んだまま俺がもりもりと弁当を平らげていくのを眺めていたようである。
 心地よい風が俺の頬を撫でていく。
 やはり腹さえ減ってなければ人間というのはこれほどまでに心豊かになれるのだ。俺は風の中に含まれる潮の香りを感じながらそう思った。
 と、空っぽになった弁当箱をそそくさと片づけていた少女が唐突に話しかけてきた。
「ところで・・・国崎さんは鶴の恩返しというお話しをご存じですか?」
「・・・確か命を助けて貰った鶴が、毎晩小魚やたにしとかを家の裏口に置いていくお話しだったか?」
「・・・・・初耳です。」
「だろうな。俺も初めて聞いた。」
 どうやら俺は少女の善意というものを見誤っていたらしい。一体俺に何をさせようと言うのだろう・・・。
 
 目の前にはこぢんまりとした砂浜があり、右手の方を眺めれば俺がこの街へとやってきたバス停がある。
 そして俺はと言えばこうして一鈴と並んで堤防に腰掛け、沈みゆく夕陽をぼんやりと眺めているだけ。
 もう二時間以上もこうしていたが俺達の間に会話はない。時折俺の左手に座る少女の様子を窺うと、楽しげで・・・それでいて遠い目をしていた。
「・・・あのバス停がこの街の唯一の入り口なんですよ。」
 あまりに長い間波と風の音を聞いていたためなのか、俺にはしばらく話しかけられたということがわからなかった。
「・・・そうなのか?」
 俺はそう呟いて背後を振り返った。
 小さな山があるが、あそこには道が通っていないのだろう。成長とは無縁の行き止まりの街・・・ということか。
「唯一の入り口か・・・ま、唯一の出口でもあるわけだな・・。」
「・・・そうかもしれません。」
 少女はそう呟いて赤い空を見上げた。
 こういう閉鎖された街にすむ人間に特有の外界への憧れや恐怖があるのだろう。俺は彼女の横顔を眺めながら、ふとこの少女はこの街以外では生きていけないような気がした。
 無論そう思ったのは一瞬のことで、彼女が微笑みながらこちらを振り返ったときにはその考えは既にどこかへと消えてしまったのだが・・・。
 少女はスカートの裾を払いながら立ち上がると、俺の顔を見ないでこう宣言した。
「じゃあ国崎さん、行きましょうか?」
「・・・・恩返しはいつまで有効なんだ?」
「・・・ごんぎつねって悲しい物語だと思いませんか?」
 ・・・・・まさか、俺を殺すつもりなのだろうか?
 まあ、両親や親戚のいない俺がどこで死のうが、地球はのんきに回転を続けていくだろうから問題がないと言えばないかもしれない・・。
 いつ死んだっていい・・・だか納得のできない死に方はごめんだ。
「飯さえ食えたらどこでも行ってやる。」
 そう呟くと、少女は俺の方を振り返り、何か言いにくそうに口を開いた。
「国崎さんは・・・・無一文ですよね?」
 ・・・ですよね?・・・何故断定するのだろう。
「・・・何故そんなことがわかる?」
「だって・・・今日はバスが来ませんもの・・。」
 少女はそう呟いて、バス停の方を指さした。日焼けとは無縁の白い腕がにゅっと俺の目の前に突き出され、その透き通るような白さに訳もなくどきどきしてしまう。
 ・・・どきどきしてる場合じゃなくてもう一度考えてみた。
 ダッテキョウハ、バスガコナイ・・・。
 まるで異国の言葉のような響き。
 俺の人生の中で知り得たどの理(ことわり)にも当てはまらない。
 そんな俺の当惑に気がついた風もなく、少女は長い髪を風になびかせながらにこっと笑った。
 俺は昨日もこんな光景を見ていた気がする。
「今日は私の家に来ますか?・・・多分野宿よりはましですよ。」
「断る。お前のお父さんに殺されたくはない。」
「私にお父さんはいませんよ。」
「・・・どこか浮世離れしていると思ったら、人間じゃなかったとはな。人間長生きはしてみるものだな・・。」
 重い話題になりそうだったので、不謹慎は承知で敢えて冗談交じりにそう答えると少女は口元でくすっと笑った・・・様な気がした。
「そうですね・・・。」
 ・・・素で返されるとこちらも困ってしまうのだが・・・。
「そうだとしても、若い女のいる家に俺みたいなのがのこのことやっかいになれるわけがないだろう・・・。」
「・・・そうですか?」
 そう言いながら少女は首を傾げた。
 
 のこのこ。(笑)
 むう、どうやら素封家のお嬢さんという予想は大幅に外れていたようだが・・・。
 きょろきょろと落ち着き無く家の中を見渡す俺の様子に気がついたのか、少女は口を開きかけた俺の機先を制してその疑問に答えてくれた。
「母・・・と二人暮らしなんです。帰ってくるのはいつも夜ですから・・。」
 それを聞いて俺は遠慮なく夕飯を頂いた。
「・・・1つ聞いていいですか?」
 親が死んでも食休み、の最中に少女が言葉と表情の両方でそう問いかけてきた。
「・・・答えられることなら。」
「国崎さんは・・・どうやってこの街に来たんですか?」
 バスに乗って・・・と答えかけて俺は口をつぐんだ。元々この街にそれ以外の交通の手段がないのはわかっている。
 それに、どうしてこの街に?と言う質問ではないことが俺の気にさわった。
「・・・さあな、なんとなくここにたどり着いていた。」
 俺は少女の笑顔を初めて見たように思う。今までもこの少女が笑ったところを見たことが無いというわけではないのだが、今の笑顔に比べればこれまでの笑顔は全てまがい物のような気がした。
「・・・何故笑うんだ?」
「さあ、何故でしょうね。」
 それきり俺達の間から会話が途絶えた。そのせいで余計な緊張感が生じたためか、俺はどうにも耐え難くなって、少女の家を後にした。
 1人だけ仲間はずれにされているような感覚。実際ここでは俺だけが余所者なのだから当たり前のことなのだが、なんというかそれよりも深いレベルでの仲間はずれ。そんな気がしてならない。
 結局、今日もまた駅舎で野宿しようと思ってそちらに向かって歩いていった。
「おーい、権左右衛門!」
 今の時代にそんな名前を付ける親の顔が見てみたいと思いながら、俺は声のした方を振り向いた。
 そんな俺を見て、ぺこりと頭を下げる美凪とぶんぶんと手を振り続けるみちる。
 ・・・つまり権左右衛門というのは・・・
「誰が権左右衛門だ!」
「そうよ、みちる。目上の人に向かって呼び捨てにするなんて・・」
「突っ込むところはそこかいっ!」
 エキサイトする俺の顔を美凪とみちるは不思議そうにみつめていたが、やがて同時に口を開いた。
「じゃあ、田中さん。」
 
 じーわじーわ、みーんみんみんみん。
 蝉の大合唱である。まあ、短い夏を謳歌していると思えばあまり腹もたたない。
 いいかげん女子高生にご飯を恵んで貰う野良犬のような生活からおさらばするために、俺は再び商店街の方へと歩いていった。
 ふと、俺の目にある男の姿が止まった。俺がその男に気がついたように、むこうも俺のことを見つめているようである。
 どこから見ても会社員である・・・ただ、場違いなことこの上ない。
 やがてその男と俺は向かい合わせの位置に立って、お互いを値踏みするように眺めあっていた。
「・・・あんた、一体何者だ?」
 ぶしつけにそう聞いてみた。
 この街のどこにスーツを着て働くような場所があるというのか?うだるような暑さの中で汗1つかかずにきっちりとネクタイを締めているような人間がいてたまるか。
 何よりも気に入らないのは、この男が俺に対しておそらく悪意を持っていることだ。ある意味人間らしい感情をこの街に来て初めて感じたとも言えるが、俺の価値観の中で普通ではないこの街の中に普通の人間がいること自体何かが狂っているに違いない。
「・・・何者と言われても・・・橘敬介、と答えても納得はしてくれないだろうね?」
「俺は国崎空人だ。で、俺に何か言いたいことがあるんだろう?」
 腹の中を探り合うような回りくどい会話は好きじゃない。
「神尾一鈴・・・彼女には近づかない方がいい。いや、既にこういう言い方は適切じゃないかな。そうだな、・・・これ以上彼女を悲しませるようなことをしない方がいい。」
「・・・すまない、何のことか訳が分からないのだが?」
 男は悲しげに口元をゆがめると、黙って空を見上げた。
「今は説明できない。・・・少なくとも今は、ね。」
 多分俺はとても情けない表情をしていたのだろう。男は何かに気がついたように再び口を開きかけて・・・そのまま閉じた。
「私は単なる監視者であってね、それ以上の権限はないんだ。」
「・・・大丈夫か、あんた?」
 俺はこの男の事を本気で心配して声をかけたのだが、男はその言葉を遮るようにして俺にこう言い残して去っていった。
『この街を出ていこうとしてごらん。・・・もし出られたなら二度と戻ってこないことだね・・・まあ、無理とは思うけど。』
 バス停を前にして、男の言い残した言葉をもう一度繰り返してみた。
「・・・出て行くも何も金もないし、第一バスが来ねえじゃないか。」
 自分の呟きを耳にして一瞬目の前の景色が揺れた様に感じた。
 ・・・バスが来ない?
 俺は自分の荷物を肩に担ぎなおして、目の前に伸びている道の向こうを見つめた。
 何の変哲もない、海岸沿いの道路。
 ・・・この道を行けばこの街を・・・
 そうして、俺は一歩を踏みだした。
 じりじりと真夏の陽差しに照らされながら、俺は黙々と歩き続ける。一歩歩くたびに俺の心の中の疑念は確信へと変わっていく。
 そして俺は歩くのをやめて後ろを振り返った。
 俺は目の前に広がる光景に見てため息をつくと、バス停の側を通り過ぎて堤防に腰をかけた。そして何気なく横を見ると、そこにはあの男がいた。
 ネクタイが海風にあおられてはためいている。空の彼方を見つめているような男の横顔はどこか寂しげで、ひどく不釣り合いな感じを受けた。
 男は一度だけ俺の方を振り向くと、口元に小さな笑みを浮かべてそのまま去っていた。
 そして1人取り残された俺はただぼんやりと海を眺めているだけだった。
 そして夕焼けが海を赤く染める頃、少女は再び俺の前に姿を現した。
「こんにちは、国崎さん。」
「・・・?」
 俺はあらためて目の前に立つ少女を見つめた。
 今日の少女は妙に明るい。・・というより、妙に人間くさい。そう思って俺は自分の考えに苦笑いした。
 その考えは少女を人間ではない存在として捉えていることなのだから・・・。
「一緒に遊びませんか?」
「・・・遊ぶ?」
 俺は無機質な声で繰り返しながら、なんとなく辺りを見渡した。
 絵に描いたような田舎。おそらく俺の考えているような遊びという概念はこの少女の中にはあるまい。
 しばらくして、砂浜に腰をおろした俺がぼんやりと見つめる中で、少女は波打ち際で波と戯れていた。
 その一見無邪気な少女の笑顔はどこか無理をしているように見える。
「国崎さんも一緒にどうですか?」
 そう言われて俺は頭の中でその光景を想像してみた。
 ・・・それはすげえ恥ずかしいのでは?
 しかし、俺の身体はそんな思いとは裏腹に立ち上がっていた。何か予感めいたものがあったのかもしれない・・・。
 この少女とこうして遊ぶのは最初で最後だという予感が・・・
 
 あたりは既に真っ暗であった。
 ろくに街灯もない田舎では、月明かりだけが光源になる。
 堤防に腰掛けた俺の肩にもたれかかるようにして、少女は小さな寝息をたてていた。はしゃぐだけはしゃいで疲れて寝てしまうとは何ともお子さまである。
 安心しきったような少女の顔を見つめながら、俺は夜風を頬に受けている。
「・・・さて、いつまでもこうしているわけにもいかんのだが・・・。」
 俺がそう呟くと少女は目をぱっちりと開けてどこか幻想的な口調でこう呟いた。
「・・・あなたがいつまでもこうしていたいならそれでもかまいませんよ。」
「・・・また明日があるだろう?」
 かなり心が動いたのだが、俺は敢えてそう呟いた。我ながらどこかむなしい響きだったように思う。
 少女はしばらく黙ったままで何か言いたげに俺の顔を見つめていたのだが、やがて何かをあきらめたように小さな、本当に小さなため息を吐いた。
「・・・私、母と約束してたんです。誰かを好きになりかけたら帰ってきなさいって。決して誰かを愛してはいけないと。」
 少女は堤防の上に立ち上がると、ゆっくりと水色のリボンをほどいた。
「・・・だから、私帰ります。」
 月明かりに白く照らされた少女の姿を俺はどこか惚けたように眺めていた。身動き1つできない中で、少女は俺の手にリボンを握らせると俺の方にかがみ込んだ。
 今時、中学生でもやらないようなへたくそなキスの後、少女は悲しげに呟いた。
「さようなら・・・追いかけてこないでくださいね。」
 そして彼女は闇の中にとけ込むようにその姿を消した。
 少女が姿を消した闇を見つめながら、俺は何故か涙が止まらなかった。
 俺は何か間違ったのだろうか?
 たとえようもない喪失感の中で俺は次の日の朝を迎えた。
 
 目の前に広がる光景。
 荒れ果てた土地と明らかに住む人間のいない事がわかる空き家がところどころに建っている。
 無意識に俺がズボンのポケットに手をやると、そこには無くしたはずの財布がある。そして彼女がくれたリボン。
 ふと気配を感じて、俺は後ろを振り返った。
「これが、あなたの選択ですか?」
 相変わらず一分の隙もない会社員のような格好をした男が俺を見つめていた。
「・・・彼女は・・?」
「旅立ちましたよ・・・今頃は、世界の中心に向かって歩いているところでしょう。」
 俺の表情に気がついたのか、男は言葉を続けた。
「世界の中心と言っても、あくまであなた方の観点からのお話ですがね。」
 そうして男は、一旦視線を地面に落とした。
 まだ何か言いたげな素振りが、俺の神経に障る。
「それで?」
「それで、とは?」
 男は顔を上げようとしない。
 影になって見えないが、その男が笑っているように思えた。
「まだ何か言いたいことがありそうだが…?」
「あなたが聞きたいことは無いんですか?」
 たくさんあった。
 ありすぎて分からないぐらいだが、そのほとんどは彼女についての質問だ。
「彼女は……人間か?」
「あまり意味のある質問とも思えませんが……答えはノーです。」
「彼女は…いや、一鈴は、一鈴なのか?」
 男はやっと顔を上げた。恐ろしいぐらい無表情で、人間くささを微塵も感じさせない顔を。
「ええ、彼女はあなたの知っている彼女です……今のところは。」
 男は方頬を歪めて笑った。
「世界の中心へと続く道は……誰でも通り抜けられるような道ではありません。こちらの世界で得たあらゆる想い出を絶望へと変換する小道ですよ。彼女を喜ばせれば喜ばせるほど、その道は苦難に満ちたものとなるでしょうね。」
 俺は男の胸ぐらを掴んで揺さぶった。今頃になってそんなことを淡々と話すこの男に対して無性に腹がたって仕方がなかった。
「最初に言ったはずですよ、私は観察者にすぎないと。私はあなたに選択肢を与えるだけ、あなたは決断する。それだけのシンプルな関係に過ぎません。」
 俺は男の身体をそのまま突き飛ばした、が男は軽やかにバランスを取ってこちらを楽しそうに眺めている。
「そんなに怒ることはないでしょう?少なくともこれまでのあなたの選択はこの世界の歴史を継ぐという点で間違ってはいないのですから。」
 男の何かを含むような口調に俺はふと冷静さを取り戻した。
 これまでの選択・・・追いかけてこないで・・・
「・・・なるほど、つまりまだ終わりではない・・要するに彼女の後を追う方法があるんだな?」
 男は軽く肩をすくめて首を振った。
「聡明でいらっしゃる。でもそれが、あなたの選択ですか?・・・いいでしょう。ただし、絶望の小道は『人であることを捨てる道』でもありましてね。当然、あなたにも絶望が襲ってきますよ、それでもいいんですか?」
 
 世界には様々な宗教が存在しているが、それらの宗教哲学の多くには奇妙な共通点がある。
 自らの存在するこの世界の中心というものを追い求める考えである。もちろんその場所は宗教によって違う。
 例えば、世界の中心ということで有名な話といえば『世界樹』であろうか。世界の中心において存在しているこの大木は、過去・現在・未来を司る存在として北欧神話等で耳にした方も多いと思う。
 ただ、この世界樹の伝説は世界の各地で語り継がれている話であることはあまり知られていない。
 世界の中心を求める心情と、その中心に存在するモノとして身近な存在である樹を考えたという偶然なのか、それとも時を司る世界樹に何らかの形で関わった存在が世界のあちこちに生きていた証明なのかはわからない。
 ただ、確実にその世界の中心に向かって歩き続ける少女の姿があった。
 世界の中心には少女の母がいる。
 伝説としては多少形が違うが、この世界の時の流れを司ると言う点ではおそらく寸分違わない存在である。
 そしてその存在は決して不死ではなく、あらゆる生物の常と同じくして親から子へと命を継ぐ。
 母の見守るべき千年という時は残り僅か。新たなる千年の時を迎え入れるため、少女は世界の中心へと向う。
 その使命とともに与えられた力は絶大である。いや、力が絶大だったからこのような使命を与えられたのかもしれない。
 世界の全てを見守るべき存在が、1人の人間だけを見守る訳にはいかない。それはこの世界の歴史の終焉を意味している。
 少女は一度だけ後ろを振り返ると、その小道の中へ足を踏み入れた。
 
 小さな山の上には、誰も訪れたことのない様な小さな社があった。
「・・・ここが、彼女の進んだ・・空のかなたへの入り口ですよ。」
 男は楽しそうに笑いながら俺にそう告げた。
「・・・そうか。」
 そう言って歩きかけた俺の肩を男が一旦押しとどめた。
「千年に一度のこの世界の選択・・・あなたが選ぶのはどの選択なんでしょうね?」
 俺は押し黙って、男の手を払いのけた。
「・・・自分の信じる道を行きなさい。つまるところ後悔無き道などこの世には存在しないのですから。」
 男はそう呟いて、姿を消した。そしてその光景を素直に受け取れる自分がそこにいた。感性というものがここ数日で麻痺してしまったのかもしれない。
 なぜ、こんなばかげたことをしているのだろう?
 そんな考えが一度だけ俺の心に浮かんだ。
 それでも何故か自分の心を止められない何かがあった。間違いなく自分の意志でそう決めたはずなのに、何者かによって自分の心そのものが操られているような気分。
 深く深呼吸して目を閉じると、暗い瞼の向こうに見えるのは少女の笑顔。
 深い意味はない。
 ただ、それで自分自身を納得させられるなら何でも良かった。
「・・・さて、と。」
 俺は朽ちかけた社の扉を開いてその中へと足を踏み入れた。
 
 空のかなた。
 あの男はそう言った。
 しかし、俺には上に登っているという感覚はない、といっても下ってるという感覚もない。暗闇の中をどこまでも続いている、見た目は平坦な道をただ歩んでいるだけ。
 ただ、わかっているのは長い道程になりそうだという事だけ。
 自分がどれだけの長い間歩き続けていたのかわからなくなった頃、暗闇の中から呼び止められた。
「・・・お待ちなさい。今あなたが踏み入りし道は絶望の小道。あなたは本当にその事を理解した上でこの場所に立っているのですか?」
「難しいことはわからん。俺は・・・・多分もう一度一鈴が笑っているところを見たいだけだと思う。」
「・・・・・・」
 闇の中で沈黙を続ける存在からどこか困惑したような雰囲気が感じ取れた。
「・・・ならばこのまま帰るのが最善の道。娘は今、世界を受け入れるための試練を受けている最中。既にそなたの知る娘とは全く別の存在となりつつあります。もはやそなたの知る娘ではありません。」
 ・・・別の存在?
「娘が過ごしたあの街は人の悪意が存在しない街。今、娘は人の持つあらゆる思念を経験している最中です。」
 妙に人間くささの欠けたあの街の異常さがこれで少し納得できた。
「・・・何故?」
 何故そんな経験をする必要がある?
「我ら、この世界の中心にあって全てに対して愛を捧げる存在。そのためには全てのの存在を許すだけの寛容さが必要。」
 ・・・・大した言われようだ。つまり、人という存在は世界で最も醜いという訳か。
「・・・つまり、この『絶望の小道』とやらで一鈴は人間の醜い部分を繰り返し想い出という形で経験させられている訳だな?」
「・・・・察しがいい。これでくどくどと説明する手間が省けます。」
「その試練に耐えられない場合は?」
 俺としては当然そのケースはどうなるのか、と言うことが気にかかる。このような儀式が前からおこなわれていたとすれば、それは時折その資格を持たないものがいた証明でもあるはず。
「・・・この千年の歴史は全て白紙に戻される。」
「・・・白紙?」
「そう、白紙です・・・後継者の育たぬ歴史、それは歴史の袋小路。それを破棄しない限り二度と歴史は前には進みません。」
「これは何度目の・・?・・・いや、この質問は意味がないのか・・。」
「・・・賢明です。その質問を口にしなければもっと賢明だったのですが・・。」
 数瞬の沈黙は単なるためらいだったのか?
「千年ごとに世界は選択を待ちます。今こうしている私でさえ、その選択に対しては傍観者にすぎません。たとえこの世界が消えることになろうとも、その最期の一瞬までそれを見守るだけの・・・。」
 その言葉とともにいきなり周囲の闇が晴れた。
 目の前には果てしなく続くとも思える細い道、そして一鈴という存在から人間臭さを完全に抜き取ったような女性の姿がそこにはあった。
「・・・この道は見てのとおり別れ道のない一本道。でも、行き先は2つ・・・『進む』か、『戻る』・・・あなたが決めなさい。」
 ・・・ここまで来て今さら尋ねられる事でもないのだが。
 俺が黙ったまま足を前に踏み出すと、女性の姿はかき消すように俺の目の前から消えた。何故かはわからないが、消える瞬間女性が微かに微笑んだように俺には思えた。
 その代わりなのか、突然俺の耳に例の会社員の声が響いた。
「とことん苦労性ですね、あなたも。・・・まあ、考えようによっては一番楽な道を選んだのかもしれませんが。」
 ・・・まったくだ。
 自分でも自分が何に突き動かされているのかわからない。ある意味考える必要がないだけ楽と言えば楽なのだが・・。
 
 俺は自分の親の顔を知らない。
 しかし、今俺の目の前に繰り広げられる光景がおそらくその答えなのだろう・・。
 その若い女性はまるで物でも扱うように、無造作に手に持っていた荷物をコインロッカーの中に投げ込んだ。
 ・・・何回も聞かされた話だ、別にどうと言うこともない。以前自分が味わったことを追認する事が絶望とでも言うのだろうか?
 俺は再びゆっくりと歩き始めると、新たな映像が浮かび上がる。試しに目を閉じてみたが、その映像は色鮮やかに俺の脳裏に浮かんでくる。
「・・・次は施設での話か・・」
 ありふれた話・・・今時のワイドショーならもっと凄惨な話題を採り上げてくれるに違いない。
 これまでの俺の人生のどこをほじくったとしても何の痛痒も感じない俺としては、これは試練と呼ぶことのほどではない。
 わかりきっていることを今さら説明されたとしても何も感じないのと同じ事だ。
 俺は馬鹿馬鹿しくなって先を急いだ。
 俺が三度(みたび)歩き出すと、また新たな映像が浮かび上がってきた。
「・・・またかよ。」
 意外にもそこに現れたのは俺の昔の友人だった・・・。その友人が俺の記憶にないことを次々と繰り返す光景を見て俺は何となく理解した。
 この道は嫌な想い出だけではなく、全ての想い出を改竄を加えた上で再び経験させられるということに。
 今、俺の友人は無抵抗の俺を延々と殴り続けていた。
 さっきまでとは違って、映像は単なる映像に留まらず、与えられる痛みや感情が俺自身に対しても与えられている・・・いや、そう感じているだけかもしれないが・・。
 友人は俺が動かなくなるとやっと手を止めた、それと周囲に闇が落ちる。偽りの記憶を受け入れるとどうやら消えるらしい。
「・・・悪趣味なことだ・・。」
 俺はそう呟いて、再び奧に向かって歩き始めた。
 
 楽しい想い出を積み重ねれば重ねるほどに、帰るときには苦しい思いをする。
 嫉妬や裏切り・・・悲しみと怒りに満ちた光景が目の前で次々と繰り広げられる。彼女自身が持つ強い感応力によって、それらの偽りであるはずの記憶は実際に彼女の肉体に影響を及ぼしていた。
 ・・・もちろん精神に至っては言うまでもない。
 それでも彼女は、自分に与えられる苦しみや痛みを無条件で受け入れていく。今自分の目の前に繰り広げられている光景は全てまやかしだと信じたままで・・・。無意識かどうかはともかく、彼女はそれ以外の手段を知らなかったから・・・。
 彼女が気を失った瞬間、彼女を責め苛んでいた偽りの記憶は消えた。ひょっとするとそれは彼女自身の記憶を放棄したからかもしれなかった。
 こうして彼女は少しずつ、しかし確実に記憶を失い、もしくは偽りの記憶を植え付けられていく。
 これまでの経験が彼女という人格を形成していたのならば、彼女の人格は少しずつ変質いていくことだろう・・・。ただ、今のところその変質は表面上だけであってその根っこは変質してはいないようであった。
 やがて彼女は起きあがり、またふらふらと小道を歩き出す。
 悪夢が始まる。
 そんな繰り返しの中で、彼女は自分の顔に伸びてきた手をつい無意識に振り払った。そしてその振り払った自分の手を呆然と眺める。
 目の前の光景を無抵抗に受け入れるしかないと固く信じていた。
 それが、自分の意志でその光景を変化させられることに気がついた瞬間、何かが崩れた様な気がした。
 目の前の光景が単なる光景でなくなった瞬間・・・彼女はそれを壊し始めた。
 
 ・・・タマネギの皮をむいていくようなものだ。
 自分の中にこれだけの生活があったのか、と言うほどの記憶を全て受け入れてきた。だが、偽りであろうが真実であろうが関係ない・・・これは記憶なのだから。
 いつかはタマネギそのものが無くなるように、この記憶もいつかはきれる。
 俺は目の前の光景を何の感慨も持たずに見届けると、再び歩き始めた。
 そして目の前に現れたのは・・・・一鈴、その少女であった。
 思わず駆け寄ろうとした俺に対して、一鈴は俺が近寄るのを拒むように石を投げつけてきた・・。
 ・・・なるほど。
 俺は黙ってその光景が自分の上を通り過ぎていくのを待ち続けた。本来後ろで束ねられていたはずの長い髪を振り乱しながら、彼女はひきつった表情を見せている。
 俺は自分にくわえられている打撃を受け止めながら、やはり彼女は笑っていた方がいいなどと考えていた・・・。
 だが、それはいつまで経っても終わりを見せなかった。彼女は荒い息を吐きながらも時折思い出したように俺に向かって何かを投げつけてくる。
 ふと、恐怖にもにた戦慄が俺の身体を駆け抜けた。
『既にそなたの知る娘とは全く別の存在となりつつあります。もはやそなたの知る娘ではありません。』
 犬も殺せないような小さな石が俺の顔に当たったのを最後に彼女は座り込んだ。
「・・・どうして・・消えてくれないの・・。」
 今まで善意の中で純粋培養されたような彼女がこの小道でどのような経験をしたのか?俺はできるだけ彼女を刺激しないように近づいて、ポケットからリボンを取り出した。
 そして、彼女の髪を後ろで束ねてやる。
 そうしている間、彼女はぼんやりとした俺の方を見上げていた。
「悪い・・・約束破っちまった・・。」
 その瞬間彼女の顔がこわばった。俺から後ずさりながらいやいやをするように首を振る姿はどこか病的で痛々しい。
「どうして・・・来ないでって言ったのに!」
「一鈴・・・?」
「いっ、いやあっ!」 
 俺がさしだした手を払いのけて彼女が叫んだ瞬間、彼女の姿は俺の目の前からかき消えていた。
 ・・・こんな姿を俺には見られたくなかったと言うことだろうか?それよりもこれも試練の一部だったとしたら・・・?
 俺があたりを見回した時、闇が晴れた。
 そしてあの女性が現れる。
「…古の盟約は果たされませんでした。」
「一鈴は?」
 女性は悲しげに首を振った。
「……逃げました。」
「逃げた?」
「試練に破れた者は消滅するのがさだめ……あの子は、そのさだめからも逃げました。」
 女性の顔色が悪い。
 今にも倒れそうなほどだ。
「逃げた……」
 『試練に破れた者は消滅するさだめ』『歴史が白紙に戻される』等の台詞を思い出し、俺は未だ現実感のない思いを口にしてみた。
「一鈴は…生きている?」
「我々は…力を親から子へ受け渡すのです。私は…あの子に力の半ばを引き継ぎました。」
「じゃあ……」
「それでも、歴史は…戻ります…っ」
 女性の身体が大きくぐらつき、俺は慌ててその身体を支えた。
「……私は…1000年に一度、子を産みます。ですが、あの子の魂がこの世にあれば……歴史は…完全な白紙には戻り得ない……」
「一鈴は?」
「この星に…我らが転生すべき器などあるはずもない……ですがあの子は、あなたのために、人を器として転生するでしょう…」
 女性は静かに首を振った。
「あなたも……あの子から逃げることは出来ません。」
「……やれやれ、皮肉な選択だ。」
 いけ好かない口調。
 俺は女性の身体を支えたまま、後ろを振り向いた。
「説明しろ、話せる部分だけでいい!」
「……彼女があなたを求めてるって事です。」
 俺は何となく赤面してしまう。
 何故か男は楽しそうだった。
「どのみち……まあ、良いですけどね。私の知る限りでは可能性は2つ。その一つは彼女の魂を転生させた人間が彼女の魂より強い場合。」
 男は珍しく素直に話してくれる気になったようだ。
「・・・その場合、彼女の魂は消滅し、また貴方も消滅します。・・・するとまた新たな後継者がうまれます。」
 男は小さく口笛を吹いて、指を鳴らした。
「実に健全な結末ですね。多少歴史の流れにゆがみを生じるでしょうけど。」
「……できれば避けたいが?」
「でしょうね・・まあ、ご心配なく。そんな強い人は滅多にいませんよ。」
「もう一つは?」
「貴方が彼女をもう一度この場所に連れてきて試練を受けさせればいいんです。」
 瞬きを数回するほどの間があった。
「はぁ?」
「ただ、どうでしょうね?彼女の魂がきちんと転生できるかどうかは、ちょっと分かりかねますが。」
 何やら男の口調に含むところがあった。
「いえ、おそらく…あの子の魂は引き裂かれましょう…」
「でしょうね。器に注ぎきれない酒は、こぼれるしかないですから。」
「……っ!」
 激しかけた俺を、男は押しとどめた。
「たとえ話です。こぼれると言っても、別の器に…と言うことです。」
「もういい。とにかく彼女をここに連れてくればいいんだな、後のことは聞きたくない。」
「ええ、ただし千年後に。」
 千年後…?
 思わず腰が抜けそうになった。
「この道は行きはともかく、帰りとなると千年に一度しか開きませんから。」
 男は本当に楽しそうだった。
 この予想外の出来事が、面白くて仕方ないという風にも見える。
「後、彼女は人ではありません。その彼女が人として転生を繰り返せば、その魂はきっと変質していく…かもしれません。」
「ここに連れてきても無駄なのか?」
「可能性はあります……元々その器にあるべき魂と共存するのですから。いつかは、その魂ごと消えゆくさだめでしょうね。」
「やり直す機会は無い、と言うことなのか?」
「さあ?こればかっりは…」
 男は肩をすくめて首を振った。
 ふと、それまで身体を支えていた女性の重みが消え失せた。視線を向けると、見た目は全く変わらないのに、どことなく若々しくなったように感じる。
「わかった。俺の好きにやらせて貰う。」
 男は何を今更、と言う表情で口の端をつり上げて笑った。
「ふふっ、貴方のなすべき事は決まっています。それは一番楽な事だと私なんかは思いますけどね・・。」
 不意に目の前の景色が歪んで見えた。
「…時間か?」
 俺の問いかけに対して、やけに楽しそうな男の声が耳に響いてくる。
「・・・あなた、人間にしておくのは惜しいですね。ご褒美としてもう一ついいことを教えてあげます。あなたの存在ある限り、彼女は貴方のことを多分心から信じているんですよ。自分の魂を人の輪廻の中に割り込ませるほどの力を持った彼女です・・・つまり、その意志を無くしたとき彼女は輪廻を放棄する事も可能ですよ。」
 ……待ってくれている?
 よく考えてみれば彼女の意志に巻き込まれるのは少し理不尽な気がしたが、不思議に怒りは覚えなかった。
 出会ってから別れるまでのあの短い時間の中で、ほどくことができないほど二人の糸は複雑に絡み合ってしまったのかもしれない・・・。
 
 そして俺は、長い長い旅に出た。
 
 
                  第二部(サマー)完
 
 
 途中ずいぶんとずいぶんと涙が出るぐらいはしょりました。(笑)まともに書こうとすればするほどどんどん枚数が増えて・・・(笑)
 本当ならまだ数日の間、一鈴や美凪達とのやりとりを書いて、できるだけ会話を抑えながら説明していって、千年前の主人公がうまれ育った村を出ていくぐらいまでの話を書くのが筋であるんですが・・・・・誰がこんなネット上で200枚以上もあるお話を読んでくれるというのか?しかも、第二部!
 と、言うわけで100枚弱にしてみました。(笑)
 いいんだ、どうせ誰もまともに読んでくれないから・・・文句は掲示板にどうぞ。心が動くほどの文句が来たら書き直します。でもこれならそのまま書き続けていた方が書く方としては楽だったかも・・・話の中の矛盾を除けば。
 ・・・しかし、第一部で過去に戻りますと言っておきながらどこが過去やねんと最初におもってくれたら思うつぼなんですが・・・。
 観鈴の名前が一鈴になっている時点で全てはばればれです。(わかりやすうーい)。
 しかし、またえらく長い間忘れてました。(笑)
 ファイルの整理してたら、『おう、こんな書きかけのファイルがある!』とか驚いたとか、驚かないとか。(笑)
 この調子だと、3部(ウインド)を書き終えるのはいつになるんでしょうねえ。もうここまでくると、『偽』にも程があるって感じですが。

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